2020年10月28日水曜日

意欲ある人間でありたい

 働く人がどういうスタンスで仕事に臨むかというのは、その人それぞれである。単に生活費を稼ぐだけが目的で、必要以上に手間暇時間を取られたくないという人もいれば、仕事に生きがいを感じて取り組む人もいれば、その中間というタイプもいるだろう。何がいいというものではなく、その人の性格によって居心地の良いスタンスで臨めばいいと基本的には思う。私はと言えば、中間タイプだと思う。生き甲斐とは言わないが、できないと思われるのは嫌で、やる以上はベストを尽くしたいと思うのである。

 たとえば個人個人で目標があったとする。銀行員時代も半年を目途に目標を与えられ、期末にその達成度によって賞与支給額に差が出ていた。こういうものがある時は私はもちろん満点を目指す。そのためには何が必要か、どうすればできるかを考え、あらゆる手を尽くす(不正をしないのは当然である)。家に帰っても風呂に入って寛ぎながら考えたりもするし、プライベートの時間であっても必要とあれば頭を働かせるのを厭わない。仕事人間であるとは思わないが、自分の責任はまっとうしたいと考えるのである。

 一方、世の中にはそうでない人もいる。仕事は仕事、大事だとは思うが、家族やプライベートの方がはるかに大事、会社を一歩出たら仕事のことは忘れる。それも一つの考え方であり、それを否定するつもりはない。事実、私も社会人になりたての頃はそんな考えでいたように記憶している。それが今のスタイルに変化していったのは、やはり「やることはやらないといけない」「やるからにはきっちりとやりたい」という考えを追求してきた結果である。

 自分の考え方が一番だとは思わないが、こういうスタンスを理解していないと、コミュニケーションもうまくいかないように思う。目標に対して誰もが達成を目指して全力を尽くすわけではない。最初からやる気がない人はそんなにいないとは思うが、「意欲」という点では差があるだろうと思う。実際、結果的に目標達成できなくても「仕方がない」と大して反省している(または悔しがる)気配がない人というのもいる。「達成できれば達成したいが、できなければ仕方がない」という感じである。

 それはあくまでも個人の考え方の問題であるから、自分と違うからどうこうというものではない。私としては、目標を達成できないのは個人的に悔しいと思うし、次こそはと思う。できなければどうしたらできるかを考える。資格試験でもそう考え、3年やって合格できなければ諦める。それは決して簡単な諦めではなく、要はそこまで徹底してやってそれでもダメならそれは既に自分の能力を超えているから努力しても無駄と思うのである。諦めても後悔しないくらいやり尽くしたとも言える。 

 しかし、何年も何年もダラダラ受け続ける(そして落ち続ける)人が現実にはいる。傍から見ていると、ダメだったらどうすればよいのかを必死で考えているわけでもなく、1時間やってダメなら2時間、2時間やってダメなら3時間というような根性を見せているわけでもない。同じようなことをやって同じように受けるから同じように落ちる。毎年、毎年。受け続ける根性だけは大したものだと思うが、そんな根性は何の意味もない。同じ目標を与えられ、前期も前々期も達成できず、たぶん今期も無理。

 そういう人がどういう気持ちでいるのかは、やはりそもそもの働くスタンス、仕事に対する考え方を知らないと理解できないのだろうと思う。給料が多ければ多いに越したことはないだろうが、かと言ってそのためにやりたくもないことはやりたくないという考えかもしれない。自分の尺度だけで判断してはいけないと思う。現実として賞与額が減らされても、では次回頑張って取り返そうという意欲を示さない人も現実にはいるのである。

 考えてみれば、そういう欲(意欲)というものが、進歩の原動力であると思う。スポーツでもレギュラーになりたいと思えば人より多く練習するだろう。創意工夫や改善もするだろう。うまくできる人に教えを請うて自分の欠点を補い「どうしたらできるようになるか」を追求するだろう。しかし、そもそもレギュラーになれなくてもいいやと思っていたらそこまではしないだろう。自分の満足いくレベルのまま続けるだけである。

 ただ、そういう人は人でいいとして、自分としてはやはり欲を持った人間でありたいと思う。スポーツであればレギュラーになりたいと思うし、個人スポーツであればより多く勝てるようでありたいと思うし、勉強であれば試験に合格したいと思うし、仕事であれば成果を上げたいと思う。「できない奴」とは思われたくないし、とことんできるまで努力をし続けたいと思う。人はともかく、自分はそういう人間でありたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
  


2020年10月25日日曜日

代紋TAKE2と人生やり直し

 小学生の頃からたくさんの漫画を読んで来たが、「手元に置いて起きたい漫画」「何度も読み返したい漫画」というのはそう多くあるわけではない。最近、スマホで手軽に漫画が読めるので、暇をみてはいろいろと読んでいるが、最近見つけて読み直しているのが「代紋TAKE2」である。原作は全62巻の長編だが、過去に3度通しで読んでおり、今回が4度目である。私の中では間違いなく「何度も読み返したい漫画」の一つである。

