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2025年7月28日月曜日

消えていく歴史

 この週末、母と叔母を伴って母の故郷に行ってきた。ここ数年の恒例となっている「万座温泉」+「従兄弟会」である。万座温泉は私のお気に入りの温泉である。標高が高いのでこの時期でも夜は涼しい。温泉に入るのも苦にならない。それにあたりに漂う硫黄臭と白湯が気分も盛り上げてくれる。ラグビーをやっているためにあちこち痛いところがあるが、それがすべて癒える気になる。実際に一晩で良くなるものでもないが、一度数日でいいから湯治なるものをやってみたいと思っている。夜2回と朝風呂と3度湯に浸かり、硫黄臭を体に纏って従兄弟会に臨む。

 今回、久しぶりに会った従兄弟Bは、いつも会う従兄弟Aの兄。私とは14歳離れている。学生時代、我が家に下宿していたのも懐かしい思い出である。そんな従兄弟Bは、久しぶりに会った私の母と叔母に質問攻撃。それは主に母方の家系に関するもの。どうも母と叔母が存命のうちにいろいろと聞いておきたいと思っていたようである。私も聞くともなしに耳に入ってくるまま話を聞いていた。小学生の頃、よく我が家に遊びにきていたおじさんがいた。どういう関係なのかよくわからなかったが、実は祖母の弟だったという事が判明した。

 祖母の旧姓はその地区でよく聞く名前。同じ苗字の方の選挙ポスターが張り出されていたから、その地区での地主だったのだろう。祖母はもともとかなりの美人で、祖父と結婚した時は、悔しがった男たちがかなりいたようで、母もそんな男たちからよく聞かされたそうである。「よりにもよって一番冴えない男(=祖父)と結婚した」と。しかし、伯母2人は若い頃美人だったらしいが、母と叔母はその血を受け継がなかったらしい。叔母も「きれいなんて言われた事がない」と嘆いていたが、贔屓目に見ても確かに「きれい」とは言い難い。

 母がまだ子供の頃、おそらく昭和20年代であるが、風呂は近所で持ち回りだったという。つまり近所内で順番に風呂を沸かし、「今日は◯◯さんの家」という具合に湯に入りに行き、入浴後にその家でお茶を振舞われて帰ってきたという。そういう事実は歴史の教科書には載っていない。まさに生き証人に聞くしかない。叔母は水道が引かれた日の興奮を今でも覚えていると言う。それまでは家の前の川で水を汲み、歯を磨き、風呂に入れて沸かしていたと言う。そんな思い出話は貴重だ。

 祖父は「新し物好き」で、村で一番にテレビを買ったと言う。そのため、近所の人がよくテレビを見に来ていたらしい。そういうと力道山の街頭テレビの話を思い出す。しかし、祖父宅での一番人気は「解決ハリマオ」だったらしい。近所の子供達がみんな見にきていたと言う。1人親の厳しい子がいて、見に行くのを禁止されていたらしいが、そこは子供。こっそり来たのを叔母が招き入れて見せたと言う。そんな話も知られざる埋もれた生活史なのだろう。映画『三丁目の夕日』は昭和30年代の東京の話だったが、そのちょっと前の長野県は望月町の話である。

 私が幼少時代、母親に連れられて訪れた祖父宅は、今はもう見知らぬ他人の家になっている。小さな子供のいる若夫婦の家らしいが、私の記憶にある祖父宅がかつてそこにあり、川から汲んだ水で風呂を沸かし、従兄弟たちと遊び夜は雑魚寝したことなど知る由もないのだろう。それは今私の自宅についても同様で、ここにはかつてアパートが建っていたらしいが、そこに住んでいた人たちの思い出や、アパートが建つ前(田畑?)の歴史もどこかで誰かが記憶しているのだろうが、私が知る事はない。そう考えると、人が変わって歴史が失われていくのも寂しいように思う。

 私が今回聞いた話は、私だからこそ興味深いと言える。おそらく、我が家の子供たちはあまり興味をもたないだろう。母には私の知らない歴史がたくさんあり、それらの大半は母がいなくなればなくなってしまう。歴史の教科書にも載っていないし、Googleに聞いてもわからないものである。そう考えると、そういう話を聞けるのも今のうちと言える。昨日のことも覚えていない両親だが、昔の事は覚えている。もうじき同居する予定であり、一緒に暮らしながらそんな昔話をいろいろと聞き出したいと思う。

 もともと歴史好きではあり、いろいろな歴史に興味を持ってきたが、両親のファミリーヒストリーをこれから興味深く聞き出していきたいと思うのである・・・


Michal JarmolukによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 草枕 - 夏目 漱石  監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  カラー図説 生命の大進化40億年史 古生代編 生命はいかに誕生し、多様化したのか (ブルーバックス) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館  イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫) - トルストイ, 望月 哲男




2025年7月20日日曜日

息子と酒を飲む

 長男が生まれた時、ゆくゆくは息子とやってみたい事として二つを思い浮かべた。それはキャッチボールと酒を飲む事である。キャッチボールはどの時点で達成しただろうかと考えると微妙である。まだ幼稚園児くらいの時に家族で公園に行き、よくボールとバットで遊んだ。まだゴムのボールで、手が届くくらいの距離で投げ合ったのはキャッチボールになるのだろうか。個人的には小学生になって少年野球を始めた息子とグローブをはめて軟式ボールでやったのがそれであると考えている。誘うと素直についてきて、投げるボールもだんだん早くなっていった。

 中学生くらいになるともうそんな機会がなくなったが、息子が二十歳になった今年、とうとう二つ目の目標が実現した。ちょうど妻と娘が2人して出掛け、私と息子とが留守番になったのである。好機到来とばかりに「飲みに行くか?」と誘ったところ、「あまり飲めないけど」とついて来た。どこへ行こうかと考えたが、近所で歩いていける「土間土間」がいいという息子の意見を取り入れ、2人で飲みに行った。最近はどこも半個室の席が多い。我々もそんな半個室の席に案内される。改まって2人だけで向き合って座るのも新鮮である。

 大人としてはいつものように「とりあえずビール」と頼もうとしたら、息子は何やらサワーを頼んだ。「そこはビールだろうが」と思うも、初めてのことであるし好きなようにさせる。つまみを自由に頼ませたら、いきなりチャーハンを頼む。このあたりはまだ飲むより食べる方が優先のようである。唐揚げや卵料理は私も好きなので異論はない。半個室とは言っても仕切りなどなく、あたりの酔った人たちの大きな声が響いてくる。居酒屋であるし、静かなところでゆっくりというわけにはいかない。父子2人だけの飲み会は、まわりの喧騒とは裏腹に静かなものである。

 話題は大学の事から始まる。40年前、私が学生の頃は文系の学生は授業に出ないのを良しとしていた。そういう風潮に抗って、私は週12コマの授業に出ていた。ラグビー部の同期はみんな5コマ程度だったから、みんなに変人扱いされた。聞いたところ息子は14コマ出ていると言う。面白い授業もいくつかあるようで、それはいい事だと思う。大学の勉強は将来何に役に立つかもわからない事を学べる贅沢なひと時である。スティーブ・ジョブズのカリグラフィーの授業の話は有名であるが、息子にも授業を楽しめと伝えた。

