2023年5月31日水曜日

論語雑感 述而篇第七(その11)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰、「富而可求也、雖執鞭之士、吾亦爲之。如不可求*、從吾所好。」

【読み下し】


いはく、とみもとしもともののふいへども、われさむ、もとからわれこのところしたがはむ。

【訳】

先師がいわれた。

「もし富というものが、人間として進んで求むべきものであるなら、それを得るためには、私は喜んで行列のお先払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は私の好む道に従って人生をわたりたい。」

『論語』全文・現代語訳

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 日本には士農工商の歴史があり、その序列にも表れているように「商人」や「商売」に対しては歴史的に低く評価してきた経緯がある。一説によるとそれは朱子学の影響であるらしい。そしてそれは今でも生きていて、「金のために」とか「金目当て」とか言うと悪いイメージが漂う。お金を追い求めるのはどこか卑しいことという雰囲気がいまだ漂うところもある。特に技術を売り物にしているところなどは、「いいものを作っていれば売れる」というスタンスでいるところが多いのではないかと思う。


 そういう我が社も技術者集団の会社であり、仕事は一生懸命やるが、そろばん勘定は苦手という人が多い。もう少し売上を意識しようと呼びかけたところ、「これからは売上だけを追及していくのですね」などと極論が出てくる始末。売上を追及するのは呼吸をするのと同じく、「意識しなくてもするべきこと」だということがわかっていないのである。「お金で幸せは買えない」とはよく言われるし、それは真実だと思うが、「お金で不幸を追い払うことができる」のもまた事実である。売上を追い求めるのは悪ではない。


 個人が仕事を選ぶ時、「好きなことを仕事にしなさい」と言う意見がある。それはその通りで、好きなことをやってお金をもらい、生活していけるのならそれが一番理想的だろう。しかし、私のように「仕事にしたいほど好きなものがない」人はどうすればよいのだろうかと思ってしまう。嫌々ながら仕事をするというのも何となく居心地が悪い。一方、「やっていることを好きになる」というのなら簡単にできる。私はむしろこのタイプである。銀行、不動産会社、システム開発会社と職をこなしてきたが、どの仕事も楽しんでやってきた(銀行は後半になってからだけど・・・)。


 もともと財務の仕事は面白いと性に合っていたというところはある。前職でも現職でも財務の能力を買われて転職したが、やることは財務にとどまらなかった。面白いと思って手を広げていった結果でもあるが、今は人事の仕事も前任者がやっていなかった範囲まで幅広く手を広げてやっている。さらには経験のない現場の仕事にも口を出している。実に面白い。会社に行くのが楽しいと言ってもいい。もちろん、給料にも不満はない(不満はないがもっとほしいと思っている)。給料のために働いているのかと問われると、それだけではないが、給料も大事なファクターである。


 いくら楽しいと思っても無給なら間違いなくやらない。生活のためには仕事で稼がないといけない。そこは譲れないので、何のために働いているのかと問われれば、「お金のため」となるのかもしれない。ただ、胸を張ってそう言い切れないところがあるのも事実である。それは「お金のために働いているが、お金のために働いているわけではない」というのも事実だからである。もしも私に何億ものお金があり、働く必要がなかったとしても、やっぱり今の仕事は辞めないだろう。「人はパンのみにて生きるにあらず」である。


 世の中には嫌々ながら仕事をしている人がいるが、私は楽しんで働いている。だからたとえお金のために働く必要がなくなったとしても、充実感を味わうために働き続けるだろう。そしてそれは今の仕事だからではなく、たぶんどんな仕事についてもそうなるだろう(人の道に外れた仕事は別である)。不動産業の前職ではルームクリーニングの仕事もあった。みんなで分担して作業をしたが、私はあえてみんなが敬遠したがるトイレ掃除を引き受けていた(メインは風呂掃除である)。それも楽しみながらやっていた。孔子のように「人が求めるものは富だから」ではないが、「仕事だから」できたと言える。無報酬ならやらない(自宅は除く)。


 人が生涯を通じてやり続けることは「生きること」である。そして生きるためにはお金を稼がないといけない。だからお金を稼ぐためには何でもやるが、だからと言ってお金のために生き、お金のために働いているのではない。孔子の考え方とは、同じようでいて微妙に同じではないように感じる。私が求める道は働くことによって得られるものであり、同時にお金を稼ぐ手段である。両者が一致しているのは幸せなことだと思う。


『楽しみながら生きよ 悲しみながら生きるよりその過ぎゆく時は幸いなり』(松本零士)

まさにその通りだと思うのである・・・

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 




2023年5月28日日曜日

現場はわからなくとも・・・

 学生時代の就活時、銀行を志望したのは「経済のことを学んでいないのに実業の世界に出て行って大丈夫なのか」という疑問があったからである。今から思えばみんなそうだから気にすることではないのだが、当時は弁護士を目指して法学部に入ったのに、「法律が性に合わない」という思ってもみなかった理由で方向転換せざるを得なかった(しかも4年時にである)という焦りがあったのである。「銀行に入れば経済がわかるようになるだろう、うまくいかなくても経理部はどこにでもあるから、いざとなればどこかの経理部長くらいにはなれるだろう」という安易な考えもあった。

 時は流れ、今は財務の能力を買われ、財務・人事・総務を統括する立場となったので、あながち的外れでもなかったと思う。今の会社は知人の紹介で転職したが、本業はそれまでまったく縁のなかったシステム開発。果たして大丈夫だろうかという不安はあったが、「経理のない会社はない」という状況は昔から変わらず、「自分が求められることはできるだろう」と決断したのである。実際、求められている以上に仕事はできていると思うし、だから入社して1年で役員にしていただいたのだろう。