 物語は31歳のうだつのあがらぬヤクザ阿久津丈二が主人公で、21歳の時に素人の学生応援団にボコボコにされ頭を下げてしまう。以来、やることなすこと裏目裏目の人生で、最後は弟分に鉄砲玉を命じられ、ドブ川で自分の撃った弾が当たって死んでしまう。ところが神のいたずらか、10年前の自分に戻ってしまう。そこから人生をやり直す(TAKE2)というよくある人生やり直しの物語である。

 二度目の人生のやり直し時点は、運命の学生応援団にボコられているところから。かつての悪夢の再現である。しかし、そこは2度目。開き直って対峙する。ヤクザは負けても何度でもやり返すと気迫で相手を圧倒し、詫びを入れさせる。そこから好転した新しい人生が始まる。未来(丈二にとっては過去)の記憶を生かして競馬で大勝ちしたり、流行りとなるノーパン喫茶(今となっては懐かしい)をいち早く始めて成功したり、さすがに2度目の人生だから大きな失敗は事前に回避できるし、未来の知識を利用することもできる。丈二は徐々に組織の中で頭角を現して行く。

 しかし、好転した人生は新しい展開となる。それは過去に経験した自分の人生とは異なるもので、その人生をどう生きるかは新しい試練。そこでもまたうだつのあがらぬ別の人生を送るかもしれない。しかし、最後はドブ川で死んだ恐怖から、丈二はそれまでの自分とは違う自分になっていく。一言で言えば、「信念のある生き方」である。ヤクザゆえに相手と対立するのはしょっちゅう。しかし、引いてしまえばそれで終わり。TAKE2では信念を通し、ピンチにも臆さず向かって行く。

 あるヤクザの老親分が、最近の若いヤクザは損得ばかり考えると嘆くシーンがある。金勘定だとか、どう振る舞ったら得するかとか。そうした傾向に対し、丈二は「ヤクザは職業ではない、生き方だ」と若い者に諭す。それが証拠に、自分の考えを通すために日本最大の暴力団の直系の盃の話をいとも簡単に断ってしまったりする。そしてそれが逆に相手の強い信頼に繋がったりする。己の筋を通すためにたった9人で200人相手の殺し合いに臨む。周囲には損得勘定で動くヤクザが多数出て来て、丈二との違いは際立ってくる。

 なぜこの漫画が面白いかと言うと、それは単に「人生をやり直してみたい」という誰もが思うであろう夢物語を描いているからというわけではない。また、ヤクザを主人公とした漫画で、ヤクザの生きる姿がカッコいいというわけでもない。たまたま主人公がヤクザではあるが、その主人公が2度目の人生で、損得勘定ではなく己の信念(=筋)を通して生きているからだろう。「こんな生き方をしてみたい」という生き方をしているからに他ならない。

 「夢に向かって生きよう」とか、「人生はチャレンジだ」とかはよく言われる。特に成功者の自伝なんかにはいかにチャレンジすることが大事かということが再三語られている。それを否定するつもりはないし、その通りだろうと思う。では簡単にチャレンジができるかというと、そうではない。やっぱり「失敗したらどうしよう」と考えて怯んでしまうことはよくある。その点、丈二は一度失敗してドブ川で惨めに死んでいるわけである。それを考えればなんでもできるわけで、だから大胆に損得は捨てて筋を通せるとも言える。

 もしも実際に人生のやり直しができたとしたら、自分の人生はどう変わるだろうと夢想してみる。上がるとわかっている株を買ったりするだけで金銭的には豊かになれるだろう。今の会社ももう少し早く転職していろいろと手を打っておけば今頃随分楽をできていただろう。今頃あれこれ業績のことを心配する必要もなかったと思う。やり直す時期にもよるが、高校・大学まではそのままでいいだろうが、就職ぐらいから今とは違う人生を選ぶかもしれない。

 人によってどの時期からやり直したいかはバラバラだろうと思うが、その「時点」が「もっとよかったかもしれない人生」の分かれ道と言えるのかもしれない。しかし、人生は「考え方」だと思う。仮にやり直したとしても、「考え方」が変わらなければ、マイナーチェンジで終わるだろう。慎重すぎる人は新しい人生でもやっぱり慎重すぎるだろうし、会社や資産状況が変わったとしても、似たような人生を歩んでいるだろうと思う。

 その点、丈二は劇的に考え方を変えたわけで、それゆえに一介のチンピラから関西最大の暴力団の若頭に見込まれたり、千葉に流れていってたった5人の組員の老舗の組を引き継いでからわずかの期間に2500人を超える構成員の連合のトップになったりする。それは未来の知識を利用してというよりも、ドブ川で惨めに死ぬ恐怖を跳ね返しての信念の生き方によってである。まさに「考え方」を変えたがゆえの成功と言える。

 実際に人生のTAKE2はありえない。皆やり直しの効かない一発勝負である。今さら考え方を変えるわけにも生き方を変えるのも家族がいたりすれば難しいと、言い訳を考えてしまう。それでも損得勘定ではなく、自分の考え方をしっかり持って、その上で行動できるようではありたいと思う。阿久津丈二のように。4回目でストーリーもよくわかっているが、それでも丈二の活躍は読んでいてスキッとする。あと何回読むかわからないが、何度でも心地よく楽しみたいと思う漫画なのである・・・


