2017年8月30日水曜日

論語雑感 為政第二(その8)

子夏問孝。子曰。色難。有事弟子服其勞。有酒食先生饌。曾是以爲孝乎。

子夏(しか)(こう)()う。()(いわ)く、(いろ)(かた)し。(こと)()れば、弟子(ていし)()(ろう)(ふく)し、酒食(しゅし)()れば、先生(せんせい)(せん)す。(すなわ)(ここ)(もっ)(こう)()さんや。
【訳】

子夏が孝の道を先師にたずねた。先師がこたえられた。むずかしいのは、どんな顔つきをして仕えるかだ。仕事は若いもの、ご馳走は老人と、型どおりにやったところで、それに真情がこもらないでは孝行にはなるまい
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言葉というものは、便利なようでいて、実はその真意を必ずしも正確に伝えられるとは限らない。ちょっとした物の言い方で、そのつもりがなくてもトラブルになったりすることは、ままある。我が家でも、どうして人の好意をそう悪意的に取るのだと嫌になる人がいる。同じ日本語でもそうなわけであるから、違う言語、さらに2,500年もの時を経た言葉なら尚更の感がある。この言葉も、手元の岩波文庫の解釈は上記と違っており、それぞれ解釈は微妙に分かれるようである。

上記の訳では、孝行は気持ちがこもっていなければダメだという趣旨である。「しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思うと人の問うまで」という唄を引き合いに出すまでもなく、我々はしばし「色=感情」を表に出す。私などは比較的ポーカーフェイスだと自認しているが、外から見た時はどうかわからない。もっとも、あえて「色に出す」こともあるのも事実であるが、それはともかくとして、心がこもっていないと表情に出るということはあるだろうし、逆に心がこもっているものも表情に出ると思う。

そんな心のこもった例となると、脳裏に浮かぶのはわが息子だ。小学校6年生になり、最近生意気になってきて、やたらと口うるさい母親と対立することしばしばである。長女と比べると実によく怒られている。そんな息子だが、母の日には毎年カーネーションといちご大福をプレゼントするのを慣例にしている。「花より団子」ならぬ「花と団子」であるが、「色気より食い気」のママには一番喜ばれることを何よりも心得ている。今年の母の日もそうしたが、ママが涙ぐんで喜ぶ傍で、当の本人も嬉しそうにしている。

わざわざ大切な小遣いをはたいていてカーネーションといちご大福を買うのは、ママの喜ぶ顔を見たいがためであろうし、思惑通り感涙にむせぶママを見て本人も嬉しそうである。あげたものは金額にしてわずか数百円のものであるが、得られるものは金額には換算できない。孔子もきっとこれこそ「孝」だと認めてくれるような気がする。ただ残念なのは、息子は「父の日」もあるってことをどうやら知らないらしいことである。

せっかくの好意も、「イヤイヤながらやっているな」とわかったら、相手もそれは嬉しくないだろう。どうせやるなら気持ちよくやった方が、相手も喜ぶというのは言われるまでもないと思う。それと同時に、やってもらった方も「当然」という態度でそれを受け入れるのではなく、感涙にむせぶとまではいかなくても素直に喜びを示すべきだと思う。やった方にとっては、それが唯一の報酬のように思うからである。わが息子の行為も、「ママが喜ぶのを見たい」という一心からだろう(パパの喜ぶ顔はどうでもいいみたいだが・・・)

何も「孝」に限ったことではないが、やはり誰かのために何かをするなら何より相手の喜ぶ顔を思い浮かべてやるべきで、受ける方も素直にそれに感謝する。それがいい応報になるのではないかと思う。それにしても型通りであったとしても、まったく気持ちがなければ型通りのことすらしないのではないかと思えば、たとえ型通りでもないよりマシと思わなくもない。ただ、どうせやるなら、心を込めてやりたいと思う。

「孝行したい時に親はなし」とはよく言われることであるが、幸いなことに私の両親はまだ健在である。今のうちに少しでも多く、「孝」をなして喜ぶ顔を見ておきたいと思うのである・・・




【本日の読書】