2020年3月29日日曜日

勉強は楽しい

 浪人をしていた娘の大学受験が無事終わった。親としてはホッと一息であるが、現在中二の息子が今度は受験生。勉強については親が何をするわけでもないが、何かと教育費の負担はバカにできないものがあり、これから厳しさが増す我が家の家計である。それはそれとして、息子と勉強について話をした。今は塾の春期講習に通っている。成績も上位であるし、それ自体問題はないが、息子ともいろいろと話をしたいと思っていたのである。

 私は塾が嫌いで、学生時代はとうとう塾や予備校の類には行かずに終わった。浪人して臨んだ大学受験ですら宅浪であった。それが自分のスタイルだったのである。もともと人前ではあまり勉強できないタイプで、例えば図書館に行って勉強するということが苦手であった。いつも自宅で1人こもって黙々とやるタイプである。例えれば水面を優雅に漂う白鳥が水面下では一生懸命足をかいているように、人に見えないところで努力するのが好きなのであった。

 ところが息子は逆で、1人だとついついずっこけてしまうので、人がいた方がいいのだとか。それも塾のように人はいるが、学校の友達がいないという環境の方がよりベターなのだとか。それに友達に「お金をかけて(=塾へ行って)」勉強しているのをあまり知られたくないという心理もあるようである。どうやらタイプは違えど同じ水鳥気質なようである。そんな息子は今のところ勉強は面白いらしい。

 自分はどうだっただろうかと考えてみると、あまり「面白い」という感想は持たなかったように思う。ただ、もともとなんでもそつなくこなすタイプだったから、勉強もその一環でそつなくこなしていたように思う。受験は志望通りに受かったからまず成功だったと言える。その後も社会人になっても社内の試験とかでよく勉強したし、最近でも仕事で必要な宅建やマンション管理士の資格を取る勉強をした。勉強はつくづく一生縁は切れないものだと思う。

 最近、大学受験を終えた娘が身辺整理を始め、高校で使った教科書をすべて処分しようとしていた。私は前から娘に頼んでいたのだが、そのうちの何冊かを譲り受けた。選んだのは、国語(国語総合・現代文)、古典(古文・漢文)、数学( III)、物理である。なんだか改めて勉強してみたくなったのである。以来、仕事から帰ってきて夕食後のひと時に少しずつページをめくっている。気分は高校一年の春で、そういえばあの頃も真新しい教科書をめくるのに喜びを覚えたように思う(それになぜか娘の教科書は新品みたいに綺麗だし・・・)。

 そして、「面白いか」と問われると、これが面白い。数学では因数分解が出てきたが、X2+2XY-3Y2-5X+Y+4なんて式になるとすんなりとは解けない。悪戦苦闘してできた時の喜びはなんとも言えない。物理については、「物理学は、さまざまな自然現象に向き合い、それらがどのようにして引き起こされるのかを問い、探求していく学問」と定義されているが、だから音や光や熱や、果ては宇宙まで幅広いのだと改めて思い至る。高校時代、苦手なゆえに文系になった身としては、改めて理系に再チャレンジしてみる気分である。

 国語と古典は、難しいというよりも文章を深く読むということを改めて意識させられる。「〜とはどういう意味か」、とか「説明しなさい」とか求められる。読み流すのは簡単だが、そういう問いに答えようとすると、前後も含めて改めてなんども読まないといけない。読解力を求められるとともに、小説だけでなく、哲学や批評や詩、エッセイ等幅広い文章に触れることになる。改めてさすが教科書だけあってよく作られているなぁと感心させられる。

 今さらながら高校生の教科書を手にとってみると、そこには学ぶことの楽しさが詰まっている。高校生の時にこういう気持ちで勉強していたら、勉強ももっと違っていたかも知れない。単なる受験ツールとしてしまうのは誠にもったいない。今まで長く勉強してきたが、それは受験のためだったり、(社内外含めて)資格を取るためだったりが多かった。いわばやむなく勉強したわけであるが、今回はまったくの趣味である。期限もないし、合否もない。なんの制約もない中で純粋に楽しめる。

 そう思うと、「学校の勉強」って実はものすごく楽しいものだったんだと改めて思う(ただ高校時代、唯一赤点を取った苦手な「化学」についてもそう思うかどうかは自信がない)。息子が今「勉強が楽しい」と言うのと同じかどうかはわからない。ただ、受験に突入してこの本来の勉強の楽しさを見失って欲しくはないなと思う。それと同時に、自分もこの面白さをもっと追求していきたいと思う。高校の教科書が終わったら、次は何をやろうか。今から考えるとワクワクして仕方がないのである・・・