 しかし、である。我が社は現在売り上げ低迷中。業績は計画比大幅にマイナスである。その原因は、私の立場からみるそれと現場の役員のそれとは異なる。数字から冷静にみていけば私の考える原因なのであるが、現場はそうはみていない。数字の上からは現場の意見を否定できるが、私には現場の事がわからないという弱点があり、相手の意見を論破できない。原因を正しく捉えられなければ対策も正しく取れない。役員会でもしばしば議論となるが、私もどうもはっきりと断言できないもどかしさを感じている。

 前職は不動産業であった。売買と賃貸と管理とで売上を上げていた。それは銀行員の感覚でも十分に対応できるところで、だから売上から利益に至るまで会社全体の経営がわかったし、だから当時の社長になり代わり実質的に会社を動かす事ができた。かつて不動産業は「机と電話があればできる」と言われたらしいが、そういう「やさしい」事業だと言える(もちろん「経営」には難しさもある)。赤字で瀕死の状態の会社に入ったが(私が入る前の8年間でなんと6年赤字を計上していたのである)、在籍していた6年間すべてで黒字を計上できたのもそんな事業特性があったからなのだと思う。

 しかし、システム開発の現場はそうはいかない。やっている事を外側から眺めてなんとなくは理解できるが、自分がやっていたわけではない。「こうしたらどうだ」というアドバイスができない。仮にできたとしても、どこまで相手に腹落ちさせる意見が言えるだろうか疑問である。相手も「現場を知らない人の意見」という見方をするだろう。そうなればどこまでこちらの言葉が響くかわからない。そこが非常に難しい。「自分の担当は間接部門であり、関係ない」と言えたら楽だろうが、役員である以上そうは言えない。

 しかし、間接部門の良さは客観性にあるのも事実。「現場がわからない」からこそ、冷静に現状を見る事ができるのかもしれない。そう思い直して意見を主張していくつもりである。されど現場もサボっているわけではない。できていないのはサボっているというより「意識の違い」かもしれない。施策に優先順位をつけて、優先順位の第一位のものから徹底してやる。そしてPDCAをきちんと回す。それを地道に実行していくのが王道のように思う。

 それに関しては、自社だけで限界があるなら他社に学ぶのもいいと思う。「自分たちはこれまでこうやってきた」、「これにはこうするしかない」という思い込みが、ひょっとしたら現場にはあるかもしれない。うまくやっている他社の事例を見てみたら、意外な方法でうまくやっているかもしれない。自分で考えてうまくいかなければ外部に学ぶしかない。そういう発想は現場にはない。であれば、そういう発想ができる自分が意見具申するしかない。そんなふうに考えている。

 今はジョブ型雇用などというものが出てきている。専門性を限定して雇用に応じるというものであるが、「財務」は自分の得意分野の筆頭である。企業の活動は数字に表れるし、したがって数字を見ればその企業の特徴や問題点がわかる。それはそれで面白いし、これからもそれを極めていきたいと思う。そしてそれは単に数字だけをみているのではなく、「数字をいかに作るか」も大事な仕事であると思う。「現場」のことはわからないが、だからと言って卑屈になるのではなく、「現場」には見えないものを見る力を養っていきたい。そしてその分野で会社に貢献していきたいと思うのである・・・

Steve BuissinneによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 




2023年5月24日水曜日

耳に痛いことを言う

 最近、Netflixでよくドラマを観ている。今観ているものの一つに「アリサ ヒューマノイド」がある。ロシア発という珍しいSFドラマである。タイトルにあるアリサとは人間型のロボット。最新式で人間の感情もわかると言われている。そのアリサがテストでキッチンに入る。客のオーダーを聞いて料理を出すのだが、ある太った女性客が生クリームを要求したところ、アリサは「健康に良くない」とこれを拒絶する。怒った客とその場で論争となる。本筋とは関係ないが、面白いシーンだなと観ていて思った。

 アリサは客の体型から必要なカロリーを瞬時に計算し、生クリームは控えるべしとの結論を出してそれを客に伝えている。しかし、客は健康よりも食欲を優先しており、生クリームを食べたいと主張する。ロボットは人間の命令を聞き、人間のために働く。されどこの場合、何が「人間のため」なのか。アリサはそれを健康に置いたが、客は食欲に置いている。どちらを優先するべきか。「良薬は口に苦し」と言うが、「美味しいもの」と「体に良いもの」はしばし対立する。

 これが人間であれば、オーダー通りのものを出すだろう。相手の健康のことを考えても売上にはつながらない。高カロリーの食事をとって太ろうが病気にかかろうがそんなのは個人責任であり他人には関係ない。客もそれを望んでいるわけだし、言われた通りに出せばお互いWin-Winである。例え大盛りでも笑顔で生クリームを出すだろう。だが、家族であれば制止するだろう。家族は当然相手のことを考える。文句を言われようと、それが家族のためであれば苦言も呈するだろう。アリサはロボットながら家族の対応をしているのである。

