2022年3月21日月曜日

論語雑感 雍也第六(その14)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子游爲武城宰。子曰、「女*得人焉耳乎*。」曰、「有澹臺滅明者、行不由徑。非公事。未嘗至於偃之室也。」
【読み下し】
子游(しいう)武城(ぶじやう)の宰(さとをさ)爲(た)り。子(し)曰(いは)く、女(なんぢ)人(ひと)を得(え)焉(た)る耳(のみ)乎(か)。曰(いは)く、澹臺(たかだい)あるも明(めきき)を滅(ほろぼ)す者(は)、行(ゆ)くに徑(たてみち)に由(よ)ら不(ざ)ればなり。公事(おほやけごと)に非(あら)ずと。未(いま)だ嘗(かつ)て偃(えん)の室(むろ)於(に)至(いた)らざるなり。
【訳】
子游は武城の代官をつとめていたが、ある時、先師が彼にたずねられた。「部下にいい人物を見つけたかね。」子游がこたえた。「澹臺滅明という人物がおります。この人間は、決して近道やぬけ道を歩きません。また公用でなければ、決して私の部屋にはいって来たことがございません。」

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 会社というのは、組織で仕事をする場である。組織で仕事をするということは、個人でするよりも大きな仕事をすることができる。1人より2人、2人より3人と多い方がより大きな仕事ができる。と言っても、数に単純比例するわけでもなく、人には考え方の違いがあり、能力の違いもある。1人が2人分以上の成果を上げる場合も当然ある。優秀な人間はやがて部下を使うようになる。どんな組織であれ、有能なリーダーがいる組織の方が強いのは当然である。そしてそんな有能なリーダーの下で働く有能な部下もまた然りである。

 有能なリーダーももとは、有能な1プレーヤーから始まっている。その実績が認められ、リーダーに任命されるわけであるが、有能なプレーヤーであることは有能なリーダーであることを約束しない。なぜなら、自分がプレーすることと、部下をマネージすることは違うからである。チームとして思うような実績を挙げられず、それも部下が思う通りに動かなかったりすることが原因だったりすると、リーダーの能力が疑われてしまうかもしれない。部下を思う通りに動かしチームとして実績を挙げるというのは、また別の能力であると思う。

 部下が有能であればそれに越したことはない。実際、有能な部下とそうでない部下とでは雲泥の違いがある。私も初めての部下が有能でないタイプであり、思う通りに係を動かせずに当時の支店長によく怒られたものである。支店長も実情はよくわかっていて、部下の仕事もしている私を見かねて終いには部下を変えてくれた。新たに転勤してきた部下は実に有能な男で、係の仕事が面白いようにスムーズに回るようになった。こんなに違うのかと驚いたものである。2人の部下の何が違うのかと言えば、それはやはり「考え方」であったと思う。

 当時、我々は非常に多忙な環境にあったが、新しい部下は仕事に優先順位をつけ、優先度が低い仕事は遠慮なく後回しにし、事前準備を徹底して仕事の効率化を図り、前任者の倍くらいのペースで仕事をこなしていった。おかげで私も部下の仕事のカバーに向けていた手間を本来の自分の仕事に向けられたので、係の仕事もすべてがスムーズに回り出した。「使えない部下はいない、部下を使えない上司がいるだけ」という言葉を私は気に入っているが、「使える部下」がいると上司も仕事ができるようになる。それは紛れもない事実である。

 私にとって「いい部下」とは、やはり第一に「考え方がしっかりしている部下」である。何より「人は考え方でできている」と考える私としては、これが第一である。これができていれば自ずと仕事もできるであろう。そういう有能な部下がいれば、自分は本来自分がやるべき仕事ができるし、そうすればチームの業績も上がるだろう。1人ひとりが自分のやるべき仕事をきっちりこなせるチームほどそのパフォーマンスは最大に近づくものである。そこはまず第一に挙げたいと思う。