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【今週の読書】
  





2020年3月25日水曜日

伊香保温泉

先週末、母親を連れて伊香保温泉へ行ってきた。「腰が痛い」と常々もらしている母親は、温泉に入ると痛みが和らぐらしく、暇を見ては近場の温泉に連れ出しているのである。伊香保温泉は、東京からだと関越自動車道で2時間ほど。気楽にちょっと「温泉に入りに行く」ことができる。春のお彼岸の三連休ではあるが、世の中はコロナ騒動でみんな出かけることはないだろうと、得意の逆張り発想で予約を取った次第である。ガラガラの温泉宿なら、かえって通常以上のサービスをしてもらえるかもしれないという期待があったのも事実である。

森秋旅館
ところが、道路は渋滞だらけ。都内から抜けるのに一苦労。関越の渋滞はそれほどではなかったが、予約していた森秋旅館に着いてみれば結構な賑わい。意外に思って尋ねてみれば、外国人や団体客はキャンセルとなったが、個人客はほとんど変わらないという。移動制限がされた外国人は仕方がないし、団体客は建前上中止せざるを得なかったが、個人ベースでは関係ないと皆さん考えての行動だろう。ちょっと思惑が外れたが、宿にとっては良いことだろうから良しとしたい。

伊香保温泉は銀行員時代の店内旅行で何度か来た記憶があるが、宿泊したのか通過したのかは覚えていない。ただ、有名な石段街を散策した時、「ああ、来たことあるな」と改めて思った次第である。暇に任せて周辺をプラプラ歩いてみたが、石段街を外れると潰れた旅館や店舗がそのまま放置されていて「寂れ感」はどうしようもなく強い。そんな中でも射的の店舗が何軒かお客さんが入っていて元気そうだった。今の若者にはかえってレトロ感があってウケるのかもしれない。あとは老舗らしき温泉饅頭のお店である。
石段街

 ストリップの看板を見かけたが、今も営業しているのだろうか。その昔は社員旅行なんかで賑わったのだろうと思う。浴衣を着た大勢のサラリーマンがワイワイ言いながら行き交ったのだろう。今の時代だと、ストリップなどに大手を振って行こうものなら女性社員からセクハラ扱いされるかもしれない。自分が店内旅行に参加したのはもう30年くらい前になるが、とてつもなく嫌だったのを思い出す。今の時代には確実に受け入れられないだろうし、それゆえに温泉街も寂れていくのかもしれない。

 こうした温泉街がかつてのような輝きを取り戻す方法はあるのだろうか。団体客はもう復活はしないだろうが、外国人客と我々のような個人客だろう。外国人なら温泉街の雰囲気を売り物にするのもいいかもしれないが、日本人なら「観光地」というよりも「身近な温泉」というあり方がいいように思う。ただ、旅館のお湯はちょっと温めであり、硫黄臭もそれほどではない。濁っているところは温泉ぽかったが、硫黄臭がそれほどではなかったのがちょっと残念であった。

 それにしても、と思う。旅館独自のサービスというものを改めて考えてみた。到着してフロントで受付をする。部屋に案内してもらって一通りの説明を受ける。ここまではホテルでも同じ。食堂が一杯だったらしく、食事は部屋食であった。担当者がついてくれて料理の説明とともに配膳してくれる。ホテルで言えばルームサービスだろうが、部屋で食べる和食もなかなか風情がある。そして布団を敷きに来てくれる。外国人であれば興味津々かもしれない。注ぎ込まれる湯の音を聞きながら、露天風呂にゆっくり浸かるのもなかなかの風情である。ホテルもいいけど、旅館もやっぱり風情がある。

伊香保神社
 母は合計4度温泉に浸かり(夕食前、就寝前、起床後、朝食後)、満足そうであったから何より。石段街を軽く散策して伊香保神社に参拝。老舗の大黒屋本店で温泉饅頭を食し、食の駅でご近所へのお土産を買って岐路につく。帰りは関越自動車道で2時間ちょっと。やっぱり距離的には近場の手軽な温泉であることは間違いない。帰宅して感想を聞いたところ、母としては「(昨夏行った)万座温泉の方が良かった」とのこと。次はまた夏に万座温泉に行くことになりそうである。

 あとどのくらい母を温泉に連れていけるかはわからないが、このペースで頑張って連れて行きたいと思うのである・・・

眼下に望む伊香保市街


【本日の読書】

2020年3月22日日曜日

論語雑感 里仁第四(その17)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。見賢思齊焉。見不賢而内自省也。
〔 読み下し 〕
いわく、けんてはひとしからんことをおもい、けんてはうちみずかかえりみるなり。
【訳】
先師がいわれた。――
「賢者を見たら、自分もそうありたいと思うがいいし、不賢者を見たら、自分はどうだろうかと内省するがいい」
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 生まれつきの天才などという人物はいるのだろうかと考えてみると、やっぱりそんな人間はいないと思う。生まれてからの「学習」がその才能のすべてだと思う。では、その「学習」とはどのようなものだろうか。学校の勉強も確かに「学習」の一つではあるだろうがそれだけではない。興味・関心・情熱なんてのもその要素だと思うが、もう一つ大きいのは、「人の影響」だろうと思う。

