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2025年4月27日日曜日

映画『愛がなんだ』に見る愛の形

 映画『愛がなんだ』を観た。ストーリーだけを追えばちょっと変わった恋愛映画という事で片付けられるような映画なのであるが、映画の主人公の2人の関係を観ながらいろいろと考えさせられた。映画の主人公は、まもなくアラサーというOLの山田テルコ。田中マモルという男と付き合っているようであるが、どうもそういうわけでもない。というのも、テルコの思いは一方的で、マモルからはそれが感じられないのである。冒頭では風邪で寝込んでいるマモルからテルコに連絡が入り、差し入れを頼んでくる。喜び勇んでマモルの部屋に向かうテルコ。甲斐甲斐しくお粥を作る。

 その後、テルコは風呂掃除を始める。この時点で2人の親密度はわからないが、風呂掃除はやり過ぎのように思う。婚約しているとかならまだしも、そうでなければ「私はいい嫁になる」アピールのように思えてしまう。マモルはもういいからとテルコを追い返すのであるが、その気持ちもよくわかる。しかし、この時点で既に終電はなく(そんな時間に風呂掃除もないだろうが)、追い返すマモルももう少し気を遣いたいところ。テルコも後先考えずに行動するタイプのようで、手持ちの現金がなく、タクシーも呼べずに友達に頼んで泊めてもらう。

 テルコはマモルに一途なのであるが、それがまた異常。常にいつ呼び出されてもいいように待機状態だし、呼び出されれば状況いかんに関わらず喜んで駆けつける。2人で朝まで飲んでも、マモルは1人タクシーに乗って先に帰ろうとする。私の感覚であれば、先に女性をタクシーに乗せるだろう。どうやら惚れているのはテルコだけのようだが、マモルもそんなことは嫌でもわかるだろう。しかし、惚れていなくてもそのくらいの配慮は私ならするだろう。男からすれば、自分に惚れて何でも言いなりの女は実に便利である。会いたい時に呼び出し、やりたい時にやれる。そんな女を男なら1人はキープしておきたいところである。

 映画は少し大袈裟なところはあるが、好きになった相手に一途に突進するタイプは普通にいる。「好き好き」オーラを出しまくって相手に接するのである。相手も同じ気持ちならいいが、そうでない場合は(特に女性は)、便利に利用されてしまう可能性は高い。男にとって口説くハードルのない女は便利この上ない。本命の彼女がいればともかく、いなければ現れるまでの「つなぎ」にしようと思うだろう。それは決して女性にとってはいい事ではないはず。それを防ぐには、グッと気持ちを抑えて距離を保ちつつ接近するしかない。

 テルコの例であれば、具合の悪い相手に差し入れはいいだろうが、用が済んだらさっさと帰るべきだろう。あれもこれもと世話を焼くのはやり過ぎである。呼び出されても3回に1回は気持ちを抑えて断りたいところだ。応じても時間を見て適切な時間に帰る事も大事である。ボクシングで言う「ヒットアンドアウェイ」というやつである。「恋愛は駆け引き」などというつもりはないが、特に女性は男に遊ばれない工夫はすべきであろうと思う。

 相手を好きになったら男も女も相手に対して身も心も開いていくのだろうが、男と女ではやり方は変えるべきだと思う。男は一途にアタックするべきだし、それで相手の女性の心が動く可能性はある。しかし、男は寄ってくる女に対しては、それほど好きでなくても、気のあるふりをして便利なキープ女にしようという邪な考えを抱く可能性は高い。それゆえに女の方もガードしながら近づいていく必要がある。あまり簡単に許してはいけないと思う。

 私も自分の経験を振り返ってみると、上記のように思う。それが今の若者にも通じる原理なのかどうかはわからない。ただ、こういう映画が創られるという事は、今もまだ通じる心理なのかもしれない。男は好きでなくても恋人のように女と付き合えるものなのである。そういう事は私の娘にも警告として伝えてあげたい気もするが、「若い頃に何をやっていたのか」と突っ込まれるのもまずいし、伝え方は難しい。それでも映画を観ながら考えたのは、「注意するとしたら、テルコの方だろう」という事。これは女が自衛するしかないと思う。

 映画は観る者にいろいろな事を示唆してくる。ストーリーとは関係のないところで今回はあれこれと考えてしまった。ちなみに映画では男をいいように振り回す女も登場して、どっちもどっちであった。それぞれ「相手のことを考えてあげようよ」と思ってしまったが、やはりこういうことに関しては男に対して同情心は湧いてこないものである。つくづく、女性には自らを安売りをしないようにしてするべきだと思うのである・・・


映画『愛がなんだ』

【今週の読書】

 いま世界の哲学者が考えていること - 岡本 裕一朗 シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本 猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実 - 藤原喜明, 佐山聡, 前田日明 〈他者〉からはじまる社会哲学 - 中山元 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久






2025年4月16日水曜日

『THE DAYS』に見る部下のあり方

 前回、ドラマ『THE DAYS』を観て心理的安全性について感じる事を記したが、今回は部下のあり方について感じた事を述べてみたい。ドラマの総理大臣(菅直人元総理がモデル)は、未曽有の危機の中、専門家たちが思うような意見を出せず、イライラを募らせ、結果的に怒鳴ったり詰問したりを繰り返していた。今で言うパワハラであるが、部下の方としても対処の仕方はあると思えた。人間、どうしても怒鳴られれば萎縮する。完璧な答えを返そうと思えば思うほど慎重になるし、そうすると益々歯切れは悪くなるし、それはすなわち聞き手からすると不信感へとつながる悪循環である。

 まずは怒鳴られても怯まないのが一番である(と言っても気の弱い人には難しいかもしれない)。頭に血を上らせて怒鳴り返すのは論外だが、心の中で深呼吸し、冷静に言うべき事を返すのがいい。その際、「絶対間違いないか!」「100%正しいのか!」と詰められる事はよくある。そこも冷静に、そもそも「絶対という事はあり得ない」と答えを言う前に納得してもらう必要がある。当時の状況は誰もが経験した事のない状況なわけで、そもそも絶対という事がわかっていれば迷わず行動できるわけである。「より可能性の高い回答しかできない」と私なら怯まず答えるだろう。それで不満なら首にしてくれと。