【今週の読書】
  



2020年10月21日水曜日

脱ハンコに思う

 コロナ禍で在宅ワークが広まり、その結果、在宅ワークの1つの阻害要因としてハンコ文化が浮かび上がり、「脱ハンコ」という考えが広まっている。さらに菅首相が官庁に対して脱ハンコの檄を飛ばしたから、この動きはもっと早まっていくのだろうと思う。それを期待して関連銘柄の株価も上昇しており、これはこれで時代の流れとして仕方がないのだろうと思う。ただ、それに対し、個人的には何となく寂しいものを感じる。ハンコ文化は、廃れて欲しくない文化だと思うからである。

 初めて自分のハンコを持ったのは、高校を卒業した時である。卒業の記念品として学校からもらったのであるが、卒業記念としては粋なプレゼントだったと思う。キチンと印鑑ケースに入れられた初めての自分のハンコは、何となくさらに大人になったという感じを抱かせてくれたものである。それはさっそく銀行で口座を作った時に「届出印」として利用し、以来、今に至るまで銀行の届出印はこれを使い続けている。

 これとは別に実印を持っているが、それは親が作ってくれたものである。何のきっかけがあったのかはわからないが、弟とあわせて作ってくれたのである。象牙が良いかと聞かれ、象牙は嫌だと答え、何とかという木製のものにしてもらった。先にもらった印鑑は名字だけであったが、実印はフルネーム4文字のもの。よく見ないと上下がわからないが、それは「実印を押す時はよく見て考えて押すため」と言われて納得した。使ったのは家と車を買う時と、最近では会社の借入の連帯保証であるが、やはり押す時は慎重に押した。

 銀行に入った時には仕事用の印鑑を支給されたが、これはシャチハタであった。一々朱肉をつけるのは非効率という考えがあったのだと思う。ただ、最初に仕えた上司はこだわりのある方で、銀行支給のシャチハタは使っていなかった。毎朝、女性行員に朱肉の掃除をさせていたが、今から思うと「責任を持って判を押す」という決意の表れだったのかもしれない。その上司には、判を逆さまに押すと「反対だがやむなく押す」という意味になるから気をつけなさいと注意されたのを覚えている。

 結局、銀行在職中は支給のシャチハタを使い続けたが、それはそこまでこだわりがなかったということによる。しかし、転職を機に朱肉式にしようと思い立ち、1つ専用のものを用意したが、ここでもまたしてもシャチハタを支給された。それは役職と日付と名前がセットになっているもので、やむなく社内の書類ではそれを使っている。ただし、それ宅建士として押す印鑑等では用意していたものを意地で使っている。今は、その他用として認印を1つ持っているが、今の自分の印鑑は仕事用を含めて計5本ということになる。

 印鑑の意味合いはと考えると、確かに押すには押すが果たしてどういう意味があるのか疑問に思うケースも多い。実印を押して印鑑証明を添付する場合は「本人確認」という意味があり、銀行の届出印も同じくこの意味がある。だが、ただの認印は三文判など簡単に手に入るし、印鑑照合をするわけでもなければ何の意味もない。我が社も賃貸契約書については、とりあえず印鑑を押してもらっているが、本人確認は別に(運転免許証など)で行っている。まあ、何か争いになってもこれが争点になることはほとんどないと思うから別に問題だとも思わないが・・・

 今後、役所関係の書類に捺印が不要となったとしても、我々都区民には影響はないと思う。オンライン化の流れの中で代わりの仕組みができるのであれば、それもまた良しである。脱ハンコと言っても、「本人確認」という意味合いではすぐになくなることも考えにくいし、ハンコ文化はイコール紙の文化でもあり、それは今後減ってもなくなるものではないと思う。それはつまりハンコについても、使う頻度は減ってもなくなることは(当面)ないということだろう。

 昨年、娘が高校を卒業したが、特に高校から印鑑のプレゼントというものはないようであった。そこで私から娘にプレゼントした。これから銀行口座を開いたり、何かと印鑑を使うことはあるだろう。持っていても困るということはないはず。今や銀行の口座も判がなくても作れるのかもしれないし、今後も必要性はなくなっていくのかもしれない。箪笥の肥やしならぬ引き出しの肥やしになるのかもしれないが、それでも「自分のハンコ」を持っていてもらいたいという親心である。

 時代の流れに逆らうつもりはないが、1つの文化の証として、私は自分の印鑑をこれからも大事にしていきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
  



2020年10月18日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その6)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子曰。道不行。乘桴浮于海。從我者其由與。子路聞之喜。子曰。由也好勇過我。無所取材。

【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、道(みち)行(おこな)われず、桴(いかだ)に乗(の)りて海(うみ)に浮(うか)ばん。我(われ)に従(したが)う者(もの)は其(そ)れ由(ゆう)なるか。子路(しろ)、之(これ)を聞(き)きて喜(よろこ)ぶ。子(し)曰(いわ)く、由(ゆう)や勇(ゆう)を好(この)むこと我(われ)に過(す)ぎたり。材(ざい)を取(と)る所(ところ)無(な)し。