 「学ぶ」とは「真似ぶ(まねぶ=真似をする)」から転じたと言われているが、これという人から受ける影響は、人が成長する大きな要因だろう。自分もこれまでの人生を振り返ってみると、「あの時ああしていれば」と思うことが多々ある。今にして思えば、経験不足・知識不足等により、うまくできなかったのである。今の自分があの頃の自分に伴走してその都度アドバイスできたら、さぞかし満足度の高い人生を送れていただろうと思うのである。

 その最たるものが仕事で、もう少し身近にお手本となるべき人がいたら、随分違っていただろうと思う。これは学ぶ方の問題かもしれないが、自分にはお手本となるべき先輩とは一緒に仕事ができなかったのである。それでもゼロではなく、何人かはお手本にしたい人はいた。そんな数少ないお手本の1人は、なんと部下であった。あれは昇格して役席者になってしばらくのこと、1人の男が部下として配属された。あたふたと慣れない責任者振りを見かねた支店長が優秀な部下をつけてくれたのである。

 その男は、仕事を振ると実に見事に優先順位をつける。そしてその優先順位に従って仕事をこなしていく。当たり前のことだが、私の場合、頼まれた仕事すべてが「優先順位第1位」だったのである。当然、いくつもの仕事を同時にこなすことは不可能である。それをやろうとしてパンクしていたのであるが、その男は優先順位の低い仕事は「後回しにします」とはっきり言ってやらないでいた。だから優先度の高い仕事が終わっていく。「そうか、こうやって断ればいいのか」と当時の私は納得したのである。

 以後、私も言われた仕事に対し、できない場合は「これこれこういう理由ですぐにはできない」と断る術を覚えた。断られる立場(断られても対して問題ではないこと)がわかっていたので断りやすくなったと言える。部下に習うというのも恥ずべきことだが、それまで出来なかったのだから仕方がない。あの男はどこでそんな術を身につけたのだろう。転勤して別れ別れになってから今はどこでどうしているのかはわからないが、優秀な男だったからどこかで活躍しているのだろう。自分も素直に部下から学びとれたところは良かったと自画自賛している。

 優秀な人を見て自分もかくありたいと思うのは、(それが自分より上の人間であれば)それほど難しいことではないだろうと思う。ただ、不賢者はどうだろうか。「あの人はあそこがダメだ」というのは日常よくあること。仕事では特にそうである。人のアラはよく目につくが、自分のは難しい。というか、「あの人はあそこがダメだ」という時、無意識に「自分はできているが」というのが前提になっているように思う。もしかしたら、「自分のことは棚上げ」しているかもしれない。

 先日、私の以前勤めていた銀行に今も務める友人が、この度のコロナ対策にボヤいていた。曰く、23階の職場から上下への移動を制限されているとか、時差出勤が大変だとか、下階にある食堂に行けなくなり、同じフロアーの食堂しか利用できないとか。しかし、我らが中小企業には時差出勤できる余地はないし、オフィスは古い8階建のビルの3階で、「食堂」は自分の机か、会議スペース兼食事テーブルの兼用だ。友人には自分がいかに恵まれているかが見えていない。自分もいつの間にか「今の当たり前」に慣れきっていないか考え直してみたところである。

 不賢者を非難する前に、あるいは非難すると同時に、どうすればそれを改善できるのか。自分としては何ができるのか。仕事では特に「ただ非難する」だけには終わらせたくないと思う。それが孔子の言う「自省」なのかもしれない。そんなことを考えさせられた今回の言葉である・・・・


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【今週の読書】

2020年3月19日木曜日

№1より№2

 「日本で一番高い山は富士山、では二番目に高い山は?」という質問がビジネスの現場では使われることがある。要は、「№1にならないと覚えてもらえない」ということを言いたいがための例であるが、それはその通りであると思うしそれを否定するつもりはない。商品やサービスなどビジネスではやはり№1になることは重要であろう。ただ、個人のあり方としては必ずしもそうではない。そこは好みの問題であるが、私個人としては№1より№2の方が居心地がいいと常々思っている。

 もともと「無冠の帝王」的なところが好きな性分があるからかもしれない。英語とか将棋とかで級や段という資格を取ることに興味がない。なぜなら英語なんか英検もっていなくても喋れる人は喋れるし、将棋でも柔道でも剣道でも段があるから強いというわけでもないだろう(段が上の方が常に勝つというわけではない)。それゆえに級や段を取って悦に入っている暇があったら真の実力の向上に目を向けるべきだという風に考える。「大事なのは中身だ」と。