 そもそも絶対とは言えない可能性のうちどのリスクを取るのか。それこそ最高司令官たる総理大臣の責任である。それを思い出してもらえるよう、冷静に答えたいところである。この「冷静に」というのも重要で、私も銀行員時代、債権回収の場で激高する経営者相手と対峙したことがある。怒鳴りつけてくる相手に対し、終始穏やかに冷静に話をし続けたところ、相手もだんだん落ち着いてきて、最後は互いに穏やかに話をして別れたのであるが、こちらが冷静であれば相手も冷静さを取り戻すのではないかと思う。

 激高する相手に対し、またはイライラして厳しい口調で詰問してくる相手に対し、怯まないでいられるには多少の勇気が必要かもしれない。どうしても顔を背けて逃げたくなるのが人情であるが、そこで面と向き合うのは勇気がいる事かもしれない。私はもともとラグビーをやっていたせいか、あまりビビるという事はこれまでになかった。私が社会人になった時、最初の上司は典型的なパワハラ上司であった。本来、課の№2的存在である主任さんもよく怒られ、立たされていた。新入社員の私はそのパワハラ上司の目の前に座らされており、私とパワハラ上司との間に主任さんが長時間立たされていて、その居心地の悪さに困惑した経験がある。

 その時の主任さんも気の弱い方で、やはり蛇に睨まれた蛙よろしく、パワハラ上司の詰問に黙り込む事がしばしばであった。黙り込まれるとよけいにイライラして回答を強い口調で求める。そうすると萎縮して声も小さくなり、自信のない回答になる。するとパワハラ上司はイライラして「はっきりしろ!」と怒鳴る。まさにドラマのような悪循環であった。隣で聞いていた私は、「間違ってもいいからはっきり自分の意見を言えばいいのに」と思っていたものである。毅然とした態度こそが、相手に対する安心感を与えるものではないかと思う。

 ドラマでは総理に報告すべく待ち構えていた関係者が歩いてくる総理に恐る恐る話しかける。「今聞かないといけない要件か!」と一喝されて、その関係者は怯んで「後でもかまいません」と引きさがってしまう。私なら、「こういう事態ですので、歩きながらでも聞いてください」と食い下がるだろう。どういう内容のものだったかはわからないが、本当に後でもいいような報告なら、総理の側近に報告して伝えてもらえばいいのであり、そうするべきである。わざわざ報告しようと思った内容であるなら、無理やりにでも報告するくらいの度胸がないとダメではないかと思う。

 そもそも上に立つ者がそんな態度ではいけないので、それがすべてであるが、運悪くそういう器量の狭い上司に当たってしまった場合は、殴られてもいい覚悟で堂々と報告すればきちんと対応してもらえるものだと思う(実際に殴られる事はまずないだろう)。東電の首脳陣も総理の勢いに怯んで海水注入中止を現場に指示する。それに対して現場責任者の吉田所長は面従腹背の態度で、中止する振りをしながら実際は注水を続ける。結果的にそれが良かったようなのであるが、そういう度胸のある人間が現場にいたから良かったものの、東電首脳陣のような「言いなり君」ばかりだったらどうなっていたのだろうかと背筋が寒くなる。

 パワハラ上司の下で、仕事では何も言い返せない2年目の若造だった私だが、夏休みの取得については、怯む先輩を差し置いて1人パワハラ上司と交渉し、上司から指定された7連休を拒否して9連休を勝ち取った。その時も自分の意見を怯むことなく伝えた結果であるが、その時にパワハラには「怯むな立ち向かえ」という教訓を得たのである。今はパワハラも指導が入る良い時代になったが、それに甘んじるのではなく、仕事では怯まず立ち向かう気概が部下にも必要だと思うのである・・・


【本日の読書】
MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭  黄色い家 - 川上未映子





2025年4月13日日曜日

『THE DAYS』に見る心理的安全性

 福島第一原発の事故を描いた『THE DAYS』を観ている。その前に本では『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日』(門田隆将著) を読んでいるし、映画では『Fukushima 50』を観ているが、今度は全8話のドラマである。もうストーリーはお馴染みであるが、それでもそこから伝わってくる緊迫感、喉元過ぎればで「原発必要論」を声高に主張する人たちへの反発もあって観たくなるのかもしれない。さすがにドラマ版は映画版よりも長いのでじっくりと描かれる。観ているとストーリーとは別のところで考えさせられるシーンが出てくる。

 特徴的なのは、総理大臣(当時は民主党の菅総理)の言動だ。現場の混乱も構わずヘリで視察に向かう。危機管理室では関係者をヒステリックに怒鳴り散らす。当時も批判されていたが、本や映画やドラマでもすっかり悪者である。しかしながら、そんな表面的な部分ではなく、よくよく総理の言動を追って行くと、そこには総理の苛立ちと焦りが感じられる。一国の最高責任者として的確な判断を下さなければならないのに、そのために必要な情報が与えられないという苛立ちと焦りである。

 まず批判された現場視察であるが、これも危機管理室で総理の疑問に的確に答えられる者がいないため、「ならば直接この目で確かめに行く」となったのである。総理の側近には原子力安全委員会の者もいれば東電の人間もいる。しかし、総理の疑問に対し、的確に答えられない。それで総理はイライラを募らせ、周囲に当たり散らす。すると関係者は萎縮してはっきりと答えられなくなる。その悪循環に陥るのである。総理に問われた関係者が下を向いたり他の者に転化したり、口ごもる様子は確かに観ていてイライラする。

 しかし、それも当事者の立場に立てば当然なのである。誰しもが経験したことのない未曾有の事態なのである。誰も正解を知っているわけではない。象徴的なのが、第5話で海水注入を巡るやり取りである。真水の不足を見越して現場では原子炉を冷やすために海水注入を準備する。しかし、危機管理室では海水を注入すると再臨界が起きるのではという疑問が呈される。総理は原子力安全委員会の者に問う。「海水注入で再臨界は起きるのか」と。その口調は厳しいものであり、その場には緊張感が漂う。

