2023年12月31日日曜日

2023年末雑感

 2023年も最後の1日となった。振り返れば365日、1日とて同じ日はなく、その1日1日が自分の人生を作っている。2年越しの裁判は和解という形で終わった。会社として借りていたお金の返金裁判を起こされ、結局全額返済させられた。たった1回返済が遅れただけで、次の月末には払うと告げていたのに裁判を起こされ、和解とは言え、全額返済させられたのだから負けに等しい。法律とは公平でもあり、冷たくもある。うまく利用した者が勝つとも言える。もう過ぎた事と諦めるしかない。

 裁判は元同僚たちにも支えられた。結果は驚くほど仕方ないと受け入れてもらえた。年末には忘年会にも声をかけてもらい、楽しいひと時を過ごした。元社長は恨まれた挙句、元社員たちとの人間関係を失った。本人はそんなものよりお金の方が大事なのだからいいのだろうが、価値観の違いというものは大きいものである。私としては、元社長には少なくとも一矢報いたし、元同僚たちとはこれからも年に何回か飲みに行ったりできるだろうし、それで良しと致したい。

 夏には息子の高校野球観戦に3度行った。炎天下の中であったが、両親も同行した。昔から高校野球は高校スポーツの中でも優遇されていたが、1回戦で駒沢球場、2回戦から神宮球場というのは贅沢である。ただ、親としてはありがたい。どこかの高校のグラウンドで立ち見となったら、高齢の両親はとても観戦できなかっただろう。3回戦でシード校に負けたが、1点差の接戦だったし、相手は結局甲子園に行ったし、十分だったと思う。親子ともどもいい思い出になったと思う。

 秋には伯父が亡くなった。突然の訃報で驚いたが、家族によると突然でもなかったらしい。コロナ禍で行くこともなかったので仕方がないが、伯父の時間は動いていたが、こちらから見た伯父の時間は止まったままだったのである。同い年の従兄弟が喪主を務め、私も弟と共に遺族側として葬儀を手伝った。いずれ伯母の時がくるし、その前に我が両親かもしれない。亡くなってから偲ぶのもいいが、生前に十分話をしておきたいと思う。父も急速にボケてきているから尚更である。

 年末には喪中葉書が例年より多く届いた。私の年代だとやはり親が亡くなったというのが多い。いずれみんなその時はやってくるわけであり、私と同年代の人の親ということは、みんなそれなりに長生きしていると言えるわけであり、それはそれでいい事だと思う。今年も一年を通じて毎週実家に通い、掃除と料理をした。料理も主菜と副菜の組み合わせとか、肉好きの父と肉を食べない母との嗜好の違い、高齢者向けの味付けの工夫と、ただ作ればいいというものではない難しさを味わっている。来年はもう少し腕を磨きたいと思う。

 順調だったのは仕事だろうか。会社の業績は目標未達であったが、M&Aに挑戦して成功させた。間違いなく自分がいなければできなかった事であり、会社の歴史に名前を刻んだという自覚を持てた。買収して子会社にした会社の役員にもなり、そこでの役員報酬をもらえることになって収入も増えた。その分、仕事は増えたが、収入増の対価であれば仕方がない。それに買収した会社にも社員がいる。みんながハッピーになれるようにしないといけない。本当の意味で成果に胸を張れるようになれるかどうかはこれからである。

 ラグビーではまたも秋の試合で膝が悪化してしまった。昨年同様、2ヶ月試合も練習もできず、復帰の予定は見えない。やはり頭の中とは違い、体は確実に老化しているのだろう。いつまでも同じようにラグビーをやり続けることはできないと思うが、自分よりも年上の人たちがまだまだやっているので、体に合わせてうまくやっていこうと思う。とは言え、体で覚えたラグビーを変えるのは難しいのも事実である。

 あと何時間かしたらまた新しい年を迎える。人の人生など壮大な宇宙の時の流れの中では、瞬きするよりも短い時間かもしれないが、これも一つの区切りである。ずっと続く長い道でも、途中にいろいろと区切りがあった方が道中の変化になっていいと思う。今年もいい年だったかと問われれば、幸福より不幸が少なかったという意味ではいい年だったと思う。また、次の一年もそう思えるように過ごしたいと思う。何はともあれ、健康で一年を終えられることは何より。感謝の気持ちと共に2023年を見送りたいと思うのである・・・

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【今週の読書】

 







2023年12月28日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その25)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「聖人、吾弗得而見之矣。得見君子者、斯可矣。」子曰、「善人、吾弗得而見之矣。得見有恒者、斯可矣。亡而爲有、虛而爲盈、約而爲泰、難乎有恒矣。」

【読み下し】

いはく、聖人ひじりわれこれなり君子くんしなるものるをものかかるはむべなりいはく、ひとわれこれなりつねものるをものかかるはむべなりくしりとし、むなしくしてりとし、つづまりやすらかなりとす、かたかなつねなりこと。

