2024年3月31日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その33)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰、「若聖與仁、則吾幾敢。印爲之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣。」公西華曰、「誠唯。弟子不能學也。」

【読み下し】

いはく、ひじりなさけごときは、すなはわれあにあへてせむや。そもそもこれまなびていとひとをしへてるは、すなは云爾しかじかきにして公西華こうせいくわいはく、まことしかり。弟子ていしまなあたなり

【訳】

先師がいわれた。

「聖とか仁とかいうほどの徳は、私には及びもつかないことだ。ただ私は、その境地を目ざして厭くことなく努力している。また私の体験をとおして倦むことなく教えている。それだけが私の身上だ。」

すると、公西華がいった。

「それだけと仰しゃいますが、そのそれだけが私たち門人には出来ないことでございます。」

『論語』全文・現代語訳

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 イチローの名言に「小さなことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道」というのがある。プロ野球の選手になる事自体すごい事なのに、そのプロで実績を上げ、さらにはメジャーまで行ってそこでも実績を上げるなんて雲を見上げるようなものである。しかし、そんなすごい実績は生まれた時からの才能ではなく、それこそ小学生の時からコツコツと努力した成果であると言う。誰にでもできるそのコツコツをなかなかできないから偉業なのであろう。


 今で言えば、大谷翔平選手なのであろう。体格には恵まれているだろうが、やはり生まれた時から才能が備わっていたのではなく、世間には知られていない影での努力の成果が今輝いているのだろう。おそらく一つ一つの練習は誰にでもできるものだろうが、誰にもできないくらい継続して、工夫して、人知れぬ汗を流した結果なのだと思う。そう考えてみると、才能とは持って生まれた何かというものではなく、コツコツと積み上げ続けられる力なのかもしれない。そう伝える本(『才能の科学 人と組織の可能性を解放し、飛躍的に成長させる方法』マシュー・サイド著)もある。


 日々目標に向けてコツコツ努力できる才能を持った人が、いずれ万人にはなかなか到達できないところに達する。そうした努力を知らない人が、そこに到達した人をすごいと崇め奉っても、当の本人は大したことをしてきたわけではないという意識がある。だから「すごいですね」と言われてもピンとこないのかもしれない。冒頭の孔子の態度もそんなもののように思う。しかし、11歩でも100日続けば100歩になる。それが積み重なれば、いつの間にか他の人がすぐには追いつけないところに行くことができるのは当然である。


 私も昔からこの考え方が好きで、なんでも少しずつ、あるいは少しでも必ずやるという事を繰り返してきている。学生時代の受験勉強も社会人になってからの資格の勉強もすべてそのやり方である。今は毎朝の哲学読書であろうか。哲学は電車の中で読むというわけにはいかない。ノートを取りながら同じところを何度も読み直しという事が必要なのである。そんな具合だから毎朝12ページしか進まないが、それでも毎朝出勤前の3040分を利用して読んでいると、いつの間にか1冊、2冊と終わっていくのである。


 これには性格によるところもあるかもしれない。私のように少しずつ終わるまで継続してやる事が苦でない人ならいいが、そうでない人もいるだろう。いわゆる「一夜漬け」タイプである。それで結果が出せるのであれば、それがいいだろう。それもまた才能と言える。ウサギと亀ではないが、ウサギのように一気に駆けられる人であればいいが、そうでない人は亀の如く進むしかない。公西華が言った「そのそれだけが私たち門人には出来ない」というのもまた真実だろう。「それだけ」を続けるのもまた大変な事であり、続けられることこそが才能なのだろう。


 どの道、自分的にはコツコツやることしかできないので、これからも何かやるにしろ、11歩が基本だろう。それが自分であり、そうし続けようと改めて思うのである・・・



Suman MaharjanによるPixabayからの画像

【今週の読書】

安倍晋三黙示録 『安倍晋三 回顧録』をどう読むべきか - 西村幸祐   失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2024年3月28日木曜日

おかしな事に思う

 よくよく考えてみると、おかしいよなと思えることはよくある。たとえば「歩きスマホ」。スマホを見ながら歩いていると、人にぶつかりそうになることからやめましょうというものである。それはそれでおかしくはないが、問題は危ないのは歩きスマホだけではないという事である。下を向いて歩いていれば同じように人にぶつかる懸念がある。雨の日に傘をさして下を向いていれば猶更である。先日はなんと文庫本を歩きながら読んでいる人を見かけたが、これも同じである。外人さんが地図を見ながら歩いているのを見かける事もあるが、紙の地図なら良くてスマホのGoogleMapはダメなのであろうかと思ってみたりする。

 スマホと言えば、電車内での通話は遠慮するのがマナーである。車内放送でもご遠慮くださいとアナウンスしている。確かに車内で電話をされると耳障りでうるさいと思うから悪いことではない。しかし、耳障りという意味では、一緒に乗っている者同士の会話でも同じである。特にオバちゃん系になると遠慮がない分イライラ度は高い。なぜ1人の話し声は悪くて複数なら良いのだろうか。スマホは近年になって出てきた事象だからターゲットになってしまっているのかもしれないし、人に不快感を与えない配慮は必要であるが、それはスマホに限ったものではない。

