2023年8月30日水曜日

議論に思う

 このところX(旧ツイッター)をチラホラ眺めている。見るだけでつぶやきはしないのだが、いろいろな考えが発信されていて興味深い。このところ福島の処理水の海洋放出を巡る意見に目が留まる。賛否両論を読んでいると(と言っても圧倒的に反対論が多い)、自分も考えてしまう。そもそも論として、「貯水の限界」があると思う。事故から12年半経っていて、その間ずっと冷却しているわけだから、その冷却水をずっと貯められるのも凄いと感じてしまう。しかし、それにも限界があるのは当然なわけで、海洋放水という出口に行きつくのも当然だと思う。海洋放水の議論はここから始まっていると理解している。

 反対論は、一言で言えば「危険な水を海洋に放水するな」ということになる。ここから、議論は「安全だ」、「安全でない」というものに終始している(ように思える)。一体、どちらなのか。「安全」なら海洋放水に何の問題もないのは当たり前で、そうでないなら海洋放水などするべきでない。そこが我々にはわからない。「トリチウム」という物質が焦点になっているようだが、これは安全基準の40分の1というレベルのようであり、それだけ聞けば問題はなさそうに思う。しかし、反対論の中には、トリチウム以外の物質についてチェックしていないという。

 それに対しては、トリチウム以外にもチェックしているという反論もあり、その範囲も考えると素人的にはついていけない。一つの指標として、外部の専門機関の意見はどうなのかと言えば、国際的な権威であるIAEAの査察を受けて「問題なし」とお墨付きを得たことを考えれば、やはり問題ないと思わざるを得ない。そもそももうこれ以上貯められないという問題をどう解決するのかが気になるところ。問題の出発点があるわけで、その解決策を提示しない反対論は意味がないと思う。個人的には「代替論のない反対論」は意見として認めたくないという思いがある。何らかの問題があって意見を出しているのであり、反対するならその問題をどう解決するかを提示しないといけない。

 では、この点はどうかというと、「敷地はある」というのがその代替論。どのくらいなのかまでは示されていないが、ではこれが代替論として相応しいかというと、「敷地がなくなるまで問題を先送りするのか」と考えてしまう。それはどうだろうと思う。敷地に余裕がなくなってから議論するよりも、早い段階で(と言っても12年半も経っているが)議論すべきであるのは言うまでもない。どちらが正しいのかという事に関しては、個人的にどちらの肩を持つつもりもなく、中立的に考えているが、そこにももしかしたらバイアスがあるのかもしれない。

 反対論の主張者の中には「何でも反対」の人がいる。政府のやることはとにかく間違っていて、間違ったことばかりであると思っているのだろう。共産党の人はその最たる人たちである。そういう「何でも反対」の人は、それだけで「またか」と思わされる。その点、「是々非々」で意見を言う人であれば、その都度「どんな意見なんだろう」と聞いてみたいと思わされる。それは逆に「何でも賛成」の人にも当てはまることで、やはり数は少ないが、政府のやることをいつも擁護する意見を主張している。

 「何でも反対」でも「何でも賛成」でも信頼性は薄い。「是々非々」の人に関しては、信頼性は高い。本当は是々非々の人の意見だけ聞ければいいのだが、そうもいかない。であれば、賛成反対それぞれの意見を聞いて、自分の中でバランスを取って考えるしかない。福島の処理水の海洋放出については、自分に直接何の利害関係もないので、比較的冷静・公平に考えられる。しかし、それでも何が正しいのか判断に迷うのは、結局のところ「安全か安全でないか」が我々にはよくわからないということに尽きる。そこで「安全」というのに100%を求めてはいけないが、もう少し分析結果を詳しく公開したらいいのではないかと思えてならない。

 こういう議論を読んでいると、自分が何かの立場を主張する時の参考になる。身近なところでは仕事での議論だが、常に是々非々で判断する態度と、事実に基づいて考えるスタンスは大事だとわかる。取締役会で、常にある役員の意見に否定的だったり、肯定的だったりではなく、是々非々で判断する。誰にでもわかりやすい事実を根拠として自分の考え方を説明する。そういう態度が、他の人の信頼を得る元になるように思う。感情論を振り回すのは論外だろう。

 たまにはXなどを除いて、そういう賛否論に触れて見るのも悪くはないと思うのである・・・

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【本日の読書】

  






2023年8月27日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その17)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子所雅言、詩、書。執禮、皆雅言也。

【読み下し】

いにしへにところは、しよゐやこゑみないにしへのことのはなり

【訳】

先師が毎日語られることは、詩・書・執礼の三つである。この三つだけは実際毎日語られる。

『論語』全文・現代語訳

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 古典というのは、時間の経過によって言葉の意味も変わるので、本当にその真意が正しく伝わっているのか疑問に思うところがなきにしもあらず。今回の言葉も、「毎日語られる」という部分を「正しい発音で読まれた」と訳すものもある。どちらが正しいのか私にはわからないが、意味がだいぶ異なるので、孔子の真意を知りたいところである。


