2021年11月27日土曜日

将来の夢

 子供には夢を持って欲しいというのは、親であれば誰でも思うだろう。かく言う自分も娘と息子それぞれには夢を持って欲しいと思う。子供も小さい頃は、夢を語る。「大きくなったら何になりたい?」と問えば、なんの屈託もなく、「パイロット」とか「お嫁さん」とか答えてくれる。しかしながら、中学、高校と成長するにつれ、そういう夢を語らなくなる。我が家の子供達も例に漏れず、今ではたとえ聞いたとしても「別にない」という答えが返ってくるのは聞くまでもなくわかる。

 なぜそうなるのかと言えば、大きくなるに従ってだんだんと世の中というものがわかってくるからかもしれない。その昔、子供がまだ小さい頃、キッザニアに行ったことがある。そこで子供達に人気があったのは、制服系の仕事。消防士とか宅急便のドライバーとかガソリンスタンドの店員とか。子供のうちは無邪気に楽しんでいられていいが、やがてなんとなく世の中というものがわかってくる。高校生にもなれば「将来ガソリンスタンドの店員さんになりたい」などとは言わなくなるだろう。言われたとしたら、親としては愕然として必死に説得を試みなければならない。

 親としてはまことに寂しい限りであるが、致し方ない。
しかしながら、では自分はどんな夢を持っていただろうかと考えてみると、実は夢などというものは持たずにこれまで生きてきている。小さな目標程度であればいろいろとあったが、長期的な夢などというものは持ったことがない。子供達に夢を持って欲しいと思う前に、自分自身「お父さんはな」と語れるものがない。これでは「夢を持て」などと子供には求められない。寂しいのは、むしろ自分自身である。

 夢のない人生と言うと何か虚しいもののように思うが、ではこれまでの自分の57年の人生を振り返ってみると、それは惨めなものであったかと問われると、否である。それなりに充実していたし、今でもそうである。夢などなくてもそこそこ満足いく人生を送ることはできる。あればあったで良いのだろうが、なければいけないというわけではない。それに、そもそも夢とはなんだろうかと考えてみると、人それぞれ定義は異なるかもしれないが、「人生において達成したいこと」だと言えるだろう。自分にとってそれはなんだろうか。

 自分にとって「人生において達成したいこと」とは、何かの偉業のようなものではない。それは何かと問われると難しいが、あえて言えば「満足いく人生」だろう。ではどうすれば満足できるのだろうか。今の生活を基準に考えてみると、仕事はそれなりに面白く、毎日仕事に行くのが楽しいと言える。強いて言えばもう少し収入を増やしたい。それは決して不可能ではないから、今は日々そこに向けて頑張っている。週末はラグビーが楽しいし、深夜の映画も楽しい。通勤電車の読書も然り。夫婦関係だけが玉に瑕だろうか。

 年に何回かは温泉に行きたいし、たまには海外旅行にも行きたい。もう少しコロナが落ち着いたら、友人たちと頻繁に飲みに行きたい。ささやかな欲求であるが、そうしたささやかな欲求を満たした1日1日の積み重ねが人生であろうと思う。すなわち、それが私にとって満足のいく人生に他ならない。実につまらなく思えるかもしれないが、本人がいいと思うのだから、他人につまらなく思われようと気にはならない。それが突き詰めると私の夢なのかもしれない。

 数日前の日経新聞にある詩が紹介されていた。
「一個の人生といえるものにとって必要なのは、達成や完成という人生の時間ではなくて、よい1日という人生の時間だ」
実に共感できる内容である。大きな偉業を達成するということはできないが、満足にみちた小さな1日をずっと過ごせていけたのなら、それで良しとしたい。子供たちそれぞれにも、大きな夢を持たなくても構わないので、満足のいく人生を歩んで欲しいと思うのである・・・