 孔子と子游の会話の中で、子游は澹臺滅明という部下を評して「近道やぬけ道を歩かず、公用でなければ決して私の部屋に入ってこない」としている。私とは異なる考え方である。「近道や抜け道」が何を意味しているかは不明だが、大事なのが「目的地に着く事」であれば、通る道は違法でない限り問題はないと私は考える。それに用がなくても気軽に部屋に入ってきてほしいと思う。雑談の中からお互いの理解が深まったり、貴重なヒントを得られたりするものである。部屋のドアは常に開けておきたい私としては、澹臺滅明という部下はちょっと使い難いかもしれない。

 最も当時の(今もか)中国では、賄賂などの不正行為がありふれていたのだろうし、澹臺滅明のような「堅すぎる」スタンスこそが信頼につながったのかもしれないから、一概にはなんとも言えない。人はやっぱりコミュニケーションによって信頼は深まるものであるし、部下と以心伝心的な関係を築くにはコミュニケーションは欠かせない。そしてそんなコミュニケーションは、いつでも「ちょっといいですか」と話しかけられる関係がないと取り難いし、用がなくても部屋に来て雑談を交わすような関係も大事だと思う。そして上司たる自分は、そんな部下が気軽に入って来られるよう、部屋のドアは常に開いておきたいと思うのである(部屋はないけど)・・・


【今週の読書】
 



2022年3月17日木曜日

ハラスメント

 4月1日から通称パワハラ防止法が中小企業に適用になる。特に何か複雑な準備をしないといけないというわけではないが、とりあえず我が社の中ではどうなんだろうと考える。中間管理職の中には「厳しい」と評判の課長がいるが、差し当たりそのあたりが気をつけないといけないところかもしれない。今年、定年退職となった嘱託社員のおじさんが総務部の女性のお尻をすれ違いざまに撫でていくのを目撃したことがある。「今の時代に何と大胆な」と感動を覚えたものであるが、触られた方も大人な対応が見事でなかなかやるなぁと感心した次第である。そんな光景を目にすると、セクハラはあまり気にしなくてもよさそうな気がしている。

 それにしても調べてみると、ハラスメントにもいろいろある。妊娠や出産、子育てを理由とした嫌がらせや不利益な取り扱いをする「マタニティ・ハラスメント」なんていうのもあるし、相手の意見をことごとく拒絶したり、わざと実行不可能な仕事を依頼したりして精神的な苦痛を与える「モラルハラスメント」というのもあるらしい。男らしさや女らしさを強要する「ジェンダーハラスメント」というのもあれば、パソコンやスマホなど、ITスキルの弱い人に対する嫌がらせや相手を困惑させる「テクノロジーハラスメント」などは、部下から上司に対するハラスメントになる可能性もある。

 「自分は大丈夫」なんて思っていると、匂いによって周囲を不快にさせる「スメルハラスメント(スメハラ)」なんていうのもあるらしい。こうなると体臭や口臭など自分では気がつかない可能性があり、私も恐ろしくなってしまう。何でもかんでも「ハラスメント」にしてしまうのはいかがなものかと思わざるを得ない。「過ぎたるは及ばざるが如し」というが、行き過ぎた規制や注意喚起はかえって人との交流にブレーキをかけるような気がする。こうした時代の流れは良いのか悪いのか、その判断は難しい。

 私が社会人デビューした1988年当時は、もちろん「ハラスメント」なんていう言葉は存在しなかった。もちろん、怒られることは多々あったし、理不尽な扱いに腹正しい思いをすることもよくあった。私は、どちらかというと精神的にはタフな方であり、威圧的な言動などがあっても怒られても、それでメンタルをやられるなどということは皆無であったし、それはこれからもないであろう。それよりも何よりも我慢できなかったのは「理不尽」であろう。筋が通っていれば、怒られても素直に反省できるものである。

