2016年12月31日土曜日

大晦日雑感2016

 また一年が終わりゆく日となった。今年一年はどうだっただろうかと振り返ってみる。
仕事は順調である。転職して入社し、経営改善を提案して実行し、一年目に僅かながら経常黒字を達成した。二年目の今年も、あまり大きくはないが増収増益の着地見込みであり、まずまずと言えるだろう。問題は三年目であるが、一つ波を越せばまた次の波がやってくるもの。そう考えて前向きにチャレンジするのみである。

趣味の映画は、今夜観るものを入れると169本であった。週末の2日間プラスαであるが、例年通りのペースであった。このうち映画館で鑑賞したのは2本。本来ならすべてとはいかなくとも、映画館で観る本数を増やしたいところであるが、ツタヤディスカスで送られてくる月8本をこなしていると、正直あまりゆとりがない。だが、「これぞ」と思うものは、なるべく映画館に行くようにしたいと思う。

通勤時間の読書は130冊であり、年間としては過去最高である。長い通勤時間を逆手に取って、「読書タイム」としているが、この影響が大きい。最近は読んでも内容をすぐに忘れてしまうが、読書メモ代わりにブログにしているので、この時の振り返りと、後日に見直すことで割と思い出せるようにはしている。これはしっかりと続けていきたいと思う。

今年大きな変化といえば、やはりボランティアで続けてきたことを辞めたことだろう。トップとの意見の相違から「休養」を勧められたのである。表向きは「休養」であるが、もう復帰はしないと決めてあるので、事実上辞めたのと同じである。組織の運営は、自分が携わるようになってほとんどすべてを変えて、作り上げてきたという自負がある。それでも「いなくても平気」と思われたなら、それはそれで「存在感」の問題である。無理に居座るつもりはない。

その昔、銀行に入って初めて仕えた上司は、「俺がいないと仕事が回らない」と豪語していた。それはそれでその通りであったと思うが、一方で自分ですべて抱え込んでいたとも言える。自分は逆に周りにどんどん移譲し、「自分がいなくとも回る」形にするというのが信条である。ボランティアの運営もまさにそうなのであるが、それが逆の意味で機能したのは、皮肉であろうか。だが、形は真似できても、深く理解していないと上手くいかないこともある。そのあたりが後任者の試練であろうと思う。

ボランティアを辞めて余った時間をどうするか、はまだ模索中である。今年は宅地建物取引士の受験勉強があったので、それに当てたという部分もあるが、その甲斐あって合格した。来年はマンション管理士の資格にチャレンジするので、それに当てるという考え方もあるが、それはそれで別のことも模索し続けようと思う。大学の同期がやっているタッチラグビーなんかもいいかもしれない。

大掃除も終わり、年賀状も仕上げ、今年もすき焼きと紅白とで年を越すことになる。抱えている家族の問題は、改善の兆しは見えない。「禍福は糾える縄の如し」というが、ここが自分の「禍」であると言える。来年もめげずに改善努力は続けようと思う。高校生の娘とのコミュニケーションは維持したいし、来年小学校6年になる息子ともいろいろな話をしていきたい。年々老いつつある両親との距離ももっと縮めたい。

新たな年に向けていろいろと思うこともあるが、大きな飛躍は期待できないかもしれない。ただ、例えそうだとしても、365日過ごした上で小さくともステップアップはしていたいと思う。11ミリでも進んでいこうと改めて思うのである・・・





  

2016年12月28日水曜日

南スーダンの武器禁輸決議案否決について

(ニューヨーク、20161223日) - 国連安全保障理事会が20161223日、南スーダンに武器の禁輸と同国のリーダーたち3人に渡航禁止および資産凍結を科した決議を否決。これを受けて7つのNGOが共同で本日、深い遺憾の意を表明した。採択には9票が必要だったが、8カ国が棄権したため、賛成が7票とこれに届かず否決となった。
Huffingtonpost
***********************************************************************************

 先日のニュースを見てちょっと驚いてしまった。日本政府が南スーダンに対する国連の武器禁輸決議案に棄権票を投じ、その結果、決議案が否決されてしまったというものである。日本政府は反対したわけではないが、棄権したことにより賛成票が足りずに否決となったというのである。まぁ仮に賛成したところで、賛成票は8票でありもう1票足りないわけであるから、日本だけの責任とは言い難いとは思う。

 しかしながら、この手の決議案では反対か棄権に回る中ロなどと比べ、米国の同盟国である日本は賛成票としてカウントされていたのであろう。それなのに棄権に回ったため、米国からも批判されている。意外な決定だが、日本政府の見解としては、賛成に回ることで南スーダン政府を刺激し結果として現地に派遣している自衛隊の安全を脅かしたくないというもののようである。

 さて、武器輸出となれば平和を国是とする我が国のスタンスからすれば、当然賛成してしかるべきところだろうが、あえて棄権(実質的な反対)したというところにどうしても注目してしまう。日本政府の見解を見れば、なるほどそれはそれで筋は通っていると思う。何より政府には一般人よりも情報量が多いだろうし、その中から判断したということであるから、正しいのではないかと推察するぐらいである。

 しかしそもそもであるが、武器輸出を禁止しようというからには、南スーダンに「輸出している国がある」ということである。南スーダン政府は、内戦に勝利するために武器を必要としているわけであり、そして南スーダンに武器を輸出している国があるはずである。あるいは武器商人なのかもしれないが、武器商人とて武器を製造しているわけではないだろうから、大本の生産国があるはずである。その国がどこなのかはわからないが、興味深いところである。