 古典がいいという人は多く、それを否定するつもりはないが、個人的にはあまり食指は動かない。なぜなら、歴史に残るような古典は大勢の人が読み、そして引用する。また、そのエッセンスを違う言葉で伝えたりする。そうした真理はいつの間にか様々な形で受け継がれる。ある考え方に関心したとして、著者に尊敬の念を抱いたが、実はそれはとっくに古典に出てきていたりするというのは少なくない。逆にさまざまな人の手を経て磨き上げられ、古典の原点の方が色褪せてしまったりもする。「古典だからいい」というわけでもない。


 もちろん、時代を経ても変わらない真理はある。現代でも十分通用する真理も多いから、「古典なんか」とは思わない。要は古典であろうがなかろうが、いいというものであれば分け隔てなく読んでみるというスタンスがいいと思う。論語を読んでいろいろと考えるが、中には現代に通じる真理だと思うものも多い。時代を経ても大事なことは変わらないという証でもあるが、論語を読んで「発見」するよりも「確認」することが多いのも事実である。それだけ世の中、自分の中にすでに浸透しているのである。


 それにしても思うのは、「言葉の変化」だろうか。論語の原文を読んでもそもそも中国語がわからないので、現代の中国語(正確には北京語なのだろうか)としても違和感がないのかはわからない。しかし、日本の古典は明らかに現代の日本語とは異なって読みにくい。例えば、「今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」(竹取物語)という具合であるが、なんとなく意味が理解できるのは同じ日本語だからだろう。これが漢文になると難易度が増すのは、そもそも日本語ではないからだろうと思う。


 娘が高校を卒業した時、使わなくなった高校の教科書を一部もらい受けた。国語(現代文、古文、漢文)、数学(IIIAB)、物理である。自分の興味の対象が見事に表れている。国語は現代文と古典についてはよく教科書を開いているが、漢文は躊躇している。というのも、やはり読みにくいというのがいちばんの理由である。古典も漢文もなぜ学校の授業で採り上げられるのだろうと考えてみるが、逆に授業でやらないと一生触れる機会もない。授業でやったから、「よくはわからないがなんとなくわかる」というレベルにあるのだろう。「教養」(それも本当に初歩的なレベルだ)としての意味は間違いなくある。


 今回の言葉であるが、本来の正しい訳がどちらなのかはわからないが、個人的には「語る」の方がしっくりくる。「正しい発音で読む」ことが、当時は正しいことだったのかもしれないが、現代ではあまり意味はない。外国人のような外国語訛りの発音ならダメで、綺麗な発音ならいいというのもおかしい。真理は発音には関係ないと思うからである。それこそ毎日語るような、口癖となっていることこそ、その人の考えに深く浸透している真理だと思う。そのあたりは自分なりに解釈して理解した方がいいように思う(例え孔子の本来の意図ではなかったとしても・・・)。


 温故知新を求めて論語は全文を少しずつ読むことに決めている。現代でも十分納得できるものもあれば、よくわからないものもある。時代も文化も違うので、すべてが納得というものではないだろうが、中には思わず膝を打つものもあるだろう。そう考えて、これはこれで最後まで続けたいと思うのである・・・


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【今週の読書】

 





2023年8月23日水曜日

芸は身を助く

 就職の時、会社選びで意識していたのは、「この会社に入れば安泰だ」という考えは持たないということであった。「どんなに一流企業でも将来はわからない」ということは当たり前であるが、当時は(今もだが)就職人気ランキングの上位企業がもてはやされていたが、そんなもので企業を選びたいとは思わなかった。それは当時、凋落が取りざたされていた企業が、かつては日本を代表する企業であったことを考えれば、学生でもわかることであった。そうして銀行に入ったが、入った時から「銀行が倒産しても他で生きていかれるようにしよう」と意識していた。「銀行が倒産する」ことなど当時は考えるのも愚かであったが、結局、当時入った銀行の名前はもうないことからもそれは間違った考えではなかった。


 そして意識していたのは、常に外に出る覚悟であった。いつ何時銀行を辞めてもいいようにと考え、当時の私は財務知識をしっかり身につけておこうと考えた。それも実際の実務を踏まえたものである。銀行員はいろいろな会社の決算書を扱うが、その決算書がどんな過程を経て作成されているかはほとんどわからない。数字の根拠がわかっているのといないのとでは企業分析も精度が違ってくる。粉飾決算だって見破るにはそういう理解がないとダメである(それでも見破るのは難しいのだが・・・)。


 そういう意識で身につけた財務知識は、その後大いに役に立ち、今でも自分の助けになっている。経理の仕分け実務などまったくやったことはないが、それでも現在部下の相談に乗り、指示を出せるのはその成果である(それは銀行員なら誰でもできることではないし、むしろできない人の方が多いと思う)。「芸は身を助く」というが、これは仕事でもラグビーでも真理である。さらに、企業再生の観点からいろいろな業績不振企業の相談に乗り、対応を考えていたのは、「いずれ役に立つかもしれない」という思いもあってだったが、それが現在中小企業の役員になって役立っている。


