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2024年11月21日木曜日

講演会に出席して

 取引先から講演会に招かれた。講演者はデーブ大久保氏。元ジャイアンツの捕手である。昨年も招かれたのであるが、昨年は河野景子氏。ふだん話を聞く機会のない人の話を聞くというのもなかなか面白いものである。著名人となると、どうしてもその世界の話が多くなる。実は別のところで元プロ野球選手の講演会に行ったのであるが、その時は裏話ばかりで、面白くないとは言わないが、あまり後に残るものでもないというものであった。主催者側は当然費用を払っていると思うのだが、それに見合うものであったかどうかは疑問である。その点、今回は同じ元プロ野球選手でもビジネスに通じるところがあり、為になったところでもある。

 昔話の中で、デーブ大久保氏は小学生の頃に周りにおだてられてプロ野球選手になるという夢を掲げ、毎日素振りを500回かかさずやったと言う。普通の子供にはできないと思う。ちなみにその話をニューヨークで松井秀喜に話したところ、松井は1,000回だったらしい。その差が2人の差だとデーブ氏は笑っていた。さらに後日イチローに同じ話をしたところ、イチローは2,000回だったらしい。実際はどうかはわからないが、やはり名を残す選手というのは、そういう影の努力が凄いのだろうと思う。

 いわゆる「1万時間の法則」とよく言われるが、何か事を始めてそれなりの成果を出すには1万時間のトレーニングが必要だというものである。生まれついての天才などというものはなく、ただ、「毎日素振り500回」といった誰でも簡単にはできるものの、誰にも簡単には継続できないような事を継続できる人が、「天才」と呼ばれるようになっていくのだろう。「毎日素振り500回」は確かにすごいし、だから高校生でも騒がれてドラフト1位指名になるのだろう。それでもさらに上がいるわけであり、凄いなぁと改めて思う。

 私はラグビーをやっているが、それでも高校生で始めて普通にしか練習しなかった。高校・大学・銀行とラグビーを続けたが、ざっと計算しても1万時間に満たないどころか半分もいかないかもしれない。時間だけではなく質もあるから何とも言えないが、普通のレベルであるのも当然である。息子が生まれた時、ラグビーをやらせたいとは思ったが強制はしなかった。小さい頃からテレビ観戦は一緒にしていて、それなりに興味を持ったようだが「痛そう」というところが大きく記憶に残ったようである。

 子供にラグビーをさせている友人・知人は多いが、だいたい訳もわからぬうちからラグビー・スクールなどに入れてしまっているようである。そのまま素直に興味を持って続ければ良しだが、例えばそこで辛い思いをしてしまうと辞めてしまうという弊害もある。あまり熱心に指導したりすると危ないかもしれない。高校でさえ、私の同期で大学に進学したあとも続けたのは11人中、私を入れて2〜3人だった(体育会で続けたのは私のみ)。「ラグビーは練習がきついのでもういい」と思ったようである。

 そんな事もある一方で、誰に言われたわけでもなく、毎日素振り500回を続ける意思の力は凄いと思う。言われて強制されてできるものでもない(やったとしても私の高校の同期みたいにいずれやめてしまうだろう)。あくまでも本人の意思のみが続ける原動力であり、親の立場からすると、それはどうしたら子供の心に芽生えさせる事ができるのだろうと思ってしまう。デーブ氏の子供は野球の道には進まなかったようで(それはデーブ氏が意図したかどうかは聞けなかった)、そのあたりの考え方は聞いてみたかったところである。

 それにしても現役を引退してから各球団の監督・コーチ、野球解説などで活躍し、講演会などにもよく呼ばれているそうである。ある程度の著名人でないと講演会にも呼ばれないだろうが、ただ内輪ネタだけだといずれ呼ばれなくなるだろうし、話の内容も工夫しているのだろう。ネタも意識して仕入れているのかもしれない。そもそも「デーブ」という現役時代の「デブ」からきたニックネームをうまく芸名のように取り入れているところがうまいなと思う。本名ではわからない人も多いだろうと思うが、デーブとつく事で認知度は上がると思う。

 そんな自分ブランディングも、講演の内容も、飲食店を経営しているとさり気なくPRしているところも、現役引退後に野球以外の生きていく道をうまく作っているように思う。いろいろと参考になるところが多い講演会であった。来年もまた呼ばれるだろうが、次はどんな人か楽しみにしたいと思うのである・・・


【本日の読書】

「食」が動かした人類250万年史 (PHP新書) - 新谷 隆史  砂漠と異人たち/宇野常寛(著者)





2024年9月16日月曜日

伯父の一周忌

 伯父の一周忌の法要に不死身の父の実家を訪れた。伯父が亡くなってはや一年である。中央道の渋滞に巻き込まれ、法要には出席できず、墓参りから参加。長年、先祖代々の墓にはこれといった墓石がなかったが、とうとう従兄弟が建てたので、そのお披露目も兼ねてである。伯父の墓以外にも曽祖父や祖父母などの墓石も一つ一つ作られていて、なぜよくあるように一つの大きな墓石にしないのだろうかと思ったが、考えてみれば30年前の祖父は土葬だったので、遺骨を簡単に移せないという事情もあるのだろうと考えた。

 法事には兄弟とその家族が参加した。次男の父と家族4人、三男の娘夫婦、四男、長女と娘、次女と息子。葬儀とは違って身内だけ、しかもその一部。それも仕方あるまい。さすがに葬儀とは個人との最後のお別れであり、万難を排して参加するものだろうが、一周忌はそれほどではない。そして三回忌は故人の家族だけで行うと早くも宣言された。皆の負担を考慮したのであろう。父も四男も1人では参加できないし、三男は認知症で施設に入っている状況ではそれも仕方ないのだろう。