 息子は中学の時に練馬区が後押ししている制度を利用してオーストラリアに1週間ホームステイしている。その時の経験が強烈だったらしく、英語に対する学習意欲が強い。学生のうちに留学したいと常々言っている。「是非行け」というのが私のアドバイス。私には学生時代にそういう考えがなかったのが残念であるが、息子には是非行ってもらいたいと思う。さらに就職するなら海外大学院へ行かせてくるところを選ぶべしとも伝えた。海外大学院でMBAを取れば社会で生きていく上での武器になるだろう。

 また、起業するならいきなりするのではなく、一旦大手企業に就職した方がいいとも伝えた。私の考えだが、大手企業で3年ほど働けば社会人としての基礎が身につくし、組織というものもわかるようになる。何よりベンチャーにはない「信用」を出身大学と大手企業での就業経験が補ってくれる。それで安泰というわけではないが、私はあまりにも学生時代そういうことに無知すぎたこともあり、息子には知識として教えておきたいと思ったのである。これからどうなっていくかわからないが、「知は力なり」である。「知っている」という事は大きなアドバンテージになると思う。

 息子は母親とは仲が良い。私はどちらかというと自立心が強すぎて親(特に母親)とは距離を取っていた。今その距離を毎週訪問して穴埋めしているが、母親との会話で得られるものは限られている。少なくともビジネスマンとしての基礎知識は私の方が教えられるところである。せめてもの父親の存在感の証として、そういう話は語っておきたいと思うのである。いつかそれが息子が何かを決断する時の役に立てば、それが親父の存在価値だとも言える。初めての息子との飲み会はこんな具合だった。息子は最初の一杯以外は飲まなかったが、それもまた良し。そこは祖父から親父へと続く家系の遺伝を受け継いだのだろう。

 思いもかけず、長年の目標が叶ったひと時であった。しかし、これが第1回。これから折に触れて父子でサシ飲みをして語り合っていきたいと思うのである・・・


Engin AkyurtによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹 日本人にどうしても伝えたい 教養としての国際政治 戦争というリスクを見通す力をつける 豊島 晋作 単行本 O イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫) - トルストイ, 望月 哲男




2025年3月13日木曜日

親父の運転免許証

 父は今年で88歳になった。今のところ特に大きな病気を抱えているわけではないが、やはり年齢によるものなのか、認知的なところで衰えが目立つようになってきた。伝えた事も一晩寝れば忘れてしまうという事は日常である。この冬、家の中でも寒いからと言ってダウンを着ているのを見かねてユニクロのフリースをプレゼントした。温かいしちょうどいいと言ってさっそく着ていたが、翌週行くとまたダウンを着ている。フリースは気に入らないのかと聞くと、その存在を忘れていた。

 昨年は何度も財布をなくした。最初の時は銀行のキャッシュカードやクレジットカード、運転免許証が入っていたので大騒ぎ。キャッシュカードとクレジットカードは喪失再発行手続きを取り、免許証は諦める事にした。翌週、実家に行き、確認すると再発行されたクレジットカードは届いていたが、同じカードが2枚ある。運転免許証もある。よくよく聞いてみると実はなくしていなかったのである。

 その後、また財布をなくしたと言うが、今度は知らん顔をしていた。なくした免許証はどうすればいいかと何度も聞かれ、キャッシュカードも止めたと言う。それがまた次に行くと、「キャッシュカードが使えない」と言う。銀行に停止連絡をしたのを忘れていたらしい。もちろん、なくしたはずの財布も手元にあった。私も幾度か付き添って銀行に手続きに行ったが(その前にも使わなくなった口座の解約手続きがあったのである)、とうとう窓口の担当者に私の顔を覚えられてしまった。

 そんな騒ぎもあり、運転免許証は返納することにした。付き添って近所の警察署に行く。手続きは簡単で、運転経歴証明書が必要なら写真と手数料を持って行けば良い。父もそれを申し込んだ。警察署の担当者は「長い間ご苦労様でした」とねぎらいの言葉をかけてくれた。一律、こういう対応なのか、この担当者が個人的にそうなのかはわからないが、ちょっといい気持になれる対応である。父が運転免許を取得したのは私が生まれる前だから60年以上前という事になる。当時の教習車は(国産車がなかったのか)左ハンドルだったらしい。

 当時、父はたまたま失業中だったという。印刷工として腕一本であちこち渡り歩いており、「何もしないなら運転免許でも取れば」という母の声に背中を押されて取りに行ったそうである。のどかな時代で、教習所で何時間か運転したところ、「あなたはうまいからもう受けに行ったら」という教官の言葉を受け、試験場に行って試験を受けたそうである。今なら教習所も商売だからきっちり30時間以上乗って実技免除資格を取らせるだろう。そんなわけで直接試験場に行った父は、実技も一発合格で晴れて免許を手にしたそうである。

 父は腕のいい印刷工で、どこへ行っても重宝されたらしいが、勤め人だったら自家用車は買えただろうかと思う。幸い、自営業として商売をはじめ、腕がいいからいいお得意さんもでき、おかけで我が家に自家用車がやってきた。それまで車に乗ると言えば親戚の伯父の車に乗せてもらうのが関の山で、我が家に自家用車があるというのは、なんだかものすごく贅沢になった気がしたのを何となく覚えている。父はスカイラインを何回か乗り替え、最後はハリアーと長く日産車を愛用していた。

 70歳で商売を終了し、工場をたたんだ。年金生活に入り、そろそろ運転はやめるべきだと家族は進言したが、運転をやめようとはしなかった。ちょっと心配していたが、最後のハリアーを手放す後押しをしたのは、都内の高い駐車場代だった。さすがに年金生活では無理だと諦めたのである。それでも免許だけは手放さず、5年ごとに更新を続けた。まだ乗る機会はあると思っていたようである。それがとうとう、「もう乗る事はない」と自ら言って、免許更新のタイミングでの返納となったのである。

 自家用車がきたからといって家族で頻繁にドライブに行ったという記憶はない。私も高校ぐらいから家族と行動をともにしなくなったのでよけいである。私が免許を取ると、父の愛車も私が頻繁に借り出すようになった。父はよく愛車の手入れをしていて、いつもぴかぴかだったが、新米ドライバーの私がちょこちょこ傷つけてしまった。父が怒ることはなかったが、今にして思えば申し訳なかったように思う。最後は故郷へ母を乗せて行くくらいが唯一の遠出だっただろうか。

 警察署へ向かう道すがら、「免許証は提出したら返ってこないのだろうか」とぽつりと父が呟く。運転はしないが、免許証は記念に取っておきたいらしい。「穴をあけて返してくれるんじゃない」と私は答えたが、やはり未練は残るのだろうかと思ってみたりした。免許証は簡単な記念のカードケースに入れて返してくれた。もう父が運転する車に乗る事はないんだなと改めて思う。父の運転する車に最後に乗ったのはいつだっただろうか。愛車の廃車を決めた時、最後に父とドライブでもすれば良かったなと改めて残念に思うのである・・・