 そんな私だからか、会社の仲間にもそういう意識を持ってもらった方がいいと考えている。経理ならどこの会社にもある。女性であれば結婚して配偶者の転勤などで転職しないといけなくなるかもしれない。その時、「どんな会社にもある」経理ができれば、転職先のレパートリーは広がる。だから我が社の事務だけを覚えて満足するのではなく、資格であれば簿記2級くらいまでを取得するように勧めている。「雇われる力」を磨いておけば、いざという時に「身を助ける」かもしれないからである。


 「雇われる力」があれば、どこででも職を得ることができる。それは別に大企業に限るわけではない。むしろ、転職するのであれば企業規模は問わないくらいの意気込みがあっていいと思う。大企業で稼ぐ年収600万円と中小企業で稼ぐ600万円に違いはない(まぁ、退職金とか福利厚生とかを考えると必ずしも同じとは言い切れないだろうけど)。それならむしろ中小企業で700万円、800万円稼いだ方がいいと考えるべきなのではないかと思う。要は会社に頼らず、自立して雇われる事を意識するべきであると思う。


 世の母親たちは、我が子を一生懸命塾に通わせ、勉強させていい高校、いい大学と目指させる。その最終ゴールは「いい会社」であるが、名の通った大企業に就職すれば、親としては「目標達成」だろう。だが、当人にとってはそこがスタートである。長い社会人人生何があるかわからない。「入って安心」というわけにはいかない。無事、定年まで勤め上げれば御の字であるが、途中で船が沈没するかもしれない。その時、助けを待ってただ浮き輪につかまっているのではなく、自ら力強く泳いでいける力があった方がいいだろう。自分はそんな考え方でやってきた。


 そういうわけで、同じ部の若手には、「(簿記などの)資格を取れ」と常日頃言っている。どこで役に立つかわからないからと。幸い、我が社の総務部は人事も経理も総務も兼務する「総合総務部」と言える総務部である。「経理だから経理だけ」ではなく、人事の仕事でもやろうと思えばやれる。覚えておけば、どこかの中小企業の人事部で働けるかもしれない。目の前の仕事を一生懸命やるのは大切であるが、その目の前の仕事がどこか見知らぬ未来に繋がっているかもしれない。だから、ただ「やらされている」のではもったいない。会社のためではなく、「自分のため」にやりたいものである。


 新卒で大企業を目指すのは悪くない。むしろ、大企業の方が基本的なマナーや仕事の進め方や組織など、社会人としての基礎固めにはいいと思うし、何より「箔」がつく。転職して無名の中小企業に行ったとしても、「元〇〇出身」という「箔」があれば軽く見られないというメリットがある。会社は無名でも個人は大企業に採用されるほどだったという「箔」の効果は大きい。しかし、そこに一生しがみつくのではなく、何があっても困らないよう「牙」を研ぎ続ける努力は惜しむべきではない。


 大企業に入って「太った豚」で満足するよりも、「雇われる力」を磨き常に「やせた狼」であり続けたいと今も思うのである・・・


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【本日の読書】

  





2023年8月20日日曜日

夏休み

 今週は世間的にはお盆で、夏休みの最盛期だったと思う。私はと言えば、8月の第一週にすでに夏休みを取得し、今週は仕事であった。毎年、この時期には夏休みをずらして取っている。それはそもそも私が天邪鬼であるというのが大きいが、みんなが夏休みとあって、通勤電車は空いているし、日頃仕事の邪魔になるセールスの電話はほとんどかかってこないしと、働く上ではいい事づくしのこの時期に働かないでどうするという気持ちからである。今週改めてそれをつくづく実感したところである。


 ところで、今の会社では、あまりみんなが休まないのがちょっと気になっている。夏休みなのに休暇は23日で、土日と絡めてもせいぜい5日程度の連休で終わらせてしまっている。制度的にはもっと取っても構わないし、私などは立場上積極的に1週間以上の連休を奨励している。5日間の休暇なら、月曜から金曜まで取得すれば土日と絡めて9連休になる。そういう休暇の取り方をすればいいのにと思うが、そういう取り方は少数派である。


 試しに何人かに聞いてみたところ、「好きな時に取りたい(9連休にはこだわらない)」という意見が多かった。まぁ、本人の希望通り取るのが一番なので、それがいいならそれが一番である。だが、中には「お客さんに迷惑がかかる(あるいはお客さんの要望)」というのもあったし、何となく「目に見えない空気」というのもあった。これはこれで改善するのが私の役目でもあるだろう。「空気」については、こまめにそういう声を拾うとともに、「会社としての9連休推奨」を声高に強調するしかない。「会社から言われている」というのが長期休暇取得の大きな後押しになるのは間違いない。


 「お客様の声」というのは、個人的には「交渉次第」という気がする。お客さんだって夏休みは取るわけである。そのあたりは「お互い様」な訳で、しっかりと上司も交えて話をすれば十分認められると思う。長年の習慣で、「そういうもの」という思い込みが強く、「休めない」と思い込んでしまっているだけのような気がする。まぁ、まだ私も今の会社は2年目であり、詳細に実情を掴んでいる訳ではないから、少しずつ時間をかけて「休む会社」にしていこうと思う。