 問われた専門家は、起こらないだろうとは思うものの、「絶対か?」と問われれば口ごもる。「可能性はゼロかと聞かれればゼロとは言い切れない」という何とも歯切れの悪い答えである。それで総理はイライラしてまた怒鳴りつける。するとよけい萎縮して何も言えなくなる。総理の気持ちはもっともだが、トップに立つものとしては様々な可能性、意見の中から適切に判断を下さないといけない。何より大事なのは、とにかくあらゆる情報、あらゆる意見を出させてそれを検討することである。その点ではこの総理の態度はまるでダメである。

 部下が思う通りに発言するためには、何を言っても大丈夫という安心感がないといけない。最近ではそれを「心理的安全性」という言葉で表しているが、まさにその心理的安全性がここではまったく機能していない。総理としては、イライラはグッと堪え、冷静かつ穏やかに問いかけ、どんな意見であろうと感謝の言葉とともにその意見を受け入れることが必要である。側近もいろいろと意見を述べている。頭からそれを否定するのではなく、すべて一旦受け入れるのである。「気がついた事があればすぐに言ってほしい」と加えて。

 総理にご報告と原子力安全委員会の者が総理を呼び止めるシーン。総理はかしこまる者に対して、「今報告すべき急ぎの報告か!」と詰問する。するとその者は萎縮して「後でも構いません」と答えて引き下がる。これではいけない。本当に余裕がないのであれば、「◯◯の後で聞くから待っててくれ」とすればいいわけで、怒鳴ったり詰問したりしても何も得るものはない。結局、菅総理はその時の一連の危機対応について批判されてしまったが、それも無理からぬ事、たぶんご本人はまわりの者の無能を言い訳にしたいだろう。だが、心理的安全性を確保しなかったのは間違いなく本人の責任であるし、批判は回り回ってその身に返ってきたものと言える。

 ビジネスの現場でも結局は同じである。部下だからと言って軽視するのではなく、いろいろな意見を忌憚なく言わせられれば、それは結局自分自身が正確に判断を下す助けになる。人の振り見て我が振り直せ。学びは至る所に落ちている。その他にもリーダーシップや部下としてあるべき姿など、ビジネスにも有益なドラマであると思うのである・・・



【今週の読書】
〈他者〉からはじまる社会哲学 - 中山元 MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭  黄色い家 - 川上未映子





2024年10月7日月曜日

隠れた事情

 Netflixのドラマ『極悪女王』が面白い。何でもそうだが、知られざる舞台裏を知るというのはまったくもって興味深いものである。ドラマは一時代を席巻した女子プロレスのヒールであったダンプ松本を主人公にしたものであるが、デビュー前は気の優しい女の子で、後にライバルとして熾烈な争いを展開する長与千種とは同期入門で、互いに恵まれない家庭環境の中から女子プロ入りし、共に励まし合いながら新人時代を過ごす。後の対決からはまったく想像のできないものであった。

 もちろん、対決というのはあくまでもリングの上だけでの話はわかっているが、2人の新人時代のエピソードは心温まるものがある。かくして物事は外側だけ見ていてもわからないものだという事がわかる。おかしいと思う事であってもその裏側には外側からは窺い知れない事情があったりするものである。裏側の事情を知らないのは仕方ないとしても、外側の事情だけをもって一方的に人を批判するのは避けた方がいいと改めて思う。

 一方、これとは対照的に自分の見えている事実がすべてという人たちがいる。ある程度は致し方ないのであるが、世界は自分が見えているところだけで成り立っているわけではない。「視野が狭い」という言い方もあるが、物事の裏側を想像してみるという事ができる人とできない人がいる。人間は神様ではないので、見えていない部分を見ることはできない。ただ想像してみる事はできる。

 今日、父の弟である叔父が亡くなったと従姉妹から私に連絡があった。いつものように週末に実家に帰っていたところだったので、私は両親にそれを告げた。両親ともに突然の訃報に驚いていたが、母は自分のところでなくなぜ私のところに連絡が来るのだと文句を言い出した。「筋が違う」と言いたいのかもしれない。しかし、相手の事情を想像してみれば、叔母も高齢だし、動揺しているかもしれない。その中で一人娘の従姉妹が悲しみの中で手続きに奮闘していたのだろうと想像できる。

 昼に亡くなったにも関わらず、夜には通夜と告別式の日程が送られてきた。葬儀屋が手際よく手配したのであろうが、遺族もゆっくり悲しんではいられない。そんな中で、中心になって仕切ったのは従姉妹だろうし、我が母の言う「筋を通して」我が父か母に電話するなどというゆとりもなく、手っ取り早くLINEで連絡が取れる私に連絡してきたのだろうと想像できる。

 母にしてみれば自分たちが後回しにされた事が面白くないのかもしれないが、例えそうだとしても「寛容」の精神があれば流せる話であるし、私のように相手の事情を想像してみれば何も気にならないと思う。それはいろいろな場面で当てはまるように思う。仕事でも同様で、「なぜこんな事をしたのか」と怒り半分、あきれる事半分の時があるが、じっとこらえてよくよく事情を聞くとその人なりに考えていたのだとわかったりする。それは考えが足りないとしても、ただ腹を立てるのではなく、まだまだだと思って根気よく教え諭して指導するしかない。

 ドラマはこれから後半戦。世の中では「一気見」などする人も多いようだが、私はあえてじっくり1話1話楽しんで観ていくタイプである。他にも観ているものはあるし、1週間で1話くらいのペースだろうか。もともと女子プロには興味などなかったが、それでも極悪同盟の存在は知らず知らずのうちに視野に入ってきていたし、チラ見もしていたりした。それだけの人気だったという事であるが、出演陣の熱演も凄いし、時間をかけてゆっくり楽しみたいと思う。