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

   【本日の読書】
世界は経営でできている (講談社現代新書) - 岩尾俊兵頭のいい人だけが解ける論理的思考問題 - 野村 裕之

2024年11月6日水曜日

息子に語りたいこと

 息子が生まれた時、将来いろいろと自らの経験から得た事を教えたいと思った。父親というものはみんなそうではないかと思う。子供の頃は教えと言ってもそれほど大したものではないが、大人になるにつれだんだんと世の中を渡って行くのに必要な事になると思う。人間関係の事やお金の事、結婚や住まいの事や、その他その時々の悩み事の相談などである。自分はと言えば、そういう事を父親とはほとんど話などしてこなかった。それは父も昭和の人間として多忙で余裕がなかった事もあるが、仮に時間があったとしても知識等の面で難しかったかもしれない。

 息子もこの春からいよいよ大学生になった。それなりに自分の考えというものを持っているが、なにせ「経験」という点では圧倒的に足りない。人生始めてまだ19年とちょっと。そのうち少しは大人の思考となると4〜5年程度である。社会人経験37年の私からすればヒヨッコレベルである。いろいろと自分で失敗しながら人生経験を積んでいくところはあると思うが、一度の失敗が取り返しのつかない事になる可能性もある。例えば今気になるのは闇バイトだろうか。

 息子を見ていて病みバイトなどを迷わずにやるような事はないと思うが、何やら興味をもって接近し、住所を教えたところ、「断れば家族に危害を加える」と言われたら言いなりになってしまうように思う。そういう時はどうするのか。そんな時に相談してくれればいいが、たぶん1人で悩むと思う。また、今、自動車の教習所に通い始めたばかりが、車を運転していて事故を起こし、相手に脅されたらどうするか。普通の事故なら対応は教習所でも習うだろう。しかし、世の中には常にイレギュラーが伴う。そんな時、どう判断するのか。

 お金に関してはしっかり教えたいと思う。お金を貸してほしいと頼まれたらどうするのか。今はそんなに持っていないからいいだろうとは思うが、怪しげな取引に誘われたら?そこで知らぬ間に借金を負わされたら?私も学生時代に何かの会員に勧誘され、いい条件だけ聞かされて「これはいいな」と思ったが、最終的になんかおかしいと思ってやめた事がある。世の中、すべてのリスクを網羅して備える事はできない。たいていは話を聞いて自分で判断しないといけない。その時に生きるのが知識を含めた経験値だろう。

 息子は、私よりも人あたりはいいようで、人間関係にさんざん苦労した私などがあれこれアドバイスする事はないような気もする。父親の経験をすべて伝えることはできないかもしれないが、理想的なのは「辞書的」な役割だろう。困った時にその都度辞書を引くようにアドバイスを求めてくれれば役に立てるだろう。ただ、「考え方」などは事前にインストールしておきたいところが大きい。お金も学生のうちはいいが、社会人になれば手にするお金も増えるのでリスクは高まる。私の弟などは50代になってつまらない詐欺にあって大損している

 そんな叔父の失敗はすぐに娘と息子に教えたが、それと言うのも早くからそういう身近な例を教えるのも将来の身を守ることになるかもしれないと考えたからである。騙されるのは仕方がないかもしれない。騙す方も巧妙であるし、私自身絶対騙されないという自信はないが、騙されても被害を最小化する事はできると思う。実際、弟と同じ立場で騙されたとしても、私ならかなり被害額を軽減できたと思う。それは基本的なお金に関する考え方であるので、そういう考え方さえ身につけていれば我が息子も致命的な被害は受けなくて済むと思う。

 いつ、どういうタイミングで伝授しようかと思うも、一度で済ますのではなく、たまに誘い出して一緒にビールでも飲みながら、語って聞かせたいと思っている。息子は嫌がるかもしれないが、そういう親父の人生経験を聞くのもいいと思うし、聞かせたいと思う。今度うまく誘い出してみたいと思う。大学1年ではあるが、もう就職を意識しているようである。それなら少し本を読んだ方がいいと思うし、そのあたりの話もしてみたい。親父よりも少しでも失敗経験の少ない人生を歩んでもらえたらと思う(失敗経験もそれなりに必要だとは思うが・・・)。

 まずは話をする機会をつくる事だろうか。部活にバイトに授業に教習所にと忙しそうな息子だが、うまく誘ってみたいと思うのである・・・



【本日の読書】

ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳  アルプス席の母 - 早見和真




2024年8月14日水曜日

娘に時計

 先週末の3連休、娘と買い物に行った。娘はこの春大学を卒業して就職。そのお祝いに何かプレゼントしようと希望を聞いたところ、「時計」という答えが返ってきたので、それを買いに行ったというわけである。就職したのは4月だからずいぶんのんびりした話なのだが、一度買いに行ったところ、娘もどれがいいか決めかね、少し時間が欲しいとなったのである。娘なりにあれこれと調べていた結果、ようやく欲しいものが決まったとなってこの時期となったというわけである。そういうわけで、娘と再度一緒に出掛けたのである。

 出かけて行った先は池袋のヤマダ電機。家電量販店で時計というのも異な気がするが、その品揃えは下手な専門店より充実している。前回は時計専門店を数店回って見たのだが、娘の気に入るものはなく、結局のところ家電量販店に落ち着いたという次第である。商品は各メーカーのものがいろいろとあって、価格帯もそれなりに幅広くある。就職祝いという事で、やはりそれなりのモノにしたいと思っていたが、結果的にはそれなりの価格で、本人の気に入ったものが買えたので良かったところである。予算的にも覚悟していたほどではなく、親子ともに満足であった。

 就職祝いをと思ったのも、これで「子育て」は終わりという自分自身への一つの大きな区切りであり、また社会人となる娘に対する激励の意味もある。資金は私のポケットマネーであるが、どこから出してきたのかと妻に問いただされないかヒヤヒヤしたが、杞憂に終わったのも良かったところである。やはりこういう時のために自由になるお金は手元に置いておきたい。そうした余裕を持てるようになったのも(秘密の収入を確保したからなのだが)、これまでいろいろと努力して身につけてきた仕事の能力の成果だと密かに自負している。

 思い起こせば、私も大学に合格した春に父親から腕時計を買ってもらった。それまで親にあまり何かを買ってもらう(ましてや父親から)という事がなかったから、突然言われて驚いたものである。そうして迷って今でも使っている腕時計を買ってもらったのである。時計を買ってもらったという事以上に、何かその時の父親の思いのようなものを感じて嬉しかったのであるが、自分も父親となった現在、同じ事をしたかったという事もある。娘が今回の買い物についてどんな感想を持ったのかはわからないが、記憶に残ってくれれば嬉しいと思う。

 想定していた予算の半分で済んで良かったのは確かだが、もしかしたら娘も遠慮したのかもしれないという思いもある。実際はどうだろう。支払いを終えた時に娘から「ありがとう」と言われた。それは当然のようにも思うが、ふと思った。その感謝の気持ちはどちらからだろうかと。父に時計を買ってもらい、自分も娘に時計を買ってあげられた。無事に生まれ育って社会人となってくれた。お金は私が出したが、それで娘に時計を買ってあげられたという喜びが得られた。むしろ私の方が感謝したいという気持ちである。

 普段、娘とはあまり話をしない。何を話していいかわからないという戸惑いもあるが、娘の好みなんかもほとんどわからない(好きなアイドルくらいはわかるが・・・)。今回は2人だけで買い物に行き、帰りに2人でフラペチーノを飲み、いつになく充実した時間を過ごせたのも良かった。まだ仕事の愚痴は聞かないが、これからいろいろと大変な事も出てくるだろう。親に何ができるという事もないだろうが、相談くらいには乗れるかもしれない。頑張って人生の試練を乗り越えていってほしいなと思う。