 そんな風に私が思うのも、もともと「メリハリ」を大事にする考えだったし、欧米では1ヶ月くらい平気で休みを取ると聞いて羨ましいと思ったこともあり、基本的にはせめて1週間プラスαくらいはしっかり取りたいと思うからである。この時期、いつも思い出すのは、銀行に入って2年目の夏休みの事である。当時も交代で夏休みを取っていたが、それぞれ5日間の休暇を取ることになっていた。しかし、当時の上司は仕事が趣味と公言する人で、私が指定された夏休みは、「水曜から翌火曜日までの7日間」であった。「なんで?」というのが、最初の感想であった。


 当時も土日は休み。月曜から取れば9連休である。なのになぜわざわざ週の真ん中から取るのか。私だけではなく、同じ課の者全員がそうであった。すべて上司が「お前はここ」と有無を言わさず指定する形であった。そして自分は忙しいと言い、「俺がいないと仕事が回らない」と言い、休みにも関わらず、出てきて仕事をするような人であった。「休まないで働くのが美徳」という時代の考え方でもあったかもしれない。しかし、私は納得がいかない。指定されるのはまだいいとして、9連休は取りたい。こっそり先輩に訴えだが、みんな黙して語らずであった。


 先輩は頼りにならない。諦めたくはないし、支店長に直訴すべきほどものでもない。みんなから恐れられていた上司であったが、私は意を決して直接交渉した。「月曜日から取らせてくれ」と。最初は「引き継ぎの必要性」と言われ、ならば「夏ではなく他の時期に」と言うと、「1人違うことをするのか」と言わると「なぜ全員夏でないといけないのか」と反論し、最後は「わがままだと言うのはわかっているが、どうしても月曜日から取りたい」と主張した。上司も最後は根負けして渋々認めてくれた。あとで独身寮に帰り、先輩に伝えたら驚かれた。みんな我慢して諦めていた時代である。


 自分がそういう苦労をしたから、今の会社ではみんなに長く休んでもらいたいと思っている。もちろん、自分も連休を取る。今年は自分の都合で火曜日から月曜日までの7連休だったが、遠慮したのではなくあくまでも自分のスケジュールだからいい。そういう意識だったから、「(7〜9)連休でなくても良い」という意見には拍子抜けしてしまう。「特に予定もないから」と言う一部の若手には言ったのだが、「予定なら作ってこの時期にしかできない経験を積んだら」と思う。


 私も20代の独身の頃は、好きな海外旅行に行ったものである。海外勤務の先輩を訪ねて宿泊費を浮かし、香港、シンガポール、フィリピン等へ行ったのはいい経験であった。海外旅行でなくてもいいから、普段できないことをするというのも、特に独身者にとっては独身の特権として良いことである。特に必要ないという若手にも、そういう話をもっとしていきたいと思う。仕事ばかりで終わっていては、つまらない人間になりはしないか。そういう考えで、社内ではこれからも長期休暇の伝道師となりたいと思うのである・・・

 

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【今週の読書】





2023年8月16日水曜日

コップに半分の水

 先日、『127時間』という映画を観た。アメリカの峡谷で、岩に腕を挟まれて動けなくなった青年が、タイトル通り127時間かけて脱出する映画である。実話だそうであるが、その脱出劇はなかなかである。印象に残ったシーンの一つは、青年がなんとか岩場を脱出し、意識もうろうとしながら助けを求めて歩くうちに、とある水たまりを見つけるところである。何日も溜まっていたような汚い水たまりであったが、青年は意を決してその水を飲む。普通であれば誰も飲みはしないが、ほぼ5日間、水筒の水と最後は自分の尿まで飲んで渇きをしのいだ青年に迷いはなかったのだろう。


 究極的に渇けば、汚れた水でも飲むだろう。それが便器の水であってもだ。渇きだけでなく、食べ物でも飢えればゴミ箱に捨てられた食べ物でも食べるだろう。そしてそれは何にでも当てはまる。NETFLIXのドラマ『配達人』は、汚染された大気の地球で、「酸素」を配達するSFドラマである。映画『トータル・リコール』も酸素が有料となった未来社会を描いたSF映画であった。失って初めてその価値に気づくのはよくあることで、恵まれているとその価値に気づけなかったりするのは人の常であろう。人類がSDGsなどと言って環境に目覚めたのも、温暖化や環境汚染で自分たちの住む環境の大事さに気づいたからに他ならない。


 コップに半分の水が入っていて、それを指して「コップに水が半分“も”入っている」と考えるか、「コップに水が半分“しか”入っていない」と考えるかによって、物の見方、考え方は大きく異なるという話はいたるところで耳にする。これも似たようなもので、水の価値に気づいている人は「半分“も”」と考えるし、そうでない人は「半分“しか”」と考えるだろう。砂漠から命からがら逃れてきた人などは、あるいは近隣に汚れた水場しかなかったり、水場まで何キロもあったりすれば、きれいな水が「半分“も”」入ったコップはありがたいだろう。