 まだ3年目くらいの若手銀行員時代、当時温和で怒ることなどあり得ないような支店長に怒られたことがある。と言ってもやっぱり声を荒げることなどなかったが、何より言うことがもっともであり、確かに自分の考えが至らなかったこともよくわかって深く反省した。怒鳴られたとしてもそこに筋が通っていれば、反省の心が強く怒り、もう絶対に繰り返さないという思いだけでメンタルを病むなんて欠片もあり得ない。そういうものだと思う。

 考えてみれば、セクハラも笑って許せる相手もいれば、不快な気分になる相手もいるという。要は「その人自身」の問題であろう。それはセクハラに限らず、ほとんどのハラスメントにあたることなのではないかと思う。そしてそれは日頃のコミュニケーションにあるのではないかと思う。その行為が「ハラスメント」と取られない人というのは、やはり日頃から相手を尊重してきちんと接している人ではないかと思う。特に部下など自分よりも弱い立場の人に対して、そういう考えで接している人はハラスメントなど気にしなくても良いような気がする(スメハラはわからない)。

 自分はどうだろうかと振り返ってみると、とりあえず自分の意識の中ではできていると思う。イラッとすることはよくあるが、それをグッと堪えて温和に話をしている。相手が上司であればグッと堪えるはずで、それと同じ対応を取れば良いのであると自覚している。「相手によって態度を変える」のは、自分の中では恥ずべき行為だと、過去の何人かの反面教師に教わっている。これはたぶんこれからも変わらずに続けられると思う。ハラスメントに関しては、自分は(スメハラ以外は)心配ないのではないかという気がしている。

 組織としてはどうだろうか。そこは仕事としてきちんと考えていきたいが、「自分を手本にしろ」と言えるように、これからも振る舞いたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
  



2022年3月13日日曜日

批判に対抗するには

 転職してはや半年が過ぎた。もう仕事には慣れ、自分のペースで周りのみんなにも満足される仕事ができていると思う(たぶん)。他の部署との連携も気をつけているし、各部の部長と個別に話を聞いたりしてうまくやっているつもりである。その中で一つ気になるのは、その場にいない人の批判意見を耳にすることである。その内容は、それなりにもっともであり、私も問題だなと感じる。しかし、そこで批判されている当人に、別の機会にさりげなくその話を聞くと、きちんとした意見が返ってくる。それなりに理由はあるのである。

 人は誰もが自分の人生の主人公。常に(自分なりに)正しい意見を持ち、(自分なりに)正しい行動を取っている。他人から見れば、そこに批判の余地はあるのかもしれないが、その人なりに理由はあるのである。逆にその人からは、批判していた人に対する逆批判の意見もあり、聞けばそれももっともなのである。そうした双方批判を聞けば、どっちもどっち感が強いが、世の中的にはそういうものなのだろうと思う。自分では正しいと思ってやっているが、他人から見るとそうではなかったりするものなのかもしれない。

 ふと、自分はどうだろうかという思いが脳裏を過ぎる。自分では常に良かれと思うことをやっている。正しいと思う行動を取っている。しかし、他人から見えている自分の姿が見えているわけではない。自分ももしかしたら批判されているかもしれない。最近は、そういう批判の気配はまったく感じない。だから大丈夫というわけではなく、気がつかないだけかもしれない。そういう批判があるのかどうかは気になるところである。ないと信じたいが、そう考えるのは楽観的過ぎるかもしれない。

 他人からの批判に対しては、自分はけっこう凹むタイプかもしれないと思う。よくネットで中傷され、それを気に病んでしまうという話を聞いたことがある。そんな人を弱い人間だなどと言うことは自分には無理かもしれない。もしも、私が自分に対する批判や陰口などを耳にしたら、けっこう堪えるに違いない。その昔、菅直人元総理の話を聞く機会があったが、印象的だったのは、「メールが100万通来ればそのうちの999,999通がである」というもの。それこそ日本全国から来るのだから、私だったらとても耐えられないだろう。