 先日、会社である若手が遅刻してきた。と言ってもほんの数分である。ただ、初めてではない。こここのところよく数分の遅刻をすることがある。さて、どうするか。直属の上司はそれに対して何も言わない。席がちょっと離れていることもあり、たぶん気がついていない。私にしてみれば直属の部下というわけでもないが、そのまま何もしないでいいのだろうかと迷った。注意すれば相手は嫌な思いをするだろう。こちらにしても然り。ひょっとしたら嫌な存在だと思われるかもしれない。何も言わなければこれまで通りの良好な関係が維持できる。

 形は違えど、アリサのパターンと一緒である。迷った末、注意することにした(別にアリサの影響を受けたわけではない)。直属の上司に伝えて注意してもらうという方法も脳裏に浮かんだが、その若手とは知らない仲ではないし、それどころか席も近くて普段からよく話をしている。また何より私は役員でもあるから広い意味では彼も部下である。やはり自分で直接注意することにした。数分とは言え、遅刻は遅刻。1分遅れても日本の新幹線は出発してしまう。それに1分を放置すると、それが2分になり、3分となるかもしれない。

 「褒める時はみんなの前、怒る時はこっそりと」という原則に従い、彼をそっと脇に呼んで注意をした。彼はこの春主任に昇格している。「わずか数分の遅刻でも遅刻は遅刻、主任という立場は後輩がその行動を見ている。彼らに遅刻してもいいんだというメッセージになってしまう。そういう意味で、きちんと時間通りに来てほしい」と。私はもともと人に怒ったりするのが苦手な性分であり、できれば怒らずに済ませたい。注意も然り。されど自分の快楽よりも教育的指導を優先させることにしたのである。

 間違ったことを言っているわけではないが、モノには言い方がある(妻が大の苦手としていることである)。同じ内容でもモノの言い方一つで相手に伝わるものが違う。言い方一つですんなり受け入れてもらえるし、言い方一つで反発を買う(と妻には言いたい!)。穏やかに教え諭すように伝えたところ、彼も素直に頭を下げてくれた。次の日、彼は10分早く出社した(本音を言えば30分前に来いと言いたいところである)。もともと10分早く起きて行動すればいいだけの事。遅刻するのは意識の問題である。

 良薬は口に苦く、耳にも痛いものかもしれない。しかし、本人のためであるならばきちんと注意しないといけないと改めて思う。組織には規律が必要。それが息苦しいものであれば問題かもしれないが、時間を守るという規律は必要であろう。例えそれが数分だとしても。そして注意するということで自分が不快な気分になろうとも、相手のためになると信じるのであるならその不快を引き受けなければならない、と思う。くれぐれも相手に伝わる「言い方」は意識しないといけないが・・・

 これからどんどん進化していくAIが、アリサのように純粋に相手のためを思う行為ができるようになっていくのだろうか。たぶんそうなっていくのかもしれないが、その前にいい歳した大人として相手のためを思って嫌な役割を引き受けることもしていかないといけないと、改めて思う。そしてもし、逆に相手がそういう苦言を自分に対して言ってきたなら、「生クリームを食べたいのだ」と怒った客のようではなく、その真意を汲み取って素直に聞けるようでありたいとも思う。例え相手が年下の若者であったとしても。

 何より苦言は言われた相手にもよる。「お前に言われたくないよ」と思われたら効果はない。そういうところにおいても、己の行動も普段から意識していきたいと思うのである・・・

Sandeep HandaによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

  






2023年5月21日日曜日

社長の見分け方

 銀行員時代、多くの企業経営者にお会いしてきた。若くして経営者と直接お話をすることができるのは、銀行員のメリットと言える。もちろん、相手が大企業となれば一兵卒の立場で会うのは難しいが、中小企業となると社長と話をするのは普通のことになる。そうして実にいろいろな経営者とお会いしてきたものだと、今になるとしみじみと思う。社長といっても創業社長もいれば二代目もいる。だが、内部昇格の社長はあまりいなかった。それだけ中小企業の事業承継が難しいということの裏返しだったりする。

 中小企業では、社長はたいていワンマンである。それは自ら創業し、事業を率いてきたという意味では社長以上の人材はいないわけであり、また、中小企業には「言われたことを真面目にやるだけ」の社員が多くなりがちである。そういう教育を受けずにきていたり、古い内部体質で新参者が口を出しにくい雰囲気が出来上がったりしていたりする。よく社長が「我が社には人材がいない」と嘆くのもそういう事情があったりする。そういう環境もあり、社長はワンマンになりがちなのである。

 ワンマン社長も良し悪しである。社員のことをよく考えてくれる社長であれば働く環境もいいだろうし、安心して働けるだろう。一方で、ワンマン社長は王様であり、社内では誰も社長には意見をしない(できない)。ゆえに好きなことができる。社員の10倍の給料を取ったって誰も文句は言わないし、平日にゴルフに行っても、高級車を社用車として買っても、個人的な飲み食いの領収書を回しても誰も文句は言わない。かつて愛人に30年間破格の給料を払っていた社長もいた。

 その会社では愛人に毎月90万円の「給料」が払われていた。きちんと源泉徴収もし、社会保険料も払い、書類の上では他の社員と何も変わらない。ただ、一度も出社したことがないというだけである。その会社では給料が30万円の社員さんがいたが、その事実を知ったらどう思うだろうなとその時考えてしまった。もちろん、給料の支払い事務を行う経理社員は気づいていただろう。誰にも迷惑はかけていないが、資本主義社会の一つの世界であることは間違いない。