【訳】

先師がいわれた。

「今の時代に聖人の出現は到底のぞめないので、せめて君子といわれるほどの人に会えたら、私は満足だ。」

またいわれた。

「今の時代に善人に会える見込は到底ないので、せめてうそのない人にでも会えたら、結構だと思うのだが、それもなかなかむずかしい。無いものをあるように、からっぽなものを充実しているように、また行きづまっていながら気楽そうに見せかけるのが、この頃のはやりだが、そういう人がうそのない人間になるのは、容易なことではないね。」

『論語』全文・現代語訳

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 聖人君子という言葉はよく使われるが、なかなか実在の人物にはお目にかかれない。その理由は、1つには身近なところにそのような聖人君子がいない(したがって会えない)という事があり、もう1つには身近な人だと欠点も見えるため聖人君子とは言えないという事もあるかもしれない。考えてみれば欠点のない人などいないわけであり、そもそも聖人君子とはどんな人物なのかというと非常に曖昧である。もちろん、「欠点はあるけれども立派な人」はかなりいるだろう。そう考えると、聖人君子な人物などいるのだろうかと思ってしまう。

 

 欠点も愛嬌のあるものならいいかもしれないが、愛嬌のある欠点て何だろうと考えると難しい。若い頃、一緒に働いた人で、後輩の面倒見はよく、業務知識も豊富でお客さんへの対応なども見習うべき点が多い先輩がいた。昼間はとてもいい方だったが、酒を飲むと豹変して大変だった。いわゆる絡み酒で、それだけですべての長所を消してしまっていたと言っても過言ではない。あまり出世していなかったのもその欠点のせいかもしれない。たった1つの欠点がすべてダメにしていたと言える。


 そう考えると、欠点1つもバカにできないものがある。私なども家に帰れば妻から小言の嵐を浴びせかけられる。たぶん妻からは欠点だらけに見られているのだろう。友人知人を見渡してみても欠点のない人間はいないが、少ない人間はいる。そう考えると、むしろ欠点が少ない、あるいは気にならない程度の人物が「君子」なのかもしれない。それに「人のいい奴」ならそこそこ数は増える。孔子の定義はよくわからないが、善人と言ってもいいと思う。


 しかし、その善人も「どこから見ても」という人はいないかもしれない。かく言う私も「部分的」には善人のところもあると思う。「部分的」とは、当然相手によって態度を変えるからである。嫌いな奴にいい顔するほど私は人間ができていない。嫌いな奴はめったにいないが(なぜならそんな奴とは友達にはならないから)、そういう相手には冷たく接する。自分を裏切った人間に対しては躊躇なく報復する。ただ、心を許す友達には徹底して善意を尽くす。たぶん、「いい奴」だと思われていると思う。


 そう考えると、相手もまた同様かもしれず、相手に善意で接してもらいたいと思えば、こちらから先に善意で接する必要があるかもしれない。その人物が善人かどうか、それはその人がどういう人物かという事ももちろんあるが、一方で(その人物に接する)自分がどうなのかという問題もあるかもしれない。相手を善人たらしめるのは、もしかしたら自分なのかもしれない。


 世の中に嘘をつかない人間などおそらくいない。嘘には善意のうそと悪意の嘘があると思う。相手に心配をかけまいと気丈に振る舞うのは善意の嘘であり、善意の噓は噓ではあるが責めるのも酷である。弟が被害に遭ったような詐欺などは悪意の嘘であり、これは問題外である。それでは善意の嘘ならいいのかと言えばそこは判断が難しい。相手のことを考えてのものだとしても相手にとってそれがいいかどうかはわからない。


 ちょっと前、会社の若い女性社員が精神的に不安定になり休職するかどうかという時、私は実家の両親(特に母親)に話はしたかと問うた。その社員は案の定、「心配かけるのでしていない」と答えた。それに対し、私は話をしろと諭した。それは私自身親の立場であり、親であれば当然娘が困難な状況にあれば助けたいと思うだろうと考えたからである。親に話せば心配するだろう。だが、それが親であり、親は知らずに心配しないのと、知って心配するのとどちらがいいかと言えば誰もが後者を選ぶだろう。心配はしても「何かあれば相談してくる娘」という安心感は与えられると話したのである。


 いろいろな嘘はあると思うが、やはり究極的に「相手に嘘をつかせない」というのが一番ではないかと思う。嘘のない人を求める気持ちはわかるが、「嘘をつかせない自分」になるのも大事ではないかと思う。「類は友を呼ぶ」ではないが、聖人君子・善人と付き合いたければまず自分の人間力を高めるところから始めないといけないように思う。悪意の嘘は「あいつには通じない」と思わせることが大事であり、心から信頼してもらえれば善意の嘘もないかもしれない。


 相手に求めるのではなく、自分の中にそれを求めるようにしたいと思うのである・・・

 

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【今週の読書】


 