 エスカレーターで歩かないで下さいというのも変だと思う。「危険だから」というのがその理由であるが、エスカレーターだから危ないというのもおかしい。エスカレーターが動いているとしても、その上にいる人間からすれば普通の階段と同じである。相対的には動いていない階段と変わらない。階段自体は段になっているので平面に比べれば危ないとは言えるが、それは動いていない階段も同じ。「動いている」というだけで危ないというのかもしれないが、空港などにある動く歩道では「歩かないでください」というアナウンスはしていない。

 また、そもそも危険かどうかを一々警告するのもいかがかと思う。歩行者同士が歩きスマホが原因でぶつかったとしても大した怪我にはならないだろうし、それが対車だったとしても当事者の問題であり、一々行政が警告するものではないように思う。それに危ないシーンはそれ以外にも多々ある。歩きスマホより酔っ払いの方がはるかに危ないと思う。そしてそれに対しては何も警告がない。もっとも、そうやって危ないと思われる行為に対して一々警告していたらきりがない。

 そんな具合にまるで子どもに対するような警告はいかがなものかと思う。とは言え、ではそんな事はすべきではないのかと言えばそれもまた難しい。電車内で電話を遠慮する傾向は一般的に見られる。電話が鳴っても小声で断って切ったり、あるいは手で押さえて小声で話したりしている。そこには「避けなければいけないこと」という意識があるからだろう。私も急ぎの場合は電車を降りている。そういう行動を導いているのは、広く「警告」がなされているからに他ならない。

 ガザ地区で支援物資を運び込んだトラックに民衆が殺到し、危険を感じた軍が発砲して死者が出たとニュースでやっていた。日本では震災時に支援物資を届けたヘリに、人々が整列して物資を受け取ったのを米軍パイロットが感動したと報じられていたのと対照的である。それもこれも、幼少時から「順番こ」「人に迷惑をかけない」と広く共有されているからだろう。そう考えると、こうるさく一々警告する文化も悪くないのかと思えたりする。そういう警告が、日本という社会の文化を作っているのかもしれない。

 考えてみれば、我々の世代が子どもの頃は、みんな平気でゴミのポイ捨てをしていたし、歩きタバコも当たり前で、携帯用の灰皿などもなかった。当然、吸い終わればポイ捨てだし、社会のモラルも全体的に低かったと思う。それが改善されてきたのは、「ポイ捨てはやめましょう」「ゴミは分別しましょう」といったいろいろな警告の成果なのかもしれない。だとしたら、そうした警告が社会全体のコンセンサス作りに役立っていると言えることになる。お節介な人が注意することができるのも、コンセンサスがあればこそである。

 そんなことをつらつら考えてみると、おかしな事にもそれなりに意味はあるのかもしれないと思う。物事を突き詰めて考えるのは割と好きな方で、それが苦にもならないが、ぐるっと思考が一巡すると結局何も考えないのと同じ結果になったりすることもある。面白いものだとは思いつつ、またおかしなことを見つけてはあれこれ考えてみるのだろうなと思うのである・・・


Arek SochaによるPixabayからの画像

【本日の読書】

ロングゲーム 今、自分にとっていちばん意味のあることをするために - ドリー・クラーク, 桜田直美, 伊藤守     失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2024年3月24日日曜日

MacかWindowsか(息子のノートパソコン)

 この春、無事大学に現役合格した我が息子。今は入学に向けて準備をしている。その一つとして私にアドバイスを求めてきたのはパソコンの事。今はもうパソコンがないと授業もまともに受けられないようである。大学推奨があって、それはMacBooksurfaceである。「どっちがいい?」と息子が問う。こういう事に関してはママはあてにならない。どこの塾に行くとかどこの大学を受けるとかは私は蚊帳の外であったが、いよいよ親父の出番というわけである。

 私個人であれば迷わずMacBookにするのだが、息子なりに調べてきた疑問に答える。

「就職すると会社ではほとんどWindowsだから今から慣れるという意味でもsurfaceの方がいいのかな?」

「確かに会社ではWindowsだろうが、インターネットはどちらでも同じだし、会社独自に使うソフトはどちらにしても入ってからだから関係ない。ただし、ExcelWordはショートカットキーがマックは違うので慣れないと不便」

総じて私の回答は、「どちらを選んでもそう大して変わりないので好みの問題」(親父の好みはMacBook)というものであった。


 私もデビューはWindowsであった。最初のパソコンの師匠はMac派でMacを勧められたのだが、結局Windowsを選んでしまった。しかし、抑えきれないMacへの想いから、マックへ乗り換えて今に至っている。年賀状ソフトなどWindows専用だったりして確かにMacは不便なところがある。しかし、iPhoneiPadiMacと連動で使えるのは感動的であったし、それほどヘビーユーザーでない私からすると、どちらもそれほど違わない。今では仕事とプライベートとをWindowsMacで棲み分けしている。


 息子はさらにあちこちアドバイスを求め、最終的にはsurfaceに決めた(親父としてはちょっと残念)。その決め手になったのは、「画面をフラットにしてタッチペンを使える」ということ。MacBookは画面を開けて立てた状態で書き込むので使い勝手がイマイチということのようである。まぁ、どちらを選んでも一長一短なわけであり、息子が行く大学の現役学生の利用割合は、surfaceMacBook6:4らしい。どちらでも大して変わらないので、決め手が一つでもあるのならそれで良しである。