 ちなみに日本で二番目に高い山は「北岳」であるが、その標高は3,193mだという。日本一の富士山(3,776m)とは583mの標高差がある。調べてみると、北岳以下は第10位の大喰岳(3,101m)まで標高差は100mもなく、団子状態。富士山だけが飛び抜けて高いので、そういう意味では二番目が知られていなくても不思議はない。ただ、無名とは言え3,000m級の山である。「実力があって無名」ということもできる。2位だから実力がないというわけでもないところが、あまり表立って目立ちたくない自分には性に合っている。

そんなわけで、№2がいいと言っても「2位に甘んじている」というより、「目立たない心地良さ」を選んでいるところがある。実際、高校時代ラグビー部のキャプテンを務めていたが、単にチームリーダーという役割以外にも学校側との折衝役的なところもあり、それほどいいところばかりではなかった。逆に大学時代はラグビー部のキャプテンではなかったが、「対外交渉担当」という重責を担っておりながら(練習試合などは、現況に合わせてどこのチームと試合をするかまで決めていたのである)、トップではないことに気楽な立場の充実感を味わえたものである。

さらに、現在では会社の№2であるが、これもまたやりやすいものがある。我が社はワンマン社長ではないから、会社の方針等の運営には大いに関与させてもらっている。大きな交渉事でも交渉役を任されることも多いが、そうした交渉では№2であることが有利に働くこともある。それは、「その場で決定せずに会社に持ち帰ることができる」ということである。社長の立場であれば、結論を求められたら答えねばならない。しかし、№2であれば「帰って社長に報告し、その後で返答する」と回答することができる。簡単かつ前向きな話であればいいが、慎重に検討すべきことであれば、一旦回答を保留して持ち帰ることができる。会社の意思決定において、このメリットは大きい。

徒競走等ではやはり負けると悔しいし、一番になりたいとは思う。だが、2位の心地良さもある。大学時代、まだレギュラーになれなくて悪戦苦闘していた時、本来レギュラーが出る国公立大会の公式戦で、2軍中心にメンバーを組むことになった時があった。負ければ敗退の勝ち抜き戦。相手は当然一軍。一軍メンバーであれば勝てる相手ではあったが、果たして二軍で勝てるのか。そういう緊張感があったが、結果は見事に勝利。その時改めて感じたが、一軍同士で勝つのもいいが、二軍で相手の一軍に勝つのはなかなかの優越感に浸れるというもの。責任を果たした喜びとあわせてそんな感情を抱いたのである。

考えてみれば就職の時も「業界№1」の企業は選択しなかった(当時の№6を選択した)。もともとのアマノジャッキーな反骨精神もあるのかもしれないが、№1志向がないことはいろいろな面であると思う。良いのか悪いのかではなくて、あくまでも「嗜好」の問題であるが、№2に居心地の良さを感じるのが自分という人間だと思うのである・・・


【本日の読書】




2020年3月15日日曜日

アナスタシア鑑賞記

 先日、東急シアターオーブにミュージカル『アナスタシア』の鑑賞に行ってきた。折からコロナウィルスによる自粛ムードの中、なんと3日間だけ公演が行われたものである。翌日から再び公演中止になってしまったので、誠にラッキーと言えばラッキーである。これも日頃の行いが良いせいであろうかなどと思ってみたりする。

 いつものことであるが、観たいと思った映画やミュージカルや読みたいと思った本の知識はなるべく入れないようにして臨む。故に今回もストーリーなど何も知らない状態での鑑賞であった。とは言え、アナスタシアとは「ロシアの革命で殺されたロシア皇帝の悲劇の皇女」という知識ぐらいはあった。そして「実は生きていた」という伝説があったのも知っている。そんな教養レベルの事前知識で会場に向かう。

 公演に際しては、事前に「キャンセルしたければ可能」「マスク着用(推奨)」「入り口で体温チェックし、37.5度以上あった場合は入場お断り」などの注意がなされていた。主催者としては中止にしたくはないだろうから、効果はともかく、パフォーマンスとしては必要な配慮だと言える。それでも会場内はほぼ満員。みんな心のどこかで「大したことない」「大げさ」だと思っているのだろう。そういう私もそう考えたクチで、キャンセルなどハナから考えもしなかった。

 ストーリーは帝政末期のロシアから始まる。アナスタシアは、皇帝ニコライ2世の娘として何不自由のない生活の中、パリへ帰る祖母と別れる。しかし、それがアナスタシアと祖母マリア皇太后との長い別れとなる。革命が起き、両親と兄弟を殺されたアナスタシアは記憶を失い、アーニャという名前で生き延びる。アナスタシアが生きているという噂はロシア国内はもとより、パリの皇太后の耳にも入り、皇太后は懸賞金をかけてアナスタシアの行方を求め、ロシアの革命政府もまた、殺し損ねたアナスタシアを殺害するべくこれ追う。

