2024年4月21日日曜日

中東紛争

 昔から中東情勢には興味を持っていたが、昨年10月にハマスがイスラエルを攻撃し、民間人を虐殺して人質を取るという大胆な作戦を実施。それに対してイスラエルがガザ地区へ侵攻して反撃と人質奪還を目指している事態には面が離せない。ウクライナ・ロシア戦争と加え、このイスラエルのガザ侵攻も私の興味を引っ張られる出来事である。いつになったら平和が訪れるのだろうと思わずにはいられない。今回の出来事は、平和的解決がまた遠のいたように思えるが、もしかしたら逆に近づくのかもしれないと思ってみたりする。

 国際世論は、犠牲者が増加の一方であることをもってイスラエルに厳しい。しかし、イスラエルからすれば、自国の民間人を虐殺され、人質まで取られたら強硬策に出るしかない。例えパレスチナの民間人に犠牲者がでようとも、であろう。そもそもであるが、以前からハマスは自国民を平気で盾に使っている節がある。病院からロケット弾を発射し、イスラエルが発射拠点としての病院を叩けば、「病院を攻撃した」と非難する。それで国際世論を味方につけようとしているのだろう。

 その国際世論を味方につけるという作戦は、今回は有効に機能している。イスラエルの絶対的な後ろ盾であったアメリカも、イスラエルに対して渋い顔をし始めている。これこそハマスが狙ったことであるのだろう。軍事力ではイスラエルに勝てない。ならば国際世論を味方につけるというのは、極めて合理的な作戦であると言える。今回、イスラエルは残るガザ南部地区に侵攻を図ろうとしている。それに対し、更なる犠牲者の増加を回避すべく、国際世論はイスラエルの攻撃に反対している。

 まさにハマスの狙い通りである。だが、味方の民間人を犠牲にするという戦術は、果たして当のパレスチナ人たちにどう思われているのだろうかと疑問に思えてならない。自分たちの選んだ代表だから仕方ないと思っているのか、それともハマスの戦術に気が付かずに利用されているだけなのだろうか。各国もイスラエルに対して自制を求めるだけで、ハマスに対して人質を解放しろと要求しているようなニュースは、国連事務総長とロシアくらいであまり目にしない。

 本来は、イスラエルを非難する前にハマス非難が先だと思うが、軍事力の大きさだけでイスラエル批判の声の方が大きく感じる。そしてここに来て、イスラエルがイラン大使館を爆撃し、新たな展開に発展する可能性が出てきた。イランも報復を宣言し、どうなるかと思われたが、事前予告付きのドローンや巡航ミサイルでの空襲で、しかもほとんど撃墜されたのにも関わらず、イランが報復終了と宣言した。これは「形ばかりの報復」のように思えて安堵していたが、イスラエルが更なる報復をした。これがどうなるのだろうか。

 双方とも、体面を維持するための「形ばかりの報復合戦」であればいいが、本格的な衝突となればどうなるかはわからない。かなり危険な傾向に思えるが、イスラエルもガザと北のヒズボラをも相手にしているだけに、イランにまで手を出すのは危険なように思う。あまりエスカレートしなければいいなと思わざるを得ない。長く続くパレスチナ問題であるが、そろそろ本格的に平和的解決を目指していけないのかと思う。

 ただ、それには「イスラエル殲滅」を掲げるハマスの方針変換が必要であり、それは内部的な動きを期待するのは難しく、やはり外圧によるしかないのかもしれないと思う。そしてその外圧とは、今回のイスラエルによる侵攻なのかもしれない。イスラエルの侵攻によってハマスが壊滅的な打撃を受け、これまでの路線変換となればそういう可能性もあるのかもしれない。そう考えれば、今回の紛争にも意義があると言える。

 どちらにせよ、平和的な解決が早く訪れことを願いたいと思うのである・・・

Eduardo CastroによるPixabayからの画像

【今週の読書】

資本主義の中心で、資本主義を変える (NewsPicksパブリッシング) - 清水大吾  三体 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 光吉 さくら, ワン チャイ, 立原 透耶







2024年4月18日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その34)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子疾、子路請禱。子曰、「有諸。」子路對曰、「有之。誄曰、『禱爾于上下神禔。』子曰、「丘之禱之久矣。」

【読み下し】

む。子路しろいのるをふ。いはく、もろもろりや。子路しろこたへていはく、り、いのりいはく、なんぢあめつちあまつかみうぢがみいのると。いはく、きういのるやひさしかり

【訳】

先師のご病気が重かった。子路が病気平癒のお祷りをしたいとお願いした。すると先師がいわれた。

「そういうことをしてもいいものかね。」

子路がこたえた。

「よろしいと思います。誄るいに、汝の幸いを天地の神々に祷る、という言葉がございますから。」

すると、先師がいわれた。

「そういう祷りなら、私はもう久しい間祷っているのだ。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************


 孔子の生きていた時代には、まだ医療も十分に確立されておらず、「祈り」が有効な治療方法の1つだったのだろう。今の我々の基準からすると、「祈り」に何の効果もないことは明らかであるが、今の我々の基準でも、どうにもならない事に対しては「祈る事ぐらいしかできない」 という事もあり、当時の人たちをバカにする事はできない。何もしないより、何かをしているという充足感を得られる事から考えても、祈るという効果はあると言える。そんな祈りならとっくにやっているという師匠の回答。


 何かトラブルがあり、可能な限り手を尽くしているがなかなか解決に及ばないという事は、現代の我々でもよくある。そこに後からやってきた人物が、事情を聞いて「それならこうすればいい」とアドバイスをくれるが、「そんなことはとっくにやっている」となれば、さらにイライラ度が増す事もよくある。「わかりきったアドバイスしかしないんだったら余計な口は出さないでくれ」というところである。親切心からのお節介であっても、トラブル度によっては、そんな相手の気持ちを忖度して感謝できるゆとりがなかったりする。


 先日も会社でなにやら部下がトラブルらしく額を突き合わせて相談している場面に出くわした。何か事務的なトラブルのようである。私も部の責任者として知らん顔するつもりはないが、さりとて「どうしたの?」と口を出すのも憚られるので静観していた。というのも、いくら総責任者と言ってもすべてのトラブルを解決できるわけではない。特に事務的な部分では、部下の課長の方が詳しかったりする。ならば静観して任せ、もしも事務だけでは解決できない部分を相談してきたら対応するというのがよさそうだと判断したのである。