【訳】
先師がいわれた。―「私の説く治国の道も、とうてい行なわれそうにないし、そろそろ桴(いかだ)にでも乗って海外に出ようと思うが、いよいよそうなった場合、私について来てくれるのは、由かな」子路はそれをきいて大喜びであった。すると先師がまたいわれた。―「ところで、由は、勇気を愛する点では私以上だが、分別が足りないので、いささか心細いね」

Web漢文大系

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 やりたいことがあるが、一人ではできない。仲間がいればいいが、しかしいればいいというものでもない。当然、やれるだけの能力がないといけない。そしてそんな能力を持った仲間はいない・・・そんな状況は、思い浮かべてみれば身の回りに溢れているように想う。仕事しかり、スポーツしかりである。仲間がいるのは何よりであるが、物足りない。でも文句も言えない。大いなるジレンマである。

 スポーツでは、特にチーム競技となると試合に必要な最低人数というものがある。野球なら9人、サッカーなら11人、ラグビーなら15人などといった具合である。もちろん、少なくてもできるが、当然穴が空いた分、戦力は落ちてしまう。ラグビーでも社会人になって以降は、そんなことがよくあった。15人集まらなくて相手チームから選手を借りたり、あるいは15人しかいなくて給水係などがいなかったりということもあったのである。やっぱり「いるだけでありがたい」というのはある。

 ただ、たとえ15人揃っても、ポジションによって人がいなくて慣れないポジションをやったり、あるいは経験の少ない人を入れたり、相手チームの選手を借りた場合はサインプレーができなかったりという「戦力ダウン」の状況があったりする。いるだけでもありがたいわけで、文句を言うべきではないが、そうは言ってもという割り切れなさは残ったりする。私も年に一回、高校のOBチームで試合をするが、その時だけ集まる即席チームなので、連携プレーは満足にできず物足りなさをよく感じている。

 仕事でも吹けば飛ぶような中小企業ゆえ、色々と新しい手を打つ必要がある。しかし、その時必ずネックになるのは、「誰がやるのか」と言うこと。なにせ社員数わずかの会社であることに加え、我が社では年齢層が高く、男性では私が最年少。何をやるにしてもまず自分が先頭に立って動かないといけない。しかし、私もスーパーマンではないから一人だけでできることには限りがある。通常業務を回しながらあれこれと手を広げるのにも限度がある。「もう一人、動いてくれる人がいたら」と言う思いは常にある。頭数はたりていても、「動ける人」がいないのである。

 とは言え、基本的には「現有戦力で戦う」というのが私の考え方。だからダメなんだと文句を言うつもりはなく、今の状況で可能なことを一つ一つこなしていくしかないと思っている。みんな自分の仕事はきちんとこなしてくれているし、それだけでも良しとしないといけない。おそらく孔子も自分が掲げる理想の国づくりというのがあって、それが実現できないのをもどかしく思っていたのだろう。それで海外にでも行こうという気になったのだろう。人生、ままならぬことが溢れているのは致し方ないことである。

 先日、読んだ本(『異端のすすめ-強みを武器にする生き方-』)に印象的な言葉が書かれていた。それは、「部下は自分のようにはできない」というもの。「自分だったらこうするのに」とか、「なんでこういう風に考えられないのだろう」とかイラっとすることは多々ある。しかし、そこは生まれも育ちも考え方も異なるわけであり、致し方ないこと。言われてみれば確かにその通り。それに逆のこともあるわけであり、イライラしても仕方がない。

 むしろ、他人はすべて物足りなく見えるものなのではないかと想う。人は皆自分自身を基準に考える。自分の基準から外れればおかしいと思うわけであり、相手の基準から見れば私の方がおかしいということになっているのかもしれない。由からしてみれば、孔子は師匠ながら「分別はあるけど勇気を愛する点で物足りない」ということになるのかもしれない。そう考えてみると、他人に対して感じる「物足りなさ」も緩和されるというものである。自分は果たして会社のみんなにどんな風に「物足りなく」思われているのだろう。

 そう考えてみると、イラっとする前に深呼吸して相手の立場に立って考えてみるのがいいのかもしれない。もしかしたら、自分の方がその点だけに限ればよくできているのかもしれない。それならそうときちんと説明すればわかってもらえるだろう。そういうコミュニケーションを取っていくことが、当たり前だが大事なのであろう。「人の振り見て」ではないが、意識したいと思うのである・・・



【今週の読書】
  





2020年10月14日水曜日

日本学術会議の任命問題について

 菅首相が日本学術会議が推薦した候補者105人のうち、6人を任命しなかったことが問題となっている。野党などはモリカケ問題の次の問題になると考えたのか、いろいろと騒ぎだしている。ニュースでさらりと読み流したところだと、「日本学術会議の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する」という形であるようであり、年間10億円の予算も税金から出ているということを考慮すると、「何が問題なのか?」と思ってしまう。推薦通りに任命しなければならないとしたら、その方が問題であるように思う。