Gerhard G.によるPixabayからの画像 

【今週の読書】
  



2021年11月21日日曜日

論語雑感 雍也第六(その7)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。回也。其心三月不違仁。其餘則日月至焉而已矣。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、回(かい)や、其(そ)の心(こころ)三月(さんげつ)仁(じん)に違(たが)わず。其(そ)の余(よ)は則(すなわ)ち日(ひ)に月(つき)に至(いた)るのみ。
【訳】
先師がいわれた。
「回よ、三月の間、心が仁の原理を離れなければ、その他の衆徳は日に月に進んでくるものだ」
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 何事であれ、3ヶ月間続けるとそれは習慣になり、何がしかのものになるということを聞いたことがある。「ローマは一日にして成らず」ではないが、コツコツと続けていくうちに、振り返ればそこに長い道ができているということであろう。しかし、「三日坊主」という言葉がある通り、一つのことを根気強く続けるというのは簡単なようでいてなかなかできないものであるのも事実なのだろう。

 私はと言えば、小学生の頃よりコツコツやるタイプであり、長い期間続けるのを苦にしないところがある。むしろ一気にやるよりも少しずつやる方が得意かもしれない。過去には大学受験もこれで宅浪生活を乗り切ったし、不動産会社勤務時代はこれで資格試験をクリアした。1日で10時間勉強するよりも、1日1時間勉強して10日間かける方を自分は選ぶのである。もしかしたら、飽きっぽくて一つのことを長時間続けられないというところがあるのかもしれないが、私はそういうタイプなのである。

 3ヶ月間何かを続けることは、私にとっては実に簡単なことで、それは最初にまず決めてしまうことである。決めたらあとはただひたすら実行するのみ。ただ、「続ける秘訣は無理なことはやらない」ことも事実である。1日1時間の勉強ならできるが、2時間だと少々きついし、3時間だと無理である。無理なく長く続けるのなら、1日1時間と設定する。それだと時間がかかるゆえに、早く着手するのも工夫の一つである。資格試験の場合、落ちたとわかった翌日から再チャレンジをスタートしている。

 体が鈍り、衰えるのが嫌で、平日家に帰ると軽く筋トレをしている。もう10年以上に及ぶ習慣であるが、毎日やっているわけではない。基本は月水金の週3回。これも毎日にすると続かないから、週3回にしたわけで、それでは意味がないと言われそうな気もするが、まったくやらないよりはマシであるはず。今も多少、筋肉が維持できているのは、この筋トレの成果であると信じている。

 どうせやらないといけないことや、やりたいと思うことは「ルーティン化」することだと思う。月水金は帰宅後筋トレをする。勉強するなら1日1時間と決める等々である。朝起きてから出勤するまでの行動をルーティン化するのも別の意味で重視している。毎日の行動を決めてしまえば考えずにできる。朝の通勤電車は読書に集中したいから毎朝同じ電車の同じ車両に乗る。そうすれば、考えずに動けるから、その間脳みそは他の事に集中できる。

 毎朝、同じ電車の同じ車両に乗っていると、「顔なじみ」が出てくる。その人たちも同じ考えなのかどうかはわからない。もしかしたら座れるパターンを会得しているだけなのかもしれない。そうした顔なじみがいつの間にかいなくなる。転勤なのか、出勤時間が変わったのか、そんな観察ができるのもこちらが同じパターンで通勤しているからである。私は、前職でもそうであったが、勤務条件が変わらなければ(あるいはダイヤ改正でもない限り)今の通勤パターンが何年も続くと思う。

 孔子の時代にすでにそんな考え方が浸透していたのだろうかと思うも、それが人間の習性なのかもしれないとも思う。次は何かやろうかとも思うも、帰宅してからの時間を割くのはだんだんと抵抗感を覚えるようになってきた。それではいけないと思いつつ、何か新たに習慣化するようなものを始めてみようかと思うのである・・・


Art DioによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
  



2021年11月14日日曜日

プロのあり方

 先日、ある市民ホールでの無料クラッシックコンサートのサポートをしている人の愚痴を聞いた。そのコンサートでは中学生の演奏に加え、プロのピアニストをゲストに迎えたそうである。そのプロのピアニストは、ピアノはスタインベックのピアノを使うとし、当日の調律を要求してきた。ところが低予算のコンサートだからそんな余裕はない。さらに会場の都合で搬入できるピアノは1台だけ。つまりスタインベックを搬入するともう入れられない。すると、前座の中学生も調律済みのスタインベックをプロが弾く前に使う事になるが、プロご本人はこれに難色。これらの対応に知人はてんやわんやなのである。

