2022年12月30日金曜日

2022年末雑感

 いよいよ年末である。毎年のことながら1年が経つのは早い。昨年は突然失職するという激動に見舞われたが、縁あって転職した先がシステム開発会社。システム開発のことなど皆目わからないが、財務は共通。全社的な視点であれこれと意見具申していたら、社長にも認められ、役員にしていただいた。結果的に見れば年収も上がったし、仕事の範囲も大きく広がった。あのまま前職に留まるよりも良かったと思う。人間、何が幸いするかわからないものである。

 今年予想外だったのは、前職の社長との裁判だろう。前職で設立した別会社を合法的に貰い受けたが、それが気に入らなかったらしく、突然の提訴。思いもかけぬ裁判所通いとなった。弁護士にも相談したが、基本的に依頼せず自分でこなしたのはいい経験である。まだ、3回目の裁判となる見込みだが、どうなるのかは神のみぞ知る世界。こちらからの反撃はタイミング待ち。相手の動き次第のところがある。焦らず、相手の動きに合わせて臨機応変に対応するしかない。いずれにせよ、来年には決着をつけたいものである。

 もう一つの想定外は弟の詐欺被害だろう。フィリピンの不動産を巡ってのもの。あれよあれよという間に何千万円。両親共々見事に巻き込まれてしまった。退職の際、関連会社を手に入れてその流れで手にしたお金をすべて弟に貸してしまった。自分だったら絶対に引っかからないが、弟が引っかかるというパターンは予想していなかった。「おかしい」と思っても、頼まれれば断りきれずというものだが、兄弟の関係が悪くなっても断るべきだったかと思わなくもないが、難しい。

 ラグビーは、とうとう最後の2試合を怪我で欠場した。他のところならごまかしながらやれると思うが、膝だとそもそも走れないのでごまかせない。練習も休んでいるが、治りは悪い。昔はこんなことはなかったと思うが、これが老化なのだろうかと思ってみたりする。忘年会ではタックルを褒められ、チームメイトからはかなり信頼されていると感じて嬉しく思った。体を張ったタックルはチームメイトからの信頼を得るのに大きな役割を果たすが、一方で体のダメージが大きいのも確か。いつまで自分のタックルができるのだろうかと思ってみる。

 また、年末になって義母が突然亡くなった。義父が帰宅したら風呂で亡くなっていたという。死因はヒートショックらしい。最近は認知症の症状も出ていたというが、83歳という年齢は早いと言えば早い。されど、施設に入り、会いにきた子供の顔もわからなくなってまで長生きするのがいいのかどうかは難しい。そういう意味では、祖母よりも若かったが、まだ自宅で普通に暮らしていたので「人間の残骸」のような姿を見せることなく逝ったことになる。自分はどこまで人として生きていけるだろうか、などと思わず考えてしまう。

 今年は年間を通じて週末は実家へ行って、両親のために簡単な掃除と料理をするという生活を送った。週末の2日を1日はラグビー、もう1日は実家とで、それ以外の趣味に充てる自分の時間をあまり持てなかったが、両親と過ごす時間も今だけであり、これも仕方ない。よく「孝行したいときに親はなし」というが、自分にはまだ両親はいるので今のうちに一緒の時間を多く取りたいと考えている。少なくとも「もう少し〜していれば」という後悔はしないようにしたいと思う。

 あと2日でまた新しい年がはじまる。来年もまた想定外のことがいろいろと起こるだろう。今年から持ち越した問題も何らかの決着がつくだろう。どんなものか早く知りたい気もするが、知ってしまったらがっかりするか楽しみに思うか。それは人それぞれであるが、自分としては来年の年末雑感を先に読みたいと思う。悪いことにはあらかじめ覚悟ができるし、良いことは楽しみができる。先に何があるかわからないことから「不安」が生じる。何があるかわかれば「不安」は生じない。自分としては「不安」を回避したいと思うようになっている。