 なんとなく似たようなケースで思い出すのが、2012年に田中真紀子文科相(当時)が大学設置申請を不許可とした問題である。これも認可権は大臣にある以上、認可するかしないかは大臣の裁量下にあるはずだが、マスコミがこれを不当として批判していた。認可権がある以上、認可してもかしなくてもいいわけで、マスコミの批判はお門違いであった。今回もまったく同様なのではないかと思う。

 また、もう一つ似たケースとしては、天皇陛下が内閣の指名に基づいて内閣総理大臣を任命することが憲法で定められている(日本国憲法第6条)ケースがあるが、これは主権者たる国民(の代表である内閣)の指名に基づくものであるから天皇陛下が任命を拒否できるものではない。一方、日本学術会議の方は、「推薦」に基づくものだからあくまでも任命するか否かは総理大臣の裁量となるだろう。なんらおかしなことではない。

 ただ、過去の経緯で、政府は国会において「推薦された者については拒否しない」というような答弁を行っているらしい。こうなると、理屈通りとはならない。過去の答弁を覆すなら覆すで、それなりの説明責任は果たさないといけない。任命を拒否した6名についても、なぜ拒否したのかを説明しないといけないだろう。そのあたりは手続き面というよりも説明責任という問題になると思う。

 一方、野党の批判内容を見てみると、「政府の方針に反対の意向を持つ人物を排除するのは許されない」としている。これも考えてみれば難しい。一見、野党の主張は正しいように思えるが、反対の内容にもよるだろう。最近では国益に反することでも平気で主張する人たちもいる。国民の税金を支出する以上、国民に利するものである必要があるわけで、そのあたりは「学問の自由」とはき違えてはいけない。そうしたことをやりたければ税金で賄われる組織でなくてもいいわけである。

 そもそもであるが、日本学術会議ってどんな組織なのかと思うが、「国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として設立された」とある。その職務は、以下の2つとされる(日本学術会議HPより)。
1. 科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること
2. 科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること 

 また、日本学術会議の役割は、主に以下の4つだという。
1. 政府に対する政策提言
2. 国際的な活動
3. 科学者間ネットワークの構築
4. 科学の役割についての世論啓発
問題になりそうなのは、「1」くらいだが、それとて6名を任命したところで(6/105である)影響はなさそうな気がする。であれば、なぜ任命を拒否したのかという理由にますます興味が湧いてくる。

 批判側は、「学問の自由に対する侵害」などとも主張しているが、別に学問はどこででもできるわけであり、それはおかしいだろうと思う。スポンサーを求めるのなら、スポンサーの意向に反することはできないだろう。それに本当に純粋に学問を追求するだけであれば、そもそも黙ってでも任命されるだろうと思う。6名だけ任命されなかったということは、よっぽどそれだけの理由があったに違いないと思う。となると、やっぱりますます任命拒否の理由が知りたくなる。

 菅総理に対しては、任命拒否自体はいいと思うが、是非とも任命拒否の理由を説明してほしいと思う。案外、その理由を聞いたら誰もが納得しそうな気もするし、野党も挙げたこぶしのやり場に困りそうな気もする。ニュースも深堀してみると案外面白いものが見えたりするのかもしれないと、改めて思うのである・・・



【本日の読書】

2020年10月11日日曜日

鬼滅の刃に思う

  『鬼滅の刃『鬼滅の刃』が話題となっている。最近、あちこちで見かけるし、主題歌もヒットしていて、昨日もテレビで放送していたようだし、例によって映画版もつくられたりしているようである。そんなブームを見て、ちょっと観てみるかとNetflixで観てみたら、つまらなかったら途中でやめるつもりが、とうとう最後まで観てしまった。さらに現在はkindleで漫画を読んでいるところである。個人的にも久々に面白い漫画だと感じている。何がそんなに面白いのだろうか。

 物語はまだ明治の世の中が舞台。山の中で貧しいながらも仲睦まじく母と弟妹と暮らしていた主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が、ある時炭を売りに山を降りている間に鬼に家族を殺されてしまう。唯一生き残った禰󠄀豆子(ねずこ)も鬼になりつつある(鬼に殺されなくても血を浴びると鬼になってしまうのである)。炭治郎はなんとか禰󠄀豆子を元に戻したいと思うが、鬼殺隊の隊士に出会い、自らも隊士となって鬼に対峙し、妹を戻す方法をさがそうとするというもの。

 厳しい修業に耐え、仲間と出会い、鬼を退治しつつ鍵を握ると思われる鬼のトップ鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)に迫るというのが大まかなストーリー。まず心打たれるのは炭治郎の優しさだろう。父を病気で亡くし、長男の炭治郎は懸命に働いて母を助け弟妹の面倒を見ている。冒頭では正月を控え、みんなに腹一杯食べさせたいからと、「無理をするな」「連れて行って」と言う母と弟妹たちを残して町に降りる。町でも炭治郎は皆から好かれ、頼みごとを引き受けるうちに帰りが遅くなり、知り合いに言われるがまま泊まっていく。悲劇はその間に起きる。