 批判されるのが怖いと、自然と私の行動は「良い子ちゃん」になっていく。批判されないようにしようと思ったら、常に他人の視線を意識しないといけない。自分の勝手な考えではなく、誰もが納得するような考えに基づいた行動を取るようになる。少なくとも、そういう意識を持つようになる。批判を恐れる自分としては、そのあたりをかなり意識している。そしてなるべく人の意見を幅広く聞くようにしている。そうすることで、早めに批判の素をキャッチできれば、修正も容易いと思うからである。

 しかし、それでも完璧ではないと思う。必ずどこかに批判の的はあると思う。それに対しては、説明責任を果たすしかないと考えている。「自分はなぜそういう行動を取るのか」をきちんと説明するしかない。その上でそれを批判されたのであるのなら、そこは「もう考え方の違い」でしかない。そして考え方の違いは、万人が皆同じでない以上は仕方がない。カツ丼よりカレーの方が好きと言う人もいれば逆の人もいる。どちらが正しいとは言えない。ゆえに説明責任を果たしてそれでも批判されるならそれはそれで仕方ないと思うしかない。

 そう考えているので、私はけっこう物事はよく考えて行動していると思う。他人からの批判が怖いからこそ、慎重にその行動の理由を考えている。自問自答して説明できるかを考えている。さらには、他人から意見をもらった時には、素直に耳を傾けている。もしかしたら自分が間違っているかもしれないと考えて聞いている。もちろん、間違っていると感じたら直ちに改めるようにしている。特に部下からの意見に対しては敏感に反応している。部下こそは最も批判の声が聞こえてこない相手だと思うからである。

 もしかしたら、部下は私のことを「よく話を聞いてくれる上司」だと思っているかもしれない。しかし、それは物分かりのいい上司というよりも、批判が怖いだけというのが実態である。本心がバレたらけっこうみっともない。しかし、話を聞いてもコロコロ自分の意見を変えるわけではない。それはそれでカッコ悪いからである。ただ、反対意見を聞いてもそれでもやる場合は、きちんとその理由を説明している。考え方の違いは仕方のないことであり、ただきちんと説明することだけはするようにしている。そうすれば後で批判されても自分に言い訳できるから、心の負担も軽くできる。

 結局、残念ながら批判は防ぐことはできない。できるのは、説明責任を果たし、批判に対する受け身を取ることぐらいである。いたずらに批判を恐れて身を縮めるよりも、「きちんとした説明」という防弾チョッキを着込むしかない。その昔は読心術を身につけられたらいいなと思ったことがあったが、今ではそんな能力は怖くて身につけられない。好評価ならいいが悪評であれば耐えられないからである。幸い、そんな能力はないので、聞こえてこないことが何よりである。聞こえないのが批判がない証拠なのかはわからないが、防弾チョッキだけはしっかり身につけていたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

2022年3月10日木曜日

今の若い者は・・・

  4月1日から通称パワハラ防止法が適用となるにあたり、弊社でも最後の準備を進めている。すでに大企業では適用がスタートしているが、中小企業は猶予されていたのであるが、その猶予期限がいよいよ到来というわけである。パワハラ、セクハラなどというと、ついつい「昔は当たり前だった」と言いたくなる。私なども若手の頃、中年の営業課長から「社内の女の子はお尻の一つも触ってやってコミュニケーションを取るものだ」と言われたものであるが、ついぞそんなコミュニケーションを取る勇気もなく終わったものである。

 怒鳴られるのも当たり前。私が一年目に仕えた上司は厳しい人で、ある時など主任さんが半日立たされていたことがあった。私はその時、上司のすぐ目の前に席を置かれていたので、横に立っている主任さんが気になって仕事どころではなかった。私もその上司に怒られたことがあるが、負けん気も強かったので気にもならなかった(モノには当たっていたが・・・)。なので怒られてシュンとなってしまう者の事など理解できないが、人は皆強いわけではないから、おかしいと言うつもりもない。ただ、当時はそんなこと問題にもならなかったのは確かである。