 みんなでささゃかに食事をして法事はお開きとなった。今さらながらであるが、日本の死者に対する慣例は仏事に即している。葬儀も宗派のお坊さんが来てお経を上げ、戒名をもらい、葬儀と同時に初七日の法要を行う。そして四十九日、一周忌、三回忌、七回忌と続く。死者を手厚く悼むという事では宗教儀式としての仏教は密接な存在であるが、今や忙しくなり、しかも高齢となった現代人は、葬儀と共に初七日の法要を行い、一周忌までしかやらないというのもやむを得ないのかもしれない。伯父の三十三回忌など、自分が生きているのも怪しいから仕方ないと言える。

 この機会にと、いとこ3人とLINEを交換した。今後何か必要があるかもしれないと考えたのである。するとそれを機に、ライングループ「いとこ会」が6人で立ち上がった。父方のいとこは確か8人であり、6/8の参加率はなかなかかもしれない。これに対し、母方のいとこ会もあるが、こちらは7/13である。今さらながら、昔は兄弟が多かったのでいとこの数も多い。我が子など、従兄弟は2人しかいない。それも元々交流が薄くてほとんど会う事もない。なんとなく可哀想な気もする。

 母方のいとことは、子供の頃から一緒に遊んでいるので今でも仲が良い。それに対し、父方のいとこは昨年、数十年ぶりに会うという有様だった。やはり子供は母親と行動を共にするし、母と娘は仲が良いからどうしても交流は母方の方が多い。我が家も例外に漏れず、子供たちは私の両親とは年に1〜2回会う程度である。妻の実家との接触頻度とはだいぶ差がある(しかし、義妹に子はなく従兄弟がいない)。子供たちがいとこ会を作ることはないような気がする。いとこの交流を促したのは伯父の残した遺産かもしれない。

 食事会が終わって父の実家に顔を出した時、父はおもむろにひとり散歩に出かけた。しばらく帰ってこなかったが、カメラ片手に付近を散策したらしい。父は今でも「富士見に住みたい」と言う。現実的にはもう車に乗れないし、家事もおぼつかない母と2人で富士見に住むのは無理がある。息子に甲斐性があって、お手伝いさんでも雇えればいいが、そうもいかない。残念であるが、諦めてもらうしかない。それにしても、87年の人生で15年しか住んでいない故郷が70年以上暮らしている東京よりもいいと言うのが故郷の意味なのだろうか。

 中央道は関越道に比べて渋滞が酷である。父をなるべく故郷に連れて行きたいと思うが、どうしてもそれが心のネックになる。そんなネックはあるものの、いとこ会も立ち上がったし、葬儀以外で共通の祖父母を持つもの同士、たまに集まるのも良いかもしれない。これからそんないとこ会の音頭取りをしてみようかと思うのである・・・


svklimkinによるPixabayからの画像

【今週の読書】
戦争と経済 舞台裏から読み解く戦いの歴史 - 小野圭司  汝、星のごとく - 凪良ゆう





2024年4月11日木曜日

同窓会

 昔の支店時代の同窓会に出席した。その支店には、私が銀行に入って2年目の1989年11月に初めての転勤で赴任したのである。集まったメンバーはその時の支店長、次長を初めとして、当時の私の上司、先輩、同僚の女性ら12人である。支店には継続的に大勢の銀行員が転入転出する。同窓会と言っても支店経験者でいけば数限りない。大概、ある支店長を中心にした集まりとなるのが通例であるが、昨日も同様であった。当時の支店長は私の着任後、数か月後には転出されており、実際に一緒に仕事をした期間は短かったが、それでもギリギリ対象としてお誘いいただいたのである。

 もうすでに35年ほど前になる。当時の支店店舗は、今はもう取り壊されてマンションになってしまっている。昔話に花が咲く。私も20代だったし、最年長の次長も40代後半。みんな今の私よりはるかに若かった。面白いもので、お互いに話をしていると、忘れていた記憶が戻ってくる。当時、私の仕事上の責任は軽く、支店経営の懊悩など知るよしもなかったが、次長が業績表彰に入れなかった事を悔し気に語ってくれた。私は入行から12年間で4ヵ店を経験し、以後は支店勤務から離れたため、支店経営には携わっていない。自分の経験していない苦労の一端を伺えたところである。

 幹事を務めたのは私の直属の上司であった方。正直言って、その方が幹事だったから参加したと言っても過言ではない。仕事で成果を挙げるためには、人間性など二の次という考え方もあるかもしれないが、仕事を離れてもなお「お会いしたい」と思われるのは人間性以外にない。「仕事の切れ目が縁の切れ目」となるか否かは、その上司の人間性にかかっているとつくづく思う。強権政治で部下を厳しく管理して成果を挙げさせるのもやり方であり、否定すべきものではない。給料をもらうのは成果に対してであり、人間性に対してではない。ただ、「仕事の切れ目が縁の切れ目」となるか否かだけである。

 35年も経つといろいろな変化がある。今回、幹事の元上司は約30人ほどに声をかけたそうである。行方のわからなくなっている者もいれば、物故者もいる。亡くなった方の名前を聞いて、それほどの年でもないのにと思わずにはいられない人もいる。35年後にはこの世にいないなんて当時は想像すらしなかったが、一時期、同じ職場で働き、会話をした間柄としては、何とも言えない気分になる。そこでもやはり深く残念に思うのは人柄の良かった人であるのは同じである。あまりいい印象を持っていない人については、「あぁ、そうなんだ」という程度でそれほど感慨はない。

 今回の楽しみの一つは女性陣との再会であった。当時はお互いに20代だったわけであり、当然異性としての意識は大きくあった。当然ながら35年経つとみんなそれなりの年齢になっており、世間的にはおじさん、おばさんなのであるが、「相対年齢」は変わっていない。今も昔のイメージのままであり、当時と同じ感覚が生きている。若手同士でしばしば旅行に行ったこともあり、それらの思い出も蘇る。その支店時代で一番楽しかったのは、90年代に入って私の下の年次が増えてからである。次の支店長の時代であり、昨日の集まりとはちょっとズレている。そこが残念であったとも言える。

