2020年7月29日水曜日

海の色は何色か

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
若山牧水
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 海の色は何色ですかと問われれば、普通は「青」と答えるだろう。私は個人的に最高の悦楽は、「南の島のビーチサイドのヤシの木陰でトロピカルドリンクを飲みながら本を読むこと」だと思っているが、その時目の前に広がるのはどこまでも青い空と限りなく透明に近いブルーの海である。私も海の色はと問われれば、この情景を思い浮かべて「青」と答えるだろう。それはそれで間違いではないが、実は正確ではない。

 海の色が青く見えるのは(空の色もそうみたいだが)、太陽の光を反射しているからだそうである。それが証拠に、海の水をコップにすくってみれば透明である。それは空の色に当てはめてみても空気が透明なのと同じなのだろう。実際、同じ海でも夜に見れば真っ黒に見えるし、台風が来て荒れている時は灰色っぽく見える。海水自体は透明であり、周囲の影響を受けていろいろな色に見えるわけである。それは空の色もしかり。

 海の色はと聞かれて、「青」と答えるのは思い込みである。聞かれた瞬間に、「晴れた日の海」が頭の中に広がり、そうして「青」と答えるわけである。それが悪いとは思わないが、人にはそうした思い込みがかなりあると思う。「先入観」とも言えるもので、これと思い込んだものに対しては、それを否定する要因があったとしても冷静に受け止められずに排除してしまうのである。自分の考えと異なる意見があった場合、これを冷静に受け止めて咀嚼し、場合によっては自分の意見を変えるというのは難しいことなのかもしれない。

 今も韓国との間では「従軍慰安婦問題」「徴用工問題」があるが、私も小中学校の頃は「悪の日本軍がとにかく悪いことをたくさんした」と教わり、そういうものだと思っていた。ところが慰安婦問題ではそれを否定する意見をたびたび目にし、今では180度考えが変わっている。では、今の意見が本当に正しいのか、それも誤った思い込みではないのかと問われれば、今のところそれが変わる可能性はない。自分なりに見聞きしてきた意見・証言等を総合すれば、否定的にならざるを得ないからである。

 肯定する人は、日本軍が朝鮮の女性を強制連行し「性奴隷」にしたと主張するが、その背景には、「日本軍はとにかく悪いことをした」という背景色があると思う。もちろん、「日本軍は常に礼儀正しく間違ったことはしていない」などというつもりはないが、すべて悪と決めつけるのも正しくはないだろう。そうした背景色を排した上で、透明の事実というものを見るようにしたいと思う。もちろん、今となっては残された資料から推測するしかないわけであるが、そうした背景色があると、自分が正しいという資料だけを見てしまうかもしれない。

 人は見たいものだけを見るというのは、よく言われること。株式投資などでは、持っている株が下がると、ついつい上昇が見込まれそうな情報に飛びついてしまう。上下両方の情報があった場合には、上がりそうな情報にしがみついてしまうのは、自分自身さんざん経験したことである(そうして結局、さらに下がって泣きを見るのである)。「こうなって欲しい」という願望や、「こうなのだろう」という思い込みが人にはどうしてもある。それに沿った意見を採用するのは当然なのかもしれない。

人は常に自分の人生の主役であり、自分の意見こそが正しいと信じている。それはある意味当然であるが、やはり背景の色に惑わされず、そのもの自体の真実を見極めたいともう。たとえそれが己の意にそわないものだとしても。慰安婦問題に関しては、数ある反論のうち、もっとも説得力が高いのが、「慰安婦たちは高額の報酬をもらっていた」というものである。奴隷なら当時の日本兵をはるかに上回る報酬など得られないだろう。その他にも米軍が保護した慰安婦に対する聞き取り調査の報告書等の状況からすれば、慰安婦問題はかなり眉唾であるとの判断に至る。

もちろん、それすら夜の海の色なのかもしれず、それを否定するような事実があればまた柔軟に考えるべきだろうとは思う。徴用工問題にしても、日本人ですら「勤労奉仕」が女子供にも課されていたわけであり、「強制」も今の時代感覚をベースに考えると背景色が色濃くなる可能性がある。歴史上の出来事は古くなるほど背景色が濃くなるかもしれず、難しくもあり気をつけなくてはいけないところであると思う。

 自分と異なる意見の人の話を聞くのは、なかなか難しい。ついつい反論したくなるし、してしまう。それはそれで悪くはないと思うが、反論の前に一呼吸置いて相手の意見をよく咀嚼するようにしたいと思う。なかなか難しいのであるが、そうした意識だけは忘れずに持っていたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 



2020年7月26日日曜日

論語雑感 里仁第四(その26)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子游曰。事君數。斯辱矣。朋友數。斯疏矣。
〔 読み下し 〕
ゆういわく、きみつかえて数〻しばしばすれば、ここはずかしめらる。朋友ほうゆう数〻しばしばすれば、ここうとんぜらる。
【訳】
子游がいった。――
「君主に対して忠言の度がすぎると、きっとひどい目にあわされる。友人に対して忠告の度がすぎると、きっとうとまれる」
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 銀行員時代、初めて役付者に昇格し、勇んで臨んだ支店で初めて持った部下は少々曰く付きの男だった。前任者から注意点等引き継ぎを受け、スタートしたが、その問題はすぐに露呈した。「文句」が多いのである。当時(今もかもしれない)、銀行は仕事が多く、一方で人員は限られている。勢い、1人あたりの負担は大きい。彼は常に「人が足りない」「業務量が多すぎる」と私に訴えてきた。「なんとか人員を増やしてもらえないのか」と。