 実際、責任者としてはトラブルには気を遣う。早く手を打たないといけないものも多いし、我関せずで済ませられるものでもない。ただ、モノによっては、小さなトラブルであれば部下を信頼して任せるというのも大事であろう。それで問題解決力が鍛えられる事もある。ましてや自分に解決力がないのであれば、ある人に任せるという事も大事であろう。問題解決力がないのに口を出すのは邪魔をしているのも同然である。何とか役に立ちたいという気持ちはわかるが、烏合の衆が増えるだけでは意味がない。


 その昔、私が駆け出しの銀行員時代の事、内容は忘れてしまったが何らかのトラブルがあって、当時の融資課のメンバーが集まってどうしようとやっていた。初めは女性社員が若手に相談し、若手がわからずに同じ課の先輩に相談し、それでもわからずに主任を巻き込み、しまいにみんなで一塊になっていたのである。そこへ鬼上司がやってきて、「わからない者が雁首揃えても邪魔なだけ」と一喝してみんなを蹴散らした事があった。その時、「確かにな」と思ったものである。


 日本人的な感覚として、困った人を放ってはおけないという気持ちがある。だから、自分が解決できないとなって先輩に相談しても、関わった以上、「それでは僕はこれで」とその場を離れるわけにはいかない。それで結局、融資課の全員が雁首揃える事になってしまったのである。子路も師匠を案じるあまりの申し出であり、それ自体責めるのも酷である。ただ、弟子の思いつくことなど、師匠はとっくにわかっているというのもある。師匠の回答に少しイラっとしたものを感じなくもないが、そんな両者の気持ちが行間から伝わってこなくもない。


 親切心とよけいなお節介はコインの裏表かもしれない。自分が困難にある時は、よけいなお節介ではなく、親切心と捉えて素直に感謝できるゆとりを持ちたい。「お前がそう言うのなら、もう少し念入りに祈ってみよう」と言えるようでありたいと思うのである・・・


TumisuによるPixabayからの画像



【本日の読書】

資本主義の中心で、資本主義を変える (NewsPicksパブリッシング) - 清水大吾    三体 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 光吉 さくら, ワン チャイ, 立原 透耶





2024年4月15日月曜日

休みの日に考える

 週末はだいたい同じように過ごす。土日どちらか1日はシニアラグビーの練習に行き、どちらかは実家へ行って家事をこなす。本当は家でのんびりしていたいところであるが、どちらも好きでやっているので致し方ない。忙しく過ごしているようであるが、移動中はいろいろな事を考えたりする。主なものは、仕事とラグビーである。仕事については気になっている事であり、ラグビーについては試合中のプレーについてのあれこれである。「この前のあのプレーはああすれば良かった」とか、「こういうシチュエーションではこんなプレーをしてみよう」など妄想は限りない。

 仕事について考えていると、そう言えば昔、支えた支店長に「休みであっても仕事の事が頭に浮かぶようでなければダメだ」と言われたのを思い出す。「仕事の報酬は仕事だぞ」とか、最終的に結婚式の仲人までしていただいたその支店長にはいろいろとご指導いただいた。しかしながら、当時の私にはそのご指導を受け入れる心構えができていなくて、「休みの日にまで仕事の事なんか考えていられるか」、「そんな報酬いらねぇよ」と心の中で毒づいていたのである。今となっては、誠に恥ずかしい限りである。

 と言っても、その後の人生で仕事人間になったというわけではない。基本的な考え方は変わっていない。休みの日には仕事よりプライベートが大事であり、仕事は生きるためにしているのであって、仕事のために生きているわけではない。ただ自然と気になって、気づくと考えてしまっているというだけである。ラグビーのプレーに関する妄想と同じである。この週末は、週明けの会議で役員間で認識の相違がある問題について、どう説明しようかとあれこれ考えていた。説明の仕方によっては相互理解が遠のくと思う問題である。

 それは売り上げ目標の考え方によるもの。現場を担当する役員は、役員会で業績報告をするのだが、説明を聞いても目標を達成できるのかどうかわからないのである。よくよく分析したところ、その原因がようやくわかったのである。経営計画で立てた数値目標は、いわる「成り行きベース」の計画よりも高い。成り行きベースで頑張っても計画は達成できない。計画と成り行きベースとのギャップを「経営陣」が考えて埋めていかないといけない。ところがその役員は現場の各プロジェクトの報告を事細かにしてくれるのだが、「計画との差異」についてはそれが及ばない。大事なのは「その差異をどう埋めるか」である。それを議論しないといけないのに、そこが抜け落ちてしまっている。それをどう説明するかとあれこれ考えていたのである。

 人の心を占めるものは人それぞれである。その時々で気になる事が、優先的に脳内を占拠する。それが趣味であったり、仕事であったり、気になる女性であったりするわけである。仕事人間ではないと言いつつも、仕事の事が脳内を占めるという事は、それだけ仕事の事を気にしているという事になる。それ自体、否定するつもりはなく、事実その通りであると思う。ただ、休みの日にまで仕事の事が脳裏を離れないと言うと、仕事中毒なのかという気がしなくもないが、結局、自分がやっている事をなんとかうまくやろうとすればあれこれ考えるだろうというものである。そこに仕事も趣味も違いはない。

 そう考えてみると、客観的に「仕事が趣味」になっているのではないかという気もするが、突き詰めて考えると、「趣味とは何か」という事にもなる。「好きでやっている事」と言えばその通りであるが、仕事は「好きでやっている」というより、「やっている事を好きになっている」という方が正しい。詭弁のようではあるが、「楽しみながらやっている」のは間違いない。だから気になる事が脳裏をかすめるのであろう。ただし、前向きの事であればそれほど考えても苦にならないのは確かであるが、苦しいのは悩みの場合だろう。

