2019年2月28日木曜日

考えることはやはり大事だ

世の中働き方改革がブームではあるが、個人的にはちょっと違った意味での働き方が気になっている。それは、「言われた事をやるだけ」の働き方である。高校生の頃は、漠然と「サラリーマンにはなりたくない」と考えていたが、それは「サラリーマン=顎でこき使われて奴隷のように働く人」というイメージがあったからである。今でいえば「社畜」なんて言葉で言い表せられるだろうか。就職してみてわかったのは、「社畜」になるかどうかはその人の働き方次第、考え方次第だということである。

当たり前と言えば当たり前であるが、どういう意識で働くかは重要だろう。心構えであり、スタンスである。それにあたって大事なのは「考える」ことだと思う。自分の仕事の一つ一つについて、ただ言われるがままやるのと「考えて」やるのでは自然と結果も変わってくるだろう。「創意工夫」も「考える」からこそ可能になるというものである。

そもそもであるが、この「考える」ということがあまりできていないように思える。かつて務めていた銀行でも、「考えている」とは思えない人も多かった。
「これをやることにどういう意味があるのか」
「この資料をもらうことにどういう意味があるのか」
交渉にあたって、Aという反応とBという反応が予想される。Aだったらこうしよう、Bだったらこうしようと考えておけば交渉も早い。ところがAだったらいいが、Bだったらまたその時考えようと棚上げしようとする。思わず、「なんで?」と思ってしまう。

 トヨタ自動車の改善で有名になった「なぜ」を3回繰り返すというのも、結局、「考える」ということである。「考える」からこそ自分の意見も出てくる。今の会社でも、意見を求めると「う~ん」と言って下を向いてしまったりする人がいる。考えてもわからないというケースもあると思うが、なら調べてみるとか、わかりそうな人に聞いてみるとか、そういうアクションが取れると思う。なのにそこで「思考停止」してしまう。「言われた通りやっておけば怒られないだろう」という保守的な考えなのかもしれない。

よくサラリーマンが会社帰りに赤ちょうちんでくだを巻くということがある。仕事の不満なのだとしたら、そんな不満を言う暇があったら改善策を考えて提案すればいいのにと思う。それが受け入れられないのであれば、それはそれで仕方ないので、不満を言う前に「ではどうすれば良いか」を考えれば良い。上司と意見が合わないことは不思議ではないので、言うだけ言ってダメなら切り替えるしかない。「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」(後藤田五訓)である。

「考える」ことは「責任感」にもつながる。「言われたことだけ」やっていれば、確かに怒られることはないし、ミスさえしなければ責任もない。それは確かに楽だろうが、そういうスタンスは知らず知らずのうちに、自分の「考える力」を奪い、「責任感」をも奪っていく。それは結局、「社畜」への道であり、自分自身に跳ね返ることだと思う。スポーツでも、「やらされている」練習は身につかず(根性と体力だけはつくかもしれない)、ちょっとチームのレベルが上がればレギュラーにはなれない。自分にとって必要な練習を「考えて」実行できる人間がレギュラーになれる。どの世界でも同じだと思う。

ひょっとしたら、考えていないというのは間違いで、腹の中ではしっかり考えているのかもしれない。ただ、それを表明しなければ(あるいは行動に表さなければ)、それは考えていないのと結果的には同じである。
「人の振り見て我が振り直せ」
ではないが、そんな「考えない」人たちを見るにつけ、自分自身は「考える」サラリーマンであり続けたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 
   
  

2019年2月24日日曜日

決断の正体

ネットの記事で、興味深いものを見つけた。『結婚できる人とできない人の差は、容姿や経済力ではない“決断”できるかどうかだ』というものである。記事では、お見合いをした人が、紹介を受けて最後に「結婚に向かう意思があるかどうか」を問われた際、「年齢や年収を理由に躊躇する」という例を紹介している。お見合いである以上、それらは最初からわかっていたこと。なのにそこで躊躇するのは、結局「決断力がないから」だとしている。

著者の主張はシンプルで、「結婚は決断」だというもの。人生は計画通りにはいかないもの。どんなに慎重に考えても100%思い通りにはいかない。石橋を叩いても、最後に渡る決断ができない人は結婚はできない。結婚できた人は、どこかで「決断」できた人だという主張はその通りだと思う。我が身を振り返ってもその通りであると思う。と言うより、自分の場合はもう少し考えて諦めずにいればよかったと深く後悔している。

それはともかく、著者の主張を読んでいて、もう一歩の踏み込みがないように感じたのも事実である。それは「決断できない理由」である。お見合いでは、事前段階で相手の年齢も年収もわかっている。それで実際に相手と会ってみた結果、年齢や年収を理由に「決断」できないのは、年齢や年収が「本当の理由」ではないということではないかと思う。本当の理由は、たぶん本人にもよく説明のできない「なんとなく」という理由ではないかと思う。

人間は、相手を判断するのに、年齢や年収などのスペックで判断するわけではない。見た目とか、話をしている時の雰囲気だとか、ちょっとしたしぐさなんかで印象が変わる。好きでも嫌いでもなく、大して心が動かない異性というのはいくらでもいるわけで、そういう相手と結婚するかと問われれば、結婚に焦っていない人なら即答で断れるが、誰かと結婚したいと思って探している人なら誰だって煮え切らない態度になるだろう。他にも同条件でもっといい人がいるかもしれない(いないかもしれない)。そんな心境なところに、「どうですか?」と問われれば、上手く説明できない感情を無理に説明するのではなく、手っ取り早く「条件」に難を示すのはありうるパターンだと思う。

その昔、女性に振られてばかりいた20代、どうすればいいのだろうかと悶々としていた時期があった。振られた理由を知りたいと思ったが、教えてくれることはなく、振られるのは仕方ないがせめて理由を教えてくれれば次へと活かせるのにと思ったものである。今から思えば、そんな理由を聞いても意味はないだろうと思うのだが、当時は「それさえ直せば」と必死だったものである。「優しい人が好き」と言われて優しくしても、好きになってもらえるものではないと今ではわかる。よく「好きな異性のタイプは」という質問を耳にするが、個人的にはそれに対する回答は血液型占いと同じくらいにしか信じてはいない。

おそらく、ではあるが、年齢や年収を理由に躊躇する人に、別の同条件の人を紹介し続けてみたら、案外ヒットしてあっさりOKを出すかもしれないと思っている。恋愛は相手の条件で生じるものではなく(まぁお金持ちのイケメンというだけで生じる人はいるかもしれないが・・・)、会って接するうちにいつの間にか生まれるものである。「この人!」と思う相手に巡り合った途端、それまでの「条件」なんかみんな忘れてしまうのではないかと思う。

結局、著者の言う「決断」とは、「まあこのあたりで仕方ないだろう」という「妥協」のことに他ならない。「年齢もこのくらいまでなら仕方ない」「年収もこの程度なら仕方ない」「容姿もほどほど」「性格も悪くなさそう」そういう平均点をかき集めて「妥協」するのが、お見合い結婚できる秘訣ではないかと思う。それを「決断」と言っているのに他ならない。そういう「決断」ができて結婚した人が幸せになれるかどうかはまた別の問題である。

 仲人的な立場の人からすれば、そういう決断ができない人を責めたくなる気持ちはよくわかる。記事の趣旨もそんなところである。ただ、結婚するのが必ずしもいいとは思っていない立場からすると、人生で最大とも言える「決断」を安易にしないのもまた「決断」だと思わざるを得ないのである・・・




【今週の読書】