 それにしても、今はお互いに何の遠慮もない関係のはずであるが、やはり支店長は今でも支店長であり、当時若手だった私からすると今でも精神的な距離感はある。世間的にはもう引退されているが、こうして集まると今でも「支店長」なのである。「支店長」は「支店長」であり、「次長」は「次長」であり、この関係はずっと変わらないものなのかもしれない。今では半数以上の方が引退されており、まだまだ働かないといけない我が身からすると羨ましい限りである。

 「またやろう」ということで散会。次はいつになるかはわからないが、個人的には「係」レベルで集まりたいと思う。年齢を経れば、歩いてきた道の方が長くなる。こういう機会も増えてくるが、まったく集まることのない集まりもある。幹事を引き受ける人次第というところもあるが、せっかく続いているのだし、次回があるならまた参加したいと思うのである・・・



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【本日の読書】

脳の闇(新潮新書) - 中野信子 三体 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 光吉 さくら, ワン チャイ, 立原 透耶




2023年9月27日水曜日

伯父の葬儀

 長野県の富士見に住む伯父が亡くなった。敬愛する祖父が亡くなって29年。とうとう、次の世代の順番が回ってきたという事だろう。88歳という年齢は、まだまだという気もするが、平均寿命は上回っており、ここまで生きれば幸せと言っても良いと思う。無口で酒も飲まず、真面目で慎重な性格は、一方で穏やかな人柄でもあった。生まれてから一度も引っ越しを経験することなく、生涯を生まれた家で過ごした人生はいかがなものだったのだろうかと思う。波乱万丈とは正反対の静かな人生だったように思う。

 葬儀となれば、親戚が集まって来る。伯父を含めつい最近会ったと思っていた親戚も、考えてみればコロナ期間の自粛もあり、会うのは4年ぶりである。4年前は伯父も元気だったし、今回の知らせは意外だったが、4年はやはり長いと思う。久しぶりに会った義理の叔父は、いつの間にか小さくなっていた。痩せたせいか顔も変わっていて、おまけに軽度の認知症の症状があるとかで、その行動がどこかおかしなところが多かった。叔母たちも同様に、当たり前だが年を取っていた。

 今回は従妹にも会ったが、いつ以来だろうかと考えてしまった。母方とは違い、父方の方はあまり交流がなく、40年近く会っていなかったかもしれない。そうなると、名前こそ知っているがほとんど「初めまして」の世界である。それでも共通のバックボーンがあるから、まだ話には入っていきやすい。葬儀だからと言って、湿っぽさはなく、どちらかというと楽しいおしゃべり場になってしまった。まぁ、伯父もワイワイやっているのを目を細めて見ていてくれただろうと思う。

 長野県の富士見町の中でも、父方の実家は原村という村にある。標高1,100mの地であり、東京とは気温が違う。日中は半袖でも十分だが、日が落ちると急速に冷えてくる。東京の感覚でいると風邪を引くかもしれない。標高が高いせいだろうか、夜空に輝く星の数も東京とはくらべものにならない。そして街灯がないから、明りは近所の家の窓からもれるものだけ。11時を過ぎるとそれもほとんどなくなるから真っ暗になる。しかし、それでもほんのりと明るいのは月が出ているから。こういう所に来ると、「月明り」という言葉の意味を実感する。

 通夜は本家で行われた。本家もそれなりの広さがあるから可能なのである。そう言えば叔母の結婚式も同じ本家の同じ部屋でやったのを覚えている。昔はみんな家でやったのだろう。もう50年も前の事で、その時しおらしく俯いているだけだった叔母も、今は皺も目立つ田舎のおばあさんだ。通夜では喪主もみんな喪服は着ない。東京の通夜の感覚に慣れていると戸惑うことになる。そしてチラホラやってくる弔問客も近所の人なのだろう、普段着である。私は戸惑いつつも着替えずに済ませた。

 翌日、棺に釘を打ち、火葬場へと移動する。火葬場は隣の茅野市であり、車で30分以上かかる山の中であった。29年前の祖父の葬儀の時は土葬であった。私もかなり驚いたが、今ではさすがに火葬である。しかし、後発だったのだろうか、火葬場が作れなくて隣の市のを利用しているのかと想像した。告別式は真言宗の僧侶が来て執り行われた。斎場はJAのホール。「なんでJAが」と思うが、農家ばかりのこの辺りではそれだけJAが生活に密着しているのだろう。弔問客もみんなJAの担当者と顔見知りのようであった。僧侶も故人のことは良く知っていたそうで、田舎の人間関係の濃さがうかがい知れた。

 亡くなった伯父には私と同じ歳の息子がいる。同じ歳の従弟として会えばよく遊んだが、今は独り身である。やがて我々の番が回ってきた時、誰が従弟の喪主になるのかと考えると、誰もいない。その時、主がいなくなった本家や代々の墓はどうなるのだろうか。我々の後のことだからどうなるのかはわからないが、普通に考えれば国庫に行く事になる。代々の墓も朽ち果てていくのかもしれない。その晩、伯母が従弟のいない所でその胸中を涙ながらに語ってくれた。日本の多くの家でそういう問題がこれから益々増えていくのだろう。

 父方の親戚は昔からあまり付き合いの頻度は高くない。母方の親戚の濃度と比べると大きく異なる。それはやはり母親と行動を共にすることが多かったからに他ならない。自分自身の身を振り返ってみても、子供たちが実家へ行く頻度は妻の方がはるかに多い。男は損だなと改めて思う。従弟も母方の従弟と同じくらい親しければ、墓の話も突っ込んでできたかもしれない。本人のキャラクターにもよるが、伯父に似て真面目で酒も飲まない従弟とは、どうも一歩踏み込んでいけない壁のようなものがあるのを感じる。