 今年は同世代の友人が2人亡くなった。自分もそういう年代に入ってきている。「より長く」も大事だが、「より良く」も大事にしたい。少なくとも人に恨まれるようなものにはしたくない。前社長のような恥ずべき行為はもちろんしたくない。そういう「芯」は維持して、良い年を迎えたいと思うのである・・・

Ursula Di ChitoによるPixabayからの画像 


【今週の読書】

 





2022年12月25日日曜日

税制度に思う

 会社で経理の仕事をしている人は、「インボイス制度」というものを目にし、耳にしていると思う。私も知ってはいたが、来年の10月からスタートという事でまだ時間はあるし、顧問税理士さんに言われるまま「適格請求書発行事業者」の登録をして放置していた。しかし、一応頭に入れておかねばと思い、詳細を確認した。その結果、これはなかなかよく考えた「消費税徴収システム」であることがわかった。制度改定にはそれなりの理由があり、狙いというものがある。そういう意図がわかると新しい制度の理解も進む。

 通常の消費税は、例えば売上が150万円ある場合、売上150万円+消費税15万円の合計165万円を相手から受け取る。そのうち消費税15万円は後日納税する。次に支払いが100万円ある場合、100万円の原価に加えて消費税10万円の110万円を支払うことになる。この取引の利益は50万円(150万円-100万円)、後日税務署に納税する消費税は5万円(15万円-10万円)となる。インボイス制度が始まった場合、請求書等にインボイス番号を明示することで、この会計処理が認められる。これだけだと何の変更もない。ただインボイス番号の明示という面倒が加わるだけである。

 変更があるのは、インボイス番号を取得していない業者との取引となる。支払いについてこれまで通り110万円支払っても、「原価100万円+消費税10万円」とは認められず、「原価110万円」とみなされてしまう。これはつまり、利益が40万円(150万円-110万円)に減り、納税額が15万円(15万円-0)に増えることを意味する。そうなると、適格請求書を発行できない業者との取引上は大きく損となる。これを防ぐとしたら、取引相手に「適格請求書発行事業者」の登録をしてもらうか、消費税を支払わないようにするしかない。

 しかし、「適格請求書発行事業者」の登録をすると、当然ながら消費税を納税しなければならなくなる。影響が大きいのは、これまで消費税を免除されていた年間売上高1,000万円未満の事業者である。年間売上高1,000万円未満の事業者の場合、消費税の納税は免除されていたため、これまでは消費税を受け取ってもに納税義務がないからそのままもらえていた。いわゆる「益税」というやつである。これがこれから認められなくなる。

 とここまで考えてくると、今回のインボイス制度導入の目的は、「益税」をなくすことなのだなと理解できる。税収を何とか増やそうとする政府が、増税となると反発必至なため、何とか搾り取ろうと知恵を絞ったのだろう。それではこれが小規模事業者いじめなのかと言うと、そもそも「益税」自体がおかしいと言えるわけで、それを正すという意味ではおかしなこととは言えない。小規模事業者の立場からすれば反論はいろいろあるかもしれないが、「猶予期間」が終わったと諦めるしかない。

 また、これとは異なるが、税制としておかしいと感じるのが、事業承継に伴う課税である。事業承継とは、平たく言えば社長の交代である。中小企業の場合、社長の交代は会社の株式の譲渡を伴う。例えば最初に1,000万円を出資して会社を設立し、30年経って引退するに際し、出資した会社の株式を次の社長に譲渡する場合、利益の蓄積状況等によって株式の評価がなされる。その結果、5,000万円とされた場合、5,000万円未満で次の社長に譲渡すると、差額分を課税されてしまうのである。

 税務署的には、会社の価値が上がっているので、それは当然という考えだと思うが、創業社長が出資したのは、1,000万円であり、1,000万円で譲ればそこに利益は生じない。次の社長も1,000万円でも大変だが、5,000万円と言われればもっと大変であり、社長という重責の他に大きな資金負担を強いられることになる。1,000万円で譲渡できればそれだけ事業承継がスムーズになる。このほかに銀行借り入れがあれば、社長には連帯保証という重荷も生じる。