 それにしてもそんなにタッチペンを使うのだろうかと思ったが、今は大学の講義はすべてデータで資料提供され、それに独自に書き込んでいくようなのである。つまり、紙のノートはほとんど使わないらしい。私の学生時代は、試験前になると講義ノートのコピーが出回っていて、ラグビー部の同期などは、コピーを手に入れた段階で「もう完璧!」と胸を張っていたものであるが(ちなみに私は授業にほとんどすべて出ていたので他人のノートを借りたことはなかった)、今はデータでサクッともらえるのだろう。


 なんだか隔世の感がある。来週からの大学生活に備えて池袋にsurfaceを買いに行く。価格比較のために寄ったヤマダ電機ではすでにほとんど売り切れ状態。出遅れ感に苛まれながらビックカメラに行くと、拍子抜けするくらい希望のものがあった。さすが我が家御用達のビックカメラ。かくして息子はsurfaceを手にする。果たして息子は来るべき大学生活でsurfaceをフル活用するのであろうか。昔は授業に出ないのがステイタスみたいな雰囲気があったが、私を見習ってしっかり講義を受けてほしいと思うのである・・・


【本日の読書】

ロングゲーム 今、自分にとっていちばん意味のあることをするために - ドリー・クラーク, 桜田直美, 伊藤守  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2024年3月20日水曜日

祝日雑感

 毎週末、1日はラグビーに行き、1日は実家へ行って掃除と料理をして帰ってくるとほぼそれで土日は終わる。好きなことをしているわけであるが、それ以外の事をする時間があまりない。もう1日あれば他のことができるのにと常々思っている。そんな中、本日のような祝日はそんな「もう1日」にあたる。朝から予定のない1日というのは、実にありがたい。前夜は翌朝のことを気にしなくていいので、2時間23分の映画(『BAD LANDS バッド・ランズ』)を観た。目覚ましもセットしないで寝る。

 しかし、悲しいかな、それでも6時間もせずに目が覚めてしまう。たまたま本日は家族もみんな出掛けてしまい、私1人。こういう時間も貴重である。ブランチは近所のラーメン屋へ行く。基本的にラーメン好きであるが、あれこれ凝って食べ歩くほどではない。近所に「家系」のラーメン店があったので行ってみる事に。こういうラーメン店ではところによって入りにくい店がある。ラーメン二郎などはその最たるもので、通でないとオーダーからマゴマゴしてしまいそうで居心地が良くないから行くのを躊躇する。

 本日入った店は「紫極」という店であったが、券売機も人件費削減のためではあろうが、初めての者にはプレッシャーとなる。券売機の前で時間をかけるのも憚られるから何がいいのかゆっくり選べない。したがってとりあえず無難な普通のラーメンにする。席に座ってゆっくりとメニューを見て選ぶということができれば他のメニューにしていたかもしれない。チケットを渡してよく観察すれば、みんな麺の硬さやスープの濃さなど好みを伝えている。値段は800円。普段、平日に行く日高屋の倍であるが普通だろう。日高屋のラーメンは、「値段並みの味」を意識しているそうで、特別に美味しいわけではないが不味いわけもない。サラリーマンの懐には優しい店でありがたい。ラーメン店もいろいろあっていいと思う。

 帰った後は録画したビデオの鑑賞。普段、時間がなくてとりあえず撮っておくが、いざ観ようと思うとあまり時間の余裕なくいつの間にやら溜まっている。そうした溜まったビデオが今日は2番組減った。まだまだ残っているが、急ぐものではないし、ゆっくり観ていこうと思う。思うにこういう暇な1日がもっとあればと思うが、ラグビーも好きでやっているわけだし、実家の両親と過ごす時間もいつまでもあるわけでもないし、減らすわけにはいかない時間である。となれば当面は仕方ない。

 昨年、定年退職した知人は、独身ではあるが毎日楽しく過ごしていると言う。よく定年後、しばらくはいいがやがて暇に耐えきれなくなると聞いたことがあるが、今のところまったくそういう気配はないと言う。私も割と孤独には強いと思うので、おそらく毎日快適に過ごせると思う。今はまだ経済的にもそんなゆとりはないから仕事を辞めるわけにはいかないし、仕事を楽しめるのも今のうちであるから、今は今で働くことを楽しみたいと思う。

 それにしても、仕事を辞めた後はどんな生活をするだろうか。私の性格からすると、毎日決まった時間に起きて、決まったルーティーンを繰り返すだろう。今は、起きてから出勤前の1時間ほどは哲学読書の時間に充てている。同じように朝は自宅でまずは勉強系の読書をし、掃除洗濯系の家事をこなし、それから喫茶店に行って気楽に読める読書を楽しみ、日中はその時々のフリータイムで、夕食後は海外を含むドラマを楽しみ、寝る前に1日の締めとして映画を観るという生活になるだろうと今から考えている。たぶん、ほぼそれに近い生活を送ると思う。

 普段とは違う休みということで、たまの祝日は新鮮である。来るべき老後のデモというわけではないが、そんなことをつらつらと考えてみた。どんな老後生活を送るのだろうか。こういう祝日に、今から少しずつシミュレーションしていくのも悪くないなと思うのである・・・

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【今週の読書】

世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book) - 牛尾 剛  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義