 親父に買ってもらった時計は41年経ってもまだ普通に動いている。私もそれを週に1回はつけて出勤している。娘がその時計をどれくらい使うかはわからいが、同じSEIKOだし、長持ちしていつまでも「父親に買ってもらった」事を覚えていてくれたらいいなと思う。次は4年後に息子が社会人になる(きちんと大学を卒業して就職してほしい)。息子にもやっぱり何かお祝いに買ってあげたいと思う。そしたらもう一度感謝の気持ちを持てるだろう。その時までにまた秘密の資金をしっかり貯めようと思うのである・・・

【本日の読書】
「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策 - 今井 むつみ



2024年4月5日金曜日

息子との会話

 先週末、私の実家へ息子を連れて行った。受験を理由に正月も行かなかったので、合格の報告を兼ねて連れて行ったのである。両親ともども孫の大学合格を喜んでくれ、少ない年金から合格祝いまで出してくれた。私としてもいい親孝行ができたなと喜ばしく思う。そして、いい息子を持ったとも。何より良かったのは、往復の車中。2人っきりで車中、いろいろな話をした。一緒に住んでいるとは言え、家では普段あまりじっくりと話すこともない。それが今回ばかりはゆっくりと話ができたのである。

 大学に入って何をすべきか、何をしたいか。大学は高校と違って11人の学生の面倒を見てくれない。「4年間で◯単位取れば学位を与える」と言うだけである。サボっても怒られることはない。ただ、単位を取らなければ学位がもらえない(=卒業できない)だけである。ゆえにすべて自分次第である。私の学生時代は、「いかに授業に出ないで単位を取るか」をみんな考えていた。みんなそうして平均週5コマ(1コマ90分)くらいしか授業に出ていなかったところ、私は12コマ出ていた。勉強したかったのである。

 息子がどんな考えを持っているかはわからないが、4年間どう過ごすかはすべて自分次第。いい加減に過ごすのも、いろいろチャレンジするのも自分次第。後から「あの時◯◯しておけば良かった」と後悔しない様、スタートに立っている今こそよく考えてごらんと息子には語った。何より自分の人生である。勉強して合格を勝ち取った自分の大学である。私からは「勉強しろ」とは言わなかった。勉強は人から言われてするものではない。学費は出すので、勉強をする環境は与えられる。あとはそれをどうするかは自分次第である。

 私も自分の大学時代を振り返って後悔はない。あえて言うなら、14コマ、15コマ出たかったということくらいだろうか。しかし、時間は限られているし、勉強だけが学生生活でもない。できる限りのことはやったので、後悔はない。もう一度学生時代に戻りたいかと問われれば、「戻りたい」というよりも、いろいろな経験を積んだ今、「改めて大学で学んでみたい」という表現が正確かもしれない。まだできる可能性もある話だし、将来の楽しみとしてそんな選択肢も取っておきたいと思う。

 息子は第二外国語の選択でスペイン語を選んだと言う。意外な感じもした。私はと聞かれ、「ロシア語」と答えた。なぜと問う息子に、天邪鬼な性格ゆえと答えたが、当時はドイツ語かフランス語かという雰囲気で、最もマイナーな言語を選んだのである。もっとも、第二外国語の選択肢は中国語を加えて4つしかなかったので、息子の大学の方が選択肢は広い。自由に選んでいいと言われていたら、間違いなく選んだのはアラビア語である。これは今でも変わらぬ気持ちである。これもいずれ学んでみようかと思う。

 息子とそんな会話を交わしながらの車中は楽しいひと時。「海外留学も考えてみたらどうか」という私の意見に「そうしたい」と力強く答える息子。私もそういう気持ちがなかったわけではないが、そこまで深く考えずに終えてしまったところ。息子にはいろいろと経験させたいと思う(お金、大丈夫かなという不安はある)。自分がこれから迎えるわけではないのに、息子の4年間を想像すると楽しい気分になる。大学どころか高校にすら行けなかった我が父。今は孫がいろいろな可能性を秘めて大学の門を潜った。父の苦労も実を結んだと言える。

 翻って、会社では新入社員10名を迎えた。自ら企画した社内研修で、これから本格的に社会人として自立していく新人に、自らの思いも加えて話をした。10年後に「あの時に戻ってやり直したい」という事のないように。もしかしたら未来の自分が後悔の念を今の自分に送っているかもしれない。エンジニアは技術職。自らの技術を磨けよと伝えた。どれだけ伝わったであろうか。少しでも多く、伝わったのであればやった甲斐もあろうかというものである。

 いずれにせよ、これからの希望に満ちた若者と話をすることは、自分にとっていい刺激である。自分も人生が終わりではない。まだ先の道のりはある。若者たちに負けないよう、そして後に若者たちの参考になるようなものが残るように、切磋琢磨を続けたいと思うのである・・・

 

paula bassiによるPixabayからの画像

 

【本日の読書】

安倍晋三黙示録 『安倍晋三 回顧録』をどう読むべきか - 西村幸祐 成瀬は天下を取りにいく 「成瀬」シリーズ - 宮島未奈





2024年3月24日日曜日

MacかWindowsか(息子のノートパソコン)

 この春、無事大学に現役合格した我が息子。今は入学に向けて準備をしている。その一つとして私にアドバイスを求めてきたのはパソコンの事。今はもうパソコンがないと授業もまともに受けられないようである。大学推奨があって、それはMacBooksurfaceである。「どっちがいい?」と息子が問う。こういう事に関してはママはあてにならない。どこの塾に行くとかどこの大学を受けるとかは私は蚊帳の外であったが、いよいよ親父の出番というわけである。

 私個人であれば迷わずMacBookにするのだが、息子なりに調べてきた疑問に答える。

「就職すると会社ではほとんどWindowsだから今から慣れるという意味でもsurfaceの方がいいのかな?」

「確かに会社ではWindowsだろうが、インターネットはどちらでも同じだし、会社独自に使うソフトはどちらにしても入ってからだから関係ない。ただし、ExcelWordはショートカットキーがマックは違うので慣れないと不便」

総じて私の回答は、「どちらを選んでもそう大して変わりないので好みの問題」(親父の好みはMacBook)というものであった。


 私もデビューはWindowsであった。最初のパソコンの師匠はMac派でMacを勧められたのだが、結局Windowsを選んでしまった。しかし、抑えきれないMacへの想いから、マックへ乗り換えて今に至っている。年賀状ソフトなどWindows専用だったりして確かにMacは不便なところがある。しかし、iPhoneiPadiMacと連動で使えるのは感動的であったし、それほどヘビーユーザーでない私からすると、どちらもそれほど違わない。今では仕事とプライベートとをWindowsMacで棲み分けしている。


 息子はさらにあちこちアドバイスを求め、最終的にはsurfaceに決めた(親父としてはちょっと残念)。その決め手になったのは、「画面をフラットにしてタッチペンを使える」ということ。MacBookは画面を開けて立てた状態で書き込むので使い勝手がイマイチということのようである。まぁ、どちらを選んでも一長一短なわけであり、息子が行く大学の現役学生の利用割合は、surfaceMacBook6:4らしい。どちらでも大して変わらないので、決め手が一つでもあるのならそれで良しである。