 知人はブツブツ文句を言っていたが、そもそもプロである以上、自分の演奏の質にこだわるのは当たり前であり、要求はすべてその質を保つものである限り正当だと思えた。しかし、一方でプロである以上、与えられた環境でベストを尽くすのも必要なのではないかという思いもある。「どんな時でもベストパフォーマンスを発揮する」か、「状況に応じて与えられた環境の中でベターなパフォーマンスを発揮する」か。プロに必要なのはどちらなのだろうかと、話を聞きながらしばし妄想に耽った。

 プロと言っても、無料の市民コンサートに呼べるほどであるからまだ無名の人だそうである。「そのくせに」という気持ちが知人にはあるようであるが、私からすれば「それなのに」と思わなくもない。偉くなってから拘るよりも偉くなる前からそういうスタンスを貫いているとも言える。将来そのピアニストが有名になったとしたら、「若い頃からすでに確たるプロ意識を持っていた」と評されるかもしれない。どんなピアニストなのか、会った事もない私にはわかる由も無いが、今の時点で評価するのは時期尚早だろう。

 私の感覚からすると、「現有戦力で戦う」というのが私の主義であるから、スタインベックでなくても、調律をしてもらえなくてもその場の状況に応じてプロとしての演奏をしてみせようとするだろう。それこそ、中学生と同じ環境でその歴然とした違いを素人にもわかるようなパフォーマンスをすることに喜びを見出すだろう。ただ、それは私の考え方であって、もちろんそれこそがプロとしてのあり方だというつもりはない。たとえ無料のコンサートであったとしても、自分のベストな演奏を聴かせるという考え方も正しいと思うからである。

 もしかしたらそのプロのピアニストの方も全部要求が叶えられないなら演奏はしないとゴネているわけではないのかもしれない。できるか否かは別としてとにかく言うだけ言ってみるという考え方かもしれない。現に知人はブツブツ文句を言いながらも調律師の手配はできないかとか、ピアノの搬送問題をなんとかできないかとか、一応あれこれ動いているのである。できるかどうかはわからないが、とにかく実現に向けて動いているわけで、もしかしたら全部できてしまうかもしれない。そうしたら、当日はプロのピアニストによる満足いく演奏が来場したお客さんに披露されるかもしれない。

 もしもそういう結果が実現されたなら、それはそのプロによる拘りが功を奏したと言えるわけである。たとえ無料コンサートであろうと、有料コンサートと遜色ない演奏を披露してみせるというプロの拘りかもしれない。だとすれば、大したプロ根性だと言える。それがプロの望ましい姿なのかもしれない。知人も本来はプロを呼ぶということはそういう事なのだという認識を持つべきなのかもしれない。

 2つの考え方のどちらが正解かと問われれば、どちらとは言えないと思う。そこは考え方の違いで、どちらが正解かという問題ではない。ただ、私の場合は、その場の状況でベストパフォーマンスを目指すという考え方を取るだけである。ビジネスの現場では、「あれがない」「これがない」の連続である。「条件がすべて満たされれば」誰だってできてしまうだろうと思ってしまう。今の会社でも「〇〇が△△だったら良かったのに」と思うことばかりである。そうでないから、知恵と工夫が求められるわけである。

 ビジネスとピアノの演奏とは違うかもしれないが、求めれば叶えられる要求と、ないものねだりしても仕方ないというものの違いはあるかもしれない。しかしながら、今日も明日も「現有戦力で戦わないといけない」状況にある身としては、やはり「今あるものでなんとかする」という信念を大切にして、明日も頑張ろうと日曜日の夜に思うのである・・・


Robert PastrykによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
 



2021年11月11日木曜日

やり方しだい

 先日、会社の受付から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。何事かと思ったら、帰ってきた部下の女性が郵便屋さんが来ていたのだと教えてくれた。なんでも我々の会社が入居しているビルを担当している郵便屋さんで、もう顔馴染みなのであるが、こちらの名前も覚えていて来るたびに愛想がいいのだという。郵便物の受け取りのほんの短い時間であるが、受け取ったこちらの気分をちょっとよくしてくれて帰って行く。話を聞いてどんな担当者なのか興味を持った。