 我が社も近い将来、社長の引退という事態に備えないといけない。しかも、後継者は社内昇格となるため、なるべく資金負担を軽くしたいという考えがある。こんな税制があると妨げにしかならない。多くの中小企業の事業承継が親子間となるのも当然と言える。そうは言っても、税務署側にも言い分はあるだろう。1,000万円で事業承継ができるようになると、今度はそれを相続対策に利用する輩が絶対出てくる。財産を会社に移しておけば相続税逃れができることは容易に想像ができる。

 税制と節税はイタチごっこ。税金を納めたくない者はあれこれと頭を捻って税制度の隙間を縫おうとする。一方の税当局はそれを防ごうと制度を変更する。「なぜそうなっているのか」という裏側をあれこれと考えてみると、逃れようとする者と捕まえようとする者の争いが垣間見れる。面白いなと思いつつ、我が社の事業承継はどうしようかと考えると悩ましい。こちらは節税ではなく、純粋な社長の座のバトンタッチ、しかも親子間ではなく社内昇格者との間であり、ハードルは高い。いかにしてこのハードルを越えるか。これからいろいろと知恵を絞らないといけない。

 税金は世の中には必要なものだというのは誰もが理解していると思うが、されど誰もが払いたいとは思わないというもの。取る方も大変だとは思うが、場合によっては事情を勘案して欲しいと思う。まだ時間はあるので、ゆっくりと知恵を絞りたいと思うのである・・・

Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

   



2022年12月18日日曜日

防衛費増額議論に思う

「継戦能力」予算を倍増 防衛3文書、装備品整備に9兆円

20221210 2:00 

政府は国家安全保障戦略などの防衛3文書で自衛隊の「継戦能力」に関する予算の倍増を盛り込む。202327年度までの5年間で、定期的に防衛装備品を点検し老朽化した部品を取り換えるといった維持整備費に9兆円、弾薬補充に2兆円を充てる。装備品をいつでも使える状態に保って稼働率を上げ、継戦能力を高める。相手のミサイル発射拠点をたたく「反撃能力」の手段となる長射程ミサイルには5兆円を確保する。防衛力整備費用は5年間の総額を現行計画の1.5倍にあたる43兆円に増やす。

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 最近、我が国の防衛力を巡ってのニュースが目につくようになった。特に「継戦能力」なるものが際だってきたと感じていたら、とうとう「防衛費増強」という名目で、しかも財源は増税でということも新聞に出るようになった。新聞に出るというのは、ある程度政府が意図的に流しているからなのだろうと思う。日本には記者クラブというのがあって、そこでクラブに加盟している記者が政府から情報を得て報道しているというし、という事は政府が国民に伝えようという意思表示なのであろうと思う。


 何となく唐突感はあるが、そうではないと思う。水面下で問題が生じ、どうにも予算は増やさねばいけないということになり、とは言え財源は確保しにくいし、増税は国民の理解を得にくい。という中でどうするかというと、最初は関係のないところから小出しに出していって少しずつ問題に触れさせ、徐々に増税のムードを作り上げておいて満を持して「増税が必要」という議論に持っていこうというものではないかと思う。「嘘も100回つけば本当になる」と言われるが、「必要だ」と繰り返せば何となく必要感が醸成される。そこが狙いなのだろうと思う。


 そもそも防衛費なんて必要なのかと考えると、残念ながら今の人類のレベルでは必要なのだろう。本来は争いなどせず、平和的にやれば万事うまく行くと思う。されど人類の歴史は戦争の歴史。今もウクライナでは戦火が炎上中で、その影響が為替や物価に及んでいる。我が国も台湾危機に備えて、各企業が中国からの調達シフトを進めており、それは少なからず調達額の増加=利益の圧迫につながっているという。互いに譲り合える世界なら物価高などとは無縁に暮らせるのにと思わざるを得ない。


 もともと人間には欲があって、「もっともっと」というのは人間の本能に近いと思う。それ自体悪いとは思わないが、そこに「自分だけ」が加わると、他人を排除しようということになる。「自分だけは」がやがて「自分の家族だけは」になり、「自分の住む地域だけは」、「自分の住む国だけは」となるのだろう。それが領土を巡っての争いとなる。それが高じれば戦争となる。そういう歴史を繰り返してきて、ようやく戦争は少なくなったが、それが人類が賢くなった証かと言えばさにあらず。結局は、「抑止力」でようやく均衡を保つ世界となっている状況である。