 過去に何度かそういう事があった。前職では社長に頼られて会社の代表権を持つことになった。肩書は「代表取締役副社長」である。ところが、代表権を持った途端、会社の借り入れに保証を入れるように要求された。銀行ではなく、東京信用保証協会である。公的機関なのにと思いつつも、会社にとって必要な借入だったので判を押した。ところがさすがにその時は悩んだ。保証といっても金額は7,000万円であり、とても個人で返せるものではない。万が一の時には家も含めて財産を失う事になる。自分で立ち上げた会社ならまだしも、請われて入った会社にそこまでする義務はない・・・

 どうしようか悩みに悩んだが、その間は寝ている間も夢に見て目が覚めた事もあった。銀行員時代にもあるトラブルから眠れないほどの苦悩に襲われた事があったが、同じ仕事の考えであっても、夜中に目覚めるほど悩むようなものはやはり避けたい。趣味の分野ではそんなことはないが、そこがやっぱり仕事と趣味との大きな違いなのであろう。夜中にうなされるが如く目覚めて寝られなくなるのと比べれば、あれこれ楽しんで考え事をするならいいと思う。それが仕事の事であっても、その過ぎゆく時は幸いである。週末にあれこれ考えるのであれば、たとえ仕事であっても心穏やかに考えられることであれば良しとしたいと思うのである・・・

PexelsによるPixabayからの画像


    【本日の読書】
脳の闇(新潮新書) - 中野信子  三体 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 光吉 さくら, ワン チャイ, 立原 透耶






2024年4月11日木曜日

同窓会

 昔の支店時代の同窓会に出席した。その支店には、私が銀行に入って2年目の1989年11月に初めての転勤で赴任したのである。集まったメンバーはその時の支店長、次長を初めとして、当時の私の上司、先輩、同僚の女性ら12人である。支店には継続的に大勢の銀行員が転入転出する。同窓会と言っても支店経験者でいけば数限りない。大概、ある支店長を中心にした集まりとなるのが通例であるが、昨日も同様であった。当時の支店長は私の着任後、数か月後には転出されており、実際に一緒に仕事をした期間は短かったが、それでもギリギリ対象としてお誘いいただいたのである。

 もうすでに35年ほど前になる。当時の支店店舗は、今はもう取り壊されてマンションになってしまっている。昔話に花が咲く。私も20代だったし、最年長の次長も40代後半。みんな今の私よりはるかに若かった。面白いもので、お互いに話をしていると、忘れていた記憶が戻ってくる。当時、私の仕事上の責任は軽く、支店経営の懊悩など知るよしもなかったが、次長が業績表彰に入れなかった事を悔し気に語ってくれた。私は入行から12年間で4ヵ店を経験し、以後は支店勤務から離れたため、支店経営には携わっていない。自分の経験していない苦労の一端を伺えたところである。

 幹事を務めたのは私の直属の上司であった方。正直言って、その方が幹事だったから参加したと言っても過言ではない。仕事で成果を挙げるためには、人間性など二の次という考え方もあるかもしれないが、仕事を離れてもなお「お会いしたい」と思われるのは人間性以外にない。「仕事の切れ目が縁の切れ目」となるか否かは、その上司の人間性にかかっているとつくづく思う。強権政治で部下を厳しく管理して成果を挙げさせるのもやり方であり、否定すべきものではない。給料をもらうのは成果に対してであり、人間性に対してではない。ただ、「仕事の切れ目が縁の切れ目」となるか否かだけである。

 35年も経つといろいろな変化がある。今回、幹事の元上司は約30人ほどに声をかけたそうである。行方のわからなくなっている者もいれば、物故者もいる。亡くなった方の名前を聞いて、それほどの年でもないのにと思わずにはいられない人もいる。35年後にはこの世にいないなんて当時は想像すらしなかったが、一時期、同じ職場で働き、会話をした間柄としては、何とも言えない気分になる。そこでもやはり深く残念に思うのは人柄の良かった人であるのは同じである。あまりいい印象を持っていない人については、「あぁ、そうなんだ」という程度でそれほど感慨はない。

 今回の楽しみの一つは女性陣との再会であった。当時はお互いに20代だったわけであり、当然異性としての意識は大きくあった。当然ながら35年経つとみんなそれなりの年齢になっており、世間的にはおじさん、おばさんなのであるが、「相対年齢」は変わっていない。今も昔のイメージのままであり、当時と同じ感覚が生きている。若手同士でしばしば旅行に行ったこともあり、それらの思い出も蘇る。その支店時代で一番楽しかったのは、90年代に入って私の下の年次が増えてからである。次の支店長の時代であり、昨日の集まりとはちょっとズレている。そこが残念であったとも言える。

 それにしても、今はお互いに何の遠慮もない関係のはずであるが、やはり支店長は今でも支店長であり、当時若手だった私からすると今でも精神的な距離感はある。世間的にはもう引退されているが、こうして集まると今でも「支店長」なのである。「支店長」は「支店長」であり、「次長」は「次長」であり、この関係はずっと変わらないものなのかもしれない。今では半数以上の方が引退されており、まだまだ働かないといけない我が身からすると羨ましい限りである。

 「またやろう」ということで散会。次はいつになるかはわからないが、個人的には「係」レベルで集まりたいと思う。年齢を経れば、歩いてきた道の方が長くなる。こういう機会も増えてくるが、まったく集まることのない集まりもある。幹事を引き受ける人次第というところもあるが、せっかく続いているのだし、次回があるならまた参加したいと思うのである・・・



Willfried WendeによるPixabayからの画像

【本日の読書】

脳の闇(新潮新書) - 中野信子 三体 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 光吉 さくら, ワン チャイ, 立原 透耶




2024年4月8日月曜日

存在感

 私が常日頃こだわっているのは、「自分の存在感」である。私がいるのといないのとではその組織において何が違うのか。「居ても居なくても同じ」では、私など無価値だと言うのに等しい。そこには自分的にこだわりを持っている。かつて「会議で発言しないのはいないのと同じ」と言われた事があるが、それも同じ理屈であると思う。発言するからこそ、その会議に出席している意味があるのであり、さらにその発言によって会議の結論にでも影響を及ぼすのなら、その「存在感」は増すというものである。

