2019年9月19日木曜日

論語雑感 里仁第四(その5)

〔 原文 〕
子曰。富與貴。是人之所欲也。不以其道得之。不處也。貧與賤。是人之所惡也。不以其道得之。不去也。君子去仁。惡乎成名。君子無終食之間違仁。造次必於是。巓沛必於是。
〔 読み下し 〕
()()わく、(とみ)(たっと)きとは、()(ひと)(ほっ)する(ところ)なり。()(みち)(もっ)てせざれば、(これ)()とも()らざるなり。(ひん)(せん)とは、()(ひと)(にく)(ところ)なり。()(みち)(もっ)てせざれば、(これ)()とも()らざるなり。(くん)()(じん)()りて、(いず)くにか()()さん。(くん)()終食(しゅうしょく)(かん)(じん)(たが)こと()く、造次(ぞうじ)にも(かなら)(ここ)(おい)てし、顚沛(てんぱい)にも(かなら)(ここ)(おい)てす。
【訳】
人は誰しも富裕になりたいし、また尊貴にもなりたい。しかし、正道をふんでそれを得るのでなければ、そうした境遇を享受すべきではない。人は誰しも貧困にはなりたくないし、また卑賤にもなりたくはない。しかし、道を誤ってそうなったのでなければ、無理にそれをのがれようとあせる必要はない。君子が仁を忘れて、どうして君子の名に値しよう。君子は、箸のあげおろしの間にも仁にそむかないように心がけるべきだ。いや、それどころか、あわを食ったり、けつまずいたりする瞬間でも、心は仁にしがみついていなければならないのだ。
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 今回の言葉は非常に重みのある言葉であると思う。人は誰しも金持ちになりたいと思うだろうし、人の尊敬も集めたいと思うだろう。ただ、それらのものを手に入れたとしても、たとえば悪いことをして手に入れたのでは何の意味もない。当たり前と言えば当たり前であるが、その当たり前が難しいものであるのも事実だと思う。たとえばお金に関して言えば、犯罪行為に手を染めるのは極端なものとして、ちょっとしたズルをする誘惑に勝てるかと言うと、どうだろうかと考えてしまう。

 たとえば知人に宝くじを買ってくれと頼まれ、お金を立て替えて買ったとする。ところが知人はそれを忘れていて、ふと気がついて番号を調べたところ、なんと1等賞金の1億円が当たっていたとする。その時、正直に知人に連絡して当たりくじを渡し、代金だけをもらって祝福できるだろうか。もしかしたら気前よく折半になるかもしれないけど、分け前がいくら期待できるかわからない中で素直に知らせるだろうか。「買い忘れちゃった」と一言詫びれば1億円を手に入れられるのである。正直言って、私の場合、「知人に知らせる」と断言できるほど聖人君子である自信はない。

 もっと身近な例で考えてみる。たとえば『正直不動産』というマンガがある。ある神様の祟りで嘘がつけなくなった主人公が、嘘で塗り固める得意の不動産営業ができなくなるお話である。同業者として興味深く読んでいるのだが、もともと主人公は「お客さんの利益より自分の営業成績が大事」というトップ営業マン。手段を問わずに結果だけを重視しており、まさに孔子の禁ずる「其の道を以ってせざる」ことに他ならない。では、自分の出世を犠牲にして正しい道を貫けるであろうか。それができなかったのが、東芝の不正会計事件である。

 逆に「其の道以って」行ったために、不遇をかこつということも大いにあるだろう。先の『正直不動産』の主人公もそれで上司に睨まれてしまい、ライバルには差をつけられてしまう。その昔、銀行でも「何でこの人出世しないのだろう」と不思議に思う人がいた。仕事もよくできるし、部下の面倒見も良い。ただ、「世渡り下手」という感じはしていた。「そういうものなんだろう」と思っていたが、後から振り返って「またお会いしたい」と思うのはそういう上司であって、いわゆる「やり手」とされていた上司ではない。

 孔子の説く内容もそういうことなのだろうと思う。真面目に正しく生きていれば「お天道様はちゃんと見ていて下さる」というのは、日本人的には受け入れやすい考え方だろうと思う。昔話でも最後に報われるのは必ず正直爺さんである。ただ、これも難しいだろうと思う。人にはどうしても他人と自分を比べてしまう性分がある。妬みや嫉みは人の常。だから意地悪爺さんがいて、最後にしっぺ返しを食うことになる。誰もが正直爺さんになろうとは思うが、現実にそう振舞えるかは別である。

 逆に不遇をかこっている場合、やり切れない思いを慰めるのは、「自分は正しい道を歩いている」という自覚だろう。東芝の事件でも、もしかしたら「これはまずいんじゃないですか」と意見具申した人はいたかもしれない。でもそういう人は疎まれてきっと出世の道からは外れるだろう。孔子はそんな場合でも焦る必要はないと言う。「お天道様はちゃんと見ていて下さる」に通じる考え方である。まったくその通りだと思うが、自分の立場がそうなった時に、「実践できるか」となると、そうでありたいとは思うものの自信はない。

 君子はいかなる時も仁の道を外れてはいけないとする。だが、とてもではないが、自分は君子ではない。君子であろうとする者は自覚すればいいが、出自からして圧倒的庶民の自分としては、とてもではないが志せる道ではない。せいぜいが悪事に走らないように自制するくらいである。が、それとて家族を養わなければならない身で窮地に陥った時にはどうなるかわからない。

 ただ、やはり人として孔子の説く仁の人でありたいとは思う。どんな境遇にあっても仁に基づいた行動が取れるのであれば、それこそ孔子の説く君子なのであろう。そうはありたいとは思うものの、改めて君子の道は遠いなと思うのである・・・






【本日の読書】
 
   
    

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