 とは言え、次回49日の法要に行くことになるだろうから、じっくりと話をしてみようか。そんなことを考えながら帰路に着いた。昔の賑やかだった本家の様子が今でも目に浮かぶ。飲んべえだった叔父もいつの間にか飲めなくなったとつぶやいていた。「諸行無常」という言葉の意味をつくづくと思うのである・・・


【本日の読書】

明と暗のノモンハン戦史 - 秦 郁彦 世界最先端の研究が教える新事実 心理学BEST100 - 内藤誼人 








2023年8月10日木曜日

スナック

 先週は夏休みであったが、ここ数年恒例となっている「温泉+墓参り+従兄弟との飲み」をまた今年も繰り返してきた。母親を連れての旅であり、「温泉+墓参り」は親孝行の意味が強い。個人的には1歳年上の従兄弟と飲むのが楽しみであった。母を交えて夕食を食べた後、従兄弟と2人で夜の街に繰り出す。長野県の佐久に住む従兄弟と行ったのは、とある田舎の駅近くにある従兄弟の行きつけのスナック。そこは昼は閑散とした寂しい田舎の駅前通りだが、夜ともなるとネオンが輝き出す。ずらりと並んだスナックの看板の灯る路地は、昔懐かしい昭和の香りが漂う。

 昨年、行ったスナックは残念ながら満席。昨年席についてくれた女の子(?)が、私の顔を覚えてくれていたのはちょっとした驚きであった。泣く泣く違う店へと行く。そこは私にとっては初めての店であるが、従兄弟は「顔」であった。あちこちに行きつけの店があるようで、一体、どれだけ通っているのかと思うほどである。席に着けば女の子(?)がボトルを出してきてくれて、つまみを置いてくれる。大概、つまみは乾き物なのであるが、奈良漬などの漬物も出してくれる。意外と美味しいのは、田舎だからだろうかと思ってみる。

 考えてみれば、若い頃はよくみんなでスナックに飲みに行ったものである。そこで飲んで歌っておしゃべりに興じる。女性陣も参加していたが、楽しいひと時であった。飲みに行くとなると、だいたいスナックだったと思う。そして考えてみれば、東京ではもう随分長いことスナックには行かなくなってしまった。年齢を経てくると、だんだん会社の仲間と飲みに行くのが億劫になってきたのと、大手町界隈にはスナックがなく(あったのかもしれないが目につかなかった)、行くのはもっぱら居酒屋であり、その後カラオケルームというパターンになっていった。

 そんなわけで、長野県の片田舎にある街のスナックは随分と懐かしい気がするのである。初めて行ったその店では、「女の子」と言っても孫がいそうなので年齢を聞くのも野暮というもので、ママなどは「この道50年」と豪語していた。最後に席についてくれたのは30代前半のようやく女の子と言える女性であった。従兄弟は酔いも手伝ってか、かつてファンであったというキャンディーズを熱唱。私も好きであったから、流れる映像もまた懐かしいものであった。「おじさんが好き」というその女の子は当然知らない。引退したのは生まれる前である。「おじさんが好きなら、覚えると人気が出るよ」と教えておいた。

 周りを見回せば、お客さんは白髪の「紳士」が多数を占めている。この道50年のママでもいいのだろう。1人で来ている人もいる。私もかつて行きつけの店を持って1人静かに飲みに行くのもいいかなと思ったが、今のところそんな行きつけの店ができそうな気はしない。家の近所でも探せばスナックぐらいはあると思うが、なんとなくいきなり1人で行くのには抵抗があるから、たぶんそんな店はできないような気もする。こうして夜な夜な飲み歩いている従兄弟がちょっと羨ましい気がした。

 楽しい時間はあっという間に終わり、お愛想となる。18,000円。焼酎ボトル1本と乾き物と漬物の飲み代にしては高いのもスナックならではだろう。そして従兄弟は代行で帰る。田舎は車社会。飲んだら帰りは代行が当たり前。そう言えば、若い頃はいつもタクシー帰りだった。終電の時間など気にもしなかった。結構散財できたのは、独身貴族だったことも大きい。今思い返してみても楽しかったと思う。この田舎町のスナックもまた来年、と思う。長野県は第二の故郷とだと思っている。来年もまた「里帰り」しようと思うのである・・・

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【本日の読書】

  



2022年6月27日月曜日

質疑応答が自問自答に変わる

 いつもお世話になっている母校の社会人向け勉強会で、某著名人の方の講演会に参加してきた。上場企業の創業他とても真似できないような実績を残していらっしゃる方で、この機会に質問しようとしていたことがあった。しかし、他の人が以外にも質問の手を挙げていて、なんとなく機会を伺いながら自分なりに考えていたら、いつの間にか答えに達してしまっていた。それでも自分の答えと比較するためにも質問すればよかったのだが、控えめな性格が災いしてとうとう聞かずじまいだった。そんな自分に呆れながら、せっかくなのでその考えをあらためてまとめてみることにした。

 質問したかったのは、新しいことをやろうといろいろと会社で提案するのだが、必ずといって良いくらい抵抗に遭う。抵抗は良いと思う。それもその人の意見であり、自分と違うからといって否定的に考えるべきものでもない。真摯に受け止め、それをどうクリアするか考えれば良いだけである。そういう抵抗をどう考えるかを聞いてみたいと思ったのである。