 ついつい、「今の若い者は」と言いかけて、はたと気づく。自分もいつの間にかそんな陳腐なセリフを吐くようになってしまったのだろうかと。私も若い頃は、確かにそう言われていたと思う。自分では何がおかしいのかと反発していたものである。「そちらの考え方こそおかしい」と。実際、何よりも仕事優先の考え方は理解できず、単なる「社畜」じゃないかと思っていたほどである。休みの日すら嫌々ながら会社の行事に繰り出して陰でボソボソ文句を言っている。「嫌なら行かなきゃいいじゃないか」と思っていたものである(実際、私は堂々と拒否して顰蹙を買っていた)。

 さらに支店の計画を考えると言って、休みの日にわざわざ会議に出さされたのにはつくづく閉口した。「平日にやれよ」と。そして今、来期から3年計画を立てるにあたり、経営幹部で土日に合宿をやろうという話が出ている。もちろん、私もそれに加わる予定である。昔はあれほど嫌だったのに、今はむしろ積極的に参加する自分がいる。それはペイペイだったあの頃と比べ、今は幹部の一員という立場の違いが大きい。仕事は大事だし、仕事であれば、休日を潰すのも苦ではない(もちろん、ワークライフバランスでその分平日に休みを取るが・・・)。私自身、あの頃と何ら変わってはいない。変わったのは、「立場と経験」であろうか。

 若い頃は、プライベートが何より重要で、「遊ぶために働いているのだ」という意識であった。今も基本的には変わらないが、あえて言うなら「遊ぶ前に働く」という感じであろうか。楽しく充実したプライベートを過ごすために、楽しく充実した仕事をするのである。仕事は生きるための苦行ではなく、楽しみの一つである。ただ、会社の若い人にそんな考えの人はいそうもなく、そんな話をしたら煙たがられるであろうことは間違いないだろう。それはやっぱり経験の差だろうと思う。若者もさまざまな経験を経て中高年となる。経験を積んだ人間とそうでない人間には自ずと考え方に差が出るだろう。「今の若い者は」ではなく、単に経験の違いだけなのであろう。

 その昔、お世話になった支店長からは「仕事の報酬は仕事だ」と言われ、内心ひどく反発したものである。「報酬なら金をくれ」と。今はその言葉はその通りだと思う。仕事で成果を挙げれば次にもっと大事な仕事を任される。そしていつの間にか会社の中心にいるようになり、会社を動かす立場になれば仕事もさらに面白くなる。「今の若い者」もそんな経験を積めば、いずれ私と同じ境地に達するだろう。お世話になったあの支店長に、今の私の姿を見ていただきたいとつくづく思う。

 そう考えると、目の前にいる若い社員たちは、「あの頃の自分」なのだと思う。かつて新人類と言われた私より少し下の世代も、今は嘆く側である。そう考えると、今の若い者を嘆く前に理解する必要がある。あの頃の自分を思い出して。目の前にいるのは若い頃の自分である。そう考えて接したいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 



2022年3月7日月曜日

論語雑感 雍也第六(その13)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子謂子夏曰、「女爲君子儒、無爲小人儒。」
【読み下し】
子(し)、子夏(しか)に謂(い)ひて曰(いは)く、君子(なさけびと)の儒(じゆ)と爲(な)れ、小人(ただびと)の儒(じゆ)と爲(な)る毋(な)かれ。
【訳】
孔子が子夏に言った。
「お前は君子の学者にならねばならぬ。小人の学者になってはならぬ。」
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 子夏というのは、孔子の弟子なのであろう。師が弟子に学者になるにしても小人の学者ではなく、君子の学者になれと諭している。君子の学者とは、おそらく世のため人のためになる学者ということであろうと解釈する。自分のことだけを考えるのではなく、世の中のことを考えろということなのではないかと思う。それは何も学者だけに言えることではなく、あらゆる職業に言えることのように思う。君子の政治家、君子のサラリーマン、君子の医者・・・