 それにしてもそんなにタッチペンを使うのだろうかと思ったが、今は大学の講義はすべてデータで資料提供され、それに独自に書き込んでいくようなのである。つまり、紙のノートはほとんど使わないらしい。私の学生時代は、試験前になると講義ノートのコピーが出回っていて、ラグビー部の同期などは、コピーを手に入れた段階で「もう完璧!」と胸を張っていたものであるが(ちなみに私は授業にほとんどすべて出ていたので他人のノートを借りたことはなかった)、今はデータでサクッともらえるのだろう。


 なんだか隔世の感がある。来週からの大学生活に備えて池袋にsurfaceを買いに行く。価格比較のために寄ったヤマダ電機ではすでにほとんど売り切れ状態。出遅れ感に苛まれながらビックカメラに行くと、拍子抜けするくらい希望のものがあった。さすが我が家御用達のビックカメラ。かくして息子はsurfaceを手にする。果たして息子は来るべき大学生活でsurfaceをフル活用するのであろうか。昔は授業に出ないのがステイタスみたいな雰囲気があったが、私を見習ってしっかり講義を受けてほしいと思うのである・・・


【本日の読書】

ロングゲーム 今、自分にとっていちばん意味のあることをするために - ドリー・クラーク, 桜田直美, 伊藤守  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2024年2月4日日曜日

結婚記念日

 23日は我が家の結婚記念日である。結婚して今年で28年である。毎年、なんとなくケーキを買っているが、今年も家族全員が好きな新宿高野のフルーツロワイヤルを買ってきた。いつも私には冷たい妻ではあるが、大好物を前に機嫌が悪かろうはずもなく、子供達と楽しくいただいた。しみじみと振り返ってみると、28年はあっという間のようでもあり、ずいぶん時間が経ったようにも感じられる。ちょうど節分でもあり、妻は子供たちと息子の合格祈願に行った湯島天神で買ったという豆を撒いていた。

 28年前の2月3日は、ちょうど前日に雪が降り、関西出身の妻の親戚関係がみんな東京に出てこられるか、ちょっと心配したものである。式の様子はビデオテープにしてもらってあるが、一度も見たことがない。もっともすでにビデオデッキがないから、見ようと思っても見られない。今見たら、どんなだろうかと思ってみたりする。我が家の場合、結婚式だけにして二次会はやらなかった。東京には妻の友人が少ないこともあり、何より私がやりたくなかったからであるが、関西出身の妻で幸いであった。

 2月3日は一方で、恵方巻きの日でもある。今では恵方巻きは当たり前のように認知されているが、28年前はそうではない。妻から恵方巻きのことを聞いてもなんのことやらさっぱりであったばかりか、「その年の恵方を向いて無言で太巻きを丸かぶりする」と聞いて素直に担がれているのだろうと思った。今では当たり前のようにあちこちで宣伝され、昔からの習慣のようになっているが、妻は「私が関西から持ち込んだ」と東京の友人たちには豪語しているらしい。新宿高野ではさらに恵方ロールなるものも売っていた(つい買ってしまった)。それにしてもみんな「食べ方」もわかっているのだろうかと疑問に思う。

 なぜ結婚式を2月に挙げたのかというと、銀行の仕事がわりかし暇になる時期だからである。8月と2月は相対的に仕事が減ることもあり、結婚式と新婚旅行に行くのに1週間程度の休みを取ってもそれほど周りに迷惑がかからないだろうと考えたのである。当時の支店長に気の進まないまま仲人を頼み、プリンスホテルに勤める後輩に頼んで自分たちと式に呼んだ人たちの宿泊を確保した。男にとって結婚式はめんどくさいという以外の何物でもない。(機会があったとしても)2度はやりたくないと思ったものである。

 結婚して5年後に長女が生まれた。遅いように思われるかもしれないが、意図的に「家族計画」した結果である。ちょうど入行10年で永年勤続表彰があり、2週間の休みをもらえることになっていたのだが、この時に長期の海外旅行に行こうと、子供は先延ばししていたのである。そして念願のカリブ海へ行き、長期休暇を楽しんだ。子供が生まれてからは、結婚記念日というより、節分の豆まきと恵方巻きの日という感じになっている。いつの間にか子供たちも大きくなっている。あと2年で結婚30周年であり、「何のお祝いしてくれるんやろ」という妻の問いかけに、子供たちは聞こえないフリをしていた。

 年月の過ぎゆく早さを言っても仕方がない。いつであろうと過去を振り返れば早いものだと感じるものである。この先、いつまで夫婦が続くのだろうか正直わからない。理想的には子供たちが巣立ち、夫婦2人で静かな老後となるのだろうが、ひとり暮らしを選択する可能性は大いにある。それはともかくとして、この日は我が家の「スタートの日」である。この日から家族が始まり、そして28年が経ったのである。29年目が始まり、何か特別なことがあるわけではないが、またいつもの日常が続くのである。

 結婚と同時に両親と妻との軋轢に苦しめられるようになるとは思いもしなかったが、結婚とは恋愛のゴールであり、家族のスタートである。それは恋愛のように楽しいものばかりではないが、子供の成長とともに過ごす日々はやはり幸福なものなのであろう。いつまでかはわからないが、続く限りは毎年この日を同じように祝いたいと思うのである・・・

Arek SochaによるPixabayからの画像


【本日の読書】

これからの時代を生き抜くための生物学入門 - 五箇 公一  歌われなかった海賊へ - 逢坂 冬馬







2024年2月1日木曜日

息子へのアドバイス

 息子は高校3年生。今は受験の本番真っ盛りである。しばらく前、妻がわざわざ私に問うてきた。「息子が浪人するとなったらどうするの?」と。どうするも何もない。まさか働けというわけにもいかない。浪人するなら認めるしかない。質問の意図を問うたところ、「浪人できないのであれば、確実なところを滑り止めとして受けておく必要がある」とのこと。私としては、浪人するのは問題ないので、現役の時は強気にチャレンジすればいいと答えた。息子の受験予定であるが、志望は文系私大。高レベル+中堅レベル数校の組み合わせである。何となく、もっと強気でいいのではないかと思った。

 私の場合、もう40年も前になるが、家庭の経済的負担も考慮し、都内の国公立大学に目標を絞り受験した。第一志望は難関だったが、「ダメなら浪人して再チャレンジ」と決めていたので、1校しか受験しなかった。当時は共通一次試験と二次試験である。滑り止めも不要だし、受けるのも受験料の無駄と考えていたのである。高校の担任の先生からは「滑り止めを受けたらどうか」と言われていたが(その前に第一志望はそもそも受からんぞと言われてしまっていた)、「ダメなら浪人して再チャレンジ」なので不要と答えた。我ながら潔いと思う。そして浪人した。