 そんな中、アナスタシアにかけられた多額の懸賞金を狙った2人の詐欺師が、アーニャと知り合い、これを利用しようとする。つまり、アーニャをアナスタシアに仕立て上げ、懸賞金をいただこうというもの。一方、政府から命を受けた役人のグレブはアナスタシアを追うが、実はアナスタシアが生きていたのは、グレブの父が幼いアナスタシアを殺すのに忍びなく、密かに逃がしていたという経緯がある。こうしてアナスタシアを巡り、それぞれの人々の思惑を秘めて、物語はサンクトペテルブルクからパリへと舞台を移して進んでいく・・・

 実際の歴史ではアナスタシアは家族共々無残にも殺されてしまっている。しかし、伝説が生まれたという背景には、まだうら若いアナスタシアが殺害されてしまったことに対する世間の同情心があったのだろう。革命には革命の理論があるが、それでもせめて罪は(あるとしたら)皇帝までだろう。理不尽の極みである東京裁判でさえ、死刑判決は戦犯とされた本人のみである。フランス革命すらルイ16世の子供らは処刑されておらず(マリー・アントワネットは恨みを買ったのかもしれない)、ロシアの革命政府の残忍さが伺える。

 実際の歴史にフィクションを交えるやり方は『ベルサイユのばら』もそうだったが、なかなか面白い。ストーリーも実際の歴史と辻褄を合わせて終わる。これによればやっぱりアナスタシアは生きていたのかもしれないという夢が残る。少なくとも、家族もろとも無残にも殺害されたという残酷な歴史を見せつけられるよりはいい気がする。ミュージカルなんて夢のあるものだし、無残な現実を晒しだすよりもいいだろう。エンターテイメントという意味では、面白いストーリーであった。

 出演者も実は交代で演じているらしく、主役の1人が「千秋楽」ということで最後に舞台挨拶があった。1ヶ月ほど稽古期間があったらしいが、不可抗力とは言えわずか3日間で終わってしまったのは残念だっただろうと思う。思えば競争の激しい世界だろうし、舞台俳優も大変だろうと思う。ついつい収入はどのくらいなのか、みんな生活できているのかなどと考えてしまう。それでも万雷の拍手を浴びるのは気持ちのいいことだろうと思う。9,500円もしたA席とは言え、3階席で舞台からは遠く、表情がよくわからなかったのが残念ではある。

 映画もいいが、こうした生の演技、生の演奏で観るミュージカルはちょっとした贅沢感が味わえる。次は6月に行く『ミス・サイゴン』。これも日頃路の行いを正しくしつつ、楽しみにしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
  
  
   

2020年3月12日木曜日

子供の幸せ

最近は幼児虐待などという我々の感覚からは信じ難い事件が頻発しているが、普通の人間(というか生物)的な本能からいけば、我が子の幸せを望むのが親たるものだろう。我が子の幸せと言っても漠然としているが、要は人並み(以上に)成長して、就職して家庭を持ち、子どもをもうけて子孫繁栄につなげるといったところだろう。私も普通に生活していける程度でいいというくらいで、基本的には同じである。

世の母親が我が子の教育に熱心になるのもその一環である。効果は疑問に思うが、世の学歴信仰はまだ健在であり、「良い高校→良い大学→良い就職先」を視野に入れて塾だ通信教育だ家庭教師だと騒いでいる。父親だって医者であれば我が子を医者にしようとし(結果的に歯医者にしかなれなかったりすることも多い)、創業社長が二代目にしようとする。自分の事業(顧客)を維持しようという意図もあるかもしれないが、基本的には我が子が生活していけるようにという親心だろう。

そういう「親心」に子供が反発するというのもよくあるパターン。現実のみならず、映画やドラマでもありがちだ。本当は音楽をやりたいのに、親に医者になれと言われているとか(映画『キセキ あの日のソビト』など)。そういう場合、我々はついつい子供の立場で見てしまうが、その背景にある親心にも思いを至らせる必要がある。親はそれなりに人生経験を積んでいるわけであり、何が子供にとって良いのかを考えれば、あれこれと口出ししたくなるものだろう。

我が家の場合も、母親はとにかく「いい成績」を重視している。それは、「いい高校へ入れば良い大学へ行けるし、いい大学へ行ければ就職にも困らないだろう」という考え方である。少なくとも上から下へはいけるが、下から上へ行くのは難しいので、選択肢を広く持つためにもそうするべきという考えである。しかし、今はたとえ一流企業に入っても会社自体が潰れたりリストラされたり、鬱になったりと一昔前のように安泰ではない。求められるのは精神的なタフさと三種の神器(「考え方」「情熱」「創意工夫」)だと考える私とは、残念ながら妻の考え方は相容れない。