 当時の私にしてみれば、そんなのはわかりきっていることで、その中で「どうしたらできるのか」という工夫をする必要があると考えていた。事実、やりようはいくらでもあった。後日、しびれを切らした支店長が人事に掛け合い、彼の同期を転勤させてきて彼の後釜に据えたら、仕事はスムーズに回り始めた。彼は預金係への係替えという屈辱人事に男泣きしたが、後の祭り。実際、仕事が回っているのを見せつけられるとぐうの音も出ない。可哀想だとは思ったが、どうにもできない。

 今から思うと新米上司の私にも反省点はあった。彼には悪いことをしたなと今でも思う。考えてみれば、彼の「文句」は「文句」ではなかったかもしれない。「ああ言えばこう言う」的なやり取りはずいぶんあったが、彼にしてみれば「意見具申」だったのかもしれない。「こうしたらスムーズに業務が回りますよ」という提言だったとも言える。客観的に(私から)見ればそうは見えなかったが、彼の視点からだとそうだったとも言える。

 本人から見れば立派な「意見具申」も、上司からすれば「ただの文句」。双方で意識の違いは大きい。そんな「意見具申」も繰り返せば、「いい加減にしろ」ということになる(実際なった)。もしも、彼の「意見具申」がその通りだと同意できるものであり、他に手がなければ私も支店長にその意見を具申していただろう。そこにあるのは「同意」である。「同意」がなければ何度繰り返しても「しつこい」と反目を買う。「同意」を得られれば評価される。

 それはビジネス上で上司と部下の間だけではなく、プライベートな友人関係や恋人同士や夫婦関係でもそうかもしれない。「タバコをやめなよ」とか「お酒を控えたら」と心配した奥さんが夫に訴えるが、夫は聞き入れない。繰り返せば「うるさいなぁ」となるだろう。ここでも「同意」があるかないかだ。健康診断に引っ掛かって「肺に影がある」と分かった時の夫婦の会話なら、夫も「うるさい」とは言わないだろう。一般論で体に悪いことなんか十分わかっているが、個別具体論で自分の体のこととなれば話は別だろう。

 孔子は「数々(しばしば)すれば(=度がすぎれば)」と表現しているが、「頻度」というよりもその内容であると思う。そこに「同意」があれば反目を買うことはないだろう。同意できても実行できない事情があるという場合も同じ。その場合、「ではどうすればいい」というところまで踏み込めないと真の「同意」は得られない。基本的に「意見具申」も「忠告」も相手(あるいは組織)のためを思ってのことだろう。であれば、もう一歩踏み込んで相手の考え方を理解する必要がある。

 (自分から見れば)ごく真っ当な忠告を相手がなぜ受け入れないのか。そこには相手の隠された真意があるわけで、言う方はそれを知る必要がある。それを知らなければ、相手がなぜ真っ当な自分の意見を受け入れないのか不満に思う。その不満は雰囲気に表れるだろうし、それが一層同意を得ることを困難にする。そうなれば、繰り返す忠告は「度の過ぎた」ものになり、したがって相手の不興を買うことになる。こうなるともう事態はいい方向へと進まない。

 あの時、自分に何ができただろうかと今でも思う。人員に対して業務が多すぎるのはみんな分かっていた。しかし、人員はコストの関係もあって簡単には増やせない。であればその選択肢はない。さすれば業務内容を見直し、1つ1つの業務に優先順位をつけ、時に一部の業務は後回しにすることも必要だろう。たとえそれが支店長の突然の指示であっても「優先順位」を確認し、後回しにする了解を得るようなこともできただろう。事実、彼の後任はそうしてうまく仕事を回す優秀な男だった。それを指導できなかったのは私の責任である。

 その後の彼は、風の噂ではあまりいい待遇は得られなかったようである。それはそれで彼の責任ではあるが、自分自身のためにも何とかしたかったなと思うのである・・・


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【今週の読書】
 



2020年7月23日木曜日

やりたいことは何ですか?

 会社の経営者にはいろいろなタイプがいると思うが、1つ大事だと思うのが、「どういう思いで会社を経営しているか」だと思う。事業を通じて何を実現したいのか。どういう目的をもって会社を経営しているのか、である。創業者であれば割とこのあたりはしっかりしていると思うが、内部昇格したり親から受け継いだ二代目だったりするとこのあたりは曖昧だったりするかもしれない。なんとなくそれまでのやり方を踏襲しているだけで、特にやりたいこともないという形である。

 やりたいことがあるというのは素晴らしいと思うが、ないからダメだというつもりはない。満足いく収入を得て、会社も安泰で推移していれば、人間楽に暮らしたいと思うのは当然であり、部下がうまく仕事を回して問題がないのであればそれでいいのだろう。サラリーマンでも何のために仕事をするのかと問われ、「お金のため」という答えをする人も多いだろう。事実、社長であっても社員であっても生活費がなければ生きていけないわけで、お金のために働くという側面は万人共通である。

 ただし、その上で会社のリーダーたる社長に「やりたいこと」があるかどうかということは、やはりフォロワーとしての社員(にそれがあるかどうか)よりもはるかに大事であると思う。それは、1つには何か新しい事業展開に臨む必要がある時とか、迷った時の判断基準という意味がある。「こういうことがやりたい」というのがあれば、それが1つの基準になる。我が社は不動産業であるが、「オリジナルの物件を建てたい」という思いがある。その場合、「オリジナルって何がオリジナルなのか?」と問うことによってイメージが固まっていく。今はだいぶ硬いイメージを持っており、いつか実現したいと思っている。