 人間、誰でも我が身がかわいい。何よりも自分のことを優先するのは、当然と言えば当然である。ただ、それでもあえて自分以外の人のことを少しでも考えられる人が「君子」なのだろうと思う。まずは自分の配偶者、子供、親兄弟。そして友人になり、職場の同僚になり、顧客であり、袖擦り合う人であり、見ず知らずの赤の他人と君子の度合いが高まるにつれ、だんだんその範囲が広がっていく。そして世の中の人すべてとなると、もう大君子と言えるのかもしれない。

 逆に自分のことしか考えられない人というのは、小人ということになる。ではどうしたら君子になれるであろうか。日頃からそう心掛けることはもちろん大事であるが、それだけで君子たることはできるのであろうか。人間、比較的余裕のある時は誰でも君子に近づけると思う。お金を貸してくれと言われた時、1億円持っている人なら、1万円くらい躊躇せずに貸せるだろう。1万円どころか10万円でもそうだろう。しかし、10万円しか持っていない人であればどうだろう。それが2万円だったら、まず躊躇するだろう。

 君子のように振る舞うことはそう難しいことではない。余裕があれば。しかし、余裕がなければ簡単ではない。日常でもたとえば買い占めなどという行為は、明らかに自分のこと(せいぜい自分の周りの人まで)しか考えていない。震災の時などスーパーの棚から物がなくなったが、あれは万が一に備えて自分達だけ準備しようという小人的発想に他ならない。人間には自己保存本能があるから、それが悪いとは言わないが、ただ君子的ではないことは確かである。

 そうしたことは、日常に溢れている。電車の中で席を譲ったり、エレベーターに乗った時に、我れ先に降りるのではなく、他の人を優先させてその間、開閉ボタンを押していたり、職場でフロアーに落ちているゴミを拾ったり、溜まっているシュレッダーの屑を率先して捨てたり。他人のために少しだけ苦労を背負う行為が、君子的と言えば君子的なのかもしれない。自己満足で終わるのではなく、世の中の人が少しでも幸せになることを考えられる学者になれと孔子は弟子に諭しているのだと思う。

 そうした君子であることが何になるのか。もちろん、より世の中には君子と呼ぶべき立派な人も大勢いる。しかし、大半の人はそれほどではない。小人もたくさんいるだろうし、というよりそれがほとんどのように思う。世のため人のためよりはまず自分。自分にゆとりがなければ人のためになどと言ってられない訳であり、そして自分のことで精一杯で終わってしまう。それはそれで仕方ないことであり、責められるべきことでもないと思う。それゆえに、君子たる者が尊敬されるべきだと思うのである。

 自分が君子たりえているかというと、それほどではない。小人とまではいっていないと思うが、謙遜を抜きにしても君子レベルと胸を張れるものではない。それであるからこそ、君子のサラリーマンになりたいとは思う。なぜなら、会社では給料は多い方に属する(少なくとも上から数えられる)。世間的に言えば多くはないが、我が社の中という限定された中では多い方である。となれば、その分、社員のみんなのことも考えないといけない立場である。そういう自覚を常に持ちたいと考えている。

 年齢的にも50代後半となれば、自分のことだけ考えているのもみっともないと思う。もちろん、還暦を過ぎても自分ファーストな人はいるが、それは他山の石としたいところ。少しでも高みへ。君子のサラリーマンを目指したいと思うのである・・・


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【本日の読書】
  



2022年3月2日水曜日

ロシアのウクライナ侵攻を憂う

 ロシアがウクライナに侵攻してはや一週間が過ぎた。事前に相当期間に渡って警告されてはいたものの、まさか本当に侵攻するとは思わなかったので、個人的には驚きである。クリミア半島を手中に収めて満足していたのかと思っていたが、どうやらまだ火種は燻っていたらしい。なぜロシアがウクライナに侵攻したのかというと、それはウクライナのNATO加盟を阻止するためだったと言われている。