 それと同時に思い出したのが、子供の頃にやはりいつも配達に来ていた郵便屋さんである。私がまだ小学生の低学年の頃だから昭和で言えば40年代の話である。その郵便屋さんは、自転車で配達に来ていたが、一軒一軒郵便物をポストに入れる際、「○○さん、郵便です」と声を掛けて配達していたのである。家の中からでもその声は聞こえ、私も何度かすぐに郵便物を取りに行った記憶がある。そんなだからか、私の母を始めご近所では評判の郵便配達人であった。当時まだ20代くらいの若いイケメンの男の人であったが、評判だったのはイケメンだったからだけではない。

 今でも強く記憶に残っているのは、ある夏の暑い日、母はその郵便屋さんにスイカを食べさせたことである。あらかじめ来たら食べさせようと待ち構えていて、近所で「○○さん、郵便です」という声が聞こえて来たのを合図に外へ出て捕まえて「食べていきなさい」とスイカを手渡したのである。その郵便屋さんは、汗をかきながら美味しそうにスイカを食べていた。母も誰彼ともなくスイカを食べさせていたわけではなく、その人だから食べさせたのである。普通は、黙ってポストに投函して終わりである。その人がなぜ、「○○さん、郵便です」と声をかけていたのか今となってはわからないが、聞いてみたかったなと今でも思う。

 今でも郵便配達は日常であるが、そんなことをしている郵便配達人は見たことも聞いたこともない。だが、同じ仕事でもやり方1つで大きく違うといういい例だろう。その人がなんで郵便局に勤めたのか、なぜそんな声掛けをしたのか、今どうしているのか(たぶんとっくに定年退職しているだろう)とても興味深い。郵便配達という誰でもできる仕事である。それなのに人の心を動かすようなやり方でやれるというのは凄いことである。たぶん、仕事を楽しんでやっていたのではないかと思う。『仕事は楽しいかね』でも感じたことだが、「面白い仕事があるわけではない。仕事を面白くすることができる人がいるだけ」なのだろうと思う。

 8月に転職して以来、私は「何をしたら良いですか」という質問を誰にもしていない。そんなことは自ら考えることだからである。もちろん、新人とか若い人なら別だが、ある程度社会人経験を積んだ者であるなら、そんな事は自分で考えることだと思うからである。自分が期待されている事はもちろん入社時にわかっている。だからそれを徹底するとともに、合わせて自分ができることはないか、自分が何をしたら組織に貢献できるのかを問うていけば自ずとやるべきことは見えてくる。「何をしたら良いですか」などと質問している暇などない。

 会社としてはこれから何をすべきか。それを考え、そしてそのために何か自分ができる事はないかと考える。そうすれば自ずとやることは見えてくる。そうして見えてきた事をやるのは楽しい。やらされているのではなく、自らやる。だから面白く、楽しい。面白くない仕事をいかに面白い仕事にしていくか。「仕事がつまらない」、「楽しくない」、「苦痛だ」という言葉を聞くとそういうやり方をしてみればどうだろうかと思えてならない。かの郵便配達やさんは、仕事が嫌で嫌で堪らないとは思っていなかったはずである。母からもらったスイカを食べて帰った日は、きっと充実感に満たされて1日を終えたのではないかと思う。

 郵便配達が面白いと思うだろうかと考えてみると、どちらかと言えば否定的に思える。だが、それもやり方次第だろう。自分が配達すると、配達先の人が喜んでくれる。そんなだったら仕事も楽しいだろう。今やっている仕事が楽しくないという人は、やっぱり楽しくないやり方をしているのだろうと思う。自分もどんな仕事であれ楽しくやれるようにしたいと思う。今の仕事ももちろん楽しいが、さらに自分の部下にも楽しく仕事ができるように働きかけたいと思う。そんなことを考えると、ますます明日職場へ行くのが楽しみになる。残り少ないサラリーマン人生、そんな風にしてさらに充実させていきたいと思うのである・・・


Michal JarmolukによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
  



2021年11月3日水曜日

最近のニュースより

 先週は秋篠宮眞子さまの結婚が話題となっていた。と言っても、通常のようなお祝い色はなく、ネットには批判が溢れている。それを見れば、皇室という温室育ちの眞子さまがPTSDになるのも無理からぬところがあると思う。個人的にはあまり関心がなかったので記者会見も見ていないが、批判する人というのはどんな考えなのかは興味のあるところである。それだけ皇室を我が事と考えているのだろうかと思ってしまう。