 もう1つは、経営者の魅力という意味があるだろう。昔から金勘定ばかりしている人間は嫌われる。何事につけ、「儲かるか否か」だけが判断材料という社長は、社員から好かれることはないだろう。いくらお金を持っていても、「尊敬」を集めることはできない。サラリーマンでも自分の実績のことばかり考えている上司(実際にいるわけである)を尊敬することはできない。自分のやりたいことを掲げて、そのためには多少損をしてもやるという経営者の方が魅力的であると思う。

 では、その「やりたいこと」がない場合はどうすればいいのだろうか。2代目社長などは、自分が継ぐことが前々より決まっていて、決められた路線に沿って継承した場合、自分が始めたビジネスではないだけに、「やりたいことなんてない」ということも十分あるだろう。この点、自分で創業した社長とは初めからスタンスが違うわけである。そんな「与えられた」地位で、やりたいことも何も「やるしかない」ことだけということもあるだろう。その場合、それはもう「作るしかない」と思う。無理やりにでも、である。

たとえば私がどこかの中小企業の社長を任されたとする(そんな空想をよくする)。その場合、メーカーであれば製造している商品、サービス業であれば提供しているサービスを磨き上げて世の中の人に喜んでもらえるようなことを考えるし、それがうまくできなければ、社員を幸福にする方向で「良い会社を作る」とするかもしれない。外から見た人が羨ましがって「こんな会社で働きたい」と思うような会社を作れたら快感だろうと思う。いずれにせよ、やりたいことは考えて作ればいいわけである。

現在、中学3年生の息子は受験生である。志望校は都立高を考えているらしいが、まだ決まっていない。いろいろと高校に入ったらやりたいことを考えているようで、それにはどこがいいかという視点で志望校を考えるらしい。我が身を振り返ってみると、なんとなく私立は親に経済的な負担をかけるから避けよう、近くで手頃なレベルの都立高という理由で選んだ(それはそれで大正解だった)。「やりたいこと」を中心に志望校を考えるという息子にちょっと頼もしさを感じる。

頼もしさを感じる理由は、自分で「やりたいこと」を意識しているからである。これがなんとなく毎日勉強して、都立か私立かと言ったらなんとなく都立で、偏差値からしてなんとなくここという選択であったら、(我が身のことはさておき)ちょっと不満や不服感を覚えていたかもしれない。「やりたいことがある」というのは、受験生の志望校選びにすら好印象を与えるものだと思う。「将来パイロットになりたい」と語る幼稚園児すら目が輝いて見えるものだし、大人だって然りである。

 経営者は、社員にこれから船が向かうべき方向を指し示さねばならない。ただ、なんとなく日々をどこへ行くともしれず航海して行っても、沈没することはなくても停滞は避けられないだろう。ただ、報酬のためだけに働く姿は、社長としても魅力に欠けると言わざるを得ない。「やりたいこと」は、「夢」などという大げさなものでなくてもいいと思う。「こんなことをやりたい」、社長でなくても「こんなことをやりましょう」ということを語れるようにしたい。私自身、社長ではないものの、そんな風に思うのである・・・


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【今週の読書】
 





2020年7月19日日曜日

人間の記憶

人間の記憶とは不思議なものだと思う。何か法則性があるわけでもなく、人によってマチマチ。自分自身のことで言えば、最も古い記憶は3歳ごろのもの。と言っても、2歳なのか3歳なのかは判然としない。ただ、4歳の時に引っ越しをしており、古い家に住んでいた頃の記憶がすなわち3歳頃までの記憶というわけである。武蔵小山商店街で迷子になったり、銭湯に三輪車で行って盗まれたり、テレビで『キャプテン・ウルトラ』や『黄金バット』を観たりしたものがある。

記憶も何が基準で残るのかもわからない。印象深い出来事が記憶に残るのはわかるが、何気ないごく日常の記憶が残っていたりする。すぐに自分で思い出す記憶もあれば、写真や人に言われて初めて思い出すものもある。あるいは人に言われても思い出せないものもある。まったく思い出せないものなど、人に「あの時、こうだった」と言われても自分の体験だとは思えず、他人の経験談を聞いているような気がして不思議なものである。そのメカニズムはどうなっているのだろうかと思う。

覚えているのは問題ないが、問題なのは忘れてしまうこと。自分の経験したことなのに忘れてしまうというのはなんだか悲しい。もう20年以上日記をつけているが、それも「忘れたくない」という思いもある。いまでも時折、過去の日記を読み返すが、読んで「ああそうだった」と思い出すものもあれば、まったく思い出せないものもある。日記は意識して時系列で出来事を描くようにしているが、それも己の記憶を思い出しやすくするためでもある。

映画はブログを書いている。ブログは普通だれかに見てもらうことを意識すると思うが、私の場合は、想定読者は自分自身のみである。すべて自分の記憶のためである。映画ブログ20071月の途中から始め、以来鑑賞した映画は現時点で2,244本になる。定期的に見直しているが、「こんな映画観たっけ」という映画が見事にある。あるいは観た記憶はあるものの、内容については忘れてしまっているものが多い。映画はまだしも、本になると忘却率はかなり高い。

歳をとると物忘れがひどくなるというのは確かで、最近人の名前を忘れるのはよくある。失礼に当たるので、なるべく忘れないようにとは意識するが、なぜこの人の名前が出てこないのだろうと、愕然となるケースもある。もう何年来の知り合いで、合えば親しく話しているのに、ある日バッタリ会うと名前が出てこない。人の名前ですらそうであるから、「あれ」とか「あそこ」とか名前が出てこないものとか場所とかはザラである。自分のことながら嫌になってしまう。