 自分がその組織に所属したことによって何が違うのか。かつて銀行の新人だった頃、先輩に「何でもいいから自分の足跡を残せ」と教えられた。その先輩は乱雑だった書庫を整理したそうである。新人だから大したことなどできるわけもない。だが、書庫の整理ならできる。その先輩は、書庫をきっちりと整理して支店のみんなから喜ばれたという。それも立派な「存在感」である。私も、さっそく担当を任された住宅金融公庫の申込書類を整理し、申込から貸付までの段階を顧客ごとに一覧できるようにして上司の感心を勝ち取った。

 以来、どこへ行ってもそれを常に心掛けている。新人であれば大した事ができるわけでもない。何をするにしてもハードルは低い。それが年次を経ればハードルは高くなる。今の私の年次で書庫の整理などしてもそれで存在感が増すかと言えば、ゼロではないがインパクトは薄いだろう(それでも整理して外部に借りていた倉庫を返して賃料削減には貢献したが・・・)。やはりそれなりのインパクトのある仕事をしないと周りに存在感は認めてもらえない。

 前職の不動産業の会社では、赤字に低迷していたところに取締役として入社し、赤字経営からの脱却に向けて徹底的に会社の仕組みを変えた。外注していた清掃業務を内製化し、私もハウスクリーニングを率先してやった。不動産の売買は厳格に利益管理し、主力の業務を賃貸業務に切り替えた。マンションの管理組合に参加してマンションの共用部分の工事を請け負った。仕事のない社員に営業を担当させ、私も同行してやり方を共に考えた。それらによって在籍していた6年半で赤字を一掃して最後の年は史上最高の黒字を計上してみせた。その後、社長に裏切られて社員もろとも追い出されたが、存在感は出せた。


 縁あって今の会社に入ったが、考え方は同じで、自分の存在感を出すためにいろいろやっている。転職フェアへの出展などは初めての試みで無事採用に繋げたし、M&Aで会社を購入するというのは業績に大きなインパクトを残せた。それまで社長自ら財務に深く関わっていたのを私がやることによってその負担をなくした。今では簡単な月次報告で満足していただいている。外部の株主との交渉も主導したし、新入社員の社内研修は今ではすべて私が企画している。役員だからこのくらいやって当然なのであるが、自分の「存在感」は出せていると思う。


 存在感にこだわるのは仕事だけではない。シニアラグビーにおいても然り。自分がチームに加わって良いのか悪いのか。チーム内では熾烈なポジション争いがあるわけではなく、試合ではみんなが出場できるように配慮がされている。しかし、「メンバーに入って欲しい」と思われるか否かはまた違う。私の場合は、幸いタックルが評価されている。チームメイトから体を張ったタックルで信頼感を得られており、たぶん「メンバーに入って欲しい」と思ってもらっている。それで自分の存在感を出せていると思う。


 先週、我が社も新入社員を迎えた。私も社内での研修を企画・主導した。その時にそんな「存在感」の話をした。「新人だから」と言わずに、何か小さな存在感を出すように心掛けて欲しいと伝えた。私が新人の頃、先輩の「足跡」の話に感化されたように、10人の新入社員の誰かの心に影響を及ぼせたなら、それもまた私の「存在感」とも言える。「居ても居なくても同じ」と言われるのは寂しいものである。それよりも「あの人が来て変わった」と思われるようになりたい。


 そんな風にこれからも自分の「存在感」にはこだわっていきたいと思うのである・・・


🌸♡💙♡🌸 Julita 🌸♡💙♡🌸によるPixabayからの画像


【本日の読書】

脳の闇(新潮新書) - 中野信子   成瀬は天下を取りにいく 「成瀬」シリーズ - 宮島未奈






2024年4月5日金曜日

息子との会話

 先週末、私の実家へ息子を連れて行った。受験を理由に正月も行かなかったので、合格の報告を兼ねて連れて行ったのである。両親ともども孫の大学合格を喜んでくれ、少ない年金から合格祝いまで出してくれた。私としてもいい親孝行ができたなと喜ばしく思う。そして、いい息子を持ったとも。何より良かったのは、往復の車中。2人っきりで車中、いろいろな話をした。一緒に住んでいるとは言え、家では普段あまりじっくりと話すこともない。それが今回ばかりはゆっくりと話ができたのである。

 大学に入って何をすべきか、何をしたいか。大学は高校と違って11人の学生の面倒を見てくれない。「4年間で◯単位取れば学位を与える」と言うだけである。サボっても怒られることはない。ただ、単位を取らなければ学位がもらえない(=卒業できない)だけである。ゆえにすべて自分次第である。私の学生時代は、「いかに授業に出ないで単位を取るか」をみんな考えていた。みんなそうして平均週5コマ(1コマ90分)くらいしか授業に出ていなかったところ、私は12コマ出ていた。勉強したかったのである。

 息子がどんな考えを持っているかはわからないが、4年間どう過ごすかはすべて自分次第。いい加減に過ごすのも、いろいろチャレンジするのも自分次第。後から「あの時◯◯しておけば良かった」と後悔しない様、スタートに立っている今こそよく考えてごらんと息子には語った。何より自分の人生である。勉強して合格を勝ち取った自分の大学である。私からは「勉強しろ」とは言わなかった。勉強は人から言われてするものではない。学費は出すので、勉強をする環境は与えられる。あとはそれをどうするかは自分次第である。

 私も自分の大学時代を振り返って後悔はない。あえて言うなら、14コマ、15コマ出たかったということくらいだろうか。しかし、時間は限られているし、勉強だけが学生生活でもない。できる限りのことはやったので、後悔はない。もう一度学生時代に戻りたいかと問われれば、「戻りたい」というよりも、いろいろな経験を積んだ今、「改めて大学で学んでみたい」という表現が正確かもしれない。まだできる可能性もある話だし、将来の楽しみとしてそんな選択肢も取っておきたいと思う。

 息子は第二外国語の選択でスペイン語を選んだと言う。意外な感じもした。私はと聞かれ、「ロシア語」と答えた。なぜと問う息子に、天邪鬼な性格ゆえと答えたが、当時はドイツ語かフランス語かという雰囲気で、最もマイナーな言語を選んだのである。もっとも、第二外国語の選択肢は中国語を加えて4つしかなかったので、息子の大学の方が選択肢は広い。自由に選んでいいと言われていたら、間違いなく選んだのはアラビア語である。これは今でも変わらぬ気持ちである。これもいずれ学んでみようかと思う。