2023年12月27日水曜日

被害に遭う前に

 昨年から今年にかけて、随分とお金が動いた年であった。前職の退職に際してまとまったお金を手にしたが、弟が詐欺被害に遭い、弟に貸したお金が戻らなくなった。さらに前職の社長との裁判で、和解とはいうものの実質的な敗訴でさらに支払いを余儀なくされ、結局手にしたお金はマイナスになる有様である。幸い、仕事では(妻には内緒の)収入が確保できたが、マイナス分を取り戻すにはかなりかかりそうである。

 それにしても、弟の詐欺被害は影響が大きい。親も私もかなりの損失を被った。親がオレオレ詐欺に引っかからないように何度も注意していたが、まさか弟が詐欺に遭って連鎖被害に遭うとは予想もしていなかった。私もおかしいとは思いつつ、何度も弟にはよく調べろと言いつつ、本格的に我が事として動いたのは自分も貸せなくなってからだった。弟という安心感と、困っているなら助けなければという思いからだが、もう少し早く動くべきであった。

 なぜ人を騙してお金を手に入れようとするのか、と問うてみても仕方のないこと。それぞれにみなもっともな理由はあるのだろう。困窮してどうにもならなくなって犯罪行為に走る者もいれば、ただ単に楽して金儲けがしたいと思うのかもしれない。悪いことだとわからずにやる人はいないだろう。悪いとわかっていてもやるわけであるから、単に「悪いことをするのはやめましょう」と言って解決するものでもない。結局のところ、被害に遭わないようにするしかない。

 どんな人が被害に遭うのかと言えば、一つは正直な人であり、一つは欲張りな人であろう。その昔、『銀河鉄道999』という漫画に善人だけの星が出てきた。善人だけの星なんて良い星だとは思うが、メーテルは鉄郎に教えるのである。人間は悪の心があるから相手の悪を見破れるのだと。それがなければ、相手の言葉をすべて信じてしまい、簡単に騙されるのだと。オレオレ詐欺に引っかかるお年寄りもみんな善人なのだろう。孫が困っていれば、何をさておき助けなきゃと思ってしまうのだろう。

 弟の場合は、欲をかいた結果である。フィリピンの友人に誘われてリゾート地を購入。その時はささいな金額で、弟も万が一にも損してもいいと考えて投資したそうである。それが政府による収用の対象になったと説明され、必要な費用だと説明して少しずつ送金していき、そろそろいい加減にしてほしいと思い始めたところで、今やめると投資した分が無駄になると説明され、もったいないからと注ぎ込んでいったそうである。外国の話でもあり、日本ではおかしな話も仕方ないのかと思わされたところもある。

 途中、弟は親と私にフィリピンで買った別荘が10倍の価値になったと得意気に説明し、それを聞いた私も羨ましいと思ったものである(もっとも、私には基本的に現地を簡単に見に行けないところの土地には手を出さないという信念がある)。弟もおかしいと思って現地にいったが、相手は友人に頼んで金融機関や政府機関の人になりすましてもらうという手の込んだ芸当も披露したらしい。

 結局のところ、昔から「上手い話にはウラがある」という類のものであり、後から騙されたと怒ってみても仕方がない。私は私で、もう少し早く一緒になって手を打っていれば良かったと反省しているが、その分、弟には文句を言うこともなく、積極的に後始末に協力している。何せ数千万円の被害であり、破産寸前で自宅も失う瀬戸際にある弟をさらに鞭打つのも憚られたところである。まぁ、将来の相続時に返してもらうことにしている。

 ライプニッツによれば、悪は人間の不完全性に因由しており、悪は単なる完全性の欠如に過ぎないと言う。悪はかえって宇宙全体が善であることを悟らせるのに貢献しているのだとか。悪があることを嘆いてみても仕方がないことは確かである。それよりもやはり自衛が必要なのだろう。騙されるのを完全に防ぐのは難しい。私もいつ巧妙な手段の詐欺に引っかからないとも限らない。その際、防御手段としてはお金を出すルールを決めておくぐらいのことだろうと思う。

 この先も悪はなくならない。詐欺もしかり。ただ、騙されたとしてもなるべく被害を小さくする工夫を普段からしておく事として、あとは普段の心構えで「欲の皮」型の詐欺には引っかからないようにはできるだろう。引っかかるとしても「人助け」型にしたいところである。それは何より善人である証拠であるし、それならば恥ではないと思う。私も弟にお金を貸した事自体は後悔していない。それは何より他ならぬ弟の頼みであったし、おそらく今後も頼まれれば助けるだろう(と言ってもお金はもうないが)。今回の件で兄弟仲も悪くなっていない。そこは誇りたいと思う。

 「騙すより騙されろ」と言う気はないが、盾としての「悪の心」をしっかりと構え、欲の皮は弛ませておこうとは思う。騙されるにしても騙され方と被害の抑え方はしっかりと持っておきたい。そんな武装をした善人でありたいと思うのである・・・

Kevin SandersonによるPixabayからの画像
    【本日の読書】

   