 「抑止力」に頼らざるを得ないというのも本来情けない話ではある。「抑止力」は非常に危うい。「あいつはケンカが強そうだ」と思えば人はケンカを避けようとする。しかし、勝てると思えばケンカも辞さない態度になる。ケンカを避けるためにはケンカに強くならなければならないというおかしな世界になる。相手がケンカに強くなろうと武術を習い始めたと聞けばこちらも対抗して習い始めなければならない。なぜなら、相手が強くなってこちらに勝てると思われたらケンカを売られるかもしれない。それが国家レベルになると軍拡競争になる。


 防衛費の増強については、ついに「反撃能力=敵基地攻撃能力」を保有するという宣言が日本政府によってなされた。これまでは「殴られたら殴り返す」としていたのを「殴られそうになったら殴られる前に殴る」と改めたわけである。軍事的な事はわからないが、背景には兵器の性能が上がってきた事があるように思う。「殴られたら殴り返す」と言っていても、一発でノックアウトされたら意味はない。北朝鮮が核ミサイルを発射しようとしていたら、「殴られるまで待て」は果たして正解なのかと問われたら、反対派の人は何と答えるのだろうか。

 

 しかし、かと言って怖いのはそれが拡大解釈される事。「大量破壊兵器を隠している」と言いがかりをつけて、自分たちの意にそぐわない政権を先制攻撃によって倒してしまった大国の例もある。力は正しく使ってこそであるが、正しく使える人が常にその地位にあるかどうかの保証は何もない。議論をすることはいい事だと思うが、何となくもう結論が出ていることに対して、増税のムード作りのためになされているような気がしてならない。そして本来、そういう議論にもっと国民全体が関心を持つべきだと思うが、そうではないところが残念なところ。


 また、議論が盛り上がるとしても、我が国はマスコミの報道に一方的に流されるところがあって、それもまた怖いところがある。この先どうなるのだろうか。せめて自分はしっかりと関心を持って成り行きを見守りたいと思うのである・・・

 

Mike CookによるPixabayからの画像 


【今週の読書】

  




2022年12月14日水曜日

論語雑感 雍也第六(その30)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子貢曰、「如有博施於民、而能濟衆、何如。可謂仁乎。」子曰、「何事於仁、必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬、可謂仁之方也已。」

【読み下し】

いはく、ひろたみほどこして、ひとびとすくはば、如何いかん

じんいはく、なんじんこととせむ、かならひじり

堯舜ぎょうしゆんこれめり。

じんあるものは、おのれたむとほっひとて、おのれいたらむとほっひといたす。

ちかたとへるは、じんみちのみ


【訳】

子貢が先師にたずねていった。

「もしひろく恵みをほどこして民衆を救うことが出来ましたら、いかがでしょう。そういう人なら仁者といえましょうか。」

先師がこたえられた。

「それが出来たら仁者どころではない。それこそ聖人の名に値するであろう。堯や舜のような聖天子でさえ、それには心労をされたのだ。いったい仁というのは、何もそう大げさな事業をやることではない。自分の身を立てたいと思えば人の身も立ててやる、自分が伸びたいと思えば人も伸ばしてやる、つまり、自分の心を推して他人のことを考えてやる、ただそれだけのことだ。それだけのことを日常生活の実践にうつして行くのが仁の具体化なのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 大学を卒業して就職したのは銀行であった。銀行はお堅い組織で、ワイシャツは白でなければダメだし、派手なスーツもネクタイもダメ。派手でなくても、ちょっと明るい色だと「大丈夫だろうか」と気になって買えなかったものである。1年目の時だったが、ドレスコードに禁止されていないことを確認してサスペンダーをして行ったことがあったが、ものの見事に怒られた。別にファッションを競うわけではないが(競われたらファッションセンスに疎い私としては逆に居心地が悪くなる)、もう少し自由があってもいいのではないかと思ったものである。