2024年3月17日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その32)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰文莫吾猶人也躬行君子則吾未之有得

【読み下し】

いはく、かざかくすはわれひとのごときかなみづか君子もののふたるは、すなはわれいまこれらざるかな

【訳】

先師がいわれた。

「典籍の研究は、私も人なみに出来ると思う。しかし、君子の行を実践することは、まだなかなかだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 理論と実践ということなのであろう。ことわざにも「習うより慣れろ」というものがあるが、いくら理屈を捏ねまわしたところで、最終的に実践できなければ意味がない。あるいはいくら理屈がわかっていても、実践できなければ同様である。そんな例は巷に多々あるが、孔子の時代でもやはり同じような感じだったのだろうかと思う。理論と実践とどちらが大事かと言えば、「どちらも大事」としか言いようがない。実践できなければ意味はないが、理屈がわかっていないと実践できないということもある。


 ここのところ、私が参加するシニアラグビーチームでは、タックルの練習に熱が入っている。ラグビーでタックルは大事なのであるが、なかなかうまくできない人もいる。上手い者がコツを説明するのであるが、練習はともかく、試合になるとなかなかできなかったりする。もちろん、練習と試合では相手の本気度も違うし、必ずしも練習通りにできるものでもない。ただ、うまくできない人は理屈はわかっているが、タックルで一番大事なものを見落としていたりするので、うまくできないように私には見える。


 タックルで一番大事なのは、なんと言っても「気迫」である。「相手を倒してやろう」という気迫がないと、いくら理屈がわかっていても相手に弾き飛ばされてしまったりする。気後れして及び腰になっていたりすると、理屈通りには相手を倒せない。逆に気迫さえあれば、多少理屈から外れていても倒せてしまったりするのである。では理屈は必要ないかと言えばそうではない。気迫があるのはもちろんであるが、うまく倒そうとすればやはりある程度の理屈は必要である。それがわかっているとうまく倒せたりする。私も暇を見つけてはYouTubeで最新の理論を勉強している。


 仕事でも最近は取締役の役割を巡って議論がある。どうも一部の役員の言動には取締役らしからぬものがある。取締役は「社員の延長」ではない。社員は雇用契約を結んで会社に雇われる。労働基準法による保護を受け、失業すれば失業保険ももらえる。しかし、取締役は会社の株主から委託を受けて会社の経営をする。したがって雇用契約はなく、失業保険もない。社員から取締役になるにあたっては、退職して退職金をもらう。我が社では社員の最高位は部長であるが、そうした事の意味をよく理解できていないのであろう、いまだに「部長」のままの言動が目につくのである。


 私はもともと理屈っぽいところがあると人によく言われる。言われる通りの「屁理屈やろう」かもしれない。しかし、何より理屈は大事だと思っている。「お前には理屈では負ける」と言われるが、それは裏を返すと「筋が通っている」という事に他ならない。うまく説明できないのを自分の表現力のなさだと勘違いしている人が多いが、単に筋が通っていないだけであろうと思う(と理屈をこねるのである)。しかし、やはりきちんとした理屈がないと実践を支えられないだろうと思う。結果を出すためには実践が大事であり、そして何よりも結果を出すためにはしっかりした理屈が必要なのである。


 理屈の世界をしっかり固めて、そして実践。どちらも大事であり、どちらかだけでは片手落ちとなる。屁理屈やろうと言われようと、常に理屈はしっかりと押さえておきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book) - 牛尾 剛  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2024年3月15日金曜日

採用の現場にて(その2)

 いよいよ2025年卒の採用活動が始まっている。私も採用担当者として地方出張に飛び回っている。地元首都圏ではなかなか我々のような中小企業は学生さんに選んでもらい難い。「目に留まらない」と言った方が正確かもしれない。大手の企業がたくさんある中、知名度の低い我が社が割って入るのは難しいため、自然と地方に目を向けざるを得ないのである。今日も日本海側にある某大学で開催された企業合同会社説明会に行ってきたところである。

 体育館に集まった企業は約70社ほど。130分と区切られた中で、学生を招き入れて説明を行う。合計4回の説明で何人の学生を集められるか、そしてその内から何名面接、採用に進められるかである。説明会は2日間にわたって行われる。単純に約140社。これに約200人の学生が参加してくれた。もちろん、140社は企業の数が五万とある中のほんの一部である。140社の中から就職先を決める学生もいるだろうが、これ以外から選ぶ学生もいるだろう。

 我が身を振り返ってみると、こういう合同の企業説明会になど参加したことはない。もう35年ほど前になるが、当時の就職は。送られてきた就職情報誌の中から面白そうな企業を選んでハガキを出すと呼び出しが来て説明を受けに行ったものである。当時は超売り手市場で、私も一応名の通った大学だったから引く手数多。良い御身分であった。望めばどこでも就職できたのではないかと思う。それなのに十分に企業研究をして、数多の中から厳選したのかというと自信がない。リクルーターの先輩の話を聞いてなんとなくのイメージだけで銀行を選んでしまった感がある。