2023年12月23日土曜日

正義とは

 今、帰りの電車中で『監禁依存症』という小説を読んでいる。その中で登場人物の1人が元警察官の父に向って問う。「正義ってなんだろう?」と。その小説は、性暴力を受けた被害女性が加害者のやり手の弁護士によって泣く泣く示談に応じさせられていく様子が描かれる。冒頭の問いはその理不尽さに憤った登場人物の人の発したものである。小説はあくまでも小説であるが、その問いは突き詰めて考える価値のあるものである。しかし、実はその問い自体が前提を間違えていると思う。すなわち、それは「唯一絶対の正義」を前提にしているところである。

 この世に唯一絶対の正義があると思うから、そのような問いになるのである。理不尽な目に遭ったキリスト教徒が「この世に神はいるのか」と嘆くのと同じである。「そのようなものはない」と考えれば当然の帰結だとわかる。そもそも「正義とは何に対する正義か」と考えれば、それは実は「自分に対する正義」なのである。小説の中では被害者の立場から正義を問う。それでいけば、被害者は救済され、加害者は罰に苦しむべきなのである。しかし、実は加害者にも加害者の(身勝手なとは言え)正義があるのである。

 私も前職では請われて入社してから社長に成り代わって赤字会社を立て直し、業績を向上させた。しかし、ある日突然、社長は会社を売却して引退を宣言した。私を含めて役職員は全員解雇。一応、再就職先は紹介してくれたものの、条件は大幅に悪化、退職金もなしとされた。我々はその理不尽さに怒りを覚えたが、社長からすれば自分は会社のオーナーであり、会社を売却するのは自由、退職金の規定も整備されておらず、払わなくても法的に問題はない。「何が悪いのか」と問われれば、倫理的な問題以外は何もない。そういう「正義」に基づいて動いていたのである。

 世界中から非難されるロシアにもロシアの正義がある。ウクライナがNATOに加盟すれば、国境にアメリカの核ミサイルが配備されることになる。そんな事は認められないと思うのは、アメリカがまさにキューバ危機で反応したのと同じである。そしてそんなロシアを弱体化させたいアメリカが、まさにそんな意図をもってウクライナを支援し、戦争の長期化に繋がっている。どちらが正義かという事を断言することができないのは、事実上ロシアを支持する国がかなりあることからも明らかである。

 突然、侵攻して無抵抗の市民を虐殺し、人質まで取ったハマスも独自の正義で動いている。反撃したイスラエルも当然、反撃は「正義」の行動である。ハマスの行為はどこからどう見ても悪であるが、そもそもイスラエルに不当に占領されていると考え、それに対する正義の抵抗だと考えているのだろう。アルカイダも自らのテロ行為を「聖戦」と称している。テロを「聖戦」などと言われても、そんな正義などあるかと思う。しかし、当の本人からすればそれはあくまでも神の認めた正義の戦いなのである。その正義感を覆すことは難しい。

 我が社でも一部の役員と社長との間がギクシャクしている。それぞれ自分の正義の観点から意見を主張し、それが相互不信へと繋がっている。間に立つ私は、いかにしてそれを解消すべきかとずっと考えているが、そこはお互いの正義をあわせていくことだろうと思う。すなわち、「どちらの正義が正しいか」ではなく、そもそも「何が正義か」というところである。我々の場合、それは「会社が良くなること」であると思う。

 当該役員は自分なりの正義を持ってはいるが、それはどちらかと言えば「担当部の正義」であり、自分のやり方、考え方によるものである。まず「何が会社にとっていいことか」から始まり、社長の考えが間違っているなら「会社にとっての正義」に基づいて話をすればいいだけの事。相互不信と対立はそれでだいぶ解消するように思う。「同じ土俵で勝負する」「同じ言語で話す」と言ってもいいかもしれない。

 国際平和も「自分の正義」ではなく、「相手の正義」を考えれば自ずから解決策は見えてくると思う。アメリカには隙あらば自分に反抗する中露叩きをしようという国益追及を緩和すればいいし、パレスチナ問題も結局は「どうやって共存共栄を実現するか」を考えればいい。犯罪者の身勝手な正義については難しいところがあるが、犯罪でない限りでは、「相手にも正義がある」と考えれば冷静に解決策を考えられるかもしれない。

 私も前職の社長に対しては、関連会社をいただくという形で反撃し、裁判で事実上敗北してだいぶ取り戻されてしまったが、それでも仲間とともに最低限度と考えていただけの退職金は確保できた。己の正義にばかり囚われていたら、気持ちが滅入っていたと思う。「人は誰でも自分の人生の主人公」なのである。映画『コンフィデンスマン』は、詐欺師を英雄化している映画である。悪人を騙すことで正当化しているものの、詐欺は詐欺である。しかし、それでもそこに正義はあるのである。

 「正義は相対的なもので、唯一絶対的なものはない」と考えるのが正しい正義論であると思うのである・・・

「ソクラテスの死」Gordon JohnsonによるPixabayからの画像


【今週の読書】

  