 『シリアにて』という映画は、内戦下にあるシリアのあるマンションの一室に住む家族の話であった。外に出た住人が狙撃されて目の前で倒れているが助けにも行けない。水道は止まっているから、汲み置きした水を小分けして使う。「普通に」水を使った子供が母親に怒られるシーンが出てきたが、水の貴重さに気づいていない子供と気づいている母親との意識の違いである。物資に恵まれた日本にいると、あまりそうした飢餓感は感じられない。だから、そういう感覚は鈍りがちである。昨年春に地震があって、久しぶりに停電を体験したが、たまにはああいう経験も必要だと思ってみたりする。


 それは物資のみに限らず、勉強などもそうである。進学したくても家庭の事情等で進学できないとなれば、人は勉強したいという思いが強くなるだろう。何の苦労もなく進学するから授業をさぼったりできるのである。私は中卒の父親の話を聞いて育ったせいもあり、浪人中に予備校に行きながら適当に勉強している先輩などの姿を見て反発し、宅浪中は1日10時間のノルマを己に課して勉強した。そして大学へ入ってからは、授業はさぼって適当に単位だけを集めていた周囲にバカじゃないかと言われるほど講義に出席していた(その割に成績はイマイチだった)。私なりに恵まれた環境に甘えたくなかったのである。


 それは仕事にも当てはまる。いざ失業となると不安に駆られるものであり、毎月収入があるありがたさは収入を失わないとわからない。仕事に対して不満を言う前に、就活で苦労したり、失業したりした時のことを考えてみるといいと思う。もちろん、ブラックな会社は別であるが、不満を言う前にそれを改善する努力をしたり、考え方を変えたりすることができるのではないかと思う。自分が果たしてもらっている給料以上の働きをしているかは、一度己自身に問うてみる必要はあるだろう。少ないと不満に思う給料であっても、深刻な職探しよりはるかにマシだと思う。


 そうしたもののありがたみを意識する事は大事だが、それに捉われるのもよくないと思う。127時間かけて脱出した青年でなければ汚れた水など飲む事もないし、飲む必要もない。むしろ今はお金を払っても天然水などを飲む時代である。お値段の高いオーガニックな食品を求めたりもするし、だから成城石井のようなスーパーが利益を上げられるのであり、それはそれで悪くない。それらは人類の進歩であり、飽くなき満足感の追求こそが人類が発展してきた理由だろう。ありがたみを意識しつつ、「もっともっと」と求める探求心も必要だろうと思う。


 大事なのは、コップに「半分“も”」水が入っていると何時いかなる時もそのありがたみに感謝しつつ、「半分“しか”」入っていないとして残り半分を求めて努力する気持ちだろうと思う。私自身も今の恵まれた生活に感謝しつつ、まだまだ「半分“しか”」と考えて飽くなき改善努力を続けていきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

  




2023年8月13日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その16)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「加我數年、五十以學、亦可以毋大過矣。」

【読み下し】

いはく、われ數年すうねんくはへて、五十もつまなばば、おほいにもつ大過たいくわかるなり

【訳】

先師がいわれた。

「私がもう数年生き永らえて、五十になる頃まで易を学ぶことが出来たら、大きな過ちを犯さない人間になれるだろう。」

『論語』全文・現代語訳

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 子供が進学する、あるいは就職するとなると、口を出す親はかなり多いと思う。それどころか、子供が小さいうちに習い事をさせたり塾に通わせたりする親も多い。それらは基本的に親の考えであるが、親の考えとは「子供の幸せ」である。つまりそれが子供の幸せになると考えて口を出すのである。もちろん、それが悪いわけではない。親は親なりに子供の幸せにとって必要だと考えているわけである。学歴で苦労した親なら、子供をいい学校に行かせようとする。苦労していなくても、自分がそれで成功しているなら尚更である。


 もちろん、子供も素直に親の言うことに従う子供ばかりではない。時には「親の決めた路線」に反発する子供もいる。そうなると、親子間の対立が生じ、こじれると親子関係の断裂ということにもなり得る。本来、子供の幸せを考えているはずが、こうなると本末転倒である。しかし、子供の希望が「ミュージシャン」だったりすると親の心配もよくわかる。成功すればいいが、成功できるのなんてほんの一握りの世界である。夢を見て路上で歌を歌っていたりすれば、親としては気が気でないだろう。


 なぜ、そんな親子間の断絶が発生するのだろうかと言うと、それはすなわち「考え方の相違」であり、なぜそんな考え方の相違が生じるのかと言うと、それは「経験(あるいは知識)の差」であろう。親は当然、子供よりも長く生きている。その間にはいろいろな「経験」をしている。小さな子供が沸たったやかんに平気で触ろうとして、親が慌てて止めるということがある。なぜかと言えば、親には沸騰したやかんを触れば火傷するという「知識」があるが、小さな子供にはない。その差である。


 そうした親心が理解できれば、子供も少しは対応が変わるだろうが、得てして子供は親に反抗しがちだったりするから対立に繋がったりする。本来、知識や経験は言葉で伝えることができるのだが、親も「○○しなさい」的な押し付けになったりすると伝わらない。このあたりは双方の責任でもあるが、実にもったいない。そんな風に思うのも、自分も年齢を経て様々な経験を通して学んでいるからであり20代の頃にはそんな考えなど欠片もなかったのである。このあたりが難しい。