 ウクライナがNATOに加盟すると、ロシアの目と鼻の先にNATO(つまりアメリカ)のミサイルが配備されてしまうからであるとされているが、専門家によるとそれに加えてロシア側の軍事情報も渡ってしまうからだという。侵攻すれば経済制裁を受けるというのはわかっていたであろうし、それによる深刻な経済的影響もわかっていたであろうが、それ以上にウクライナのNATO加盟がロシアに与えるダメージが大きかったのであろう。

 アメリカ及び先進国は一斉にロシアを非難し、経済制裁に入ったが、そもそもそれにも違和感を禁じ得ない。なぜなら、事前にプーチン大統領がウクライナをNATOに入れるなと要求していたのに対し、応諾していれば今回の侵攻もあり得なかったはずである。本気で軍事的衝突を回避しようと思うのであれば、簡単にできたわけである。それをやらなかったのはなぜなのか。それこそが、何百年と続いている人類の戦争の原因そのものである。つまり、「領土(あるいは資源)分捕り合戦」である。

 戦争の歴史は、この「領土(あるいは資源)分捕り合戦」である。それが現代でも連綿と続いているわけである。アメリカはソ連の崩壊を機に一気に旧東側諸国を自らの軍事同盟であるNATOに引き入れ、今回さらにウクライナを引き入れようとしていたわけである。ロシアはそれを阻止しようとしていたわけであり、まさに領土分捕り合戦である。アメリカは正義の味方ぶっているが、アメリカがちょっかいを出さなければロシアも実力行使に出なかったわけである。

 ウクライナもそういうロシアの考えはわかっていたであろうし、わざわざNATOに入ろうとしなければよかったわけである。ましてやNATOは「軍事同盟」である。それも仮想敵国はロシアである。EUのような経済同盟ならまだしも、わざわざロシアの目の前で入る理由はないだろう。もちろん、だからと言って軍事侵攻するのは仕方がないなどという気はないが、そういう背景事情をきちんと理解していないと、表面的な事実だけ見ていても物事は解決しないと思うのである。

 およそ大国は今でも世界で分捕り合戦をやっている。今回は正義感ぶっているアメリカも石油資源をめぐってイラクに侵攻したのは記憶に新しい。時のフセイン政権を「大量破壊兵器を隠している」という理由をでっち上げて、圧倒的な軍事力で葬っている。ロシアを非難できる筋合いではない。そして最近は中国が台頭してきてアメリカに挑んでいる。台湾を狙い、我が国の尖閣諸島や沖縄を狙っている。どうして他人から分捕ってまでして奪おうとするのだろうか。平和に暮らそうという発想ができないのだろうか。「奪い合えば足らぬ、分け合えばあまる」というあいだみつおの言葉を教えてあげたくなる。

 それはともかく、一刻も早い停戦が望まれるわけであるが、相当の覚悟を持って軍事侵攻したロシアをストップさせるにはなかなか難しいものがあると思う。しかし、いち早く停戦させようと思えば、経済制裁よりももっと効果的な方法がある。それはウクライナをNATOには加盟させないと欧米が約束することである。まさにプーチンがそれを望んで公言しているわけであり、これほど簡単なことはない。あるいはウクライナ政府自体がそれを約束すれば済む話である。実に簡単である。

 返す返すもNATOは「軍事同盟」である。「そんなの自由だろ」というものではない。軍事同盟の加入を巡って軍事力の行使に至っているわけであるから、ある意味、責任はNATOとウクライナにもあると言える。ロシアが北方領土を返還しないのも、北方領土に日米安保に基づいてアメリカのミサイルを配備されるのを嫌っているからだと言われている。あちらでもこちらでも、アメリカの裏の顔がちらついている。大国の領土・資源分捕り合戦はいい加減にしてほしいと思わざるを得ない。

 いつまで分捕り合戦をやっていれば気が済むのであろう。みんなで譲り合って暮らせないものなのかとつくづく思うのである・・・


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【本日の読書】