 それにしても『サンクチュアリ』もかなり面白かったし、Netflixのドラマはこれからも要注目であると思うのである・・・

Leandro De CarvalhoによるPixabayからの画像

【本日の読書】
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦





2024年1月18日木曜日

映画『ほんとうのピノッキオ』に見る人の成長

 この正月、『ほんとうのピノッキオ』という映画を観た。基本的に原作にかなり忠実なストーリーらしい。と言っても、大筋は子供の頃から慣れ親しんでいるピノッキオの物語と大きくは違わない。貧しい木工職人のジェペット爺さんが作った木の人形が命を宿し、様々な経験を積んでやがて人間になるというものである。映画自体は実写版として楽しく観ることができたが、ピノッキオの行動にこれまでとは違うものを感じた。それは、「改心」と言うより「成長」と言うピノッキオの姿にである。

 ジェペット爺さんは、自分が作った人形が生命を得たのに驚き、そして喜ぶ。貧しいゆえに自分の着ていたコートを売ってピノッキオのために教科書を買い、ピノッキオを学校へ入れる。ところが、ピノッキオは学校へ行く途中に見かけた人形劇が気になり、学校を抜け出して人形劇を見に行ってしまう。一般常識からすればとんでもない悪童だが、しかしピノッキオは生まれたばかりである。暖炉に足を向けて燃やしてしまうほど無知である。人はみな物事の善悪は「経験」によって学ぶものである事を考えると、より好奇心を刺激される方に動いたピノッキオの反応は普通であると言える。

 さらに人形劇団から解放されたピノッキオは、親方にもらった金貨5枚を握りしめて家に帰る途中、キツネとネコに出会う。そこで金貨5枚を持っていると言ったものだから、たちまちカモられる。金貨を増やそうと持ちかけられ、埋めれば金貨のなる木が生えるからとそそのかされてその話を信じる。もちろん、金貨は後で持って行かれてしまうのだが、人を疑う事もまた学習で身につくものであり、経験のないピノッキオが簡単に騙されてしまうのも当然である。疑う事を知らない小さな子供を騙すのは簡単であるのと同じである。現代ではお年寄りも簡単に騙されるし、いい歳をした我が弟もだまされた

 さらに、ようやく真面目に学校へ通い勉強するようになったピノッキオだが、今度は友達に誘われて一緒におもちゃで1日遊べる所へ行ってしまう。この時点ではそれまでの学びから躊躇するようになっているが、結局誘いに乗ってしまう。このあたりは普通の大人でもあり得ることである。正しい道を選ぶのは大人でも難しい。しかし、その成長は確実であり、くじら(映画では怪獣のようだった)のお腹の中でジェペット爺さんと再会したピノッキオは、知恵と勇気を使いジェペット爺さんを助けて脱出する。こうした精神的な成長が認められて、晴れて最後は人間の子供になれるのである。

 何となく「親の言う事を聞かない悪い子は酷い目に遭い、言う事を聞く良い子にはご褒美がある」といった単純な話のように思っていたが、実はそうではなかったのである(今さら気づいたのかもしれない)。子供用のお話であり、子供がいい子になるようにという教育的配慮がなされているとしても、人は誰でも白紙の状態からスタートするという事を、実は描いている。初めはこおろぎの警告を聞かない悪い子なのではなく、経験がないので判断基準となる正しい道がわからないのである。

 人は誰でも親に叱られていつの間にやら「正しい道」を覚えていく。学校には行かなければいけないし、先生の話はきちんと聞かないといけない。そして何よりも、途中で黙って学校を出てはいけないと学ぶ。そうしたことを教えられなければ、誰もがピノッキオと同じ行動を取るに違いない。人間には高度に発達した脳があるから、動物にはできない高度な学習をすることができる。学校に行くのもその一つ。そして経験からさまざまな事を学ぶ。そこには人間の悪意もある。

 騙されて悔しい思いをした人は、自分も誰かを騙してやろうと思うかもしれない。しかし、モラルが高い社会であれば、それは社会的な制裁を受けるから、それが自制に繋がる。そうでない社会は、「騙した者勝ち」の社会になってしまう。幸い我が国は前者である。そして騙された経験は学習として残り、(同じパターンで)二度と騙される事はなくなる。キツネとネコに再び遭遇したピノッキオも、今度はその甘言に耳を貸さずにその場を立ち去る。学習経験のあるなしではかくも大きな違いとなる。

 親は(白紙の心の)子供にあれこれと価値観を植え付けて育てる。子供はその価値観の中で育つ(あるいはその価値観に反発してかもしれない)。少し大きくなれば、他の大人や先生やあるいは童話などからも影響を受けるだろう。このピノッキオの物語も、子供は「言う事を聞かないピノッキオが酷い目に遭う」という風なメッセージで受け取るかもしれない(私もそうだったように思う)。そして「良い子にしていれば最後にいい結果が待っている」と。大人としては、正しいメッセージを子供に伝える義務があるのである。

 さらに物語の舞台となっているイタリアの田舎の町は貧しい町である。ピノッキオを騙したキツネとネコも食べていくのにカツカツで、人を騙して何とか食い扶持を確保していたと見ることもできる。貧しくとも悪の道に走らずに踏みとどまる人もいることを考えると、弱い存在なのかもしれない。嘘をつくと鼻が伸びるというのも、子供達には良い教育なのかもしれない。だが、大きくなるにつれて「嘘をついてはいけない」というメッセージも雲散霧消してしまう。童話の効果も結局、素直な子供時代限定なのかもしれない。

 できれば我が家の子供たちがまだ小さかった頃に一緒に観たかった映画である。良く知ったストーリーだったからかもしれないが、映画を観ながら余計なことをあれこれと考えてしまった。たまにはこういう映画鑑賞もいいかもしれないと思うのである・・・



【本日の読書】
哲学がわかる 哲学の方法 - ティモシー・ウィリアムソン, 廣瀬 覚 勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南