50歳で不動産業界に転職して、宅建とマンション管理士の資格を取ったが、勉強は大変であった。なにせテキストを見直すと、マーカーで印がついているが、誰がつけたのと聞きたくなることしばしば。若い頃は、一度見たらたとえはっきり覚えていなくても、「確かどこそこに書いてあったな」と思い出したものであるが、今は自分でマーカーを引いたのすら忘れていることがある。かつて神経衰弱では無敵を誇り、難関国立大学に合格した実績も今となっては影も形もなくなっている。

人間の脳も年齢とともに細胞が衰え、記憶容量も減っていくのだろう。記憶力の衰えは悲しい事実だが、それでも完全に忘れるわけではなく、正確に言えば「思い出しにくい」ということである。自力で記憶が呼び戻せないだけで、日記を読み返したり、ブログの記事を読み返したりすると記憶が蘇ってくる。つまり、忘れているわけではないわけである。引き出しにガタがきて飽きにくいものの、開ければそこにキチンと保存してあるわけである。これはかなり救いになる。要は思い出す手段を確保すればいいわけである。

資格試験は、対策として徹底した「反復作戦」を取った。重要項目はノートにまとめ、毎週末に必ず読み返す。「忘れたら覚える」。忘れても忘れても覚え直す作戦である。それとYouTubeを利用したビジュアル記憶。テキストで読むだけでイメージしにくいものはこうして映像で覚えることで克服した。もっとも合格した後はかなりの勢いで忘れていると思う。まぁ、実務では必ずしも記憶していなくてもなんとかなるからいいのではあるが・・・

今はまだいいが、この先怖いのは何と言っても痴呆だろう。自分が自分でなくなる。家族の顔でさえ忘れてしまう。そうなった時、果たしてそれは自分なのだろうかと思う。自分自身がそうなるのか、どうすれば避けられるのかはわからないが、最後まで自分自身は保っていきたいと強く思う。

そんな先のことまではわからないが、これからますます記憶力は衰えていくのだろうと思う。それに対しては、ひたすら「補助装置」を充実させていくしかない。観た映画、読んだ本、経験、それらをしっかりと記録していきたい。それで少しでも思い出せるのなら、それでいいではないかと思う。最後まで自分で自分の人生を振り返られるようにしていきたいと思うのである・・・

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【今週の読書】
 





2020年7月16日木曜日

健康が第一

毎年会社で健康診断を受けているが、ここ数年毎年何かが引っ掛かっている。場合によっては再検査を受けることになるが、一昨年は3度目の大腸検査を受けた。昨年の指摘項目は「経過観察」で今年もその項目は継続。さらに今年は胃の指摘を受け、とうとう胃カメラを飲む羽目になった。幸いまったく異常はなかったが、ひょっとしたらマクドナルドのポテトではないが、患者単価を引き上げるためにわざと再検査にしているのではないかと疑いたくもなるくらいである。

人生初体験の胃カメラであるが、最初に「麻酔」と称して液体を口に含まされる。3分間口に含んでいてくれということ。終われば飲み干したが、これで麻酔になるというのもなかなか凄いと思う。医学の進歩にはいろいろな人の努力があるのだと思うが、麻酔一つにしてもそう思う。おかげでカメラを飲み込まされてもスムーズに入っていく。もちろん、要所要所で吐きそうになり、よだれでダラダラになる。担当してくれたのは美人女医さんだったからみっともない真似は曝したくなかったが、人間の体の防衛反応ゆえに仕方がない。このあたりはもう少しの医学の進歩に期待したいところである。

己のきれいな胃壁を見せられ、何の異常もないとの説明を受ける。何もなければ幸いで、たとえもしも病院の陰謀で検査費用稼ぎであえて検査されたとしても、怒りは湧いてこない。自分の体だからだろう。そう思ったら、先日突然の腹痛にのたうち回ることになってしまった。じわじわとした腹痛が続き、あぶら汗が流れる。挙句の果てに吐き気を催し、とうとうトイレで吐いてしまった。20代の頃は酒を飲み過ぎて吐くということもあったが、近年はそんな醜態をさらすこともなく、吐くなどということはもちろんなかったので、自分自身驚いてしまった。これはきっと何か悪性の病気に違いないと愕然となったものである。

今夜は何の映画を観ようかとか、何を食べようかとか、夏休みはどこかに出掛けられるだろうかとか、仕事の悩みとか、そういう普段の諸々は、激痛に耐えている間はどうでもよくなる。当たり前のことであるが、そんなこと言っている余裕など欠片もなくなる。腹痛の最後には血便が出た。それも「付いている」という程度のものではなく、固形物が出尽くしたあとに真っ赤な血である。色鮮やかなワインレッドに染まる便器内の水を見て、いよいよこれはマズいと思ったのである。

さっそく病院へ行ったところ、診察にあたった先生は大したことないという表情で、「虚血性腸炎」だと教えてくれた。入院してもいいが、食事療法くらいで何もすることがないということ。まるで風邪か何かのように大したことのないと言わんばかり。まぁ、軽く扱われるということはそれだけ安心だということに他ならない。それはそれでいいのであるが、ピーク時の激痛は何だったのだろうかと思ってしまう。そして喉元過ぎてしまえば我が身の一大事の思いも雲散霧消である。