 説明しても相手が理解できないと、「お前はバカか」と毒付いていた(直接言葉にして出すかはまた年齢にもよったと思う)。しかし、今では「伝わらないのは伝え方が悪いせい」と考えるので、言い方を変えたり、事細かく丁寧に説明したりと工夫する。立場がある相手なら、へりくだるのはもちろん、「自分はこう考えるがどう思うか」というように自分の意見を押し付けるのではなく、相手に伺いを立てるような形にすることも多い。それも歳を経て身につけた知恵だと思う。


 今も会社でよく議論をする機会がある。同じ会社の取締役なのに、それに相応しい行動を取れない人がいる。その人がバカなのかと言えばそうではなく、ただ考え方の違いだけである。その考え方の違いだが、致命的なところがあり、なんとか考え方を変えてもらおうとしているが、なかなか難しい。人の考え方はそう簡単には変わらない。ただ、だからダメだというのではなく、どうしたらうまく伝えられるかと考え続けている。無理に押し付けても反発を招くだけである。


 そんな風に考えるのが、今は自然になっているが、たぶん20代の頃の自分が知ったら驚くかもしれない。争い事も、今はまず第一に避けることを考えるし、相手をバカなんじゃないかと思うこともずっと少ない。勝つことよりも負けないことの方が大事だと思うし、仕事でもラグビーでも自分よりも周りの人を生かすことを優先して考えている。いつの間にかそんな風に考えるようになっているのは、年齢を経て「知識と経験」を積んだ結果であると思う。


 人もただ歳を取るだけでは脳がない。それなりに「進化」する必要がある。もっとも、その「進化」の結果、保守的になって冒険的でなくなっている部分もあるかもしれない。それによって大きな失敗も少ないかもしれないが、大戦果も少ないかもしれない。若い頃は、失敗をしても取り戻す時間があるが、歳を取るとそうもいかない。考えてみれば、だから今の考え方でいいのかもしれないと思う。孔子のように易を学ぶのではなく、それが人生経験からの学びだとしたら、それはそれでいいのではないかと思うのである・・・

 

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【本日の読書】

 




2023年8月10日木曜日

スナック

 先週は夏休みであったが、ここ数年恒例となっている「温泉+墓参り+従兄弟との飲み」をまた今年も繰り返してきた。母親を連れての旅であり、「温泉+墓参り」は親孝行の意味が強い。個人的には1歳年上の従兄弟と飲むのが楽しみであった。母を交えて夕食を食べた後、従兄弟と2人で夜の街に繰り出す。長野県の佐久に住む従兄弟と行ったのは、とある田舎の駅近くにある従兄弟の行きつけのスナック。そこは昼は閑散とした寂しい田舎の駅前通りだが、夜ともなるとネオンが輝き出す。ずらりと並んだスナックの看板の灯る路地は、昔懐かしい昭和の香りが漂う。

 昨年、行ったスナックは残念ながら満席。昨年席についてくれた女の子(?)が、私の顔を覚えてくれていたのはちょっとした驚きであった。泣く泣く違う店へと行く。そこは私にとっては初めての店であるが、従兄弟は「顔」であった。あちこちに行きつけの店があるようで、一体、どれだけ通っているのかと思うほどである。席に着けば女の子(?)がボトルを出してきてくれて、つまみを置いてくれる。大概、つまみは乾き物なのであるが、奈良漬などの漬物も出してくれる。意外と美味しいのは、田舎だからだろうかと思ってみる。

 考えてみれば、若い頃はよくみんなでスナックに飲みに行ったものである。そこで飲んで歌っておしゃべりに興じる。女性陣も参加していたが、楽しいひと時であった。飲みに行くとなると、だいたいスナックだったと思う。そして考えてみれば、東京ではもう随分長いことスナックには行かなくなってしまった。年齢を経てくると、だんだん会社の仲間と飲みに行くのが億劫になってきたのと、大手町界隈にはスナックがなく(あったのかもしれないが目につかなかった)、行くのはもっぱら居酒屋であり、その後カラオケルームというパターンになっていった。

 そんなわけで、長野県の片田舎にある街のスナックは随分と懐かしい気がするのである。初めて行ったその店では、「女の子」と言っても孫がいそうなので年齢を聞くのも野暮というもので、ママなどは「この道50年」と豪語していた。最後に席についてくれたのは30代前半のようやく女の子と言える女性であった。従兄弟は酔いも手伝ってか、かつてファンであったというキャンディーズを熱唱。私も好きであったから、流れる映像もまた懐かしいものであった。「おじさんが好き」というその女の子は当然知らない。引退したのは生まれる前である。「おじさんが好きなら、覚えると人気が出るよ」と教えておいた。