最近、抵抗を受けたのは以下の二つ。
1. 業績連動性の福利厚生の導入
2. 技術を評価する新たな制度(公的資格、社内資格の創設)の導入

  いずれも若手を中心に人事面談を実施し、会社への帰属意識が希薄下する懸念、業績への無関心、給与への不満等を解消するため、そして会社の生命線である技術力の向上を図る必要性を感じてのものである。なんの問題もないように思うが、それでも反対論は出る。いわく、「利用できない者がいる」「仕事そっちのけで資格取得を目指す者がいる(いた)」。いずれもごく少数の例であり、個人的には反対意見として不十分だとは思うが、ご本人は大真面目であるから無視するわけにもいかない。

 そもそもであるが、反対される所以は一つには個人の価値観の違いがあると思う。考え方の問題もあるし、立ち位置の問題もある。まずはなぜ反対するのかを考える必要がある。1の場合は、人事面談を実施する中で、私が抱いた危機感を共有できていないということがある。それに一社員が業績に関心がなかったとしても仕方がない(会社の業績なんか知る必要もない)と考えているのかもしれない。福利厚生費としての支出に対する懸念かもしれない。一つの解決策としてまずそこの意識合わせが必要だということは言えるだろう。

 2の場合、そもそも仕事に資格はあまり役に立たないという意識はある。それは私も思い至るものがある。私の持っている「宅建」も「マンション管理士」も実務上の役に立つものだとは言い難いものがある。しかし、実際に経歴書には各人のスキルが掲載されるわけで、それが受注に至ることは現実である。ならば国家資格などではなく、そういう実際のスキルを評価する仕組みに変えるのも良いかもしれない。仕事そっちのけという問題については、資格は評価し、仕事は評価減とすればいいだけだろう。

 これ以外にも、船に喩えるなら社長は船長であり、操舵室にいるものである。取締役ももちろん操舵室にいて、船が進むべき進路を決める役割がある。しかし、事業部長を兼務していたりすると、しばし取締役としてよりも事業部長として発言したりすることがある。操舵室ではなく機関室で意見を言うのと同じで、「見ている景色」が違うから意見が合わないのも当然である。船が進むべき進路とスピードを指示する船長に対し、機関室の負担が大変だと返答するようなものである。もちろん船長はそれも考慮するべきであるが、同じ景色を見ていたら、それでも機関室の問題はなんとかしようと考える方向に行くかもしれない。

 議論は一度で結論に至る必要は必ずしもない。まずはお互いの考え方のすり合わせから始めるのも良いかもしれない。反対意見は飛行機の向かい風にしばしたとえられる。向かい風がなければ飛行機は飛び立てない。そう考えて反対論にいちいちストレスを感じていても仕方がない。冷静に反対論の内容を分析して対応策を考えていくしかないだろう。新入社員からスタートして、取締役になったのはサラリーマンとしては成功だが、事業部長の延長の意識しかないところはある。「取締役とは」という教育訓練を受けていないという原因もあるかもしれないし、それであればまずそこから始めるべきだと思う。

 かくしてみんなの質疑応答を聞いているうちに、自分自身も結論に達してしまった。こういう思考訓練も良いかもしれない。こういう事は、実はよくある。講演会などで最後に質疑応答コーナーがよくあるが、質問を考えているうちに自分自身でそれに対する解答も考えてしまい、いざ質問しようとするとわざわざ人に聞きたいとは思わなくなってしまうのである。それでも質問すれば自分とは違う回答が得られて、そこからまた新たな気づきを得られるかもしれないので、聞くのは悪くないと思う。引っ込み思案な性格も時にはなんとかしないといけないかもしれない。

 いずれにしても、一度くらいで諦める気は毛頭ない。次の機会にまた対案を練って再提案をしようと思う。見事通れば拍手喝采。そんなことを考えると、会社に行くのがまた楽しくなるなと思うのである・・・



【本日の読書】

 



2022年6月13日月曜日

法廷バトル

 何事も考えてやるということは重要である。ただ闇雲にやればいいというものではない。我々の資本主義の世界は、考える者のところにお金が集まってくると思う。それはお金を生み出す方法然りであるが、それ以外でも、であるとこの頃つくづく思う。元勤務先の社長との法廷バトルではつくづくそんな思いにさせられる。先方は金に余せて弁護士を立てて訴えてきているが、こちらは「法律相談」で弁護士にアドバイスをもらいつつ、基本的には独力で対応している。「考えれば」高いお金を払わなくても済むのである。

 

 弁護士も得手不得手がある。医者だって免許は一緒でも外科や内科などと専門に分かれている。弁護士だってそうだろう。こちらがラッキーだったのは、どうやら相手の弁護士が債権回収の経験があまりないのだろうというところ。訴訟は基本的にかつての勤務先とそのグループ会社間でのもの。私がかつて新規事業を展開するために設立するよう提案した会社を、首を宣告されたのを機にそのまま元社員4名と共に独立させたものである。その会社は、元の勤務先に借入金があったが、滞納した瞬間に(正確には3週間後に)訴えられたのである。

 

 滞納した理由もカード不良のために振込ができなかったというもので、次の月末には払うと告げていたのであるが、面白くなかったのであろう、弁護士を立てて取り立てに来たのである。まるで闇金まがいの取り立て行為である。しかし、普通であれば、まずは預金の仮差押がセオリーであるが、相手の弁護士は債権者破産を申し立ててきたのである。いきなり仮差押をされていたら預金を押さえられてしまってアウトだったが、そうしなかったのは明らかに手落ちである。私も銀行員時代に債権回収を手掛けていたが、こんなお粗末なやり方はしたことがない。どうやら運はこちらにあると感じる。

 

 裁判所から「審尋期日呼出状」なる仰々しい物が届いてさすがに焦ったが、冷静に「考え」、要は「破産状態にない」ということを裁判所に疎明するだけでいいのだと要点を理解した。一応、弁護士をしている後輩に1時間10,000円の費用で弁護士相談に乗ってもらい、準備をした。ネットで検索して「答弁書」を見よう見真似で書き上げ、当日持参。裁判官も弁護士もつけずに1人できた私に、相手の弁護士の発する法律用語を「わかりますか」と優しく翻訳してくれる。同席していた書記官も後でこっそりアドバイスをしてくれた。味方はしてくれないが、知らないことによる不利益がないようにしてくれたのである。