 当然、息子にも高レベル校だけ受けたらいいと思うのだが、本人には本人なりの考えがあるようなので、それは尊重している。私は法学部一本だったが、息子は大学によって「法学部政治学科」、「経済学部」、「政治経済」等いろいろである。学部的にピッタリなのは中堅大学の学部らしい。私の場合は、「法律」という事でシンプルだったが、息子は何となく政治経済の微妙な分野らしい。「大学」のブランドで選ぶか、「学部」で選ぶか。そこも難しいところであるらしい。何に基準を置くべきか。全部受かっても「大学か学部か」という悩みがあり、1校だけ受かっても(娘はそうだった)、「入学するか浪人するか」の悩みがある。

 「入学するか浪人するか」の悩みではあるが、人生において1年くらいの遅れは誤差の範囲内である。妥協して入学するよりも浪人して第一志望を目指してほしいと思う。私自身がそうであったが、それだけの価値はあると思う。「大学か学部か」という悩みではあるが、私の場合、大学=学部であったからそういう悩みはなかった。息子はその悩みに直面している。私の経験からいくと、そこは迷わず「大学」を選ぶべきだと思う。大学のブランドは社会に出てから大なり小なりのインパクトはある。よほどこだわりのある学部であれば別であるが、そうでなければ「大学」を優先するべきである。

 私の場合、高校生の時に弁護士になろうと思った。それゆえ、迷わず法学部を考えてすべて法学部で受験した。そして法学部に入って法律を学んだが、学んでわかった事は、「法律は自分の進む世界ではない」ということ。くだらない2年間の教養課程があったおかげで、方向転換を決めたのは、1年間法律を学んだあとの4年時。もうすでに就職活動が始まる寸前であった。せめて1年時から専門課程で法律を徹底してやっていれば、2年時には学部転向等もできただろう。今でも残念だが、法律を学んだ効果はそれなりに社会に出てあったので、まぁ良しとするところである。

 そういう事もある。今はこの学部があっていると思っても、実際学んでみたら違うということはあるかもしれない。そういう事を考慮すれば、大学のブランドを選んでおいた方がいいという事になる。そして社会になれば、大学で何を学んだかなどそう問われるものではない。20代ならまだしも、30代、40代となって転職となれば、「〇〇大学卒業」という看板だけが残る。それが威光を放つことはないが、イメージとしては大きい。そういう事を考えれば、よほどこだわりのある学問であるのでなければ、大学で選ぶべきである。

 そういう考え方は、私も高校生の時にはできなかった。息子もそこまではわからないだろう。私も社会人としていろいろな経験を経た上で、身についた考えである。誰しも経験だけは時間をかけて身につけるしかない。あるいは誰かからアドバイスを受けるか。経験だけはそうしなければ手に入らない。私も息子の進路についてはあれこれ口を出すつもりはないが、そういうポイントでは一言伝えたいと思う。すべては合否の結果が出てからであるが、自分の経験が息子の役に立つのであれば何よりであり、それも財産と言えるなら、資金的に少ないところを補えると胸を張れるかもしれない。

 それにしても、受験生というのは心理的に大変ではあるが、今思うと来るべきキャンパスライフに心躍らせていた時期でもあった。車の免許を取り、ラグビー部に入って女子大生と合コンをしてと・・・それを思えば辛い宅浪生活も耐えられたのである。受験の先にそれを控えた息子をうらやましく思うのである・・・


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【本日の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ




2023年11月26日日曜日

老いる

 母が先週86 歳の誕生日を迎えた。この週末、いつものように実家に行き、好きなショートケーキを買って簡単なお祝いをした。歳の話になり、父の祖父は70代半ばで亡くなったという話になった。帰ってきて調べてみると、亡くなったのは昭和24年で69歳であった。老衰だったと言うが、今の感覚からするとあり得ない。しかし、当時はそうだったのかもしれない。ちなみに祖父は先日亡くなった伯父と同じく89歳で亡くなっている。父も86歳。もうちょっと頑張れば祖父と伯父を抜く。私の目標にもなるし、頑張って欲しいところである。

 母方の祖父母も60代と70代で亡くなっている。今の感覚では若い。両親とも86歳であるが、この年齢は比較すれば長生きである。日本人の平均寿命は、男が81.05歳、女が87.09歳であり、母はまだだが、父は平均を超えたことになる。健康寿命という言葉があるが、父は耳が遠くなり、母も腰が痛いと繰り返し、定期的な通院が欠かせない。何をするにしても気力が衰えるのか、実家もだんだん雑然としてきている。家事を担う母も衰えは目立っており、料理もできなくなっている。歳を取るとはこういうことかと感じること、しばしばである。

 考えてみれば、機械も使っているうちに不具合が出てくる。スマホはバッテリーの持ちが悪くなるし、パソコンは反応が鈍くなる。私も昨年6年ほど使ったMacを買い換えたが、劇的にサクサク動くようになって感動した。人間は機械とは違うが、それでも機械と同様、細胞の劣化は免れない。髪の毛は白くなるし、怪我は治りにくい。シニアラグビーをやっているが、首も膝も痛めて一年以上経つがなかなか治らない。以前は楽にできていた筋トレがしんどくなってきているのも体が劣化しているからだと思う。

 自分ではなかなかわからないが、写真の推移を見れば自分が歳を取っているのがよくわかる。20代、30代が若々しいのは当然だが、40代そして50代の前半でさえ若いと感じる。それはすなわち現在の自分と比べてであり、当たり前だが確実に歳を取っているとそこで感じることができる。肉体だけでなく、記憶力の劣化も衰えを感じるところである。顔と名前が覚えられないのは元々としても、人に話した記憶や聞いた話もよく忘れる。仕事では困ることになるので常にメモを手放さないようにしているが、短期記憶力の劣化は自覚症状大である。

 そんな自分だから、もっと歳を取っている母の劣化もやむを得ないと思うしかない。つい3分ほど前に話したことを忘れてもう一度話す事はしょっちゅうだし、医者に言われた事もすぐ忘れる。同席した私が覚えていて注意するが、毎週末に行くたびに注意し続けてようやく先週末に自分からやっているのを見た次第である。腰も痛みを訴えているが、医者でもない私にはどうしようもない。せめて毎週顔を出し、買い物をして夕食を作って両親と一緒に食べて帰っている。一食でも作ってもらえると嬉しいらしい。

 母の記憶力の劣化は時折私を苛立たせる事もある。いまだに自転車に乗っている(本人は「押している」と言っている)のも危ないと、買い物カートを勧めて一緒に選んだ。赤がいいか青がいいかと散々迷った末、青がいいというので購入した。ところが本人はそれを使いたくないと言い出した。曰く、「そんなの押しているところを見られたら恥ずかしい」と言うのである。「年寄りに見られる」という発言には怒りを通り越して笑ってしまったが、それでもわざわざお金を出して買った身としては笑いたくないものがある。

 そんな母の姿を見ていて、そして自分自身の劣化を感じていると、「自分は大丈夫」という根拠のない自信も揺らいでくる。それどころか、「自分は大丈夫だろうか」という疑問の声が大きくなる。今から心配するのも無駄なことではあるが、少なくともやりたい事があるなら今のうちにとは思う。「仕事を引退してから」などと悠長なことを言っていたら、引退した時にはもうできなくなっているかもしれない。さもなくとも70歳まで働こうと思っているのだから、仕事をしつつやるという考え方でないといけないだろう。