 息子とそんな会話を交わしながらの車中は楽しいひと時。「海外留学も考えてみたらどうか」という私の意見に「そうしたい」と力強く答える息子。私もそういう気持ちがなかったわけではないが、そこまで深く考えずに終えてしまったところ。息子にはいろいろと経験させたいと思う(お金、大丈夫かなという不安はある)。自分がこれから迎えるわけではないのに、息子の4年間を想像すると楽しい気分になる。大学どころか高校にすら行けなかった我が父。今は孫がいろいろな可能性を秘めて大学の門を潜った。父の苦労も実を結んだと言える。

 翻って、会社では新入社員10名を迎えた。自ら企画した社内研修で、これから本格的に社会人として自立していく新人に、自らの思いも加えて話をした。10年後に「あの時に戻ってやり直したい」という事のないように。もしかしたら未来の自分が後悔の念を今の自分に送っているかもしれない。エンジニアは技術職。自らの技術を磨けよと伝えた。どれだけ伝わったであろうか。少しでも多く、伝わったのであればやった甲斐もあろうかというものである。

 いずれにせよ、これからの希望に満ちた若者と話をすることは、自分にとっていい刺激である。自分も人生が終わりではない。まだ先の道のりはある。若者たちに負けないよう、そして後に若者たちの参考になるようなものが残るように、切磋琢磨を続けたいと思うのである・・・

 

paula bassiによるPixabayからの画像

 

【本日の読書】

安倍晋三黙示録 『安倍晋三 回顧録』をどう読むべきか - 西村幸祐 成瀬は天下を取りにいく 「成瀬」シリーズ - 宮島未奈





2024年3月31日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その33)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰、「若聖與仁、則吾幾敢。印爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣。」公西華曰、「誠唯。弟子不能學也。」

【読み下し】

いはく、ひじりなさけごときは、すなはわれあにあへてせむや。そもそもこれまなびていとひとをしへてるは、すなは云爾しかじかきにして公西華こうせいくわいはく、まことしかり。弟子ていしまなあたなり

【訳】

先師がいわれた。

「聖とか仁とかいうほどの徳は、私には及びもつかないことだ。ただ私は、その境地を目ざして厭くことなく努力している。また私の体験をとおして倦むことなく教えている。それだけが私の身上だ。」

すると、公西華がいった。

「それだけと仰しゃいますが、そのそれだけが私たち門人には出来ないことでございます。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 イチローの名言に「小さなことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道」というのがある。プロ野球の選手になる事自体すごい事なのに、そのプロで実績を上げ、さらにはメジャーまで行ってそこでも実績を上げるなんて雲を見上げるようなものである。しかし、そんなすごい実績は生まれた時からの才能ではなく、それこそ小学生の時からコツコツと努力した成果であると言う。誰にでもできるそのコツコツをなかなかできないから偉業なのであろう。


 今で言えば、大谷翔平選手なのであろう。体格には恵まれているだろうが、やはり生まれた時から才能が備わっていたのではなく、世間には知られていない影での努力の成果が今輝いているのだろう。おそらく一つ一つの練習は誰にでもできるものだろうが、誰にもできないくらい継続して、工夫して、人知れぬ汗を流した結果なのだと思う。そう考えてみると、才能とは持って生まれた何かというものではなく、コツコツと積み上げ続けられる力なのかもしれない。そう伝える本(『才能の科学 人と組織の可能性を解放し、飛躍的に成長させる方法』マシュー・サイド著)もある。


 日々目標に向けてコツコツ努力できる才能を持った人が、いずれ万人にはなかなか到達できないところに達する。そうした努力を知らない人が、そこに到達した人をすごいと崇め奉っても、当の本人は大したことをしてきたわけではないという意識がある。だから「すごいですね」と言われてもピンとこないのかもしれない。冒頭の孔子の態度もそんなもののように思う。しかし、11歩でも100日続けば100歩になる。それが積み重なれば、いつの間にか他の人がすぐには追いつけないところに行くことができるのは当然である。


 私も昔からこの考え方が好きで、なんでも少しずつ、あるいは少しでも必ずやるという事を繰り返してきている。学生時代の受験勉強も社会人になってからの資格の勉強もすべてそのやり方である。今は毎朝の哲学読書であろうか。哲学は電車の中で読むというわけにはいかない。ノートを取りながら同じところを何度も読み直しという事が必要なのである。そんな具合だから毎朝12ページしか進まないが、それでも毎朝出勤前の3040分を利用して読んでいると、いつの間にか1冊、2冊と終わっていくのである。


 これには性格によるところもあるかもしれない。私のように少しずつ終わるまで継続してやる事が苦でない人ならいいが、そうでない人もいるだろう。いわゆる「一夜漬け」タイプである。それで結果が出せるのであれば、それがいいだろう。それもまた才能と言える。ウサギと亀ではないが、ウサギのように一気に駆けられる人であればいいが、そうでない人は亀の如く進むしかない。公西華が言った「そのそれだけが私たち門人には出来ない」というのもまた真実だろう。「それだけ」を続けるのもまた大変な事であり、続けられることこそが才能なのだろう。


 どの道、自分的にはコツコツやることしかできないので、これからも何かやるにしろ、11歩が基本だろう。それが自分であり、そうし続けようと改めて思うのである・・・



Suman MaharjanによるPixabayからの画像

【今週の読書】

安倍晋三黙示録 『安倍晋三 回顧録』をどう読むべきか - 西村幸祐   失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2024年3月28日木曜日

おかしな事に思う

 よくよく考えてみると、おかしいよなと思えることはよくある。たとえば「歩きスマホ」。スマホを見ながら歩いていると、人にぶつかりそうになることからやめましょうというものである。それはそれでおかしくはないが、問題は危ないのは歩きスマホだけではないという事である。下を向いて歩いていれば同じように人にぶつかる懸念がある。雨の日に傘をさして下を向いていれば猶更である。先日はなんと文庫本を歩きながら読んでいる人を見かけたが、これも同じである。外人さんが地図を見ながら歩いているのを見かける事もあるが、紙の地図なら良くてスマホのGoogleMapはダメなのであろうかと思ってみたりする。