痛みに苦しむ間は、何とか痛みが治まらないだろうかとそれだけ考えていた。そうして痛みが引いたあとは、医者に行くまでの間、これは一体何が原因で病名は何だろうかと、そればかりが頭を占領する。風邪のように気合で治るだろうかと試してみたところ、それが効いたのかどうかはわからないが、一晩寝たら何となく落ち着いた。とりあえず落ち着きはしたが、診察結果が出るまでは、他のことに考えを及ぼすゆとりはなかった。

 考えてみれば、日頃あれこれと思い煩い、あるいはエンジョイできるのも土台となる体がしっかりしているからに他ならない。よく「健康が一番」と言われるが、まさに自分がそういう状態になると実感できる。「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのもその通りで、健康であるからこそゆとりをもって考えられる。大哲学者だって、病気で苦しんでいる最中に人生の真理について思考を巡らすことはできないであろう。もちろん、死んでしまえば一切がその瞬間に無に帰すことになる。

逆に言えば、健康であればこそ悩むこともできる。そう考えれば、健康はやっぱり大事であり、あれこれと思い煩うことでさえも、健康であるから悩むことができるというもの。そう考えれば、悩むことすら尊く感じられる。もともと人間は当たり前であればあるほど、そのありがたみを忘れてしまう。水にしろ空気にしろ健康にしろである。若いうちはそれでも気にしなかったが、年齢を経てくるとその思いも強くなる。週末にはいつも深夜に映画を観ながらバーボンとそのお伴にお菓子を食べていたが、先週末は控えることにした。

 毎年の健康診断でもコレステロールも基準値を超えたり超えなかったり、経過観察項目があったりと、赤点を回避するのがやっとの感じ。学生時代は成績表をもらう時はいつも余裕であったが、今はかなりドキドキしてしまう。今回の件は、幸い大したことはないし、これで慢心することなく己の体をいたわろうという気になった。なくなってから気付くのではなく、そろそろしっかり意識をもって生活していこうと思うのである・・・


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【本日の読書】
 




2020年7月12日日曜日

論語雑感 里仁第四(その25)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子曰。德不孤。必有鄰。
〔 読み下し 〕
いわく、とくならず、かならとなりり。
【訳】
先師がいわれた。――
「徳というものは孤立するものではない。必ず隣ができるものだ」
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父は、中学を卒業すると友人とともに上京し、住み込みで働き始めたという。今では考えられないが、当時はそれが珍しくなかったという。根が真面目である父は、仕事ぶりも真面目であったようである。もともと田舎者でもあり、遊びなど知らなかったというのもあるだろう。そんな父に対し、社長の奥さんがよくコッソリこずかいをくれたという。おそらく、ちょっと手を抜いて楽をしようなどという知恵もなかったのだと思うが、みんなと同じ給料では不公平だと思ってくれたのかもしれない。

私は、学生時代からラグビーをやっていたが、就職してからも銀行のチームに入って、週末はボールを追いかけていた。ある時、ある試合の後だったと思うが、某先輩がキャプテンと話をしているのが聞こえた。私はその試合は(その試合に限らずであるが)控えであったが、毎週練習には欠かさず出ていた。一方、その試合でレギュラーとして試合に出ていたのは強豪大学出身の先輩。練習にはあまり顔を見せなかったが、試合では誰にも文句を言わせない活躍をしていた。それが「おかしい」というのが某先輩の主張だった。

真面目に毎週練習に来ている者が試合に出られなくて、試合の時だけ来て試合に出るのは如何なものかというのが某先輩の意見。至極ごもっともである。言われたキャプテンも困っていたのを覚えている。確かに、それはそうなのであるが、ただ如何せん実力は実力。私も好きで練習に出ているわけで、実力差がある以上試合に出れないのは仕方ないと思っていた。逆に代わりに出ても居心地が悪かっただろう。それでも某先輩は、真面目に毎週練習に来ているのに試合に出られない私を不憫に思ってくれたのだと思う。

欧米の合理主義から行けば、給料は実績に反映するもので、「真面目に働いたか否か」は関係ない。極端な話、サボっていても成果を挙げれば問題ない。試合に出られる基準も「実力」であり、「毎週練習に出ているか否か」ではない。ところが、我々日本人的な感覚からいくとそうではない。「一生懸命やっている」という事実に対し、とても高い評価が与えられる。それとチームワーク。自分の仕事が終わったからと言って同僚が忙しくしているにも関わらず帰ったりすると、「アイツはなんだ」と言われてしまう。

日本人の場合、「頑張っている」人は周りから評価される。「実績主義」の欧米とは異なり、実績を上げていても頑張っていない人はかえって反感を買う。この場合、「頑張っている」とは、「真面目にやっている」と同義である。今回の論語の言葉は、「徳のある者は孤立することがなく、理解し助力する人が必ず現れる」という意味でよく使われる。「徳のある」とは、何より「正しい心」であり、「真面目に(働く)」ということも含まれると思う。

欧米では、自己主張が強いと言われる。成果も進んで強調されるが、我が国の文化はあくまで謙虚に控えているのが美徳とされる。真面目に働いていれば、「お天道様が見ている」ものであり、「これだけの実績を上げました!」と自己主張するのは煙たがられる(もっとも最近では、成果主義の広まりによってそうでもなくなってきたかもしれない)。最近では、シニアのラグビーチームに参加しているが、練習後の片付けとか黙ってやっていると、手伝ってくれる人が必ず出てくる。