 世の中、真面目に生きていても無情なことは起きる。人間そんなことがあれば優しさの感情を失ってもおかしくはないが、炭治郎は憎いはずの鬼に対しても、苦しまずに済ます方法を考えて殺すのを躊躇する。そんな優しさは鬼殺隊の隊士には不向きと鱗滝左近次(うろこだきさこんじ)は感じるが、炭治郎に何かを感じてトレーニングを課す。炭治郎は厳しい訓練に耐え続ける。人間強い目標があれば困難に耐えられる。やがて鬼殺隊の独自の呼吸法を身に付け、鬼殺隊の隊士となった炭治郎は徐々に腕を上げていく。

 主人公が、試練に耐えながら力をつけてライバルを倒していくというのは、この手のストーリーの王道パターンであるが、ありふれたものになるか飛び抜けるかは、そこにどう味付け肉付けされるかだろう。自分には厳しい炭治郎だが、周りには優しい。鬼も最初から鬼である訳ではなく、鬼舞辻無惨によって鬼にされたのであるが、鬼にも鬼になるまでのドラマがある。人間だった頃に辛いことがあったりと、同情の余地が大きい。ダース・ベイダーも初めから悪の存在ではなく、愛する女性を助けたいとフォースの暗黒面に落ちたのと同様である。

 世の中、思い通りになるものではなく、辛いこと、悲しいことがあり絶望に襲われたりする。しかし、そんな絶望の中にあっても前を向いて立ち上がり、愛する者を救わんとする姿は人の心を打つものだろう。鬼も首を切り落とされない限り不死身であり、人間を遥かに凌駕する身体能力と変幻自在の術を使ったりする。鬼舞辻無惨に近づくほどその取り巻きの鬼(十二鬼月)は強敵であり、炭治郎よりも強い「柱」と言われる隊士も殺されてしまったりする。それでも逃げるわけにはいかない。

 仕事でも困難があったり、時に絶望的な気分になることがあったりするが、簡単に逃げるわけにもいかない。かと言って汚い手を使うのも心が痛む。常に堂々と困難を克服していければいいが、凡人にはなかなか難しい。そんなことを経験してきているからだろうか、単純な漫画なのに共感し心惹かれることは多い。テレビシリーズの後も原作漫画には続きがある。単なる鬼退治に邁進する物語ではなく、炭治郎はその優しさと志とによって周りの人たちに影響を与え、また与えられる。そんなところが世間のヒットとは別に個人的に気に入っているところである。

 まだまだ原作シリーズは半分もいっていないが、大人買いして一気に読むのではなく、少しずつ楽しみながら読んでいきたいと思う。漫画もバカにしたものではないと、改めて思うのである・・・



【今週の読書】
  





2020年10月8日木曜日

子どもと野球

 将来子どもを持つとしたら、「一姫二太郎」つまり上が娘で下が息子がいいなとその昔思っていた。そしてその通りに子どもを持てた。娘はともかく、息子が産まれた時は、おおきくなったらキャッチボールをしたいと思った。息子を持った父親なら誰でもそう思うかもしれない。高校時代からラグビーをやっていて、世の中で一番面白いスポーツはラグビーであると思っているが、そこは「キャッチボール」なのである。

 今、小中学生のレベルでラグビーをやろうと思ったら、普通はラグビースクールに行くしかないだろう。小中学校のレベルでラグビーをやっている学校は数少ないと思う。それゆえにそういうラグビースクールに通う子は、多くが親の意向だろうと思う。私も息子にはラグビーをやらせたいと思っているが、ラグビースクールに入れるところまではあえて考えなかった。何となくそれには抵抗感があったのである。

 子どもも小学生ころまではたいてい親の意思に従う。私も習い事は、水泳をやったり書道教室に通ったりした。少年野球のチームにも入った。英語の塾にも通った。すべて自分の意思というより、「やったら?」という母親の勧めに迷わず従ったものである。中学生くらいになると、自分の意思がはっきりしてきて、塾は拒否したりするようになった。みんなそういうものだと思う。

 息子も妻が水泳教室に通わせたり、ダンス教室に通わせたりしたが、言われるがまま通っていた。そしてメインとしてやらせたのは野球である。ラグビーをやらせたいという気持ちはあったが、あまり最初から1つのスポーツにどっぷり浸かるのもどうかと何となく思い、強くは勧めなかったのである。それよりもまずは野球をやらせたいと思ったのである。野球も国民的スポーツであり、男なら「たしなみ」の1つとして野球くらいできないといけないという気持ちがある。

 幸い、息子は私に似て運動神経が良く、足も速いとあって今ではチームのキャプテンを務めている。私は、「二番ファースト」という位置付けの選手だったが、息子は「一番キャッチャー」という位置付け。選手としては、私よりもちょっといい選手かもしれない。今年が中学最後の年で、高校に入っても野球部に入りたいと今は言っている。と言っても甲子園を目指そうというほどのものではなく、「やるなら野球」というレベルである。