2023年12月17日日曜日

仕事をするということは

 転職して2年。当初は不安だったが、今では役員にもなり、会社を中核で動かしているという満足感に浸っていられる。それなりになんでも楽しんでやる性格ゆえに仕事を楽しんでいるのは事実であるが、いろいろと悩ましい事は多い。土日とて完全にオフというわけではなく、気持ち的にはすぐに仕事モードに入れるようになっている。パソコンで言えば、「スリープ」である。「役員にオフはない。オンかスリープだけである」と日頃公言しているが、そういうプレッシャーはある。完全にオフにできたら良いなと思うが、そういう立場が良いかどうかは考え所である。

 私は総務部長として迎えられたが、当時そこは「空席」になっていた。前任者は社内にいたが、名目上の肩書き(「◯◯室長」)は与えられていたが、実体は事務仕事の一担当であった。その人の働き方は、典型的な「指示待ち族」である。言われればやるが、言われなければやらない。自分から何か進んでやるという事は決してない。聞けば今に始まったことではなく、ずっとそうだったらしい。それで社長が頭に来て総務部長から外したということのようであった。「空席」という一種異常な状況もそういう事情があったわけである。

 確かに、言われたことだけやっていれば気楽である。余計なことをしなければ怒られることもない。その変わり「当然やるべきだろう」と思われていることもやらなかったりするから怒られることもしばしば。そして「なぜやらないのか」と問われ、「指示されてませんでした」と答えるから余計に怒られる。「指示されなければやらないのか」という怒りを買う。部長にまでなってそれでは呆れられるのも当然である(そもそもなぜ部長に任命されたのかという問題はある)。降格により給料は大幅にダウン。さらに定年を迎えて嘱託になり給料はダウンした。

 その後もその方の働き方は変わらず。嘱託は1年契約だから更新時に週5日でなくて良いとされ、さらに給料は下がってしまった。気の毒であるが、本来働きに応じて支払われるのが給料であるから、それも仕方がないことである。一方、私はと言えば、自分の存在感をいかに出すかを心掛けている。自分が入ったことで、総務部は何が変わったのか。それこそが自分の付加価値であり、それが大きければ大きいほど自分の存在価値が高くなっていく。そして入社から給料を4度上げていただいた。

 若かりし頃、当時支えていた支店長に「仕事の報酬は仕事だ」と言われた事がある。その時は「そんな報酬などいらない」と反発していたが、今ではその言葉の意味はよくわかる。仕事は下りのエレベーターに似ている。満足して止まっていたらどんどん立場は下がる。駆け上がるのは大変だが、駆け上がれば次の大事な仕事を任される。それが支店長の言っていた「報酬」なのだろうが、それを「報酬」と捉えられるかどうかはその人の価値観次第であろう。私はいまだに「報酬」とは思わない。ただ、ゲームで言えば「次のステージ」といったところである。

 難しいのはこの下りのエレベーターは、適度に上がるという事ができないところである。下るスピードに合わせて上がれば位置は変わらない。だが、時間と共にエレベーター自体が下がったりする。私の場合、現状維持していれば来年定年を迎えて嘱託になるところであった。駆け上がったからこそ次の役員というステージに上がれて、定年をクリアできたのである。そして今度は役員は任期が来ればそれまで。再任されるためにはエレベーターを駆け上がり続けなければならない。

 そうしたゲームに嫌気がさしたら降りることもできるが、収入もなくなってしまう。せめて住宅ローンの支払いが終わる70歳までは降りるわけにはいかない。それには自分の付加価値を高め続けなければならない。大変ではあるが、生きていく上では仕方がない。下りのエレベーターに乗ってじっとしているのとどちらが良いかと問われれば、答えるまでもない。あとはどれだけストレスなく、ゲーム感覚でこれを楽しむかではないかと思う。いくら責任がなくて気楽でも指示待ち族にはなりたくない。これはプライドの問題である。これからも下りのエレベーターは倍の速さで駆け上がり続ける。

 そういうスタンスで、仕事を続けていきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

  




2023年12月13日水曜日

論語雑感 述而篇第七(その24)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子以四教文行忠信

【読み下し】

は四つのをしへもちふ、あやおこなひののりまめまこと

【訳】

先生は四つのことを教えられた。読書と実践と誠実と信義である。

『論語』岩波文庫

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 古の真理は今なお真理であり続けたりするものである。『論語』が古典として読み続けられているのもそのためであると言える。ここで採り上げられている「読書」も「実践」も「誠実」も「信義」も、いずれも師が教えるのももっともだと思われる事である。最初の読書については、自分自身その効能を実感している。もともと読書は嫌いではなかったが、学生時代に読んでいたのは小説ばかり。それが社会人になっていわゆるビジネス書、自己啓発書を読むようになった。