 もっとも、欧米に目を向ければ、専門の経営者などは1年で億単位の報酬を得るわけであるから、日本の中小企業の経営者など可愛いものかもしれない。それでもやはり働くならいい経営者の下で働きたいと思うのが普通だろう。どうしたらいい経営者の会社に入ることができるだろうか。その前にどこの会社の経営者がいいとどうしたらわかるのだろうか。これはなかなか難しいと思う。ただ、大企業となるとコンプライアンスの概念が発達しているから、比較的ワンマン社長の横暴に振り回されることは少ないかもしれない。

 と言ってももちろん、例外はある。我が社とお付き合いのある某上場企業は超ワンマン社長。社長に「意見具申」した役員は次々と去って行き、残っている役員もイエスマン状態。ストレスもだいぶありそうである。それでも会社の業績が良ければまだしも、役員の反対を押し切って巨額の投資をして失敗し、会社を傾かせた社長もいた。業績が低迷し、社員の給与もカットするが、自分の月200万円の給料も半分にしますという社長もいた(30年近い前の金額である)。

 一方、我が社もそうだが、内部昇格の社長は比較的「ワンマン度」が低く、社員のこともよく考えてくれる傾向があると思う。それほど多い例を見ているわけではないから確かなことは言えないが、おそらく自分も社員として働いた経験があるので社員視点を持っているからなのだと思う。上場企業なら社員数5,000人以上、中小企業なら創業家とは別の社長であれば「ワンマン度」も低いのではないかと思う。難しいが、「ワンマン度」が100%でも利他の精神の溢れた立派な社長もいるだろうから一概には言えない。

 かく言う私も社長の人となりを見分けられるかと言えばそんなことはない。前職では見事な裏切り行為をまったく予見できなかった。5年間に渡り経営を実質的に任せてもらい、6年目には代表権取締役副社長として病気の社長になり代わり会社の経営を担ったが、その陰で社長はM&Aによる会社の売却を進め、ある日突然雀の涙の退職金で首を言い渡された。そんな経験があるから転職時には社長の考えを大いに気にしたが、わずかな時間で見極められるものではない(が、たぶん今度は大丈夫)。つくづく難しいと思う。

 だが、大事なことは社長がどんな人かを見分けることではなく、やっぱり何があってもしっかり自分の足で立っていられることだと思う。会社や社長を当てにするのではなく、荒海に放り出されても、慌てず溺れない程度に泳ぐ力こそが大事だと思う。私も決して安堵することはなく、いざとなっても慌てない泳力を身につけたておきいと思うのである・・・

Eugen VisanによるPixabayからの画像 


【今週の読書】

  






2023年5月17日水曜日

論語雑感 述而篇第七(その10)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子謂顏淵曰、「用則行、舍之則臧。唯我與爾有是夫。」子路曰、「子行三軍、則誰與。」子曰、「暴虎馮河、死而無悔者、吾弗與也。必也臨事而懼、好謀而成者也。」 

【読み下し】

顏淵がんえんひていはく、もちゐらるればすなはおこなひ、られすなはかくる、ただわれなんぢこれかな子路しろいはく、ぐんおこならば、すなはたれにせむ。いはく、とらしのぎてかはかちわたり、くいなきものは、われにせなりかならなりことのぞおそれ、はかりごとこのさむものなり

【訳】

先師が顔渕に向っていわれた。

「用いられれば、その地位において堂々と道を行うし、用いられなければ、天命に安んじ、退いて静かに独り道を楽む。こういった出処進退が出来るのは、まず私とお前ぐらいなものであろう。」

すると子路がはたからいった。

「もし一国の軍隊をひきいて、いざ出陣という場合がありましたら、先生は誰をおつれになりましょうか。」

先師はこたえられた。

「素手で虎を打とうとしたり、徒歩で大河をわたろうとしたりするような、無謀なことをやって、死ぬことを何とも思わない人とは、私は事を共にしたくない。私の参謀には、臆病なぐらい用心深く、周到な計画のもとに確信をもって仕事をやりとげて行くような人がほしいものだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 あれは高校生の時だった。親戚の家が引っ越すことになり、ラグビー部に入って体を鍛えていた私は手伝いに駆り出された。親からすれば当然の考え方だったと思うし、私も積極的に手伝う気になっていた。ところが、いざ行ってみるとやる事はあまりなく、片付けなどの軽作業で、わざわざ私が行くほどのことでもなかった。手持ち無沙汰にしていて、母親に怒られたものである。ただ、言われていた力仕事があるわけでもなく、たいして活躍の場があるわけでもなく、モチベーションが上がることもなかった。半分小言を言われながら帰った記憶がある。


 先日は朝から続けて来客があった。最初の客とは込み入った話もあり、私は同席していた社長に配慮しつつ、積極的に発言し、交渉の主導権を握った。次の顧客は別の担当者が主導。私は呼ばれて参加したが、特段助けが必要なほどでもなく、社長と担当者に任せて頭の中は別のことを考えていた。求められれば精一杯の力を尽くすし、そうでなければ人に任せるのも厭わない。むしろ控えていて存在感を消すようなつもりでいる。孔子に比肩するなどとおこがましいことを言うつもりはないが、自分がやらなければならない場面とそうでない場面とはきっちり分ける方だと思う。


 そんな私がいざ出陣となったら誰を連れて行くだろうかと考えてみる。おそらく、「ついてくる人」だろう。たぶん、自分からは積極的に選ばない。私は基本的に「現有戦力で戦う」という考えでいる。優秀な選手を揃えれば勝つのは簡単。ただそれは「優秀な戦力」があったから勝ったのであり、「私の力」ではない。「私の力」で勝つには戦力を選んでいてはいけない。戦力を選ばずして勝つ。それでこそ醍醐味があるように思う。もちろん、それで負けるかもしれない。勝つことを至上命題と考えれば、メンバーも選ばないといけない。時と場合にもよるが、基本的な考えは上記の通りである。


