2019年9月30日月曜日

ワールドカップ観戦記

いよいよラグビーのワールドカップが始まった。思い起こせば日本開催が発表になったのは10年前10年前は開催国としてどのくらいできるのだろうかと案じてが、前回は南アを破り、そして今回はアイルランドを撃破し、決勝トーナメントに進出できるかどうかはわからないが、開催国として一応恥ずかしくないレベルの成績は残しており、素晴らしいことだと思う。選手や関係者の頑張りの結果であるが日本人として誇らしく思う。

せっかくだからとアイルランド戦を観戦。友人が確保してくれた「ホスピタリティーパス」というのを利用。これはランチ付きイベントに参加し、そのあと観戦するというもの。イベントは元日本代表のアンドリュー・マコーミックを招いてのもの。まぁ、マコーミックにあまり興味はなかったが、海外ではこういうホスピタリティーパスは一般的らしく、海外からの観光客らが交じったランチはいい経験であった。

同じテーブルになったアイルランド人ご夫婦は、ワールドカップにあわせてアイルランド戦を観戦しつつ、国内を観光するのだと語っていた。アイルランドの試合は、横浜、静岡、神戸、福岡と予定されており、日程的にも資金的にも随分と余裕のあるご夫婦なのだと推察した(ホスピタリティーパスだけでも「ゴールドチケット」で117万円である)。世の中いろいろであるが、羨ましい限りである。

イベントが終わって会場となるエコパスタジアムへと移動する。様々な格好をした日本、アイルランド双方の応援をする人たちが溢れかえっている。熱気もうもうで、スタジアムのざわめきも雰囲気を盛り上げる一助となっている。このあたりはテレビ観戦では決して味わえない。現地で生観戦する醍醐味はこの会場の雰囲気も大いに貢献している。座席の横にはチームカラーのグリーンのスーツを着た紳士(?)のご一行が陣取っている。隣り合って自然と仲良くなる。

試合開始にあたって、双方の国家斉唱。全員が立ち上がって「君が代」から始まる。いまだに「君が代」に嫌悪感を隠さない人たちがいるが、このシーンを見たらどんな風に思うだろうかと感じる。当然ながら隣のアイリッシュご一行も立ち上がっている。試合はアイルランドが2トライを決めてリード。「やっぱり勝てないのか」と思いつつ、応援を続ける。日本がペナルティーゴールを決めて3点を返すと、隣のアイリッシュのおじさんも拍手してくれる。自分のチームは応援するが、相手への敬意も忘れないというのはいい感じである。

たまたま今はバレーボールもワールドカップをやっている。テレビでチラッと見たら日本に対する応援が過剰すぎるように感じた。当然ながら会場内には相手チームもいるわけであり、ただでさえアウェーなわけである。日本を応援したい気持ちはわかるが、行き過ぎてもいけないと思う。エコパスタジアムでも応援は圧倒的に日本の方が多かったが、そういう過剰演出はなく、さらに負けたアイルランドチームが引き上げる際、近くの日本のサポーターが盛大な拍手を送っていたが、見ていて気持ちのいいものであった(もちろん私も拍手を送った)。

隣のアイリッシュも最初は余裕だったが、後半日本が逆転して残り時間が少なくなると声を張り上げて声援を送っていた。「ヤバい」という気持ちが伝わってきて、なかなか心地いいものであった。そしてとうとうノーサイド。最後のプレーでは、なんでアイルランドの選手が蹴り出したのかわからなかったが、隣のアイリッシュもにっこり笑って握手を求めてきた。「まぁ負けたけどそれは今回の話であって、まだまだ実力はアイルランドの方が上」というゆとりのようなものがあったのかもしれない。敵味方一体となって心から楽しめたと思えた瞬間である。

今回、ワールドカップにあわせて来日する観光客は40万人らしい。その観光客が平均1週間滞在して、平均50万円を使うと想定されていて、経済効果はなんと2,000億円らしい。日韓関係の悪化から、今年に入って韓国からの訪日客が7月までで約20万人減少したらしいが、ワールドカップの開催でそれをはるかに上回る観光客が訪れるようであり、タイミングとしても良かったのかもしれない。日本には負けてしまったけれど、隣に座っていた、否、会場に来ていたアイルランドファンの人たちがみんな楽しんで帰国されるといいのにと心から思う。

 残り2試合。日本代表には当然頑張ってもらいたいが、来日したラグビーファンの人たちが日本ファンになって帰ってくれることを心から願いたいと思うのである・・・


【本日の読書】
 






2019年9月24日火曜日

仁を支えるもの

前回、仁に基づいた行動が取れたらいいなという思いを抱いた事を書いたが、敢えて「常に仁に基づいた行動を取る」としなかったのには理由がある。まぁ、自分自身そんな聖人君子ではないというのももちろんであるが、それ以外にも不確定要素として「経済環境の変化(悪化)」があるかもしれないからである。今は中小企業なりと言えどもそれなりに収入があって安定している。その状態では理想を語れるのであるが、そうでなくなった場合、自分自身どう考えるかわからないからである。

たとえば現在、仕事で多額のお金の管理を(会社で)行っている。もしも、会社が倒産した場合は、これを誰かに引き継がないといけない。しかし、そうはせずにこのまま持ち逃げ(あるいは横領)しないだけの自制心は働くだろうかと考えてみると、「大丈夫」だと言い切れる自信はない。責任は会社にあるわけであるが、その会社が倒産となれば混乱に紛れて持ち逃げしてもわからないかもしれない。自らが窮地に陥った中でそんな考えが脳裏を過ったとしたら、果たして正しい行動が取れるであろうか。

お金に困るというのは、本当に辛いことだと思う。たとえば私も収入を失ったとしたら、まず住宅ローンの支払いの心配が頭を過る。なぜならそれは住むところを失うという恐怖とイコールだからである。自分一人なら全然平気であるが、家族がいる身としてはこれ以上にないくらい辛いことであろう。そんな時に、目の前にお金があったらいくらそれが他人の金であったとしても、考えるのは「どうやったらうまくごまかして懐に入れられるか」だろうと思う。

「お金で幸せは買えない」とはよく言われることである。それはその通りだろうと思うが、一方で「しかし不幸を追い払うことはできる」と続く言葉もある。人が人として正しい行動が取れるか否かは、ひとえに経済的豊かさがあるかどうかが影響すると思う。戦後の混乱期、誰もが違法な闇市を利用していた。有名な話だが、ある真面目な裁判官がそれを拒否して配給だけで生活して餓死したという話があった。それはそれでとても立派な行動だと思うが、多くの人が違法行為をして生きていたのである。そしてそれを批判することは誰にもできないだろうと思う。

もちろん、経済的に困窮したら犯罪行為に手を染めてもいいと言うつもりはないが、一方で正しい行動(仁に基づいた行動)が取れるか否かには、経済的な生活の裏付けが必要だろうと思うのである。マザー・テレサは貧しい中で献身的に人々に愛を以って尽くされたが、そういう人は誠に立派であるが、凡人には難しいかもしれない。孔子の説く仁を以って生きるスタイルをどこまでできるかはわからないが、少なくとも現在の収入を維持していないといけないだろう。

 世の母親が我が子を公務員にしたいと思うのも、学生がとにかく安定した一部上場企業に就職したいと思うのも、まずはしっかり生きていくという当たり前のことを求める上では当然だと言える。今は、不安定極まりない中小企業に身を置く立場としては、一生懸命会社が潰れないように頑張るしかない。それが「仁に基づいて生きられるか否か」を問う前に必要最低限の条件になる。より正しく生きるためにも、頑張って働きたいと思うのである・・・





【本日の読書】