 中小企業に転職して2社目の現在、ようやく自由を感じている。長年、念願だった髭も伸ばせたし、スーツこそ着ているが(これは逆にスーツの方がいい)、ネクタイからは解放された。朝は比較的早く行っているが、それも自分の選択。ほとんど人のいないオフィスでゆっくり新聞を読むのが朝の日課。そして残業もほとんどない(明日できる仕事は明日やろうと思っている)。立場的に在宅勤務はできないが、できたとしても嫌なのでしないだろう。働く環境としては満足していて、「いい会社」だと思う。


 そんな自分のテーマは、我が社を「いい会社」にしようという事。「いい会社」の定義は人によってそれぞれかもしれないが、個人的には「働く者が人に自慢したくなるような会社」だと考えている。そしてそれは自分だけでなく、一緒に働くみんなにもそう思って欲しいと思っている。先日の全社会議では、我が総務部(財務・人事・総務をすべてカバーしている)の方針として、みんなにとっての「いい会社」にしたいと発表した所である。誰でも「いい会社」で働きたいと思うだろうから、そういう会社にしましょうと。


 その「いい会社」は何をもって「いい会社」とするのか。総務主導でできるのは福利厚生がまずある。「ウォーター・サーバー」を導入してほしいなどというリクエストを聞き出してきては、それを叶えたり、会社で費用負担する飲み会を行ったり(社内親睦が目的)、今の季節はクリスマスツリーを入り口に飾ったりといろいろと楽しくやっている。反対意見で実現できなかったものもあるが、かなりトライしている(反対されはしたが、諦めたわけではなく捲土重来を狙っている)


 なぜそうしたことに力を注ぐかと言うと、それは自分が「いい会社で働きたいから」。まさに孔子の説く「自分の心を推して他人のことを考えてやる」に他ならない。もしも孔子が現代に蘇って我が行動を見たら、「仁者である」と言ってもらえるかもしれない。それはともかく、自分が楽しく働けるからそれだけでいいとは思わない。周りの人にもやはり同じように楽しく働いてほしいと思う。部下の人たちには、私の部下で良かったと思ってもらいたい。それが自分の満足にもつながる。


 みんなそうしたらいいのにと思う。銀行に入った1年目は、はち切れんばかりの不満を抱えていた。その原因はほとんど人間関係。その根底にあるのは、「仕事は辛くて当たり前」とでも言うべき思考。1年目の最初のボーナス時には、ベテラン銀行員の人から「仕事もしていないのにボーナスもらうんだ」と嫌味を言われた。その人も言われたのかもしれないが、そんな事を言われたら初めてもらったボーナスの嬉しさも半減である。サービス残業は当たり前、滅私奉公当たり前、仕事がすべてに優先、土日だって例外ではない。あの頃のあの環境でもう一度働きたいとは思わない。あの人たちとまた一緒に働きたいとは思わない。


 今の会社で一緒に働く人たちに、そう思って欲しくないとつくづく思う。私と「ずっと一緒に働きたい」と思ってもらえたら、それは給与に加えてのもう一つの報酬だろう。別に孔子に仁者だと言って貰わなくてもいいが、会社の人たちには「ずっと一緒に働きたい」と言ってほしい。それが今働くモチベーションの一つであるのは間違いない。みんながずっと働きたいと思うような「いい会社」を創りたいと心から思うのである・・・


Werner HeiberによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 





2022年12月12日月曜日

宿題は必要か

 先日、ネットで「宿題は必要か」という議論が掲載されているのを目にした。あまり時間もなかったので詳しく読むことはなかったが、個人的にはあまりこの手の議論を真剣にしたいとは思わない。というのも、正解などないと考えてしまうからである。正解のない問題などあまり人と議論しても意味はない。それぞれの意見表明で終わるからである。もちろん、そういう意見交換が必要な場面もあるから、議論自体否定するものではない。