 では、「素手で虎を打とうとしたり、徒歩で大河をわたろうとしたりするような、無謀なことをやって、死ぬことを何とも思わない人」を参謀とするかについては、その人が「現有戦力」であるなら私は厭わない。なぜなら人は誰でも得手不得手があるものである。慎重さを欠く人であるなら、それを念頭にその人を用いれば良い。猪突猛進タイプが成功する場面もあるだろうから、そういう場面で活躍してもらえば良い。その人のある一面をもってダメとするのではなく、得意な場面で活躍してもらい、あるいは教え導く必要があるならそうすべきだと思う。


 今の会社でも取締役の1人がその役割を果たしておらずに問題になっている。部長兼務であるのだが、どうしても部長として仕事をしていて、取締役としての仕事をしていない。一部には辞任してもらうという意見もあるが、その人にもいいところはあり(だから取締役に抜擢されたのである)、であれば相応しい考え方を身につけてもらえば良い。人は簡単には考え方は変わらない。しかし、さまざまな機会を経て信頼関係を築き、考え方を知ってもらえば変わるかもしれない。その努力はすべきだと思う。


 人間関係は選ぶより自然の出会いの方を重視したい。今のシニアラグビーのチームは、今シーズン10年ぶりに最下位を脱出した。負け試合の多い、言ってみれば弱いチームである。だが、強いチームに移ろうなどとは微塵も思わない。チームのメンバーとの出会いも何かの縁。強いチームに移って勝つのではなく、今のチームで強くなって勝ちたいと思う。一番の会社に入るのではなく、入った会社が一番になるように頑張る。出会った人とそんな風に頑張りたい。


 孔子の考えもよくわかる。意見の合う人とタッグを組む方が問題は少ないし、何事もやりやすいだろう。そこは個人としての意見の違い、居心地の良さの違いである。縁あって入ったチーム、入った会社。そこで縁あって一緒になった人たちと頑張りたいと思うのである・・・


Mohamed HassanによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 





2023年5月14日日曜日

出張

 転職して以来、出張に行くようになった。新卒採用のためであるが、主として地方の専門学校、情報大学系の学校回りである。行く先は今のところ札幌、新潟、鹿児島、沖縄である。今後、増えていく可能性は高い。仕事なのでどこへ行こうがかまわないのであるが、仕事である反面、普段簡単に行くことができないところに行くわけで、「せっかく行くのだから」という気持ちから楽しみたいと思うのも正直なところ。しかしながら、出張に行った時の「仕事と楽しみとの境界線」にいつも迷う。

 そんな風に思うのも、過去に遊び半分(以上)の主張を目の当たりにしてきた経験があるからである。いずれも銀行員時代だが、最初はある半官半民の組織に出向していた時のこと。主として調査業務を行う部署であったが、そこで官から出向してきていた人たちは、「出張に行ける場所」で調査案件を選別し、不必要な出張を繰り返していたのである。ある案件では、大阪で1時間で終わる仕事を丸2日間かけて行っていた。民間なら日帰りで終わらせられるところである。

 そんな「出張」にどうにも納得がいかず、ある案件で調べる必要があるのか疑問に思う出張に行くのに異を唱えたら、煙たがられて他のチームに移動させられてしまった。それはそれで構わなかったが、自分のお金でないからと言って無駄遣いするのにどうも違和感が拭いきれなかったのである。以来、公務員なんてみんなそんな感覚なのではないかと疑っている。何せ予算は「使ったもの勝ち」の組織である。コストに縛られる民間の方が、無駄遣いが少ないのは間違いないと思う。

 2度目はやはり銀行の関連会社に出向していた時のこと。当時の役員が地方銀行に営業と称して出張を繰り返していた。地方銀行のそれなりの立場の人と会うのはおかしなことではない。ただ、その成果が見えなかったし、部下に何かを還元するわけでもない。さらに憚ることなく、「今度はどこで何を食べよう」などと話している。我々部下にあたる者はみな陰で顔を顰めていたものである。上に立つ者のスタンスとしていかがなものかと今でも思う。仕事をしているつもりだったのかもしれないが、我々から見れば「会社の経費で遊びに行っている」ものにしか見えなかった。

 そんな経験があるから、自分が出張に行く立場に立つとどうしても周りの視線を意識する。「やましいところはないだろうか」というところである。今回は地方の某学校にて合同会社説明会と希望者に対する面接会があった。説明会は午後からであったが、朝から行けば間に合わないこともないが、リスクはある(現に今回飛行機の遅れで遅刻してきた企業があった)。なので前日移動して宿泊したが、移動日の午前中は仕事をした。以前の公務員の方たちなら朝から出社せずに移動しただろう。そして土曜日の午前中に面接を実施し、午後に帰京した。

 出張に行く前には部内のミーティングで出張内容の説明をしたし、来週のミーティングでは成果を報告する予定である。これはいつもやっていること。その際「無駄はなかったか」はいつも気にかけている。部下は誰も私に文句など言わないが(かつての私も直接役員に文句は言わなかった)、それでもそんな風に思われたくはない。経費の精算も細かく使途を記し、領収書を添付している。かつての公務員の方達は、ディスカウントチケットを取り、正規料金を経費として請求することをしていたが、そんなことは当然しない。

