2009年10月30日金曜日

人に歴史あり

 取引先の社長さんと話をした。その社長さん、2つほど会社を経営している。
私は、日頃から会社名の由来には興味を持っている。その社長さんの会社名は、一つは自分の名前のままだからわかるのだが、もう一つの会社名がどこから来ているのかわからない。そこで尋ねてみた。

「父のね、生まれた村の名前なんです。」
もう74歳になろうという社長さんが答えてくれた。父親の生まれた村の名前から取るという事は、父親に対してなんらかの想いがあるか、あるいはその村自体にあるか、のいずれかだろうと単純に思った。そしてそれをさらに尋ねる。

 そうしたところ、子供の頃集団疎開で近くに行き、戦争が終わるとその村に移ってしばらく暮らしたのだと語ってくれた。そういう話は大好きなので、先を促す。昭和20年、東京の下町で暮らしていた社長さんは、いよいよ東京も危ないと、3月10日のまさに前日、日本海に面したその地方都市に集団疎開する。そして3月10日の空襲で自宅は焼け落ちたという。

 そればかりか、隣家はご主人一人だけが生き残って家族は全滅。前のうちも一家全滅。防空壕の中にいたが煙で窒息死したらしい。その隣は地方に疎開してそのまま戻ってこない・・・等々と近所の様子を教えてくれた。

 疎開先で枕を並べて寝ていた友達は、東京に残った家族が全滅してたった一人残されたという。戦後、父の村に行っても貧しくて蛇やカエルを食べたという。「当時は辛くて嫌だったと思うが、何だか今になってみると懐かしくてね」と目を細めて語ってくれた。今でも疎開仲間とは年に一回会っているらしい。もう64年も続いているというから驚きだ。

 先日読み終えた【「東京裁判」を読む】という本の中で、東条英機が残した言葉が紹介されていた。
「もろくも敵の脅威に脅へ簡単に手を挙ぐるに至るが如き国政指導者及び国民の無気魂なりとは夢想だもせざりし・・・」
要は「この根性なし」と言っているのだが、国の指導者の目には個々の庶民のこんな生活は目に入らないのだろう。「今の首相も貧乏知らずだからね」と社長さんも言う。

 戦後、父親と闇市に通った日々。やがて下町の実家に戻り、家業を手伝う。その後事業を起こし仕事に没頭。74歳の今でも毎日会社で陣頭指揮を執る。とてもしっかりした社長さんだ。

 「こんなに贅沢な世の中でなくても、みんながなんとか生きていける程度の世の中の方がいいんだけどね」
74年も生きてきたからこその発言なのだろうか。今では集団疎開の集まりと高校の同窓会が何より楽しみだという。気心の知れた友人たちとの集まりはいくつになっても何ものにも代えがたいものなのだろう。時を経ても変わらずに残っているもの。自分もそういうものを大事にしたい。

 こういう個人史もいいものだ。また機会があったら聞きたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「現代の経営戦略」大前研一
「熱い風」小池真理子

     

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