 スマホと言えば、電車内での通話は遠慮するのがマナーである。車内放送でもご遠慮くださいとアナウンスしている。確かに車内で電話をされると耳障りでうるさいと思うから悪いことではない。しかし、耳障りという意味では、一緒に乗っている者同士の会話でも同じである。特にオバちゃん系になると遠慮がない分イライラ度は高い。なぜ1人の話し声は悪くて複数なら良いのだろうか。スマホは近年になって出てきた事象だからターゲットになってしまっているのかもしれないし、人に不快感を与えない配慮は必要であるが、それはスマホに限ったものではない。

 エスカレーターで歩かないで下さいというのも変だと思う。「危険だから」というのがその理由であるが、エスカレーターだから危ないというのもおかしい。エスカレーターが動いているとしても、その上にいる人間からすれば普通の階段と同じである。相対的には動いていない階段と変わらない。階段自体は段になっているので平面に比べれば危ないとは言えるが、それは動いていない階段も同じ。「動いている」というだけで危ないというのかもしれないが、空港などにある動く歩道では「歩かないでください」というアナウンスはしていない。

 また、そもそも危険かどうかを一々警告するのもいかがかと思う。歩行者同士が歩きスマホが原因でぶつかったとしても大した怪我にはならないだろうし、それが対車だったとしても当事者の問題であり、一々行政が警告するものではないように思う。それに危ないシーンはそれ以外にも多々ある。歩きスマホより酔っ払いの方がはるかに危ないと思う。そしてそれに対しては何も警告がない。もっとも、そうやって危ないと思われる行為に対して一々警告していたらきりがない。

 そんな具合にまるで子どもに対するような警告はいかがなものかと思う。とは言え、ではそんな事はすべきではないのかと言えばそれもまた難しい。電車内で電話を遠慮する傾向は一般的に見られる。電話が鳴っても小声で断って切ったり、あるいは手で押さえて小声で話したりしている。そこには「避けなければいけないこと」という意識があるからだろう。私も急ぎの場合は電車を降りている。そういう行動を導いているのは、広く「警告」がなされているからに他ならない。

 ガザ地区で支援物資を運び込んだトラックに民衆が殺到し、危険を感じた軍が発砲して死者が出たとニュースでやっていた。日本では震災時に支援物資を届けたヘリに、人々が整列して物資を受け取ったのを米軍パイロットが感動したと報じられていたのと対照的である。それもこれも、幼少時から「順番こ」「人に迷惑をかけない」と広く共有されているからだろう。そう考えると、こうるさく一々警告する文化も悪くないのかと思えたりする。そういう警告が、日本という社会の文化を作っているのかもしれない。

 考えてみれば、我々の世代が子どもの頃は、みんな平気でゴミのポイ捨てをしていたし、歩きタバコも当たり前で、携帯用の灰皿などもなかった。当然、吸い終わればポイ捨てだし、社会のモラルも全体的に低かったと思う。それが改善されてきたのは、「ポイ捨てはやめましょう」「ゴミは分別しましょう」といったいろいろな警告の成果なのかもしれない。だとしたら、そうした警告が社会全体のコンセンサス作りに役立っていると言えることになる。お節介な人が注意することができるのも、コンセンサスがあればこそである。

 そんなことをつらつら考えてみると、おかしな事にもそれなりに意味はあるのかもしれないと思う。物事を突き詰めて考えるのは割と好きな方で、それが苦にもならないが、ぐるっと思考が一巡すると結局何も考えないのと同じ結果になったりすることもある。面白いものだとは思いつつ、またおかしなことを見つけてはあれこれ考えてみるのだろうなと思うのである・・・


Arek SochaによるPixabayからの画像

【本日の読書】

ロングゲーム 今、自分にとっていちばん意味のあることをするために - ドリー・クラーク, 桜田直美, 伊藤守     失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2024年3月24日日曜日

MacかWindowsか(息子のノートパソコン)

 この春、無事大学に現役合格した我が息子。今は入学に向けて準備をしている。その一つとして私にアドバイスを求めてきたのはパソコンの事。今はもうパソコンがないと授業もまともに受けられないようである。大学推奨があって、それはMacBooksurfaceである。「どっちがいい?」と息子が問う。こういう事に関してはママはあてにならない。どこの塾に行くとかどこの大学を受けるとかは私は蚊帳の外であったが、いよいよ親父の出番というわけである。

 私個人であれば迷わずMacBookにするのだが、息子なりに調べてきた疑問に答える。

「就職すると会社ではほとんどWindowsだから今から慣れるという意味でもsurfaceの方がいいのかな?」

「確かに会社ではWindowsだろうが、インターネットはどちらでも同じだし、会社独自に使うソフトはどちらにしても入ってからだから関係ない。ただし、ExcelWordはショートカットキーがマックは違うので慣れないと不便」

総じて私の回答は、「どちらを選んでもそう大して変わりないので好みの問題」(親父の好みはMacBook)というものであった。


 私もデビューはWindowsであった。最初のパソコンの師匠はMac派でMacを勧められたのだが、結局Windowsを選んでしまった。しかし、抑えきれないMacへの想いから、マックへ乗り換えて今に至っている。年賀状ソフトなどWindows専用だったりして確かにMacは不便なところがある。しかし、iPhoneiPadiMacと連動で使えるのは感動的であったし、それほどヘビーユーザーでない私からすると、どちらもそれほど違わない。今では仕事とプライベートとをWindowsMacで棲み分けしている。


 息子はさらにあちこちアドバイスを求め、最終的にはsurfaceに決めた(親父としてはちょっと残念)。その決め手になったのは、「画面をフラットにしてタッチペンを使える」ということ。MacBookは画面を開けて立てた状態で書き込むので使い勝手がイマイチということのようである。まぁ、どちらを選んでも一長一短なわけであり、息子が行く大学の現役学生の利用割合は、surfaceMacBook6:4らしい。どちらでも大して変わらないので、決め手が一つでもあるのならそれで良しである。


 それにしてもそんなにタッチペンを使うのだろうかと思ったが、今は大学の講義はすべてデータで資料提供され、それに独自に書き込んでいくようなのである。つまり、紙のノートはほとんど使わないらしい。私の学生時代は、試験前になると講義ノートのコピーが出回っていて、ラグビー部の同期などは、コピーを手に入れた段階で「もう完璧!」と胸を張っていたものであるが(ちなみに私は授業にほとんどすべて出ていたので他人のノートを借りたことはなかった)、今はデータでサクッともらえるのだろう。