幸い、「息子にはスポーツをやらせたい」という部分では我が夫婦の考えは一致しており、結果として今息子は野球をやっている。「ラグビー最高!」という父親としては息子にもラグビーをやらせたい。しかし、幼い頃からラグビースクールに入れてラグビーをやらせることには何となく抵抗があって、学校の友達が多い野球にした。「自分も中学まで野球をやっていた」、「日本人であれば野球ぐらい経験させたい」という思いもあったが、自分の考えを息子に押し付けることに若干の抵抗感があったのも事実である。ラグビーは高校に進学してやってみたければやってみればいいと今は考えている。

残念ながら私は医者でもなければ会社社長でもない。子供たちに提供してあげられる幸せな人生などない。そういう意味では子供たちも自分たちの人生を歩むことができる。ただ、そうすると人並みに幸せな人生を歩めるだろうかという心配は残る。妻はそれに対し、「良い高校、いい大学・・・」というルートを示し、塾へ行けと尻を叩く(自分はそんなに勉強しなかったくせに、だ)。その気持ちはわかるが、私としては「どう転んでもひるまず生きていける気構えと知恵を身につけさせたい」と思っている。

どんな人間でも人生の一時期に苦しい時を迎えるだろう。それはいい高校に行っても、いい大学に行っても、いい会社に入っても避けることはできない。ならば、その時に歯を食いしばって頑張り抜く力をつけさせたいと思う。自分自身の経験を振り返ってみても、それこそが生きていくのに必要なことではないかと思う。政治家になれたって、高級官僚になれたって、一流会社の役員になれたって、最後に首を括るのでは意味がない。一流でなくても、しっかり人生のゴールラインまで走り抜いてほしい。それに必要なのは学歴ではない。

スポーツ、特に野球やラグビーなどのチームスポーツは、苦しい練習に耐えたり、仲間と協力して1つの目的に向かっていったり、勝利の喜びや敗北の悔しさを味わえたり、リーダーシップやフォロワーシップを学べたりといった利点がある。あとは模範だろう。身近な人や公の人物かもしれないし、映画や小説やマンガの主人公かもしれない。感動を得られるものであれば何でもいいと思う。宿題なんかやる暇があったら、母親の目を盗んでNetflixで『ワンピース』を観る方がはるかにいいと思う。そのために息子にはタブレットを与えたのである。

 思春期を迎えた子供たちも、これからより「心の成長」にはより大事な時期に入ると思う。子供の幸せのために、私の考える「生きる力」を是非とも伝えていきたいと思うのである・・・


Hermann TraubによるPixabayからの画像 


【本日の読書】




2020年3月8日日曜日

論語雑感 里仁第四(その16)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。君子喩於義。小人喩於利。
〔 読み下し 〕
いわく、くんさとり、しょうじんさとる。
【訳】
先生いわく、
「君子は正義に敏感であり、小人は利益に敏感である」
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 君子か小人かはともかく、物事を判断するのにお金で考える人と「お金以外」で考える人がいるのは現代でも同じである。たとえば、我々の仕事は不動産賃貸である。自分たちの所有物件を貸す場合と、他のオーナーが所有する物件を貸す手伝い(賃貸管理)をする場合と二通りある。自分たちの所有物件を貸す場合は自分たちで判断できるが、賃貸管理の場合はオーナーの意向に従わないといけない。そしてオーナーも見事にこの二通りに分かれるのである。

 「お金」を優先して考えるお金基準オーナーは、入金が遅れることと出費が増えることに敏感である。例えば滞納の場合、我々も当然遅れた段階で督促するし、それがうっかりミスなのか何か深刻な前兆なのか早い段階で確認する。もちろん、「しばらく待って欲しい」と言う要望があれば事情を伺って静観する。しかし、お金基準のオーナーは「大丈夫なのか」「責任は取れるのか」と追及してくる。一方、お金以外基準のオーナーは「よく事情を伺って下さい」と言って、基本的にこちらに任せてくれる。

 そのほかにもお金以外基準のオーナーは、契約更新してくれたらプレゼントをしますとか、部屋の設備に不具合があれば出費を厭わず対応してくれるし、「快適に住んでもらって下さい」と住む人のことをよく考えてくれる。しかし、お金基準のオーナーは、エアコンの交換にしても「修理ではダメなのか、交換せざるを得ないとしてももっと安くできないのか」となんとか出費を抑えようと躍起になってくる。どちらが対応しやすいかと言われれば圧倒的に前者であり、我々にとってはお金以外基準のオーナーの方がありがたい存在である。

 もちろん、お金は大事である。綺麗事を言っていてもお金があってこそ生活を維持できるわけである。オーナーさんとてそれは同じであり、入出金に目を光らせるのは当然である。お金以外基準のオーナーさんに関して言えば、今のところ生活に余裕がある方も多く、だからこそあくせくしていないとも言える。もっとも、お金基準のオーナーも同様の方が多く、基準の違いは「生活に余裕があるか否か」と言うわけではないと思う。単にお金に厳しいか否かの違いだろう。