私もやはり日本人の血が濃く流れているのか、実績主義よりも真面目主義の方が心地よく感じる。成果も大事だが、居心地も大事である。同じ職場なりチームなりの場合、一人黙々と働いている人がいれば、手伝おうという気持ちが湧いてくる。それが「隣あり」なのだろうが、手伝ったもらった方も、また手伝った方も心地よい気分になるだろう。そのほかにもいろいろと例はあるだろうが、「働く」ことに限ってみるとそんな風に感じる。と言っても、役員ともなれば真面目だけではダメで、当然実績が求められる。ただ、そういう感情を理解できれば、働き方も工夫できるだろう。

 会社も実績が上がらなければ存続も難しい。徳も大事だか、実績も大事。そして実績があればみんなもハッピーになれる。修正して言うなれば、「徳と実績は弧ならず」とでもなるだろうか。中小企業ゆえ、存続していくのは大変であるが、「徳も実績も意識する」。真面目な父の遺伝子を受け継いだ自分としては、そんな働き方を意識したいと思うのである・・・


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【今週の読書】
  




2020年7月9日木曜日

神は存在するのか

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハネによる福音書11
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「神様はいるのだろうか」という疑問は、子供の頃考えたことがある問題で、おそらくそういう疑問をちょっとでも持ったことがない人はいないだろうと思う。「いる」と信じている人には申し訳ない話であるが、これだけ科学技術の進んだ現代で、純粋に「いる」と信じることはかなり難しいと思う。まぁ、ビッグバンによって宇宙が誕生し、何らかのエルネギーの働きで太陽系が出来て、地球が出来て、生物が繁栄してきたのは事実であり、その何らかのエネルギーを神とするならわかるが、いわゆるキリスト教やイスラム教などの宗教が描くような神は存在しないであろう。

もともと信仰心の薄い日本人ならともかく、イギリスのホーキング博士なども無神論者だったというが、あれだけ宇宙の仕組みを研究していたら必然的に信じられなくなるのだろうと思う。合理的に考えていけば神は存在しないという考えにたどり着くだろう。今やハーバード大学の学生にも無神論者は増えているという。しかし、一方で、もしも「神を信じているか?」と聞かれたならば、私は「信じている」と答える。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、「存在」と「信じる」ことは別だと考えている。神は「存在するかしないか」ではなく、「信じるか信じないか」が大事だと思うのである。

もともと宗教が何で生まれてきたかというと、それはたぶん「救済」だと思う。もちろん、「雨はどうして降るのだろうか」とか、「雷は何で鳴るのか」とか、今は小学生でも知っていることを昔はわからなかっただろうから、手っ取り早く神様のなせる業としたのかもしれない。ただ、宗教として確立し、拡大していった原動力は「救済」だと思う。「苦しい状況から救われたい」という願いや「死んだらどうなるのか」という不安や、世の中の理不尽さに対して心の平安を保つのには神は優しい。この世は理不尽であっても、死んだあとは良いことをすれば天国へ、悪いことをすれば地獄へと、あの世は公平である。

「信じるものは救われる」とはまさにこの通り。人は誰でも絶望的な思いに襲われた時、神様に助けてもらいたいと思いたくなる。かくいう私も、かつて夜も眠れぬほど非常に困難な状況に陥った時があった。あまりにも辛くて毎朝神社にお参りに行くことにした。神様に救いを求めてもどうにもならないことはわかっていたが、それでもお参りをし、朝の静寂な神社という厳粛な空間の中で首を垂れることで一時の心の平安を得ることはできた。それこそが、神様のもたらす恩恵に他ならないと思う。実際に「いるかいないか」は関係ないのである。

窮地に陥ったとしても、やれることがあるうちはまだいい。それをやればいいからである。しかし、やり尽くしてしまってあとはただ結果を待つのみ、あるいは成り行きを見守るのみという時は辛い。その過ぎゆく時は心を締め付けられるような感覚になる。もうできることは「祈る」しかないとなった時、神を否定し頑なに耐えられる人はいいが、祈ることで多少なりとも心の平安につながるのであれば、それはそれで悪くない。自分がそういう状況になってはじめて感じたことで、夜も眠れぬくらいの不安に襲われるときに救いがあるのは大きい。

もっとも、だからと言って、神にすがるのは違うと考えている。そもそも存在しないのだから、すがってみても効果は期待できない。それに自力でできることは自力でやるべきで、神頼みをするものではない。神頼みをする時点で自力での達成を放棄しているわけで、それで成就するはずもない。宮本武蔵ではないが、「神仏は尊ぶが神仏に頼まず」の精神が大事だと思う。また、普段見向きもしないのに、困った時だけ神頼みというのもよろしくない。機会があれば、首を垂れる必要もあるだろう。それゆえに、私も元旦には地元の神社に詣でているのである。

「信じる」と言いながら、初詣だけかと言われそうであるが、その程度でいいと思っている。それほど熱心な信者でないし、そもそも我が国の神道はうるさい教義がない。その代わり神頼みもせいぜい家族の健康くらいであるし、緩やかに信じているのである。それよりも、信者といいながら教えを守らなかったり、曲解したりするのはいかがなものかと思わされる。その傾向は、とくにキリスト教とイスラム教に見られる。「汝殺す事なかれ」と教えられているのに「異教徒は人に非ず」として血にまみれた歴史を重ねてきている。

仏教も、ゴータマシッダールタに遡れば、個人の解脱を目的としたもので、大衆の救済は目指していない。それが途中から大衆を救済するとして大乗仏教が勝手に出てきて、日本にも伝わっている。日本では宗派によって教義も違うし、広まるにつれ人手にまみれてそもそもの姿とは異なるものになっている。そんな歴史を見れば、いくら「信じるもの」と言っても信心は起こらない。自分の葬儀にはお坊さんもいらないし、戒名もいらないし、お経も不要だし、法要も不要だと遺言するつもりである。仏様をないがしろにするつもりはないが、信者になるつもりもない。