 もちろん、行った先々でその土地ならではの美味しいものを食べたり、家族に頼まれたお土産を買ったりすることはしている。そこまでガチガチに自分を律するようなことはしていないが、公私のケジメは意識している。さらに言えば、航空運賃も時間帯をずらせば値段も変わる。安い時間帯は朝早くだったり夜遅くだったりする。経費節減を推進する責任者でもあるから無理のない範囲で安い時間帯を選んでいる。しかし、驚くことに23日より34日の方が安かったりするケースもあって、そういう時は悩んでしまう。経費を安くしようとすれば、遊んでいる時間が増えるのである。

 それは現代のマジックの一つだろう。前回は週末の自分の予定を優先させたくて値段の高い23日を選択したが、今後もどうするか悩ましい。また、今回は何かの事情なのか市内のホテルがことごとく取れず、やむなく取れたのは郊外の観光ホテル。温泉地だったので温泉にも入れて満足したが、後ろめたかったのも事実である(他の東京からきていた会社の人は市内にホテルは取れたものの、アパホテルが25,000円だったそうである。当然、我々の方が市内までの往復の交通費を入れても安かった)。

 もっと気楽に行けばいいのにとは思うものの、性分なので仕方がない。もしかしたら私の部下はそんなことなど気にも留めていないかもしれない。そうだとしても、やはり誰が見ていると言えば、自分自身が見ている。多少の遊びはあっても過度なものにはならないようにしたい。今回は「やむなく」温泉宿に泊まって朝晩湯船に浸かって疲れを癒せたが、それはそれで良しとしたい。やはり仕事であるし、会社の経費を使っていることは間違いないので、これからも出張に際しては襟を正していきたいと思うのである・・・


Jan VašekによるPixabayからの画像

【本日の読書】

  



2023年5月10日水曜日

経営者保証について思う

 「経営者保証求めません」 地銀、相次ぐ融資慣行見直

日経新聞202358

地方銀行で融資先の企業に経営者保証を求めない動きが広がっている。八十二銀行や山陰合同銀行、福岡銀行など少なくとも10行以上が原則、経営者保証を求めないことにした。万が一の場合、経営者個人が私財を差し出して借金を返済する経営者保証は、心理的負担の重さから起業や経営への弊害がある。こうした融資慣行の見直しは、スタートアップの育成などにつながる可能性がある。

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 銀行が企業に融資をする場合、基本的に社長個人に保証人になってもらう。上場企業などの一部を除き、中小企業ではほとんど必須である。もしも倒産などで企業が借入を返済できない場合、社長は個人保証をしているので個人の預金や自宅などすべて債務の弁済に取られてしまうことになる。ただでさえ会社が倒産すれば収入がなくなるのに、住む場所もなくなればそのダメージは大きい。倒産すればほとんど再起不能になりかねない。これが日本の起業率の低さの元凶だとかなり以前から経営者の個人保証を外そうという動きがあったが、ここにきてようやく進展があるのだろうか。


 しかし、以前から問題にはなっているものの、進んでいなかったのには訳がある。それは「悪用」があるからである。今や法人など簡単に作れる。簡単に設立して、今ならスタートアップのための「創業支援資金融資」なんてのもあるから担保がなくても借りられる。借りるだけ借りて後は知らん顔すれば、借りたお金はまるまる丸儲けにできる。逃げる必要もない。「すみません」と頭を下げれば済んでしまう。しかし、経営者保証をつけていたらそうはできない。会社で返せなければ個人で払わなければいけないので逃げられないのである。


 そうでなくても、会社が傾き始めれば、経営者も馬鹿ではない。密かに自宅の名義を奥さんに変えたり、預金を奥さんの口座に移したりするものである。保証がなければそんなことをする必要もない。その昔、故石原慎太郎が都知事の時、「保証人を取らない」と大見栄を切って都民のお金で新銀行東京を設立した。当時銀行員だった私は冷ややかに見ていたが、不良債権市場には2年もしないうちから新銀行東京の貸付債権が流れ出てきていた。結果は大失敗。金融素人知事の無知による税金の無駄遣いであった。


 今日まで経営者保証がなくならないのには理由があるのである。されど起業や事業承継にはこの個人保証がネックになるのも事実。「どうにかしなければ」というのも当然の議論である。しかし、私から言わせれば実に簡単なことである。「取るか取らないか」の二者択一で考えるから難しいのである。取った上で「外す仕組み」を作ればいいだけのことである。一旦は保証を取っても、「一定の条件を満たせば外す」ということにすればいいのである。


 例えば企業と言っても、「夫が社長で妻が経理」なんて企業は基本的に個人事業と変わらない。こういう企業は保証付きにしておくのは止むを得ない。ある程度の規模になり、利益も出していて、少なくとも「会社と社長の財布ははっきり分ける」ことが必須だろう。家族でご飯を食べに行ってその領収書を会社の経費で落とすなんて公私混同をしているようではダメだろう。社長に多額の貸付金がある場合も然り。銀行員に事業の目利きを求めることは不可能であるが、こういうことなら充分チェックできる。


 ちなみに以前から、「銀行が事業の目利きをきちんとすれば個人保証に頼る必要はない」という意見をもっともらしくいう人がいるが、これも素人発想。例えばコロナ禍で倒産した企業について、「コロナ禍を果たして予測できる人間がいるか」と考えてみれば自ずと明らかである。フィルムが急速にデジタル化され、富士フィルムは生き残ったが、コダックは倒産した。ではコダックの倒産を目利きできた人間がいただろうか。何が起こるか予測できないから、日本の銀行は長年担保主義だったのである。