 経年劣化はやむを得ない。見てくれも大事かもしれないが、見てくれのアンチエイジングよりも「機能」の劣化を防ぐ方向での努力は続けたい。ラグビーもまだまだ続けようと思う。たとえあちこち痛もうとも。まだまだ沢山本を読み、映画を観て、ドラマも観る。ラグビーもやって、観てと楽しむ。何よりその原動力となるのは気力だが、その気力は健全な肉体にこそ宿る。「まだまだ」という気持ちで、やっていきたいと痛む膝をさすりながら思うのである・・・

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【本日の読書】

 




2023年10月18日水曜日

こずかい

 先日の事、家族で息子のこずかいの話題が出た。私は高校3年生の息子がいくらこずかいをもらっているか知らず、その時初めて4,000円だと知った。イメージとして5,000円くらいかなと思っていたので、少ないように感じた。あとで調べてみたら、高校生の平均は4,950円との事。私の抱いていたイメージとほぼ同じだったが、息子は平均よりもちょっと少ないようである。それでも息子はあまり使わないのか、特に不満はないようである。値上げ要請も特にない。まぁ、本人が満足しているならそれでいい。

 ところが、本人ではなくまわりの友達が不満らしい。まわりの友達は7,000~10,000円と高額なこずかいをもらっているらしいのだが、それでも不満で親と増額交渉をするらしい。しかし、その時親の方から我が息子の4,000円を採り上げられて、充分なはずと否決されるらしい。「お前のせいでこずかいを上げてもらえないからお前も上げてもらえ」と言われるらしい。母親たちのネットワークの恐ろしさでもあるが、微笑ましい話である。

 そう言えば、私の場合、親にこずかいをもらっていたのは中学生までであった。中学を卒業した時の春休みに近所の友達の大工をしているお父さんに、どういう経緯だったかアルバイトをさせてもらい、いくらかを手にした。それで夏休みまでもたせ、夏休みにまたアルバイトをしてこずかいを稼ぎ、それで当面賄い、また次の春休みにアルバイトをするという事を繰り返してこずかいを賄った。高校時代はそれで十分ではなかったが、何とか親にもらわずにすんだ。

 今から考えると、よくやりくりできたなと思う。ただ、考えてみれば集中して10日くらいアルバイトすれば30,000円くらい稼げるだろうし、そうすれば月5,000円として半年間は持つことになる。詳細は忘れてしまったが、たぶんそのあたりの金額でうまくやりくりできていたのだと思う。高校の時は結局、友達のお父さんのところで大工仕事の雑務をやらせてもらって過ごした。

 大学に入ると、さすがに支出も増え、家庭教師や防水工事など、いろいろなアルバイトをしてこずかいを稼いだ。さすがに学費や教科書代、定期代などは賄いきれずに親に出してもらったが、そういう「学業に関するもの以外」はすべて自分で稼いだ。当時の我が家はそれほど貧乏でもなかったが、それでも親に負担をかけないようにしようという意識は常にあったので、苦痛でもなんでもなかった。稼いだ中でやりくりし、奨学金ももらっていたので、なんとかなったのである。

 そんな話をしようかと思って思い留まった。何か嫌味的になるかもしれないし、自慢話になるだろう。その場で話したところで息子の心に何か響くかと言われれば、そうではないように思う。ただ、そういう自分の学生時代の考え方ややってきたことは、どこかのタイミングで話したいとは思う。面白いもので、息子には話したいが、娘にはどちらでもいい。息子にはそういう考え方をどこかで持ってほしいという思いがあるのも事実である。

 親としては、月に4,000円のこずかいを惜しむ気持ちはない。大学に入ったらさすがに値上げしないといけないだろうが、それが10,000~20,000円だとしても家計が苦しくなるわけではない。だが、アルバイトをして稼ぐということはしてもらいたいし、現役女子大生の娘もそうしている。それは単に「こずかい稼ぎ」という意味だけではなく、働くという事を通して社会の中で就業体験をしてもらいたいと思うからである。

 アルバイト経験は、いろいろな仕事をするいいチャンスである。私は基本的に体を動かして稼ぐ仕事が好きだったから、工事現場系の仕事を好んだものである。特に防水工事の仕事は、朝から職人さんたちと現場に行き、1日働いて帰りに7,000円とかをもらっていたのだが、非常に充実したバイトであった。生涯にわたってずっと続けたいとは思わなかったが、やって良かったと思っている。アルバイトは是非とも経験すべき事であると思う。

 基本的にこずかいは「与えられるもの」。増やそうと思ったら、息子の友達のように母親に(財布を握っているのはやはり母親なのだろう)頼まないといけない。そこにはどうしても、頭を下げて相手に依存する形になってしまう。私はもともと独立心旺盛だったので、高校生からこずかいは自分で稼ぐという事をしてきた。それはいまでもそうである。毎月給料からもらうこずかいだけではとうていやっていけない。かと言って、妻と値上げ交渉しても分が悪い。ならば自分で稼ぐしかない。そうして今も独自にこずかいを稼いでいる。

 息子にそうしろと言うつもりはないが、「こずかいがほしければ自分で稼ぐ」という考え方は持ってもらいたいと思う。私の今のこずかいは妻には内緒だが、それを隠しつつ、そのうちそういう考え方を伝えたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

  






2023年10月8日日曜日

受験・浪人

 息子は現在高校3年生。現役バリバリの受験生である。私立文系の志望校を目指してどうやら毎日真面目に勉強しているようである。私も大学受験の時のことを思い出すが、気がつけばもう40年も前のことになる。高校3年生と受験に失敗して浪人した1年間とで2年間受験勉強に精を出していた。息子の勉強については、特に何も口出しをしていない。妻がしっかりサポートしているし、本人も別にアドバイスを望んではいないのだろう。寂しい気もするが、望まれぬことをするつもりもなく、このまま静かに見守るつもりである。

 ところが先日、妻から話があった。「息子が浪人するとなったらどうするか」と。突然の話で驚くと言うより、「何を今さら」と言うのが正直なところだった。長女も大学受験の時は1年浪人しているし、息子だけダメというわけにもいくまい。それに何より自分も1年浪人しているし、自分ができなかった現役合格を息子ができなかったとしても責めるのもおかしな話。本人が浪人して再チャレンジしたいというなら、それを拒否する理由などない。妻も同意見だったが、一応確認ということだったらしい。

 それはそうとして、まだ結果も出ていないうちから早い話ではあるのだが、いざ浪人となったら息子とは一度サシで話をしたいとは思う。そこでは自分の経験を踏まえて、息子に望むことを話したいと思う。40年前、私が受験した時、志望は「国公立」であった。それは主として受験料が私立よりも安いということだけの理由。別に当時、我が家は貧しかったわけではない(かと言って裕福だったわけでもない)が、父親の苦労話を聞いていたせいもあって、親にはあまり金をかけさせたくないという思いが強かったのである。

 父は長野県の富士見の出身で、当時、村全体が貧しかったようで、父は中学卒業と同時に友人と共に東京へ出てきて丁稚奉公に入っている。朝6時に起きて、8時に職人さんが来る前に仕事の準備をし、昼は立ったまま食事をし、夜の12時まで働いたそうである。今では労働基準法違反レベルではあるが、当時はそれがまかり通っていたようである。無一文で出てきて、真面目に働き、印刷工として腕は良かったらしく、独立しても固定客はずっとついていたらしい。ただ、商売が下手で、あまり儲けられなかったが、それでも私を大学に通わせ、家も買い、無借金で70歳で引退した。