 息子がラグビーをやってくれたら、親としては嬉しいと思うが、今のところ息子にその意思はなさそうでちょっと残念である。でも、それはそれで仕方がない。今のところ一生懸命野球をやっているので満足である。それに、私自身高校に入るまで「野球か陸上か水泳かバスケットボールか」で悩んでいて、ラグビーをやろうなどとは欠片も思っていなかったのである。息子もまだどうなるのかはわからない。

 先日、2人で夕食を食べる機会があった。その時になぜ野球をやらせようと思ったのかを息子に語った。その時、「サッカーという考えはなかったのか」と息子に聞かれた。「サッカーをやらせるくらいならラグビースクールに入れていた」と答えたが、サッカーに関してはその通りの意見である。息子もそれを聞いて笑っていたが、サッカーをやりたいとは思っていないようなのが幸いである。

 昔のラグビー仲間が、ラグビージャージに身を包んだ子どもの写真を公開しているのを見ると何となくうらやましく思う。息子が大好きなラグビーをやっている姿を見るのは幸せな事だろうと想像する。しかしながら、息子に野球をやらせた選択は間違っていなかったと思うし、時間を戻してもう一度同じ選択を迫られたらやっぱり野球をやらせるだろう。それは自分自身、小学校4年から6年間野球をやって良かったと思っていることもある。

 思えば、スポーツに関して言えば、小学校3、4年で水泳を習い、4年から野球をやり、中学ではバスケットボール部に入った。そうした経験はすべてやって良かったというもので、最終的に辿り着いたラグビーはその集大成である。息子がこの先どうなるかわからないが、ずっとラグビーでない方がむしろいいとさえ思う。ひょっとしたら、高校に入って気が変わるかもしれない。まだ少しだけ希望は持っていたいと思うのである・・・


【本日の読書】
 



2020年10月5日月曜日

論語雑感 公冶長第五(その5)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子使漆彫開仕。對曰。吾斯之未能信。子説。
〔 読み下し 〕
漆彫開しつちょうかいをしてつかえしむ。こたえていわく、われこれいましんずることあたわず、よろこぶ。
【訳】
先師が漆雕開に仕官をすすめられた。すると、漆雕開はこたえた。
「私には、まだ役目を果たすだけの自信がありません」
先師はそのこたえを心から喜ばれた。
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 そう言えばいつの間にか人を呼ぶのに「呼び捨て」はあまりしなくなったなと思う。今は基本的に年齢いかんにかかわらず「さん付け」である。社内でももちろん(といってもみんな年上だから呼び捨てはできないというのもある)、週末のラグビーにおいても「さん付け」である。たとえそれが年下であっても。学生時代や社会人になっても間もない頃はそうではなかった。年下は基本的に呼び捨てであった。それが変わったのはいつ頃だろう。

 いつの頃からかは忘れてしまったが、社会人になってだいぶ経ってからだと思う。キッカケは特になくて、社会人もだいぶ経つと年齢のよくわからない人が増えてくる。若いのにおっさんくさいとか、若いと思っていたら意外に年を食っていたりとか。その都度年齢を確認して言葉遣いを変えるのも大変だし、であれば最初からすべて「さん付け」で呼んでいれば苦労はない。そんな合理的な発想からであったと思う。

 もちろん、逆の場合もあるわけで、年上の人から「君付け、さん付け」で呼ばれれば悪い気はしない。もちろん呼び捨てでも気にならないが、なんとなく丁寧に接してもらっている感は強い。社会人はとかくコミュニケーションが大事だし、人()によって態度を変えるのも面倒であるし、そんなわけで今では普通にみんな「さん()付け」にしてしまっている。最近知り合ったラグビーの仲間でも、若手はみんな「君」で呼んでいる。

 そんな中で、たまに学生時代の仲間や、呼び捨て時代の仲間に会うと戸惑いを覚えるのである。顔を見れば名前が(呼び捨てで)浮かんでくるわけで、今更「君付け」もなんか居心地が悪い。そこで以前のように呼び捨てにするが、そうするとやっぱり親近感が強く出てくる。そんな仲間には逆に呼び捨てで呼ばれた方が居心地がいい。いわゆる「俺お前」の関係というやつだろう。それはそれでいいのだと思う。

 それはそれとして、「さん付け」には丁寧感が出せるという利点がある。時に感情的になりそうになる時も「さん付け」だと感情をセーブしやすくなる。それは総じて言葉遣い全体にも通じるのかもしれない。物言いも柔らかくなるし、円滑な人間関係を築くには丁寧な言葉遣いは欠かせない。そしてそれは謙虚な姿勢にも繋がると思える。謙虚な人間は他人に警戒感を与えないし、好感を持ってもらえる助けになる。

 一昔前、ボクサーに亀田三兄弟というのがいた。ボクシングをやろうとする人間は、それなりに闘争心が強いと思うが、演技なのか地なのかはわからないが、やたら強がって相手を平気で罵倒するタイプであった。ひょっとしたら演技だったのかもしれないが、本人の本当の姿はともかく、画面で見る限りにおいては嫌悪感しか覚えなかったのを覚えている。おそらく、「謙虚」という言葉は彼らの辞書にはなかったと思う。