 

 訴えた元勤務先の社長は、自分では基本的に考えない人であった。すべて任せて丸投げというタイプ。弁護士に対してもすべてお任せなのだろうと推察される。私であれば、まず弁護士には経験を問うところから始める。債権回収の経験はどのくらいあって、今回はどういう方法をとるのか。専門家だからと言ってそのあたりは怯まない。どういう方法を取り、それはどのくらいの効果があって、どういう風になると失敗するのか、そのあたりをじっくり聞くだろう。弁護士はあくまで「代理人」である。一応、「先生」とは呼ぶが、「代理人」は「代理人」である。主は自分である。

 

 元社長は、目の前に出されたものを見て判断する思考方法。しかし、それでは思考範囲が限られてしまう。私はこうした目の前に出された物だけで考えるのを「井の中の蛙思考」、あるいは「条件反射思考」と名付けている。だが、物事を深く考えるにはこれではいけない。「それ以外に何かないのか」と考える。あるいは、「今がいいのか、後の方がいいのか」と考える。前者はいわゆる水平思考というやつだと思うし、後者は時間軸思考だ。人間誰しもたくさん知識があるわけではない。それでいてしっかり考えるためには、「それ以外に何かないのか」と問いを立て、人に聞き、自分で調べて可能な限り広い範囲で考えるしかない。

 

 回転寿司にたとえれば、目の前に回ってきた中トロにすぐに手を出すのではなく、「これは握りたてか、そうでないなら個別にオーダーして握りたてを食べようか」と判断する(水平思考)。あるいは、中トロよりもその日のオススメの方がいいものがあるかもしれない。また、先に寒ブリやサーモンを食べてある程度食べてからにしよう(時間軸思考)かと考えるようなものである。もちろん、「チャンスの女神は前髪しかない」と言われるから、考える間に飛びつくのも大事だと思うが、それはケースバイケースで判断するつもりである。

 

 裁判所は公平である。孤軍奮闘の私に裁判官が同情したわけではないと思うが、こちらの主張が受け入れられ、まずは破産認定は回避した。元社長が弁護士費用にいくらかけたのかはわからないが、たぶん100万円くらいはかかっているだろう。それに対し、こちらは法律相談を2回、合計2時間で22,000円。ホームページを見ると1時間あたり15,000円となっているから、「先輩価格」なのだと思う。「先輩の役に立てるだけで嬉しい」と言ってくれて、こちらも「費用は払う」と言っているが、いまだに請求書が送られてくる気配はない。


 元社長は諦めきれずに次の「貸金返還請求訴訟」を提起してきた。これから法廷バトル第二幕。引き続き、弁護士は立てずに孤軍奮闘予定である。こういう経験も得難いものだと思う。あれこれと考えるのは楽しいことであるし、怒りという負のパワーに駆られてダークサイドに落ちないようにしたいと思う。金はないけど「考える」という武器はある。この武器をフル活用して法廷バトルを楽しみたいと思うのである・・・

Kai ReschkeによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

  




2021年8月12日木曜日

東京オリンピック雑感

 東京オリンピックが閉幕した。金27、銀14、銅17の計58個のメダルは、日本史上最高だと言う。地元だから特に何か有利になるとも思えないが、開催国として関係者一同の力がみなぎったのだろうか、それとも特別な国の後押しがあったのだろうかと思ってみる。何にせよ、喜ばしいことである。当初は、主に資金的な理由からオリンピック誘致には反対であったが、決まってしまったものは仕方ないというスタンスでいた。実際にかかった費用は、当初の見積もりの倍以上の1兆7,000万円だったという。

 しかし、開催の時期が近づき、いよいよチケットの販売も始まると事情が変わる。実家の母親が観に行きたいとつぶやき出したのである。前回の東京オリンピックの時、ちょうど私が生まれている。両親はともに無一文で田舎から出てきていて生活にゆとりなどなく、狭いアパートに住んで子育ても必死だったようである。父も夜遅くまで残業の毎日で、とてもゆっくりオリンピックなど楽しんでいる余裕などなかったそうである。なので今回はそのリベンジとなるわけで、「チケットが取れた」と知らせた時は大いに喜んでいたのである。

 ところが、思いもかけないコロナ禍で無観客試合となり、残念無念。母もがっかりしていた。本来であれば、やはりバレーボール好きの叔母と一緒に行けるように、当日は運転手に徹するつもりで手はずを整えていただけに、無観客試合は私自身も残念であった。それでも母はあれこれとテレビで観戦していたようである。バレーボールのチケットが取れ、母親が楽しみにしている姿を見て、それだけで東京オリンピックはやってよかったと思う。共産党などは、閉幕まで「反対!」と唱えていたが、たぶん自民党政府が開催中止としていたら、開催賛成と主張したのだろうと思う。

 私は、と言えば、もともとオリンピックにそんなに興味があるわけでもない。それでも柔道やレスリングや水泳なんかは(時間があれば)見ていたいと思ったが、悲しいかなそういうのんびりとした時間がなく、ほとんどチラ見した程度であった。「時間がない」とはビジネスマン的には禁句だが、正確に言えば、「優先順位を上げられない」である。平日は平日で、家に帰ってきてもやりたいことがある(それにチャンネル権もない)。週末はラグビーの練習があったり、実家に顔を出して料理をしたりという有様。裏でやっていたラグビーのブリティッシュ&アイリッシュライオンズの南ア遠征の各試合すらろくに観られなかったのだから余計である。