 そんな思いを抱きながら、我が社のブースに来ていただいた学生さんを見ていたら、果たしてどのくらい企業研究ができているのだろうかと思ってしまった。我が社の会社説明も嘘は言っていないが、十分とはとても言えない。そもそも僅か30分ではどう考えても十分できるとは思えない。入社したところ、「イメージと違う」というのはあると思う。だが、それは自分もそうだったし、所詮、学生の企業研究なんてその程度なのかもしれないとも思う。お見合いと同じで、縁あって話を聞いた企業に「えぃ、ヤァ!」で入るものなのかもしれないと思ってみたりする。

 思えば銀行に入った時、華やかな都心店配属を夢見ていた私は、八王子という郊外の支店に配属されていきなりイメージが狂った。融資係に配属されたものの、「JCBカードを獲得せよ」など訳のわからないノルマを課されて辟易した。先日も取引先の銀行の担当者が来て、頭を下げてJCBのプラチナカードを作ってくれと頼まれた。30年経っても変わらないのだと思わされたが、それは入る前に描いていたバラ色のビジネスマン生活にはカケラも入っていないものであった。そんな話は会社説明ではしないだろう。

 世に企業は数多あれど、すべてを調べ上げるのはなかなか大変である。上場企業だけでも4,000社以上あるし、中小企業を入れればその数は膨大である。結局のところ、「なんとなく」のイメージで業界を決め、何となくの縁でどこかの企業の話を聞き、担当者の言葉でなんとなく良さそうだと思い、熟考したつもりがほとんど「なんとなく」、「えい、ヤァ!」で決めるものなのかもしれない。あとは、入った後、その仕事に没頭し、「天職」だと思えれば幸せなのかもしれない。私も銀行業界、不動産業界、そして情報技術業界と渡り歩いてきたが、結局、「なんとなく」、「縁で」入ったものであるが、それで後悔のかけらもない。

 今は「一生の仕事」という概念も薄れているだろうが、それでも転職回数は採用とは反比例の関係にあるのは間違いない。貴重な社会人のスタートであるし、イメージとは違うことは避けられないとしても、せめてその時点で満足いく選択ができると良いなと学生を見ていて思った次第である。まだまだ採用戦線は始まったばかり。我々も選んでもらえるよう、精一杯頑張りたいと思うのである・・・



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【本日の読書】

世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book) - 牛尾 剛  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義






2024年3月10日日曜日

上司のあり方

 銀行員時代の元上司より連絡をいただいた。それはその上司と一緒に働いていた支店のメンバーで久しぶりに集まろうというもの。5年前にも開催さており、コロナ禍も落ち着いたのでまたやろうというものである。私に異論はなく、すぐに参加の旨を回答した。名目上は当時の支店長を囲む会なのであるが、当時の支店長とはあまり接点がなく(まだ若手のペイペイだったのである)、参加するのはあくまでもその上司の誘いだからである。まぁ、当時同じ係だった女性陣にも会いたいという気持ちもある(そっちの方が強いかもしれない)。兎にも角にも、その上司の誘いだからというのは間違いがない。

 その上司は私にとって2人目の直属の上司である。その前の初めて配属された支店の直属の上司であれば、誘いには応じなかっただろう。2人の上司は実に対照的であった。最初の支店の上司は仕事一筋の上司で、「職場は仲良しの集まりではない」と公言し、自分にも他人にも厳しい方であった。仕事中は緊張感が漂い、とても冗談など言える雰囲気ではなかった。部下に厳しいのも当然で、主任さんが半日立たされるという事もあった。年に一度、ポケットマネーで部下を高級店に連れて行ってくれるという面倒見の良いところもあったが、誰も楽しんでいなかったのも事実である。

 そんな環境で育った私が、初めての転勤でその支店に異動になり、その上司の下についたのであるが、まったく正反対で戸惑ってしまった。その方は穏やかな性格で、部下にも同僚にも丁寧に接する。仕事中に冗談が飛び交い、係内は和気藹々とした雰囲気であった。ポケットマネーで高級店に連れて行ってくるという事はなかったが、居酒屋でも誘われればみんな喜んでついて行った。もちろん、仕事は仕事できちんとやられていた。怒られることがない事もなかったが、それはあくまでも「教育的指導」であり、もちろん主任さんが半日立たされるという事もなかった。

 仕事は遊びではないし、成果は挙げないといけない。しかし、「どうやるか」は上司の考え方と力量にかかっている。私の転勤後、その支店では上司が何人か入れ替わった。転勤後に機会があって様子を聞いたのだが、その時の上司はまた厳しいタイプで、部下がミスを報告できなくて困っているという話も伝わってきた。ミスは素早く手を打たないといけないが、報告が遅れればそれだけ傷口も広がる。されど報告すればネチネチと怒られると躊躇していたのである。それで結局割を食うのは責任者たる上司である。

 自分の部をどう運営するかは、その上司の力量である。ただ優しくすればいいというものではない。叱ることが必要な時は叱らないといけない。しかし、叱られた時に素直に反省できるかどうかは、その叱り方にある。成果を出す事が最重要であるが、「どうやるか」も重要である。ミスした時にすぐに「すみません」と報告してもらえる雰囲気を作っておくのは上司の力量であり、ダメージコントロール力である。ただ、厳しさの中で必死にやる方が高いパフォーマンスを上げられるのも事実であり、そこが難しいところである。厳しい上司の厳しいやり方にもそれを否定できないものがあるのも確かである。