2023年5月24日水曜日

耳に痛いことを言う

 最近、Netflixでよくドラマを観ている。今観ているものの一つに「アリサ ヒューマノイド」がある。ロシア発という珍しいSFドラマである。タイトルにあるアリサとは人間型のロボット。最新式で人間の感情もわかると言われている。そのアリサがテストでキッチンに入る。客のオーダーを聞いて料理を出すのだが、ある太った女性客が生クリームを要求したところ、アリサは「健康に良くない」とこれを拒絶する。怒った客とその場で論争となる。本筋とは関係ないが、面白いシーンだなと観ていて思った。

 アリサは客の体型から必要なカロリーを瞬時に計算し、生クリームは控えるべしとの結論を出してそれを客に伝えている。しかし、客は健康よりも食欲を優先しており、生クリームを食べたいと主張する。ロボットは人間の命令を聞き、人間のために働く。されどこの場合、何が「人間のため」なのか。アリサはそれを健康に置いたが、客は食欲に置いている。どちらを優先するべきか。「良薬は口に苦し」と言うが、「美味しいもの」と「体に良いもの」はしばし対立する。

 これが人間であれば、オーダー通りのものを出すだろう。相手の健康のことを考えても売上にはつながらない。高カロリーの食事をとって太ろうが病気にかかろうがそんなのは個人責任であり他人には関係ない。客もそれを望んでいるわけだし、言われた通りに出せばお互いWin-Winである。例え大盛りでも笑顔で生クリームを出すだろう。だが、家族であれば制止するだろう。家族は当然相手のことを考える。文句を言われようと、それが家族のためであれば苦言も呈するだろう。アリサはロボットながら家族の対応をしているのである。

 先日、会社である若手が遅刻してきた。と言ってもほんの数分である。ただ、初めてではない。こここのところよく数分の遅刻をすることがある。さて、どうするか。直属の上司はそれに対して何も言わない。席がちょっと離れていることもあり、たぶん気がついていない。私にしてみれば直属の部下というわけでもないが、そのまま何もしないでいいのだろうかと迷った。注意すれば相手は嫌な思いをするだろう。こちらにしても然り。ひょっとしたら嫌な存在だと思われるかもしれない。何も言わなければこれまで通りの良好な関係が維持できる。

 形は違えど、アリサのパターンと一緒である。迷った末、注意することにした(別にアリサの影響を受けたわけではない)。直属の上司に伝えて注意してもらうという方法も脳裏に浮かんだが、その若手とは知らない仲ではないし、それどころか席も近くて普段からよく話をしている。また何より私は役員でもあるから広い意味では彼も部下である。やはり自分で直接注意することにした。数分とは言え、遅刻は遅刻。1分遅れても日本の新幹線は出発してしまう。それに1分を放置すると、それが2分になり、3分となるかもしれない。

 「褒める時はみんなの前、怒る時はこっそりと」という原則に従い、彼をそっと脇に呼んで注意をした。彼はこの春主任に昇格している。「わずか数分の遅刻でも遅刻は遅刻、主任という立場は後輩がその行動を見ている。彼らに遅刻してもいいんだというメッセージになってしまう。そういう意味で、きちんと時間通りに来てほしい」と。私はもともと人に怒ったりするのが苦手な性分であり、できれば怒らずに済ませたい。注意も然り。されど自分の快楽よりも教育的指導を優先させることにしたのである。

 間違ったことを言っているわけではないが、モノには言い方がある(妻が大の苦手としていることである)。同じ内容でもモノの言い方一つで相手に伝わるものが違う。言い方一つですんなり受け入れてもらえるし、言い方一つで反発を買う(と妻には言いたい!)。穏やかに教え諭すように伝えたところ、彼も素直に頭を下げてくれた。次の日、彼は10分早く出社した(本音を言えば30分前に来いと言いたいところである)。もともと10分早く起きて行動すればいいだけの事。遅刻するのは意識の問題である。

 良薬は口に苦く、耳にも痛いものかもしれない。しかし、本人のためであるならばきちんと注意しないといけないと改めて思う。組織には規律が必要。それが息苦しいものであれば問題かもしれないが、時間を守るという規律は必要であろう。例えそれが数分だとしても。そして注意するということで自分が不快な気分になろうとも、相手のためになると信じるのであるならその不快を引き受けなければならない、と思う。くれぐれも相手に伝わる「言い方」は意識しないといけないが・・・

 これからどんどん進化していくAIが、アリサのように純粋に相手のためを思う行為ができるようになっていくのだろうか。たぶんそうなっていくのかもしれないが、その前にいい歳した大人として相手のためを思って嫌な役割を引き受けることもしていかないといけないと、改めて思う。そしてもし、逆に相手がそういう苦言を自分に対して言ってきたなら、「生クリームを食べたいのだ」と怒った客のようではなく、その真意を汲み取って素直に聞けるようでありたいとも思う。例え相手が年下の若者であったとしても。

 何より苦言は言われた相手にもよる。「お前に言われたくないよ」と思われたら効果はない。そういうところにおいても、己の行動も普段から意識していきたいと思うのである・・・

Sandeep HandaによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

  






2023年3月23日木曜日

First Love 初恋

 

 かねてからNetflixのオリジナルコンテンツ製作はすごいなと感心していたが、最近はとうとう日本のドラマにも進出してきた。何気なく気がついて観ることにしたのが「First Love 初恋」である。観ようと思った第一の理由は主演が満島ひかりであったからだが、タイトルに心惹かれるものがあったのも確かである。もう還暦も目の前に迫りつつある年齢となると、恋などというものは遠くなってしまった感があるが、それでも過去の自分の経験からも感じるものがある。竹内結子亡き後、好きな女優No.1の満島ひかり主演というだけでも観ないではおかれない。


 物語は主人公の野口也英と並木晴道との恋物語。それが高校時代と現在、そして也英の息子綴と詩と3組の物語が並行して描かれる。高校時代、相思相愛だった也英と晴道だが、現在では別々の生活を送っている。バラバラに始まった物語がやがて一つの形になって行く。人生は思い通りにはならない。相思相愛だった2人がなぜ別々の道を歩むことになったのかが、少しずつ描かれていく。しかも時を経て再会した2人は、なぜか初対面のように振る舞う。その謎も明かされていく。