 周りを見回せば、お客さんは白髪の「紳士」が多数を占めている。この道50年のママでもいいのだろう。1人で来ている人もいる。私もかつて行きつけの店を持って1人静かに飲みに行くのもいいかなと思ったが、今のところそんな行きつけの店ができそうな気はしない。家の近所でも探せばスナックぐらいはあると思うが、なんとなくいきなり1人で行くのには抵抗があるから、たぶんそんな店はできないような気もする。こうして夜な夜な飲み歩いている従兄弟がちょっと羨ましい気がした。

 楽しい時間はあっという間に終わり、お愛想となる。18,000円。焼酎ボトル1本と乾き物と漬物の飲み代にしては高いのもスナックならではだろう。そして従兄弟は代行で帰る。田舎は車社会。飲んだら帰りは代行が当たり前。そう言えば、若い頃はいつもタクシー帰りだった。終電の時間など気にもしなかった。結構散財できたのは、独身貴族だったことも大きい。今思い返してみても楽しかったと思う。この田舎町のスナックもまた来年、と思う。長野県は第二の故郷とだと思っている。来年もまた「里帰り」しようと思うのである・・・

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【本日の読書】

  



2023年8月6日日曜日

自殺の法制化はできないものだろうか

 日本では毎年大勢の人が自殺している。以前はその数3万人を超えていたが、今はそれを下回っているそうである。それでも多いと思う。個人的にこれまで自殺などしようと思った事はないが、敬愛する祖父が自殺であった事もあり、自分もいつかそう思う日が来るかもしれないという思いはある。と言っても、いわゆる「世を儚んで」というのではなく、「もういいだろう」という満足感である。祖父も最後は癌を宣告され、「もういいだろう」と思ったのだと思う。そういう時、自分で自分の人生に終止符を打つのは悪くないと思う。

 しかし、日本では安楽死は認められていない。そこには「命は大切」という考え方があり、それはそれで悪くはない。しかし、「何がなんでも」というのは疑問である。人によっては、自ら命を断つという選択肢があってもいいと思う。それを他人が安易なヒューマニズムで一律反対するのはいかがかと思う。今は自ら死を選ぼうと思ったら、飛び降りるか飛び込むか、あるいは首を括るか、薬物をあおるか刃物を自らに突き立てるか等々、考えるだけで死にたくなくなってしまう方法しかない。もっと穏やかに、医師の処方で眠るようにして死ねたらいいのにと思う。

 そんな事を考えていたら、これって法制化して制度化できないだろうかとふと考えた。自殺は届出をして一定の手順を踏めば、安楽死させてくれるという制度である。まずは届出をする。しないで勝手に自殺すると、それは違法行為とされ、生命保険はおりず、場合によっては遺族が損害賠償責任を負うものとする。届出をしたものは合法行為とされ、生命保険もおりるし、遺族に本人が払い込んだ年金の一部を返金してもいいかもしれない。まずは入り口で、合法行為と違法行為とを分け、違法な自殺をしないように導くのである。

 届出をした後は、カウンセリングが義務付けられる。「なぜ自殺したいのか」を明らかにさせる。そこでたとえば借金苦のような場合であれば、弁護士等の専門家が相談に乗り(費用も無料が望ましい)、解決へと導く。自己破産等を活用すればうまく借金を整理することができるかもしれない。健康問題もカウンセリングによって解決できるものがあるかもしれない。特に精神疾患系は、有効のような気がする。死にたくなるほど思い詰めている人の話を聞いて、解決方法を一緒に考える機会を得るという意味では、結果的に自殺を防ぐことになるかもしれない。

 カウンセリングでも解決できなければ、一定期間の熟考期間を経て自殺を認める。それも仕方ない。人によっては生きるよりも死んで楽になった方がいいという人もいるだろう。それを助けもしない人が、ただ考えもせずに「死ぬのは良くない」と言って反対するのは無責任である。もしも、このような法制化が認められれば、年間の自殺者は今より減るだろうと思う。それによって飛び降りや飛び込みで迷惑を被る人も減るだろうし、世の中的には間違いなくいい結果になると思う。

 およそ自殺をしようとする人は、なんらかの「悩み」を抱えているのだと思う。そんな悩みを余さず受け止める機関があれば、すべてとは言わなくとも、一定数は解決できると思う。それで解決できないものであれば、そこは本人の苦しみを理解し、死を選択するサポートをしてあげる方が逆に人道的であると思う。特に不治の病に冒された人であれば、苦しまずに安楽死できるようにする事は必要だと個人的には強く思う。実際、世界的にはベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スペイン、ポルトガルなどが既に安楽死を合法化している。

 私の祖父は明治の世に生まれ、2度の招集を経て生き残り、四男二女と八人の孫をこの世に残した。認知症になった祖母の介護をして見送り、長男の伯父に家督を譲り、齢89の時に癌で余命宣告を受けた。「もういいだろう」と思ったのだと思う。家族にすれば「もう少し」と思っただろう。もしもこういう制度があって、カウンセリングの結果、家族を交えて話し合うこととなったら、もう少しみんなが祖父と話をし、祖父も「延長」に応じたかもしれない。そしてみんなが祖父との時間をもっと持ち、いよいよとなればみんなに見守られて安楽死できたかもしれない。