 ここで「住む人のことを優先して考える」というのは、孔子の言う「正義」に当てはまるのだろうし、お金基準はそのまま「利益」である。基準の違いは、自分か他者かとも言える。つまり、自分の利益が先か他者の利益が先かと言うことである。そう考えれば、二つのオーナーのタイプの説明もつく。考えてみれば世の中の「正義」とは他者の利益とも言える。他人のことを考えられることは、人の尊敬を集める要素であり、それが孔子の言う「君子」なのかもしれない。

 では、お金以外基準のオーナーがみんな君子かと言えば、それはその通りであるが、でも本当にそうだろうかとも思う。みんな自分には余裕がある(だからアパートを持っていて貸せるのである)。自分は安泰であり、その上で他者を思いやっている。もしも、自分に余裕がなかったら、それでも他者の利益を考えられるだろうか。例えば先日『ガイアの夜明け』で、経営危機に陥った会社の社長が銀行から辞任と自己破産を迫られ、従業員の雇用を守るため株を無償譲渡し、自己破産したと紹介されていた。こういう他者を優先する行為こそが本物だろうと思う。

 「お金に汚い人間」にはなりたくないとは誰もが思うだろう。ただ、現実的にはお金優先思考の人はかなり多い。自分の身が危うい時にも尚正義を考えられる人こそ君子であると思うが、凡人としてはまず「自分が安泰の時は」正義を考えられる人でありたいものだろう。「ノブレス・オブリージュ」とはいかなくても、自分が困窮していない限りはそうありたいと思う。お金は欲しいが、すぐに手を出す前にじっくりとまわりを見回すことができる人間でありたいと思うのである・・・




【今週の読書】

2020年3月5日木曜日

世の中の不思議は不思議なのだろうか

 仕事で賃貸用の部屋を案内したが、残念ながら申し込みには至らなかった。それはよくあることなのだが、初めてだったのはその断りの理由。なんと霊感の強い奥様に「見えてしまったから」だという。当然、霊感など欠片もない私にはまったく見えない。いったいどんな風に見えるのかと興味は尽きないが、人間は死んだら終わりと考える私にはたぶん一生見ることはできないのだろうと思う。残念だが仕方ない。
 
私の父はかねてより自分で体験した不思議な経験を2つほど折に触れて語ってくれる。1つは子供の頃の話。ある時、祖母(父にとっては母親)が突然苦しみだしたとのこと。医者に見せても原因は不明。困って祖父が神主だか何だかその道の霊験あらたかの方に相談に行ったところ、「家のある方向に最近何かしなかったか?」と聞かれたそうである。たまたまその方向に便所を増設したばかりであり、それを説明したところ原因はそれだと即断されたという。半信半疑で便所を取り壊したところ、祖母は何事もなかったかのように回復したという。

1つは父自身が若い頃旅行に行き、河原でちょっと変わった石を拾ったところから始まる。帰宅後、翌日から原因不明の腹痛に悩まされる。しかも、毎日決まった時間。医者に行っても原因はわからない。異常事態に苦しみながら、父はふと原因はあの石ではないかと思い至ったという。毎日決まった時間に七転八倒しながら週末を待ち、慌てて石を拾った河原に返しに行ったらしい。そうしたところ、不思議なことに腹痛は翌日からピタリと収まったという。

個人的には、「そんなバカな」と思う。しかし、父は大真面目で、世の中には不思議なことがあると信じて疑わない。父はいまでも建物については方角を気にしていて、私が家を建てる時も「見てもらえ」とこだわっていた。その気持ちをバカにするつもりはないが、納得のいく説明が得られるのなら信用したいと思う。我が家は方角など気にしていたら狭いだけに家など建てられなくなる。そこで新築時に氏神様の神主さんにお祓いをしてもらった。そういう気持ちは大事にしたいと思うが、すべて悪しきことをそれが原因とは思いたくない。

私としてはこれまでの半世紀以上の人生でそんな不思議な経験をしたことがない。けっしてバカにするつもりはないが、何でも合理的理性的に考えて納得できるか否かを重視した考え方で生きており、ある方角に便所を作ったから、あるいは石を拾ったから具合が悪くなったということがあり得るとも思えない。ただ、意識もしないのに心臓が動き、呼吸もして新陳代謝が行われている我々生物は、生きていることが奇跡的な不思議とも言えることであり、そんな不思議があってもおかしくはないのではないかとも思う。

もっとも父の不思議な体験も実はきちんと説明できるのかもしれない。それは、たとえば祖母の場合、何らかの原因があって苦しんだが、どうしたのかと騒いでるうちに時間が経過し、自然とトイレを閉鎖したタイミングで治ったのかもしれない。父の場合は、「石が原因だ」と思い込み、「返しに行けば治る」と強く信じたがために、「プラシーボ効果」によって治ったのかもしれない。はっきりした原因がわからないからと言って、「不思議な現象」とも言い切れないだろう。