 そういう武器の輸出国のランキング(2015) を見てみると、
 1.     アメリカ 10,484百万ドル
 2.     ロシア   5,483百万ドル
 3.     ドイツ   2,049百万ドル
 4.     フランス  2,013百万ドル
 5.     中国    1,966百万ドル
となっている。逆に輸入国の方を見てみると、南スーダンは66位となっている。統計には107カ国出ているが、その中での66位である。どこの国が南スーダンに輸出しているのかがわかれば、もっと色々な面が見えてくるのかもしれない。

 輸出国は、当然南スーダンに武器を輸出すればそれが内戦に使用されるとわかっているわけである。もちろん、売る側には売る側の正当な根拠があるのだろう。だが、輸入国のリストが107カ国であるのに対し、輸出国のそれは40カ国。つまり武器を作って売れる国は、「それなりの国力」があるところであるわけで、正当な根拠と言っても「食うため」でないことは確かであろう。

 武器の禁輸も南スーダンだけに限らず、本来一切合切すべて禁止とするのが理想だろう。大規模な戦力を有するISだって、一体どこから武器を仕入れているのであろうか。本来なら「全面禁止」が理想ではあるが、それは現実的ではないからせめて「限定禁止」なのだろう。さらに言えば、国連決議は効果があるのだろうかという疑問もある。効果がないなら、「南スーダン政府を刺激しない」という選択もおかしくはないと思う。

 武器の禁輸決議に反対したから即「けしからん」というのではなく、ちょっと立ち止まって色々と考えてみたのである・・・







2016年12月25日日曜日

大聖堂と椅子職人

イソップ寓話に3人の職人の話というのがある。

ある旅人が、ある町でレンガを積んでいる3人の男に会う。旅人は1人目の男に何をしているのかと尋ねると、男は「レンガ積んでいるんだ」と答える。2人目に同じこと尋ねると、「食べるために働いているんだ」と答える。3人目の男に尋ねると「歴史に残る大聖堂を造っているんだ!」と答えたというものである。

同じレンガを積むにしても、どういう目的意識でやるかによって大きく異なるという話である。これはモチベーションの例として、働く者の立場から語られることが多いようである。確かに、自分自身の話として捉えるのであるならば、「レンガを積む」のではなく、「大聖堂を造っている」という気持ちで働きたいものだと思うし、部下にもそういう気持ちで働いて欲しいと思う。しかし、では「大聖堂を造っている気持ちで働け」と指導すればいいかというと、それだけでは難しいと思う。

先日読んだ三枝匡の「ザ・会社改造」という本に、「椅子職人の悲劇」という話が紹介されていた。
《椅子職人の悲劇》
手作りの椅子をまるごと一つずつ組み立て、それを自分で売る職人は、「顧客満足」に敏感で、技術やデザインを磨く努力をする。しかし、ここに大量生産のため「分業制」が導入され、工場で毎日椅子の脚だけしか作らない作業者が生まれると、作業は他の部品とピタリと合うように規格や品質基準が重要になり、作業者は機械のように働き、モノ作りの楽しさから遠ざかり、顧客の不満にも鈍感になる。

 つまり、自ら「大聖堂を造っている」と思える人もいるが、いつのまにか「レンガを積んでいる」人になっている人もいるということである。というより、ほとんどの人は「レンガを積んでいる」人にさせられているのではないかと思う。会社に入り、「これはこうやる」と「作業」を教えられる。そこで目的意識を持てる人は、「どうしてこの仕事をするのだろう」と考えられるが、真面目な人ほど疑問に思うことなく与えられた仕事を一生懸命こなし、やがて「レンガ積み」職人になるのである。

 本人の自覚だと言ってしまえばそれまでなのであるが、部下を指導する立場に立つのであれば、さらに部下を育成しようとするのであれば、「大聖堂を造る」意識を持つように仕向けたいものである。それは何も難しいことではなく、ただ「仕事の意味を語る」ことではないかと思う。よく部下が知らない情報を握っていることが、部下に対するアドバンテージだという優越感に浸っている上司がいるが、私はそうは考えない。今、会社はどういう方向を目指していて、社長以下の経営陣はどんな議論をしていて、そしてそのためにみんなにどんなことをしてもらいたいと考えていて、だからこの仕事をしてもらうのだと伝えたいと思う。

 たとえば自分が現場監督(リーダー)としてレンガを積む作業を指示する場合、ただ「黙って言われたとおりにしろ」というのと、「ここに大聖堂を造るんだ。今はこのあたりもこんな寂れているが、完成したら人で溢れかえるぞ」と言うのとでは、部下の仕事の出来も大きく異なるであろう。そしてそれは全体の出来、すなわちリーダーの実績の違いとなって表れるに違いない。もし自分がリーダーであるなら、どちらを選ぶかは言うまでもない話である。

 そういうわけで、私は日頃から社長と話していることや、取締役会での議論や自分自身が考えていることをよく部下に語っている。理想としては、自分と同じ情報量を持って欲しいと思っている。そうすれば、私が何を考えているのかも理解してもらえるだろうし、自分でも何をするべきか指示されなくても判断できるだろう。秘匿しておく必要があることもあるが、それはごく一部である。基本はすべてオープンである。

 部下を育成するとはどういうことかと考えたら、基本的に(上司である)自分と同じように考え、判断できるようにすることだと言える(もちろん超えてもいいわけである)。であれば、日頃から自分が置かれた状況でどう考え、判断しているかを一緒に体験すればいいわけである。最終的な椅子を常にイメージし、今自分が作っている脚がそのイメージにあっているかどうか、自分がやっているのは「レンガ積み」ではなく、「大聖堂建設」だと思えるようにする環境を作ることが上司の責任であると思うのである。
 
 そういう上司こそが優れた上司であると思うし、自分自身もそうでありたいと思うのである・・・






【今週の読書】