 なんだか隔世の感がある。来週からの大学生活に備えて池袋にsurfaceを買いに行く。価格比較のために寄ったヤマダ電機ではすでにほとんど売り切れ状態。出遅れ感に苛まれながらビックカメラに行くと、拍子抜けするくらい希望のものがあった。さすが我が家御用達のビックカメラ。かくして息子はsurfaceを手にする。果たして息子は来るべき大学生活でsurfaceをフル活用するのであろうか。昔は授業に出ないのがステイタスみたいな雰囲気があったが、私を見習ってしっかり講義を受けてほしいと思うのである・・・


【本日の読書】

ロングゲーム 今、自分にとっていちばん意味のあることをするために - ドリー・クラーク, 桜田直美, 伊藤守  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2024年3月20日水曜日

祝日雑感

 毎週末、1日はラグビーに行き、1日は実家へ行って掃除と料理をして帰ってくるとほぼそれで土日は終わる。好きなことをしているわけであるが、それ以外の事をする時間があまりない。もう1日あれば他のことができるのにと常々思っている。そんな中、本日のような祝日はそんな「もう1日」にあたる。朝から予定のない1日というのは、実にありがたい。前夜は翌朝のことを気にしなくていいので、2時間23分の映画(『BAD LANDS バッド・ランズ』)を観た。目覚ましもセットしないで寝る。

 しかし、悲しいかな、それでも6時間もせずに目が覚めてしまう。たまたま本日は家族もみんな出掛けてしまい、私1人。こういう時間も貴重である。ブランチは近所のラーメン屋へ行く。基本的にラーメン好きであるが、あれこれ凝って食べ歩くほどではない。近所に「家系」のラーメン店があったので行ってみる事に。こういうラーメン店ではところによって入りにくい店がある。ラーメン二郎などはその最たるもので、通でないとオーダーからマゴマゴしてしまいそうで居心地が良くないから行くのを躊躇する。

 本日入った店は「紫極」という店であったが、券売機も人件費削減のためではあろうが、初めての者にはプレッシャーとなる。券売機の前で時間をかけるのも憚られるから何がいいのかゆっくり選べない。したがってとりあえず無難な普通のラーメンにする。席に座ってゆっくりとメニューを見て選ぶということができれば他のメニューにしていたかもしれない。チケットを渡してよく観察すれば、みんな麺の硬さやスープの濃さなど好みを伝えている。値段は800円。普段、平日に行く日高屋の倍であるが普通だろう。日高屋のラーメンは、「値段並みの味」を意識しているそうで、特別に美味しいわけではないが不味いわけもない。サラリーマンの懐には優しい店でありがたい。ラーメン店もいろいろあっていいと思う。

 帰った後は録画したビデオの鑑賞。普段、時間がなくてとりあえず撮っておくが、いざ観ようと思うとあまり時間の余裕なくいつの間にやら溜まっている。そうした溜まったビデオが今日は2番組減った。まだまだ残っているが、急ぐものではないし、ゆっくり観ていこうと思う。思うにこういう暇な1日がもっとあればと思うが、ラグビーも好きでやっているわけだし、実家の両親と過ごす時間もいつまでもあるわけでもないし、減らすわけにはいかない時間である。となれば当面は仕方ない。

 昨年、定年退職した知人は、独身ではあるが毎日楽しく過ごしていると言う。よく定年後、しばらくはいいがやがて暇に耐えきれなくなると聞いたことがあるが、今のところまったくそういう気配はないと言う。私も割と孤独には強いと思うので、おそらく毎日快適に過ごせると思う。今はまだ経済的にもそんなゆとりはないから仕事を辞めるわけにはいかないし、仕事を楽しめるのも今のうちであるから、今は今で働くことを楽しみたいと思う。

 それにしても、仕事を辞めた後はどんな生活をするだろうか。私の性格からすると、毎日決まった時間に起きて、決まったルーティーンを繰り返すだろう。今は、起きてから出勤前の1時間ほどは哲学読書の時間に充てている。同じように朝は自宅でまずは勉強系の読書をし、掃除洗濯系の家事をこなし、それから喫茶店に行って気楽に読める読書を楽しみ、日中はその時々のフリータイムで、夕食後は海外を含むドラマを楽しみ、寝る前に1日の締めとして映画を観るという生活になるだろうと今から考えている。たぶん、ほぼそれに近い生活を送ると思う。

 普段とは違う休みということで、たまの祝日は新鮮である。来るべき老後のデモというわけではないが、そんなことをつらつらと考えてみた。どんな老後生活を送るのだろうか。こういう祝日に、今から少しずつシミュレーションしていくのも悪くないなと思うのである・・・

Somchai SumnowによるPixabayからの画像


【今週の読書】

世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book) - 牛尾 剛  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義







2024年3月17日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その32)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰文莫吾猶人也躬行君子則吾未之有得

【読み下し】

いはく、かざかくすはわれひとのごときかなみづか君子もののふたるは、すなはわれいまこれらざるかな

【訳】

先師がいわれた。

「典籍の研究は、私も人なみに出来ると思う。しかし、君子の行を実践することは、まだなかなかだ。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 理論と実践ということなのであろう。ことわざにも「習うより慣れろ」というものがあるが、いくら理屈を捏ねまわしたところで、最終的に実践できなければ意味がない。あるいはいくら理屈がわかっていても、実践できなければ同様である。そんな例は巷に多々あるが、孔子の時代でもやはり同じような感じだったのだろうかと思う。理論と実践とどちらが大事かと言えば、「どちらも大事」としか言いようがない。実践できなければ意味はないが、理屈がわかっていないと実践できないということもある。


 ここのところ、私が参加するシニアラグビーチームでは、タックルの練習に熱が入っている。ラグビーでタックルは大事なのであるが、なかなかうまくできない人もいる。上手い者がコツを説明するのであるが、練習はともかく、試合になるとなかなかできなかったりする。もちろん、練習と試合では相手の本気度も違うし、必ずしも練習通りにできるものでもない。ただ、うまくできない人は理屈はわかっているが、タックルで一番大事なものを見落としていたりするので、うまくできないように私には見える。