 最初にインパクトがあったのが、落合信彦の『狼たちへの伝言』である。これは個人的に心を刺激される一冊であった。男としてどう生きるのかというのを強く意識させられた。そしてもっと勉強しよう、さまざまな知識を身につけようという気になった。その後、続編を始めとして一連の著書を読んで大いに刺激を受けたのを覚えている。これを機にいろいろとビジネス書を読むようになった。今は通勤時間が読書タイムになっていて、朝はビジネス書、帰りは小説という感じで読み分けている。


 読書の何がいいのかというと、実はあまりよくわからない。ただ、今、自分が中小企業と言えども役員になり、会社の動きにも大きな影響を与えられている要因を考えてみると、やはり長年いろいろな本を読んできて身についた知識や考え方なのではないかと思い至るのである。どの本というわけではなく、読み続けた本の蓄積という事である。著名な経営者や実力者たちの考えや体験談を読み、そこから自分なりの意識・考え方・知識を知らず知らずのうちに身につけてきたという事である。


 「実践」は行動、「誠実」と「信義」とは心の持ち方に関わるものである。いずれも重要だというのに異論はないと思うが、なぜなのかと問われるとどうだろうか。その答えもまた読書にある。「百聞不如一見、百見不如一考、百考不如一行」(漢書)を始めとして実践の重要性は様々な本で語られている。さらには、「頑張れば何とか手の届くところに目標を設定すれば、ずっと諦めないでいられる」(イチロー)などのように具体的な方法まで伝授してもらえる。


 様々な経営者の自伝などはその実践のいい例であり、その経験から得られた教訓が「誠実」だったり「信義」だったりすると、その経験を自分でしていなくても、あたかも自分が経験したことのように大事だと理解できる。他人の経験を自分の経験とすることができるのも、また読書の効能と言える。「誠の思いが相手に通じなくて悲しい時は、さらに深い誠を尽くせばよい」(孫正義)という考えを読めば、「誠実」というあり方も参考になる。


 ただ「大事だ」と言われるよりも、「それはなぜなのか」を説明されるとよけいに重みをもって心に響いてくる。そこに実際の体験談が加われば、さらに説得力が加わる。そしてそれがいつの間にか「自分の考え」になっていく。このプロセスの積み重ねが今の自分の考え方のベースになっていると思う。それにそもそも落合信彦の『狼たちへの伝言』が心に響いたのも、子供の頃から読んでいた漫画の影響も大きいと思う。カッコいい男はどんな行動を取るのか。それが漫画で培われたのは間違いない。


 同じものを読んでも同じように感じるとは限らない。影響を受けるか受けないかも人次第。されど読書は間違いなく習慣化する価値は大いにある。孔子の時代からすると、今ははるかに多くの書物がある。そういう恵まれた時代に生きていることを生かさないのは実にもったいないことであると思うのである・・・

 

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【本日の読書】

 





2023年12月10日日曜日

男女別

 男と女は違う。それは生物学的な事実であり、変えられるものではない。だから「違う」という変えられない絶対的なものを前提にして考えればいいと考えている。例えば、一般的に男の方が力が強い。肉体的にも然り。したがって、ここで対等に扱うのは公平ではない。しかし、頭の中で「考える」ことについてはハンディはない。だからここの部分では「同等」とするのが公平である。近年、雇用機会均等法を始めとして女性の権利が拡張されてきているが、これは「考える」ことは同等ということからすると当然と言える。

 肉体的なハンディについては、スポーツに顕著に表れている。大抵のスポーツは男女別である。それは肉体的なハンディを考えれば当たり前で、誰も違和感を持たないだろう。ただし、最近、権利を獲得しているLGBTの「元男」が、女子のスポーツに参加していい成績を収め、女性アスリートから抗議の声が上がっているとニュースでやっていたが、なかなか難しいところ。個人的には何でもかんでもLGBTの権利を神聖視する今の風潮に違和感を覚える私としては、「ほら見ろ」と言いたいところである。

 男女別にするのはいいが、なんでこれまでと疑問に思うのは、将棋や囲碁といった分野である。お互いに座って対局する「頭のスポーツ」であり、男女別にする必要などないように思う。それを分けているのはなぜなのか。ちょっと検索をしてみると、どうやら女性の実力が格段に劣るかららしい。だが、それはなぜなのかはよくわからない。ただ、両方とも古くからの伝統あるものであり、もしかしたらかつての男尊女卑の歴史が影響しているのかもしれない。すなわち、「女のやるものではない」という歴史である。

 世界史は(日本史も含めて)男の歴史である。すなわち、男が支配者として君臨してきた歴史である。これは男女の体格差、体力差から圧倒的に男が力で支配すれば女は敵わないからである。一部例外的に女性の君主もいたりするが、それは「王家」という庇護があったり、あるいは日本の卑弥呼のように背後に控える霊的な力に従ったというもので、女性が力で君臨したものではない。近年、女性が権利を得てきたのは、人類が進化して力で君臨することを改めたからに他ならない。つまり、平和な時代で進歩的な考えがなければ女性は権利を得られないということである(タリバンがいい例である)。