 私自身、いつの間にか上司の立場になっている。私のやり方は、「和気藹々」である。私の性格的に人に厳しくするのには無理があるというのがいちばんの理由であるが、それで今のところ成果も上がっているので問題はないと思う。何より何かまずい事があってもすぐに報告してもらえているし、リスクコントロールという点でもうまくいっている。みんなに胃の痛くなるような思いをさせるやり方は私には性に合っていないし、このやり方をずっと続けていきたいと思う。

 もともと、職場の同僚は仕事という目的で集まったメンバーであるが、「仕事の切れ目が縁の切れ目」というのも寂しいものがある。最初の支店の上司は今どうしているのだろうかと思わない事もないが、改めて昔を懐かしんで会いたいとも思わない。一方で、2人目の上司には、久しぶりに会えるのを今から楽しみにしている。かつて支えてきた上司はみな今も尚、自分の在り方を考えるいい参考なのである。これからも自分なりに考える理想の上司であり続けたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

イーロン・マスク 下 (文春e-book) - ウォルター・アイザックソン, 井口 耕二 まいまいつぶろ (幻冬舎単行本) - 村木嵐







2024年3月7日木曜日

自分を主語にする

 我が社にいる社員の話。
もう年配の方であるが、仕事については常に「予防線」を張りながらやっている。先日も幹部宛の資料配布をお願いしたのであるが、わざわざ「〇〇の指示により配布させていただきます」と断って(メール)配信していた。「〇〇」は私なのであるが、おそらく配布メンバーの選定について何か一言言われるのではないかと警戒したのであろう。その他にも「私は聞いていませんのですが・・・」というセリフもやたらと耳にする。「聞かされていないのでわからないのは当然」と言いたいのであろう。

 それ以前にも、別の方より「あいつはダメだ」という批判を聞いた。何でもその人が本来やるべきではないかと思われる仕事をやっておらず、それを指摘(「なんでやっていないんだ」)した時、「指示されていませんので」と答えたらしい。「やっていないのは指示されていないからで、したがって非があるのは指示しなかった人」と言いたいのであろう。私がその場にいたら、「お前は指示されなければ動けないロボットか」と言っていただろう。答えとしては実に嘆かわしい答えである。自分は指示待ち族であると宣言しているようなものである。

 おそらく、ではあるが、ご本人は怒られたくないという気持ちが強いのであろう。だから一々自分の行動に予防線を張る。「自分の責任ではありません」という事を明確にして行動している。それはそれで理解はできる。誰しも怒られるのは嫌であろう。できうることなら怒られずに済ませたいと思うだろう。しかし、怒られるという事をリスクと考えれば、リスクを取らずして何を得られるだろうかという話になる。当然ながら、リスクを取らない安全行動から得られるリターンは少ない。ご本人の精神の安定を重視するならそれが一番かもしれない。

 しかしながら、リスクを取らないことによって失うものは大きい。何より自身に対する信頼は得られないだろう。今も取引銀行の担当者が訪ねてくる。例えば融資の話をした時、「上の者に相談します」と回答する人が多い。私は銀行員時代にこういう場合、「持ち帰って検討します」と回答していた。その場で即答しなくても無理はない。もちろん、自身に融資の決裁権はないので「できる、できない」の回答を勝手にはできない。だが、「上の者に相談します」と「持ち帰って検討します」とでは大きく違う。前者は主語が上司であり、後者は自分である。相手もそれなら上司と話をしようと思うだろう。

 主語を自分に置くというのは大事な事。担当であるにも関わらず、「上司と話をさせろ」と言われるのは、「お前では役に立たない」と言われるのと同意語であり、屈辱的である。そうさせないようにするためには常に自分を主語に置かないといけない。「『自分が』持ち帰って検討する」と言えば、相手は常に自分と話をする。上司には交渉を任されるであろうし、顧客には銀行代表として話をしてもらえる。その感覚はいまでもあるので、「上の者に相談します」という担当者については、残念だなと今でも思うのである。何か相談がある時は、上司を交えて話をさせていただくことになる。

 先の社員についても、「なんでやっていないんだ」と言われた時、「すみませんでした」と言えていたら対応は違っていただろう。その場で怒られたとしても、その場で終わる。相手も頭を下げられたらそれ以上は言えない。しかし、「指示されていませんので」と答えれば、怒りに火を注ぐ。その火は燃え続け、事あるごとに再燃し批判は続く。「聞いていません」も、「確認しておきます」と答えておけばよい。一々「〇〇の指示で」などと断らずに、自分の判断であるかのように配布すればいいのである。もしもそこで何か言われたら、自分の判断根拠を示して答えればよい。そのためには指示されたことの意味をあわせて考えないといけないことでもある。そういうスタンスでいれば、格段に力はつくであろう。

 主語を自分にするという事はしんどい事でもある。その行動の結果を自分で取らないといけない事だからである。当然、結果によっては怒られる事になる。しかし、怒られるというリスクはあるものの、代わりに「信頼」を得られる。「あいつに話をしよう」と思ってもらえる。主語がいつも他者であると、大事な仕事は回ってこない。いつしか片隅に追いやられてしまうことになる。そして常に指示されて動く立場に甘んじる事になる。もちろん、そういう働き方が楽でいいという人であればそれでいいだろう。ただ、もちろん高い給料はもらえないし、いずれ年下の上司の下で働くことになるだろう。先の年配社員もそうなっている。