たまに近所の神社の前を通ると、境内に向かって一礼をして通り過ぎる人を見かける。私自身、そこまで信心深くはないが、それでもそういう信心を持っている人がいることに安堵する。地元にある北野神社は小さな神社であるが、それでも境内に足を踏み入れれば、厳かな雰囲気がある。合理的な精神で「いない」と考えていても、それでもひょっとしたら本当に神様はいるのかもしれないという気分になる。古の人たちはもっと強く感じていたことだろう。そんなこともあって、信じるのは数多くいる神様の中でもやはり神道の神様しかないと思う。

 そういうわけで、もし「あなたは神様を信じますか?」と問われたのであれば、私は「(神道の神様を)信じる」と答えたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 




2020年7月6日月曜日

賄賂はなぜ悪いのか

前法務大臣の河井克行容疑者と妻で参議院議員の河井案里容疑者が、2019年の参議院選挙をめぐり公職選挙法違反の買収の疑いで東京地検特捜部などに逮捕された。克行容疑者は、案里容疑者への票の取りまとめなどの依頼の報酬として、91人に対し116回に渡り合わせて約2,400万円を配ったほか、夫婦2人で共謀し、5人に票の取りまとめなどを依頼。合わせて170万円を配った疑いだという。

議員の汚職など珍しくもないという感覚があるが、我が地元選出の菅原一秀議員も公職選挙法で禁じられた香典を配ったとして経産相を辞任している(不起訴処分)。公職選挙法違反ということであれば、それは確かに許されざることであるが、なぜ公職選挙法で禁じられているのかと考えてみるとよくわからない。時として、ふとこんなことを考えてしまうのである。そもそも論として、なぜ現金を配ってはいけないのだろうか。

選挙に出るとなれば、それは知り合いに片っ端から声をかけて「よろしく頼む」ぐらいは言うだろう。票の取りまとめだってするだろう。それ自体はおかしくないし悪くもない。問題はその時、「謝礼」としてお金を渡すことだろう。お金だけではなく、「飲食」の提供も禁止されている。「お金でなければいいだろう」と言う抜け穴をふさぐ意味であると思われるが、なぜこれらの「謝礼」がいけないのであろうか。

普通に考えると、禁止される理由としては「選挙の公正さが損なわれる」という考え方があると思う。金持ちが有利になり、金のない者が不利益になるということだろう。ではそれがなぜ悪いのであろうか。たとえば私がもし、選挙前に「よろしく頼む」とお金をもらったら、選挙の時にその人物に投票するかどうかとなれば、あくまでもその人次第である。お金をもらってももらわなくても、投票すると決めた人には投票するし、しないと決めた人にはしない。

お金をもらっても投票するかどうかは有権者一人一人の問題であり、早い話がお金をもらって投票しなくてもバレはしない。ただ、居心地の悪さは残るだろうが、それを気にしなければいいだけである。個人的にはお金を配りに来てくれれば大歓迎である。もっとも今回の都知事選のように投票したい人がいないような場合には、「考慮」するとは思う。河井夫妻がお金を配った相手は91人とのことであるが、この人たちの票の取りまとめ能力がどのくらいあったのかは興味深いところである。

選挙がお金のバラマキ合戦となれば、そのお金をどうするかが問題になる。持っている人はいいが、持っていない人は困る。持っている人も無尽蔵ではないだろうから選挙のたびにバラマキもできない。となれば、在職中に地位を利用した資金稼ぎに出ることは考えられる。議員になればいろいろと利益誘導もできるであろう。右から左から便宜を図ってほしい人たちが札束片手に日参するかも知れない。議員の口利き1つで、学校が設立されたり、裏口から入学できたり、公共工事が取れたりするのかもしれない。

それらが単に「不公平」程度であればいいが、議員にお金を渡して工事を獲得し、議員に渡したお金を回収するために手抜き工事で利益を浮かすようなことになれば一大事である。金持ちのバカ息子が学校に入るくらいであれば弊害も少ないと思うが、公共工事とか社会のインフラに関するようなものであると危ないケースもあるだろう。我々の社会は過去にそういう経験をして贈収賄を禁止しているわけである。

そう考えてみると、議員がお金を配ること自体は大したことはないのかもしれないが、そういう考え方が「良い」とされると、巡り巡って結局社会に悪影響を及ぼすということが考えられるかもしれない。入り口の小さな芽から摘み取るという意味では、飲食や香典などにも禁止の網を広げるというのは、やはり正しい判断なのかもしれない。当然、そんなことは百も承知でお金を配ったのであろうが、「バレないと思ったのか」は非常に興味のあるところである。

受け取った人の中には自治体の町長さんなどもいるそうで、もらう方の問題もある。私であれば遠慮なくいただくが、公職にある人なら当然いわれのない現金を受け取ることに対する警戒感、忌避感は持っていないといけない。それでも受け取るということはお金の魔力なのか義理なのかこれも非常に興味深い。いずれにせよ、やっぱりお金を配るという行為は禁止されて当然なのだろうなと何となく納得する。