菅原道真公は、生前陰謀によって左遷され憤死したとされる。それが神様に祭り上げられたのは、死後に都で災いが続出し人々が菅原道真の祟りと恐れ、鎮魂のために祭ったのだという。今であれば気象現象で説明してしまうのだろうが、当時はそれが祟りだったわけである。まだまだ日本中に不思議が溢れ、だから八百万の神様が敬われたのだろう。それはそれで良かったのだと思う。何でも合理的理性的に判断して「不合理だから」とバカにするのもよくないだろう。

 私が神様を信じなくとも敬うのはそういう理由からだが、同じ理由で父の経験をバカにするつもりもない。見えている人には本当に見えているのだろうし、人が大事に信じているものにはそれなりの価値があるのだろう。私もいつかそんな不思議な体験をすることがあるだろうか。幽霊の姿を見ることはできるだろうか。願わくばそんな体験の1つや2つは経験してみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 


2020年3月1日日曜日

学問の境界線

 普段、興味の向くまま手当たり次第本を読んでいるが、先日読んだ『ホーキング、宇宙を語る』についてはいろいろと考えさせられた(今更感のある古い本であるが、それでも読まないよりは読んでおこうと思ったのである)。宇宙の始まりはビッグバンとされているが、それ以前はどうなっていたのだろう。時間の観念はなかったようであるが、それは実際どんなものなのか。その昔、宇宙の始まりについては形而上学あるいは神学の世界の話だったというが、それも良くわかる。

 そもそもビッグバンも、ハッブルが観測データから「膨張する宇宙」という事実を発見したことから推測されているわけで、誰も見たわけではない。それに100億年単位の時間感覚も途方も無い。ビッグバン説はキリスト教会からは「神の存在と一致する」ということで歓迎されたという。なぜビッグバンが起こって宇宙が始まり、その中で太陽が生まれ、地球が誕生し、生物が生まれ、人間に進化したのか。考えてみれば不思議だし、考えていくうちになんだか哲学の世界に足を踏み入れた気分になってくる。

 そこでふと気がついたのであるが、ホーキング博士は確かに物理学者であるし、宇宙に関する議論は物理学の世界の話かもしれないが、それは哲学の世界とも紙一重なような気がする。神学のことはよくわからないが、ビッグバンを起こした原因=神と定義すれば、それもまた紙一重の世界に思う。その境界線は曖昧である。そう考えると、学問の境界というのもみんな曖昧なのかもしれないと思う。物理学と言っても数式公式が出てくるし、日本史と世界史はともに学んでこそより深く理解できる。歴史という括りではそもそも同一である。

 大学受験の時、第一志望の大学は文系大学だったが、二次試験の科目は英語、数学、小論文、世界史であった。しかも英語と数学のウエイトが3/4くらいを占めていた。「なぜ文系の大学なのに数学?」と訝しく思ったが、思えば論理的思考等の数学的思考が求められていたのだと思う。そうした数学的思考は論理学とも結びついている。戦後の哲学の大きな流れとなった構造主義は数学の影響を受け、構造主義を生み出したレヴィ・ストロースは文化人類学者であり、ソシュールは言語学者であった。

 子供が小学生となる頃、教育に興味を持ってそれに関する本を読んだが、中でも国語が大事だと強調されていた(『ほんとうの国語力が驚くほど伸びる本』『本当の学力は作文で劇的に伸びる』)。国語力こそがすべての学科に通じるのだと。それは確かにその通りなのだと思う。そう考えてみると、学問に境界線を引くことはあまり意味がない気がする。もっともそれだと範囲が広すぎて学びきれないということもあるから、いったんの線引きは必要なのかもしれない。ただ「そこで終わり」という境界ではないということを理解しないといけない。

  そう考えてくると、文系、理系という分け方も意味がないものなのかもしれない。計算が得意だから理系、不得意だから文系という区別もおかしい。数学も解を求めていくには論理的な思考が必要だし、見たこともない宇宙やミクロの世界の法則を理解するには想像力が必要だし、それは見えない人生の法則を考えるのにも通じている。そしてそこに境界線はない。

 昔から星空を眺めるのが好きだったし、宇宙に対する興味もそのままである。そして広大な宇宙に浮かぶちっぽけな地球に住む人類がどこから来てどこへ行くのかと考えてみるのも面白い。そんなちっぽけな世界でいかに生きるかを考える哲学も面白いし、相対性理論や量子論の世界も面白い。それによくよく考えてみると、哲学も物理も実はそんなには大きく違わない気もしてくる。

今、自分の机の上には娘の高校時代の数学の教科書があって、一から学び直したいと思っている。もう文系・理系もなく、興味という羅針盤の針の指し示すまま境界線を自由に行きつ戻りつしながら学んで行くのも面白そうである。それがこれからの趣味の一つになるなと思うのである・・・

Free-PhotosによるPixabayからの画像

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