 考えれば考えるほどいい制度だと思うが、反対論はかなり多いと思う。ただそれは、断言してもいいが、似非ヒューマニズムであろう。ただ「命は大事だから」という呪文を考えもせず唱えているだけだろう。命を大事にするということは、「死ななければいい」というものではない。より良い人生だからこそ、生きる価値があるのである。とは言え、自殺を禁止しているキリスト教のような宗教であれば一定の効果はあるだろうが、我が国にはそういう「歯止め」がない。ならば逆に「合法化」というアクロバチックな方法も一手ではあると思う。

 まぁ、こういう極端な制度もいいが、まずは自分が将来利用するかもしれないので、せめて安楽死の合法化から取り組んでもらいたいと切に思うのである・・・

Goran HorvatによるPixabayからの画像

【今週の読書】

 



2023年8月2日水曜日

死後の世界は存在するのか

『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』と言う本を読んだ。著者の田坂広志は、多数の著作があるが、原子力工学の博士号を持つ人物。そんな著者が「死後の世界」について語った一冊である。もともと私は、「人間は脳の活動によって思考しているのであり、脳の活動が止まれば思考も止まり、人間はそれでおしまい」という考えである。したがって死後の世界も霊魂も存在などしないと考えている。著者が「唯物論的思想」と呼ぶ考え方である。そう考える方が自然であり、違和感がない。

 そもそもなぜこの世に神や仏があり、霊魂の存在や死後の世界がまことしやかに語られるのかと言えば、それは人間の不安からきているのだと思う。「人間は死んだらどうなるのか」と問うても誰も答えられない。一度死んで死後の世界を見て来た人間がいない以上(臨死体験は除く)、それも仕方ない。そこで死後の世界を「考えた」わけである。「人間はどうやって生まれて来たのか」、「この世はどうやってできたのか」そんな疑問を太古の人たちは「神」を生み出して答えにしたのである。

 著者もそう考えていたらしい。しかし、「直感」「以心伝心」「予感」「予知」「シンクロニシティ」「コンステレーション」などの説明ができない出来事や、何より人類はまだ物質からどのように「意識」が生まれてくるのかを解明できていないという事実などを突き詰めていくと、「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場が量子真空の場に存在するのではないかという仮説をこの本で主張しているのである。『なぜ宇宙は存在するのか はじめての現代宇宙論』を読んだ時は、科学と宗教の違いが曖昧になってきているようにも感じたが、あまり合理的な考えに凝り固まるのも良くないのかもしれないと感じる。

 この本を読んで、著者の主張する仮説が本当かどうかは半信半疑(と言っても「疑」の方が強い)だが、この世にふしぎな現象があるのも事実。父からはよく父が体験したふしぎな話を聞かされてきたし、それをすべて笑い飛ばしたり、合理的な説明を加えることはできない。私自身はあまりそういう経験をしたことはないが、子供の頃、親戚が集まって甲子園の優勝校を当てる賭けをやった時、出場校の名前を眺めていてなぜか目を惹かれた2校が決勝に残ったという経験ならある。「第六感」とでもいうのであろうか。あの時は何故かこの2校がくると確信めいた閃きを得たのである。

 そのほかにも野球を見ていて、ホームランを打つような「予感」が当たることなどはよくあったが、著者はそれも「ゼロ・ポイント・フィールド」という場で説明する。なるほど、とは思うが、まだ半信半疑。しかし、なぜ人間が死後の世界があると考えるようになったのかと言えば、それはやはり「不安解消」だと思う。私も神は存在しないと考えているが、信じてはいる。神社にお参りに行き、首を垂れることによって安心感を得られるのであれば、それはそれで有意義であり、宗教の効能だと思う。自分の限られた知識の中で、「合理的でない」からと言って否定するのもおかしいだろう。

 確かに死後の世界があれば安心はする。体がなくなるだけで、心が存在し続けると考えられれば不安はなくなる。ただ、そこに映画館はないだろうし、本屋もないだろうし、ラグビーもできないだろう。そんな死後の世界があるからと言って安心するかと言えば、そんなことはない。つまらない世界のように思えてならない。著者は自我が消えて宇宙意識と一体になると語るが、不安や苦痛はなくともいい世界なのかどうかはわからない。著者の意見を否定するつもりはないが、不安や苦痛はあっても喜びや楽しみのある世界の方が圧倒的にいいように思う。

 人間は間違いなく死ぬのであり、私も残りの人生はたぶん長くても40年くらいだろう。いずれ行く世界ではあるだろうが、早く行きたいとは思わない。まだまだ観たい映画もあるし、読みたい本もある。ラグビーもやりたいし、今年のW杯も楽しみである。仕事は大変ではあるが、やり甲斐もあって楽しい。辛いことも困難もあるが、やっぱり今の現世をしっかりと楽しむ方がいい。死後の世界があろうがなかろうが、興味はあるがどうでもいい話。大事なのは現世であり、それがすべてである。生まれた意義は現世においてのみにあるのだろうと思う。そんな現世を最後まで楽しみたいと思うのである・・・

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【今週の読書】