 「初恋」というタイトルにある通り、2人にとって互いが初恋ということらしい。私の場合、初恋は小学生の時だから2人の場合は少々遅すぎる感はある。まぁ、それはともかくとして、ドラマを観ながら思い起こされるのは己の経験。しかしそれは初恋ではなく、成就することのなかったもの。と言っても正確に言えばすれ違ってしまったと言うもの。それはドラマの主人公2人の関係のようでもある。現在の也英は離婚した相手との子供がいて、晴道も同棲している女性との結婚を控えている。そんな時、再会してしまったが故に晴道の心は揺れ動く。


 私もとても似たような経験をしていて、しかしその時ドラマの晴道のような決断はできなかった。今でも歩むことのなかったもう一つの道が心の片隅で疼いている。最近、いろいろな漫画を読んでいるが、気がつけば「人生やり直し系」の漫画が多いことに気付く。否、そういうものを選んで読んでいるから多いと感じるのかもしれない。そしてなぜそういうものを選ぶのかと言えば、今でもあの時点に戻って人生をやり直したいと本気で思っているからかもしれない。そう言えば、満島ひかりの次に好きな安藤サクラ主演のドラマ『ブラッシュアップライフ』も「人生やり直し系」で、思わず観てしまった。


 「人生やり直し系」の漫画では、主人公が来るとわかっている「未来」に備えて失敗した過去の行動を改めて成功させて行く。未来がわかっているから自信を持って正しい行動が取れる。今、1994年の自分に戻れたら、心から満足のいく人生をやり直せると思う。「人生やり直し系」の漫画が面白いと感じるのは、叶わぬ自分の願いを漫画の中で主人公たちが実践しているからかもしれない。『First Love 初恋』は「人生やり直し系」のドラマではないが、自分が選べなかった道を主人公は選んでいくので、それがいたく己の心を刺激してくるのである。


 ドラマは主人公たちだけがスポットライトを浴びているわけではない。特に也英のタクシー運転手仲間である濱田岳が也英に想いを伝える場面などは、自分が同じように振られた過去を見ているような気にさせられる。いい事言っているんだけど、ダメなものはダメなんだよなぁと思ってしまう。濱田岳はちょっと気弱な三枚目を演じることが多いが、このドラマでは立派だなと思ってしまう。男子たるものかくあるべしと思う。きっといい友達になれると思う。


 このドラマ、一般的にはどうなのだろうと思う。個人的にはいろいろと自分の心が刺激されて魅入ってしまったが、若い人からすればバツイチで子供もいる主人公の「二週目の恋」にはさして心惹かれることはないのかもしれないと思ってみたりする。自分の年齢になればまったく抵抗感はない。自分も「二週目」を経験してみたいとさえ思っているから尚更であろう。こうしたドラマの世界に浸ることはしばしば現実からの逃避になるが、それはそれでいい逃避ではないかと思う。何かと思い煩うことの多い日々である。このくらいの現実逃避は許されると思う。


 ますますNetflixからは目が離せなくなってしまった。観たい映画、観たいドラマは山積していて減る気配はない。読みたい本もまた然り。この分でいけば、老後も暇を持て余すということはない気がする。満島ひかりももっと多くの映画やドラマに出演してもらいたいと思う。そしてまた私の心を刺激してほしいと思うのである・・・


《人生やり直し系漫画》
【本日の読書】



2023年1月15日日曜日

オススメ映画に思う

 私は小学生の頃からの映画好き。父親が映画好きで、テレビでよく洋画を観ており、私も横に座って一緒に観ているうちに好きになったという経緯である。人の親となった私は、もっぱら映画を観るのは週末の深夜。子供たちが寝たあと。それだからか、私の子供たちも映画は嫌いではないが、趣味というほどでもない。改めて親の影響は大きいなと思う次第である。週末2本観れば、年間で100本。休暇や祝日の前夜もあるから、なんだかんだで昨年は142本を数えた。一昨年は166本である。

 それだけ観ていても、まだまだ観たいリストは減らない。観たいと思うものを片っ端から登録しているが、今現在で300本くらいある。仕事をリタイアでもしない限り減りそうもない。となれば、面白い映画を効率的に選んで観たいと思うが、それはもっぱら口コミに頼ることになる。誰かが観て面白いと思うものを観ていけば、ハズレる心配はない。ちなみに経験上、「予告」は当てにならない。予告を観て面白そうだと思って観てもハズレることは結構ある。その点、口コミは精度が高い。まずハズレることは少ない。

 その口コミ、あるいは世間の評判であるが、ハズレることはないものの、「期待ほどではない」というのは多々ある。めちゃくちゃ期待して観たものの、確かに面白かったが、期待したほどではなかったというのが多々あるのである。昨年は、『トップガン マーヴェリック』が大ヒットした。知人の中には何回も観たという者もいる。私も続編の製作を知って、前作をわざわざ観直してから観に行ったほどである。確かに面白かった。ストーリーもそうだし、映像の迫力も然り。されど私の個人的年間ベスト10 では8位である。

 なぜ、面白いと勧められた映画がそれほどでもないと思ってしまうのだろうか。それは人それぞれ感性が違うのだから当然と言えば当然である。先月、『勝手にしやがれ』という映画を観た。名画と名高いフランス映画である。しかし、これもそれほど面白くはなかった。なんでこれが名画と言われているのか。それは即興演出や手持ちカメラでの街頭撮影など、当時の劇場映画の概念を打ち破る技法で製作され、後の映画界に大きな影響を与えたということもあるらしいが、要は当時は斬新であっても、それが一般化すれば当たり前になる。そういう時代の影響もあるかもしれない。