 人の生き方についてとやかく言うつもりはないが、私は今までもそうであったように、これからも自分を主語にして行動していきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

イーロン・マスク 下 (文春e-book) - ウォルター・アイザックソン, 井口 耕二  まいまいつぶろ (幻冬舎単行本) - 村木嵐




2024年3月4日月曜日

論語雑感 述而篇第七(その31)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子與人歌而善必使反之而後和之

【読み下し】

ひとうたからば、かならこれかへ使のちこれなごみうたへり。

【訳】

先師は、誰かといっしょに歌をうたわれる場合、相手がすぐれた歌い手だと、必ずその相手にくりかえし歌わせてから、合唱された。

『論語』全文・現代語訳

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 論語は基本的に孔子のありがたいお言葉を集めたものというより、言行録なのだろう。だから時として「あれっ?」と思うものにあたったりする。今回の言葉もどうやらそんなものの1つのようである。弟子による師匠の思い出話の類であろう。孔子の人となりの一面を伺い知るものになるとも言える。当時の歌がどんなものであったのかは興味深いところ。日本においても、昔の歌は現代のそれとはずいぶん異なるものだったようであり、中国においてもそうだったのかもしれない。


 そんな歌で、孔子は上手な人がいると、アンコールを要求し、そして一緒に歌ったというもの。いい歌を聞けば誰しも自分でも歌いたくなる。現代ではCDなりダウンロードしたものなりにより、何度でも繰り返し聞くことができる。いい歌だなと思えばその歌を購入することによりそれが可能になる。しかし、当時はそんな録音機器などないから生の歌しかない。いいなと思えばもう一度歌ってほしいとリクエストするしかない。そしてそれを歌いたいと思えば、一緒に歌って覚えるのが手っ取り早いだろう。現代なら歌詞カードを見て、一緒に口ずさんで覚えるだろう。


 そう考えてみると、孔子もごく普通の行動を取っていたようで、さらに想像するなら、孔子は気に入った曲に出会うとすぐに自分でも真似して歌っているし、実はかなり歌好きだったのかもしれない。歌の発祥はどこなのだろうかと思うも、世界各地のどこに行っても歌のない地域はないだろう。未開の地域の人たちでも打楽器による音楽はあったりする。そんな例を見ると、音楽は人類のDNAに刻み込まれた本能みたいなものなのかもしれない。それに歌詞をつければ歌になるわけで、それは言葉と同じものなのかもしれない。言葉も英語や日本語などは別として、世界各地で独自に発展している。


 歌は音楽+歌詞でできている。歌によって人間はその世界を想像し、そして音楽がその気分を高める。パチンコ屋で軍艦マーチが流れ、プロレスの選手入場でテーマ曲が流れ、甲子園では応援団がマーチを奏でる。いずれも気分を高揚させようという効果を狙ったもので、歌詞のみの「詩」に音楽がつくことでさらに詩の世界が深く浸透する。また、詩がわからなくても音楽の雰囲気で気に入るものもある。日本人が洋楽を聞くのもそんな一例である。洋楽などは、むしろ後から歌詞の意味を調べて理解し、後からさらにその曲に惹かれたりもする。


 歌はそうした人間の本能レベルに近いものであり、生まれてから一度も歌を歌ったことがない人などいないだろう。いい歌だなと思えば歌いたくなるもの。だから昔から宴会では歌が歌われ、いつしかカラオケが生まれ、今は一大レジャーに進化している。歌が嫌いという人はあまりいないと思う。「聞くのはいいが、歌うのはどうも・・・」という人は多いかもしれない。その「歌うのはどうも・・・」という人も、「人前で」という接頭語が就くのではないかとも思う。私などはその典型で、歌は1人の時に人知れず歌うもので、人様の前で披露するものではないと思っている。要はカラオケ嫌いである。


 家に帰ってパソコンに向かい、ブログを見たり綴ったりする時にはYouTubeやAmazonPrimeの音楽を流している。一緒に歌うところまではいかないが、懐かしい曲や好きな曲が流れてきたりすると、思わず手を止めて口ずさんだりする。歌は我々の生活の質の向上になくてはならないものである。かつては、アンコールしてもう一度歌ってもらわなくてはならなかったものが、今では手軽に何度でも再生できる。孔子もびっくりだろう。これからも人前では歌わないが、静かに自分の中の世界で楽しみたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

   イーロン・マスク 下 (文春e-book) - ウォルター・アイザックソン, 井口 耕二     まいまいつぶろ (幻冬舎単行本) - 村木嵐













2024年3月2日土曜日

名言に支えられる

 私は昔から名言格言の類が好きで、気に入ったものを見つけてはメモしてきた。もうだいぶ溜まったが、次々に見つけてはメモしているのでその数は増え続けている。名言格言好きなのは、自分への励ましから始まったかもしれないと思う。