 それは今でも変わらない。倒産リスクを睨みつつ、貸しすぎないように貸すしかない。そして一定条件をクリアーしたら経営者の個人保証を外すというルールを明確化すれば、みんなそれを目指して健全経営を心掛けるだろう。利益も計上しないとダメとすればそれは税収入にもつながり、一石何鳥もの効果があると思う。我が社も近い将来の事業承継に向けて社長個人の保証を外すべく、経営の健全化を図っている。経営者保証をなくすという流れは追い風になると歓迎している。


 ちなみに、民間のこういう動きに対して、信用保証協会は頑なに個人保証堅持の姿勢を崩さない。むしろ代表取締役として登記をすると、社長以外にも会長や副社長なども個人保証を求められる(民間の金融機関は社長だけにとどめてくれる)。公的機関がそんな前近代的なスタンスでどうするのだと思わなくもない。ただ、経営者保証を外すのはいいけれど、ただ「外す」だけでは、それはそれで問題がある。銀行員も金貸しのプロならば、保証を「取るか取らないか」の二者択一ではなく、「外せる企業」を見極める能力を磨くべきだと思う。


 そんな議論をせずして二者択一の議論に終始するのは、「やっぱり保証は取らないといけない」という後戻りを招くような気がしてならない。もっと頭を使って考えればいいのになと、元銀行員としては思うのである・・・


MaxによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 





2023年5月7日日曜日

本質を掴み取る力

 何事も1人で意思決定をしようとすれば簡単であるが、他人を巻き込むとなると困難を伴う。それは自らの考えに賛同してもらう必要があるからだが、人はみな考え方が違う。それゆえに同じ方向を向いていなかったり、あるいはものの考え方が違っていたりするとすんなり意思決定ができなかったりする。説明する方にも「理解してもらう努力」が必要であるが、説明される方の「理解力」も必要である。会社においては、純粋な意見対立よりも、「理解してもらう」ことがまず難しかったりすることがしばしばある。

 先日、会社の会議でとある方針について説明をした。それは年度の後半に向けて売上計画を達成するための施作である。そしてそのためにまず現場の情報を営業に集中させる事が必要であり、そのための手段として各現場から毎週報告をあげてもらうことになった。そこまではいいが、ある者から報告書の書式についての質問があった。曰く、「○○の場合はどうするんだ」とか、これだと「勘違いする者がいるんじゃないか」とか、「報告は週初より週末の方がいいのではないか?」とかそういった質問であった。

 私も長年のサラリーマン生活で、こうした枝葉末節の議論に出くわすことがしばしばあったからもう慣れっ子になってしまったが、そのたびに心の中で大きなため息をつかざるを得ない。ご本人は至って真面目に考えているから、心の中のため息はグッと堪えて丁寧に説明することにしている。ただ、こうした「視点のズレ」は、「説明の仕方」というよりも、「本質を掴み取る力」に由来していると言える。本質を掴んでいないから的外れな質問をしてしまうのである。

 例えば野球で相手ピッチャーの攻略方法を考えた時、例えば「ストレートは捨ててカーブを狙って打て」という方針を立てたとする。その時、「バッターボックスの前に立ったらいいのか後ろに立ったらいいのか?」(そんなのは好きにしろ!)、「2ストライクに追い込まれたらどうするのか?」(ストレートを投げられたら打つしかないだろう!)などと聞くのと同じである。「一挙手一投足までいちいち決めてもらわなければ動けないのか?」と言いたくなるだろう。

 先の会議の質問についても、大事なのは(つまり本質は)売上計画の達成であり、そのために営業に情報を集中することである。報告書など単なる形式であり、本質は「情報が営業に伝わること」である。それ以外は、書式なども含めて本質から比べれば「些細なこと」である。臨機応変にそれぞれが考えればいいことである。有力な情報を掴んだら、わざわざ報告書を書いて、期日に退出するのではなく、「その場で電話」すればいいわけである。それが「本質を掴み取る力」である。

 一般社員ならともかく、少なくとも管理職であればそうした「本質を掴み取る力」は身につけておいて欲しいと思う。確かに報告書の書式や期日を決めたりすることも大事だろうし、想定される事態について備えるのも大事であるが、そうした諸々をすべて決めないと動けないとなると、何をやるにしても時間がかかることになるし、何よりも社員一人一人の考える力を奪うことになる。「思考停止」社員を生み出す元凶になりかねない。本質を押さえたら、あとは臨機応変に対応できるのも大事である。

 さらに言えば、こういう枝葉末節にこだわるようになると、やがて報告すること(報告書を作成して提出すること)が目的になってきかねない。いわゆる「手段の目的化」である。営業に情報を集約するという目的に対し、報告書を提出するという手段が、いつしか報告書を上げることが目的になっていくことになりかねない(それでも必要な情報が報告されればいいのであるが・・・)。報告書を提出させる意図は、「そのために情報を積極的に集めろ」というものであるが、にもかかわらず、「何もありません」と平気でいられても意味はないわけである。