 それにしても、今回の都知事選の投票率の低さ(55%)は嘆かわしいものがある。10万円の給付金はありがたいが、いっそのこと「選挙に行ったら1万円!」というのもいいんじゃないかと思ってみたりする。候補者が配れば問題だが、東京都で公平に配れば問題ないだろう。そうしたらさすがに選挙に無関心な我が家の女連中も目の色を変えて朝から選挙会場に行くだろうと思う。そんな妄想を実現させるのも、選挙にもっと関心を持ってもらい、自分たちの社会を積極的に変えていくためにはいいんじゃないかと思うのである・・・


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2020年7月2日木曜日

税金は悪か

先日の事、取引先に対する支払いについて、「指定先(別会社)に振り込んで欲しい」という依頼があった。こちらとしては別に金額が増えるわけでもないため了承したのだが、聞くところによると税金対策らしい。今期は儲かっているとのことで、何やら税理士に怒られたそうである。その手の話はよく聞くことで、似たセリフとしては、「経費で落ちるから」という話もある。これはもちろん、「経費として会社で認められている」という意味もあると思うが、社長さんが言う場合は「税金を払うよりいい」という意味の場合もある。

また、「税理士に怒られる」というのもおかしな話で、まあそれはものの言い方だとしても、税理士の主要な役割は「いかに税金を払わないで済ませられるか」だと言える。本来は、「市民が正しく税金を納められるようにサポートする」ことだと思うが、クライアントあっての商売だからそんなことを言っていたらクライアントが逃げてしまうだろう。「いかに税金を抑えてくれるか」というニーズに応えられないとクライアントを維持できないだろう。

できることなら税金を払いたくないというのは、誰しも共通して思うことだろうと思う。かくいう私も、毎年源泉徴収票を見ると、支払っている税金の額に愕然とする。所得税だけではない。都民税、固定資産税もあるし、自動車税もある。年金はいずれ自分に返ってくると思えばまだしも、税金はそうではない。その合計額を見るにつけ、「これだけあったら何が買えるだろう」と考えるとタメ息が出てくる。ふるさと納税や医療費控除など利用できるものは利用しているが、それでも微々たるものである。

もちろん、税金は社会のためであることは重々承知している。身の回りのインフラもそうだし、治安維持や様々な保証など恩恵を受けているのは間違いない。税金なくして平和に暮らすことなどできないわけで、何ら異論はない。このコロナ禍では先日10万円の給付金をもらった。それはそれでいかがなものかと思わなくもないが、それでももらえれば嬉しいし、それも税金制度がしっかりしっているからであり、そのためにも税金はきっちり納めなければいけない。

それは誰もがわかってはいると思うが、それが「総論賛成各論反対」の最たるもので、他人にはしっかり納めてもらいたいが、自分が払う分はなるべく減らしたいと考えるのが人情。サラリーマンはともかく、商売をしている人は、「いかに税金を払わないで済ませるか」が最重要課題という人も多いだろうと思う。そういう人たちがみんな積極的に納税していたら日本の税収も2倍くらいになるのではないかと思ってしまう。消費税の増税ももしかしたら不要だったかもしれない。

「だからみんなもっと公共心を持って税金をより多く払うようにしよう!」というのが解決策かと言えば、本当にそうだろうかと思う。人間、お金を潤沢に持っていれば問題はないかと思えば、そうとは言い切れない気がする。自分の財布の紐はしっかり締めても人の財布の紐は緩めるのが人の常。税収が増えたら増えたで、もっと無駄遣いが増える気もする。それはともかくとして、税金を払いたがらないのは、「もっともっと」という人の気持ちの現れだと思う。

たとえば年収400万円の人が、「もっと収入が増えたら税金を払ってもいい」と思っていたとする。だが、その後500万円になってもやっぱり税金を払うのを惜しむだろう。500万円の人には500万円の都合がある。それが1,000万円になっても2,000万円になってもやはり同じだろう。かくいう自分も、ふるさと納税がお得だと知ればやるし(最も決断を下したのは腰の重い妻だが)、医療費控除の申告もきっちり計算してやっている。制度として認められた軽減策が利用できるなら必ず利用する。

考えてみれば、今は色々なボランティアがあり、また募金もある。クラウドファンディングなどお金を集める仕組みもいろいろである。だが、街頭で納税を呼び掛ける人はみたことがないし、税金なんかは間違いなく世のため人のために使われるものであるが、あえてたくさん納税しようとする人は少ない気がする(中にはそういう奇特な人もいるだろう)。集めなくても取るシステムが出来上がっているからでもあるが、みんなの意識も大きいように思う。

多大な借金が積み上がっている我が国の財政だが、最近はあんまり気にならなくなってきた。「子供達に借金を残す」という懸念もあるが、少子高齢化で、金持ちが使い切れないほどの財産を残したまま亡くなり、相続人がいないとなればそれは国庫へといく。そういう財産がこれから増えるようにも思う。お金持ちはみんな相続税軽減に血眼になっているが、それも相続人あっての話である。それで万事解決とはいかないと思うが、それでたくさん「残してくれる」人もいるかも知れない。

相続対策は昔から銀行員としてたくさん見てきたが、結果として借金をしすぎて失敗した人たちも見てきた。そういう経験からも、「納めるものは納めた方が結果的にはいい」という意識も持っている。幸い自分にはあまり縁はないが、せめて毎年の納税くらいは気持ちよく納めた方がいいと思う。どうせ払わなければならないのなら、気持ちよく払った方がいい。仕事でもそうであって、厳しい業績もあるが、変な節税策には手を出さない考え方でいる。

 結局、税金は儲けた以上にはかからないわけであり、社会貢献だと思って気持ちよく払うのがいいんじゃないかと思うようにしているのである・・・


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