 しかしながら、競技の世界にこれは当てはまらない。だから体力に劣る女性は女性だけで競技するようになる。もっとも、本当にそうかと思わなくもない。例えば柔道で、100キロ級以上の女子と60キロ級以下の男子が戦ったら、男子の方が強いのだろうか。体重差があれば、男と言えども女には勝てないという事もありうる。それでも男女別にするのは、いったいどれだけのハンディをつけたらいいのかが曖昧だし、やはり女に負けるのは男の沽券に関わるという事があるかもしれない。

 我がラグビーも当然男女別であるが、シニアになってくると「年齢差」が大きく現れる。60代となれば20代の若者には当然敵わない。ただ、女子チームだったら20代相手でも勝てるだろうと思う。そこは老いたりと言えどもまだまだ女子には負けないという気概がある。気概だけではなく、体力的にもまだ十分上回っていると思う。ただ、試合時間が長くなればこの限りではない。一度やってみたい気もするが、おじさん連中が20代の若い女子と試合をすると、「良からぬプレー」に走るおじさんが出てくるだろうから、そういう問題がクリアーできるかは難しい。

 女性がその体力的劣性を跳ね返して圧倒的な力を保持しているところが身の回りにある。それは「家庭」である。我が家も日本の中にありながら、家庭内では民主主義が適用されていない。家庭のルールはすべて妻が独断で定め、異を唱えることはできない。絶対君主制の世界で、理不尽な世界にじっと耐えるしかない。ここも男女別にできないものかと思ってみたりする。独裁政権下で虐げられている人の気持ちがよくわかる場所である。

 テニスや卓球にはミックスがある。そういう男女混合も面白いと思う。ラグビーもシニアになればミックスも(対等にやれるという意味で)面白いかもしれない。「純粋な気持ち」で、20代の女性相手なら年齢差を跳ね返せると思うので、そういう混合試合も(家庭ではうまくいかないが)、してみたいと妄想するのである・・・

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【本日の読書】

  







2023年12月7日木曜日

ジェンダー

性別変更、生殖不能の手術要件は「違憲」 最高裁決定

生殖機能をなくす手術を性別変更の事実上の要件とする性同一性障害特例法の規定が憲法違反かどうかが争われた家事審判で、最高裁大法廷(裁判長・戸倉三郎長官)は25日、「規定は違憲で無効」とする新たな司法判断を示した。

日本経済新聞20231025

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 先々月になるが、日経新聞に載っていた記事である。その時は当然の判決のように感じたが、時間が経ってみると何となく「当然なのだろうか」という気がしてきた。性別変更が認められていることは何となく知っていたが、厳密な要件がある事までは知らなかった。その要件とは以下の通り。

1.18歳以上
2.現在結婚していない
3.未成年の子がいない
4.生殖腺がないか生殖機能を永続的に欠く
5.変更する性別の性器に似た外観を備えている

 このうち、手術要件とされるのは4(生殖不能要件)と5(外観要件)であるという。今回違憲と判断されたのは、4のみ。5については「高裁で検討がなされていない」という理由で「差し戻し」になっている。4は、具体的には「卵巣・精巣の摘出」であり、5は「陰茎切除」などであるようである。1から3については、「まぁそうだろうなぁ」と思われる。されど「手術要件」は本当に不要なのだろうか。

 4の手術要件であるが、不要とした場合、女と認定された「元男」が他の女性に子供を産ませたらどうするのだろうか、と考えてしまう。実際はともかく、理論的には可能である。その逆も然り。その場合、生まれた子供は「戸籍上」女同士、あるいは男同士から生まれたことになる。どちらが父親になるのか、どちらが母親になるのか、役所の人も困るだろう。身体の性を捨てるという事は、やはり生物学的にも捨てなければダメなのではないかと思う。

 また、Xでつぶやかれていたのは、「完璧に工事された」女性と温泉で一緒になった女性の感想。当初女性だと思っていたが、声で分かったのだという。そこからどうにも気持ち悪くなって風呂を出たのだとか。完璧に工事されていてもそういう反応があるのだから、工事されていなければもっとだろう。「体は男だが心は女」という「女性」が女湯に入っても問題はないのだろうか。

 逆の立場で考えてみる。すなわち、男湯に「体は女、心は男」という「男性」が入ってきた場合である。これはかなり困ると思う。「女の裸が見れていいだろう」と思うかもしれないが、基本的に「ええかっこしい」の私としては、ジロジロと見るのもカッコ悪い。見るなら誰もいない所で見たいと思うし、見たいのに見ない努力をするのは苦痛に感じるだろうから、そんな公衆の場では逆に迷惑に思うだろう。たとえ混浴であっても遠慮したいと思うほどなので余計である。

 また、普通に考えても、そんな「体は男、心は女」人間が堂々と風呂やトイレに入るのは問題があるように思う。「詐称トランスジェンダー」が現れたらどうするのだろう。変態人間がトランスジェンダーと称して女湯やトイレに入らないとも限らない。それをどう防ぐのだろうか。やはり手術要件(特に5)は必要なのではないかと思わざるを得ない。手術と言うと大事であるし、体への悪影響もあるかもしれない。だが、それだけの覚悟がないなら、心とは違っていたとしても体の性別に甘んじればいいのだと思う。