 一昨年は、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が大ヒットし、邦画の記録を塗り替えた。確かに面白かった(個人の年間ベスト4である)が、個人的には原作漫画の方が遥かに良かったし、正直言って漫画の方は涙腺が崩壊してしまった。だが、映画の方はそれほどでもない。「ストーリーを知ってしまったから」ということもあるかもしれないが、原作漫画は読み直しても感涙なので、映画の問題である。なぜ、そういう違いが生まれるのだろうと不思議に思う。その理由がわかれば、他人のオススメ映画から適切に自分にヒットするものが選べるかもしれないと思ってみたれする。

 逆に自分が自信を持って勧めたのに、他人にそれほど受け入れられないというのもある。『ちはやふる』2017年の個人のベスト1であるが、勧めた友人には怪訝な顔をされてしまった。2022年のベスト1『浅草キッド』であるが、これも然り。多分、勧めた相手は観ていないと思う。伝え方の問題もあると思うが、こういうことは珍しくない。だから、趣味の話になって、当然の如く「最近観た中で何が良かったですか」と質問されると、当惑してしまう。どうせ怪訝な顔をされて終わるなら言いたくないと思ってしまうのである。

 残念であるが、人それぞれヒットポイントが違うだろうから、オススメ映画を聞くのもあまり意味はないという気はする。『マチネの終わりに』という映画は、原作小説もあるが、共に個人的には心に残る作品である。なぜ、この小説・映画がいいのかと考えると、ストーリーが良いのは当然だが、「自分の似たような経験を刺激される」というところが大きい。過去に好きだった女性と時間差のすれ違いがあって、今でも人生最大の失敗と悔やんでいるが、その記憶が刺激されるのである。そうすると、ストーリーだけでなく、それが余計に心に染み渡ることになる。

 人は経験によってその人自身が彩られていくところがある。考え方や感性もそういう経験によって形成されていくところがある。だから若い人と歳をとった人の考え方が違うのも当然であるし、人生で何に重きを置いているかによっても違う。人に何かをして喜んでもらえることに喜びを見出す人もいれば、他人のことはお構いなくひたすら自分の事だけを求める人もいる。価値観が違う相手を自分の価値観で評価しても意味はないし、虚しいだけである。当然、そういう価値観にヒットする映画もそれぞれという事になる。「勧められたけどぜんぜん面白くなかった」というのも当然なのである。

 しかし、だから「人のオススメ映画は当てにならない」とは思わない。やっぱりその人が面白かったというものは、それなりに面白かったりする。だから『トップガン マーヴェリック』『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』もベスト10に入っている。そして、数百本の「観たい映画リスト」の中からハズレを引かないためには、やっぱり人のオススメは参考になるのである。ただ、あくまでも自分の参考であり、人の参考に押し付けたいとは思わない。やっぱり自分の心に大ヒットした作品を「ふ〜ん」で終わらせてほしくはないと思ってしまう。

 「人に勧められても人には勧めたくない」とわがままにも心密かに思うのである・・・

Alfred DerksによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 




2022年10月23日日曜日

果たして理想的に行動できるか

 この週末、趣味にしている深夜の映画鑑賞で、『The Crossing ザ・クロッシング Part III』を観た。1945年から1949年にかけての中国を舞台にした二部作構成の映画である。『Part II』のクライマックスは、「太平輪沈没事故」。国共内戦で国民党が敗走する中、上海から台湾に逃れようとする人たちを満載した太平輪という船が、貨物船に衝突して沈没した海難事故である。海に放り出された人たちが近くに浮いていた荷物等にしがみつくだけでなく、他人の浮き輪や救命胴衣を奪ったり、他人が捕まっていた板を奪い合うシーンを観ていて考えてしまった。「果たして自分だったらどうするだろうか」。

 金城武演じる医師は、見ず知らずの子供を助けて板の上にのせる。そこに現れた男がその板を奪おうとする。医師はみんなで掴まれるからと必死に訴えるが、男は医師をナイフで刺し板を奪う。法律的には、自分の命が危機にある時、助かろうとして他人の生命を危険に晒しても、それは「仕方ない」と判断される。いわゆる「緊急避難」というもので、罪に問われることはない(もっともナイフで刺す行為が緊急避難にあたるのかどうかはわからない)。自分も同じ状況下に置かれた時、どう振る舞うだろうか。

 自分1人の時と、家族などと一緒の時とでは違うだろうが、1人の時であればとにかく自分が生きる方法を模索する。基本的に浮き続けるのは疲労もあって困難だろうから何か掴まるものを探すだろう。だが、その時、他人のものを奪うようなことはしないだろう。たとえ力づくで奪えると判断したとしても、それをする事は自分の考えに合わない。他のものを探すとか、何か別の方法を探すだろう。ただし、明らかに何人かで掴まれるものを独り占めしている者がいたら、そこは説得するだろうし、応じなければ力づくで奪うかもしれない。

 もちろん、それはあくまでも何の心配もいらない机に座っている状態で思うだけのことで、実際の現場になったら死の恐怖から他人を溺れさせても助かろうとするかもしれない。ただ、あくまでも映画を観ながらぼんやり考えた範囲での話である。あくまでもその範囲ではそのように行動する(したい)という考えである。もともと他人を押し退けてということに心地良さを感じない性分である。電車の中で座ったり、駐車スペースを探したり、混んでいる中で注文をしたり、そういう中で「人をかき分ける」ということができない性格なのである。

 「いざとなったらわからない」とは思うものの、「いざとなっても大丈夫」という思いもどこかにはある。昨年、理不尽にも働いていた会社の社長が勝手に会社を売って失業してしまった。意趣返しで、関連会社の経営権を合法的に手に入れたが、その関連会社にあった資産はかなりまとまったもの。正直言って独り占めしようと思えばできたが、他に同様に酷い目に遭った社員に声を掛けて分け合う事にした。その結果、元社長とは法廷バトルとなり、それは自分1人が前面に出て対応している。損なことをしているが、独り占めするのは性分にあわないので悔いはない。