 それに比較し、当たり前のように高校に行き、当たり前のように大学へも行ける自分は随分恵まれているものだと思っていた。父は小学校に入った頃に独立し、休みは週1日、毎日12時間、1人工場で黙々と働いていた。機械に腕を挟まれて大怪我をしたり、実家の祖母が病気の時は溜めていたお金をすべて躊躇なく送金したりということもあり、それが裕福ではなかった一因でもあったようである。そんな様子を見聞きしていたからかもしれないが、私は自然と「親に金を使わせないようにしなければ」という思いになっていた。高校に入るとアルバイトを始め、以来、親に小遣いはもらっていない。

 大学も、行くのが当然なのではなく(行かないという選択肢はなかったが)、それに甘えるのではなく、国公立へ行くのが筋だと考えた。1年目は「ダメなら浪人」と決めていたので志望校一本しか受けず、玉砕して浪人生活に突入。「予備校に行く」という選択肢は端からなかった(そこにはもう一つライバルに対する意識もあった)。宅浪中は110時間の勉強(日曜日は5時間)を自分に課し、それを1年間やり切った。終わった時は、何よりホッとしたし、仮にダメだった場合、「もう1年」は無理だと思った。それほどやり切ったのである。

 幸い、志望校には合格したが、この体験談は息子に語りたいと思う。何も「予備校に行くな」、「110時間勉強しろ」などというつもりはない。ただ、「結果よりもプロセスを重視する」とは言うつもりである。「自分でやり切った」と言えるくらいはやれとは言いたい。結果として志望校に落ちようが、どこの大学に行こうがそれは構わない。ただ、私に対して「やり切った」と言えるならそれでいいと言いたい。今は結果よりもプロセスが大事。プロセスがしっかりしているなら、結果はいずれどこかで帳尻は合うだろう。

 考えてみれば、自分は親によくいろいろな話を聞かされたが、自分はあまり娘にも息子にも自分の話をしていないように思う。あまり自慢めいた話が好きでないこともあるが、振り返れば何気なく父に聞かされたことが、自分の考え方にかなり影響していることに気づく。自分も疎まれたとしても、もう少し自分の考えを子供たちに語って聞かせた方がいいのかもしれない。折を見て、そんな時間を作ってみたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

  



2023年7月12日水曜日

高校野球観戦

 

 猛暑の中、夏の甲子園大会の東京予選を観戦に行ってきた。スポーツ観戦と言えばラグビー以外はあり得ない私が、わざわざ高校野球の観戦に行ったのは息子が高校球児であるからに他ならない。母校が何年か前、春の甲子園大会に出場した時も、さすがにテレビ観戦はしたが、現地に行くという選択肢は端からなかった。そこには何となく高校時代から「高校野球」に対して持っていた「不公平感」が大いに影響している。「同じ高校スポーツなのになぜ野球だけが特別扱いされるのか」という不公平感である。


 それは今でも変わらない。地方予選の1回戦から新聞に掲載される、それも名前まで載る。メディアの高校野球特別視は何よりも甚だしい。まぁ、それは国民の関心度からすれば仕方ないのであるが、先週末の1回戦は駒沢球場、本日の2回戦は神宮球場という特別扱いもそうである。ラグビーの場合、1回戦などどこかの高校のグラウンドがせいぜいで、間違っても秩父宮など使わせてもらえない。「たかだか1回戦で」である。しかも一般席は「有料」である。私も大人1,000円を支払っての観戦である。


 そんな私だから、高校野球の生観戦は人生初であることにも気づく。神宮球場は当然であるが、駒沢球場もなかなか立派な球場である。こういうところで試合ができるというのは、幸せな事だなと思う。これまでは不公平感たらたらであったが、我が息子がこういう恵まれた環境で、「1回戦から」試合できるというのは良いことだなと今は思う。長年抱えてきた不公平感がようやく解消されたような気になる。そんな感慨を抱きながら、2試合ともバックネット裏に陣取る。


 試合前の練習は、両チームとも公平に持ち時間ピッタリを使って行われる。観客はまばら。ほとんどは両チームの関係者であると思うが、中には根っからのファンなのかと思われる人もいた。予選の1回戦、2回戦あたりだとまだレベル的には低いが、そんなレベルでも面白いと思うコアなファンなのだろう。地方予選の1回戦から観戦していると、本番の甲子園までの1ヶ月は楽しい期間なのだろうと思う。私もこの9月に開催されるラグビーのW杯を楽しみにしているからその感覚はよくわかる。


 レベルという話でいけば、やはりプロとは格が違う。ピッチャーの投げるボールも、打球も送球も当然ながら差がある。内野ゴロに打ち取ったと思って安堵したら、内野安打になってしまうというのが何回かあった。たぶん、甲子園クラスになればアウトになるのだろうが、まだまだそのあたりは大きな差なのだろう。ラグビーでも強豪校になれば体格から違う。わが母校も何年か前に全国レベルの高校と対戦してボロクソに負けたが、それを考えれば無理もない。


 それでも小学生の頃から見ていると、さすがに随分野球らしくなってきたなとこれも感慨深い。何せ初めて息子に野球をやらせた頃は、どうやって息子が振るバットにボールを当てようかと四苦八苦したものである。休みの日にキャッチボールをやろうと連れ出した時は、取った時に手応えのあるボールを投げるようになったのが嬉しかったものである。もう相手などしてくれないだろうが、あの時キャッチボールをやっておいて良かったなと心から思う。


 息子はチームのキャプテンである。弱小都立高校であるが、それでもキャプテンを任されるというのは、そこそこのものがあるのだろうと思う。ポジションはキャッチャー。相手チームの攻撃で、ランナーが出ると敵のベンチをじっと見ている。何をしているのかと聞いてみたら、「サインを見ている」と言う。「わかるのか」と聞くと、わかる時もあるらしい。何より、見ていること自体がプレッシャーにもなると言う。いつ間にか町内少年野球レベルの親父を超えている(当然ではある)。


 ガラガラの観客席で私の後ろの方に座っていたのはどうやら相手チームの関係者。私も両親を連れて行ったが、同じような祖父母世代もいたようである。両チームとも似たようなユニフォームで(ラグビーでは似たようなジャージの場合、どちらかがセカンドジャージを使用する)、間違えたお婆さんが我が息子チームの応援をしてしまって怒られていた。私の親も何度も孫の姿を見間違っていたからその微笑ましさはよくわかる。本日の試合は息子のチームがコールドで勝利した。嬉しかったが、どこの誰か知らないお婆さんの家族のことはちょっと気の毒であった。接戦での勝利でも良かったかも知れない。


 息子は勝利の余韻に浸る間もなく、塾へと向かう。部活も大事だが、高校3年は受験生でもある。まあ、親父も浪人したから現役合格にこだわることもないが、文武両道は小学生の頃から言い続けてきたから、しっかりこなしてほしいと思う。そしていよいよ今度の日曜日は3回戦。相手はシード校だから勝つのは難しいかも知れない。炎天下の観戦は大変であるが、息子の最後の晴れ姿であるし、しっかりと一挙手一投足を目に焼き付けてきたいと思うのである・・・



【本日の読書】