 どうしたらそうした「本質を掴み取る力」が各人に備わるのだろうか。自分のことではないのでなかなか難しいが、その都度説明するしか今のところは思い浮かばない。ただ本質を外しやすい人は、手段に目が行きやすいのは確かである。「報告書を提出せよ」と言われれば、その背景ではなく「報告書」自体に目が行ってしまう。だから書式や期限や想定される部下からの質問などが思い浮かんでしまうのだろう。さらには手続きを間違えないようにしようといった気持ちが強く出てしまうのだろう。

 根気強く説明していくしか方法はないのだろうとは思う。その際、自分がどうやって「本質を掴み取る力」を身につけたのかが参考になると思うが、それを考えてもわからない。自然と身につくものではないだろうし、どこかで身についていったのだとは思うが、その方法はわからない。一つには読書があるかもしれないとは思う。長年にわたって意識的に読書だけは継続してきた。その積み重ねが意識しないところで役立っているのかもしれない。いずれにせよ、「本質を掴み取る力」について、今度は自分の周りにいる人にも身につけてもらえるように考えていかないといけないと思うのである・・・

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

【今週の読書】

  



2023年5月3日水曜日

論語雑感 述而篇第七(その9)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子食於有喪者之側、未嘗飽也。子於是日也哭、則不歌。

【読み下し】

ものかたはらくらはば、いまかつかざるなりなりすなはうた

【訳】

先師は、喪中の人と同席して食事をされるときには、腹一ぱい召しあがることがなかった。先師は、人の死を弔われたその日には、歌をうたわれることがなかった。

『論語』全文・現代語訳

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 過去に何度も葬儀に出たことはあるが、その都度感じることがある。「この儀式に意味はあるのだろうか」と。葬儀はたいていが仏式である。通夜と告別式があり、それぞれ僧侶が読経し、参列者は焼香する。手を合わせて故人の冥福を祈る。キリスト教では花を供えたりしたように記憶しているが、あまり経験していないのでよくわからない。それ以外ではほとんど記憶にない。親族の葬儀もあったし、知人の時もあったし、友人知人の親族といったほとんど面識のない人もあった。ただ、どれも「儀式感」は同じである。


 儀式は確かに大事であるが、儀式をきちんとやればいいのだろうか。例えば喪服を着て来なかったり、数珠を持って来なかったり、焼香の手続きを間違えていたりしたら不敬になるのだろうか。そもそも儀式としての葬儀に参列する必要はあるのだろうか。そんな事をいつも考えてしまう。例えば親族や親しい友人の葬儀などで、手伝いをしたりするのであればそういう意味もあるだろう。また、死顔を見ておきたいとか、直接別れを告げたいという気持ちがあれば、それもいいだろう。しかし、そういうものがなければ参列する必要はないと思っている。


 と言うのも、儀式に参列することがすなわち故人の死を悼むことかと言えばそうではないからである。葬儀に義務感だけで参列するのと、葬儀には参列しないが故人を偲んで過ごすのとどちらがより大事だろうかと考えてみると、私は後者の方である。かつて大学のラグビー部の大先輩の葬儀に参列したことがある。学生時代に自宅に招いて食事を振る舞ってくれたこともあり、私も万難を排して葬儀に参列した。それは参列して見送りたいという気持ちからである。多少の葬儀の手伝いもあった。そこで1通の弔電が披露された。その場に参列していない方からのものであった。


 その方は遠方に住む故人のラグビー部時代の同期の方。遠方であるのと高齢によるもので葬儀には参列できない無念が表れていたが、「100m11秒台で走った君の〜」という弔電のフレーズが心に残っている。どこか遠くのご自宅で、故人との思い出を噛み締めていたのだろう。そんな弔電は故人も嬉しかったに違いない。当たり前だが、大事なのは儀式に表される「形」ではなく気持ちだろうと思う。例えば魂のようなものがあって、自分の死をみんながどう捉えているのかがわかるとしたら、自分を思い出してくれるのが一番であると思う。


 かつて伯父の葬儀で感じたことだが、葬儀の場でしめやかにする必要はないと思う。伯父の葬儀では久しぶりに親戚縁者がみんな集まって、ワイワイガヤガヤと賑やかであった(さすがに「儀式」の間は静かだったが)。そしてそれがいいと思った。みんながしめやかにするより、楽しそうに騒いでいた方が伯父も喜んだだろうと感じた。それが伯父の「招集」だとさえ思ったのである。飲んで食べて「今何してる?」「こんなことがあったよね」という会話で賑やかな方が、伯父も喜んだに違いないと思う。


 故人を悼むのに大事なのは、あくまでも気持ちであると思う。悼む気持ちがあれば、酒を飲んだって、腹一杯食べたって、歌を歌ったっていいだろう。大先輩の葬儀ではみんなで部歌を歌った。故人が喜ぶと思うなら、歌を歌ったっていいだろう。孔子の態度もそれが孔子の故人に対する気持ちの表し方だったのだろうと思うから悪いとは思わない。ただ、その形が大事なのではない。その形だけを真似て、腹一杯食べている人を非難するのは間違いだろう。


 さらに言えば、葬儀の時だけでなく、やはり折にふれて故人を思い出すことも生きている者の悼み方だと思う。形式的に葬儀に参列して終わりではなく、時折思い出すことも故人を偲ぶ上では大事である。そう言えば、昨年のこの時期に友人を2人亡くしている。もう1年になるのだなと改めてその友人が過ごさなかった1年を思う。形に囚われることなく、時折思い出すことで故人を悼みたい。気持ちの部分をあくまでも大事にしていきたいと思うのである・・・


svklimkinによるPixabayからの画像

【今週の読書】