 「奪い合えば足らぬ、分け合えば余る」とは、相田みつをの言葉であるが、その精神には深く同意する。みんなが理不尽な思いに覆われている時に、自分だけいい思いをしたいとは思えなかった。それは綺麗事ではなく、何をもって自分は「心地良い」と感じるかなのだろうと思う。会社で言えば、社長は儲けた中から社員に給料を払い、残った中から自分の給料を取るというのが基本的な考え方。逆になるととんでもない。自分の場合、役員であるが、まずは社員にしっかりと払い、最後にたくさんもらうというのを好む。そのためにたくさん儲けないといけないし、他の人より多く欲しければ、それだけ儲ければいいのである。

 会社では、しっかり働き、しっかり休む。そこで気にしているのは、みんなもそう出来ているかどうか。休みはしっかり取れているか。自分の部下だけでなく、社員みんなが休めているかは常時気に留めている。それは前職でもそうであったし、現職でもそうである。「ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。一般的に「財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴う」ということのようであるが、それは財産や権力や社会的地位がなくても果たすべきものであるように思う。

 昔からこんな考えを持っていたわけではない気もするが、最近では特にそんな風に思う。関西人の妻が私を評して言う「ええカッコしい」かもしれないが、何が気分的にいいかを大事にするなら、そんな「ええカッコしい」もいいんじゃないかと思う。もう人生も後半戦に入った身であるし、自分ファーストで人から軽蔑されるより、リスペクトを集める方が心地良い。いざとなってもそんな風に行動できる自分でありたいと思うのである・・・


MichaによるPixabayからの画像 

【今週の読書】


   



2022年2月13日日曜日

映画『望み』を観て考える(ネタバレ注意)

 年明けに『望み』という映画を観た。高校生の息子が事件に巻き込まれて行方がわからなくなった家族の姿を追うドラマである。どうやら友人同士の間でトラブルがあったらしく、息子の友人が死体で発見され、息子を含めて3人が行方不明になっている。そして警察やマスコミ報道で、どうやらトラブルは2対2の状況で起きたらしく、3人のうち2人は加害者、残る1人は被害者であるらしいとわかってくる。息子は果たしてどちらなのか。もう1人の被害者も生存は絶望的という状況の中で家族の苦悩が描かれる。

 最愛の息子の行方がわからず、加害者であれば殺人を犯した可能性が高く、被害者であれば殺害されている可能性が高い。どちらにしても家族には辛い結果しかない。母親は絶対的に息子に生きていてほしいと願い、それは「たとえ犯罪者でも」という但し書きがつく。一方、建築士の父親は、息子に殺人の疑惑が生じる中で、息子を殺された長年の取引先からもう一緒に仕事はできないと断られ、なじられる。激減する仕事の中でハッキリとは言わないが、息子に犯罪者であってほしくはないと願っている(ように見える)。家族に犯罪者がいると自身の高校進学に影響すると言われている妹は、犯罪者であってほしくはないとはっきり口にする。

 もしも被害者である場合、世間の同情を集め、何よりも他人を傷つけることはなかったという安堵感を得られる。世間体から言えば、圧倒的にこちらの方が良い。一方、加害者であれば、本人の長期の懲役刑は当然としても、家族も損害賠償で家も財産も失うだろうし、父親もドラマのように仕事はなくなるだろうし、妹の進学なども含めた総合的な悪影響は計り知れない。それに対し、それらすべてを鑑みることもなく無条件に息子の生存を願う母の愛情は絶対である。

 同じ高校生の息子を持つ父親として、自分だったらどう思うだろうかと思わず考え込んでしまった。母親の立場は明確である。我が子かわいさがすべてであり、それ以外の選択肢はない。しかし、父親としてはやはりいろいろなことを考える。まず被害者側に対して申し訳ないという気持ち。それから損害賠償で家や財産を失う恐怖。仕事も場合によっては続けられなくなるかもしれない。将来、出所してきた息子はまともに職に着くのも難しいかもしれないし、そうするとそのサポートも必要である。

 逆に被害者であれば、仕事は安泰だし、世間からは同情を得られる。引っ越す必要もないし、外に出ても堂々としていられる。妹も犯罪者が身内にいると私立高校への進学は難しいなどと心配する必要もなく、自分の人生を生きていける。ただ、息子を失うという悲しみだけが残るだけである。映画は、息子が殺された友人のために力になっていたということがわかり、母親にとっては最悪の結果だが、父親としては我が息子を誇りに思える結果となる。涙ながらも大きな安堵感が伝わってくる。果たして自分も同様に思うだろうか・・・

 究極の選択に思えるが、自分であれば状況によって変わってくるだろう。もしも一人息子であれば、やはり「生きていてほしい」と思うだろう。それがたとえすべてを失うことになったとしても、である。しかし、この映画のように兄弟がいてそちらに影響が出るということになると、残念ながらこの映画のように「名誉ある死」を望んでしまうと思う。自分だけなら諦めもつくが、そうでなければ残る兄弟姉妹のことを考えてあげたいと思う。どちらも自分の子供だからである。

 息子の部屋であるものを発見した父親は、息子に対するあいじょぅと信頼感が増し、疑惑を向ける世間に対して毅然とした態度を取る。親子ならではの信頼感。自分の息子ともそういう信頼感を築けたらいいなと思う。息子がどちらかわからない間、家族は外部からの様々な軋轢に翻弄される。されど父は息子に対する絶対の信頼感から毅然と行動する。その姿が眩しくもあり、自分もかくありたいと思う。ドラマで心惹かれたのは、気難しくなった息子が父親の言葉をきちんと受け止めていたこと。無愛想でも言葉はしっかりと届いている。そこに自分もヒントを感じる。言葉は届くのだと。

 そのように子供に対して何か思いがあるならば、遠慮なくその思いを届ければいいと思う。最悪の結果となった映画の結末だが、息子との絆が残った父親には救いがあった。そういう事態にならないのが一番ではあるが、いろいろと抱いている子供たちに対する思いはきちんと伝えたいと改めて思う。映画は時に現実の自分に対して様々な気づきを与えてくれる。これからも好きな映画をたくさん観ながら、いろいろと人生のヒントを得たいと改めて思うのである・・・



【今週の読書】