 私は皇室には敬意を払うが、それ以上でも以下でもない。眞子さまがどんな相手と結婚しようと本人が良ければいいと思うし、親である秋篠宮ご夫妻がいいのであればそれでいいと思う。そもそも発端は、相手の小室圭氏の母親の問題である。小室氏本人の問題ではない。母親の問題なのになぜ問題視するのだろうか。相手としてふさわしくないというのであれば、やはり皇室の人間と結婚するには「家柄」が大事だということなのだろうか。

 「説明せよ」と言ったって母親の問題である。小室氏本人が釈明したところで、事実は当事者同士(母親とその相手)しかわからない。当然、双方言い分が違うわけで、どちらが正しいのかは藪の中である。そもそも母親の相手にしろ、男が女に金を出したのであれば、後から返せはみっともない。約束があったのならそれは不履行であって、民事訴訟の問題か場合によって詐欺となれば刑事事件である。週刊誌に売るネタではない。そのスタンスが既に胡散臭い。

 皇室一族と結婚する相手は、家族も含めて品行方正でないといけないという考えなら理解できる。そういう「あるべき論」があってもいいと思う。そういうあるべき論に対しては、家族というより自分自身品行方正とは決して言えない身としては、端から対象にすらならないのだなぁと思うばかりである。さらに話題を提供した週刊誌に対する賞賛の声についてはとても賛同などできない。普段から芸能人の不倫やスキャンダルを報じていて、そんな仕事をして面白いのかと疑問に思っているからである。自分だったら絶対にやりたくはない仕事である。

 そもそも人は誰でも人に言えないもの、知られたくないものはあるだろう。犯罪行為を暴くならともかく、不倫や熱愛などはいいじゃないかと思わずにはいられない。覗き見趣味なのだろうが、私も人に知られたくないことはたくさんある。つい先日も、通勤電車の中で行儀のよろしくないサラリーマンに蹴りを入れたところだし、一般人だから助かっているものの、著名人だったら袋叩きだろう。

 小室氏は、試験に落ちたら落ちたでまた批判される。落ちたと言っても、ニューヨーク州の司法試験であり、英語という壁を乗り越えての受験である。受けるだけでも凄いと、宅建は2回目で、マンション管理士には3回目でようやく受かった私としては思ってしまう。批判する人はさぞかしご立派な資格をお持ちなのだろう。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者だけがこの女に石を投げなさい」とはイエスの言葉であるが、私は小石すら投げられない。公的な立場にいる人は大変なんだなぁとつくづく思う。せめて私は無関心でいたいと思う。

 そんなニュースは衆議院選挙で消された感がある。新聞をはじめとして、メディアは「自民党が絶対安定多数」と報じていたので、自民党が圧勝したのかと思ったが、よく見てみると自民党は議席を減らしている。際立つのは日本維新の会の30議席増。であれば「維新圧勝!」とでも報じるべきではないかと思う。ニュースは印象操作が強い。よく中身を見てみないと騙される好例である。ざっくり言えば、自民党と立憲民主党の票が維新に流れたと言えるわけで、「自民には入れたくないが、立憲民主にも入れたくない」という表れだろう。

     選挙前 選挙後 差異
自民    276    261   ▲ 15
公明     29 32 3
立民 109 96 ▲ 13
共産 12 10 ▲ 2
維新 11 41 30
国民 8 11 3
れ新 1 3 2
社民 1 1 0
N党 1 0 ▲ 1
諸派 1 0 ▲ 1
12 10 ▲ 2 
合計    461 465 4

 立憲民主は野党第一党としての役割をどうも果たせていない。立憲民主党も共産党も自民党のアラ探しばかりで独自の主張が印象として表に出てこない。もちろん、独自の政策もあるのだろうが、メディアに出てくる姿は自民党批判がほとんどである。その点、維新は自民党を是々非々で批判するところは批判し、支持するところは支持している。その内容はともかくとして、独自の信念を感じさせるところがある。今後のさらなる躍進を期待したいところである。

 ニュースはいろいろな意見があって面白いと思う。1つのニュースにも見方によって解釈は様々である。そういうニュースを何も考えずに受け入れるのではなく、これからも自分の意見と照らし合わせながら眺めていきたいと思うのである・・・

Engin AkyurtによるPixabayからの画像 



【今週の読書】