 ブリティッシュ&アイリッシュライオンズは4年に一度イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの代表から選抜されて結成される「全イギリス」というべきチームで、前回のラグビーワールドカップ日本大会の覇者南アに遠征して、南アの代表チームと3試合、南アのプロチームと数試合対戦するという垂涎モノだったが、これも2試合(あと1試合は録画したまま)しか観れていない。大好きなラグビーですらその有様なのに、オリンピックに割く時間など取れなかったのである。まぁ、仕方ない。

 続いてパラリンピックがあるが、これはもう論外。初めから見たいとも思わない。障害者スポーツが悪いとは思わないし、むしろ積極的に好ましいと思うが、だからと言って観たいということにはならない。障害があってもスポーツができるということは素晴らしいことで、それを地域に止めるのではなく、パラリンピックという最高の舞台を用意することは、障害者にも夢を与えるし、素晴らしいことだと思う。ただ、個人的にそれを観たいかとなると、興味がないというだけのことである。高校野球よりもレベルの高いプロ野球の方が面白いのと同様、どうせ「観るならオリンピック」なのである。

 前回の東京オリンピックは、スポーツの秋10月10日に開幕し、ゆえにその日が長年「体育の日」として親しまれてきた。されど今回は真夏の祭典。何でそんなバカな時期にやるのかと素人的には思うが、それは最大のスポンサーであるアメリカのテレビ局の意向なのだとか。秋になれば自国のスポーツが目白押しとなるから、それを回避したかったのだとか。真偽は定かではないが、実際、大会費用の7割はアメリカのテレビ局が出しているらしいから、実に理屈に合った話であり、個人的には真実であると思っている。アスリートや観戦する人たちのことは二の次、それが資本主義の言うなれば欠点なのだろう。

 それにしても毎回オリンピックのたびに思うのだが、オリンピックの1つの意義としては、マイナースポーツに陽が当たることではないかと思う。野球やテニスはそれだけで成り立つが、フェンシングやアーチェリー、カヌーなんかの競技はほとんど目にする事はない。そうしたマイナースポーツにも(多少の)陽が当たるのはいい事だと思う。そういう意味で、金メダルは取れたが、野球のプロ選手の参加は如何なものかと個人的には思う。サッカーもそうだが、ワールドカップクラスの試合がある競技は、なくてもいいように思う。その分、マイナースポーツにもっとスポットライトを当ててもいいのではないだろうか。

 オリンピックは観戦できなかったが、母は孫(つまり私の息子だ)の野球をネット中継で観られて喜んでいた。今は高校野球は一回戦からテレビかまたはネット配信で試合が観られる。スマホの画像をテレビに転送して観ていたが、思いもかけぬ「観戦」に大喜びであった。残念ながら二回戦で敗退だったが、「次はいつ?」と聞く有様であった。まぁ、ラグビーに進まなかったのは残念だが、代わりに孝行してくれたので良しとしたい。やっぱりオリンピックよりも孫なのだろうか。あと2年は母を楽しませて欲しいと、楕円球ではなく白球を追う息子にエールを送りたいと思うのである・・・



【本日の読書】
  


2020年3月15日日曜日

アナスタシア鑑賞記

 先日、東急シアターオーブにミュージカル『アナスタシア』の鑑賞に行ってきた。折からコロナウィルスによる自粛ムードの中、なんと3日間だけ公演が行われたものである。翌日から再び公演中止になってしまったので、誠にラッキーと言えばラッキーである。これも日頃の行いが良いせいであろうかなどと思ってみたりする。

 いつものことであるが、観たいと思った映画やミュージカルや読みたいと思った本の知識はなるべく入れないようにして臨む。故に今回もストーリーなど何も知らない状態での鑑賞であった。とは言え、アナスタシアとは「ロシアの革命で殺されたロシア皇帝の悲劇の皇女」という知識ぐらいはあった。そして「実は生きていた」という伝説があったのも知っている。そんな教養レベルの事前知識で会場に向かう。

 公演に際しては、事前に「キャンセルしたければ可能」「マスク着用(推奨)」「入り口で体温チェックし、37.5度以上あった場合は入場お断り」などの注意がなされていた。主催者としては中止にしたくはないだろうから、効果はともかく、パフォーマンスとしては必要な配慮だと言える。それでも会場内はほぼ満員。みんな心のどこかで「大したことない」「大げさ」だと思っているのだろう。そういう私もそう考えたクチで、キャンセルなどハナから考えもしなかった。

 ストーリーは帝政末期のロシアから始まる。アナスタシアは、皇帝ニコライ2世の娘として何不自由のない生活の中、パリへ帰る祖母と別れる。しかし、それがアナスタシアと祖母マリア皇太后との長い別れとなる。革命が起き、両親と兄弟を殺されたアナスタシアは記憶を失い、アーニャという名前で生き延びる。アナスタシアが生きているという噂はロシア国内はもとより、パリの皇太后の耳にも入り、皇太后は懸賞金をかけてアナスタシアの行方を求め、ロシアの革命政府もまた、殺し損ねたアナスタシアを殺害するべくこれ追う。

 そんな中、アナスタシアにかけられた多額の懸賞金を狙った2人の詐欺師が、アーニャと知り合い、これを利用しようとする。つまり、アーニャをアナスタシアに仕立て上げ、懸賞金をいただこうというもの。一方、政府から命を受けた役人のグレブはアナスタシアを追うが、実はアナスタシアが生きていたのは、グレブの父が幼いアナスタシアを殺すのに忍びなく、密かに逃がしていたという経緯がある。こうしてアナスタシアを巡り、それぞれの人々の思惑を秘めて、物語はサンクトペテルブルクからパリへと舞台を移して進んでいく・・・