【雨は一人にだけ降り注ぐわけではない(ロングフェロー)】

似たような言葉に「夜明け前が一番暗い」というようなものもあるが、「辛いなぁ」と思う時にこう考えるともう少し頑張れそうに思う。


 幸福についても昔から考えていたように思う。

【人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである(ドストエフスキー)】

【家の上に屋根あり、屋根の上に月あるを、思うのみにて我が心足る(百田 宗治)】

【不幸になりたければ、自分が幸福か不幸か悩むこと(デール・カーネギー)】

みな同じ事を言っているが、「幸せは見えない」という事は常に意識していたいと思う。そうでないと、【近すぎて見えなかったものも、遠ざかる時はじめてその形がよくわかる(銀色夏生)】という事になりかねない。【幸せとは気づくこと】と自分に言い聞かせると、日々の不幸感もやわらぐというものである。


 「考え方」はとても重要だと思っている。「意識」と言い換えることもできるが、考え方次第で己の行動も随分と変わる。【他人はすべて自分よりもアカンと思うよりも、他人は自分よりエライのだ、自分にないものをもっているのだ、と思うほうが結局はトクである(松下幸之助)】とは、仕事では常に意識するようにしている。ついつい自分の考え方こそが正しいと思ってしまいがちであるが、こういう意識をもっていると、相手の言い分もきちんと聞いてよく考えようという気になる。そしてそのせいか、今の会社に移ってから比較的人間関係はいいと思う。要は【青い眼鏡をかければ、世の中がすべて青く見え、赤い眼鏡をかければ、すべてが赤く見える。世の中は自分の心の反応である。人を憎めば人もまた自分につらく当たり、人を愛すれば人もまた自分に親しむのである。(精神医学者森田正馬)】という事だと思う。


 仕事関係に活かせるものは数多い。

【成功は結果であって、目的であってはならない(フランス小説『フローベール』)

【積極的に仕事をすれば、失敗するのは当たり前(明治食品社長佐藤辰雄)】

【どこまで行けるかを知る方法はただ一つ、出発して歩き始めることだ(アンリ・ベルクソン)】

【真剣にやると、知恵が出る。中途半端にやると、愚痴が出る。いい加減にやると、言い訳しか出てこない。(第20代商青連会長大脇唯眞)】

こうした意識があると、仕事の中で生じてきた問題に対する態度がすんなり決まったりする。そういう言葉が、共感を呼んだりすることもしばしばである。


 最近、ちょっと気に入ったのは、【男は大人のフリした少年であり、女は少女のフリした大人である】だろうか。男がなぜ馬鹿なことをやるのかという事をよく表している。子供は自分のやることを「馬鹿な事」とは思わない。そして男は年齢を意識しない。女から見ればあきれるのもよくわかる。さらに女から見れば石を投げつけられそうだが、【男には2種類しかいない。浮気をする男とそれがバレる男。(ドラマ『夫婦の世界』)】というのも心にヒットした。付け加えるなら、「そしてみんな自分はバレないと思っている」だろうか。【美女というやつは複数形でしか考えられない】というのもあったが、男としては共感する心を止められない。


 名言は、偉い人がもっともらしく言ったものだけとは限らない。上記のようにドラマの中のセリフが心に刺さることもある。【家族とは「さよなら」と言わない人たち(ドラマ『WOMAN』)】には、思わず唸ってしまった。ファンである満島ひかりのドラマを漁っていて観たものであるが、ドラマの内容と相まって心に響いてきた。ドラマでも漫画でもそんな言葉にいたるところで出会う。【戦場には真っ先に降り立ち、そして一番最後に去る】とは、何だったか忘れた映画の中のセリフだったが、自分もかくありたいと思う。こういう言葉は、いつしか自分の行動指針になったりする。ヒーローモノの映画やテレビを観てその気になりやすい男にとっては特にそうだろう(そういう意味でも男は大人のフリした少年なのである)。


 考えてみれば、人間は自らの経験によって得た真理を他人に伝えようとする。名言などと意識しなくても、「ことわざ」という形で身の回りに数多く残っているものもある。私に限らず、そうした先人の知恵のようなものを知らず知らずのうちに取り入れていたりするのかもしれない。同じ言葉でも、人によって心にヒットするか否かは異なるだろうと思う。【問題意識があれば、情報は自然に頭のなかにはいってきます。しかし、どんなにたくさんの情報を集めたところでその情報をどう見るかという自分の「見方」を持っていなくては、情報は一本の糸でつながりません。(邱永漢 『株の原則』)】なのである。日ごろから考えていることとマッチする時、あるいは自分の考え方とマッチする時、心にヒットするのだろうと思う。


【私を天才と呼び、成功者というのはあたらない。何もかも精一杯の努力をしただけだ。(エジソン)】

【発見とは人と同じものを見ながら人の気づかないものを見つけることである(ハンガリー医学者セント・ジェルジ)】

【人間はしばしば、他人の欠点をほじくることによって、自分の存在をきわだたせようと考える。だが彼は、それによって自分の欠点をさらけ出しているのである。人間は聡明で善良であればあるほど、他人の良さを認める。だが愚かで意地悪であればあるほど、他人の欠点を探す。(トルストイ)】

【人は軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。(三木 清)】

【困難は、人の真価を証明する機会なり(エピクテトス)】


 何にせよ、自分一人で成長できるものではないし、こうした名言で己の精神を養いたいと思う。そのうち子供に伝えたいものを自分でも残せるようになりたいと思うのである・・・



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【本日の読書】

イーロン・マスク 上 (文春e-book) - ウォルター・アイザックソン, 井口 耕二 教誨 - 柚月裕子