 タックルで一番大事なのは、なんと言っても「気迫」である。「相手を倒してやろう」という気迫がないと、いくら理屈がわかっていても相手に弾き飛ばされてしまったりする。気後れして及び腰になっていたりすると、理屈通りには相手を倒せない。逆に気迫さえあれば、多少理屈から外れていても倒せてしまったりするのである。では理屈は必要ないかと言えばそうではない。気迫があるのはもちろんであるが、うまく倒そうとすればやはりある程度の理屈は必要である。それがわかっているとうまく倒せたりする。私も暇を見つけてはYouTubeで最新の理論を勉強している。


 仕事でも最近は取締役の役割を巡って議論がある。どうも一部の役員の言動には取締役らしからぬものがある。取締役は「社員の延長」ではない。社員は雇用契約を結んで会社に雇われる。労働基準法による保護を受け、失業すれば失業保険ももらえる。しかし、取締役は会社の株主から委託を受けて会社の経営をする。したがって雇用契約はなく、失業保険もない。社員から取締役になるにあたっては、退職して退職金をもらう。我が社では社員の最高位は部長であるが、そうした事の意味をよく理解できていないのであろう、いまだに「部長」のままの言動が目につくのである。


 私はもともと理屈っぽいところがあると人によく言われる。言われる通りの「屁理屈やろう」かもしれない。しかし、何より理屈は大事だと思っている。「お前には理屈では負ける」と言われるが、それは裏を返すと「筋が通っている」という事に他ならない。うまく説明できないのを自分の表現力のなさだと勘違いしている人が多いが、単に筋が通っていないだけであろうと思う(と理屈をこねるのである)。しかし、やはりきちんとした理屈がないと実践を支えられないだろうと思う。結果を出すためには実践が大事であり、そして何よりも結果を出すためにはしっかりした理屈が必要なのである。


 理屈の世界をしっかり固めて、そして実践。どちらも大事であり、どちらかだけでは片手落ちとなる。屁理屈やろうと言われようと、常に理屈はしっかりと押さえておきたいと思うのである・・・


AnjaによるPixabayからの画像


【本日の読書】
世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book) - 牛尾 剛  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2024年3月15日金曜日

採用の現場にて(その2)

 いよいよ2025年卒の採用活動が始まっている。私も採用担当者として地方出張に飛び回っている。地元首都圏ではなかなか我々のような中小企業は学生さんに選んでもらい難い。「目に留まらない」と言った方が正確かもしれない。大手の企業がたくさんある中、知名度の低い我が社が割って入るのは難しいため、自然と地方に目を向けざるを得ないのである。今日も日本海側にある某大学で開催された企業合同会社説明会に行ってきたところである。

 体育館に集まった企業は約70社ほど。130分と区切られた中で、学生を招き入れて説明を行う。合計4回の説明で何人の学生を集められるか、そしてその内から何名面接、採用に進められるかである。説明会は2日間にわたって行われる。単純に約140社。これに約200人の学生が参加してくれた。もちろん、140社は企業の数が五万とある中のほんの一部である。140社の中から就職先を決める学生もいるだろうが、これ以外から選ぶ学生もいるだろう。

 我が身を振り返ってみると、こういう合同の企業説明会になど参加したことはない。もう35年ほど前になるが、当時の就職は。送られてきた就職情報誌の中から面白そうな企業を選んでハガキを出すと呼び出しが来て説明を受けに行ったものである。当時は超売り手市場で、私も一応名の通った大学だったから引く手数多。良い御身分であった。望めばどこでも就職できたのではないかと思う。それなのに十分に企業研究をして、数多の中から厳選したのかというと自信がない。リクルーターの先輩の話を聞いてなんとなくのイメージだけで銀行を選んでしまった感がある。

 そんな思いを抱きながら、我が社のブースに来ていただいた学生さんを見ていたら、果たしてどのくらい企業研究ができているのだろうかと思ってしまった。我が社の会社説明も嘘は言っていないが、十分とはとても言えない。そもそも僅か30分ではどう考えても十分できるとは思えない。入社したところ、「イメージと違う」というのはあると思う。だが、それは自分もそうだったし、所詮、学生の企業研究なんてその程度なのかもしれないとも思う。お見合いと同じで、縁あって話を聞いた企業に「えぃ、ヤァ!」で入るものなのかもしれないと思ってみたりする。

 思えば銀行に入った時、華やかな都心店配属を夢見ていた私は、八王子という郊外の支店に配属されていきなりイメージが狂った。融資係に配属されたものの、「JCBカードを獲得せよ」など訳のわからないノルマを課されて辟易した。先日も取引先の銀行の担当者が来て、頭を下げてJCBのプラチナカードを作ってくれと頼まれた。30年経っても変わらないのだと思わされたが、それは入る前に描いていたバラ色のビジネスマン生活にはカケラも入っていないものであった。そんな話は会社説明ではしないだろう。

 世に企業は数多あれど、すべてを調べ上げるのはなかなか大変である。上場企業だけでも4,000社以上あるし、中小企業を入れればその数は膨大である。結局のところ、「なんとなく」のイメージで業界を決め、何となくの縁でどこかの企業の話を聞き、担当者の言葉でなんとなく良さそうだと思い、熟考したつもりがほとんど「なんとなく」、「えい、ヤァ!」で決めるものなのかもしれない。あとは、入った後、その仕事に没頭し、「天職」だと思えれば幸せなのかもしれない。私も銀行業界、不動産業界、そして情報技術業界と渡り歩いてきたが、結局、「なんとなく」、「縁で」入ったものであるが、それで後悔のかけらもない。

 今は「一生の仕事」という概念も薄れているだろうが、それでも転職回数は採用とは反比例の関係にあるのは間違いない。貴重な社会人のスタートであるし、イメージとは違うことは避けられないとしても、せめてその時点で満足いく選択ができると良いなと学生を見ていて思った次第である。まだまだ採用戦線は始まったばかり。我々も選んでもらえるよう、精一杯頑張りたいと思うのである・・・



Niek VerlaanによるPixabayからの画像

【本日の読書】

世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book) - 牛尾 剛  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義