 謙虚な姿勢は、他人に好感を与えるばかりでなく、自分自身にもいい影響を与えると思う。それはやはり「努力を維持する」という部分である。「まだまだ」と思えば、もう一歩の努力につながる。「こんなもんか」と思えば油断につながるし、そもそも自分で成長しようという意識は生じないのではないかと思う。簡単な仕事でも、簡単にこなすか自分なりの一工夫ができるかでは大きな違いがある。謙虚な姿勢を保てる人であれば、その一工夫ができると思う。

 自分にはまだ自信がないと答えた漆雕開を孔子が褒めたのは、そんな考えがあったのではないかと思う。果たして自分はどうであろうか。そういうスタンスを維持するためにも、「さん付け」の習慣はずっと続けていきたいと思うのである・・・






【本日の読書】
 



2020年10月1日木曜日

監視社会の是非

 TOKIOの元メンバーが、今度はバイクの飲酒運転で捕まった。それ自体、別に興味があるわけでもないのだが、その瞬間を捉えたドライブレコーダーの映像が公開されていたのはちょっと興味深い。また、ニュースでは付近の防犯カメラの映像も公開されていて、近頃はうっかり悪いこともできないと思う次第である。そう言えば、仕事でも警察から防犯カメラの映像提供の協力要請を何度か受けている。今や犯罪捜査には欠かせないのだろう。

 中国では、この防犯カメラ(監視カメラ)がいたるところに設置されているらしい。当然ながら、カメラの数が多ければ多いほど、映像のトレースは可能なわけで、現場から逃走したとしても、映像をたどっていけばいずれ捕まることは免れない。アメリカでボストンマラソンの爆弾テロの犯人を特定したのも監視カメラの映像であり、数が増えれば増えるほど、そして技術が上がり鮮明な画像が撮れるようになる程、悪いことはできなくなる。

 そういう来るべき「監視社会」はどうなんだろうと考えてみる。そう言えば、以前グアムに旅行した時、空港の入国審査で指紋を取られた。今後アメリカで何かやらかしたら、指紋照合で一発で身元を特定されるだろう。別に悪いことをしなければいいわけであるから、複雑に考える必要はないが、なんとなく怖いような気がする。日本は逆に外国人に対して入国審査で指紋を取るようなことをしているのだろうかと思うが、少なくとも国民に対してはしていない(やれば共産党あたりが騒ぐだろう)

 しかし、指紋や声紋など個人を特定できるデータをあらかじめ国が管理するというのはどうなんだろうか。映画『プラチナ・データ』では、全国民のDNAデータを国家が生まれた時から管理し、犯罪検挙率100%の社会、冤罪率0%の社会を描いていた。これはある意味理想的な社会であるかもしれない。なんとなく大丈夫だろうかという不安を感じなくもないが、犯罪を犯さなければいいわけで、不安になるという方がおかしいと理屈では言える。

国家が全国民のDNAデータを管理するというのは、犯罪捜査に限定して使う(身元不明死体などの身元確認にも使えるかもしれない)と言われてもなんとなく不安が残る。だがもし、実現したら犯罪は激減するように思う。あるいは偶発的な事件は防げなくとも、未解決事件はほとんどなくなるわけである。逃げても事件現場から隠れている場所まですべてトレースされるだろうし、指紋やDNAが残っていれば100%身元確認できる。

 「犯罪者が100%捕まる社会」となれば、衝動的な事件を除いては犯罪を起こそうという意欲をくじけさせるだろう。泥棒だって入るところから記録に残るわけである。事件だけでなく、当て逃げなんかもすぐ足がつくし、駐車違反だって後から御用である。悪いことができないという意味では、完全に逃れられない社会が実現するだろう。そういう社会は、果たして我々にとって望ましい社会なのだろうか。

 一種理想的な社会であるのは事実であると思うが、どうにも気持ちの悪さが残るのは、運用側に対する不安に他ならない。つまり、権力を握った者が恣意的に運用したら怖いということである。この民主社会においてそういう事態が起こるだろうかという疑問もあるが、それは起こってもおかしくはない。何より選挙の投票率が低ければ、ある特定の勢力が知らぬまま権力を手中にし、自らの都合に合わせて法律を変えていくということは十分あり得る。そうなると怖いことになる。

 しかし、悪い想像ばかりではなく、いい想像をしてみるとまた違う風景が見える。子どもが突然行方不明になったなんて場合も、即座に映像をトレースすれば行方を追跡できる。幼い頃生き別れになった親族もDNAデータを利用すれば一瞬で近親者を探し当てられる。当たり前のことであるが、要はなんであれ「ツール」である以上、それを使う者によっていいものにも悪いものにもなるということである。

 「監視社会」が住みやすい社会になるのか、窮屈な怖い世界になるのかは、運用者次第であるし、それを我々一人一人がしっかり監視するか否かにかかっているということになるのだろう。無関心こそが一番危険だと言えるのかもしれない。個人的には、そんな監視社会は悪くないと思うのである・・・




【本日の読書】