 実際の歴史ではアナスタシアは家族共々無残にも殺されてしまっている。しかし、伝説が生まれたという背景には、まだうら若いアナスタシアが殺害されてしまったことに対する世間の同情心があったのだろう。革命には革命の理論があるが、それでもせめて罪は(あるとしたら)皇帝までだろう。理不尽の極みである東京裁判でさえ、死刑判決は戦犯とされた本人のみである。フランス革命すらルイ16世の子供らは処刑されておらず(マリー・アントワネットは恨みを買ったのかもしれない)、ロシアの革命政府の残忍さが伺える。

 実際の歴史にフィクションを交えるやり方は『ベルサイユのばら』もそうだったが、なかなか面白い。ストーリーも実際の歴史と辻褄を合わせて終わる。これによればやっぱりアナスタシアは生きていたのかもしれないという夢が残る。少なくとも、家族もろとも無残にも殺害されたという残酷な歴史を見せつけられるよりはいい気がする。ミュージカルなんて夢のあるものだし、無残な現実を晒しだすよりもいいだろう。エンターテイメントという意味では、面白いストーリーであった。

 出演者も実は交代で演じているらしく、主役の1人が「千秋楽」ということで最後に舞台挨拶があった。1ヶ月ほど稽古期間があったらしいが、不可抗力とは言えわずか3日間で終わってしまったのは残念だっただろうと思う。思えば競争の激しい世界だろうし、舞台俳優も大変だろうと思う。ついつい収入はどのくらいなのか、みんな生活できているのかなどと考えてしまう。それでも万雷の拍手を浴びるのは気持ちのいいことだろうと思う。9,500円もしたA席とは言え、3階席で舞台からは遠く、表情がよくわからなかったのが残念ではある。

 映画もいいが、こうした生の演技、生の演奏で観るミュージカルはちょっとした贅沢感が味わえる。次は6月に行く『ミス・サイゴン』。これも日頃路の行いを正しくしつつ、楽しみにしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
  
  
   

2019年12月18日水曜日

同姓の他人

私の名字はわりと珍しい方である。なにせ今日まで55年生きてきて「同姓の他人」には2人しか会ったことがないくらいである。と言っても、全国で希少というほどではなく、たとえば以前の職場(銀行)では名簿を見ると5人くらいは名前があったし(でも会ったことはない)、高校の同窓会の名簿を見てもそのくらいの人数の「他人」はいる。また、たまたま通りかかった家の表札を見かけたこともあるから、全国的にはそれなりにいるとは思う。ただ、会うのは珍しいほど少ないということであろう。

過去に直接お会いした2人の「同姓の他人」うち、1人はトヨタの修理スタッフをしていた人で、当時乗っていたカルディナを購入した店舗に持って行った時に偶然お会いした。もう1人(というか家族)は、なんとグアムのプールでであった。当時小学生の我が息子が、名前入りの帽子をかぶって走り回っていたところ、それを見た相手家族の奥さんが「珍しい!」と声を掛けてきたのである。わざわざ異国で見ず知らずの他人に話し掛けたくなるくらい珍しいという証明である。「佐藤」さんや「鈴木」さんがこんなことをやっていたら大変なことになる。

また、初対面で名前を名乗った時に、「どちらのご出身ですか?」と聞かれることがある。こういう時は相手もそれなりの心当たりがある場合が多く、「(私は東京ですが父は)長野県の富士見です」と答えると、「あぁ、やっぱり」となる。事実、長野県の富士見にはこの名前の人が多い。なんでなのかと考えてもその理由はよくわからない。同じ名前の遺跡が長野県にあるので、そこと何かつながりがあるかもしれない。

そんな私の名字なのであるが、先日、とうとう人生3人目の「同姓の他人」にお会いした。その方は高校の先輩。たまたま私の名前を同窓会の会報で見かけたということで連絡をいただいたのであるが、せっかくだからお会いしましょうとなった経緯である。初めは遠縁ではないかと思われたらしいが、お話を伺うと長野県の富士見ではなく、岐阜の方であった。その方はいろいろと我々の名前の由来を調べたらしく、遡れば遠く平家に由来するらしい。真偽のほどは定かではない。ただし、「名前」が平家に由来するとしても、DNAはわからない。なにせご先祖様は(少なくとも江戸時代は)、農民だったはずだからである。

士農工商の歴史は小学校で習うところであるが、「名字帯刀」が許されていたのは基本的に武士のみに限定されていたと習っている。明治初期に名字が解禁されるまでは、権兵衛や吾作の類だっただろうから、名前の由来を考えるのなら、明治の時代にご先祖様が何らかの考えでもって我が名字を選択したのだろうと思う。ちなみに、曾祖父の時代(明治後期)は、我がご先祖は桶を作っていたということで、「桶屋」と呼ばれていたらしい(とは父の談である)。名字ではなく、職業や屋号で呼び合う習わしだったのだろうと思う。

今から考えると惜しいことをしたもので、もしかしたら亡くなった祖父であれば、我が家系の名字(を名乗るに至る経緯)について何か知っていたかもしれないと思う。祖父は明治39年、曽祖父は明治13年の生まれであり、明治8年の「平民苗字必称義務令」のあとのことについて、おそらく何か記憶していたのではないかと思うのである。もしも、何かそのあたりの経緯を聞いたなら、面白いエピソードが聞けたかもしれないと思う。

 そんな我が名字であるが、本家は既に私の従兄で途絶えてしまう。次男である父の家系は私と弟が受け継ぎ、順当にいけば息子と甥が引き継いでいく。いつか息子か孫が名前の由来について興味を持った時のために、少し調べておくのもいいかもしれないと思ってみたりする。これから少子化の世界。我が名字はどうなっていくのだろうか。まぁ自分の死んだ後の世界のことを案じても仕方がないし、せいぜい孫子の代まではしっかり見守りたいと思うのである・・・





【本日の読書】