2017年9月27日水曜日

論語雑感 為政第二(その10)

 子曰。視其所以。觀其所由。察其所安。人焉廋哉。人焉廋哉。
()(いわ)く、()(もっ)てする(ところ)()()()(ところ)()()(やす)んずる(ところ)(さっ)すれば、(ひと)(いずく)んぞ(かく)さんや、(ひと)(いずく)んぞ(かく)さんや。
【訳】
先師がいわれた。人間の値打というものは、その人が何をするのか、何のためにそれをするのか、そしてどのへんにその人の気持の落ちつきどころがあるのか、そういうことを観察してみると、よくわかるものだ。人間は自分をごまかそうとしてもごまかせるものではない。決してごまかせるものではない。
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論語は、長い年月にわたって読み続けられているが、その理由は内容がもっともであることがあるだろう。「それは変だ」と思うような内容だったとしたら、とても歴史の評価には耐えられない。今回の言葉もそれは同様で、「その通りである」ことに異論はない。人というのは、口先で偉そうなことを言っていても、言動にその人の本質が表れたりするものである。

そのことに関しては、「言行一致」という言葉があるが、「言っていることとやっていることが違う」というのは、かなりその人の評価を下げることになる。企業でも人でもそれは同じで、「お客様第一」を謳いながら、結局自分たちの都合を優先している会社などいくらでもあるだろう。電話をした時にプッシュボタンを長々と押させるような会社が、「お客様第一」なんて掲げていたりするのはザラである。

銀行員時代は特に上司の人となりが、言行によく表れていたと感じていた。ある上司は営業と称して日本全国出張を繰り返していた。営業担当役員であったし、それは「合法的」だったから誰も何も言わなかったが、「どこどこでは何がうまい」とかそんな話ばかりしていると、「何しに行っているのだ」と思うものである。成果が伴えばそれでも良いのだが、その役員はいつもあいさつ程度の役割が中心で、実務は部下が行っていた。よって、契約に至らないのは当然部下のフォローが悪いことになっていたのである。

また、ある時の私の直属の上司は実務の基本的知識がなく、私に説明を求める割にその説明に納得せず、本部等の担当部署に確認するように指示することが多々あった。一応指示だし、確認するのだが、当然答えは私の答えた通りであり、本部の担当者からは「こんなことも知らないのか」というニュアンスで対応されたりすることもあり、いい気分がしないものだった。そんなに部下が信用できないのなら、自分で聞かないと部下が「聞いた振り」するかもしれないのでは思ったものである。

またある人は、見事なくらい「上司にこびへつらう」人であった。「自分の上司」という意味である。サラリーマンである以上、上司の意向を汲んで動くのは当然である。それで組織は機能するわけであるから、いかに会社の方針や上司の指示に従って行動するかは大事なことである。ただし、それにも限度がある。その方は、「自分の考え」というものがまるでなく、常に自分の上司が何を言うかを気にして我々に指示を出していた。

ある時は、トップの部長の指示がおかしな時があったが、それに異を唱えることなく我々に指示を出してきた。当然、私はそれがおかしいと指摘したが、その方は聞く耳持たず。「部長の指示だからやれ」で終わりである。やむなく部長に直接真意を正したところ、部長も自らの過ち(勘違い)に気づき指示を訂正。我々の上司はすぐさまそれに追随。そんな上司に尊敬の気持ちなど欠片も湧かない。

私の尊敬する数少ない方は、ある大組織のトップを歴任され、それは見事な肩書・経歴をお持ちの方であるが、齢80を超えてもなおかつお元気でしかも腰が低い。「実るほど頭が下がる稲穂かな」を実践されているような方で、そういう人の言行に触れていると、自然に尊敬の気持ちが湧いてくる。自分自身、かくありたいと思うのである。

翻ってみて、自分自身はどうだろうと思う。特に年下の者や部下などと接する時には要注意だろう。必要以上に威張っていないだろうか、面倒なことをただ押し付けていないだろうか。自慢話ばかりしていないだろうか。ずる賢いことやセコイ事をする姿を見せていないだろうか。大事なところは人の事より我が事だろう。「あの人のようになりたい」と思われるような行動を取っているだろうか。人間の小さい上司のあれこれを思い出して笑っている場合ではなく、自分の戒めとしたいところである。