 基本的に私は「男は男らしく、女は女らしく」と考える昭和世代の男である。子供の頃からナヨナヨした男は大嫌いである。ただ、他人に男らしくしろと言うほど押し付けがましいことはしない。心は女だというのならば、なりたければ女になればいいと思う。しかし、なるなら中途半端にではなく、徹底的になれと思ってしまう。「手術が嫌なら諦めろ」と正直思う。諦めないなら、女湯に入れなくても、女子トイレを利用できなくても我慢すればいいのである。そこは「心も体も女」が利用する場所なのである。

 LGBTを認め、多様性を認め合う世界は素晴らしいと思うが、そこには一定の線引きがあって然るべきである。その線を越えたければ、それなりの覚悟を持って望めばいいのである。江戸時代の日本では公衆浴場は混浴であったというが、それを分けたということは大きな意味があるのである。そこは「心が女」なのではなく、「体が女」の人が利用する場所なのである。

 何でもかんでもLGBTとして尊重するのもいい加減にすべきであると思うのである・・・

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【本日の読書】

  







2023年12月3日日曜日

相手を対等として考える

 個人的に今「好きな女優さん」のトップは満島ひかりである。竹内結子亡き今、満島ひかりのドラマや映画を心待ちにしている自分がいる。そんな満島ひかりの主演しているものを探していて見つけ、ドラマ『WOMAN』を観終わった。よく見れば10年前のドラマであるが、当時はまったく知らなかった。その中で、ストーリーとは別に印象に残ったシーンがあった。満島ひかり演じるシングルマザーの小春は、2人の子供を抱えて毎日忙しく働いているが、再生不良性貧血を患ってしまう。小春は子供たちに心配をかけまいと薬の服用や病院通いをひた隠す。

 小春の容態は相当悪く、しばし倒れたり、体に内出血ができたりする。小学校一年の娘ののぞみは母の異変を察知する。そしてある日、電車に乗って母が通っている病院へ行く。そこで母を探す。病院のスタッフからそれを知らされた小春はいないと言ってくれと頼む。しかし、病院のスタッフに母はいないと伝えられたにも関わらず、のぞみは言う事を聞かずに病院内を探し回る。大人からすれば小学校一年の子供であるが、子供とは言え簡単に騙せるものではない。子供なりに感じるものはあるという事を示すシーンであった。

 ドラマではその後、小春が子供たち2人に自分の病気のことを隠すことなくすべて教える。そうして治療を頑張ると伝える。それでようやく子供たちは安堵する。子供だからと子供扱いするのではなく、きちんと一人前として扱ったのである。親だから心配させたくないという気持ちはよくわかる。であれば隠すよりもきちんと教えた方がいいというのは、私の考え方とも一致していて、それを裏付けるようなシーンだったので、ストーリーとは別に印象に残ったのである。

 会社でも私は部下に自分の知っている会社の情報はすべからく伝えている。業績の事やこれからの方針などもパートさんも参加するミーティングで伝えている。かつて銀行にいた時は、幹部情報というものはあまり下には伝えられなかったものである。「知る必要はない」と思われていたのかもしれない。しかし、それで業績が悪いから頑張れと叱咤されても力など入るものではない。蚊帳の外に置かれれば自分のこと以外は所詮、他人事という意識しか育たない。当時の幹部の人たちは、「自分たちだけが知っている」という事で、一種の「特権意識」を持っていたのかもしれない。

 しかし、隠していてもわかるものはわかる。それにチームとして一体感を醸し出すには、「特権意識」は相反するものである。チームに所属するメンバーが、チームを「自分のもの」と感じるかどうかは「帰属意識」如何であるが、その帰属意識が「蚊帳の外」で醸成されるものでないことは常識で考えてもよくわかることである。逆に普段から会社のことをきちんと教えられていれば、上司の発言の背景などもよくわかるかもしれない。そうすれば、自分なりに何か考えてくれるかもしれない。

 さらに心がけている事は、「聞かれたことにはきちんと答える」という事。情報開示は意識的に行ってはいるものの、自分自身にも気づかない事はある。もしもそういう疑問を直接聞かれたのであれば、個人的な事に関するものではない私は限り答えている。それが業績の事でも会社の事であっても、相手が新入社員であってもである。こちらが胸襟を開かなければ相手も開いてくれないだろう。相手を対等に見るということは大事ではないかと思うことからの行動である。

 実際、相手がどう思っているかはわからない。ただ、子供でも子供扱いするのではなく、社員であれば尚更自分と対等という立場として扱う事が大事ではないかと思う。それは自分が相手の立場であればどう扱われたいかということの裏返しである。それが世の中でどのくらい効果があるのかどうかはわからないが、自分の考え方の一つとして、これからも続けたいと思うのである・・・

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【今週の読書】