孔子の言葉は、人の態度ではなく自分の態度について言っているのだと、ここでは解釈したいと思う。人をごまかそうと思ってもできるものではなく、そうではなくて自ら意識して「こういう人物に見られたい」と思うような行動を心掛けなければならい。何よりもいい反面教師に恵まれてきたわけであるし、それを生かすのは他ならぬ自分自身である。今回の言葉は、そんな自分自身の行動指針としたい言葉だと思うのである・・・





【本日の読書】
  
 

2017年9月24日日曜日

最後の公式戦

小学校3年から野球チームに入った我が息子。今年はいよいよ6年生で最年長。チームは小学生対象であるため、今年で最後なわけである。そして現在の大会が最後の公式戦。トーナメント形式なので負ければそれまで。ここまで2連勝できたが、本日の相手は「全国三位」の実績のある相手。どこまでやれるか、が焦点であった。

我がチームは何と初回に先制点を奪う。しかし、小学生の試合では1点はとてもリードにはならない。息詰まる投手戦。小学生だと、それぞれの子の成長には差がある。体格の大きな子もいれば、小さい子はその半分くらいかと思えるくらいである。両チームともピッチャーは体格のいい子。この頃は野球のうまさ加減は、体格要因が一番だと思う。そういう相手チームも、ピッチャーはチームで一番体格がいい。

息子のチームのエースピッチャーは、球も速く相手は三振や打ち損じが多い。唯一の難点はコントロールで、過去の試合では四球に死球で連続押し出しも見られた。だが、それを責めるのも酷なところがある。特に相手の打者が小さいとストライクゾーンも小さくなる。そういう相手が打席に立つと、どうしてもボールが先行してしまう。今日はまだいい方であった。

野球というのは、考えてみれば面白いスポーツである。ラグビーではフィールドがきっちり決まっていて、ゴールエリアも明確である。しかし野球の場合、ストライクゾーンは打者によって異なる。その相対的なエリアを見極めるのは審判という「人の目」。ボールを持って攻めるのは「守備側」のチーム。ピッチャーは打者が打ちやすいストライクゾーンに投げないといけない。

試合は4回裏にとうとう追いつかれる。引き離したいところだが、1番からという好打順で、先頭バッターが塁に出るも、好機を生かせず得点できない。そして5回の裏、相手のエースピッチャーが打席に立つと、いきなりのホームラン。さすがに体格がいいだけあって、気持ちいいくらい打球が飛んで行く。そしてそのあとは長短の連打。いつのまにか打者一巡。そしてこの回8点目が入ったところで、審判がコールドゲームを宣言しゲームセット。これが息子の最後の公式戦となる。

我が息子のチームキャプテンは、実はエースピッチヤーの子ではなく、何とチーム唯一の紅一点の女の子。先頭打者でファーストを守り、時にリリーフのマウンドにも立つ。なかなか運動神経もいい。元気もあってリーダーシップもあるようで、そんなところもあってのキャプテンなのかもしれない。小学生くらいまでは体格的に男女差は少ないからなせる技とも言える。おそらく中学を卒業する頃までには、成長差が出て対等に競うことはできなくなるだろう。多分ユニフオーム姿からは想像できない可愛らしい女の子になって行くと思う。

最終回の相手チームの怒涛の攻撃。均衡が破れて一気に雰囲気が悪くなりがちな中、我が息子はキャプテンとともに声を出してよくチームを盛り立てていた。これは大事なことだと思う。試合には勢い、あるいは流れというものがある。相手チームに流れがある場合、ともすれば実力以上の点を取られることもありうる。そんな流れを喰い止めるべく、諦めない姿勢を示し続けたのは見ていて頼もしいかぎりであった。

残念ながら、流れというより全国三位の実力差が出たと言える試合。息子は最後の公式戦を終えることとなった。まだまだ練習試合等はあるので、卒業までに今のチームで野球はできるが、それでももう今のメンバーで野球をやるのもせいぜいがあと半年であり、楽しんでやってもらいたいと思う。勝っている時の喜び、負けている中でいかに勝利への執念を保ち続けるか、そんな醍醐味を味わえたなら、今のチームに参加した意義は十分にあったと言える。

親としても、息子を頼もしく思えた試合なのであった・・・






【今週の読書】