 改めて宿題は必要だろうかと問われれば、「必要な場合も不要な場合もある」としか答えようがないと思う。宿題を出す先生にきちんとした理由があってのものであれば宿題は必要であるし、そうではなくてただ惰性で出していたり、「そういうものだ」的な流れで出しているのであれば不要だろう。なので一概に「必要か否か」という議論は意味がないと思うのである。

 小学生であれば、宿題というのは「家庭での学習習慣付け」程度だろう。そもそも小学生であれば学校での勉強だけで十分であり、わざわざ帰宅してまで勉強することはない。しかしながら、やがては学校だけの勉強では済まなくなるのであり、そのために「家でも勉強する」習慣は身につけておかないといけない。そういう習慣付けという意味でならいいと思う。夏休みの宿題も、学校が休みの間の勉強の空白期間を減らすものと考えれば、あっても良いと思う。

 中学生くらいになると、学習習慣というより、補習という意味が強くなると思う。授業だけではどうしても不足するところを補うというイメージである。たとえば授業でやるのを型だとすると、それを身につけるための繰り返しの修練を(自主的にやるのであれば良いのだが、やらないので)宿題という形にするという事である。そこにしっかりと覚えてほしいという先生の考えがあるのなら必要性はあるかもしれない。

 そもそも勉強などは自主的にやらないといけないが、小中学生では難しかったりするので、ある程度強制しなければならないのは仕方ない。そういう意味では、宿題にも十分な意味がある。そういえば我が家の子供たちも小学校の頃、家で宿題をやっていたが、良いなと思ったのは音読である。親の前で教科書を読むというものである。誰かの前で声を出して読むというのは、文章を読む良い練習だと思ったし、親も子供がこんなことを学んでいるんだと理解することができたし、良い宿題だったと今でも思う。

 考えてみれば、親も我が子が宿題を目の前でしていれば(小学校の頃はたいてい目の前でやっていた)、どんなことを学んでいるのかがよくわかったものである。夏休みの宿題は、特に自由研究などは親も一緒に参加してやったから、それなりに今となっては楽しい思い出である(ネタを考えるのは大変だったが・・・)。宿題が必要かというよりも、宿題があった方が親も子供とのコミュニケーションになるので良いと思う。

 そもそものこの問いの根底にあるのは、「子供に家に帰ってまで強制的に勉強させる意味はあるのか」という疑問だと思う。教師の側に「なんとなく出さないと勉強をさせていないように思われる」とかのプレッシャーがあって、自分の考えとは別の力学で出しているとしたら宿題の意味はない。よくありがちな「漢字を10個ずつ書け」的な「作業」であれば、出される方も役には立たない。そういう宿題なら意味はない。問題は、出す方がどれだけ真剣に考えて出しているかだろう。

 なんでもそうであるが、単純に白黒を問うのではなく、その根底にどんな考え方があるのかが重要であろう。宿題も然りである。物事はその本質を考えないと意味はない。「宿題は必要か」というのは、そもそも間違った問いである。必要な宿題は必要であり、不要な宿題は不要である。ただそれだけである。あえて問うなら、「なぜ不要な宿題を出すのか」ではないだろうか。そう考えた時、本当の問題に行き当たると思うのである・・・


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【本日の読書】

 


2022年12月8日木曜日

錦の御旗はいらない

 人の考え方はいろいろで、みな誰もが自分の考え方が正しいと信じている。しかしながら、意見が対立するということは多々あり、それはそれで考え方が違えば致し方ない。しかしながら、よって立つ考え方の根拠がどうもいただけないと思う事もよくある。自分の意見が正しいというのはいいが、その根拠としてしっかりとした信念があればいいが、それがない人は、しばしばその根拠を外部に求める。それが過去の事例だったりすると、「前例踏襲主義」になる。

 「なぜ、こうすべきなのか」。それは「過去にこうやったから(=その時それでうまくいったから)」となると、それは立派な「前例踏襲主義」である。お役所が良い例だが、民間でも前例踏襲主義は盛んである。100%の正解を求めると(それは大抵不可能なのであるが)、過去の成功例を挙げれば、それは立派な根拠になる。後で仮に失敗したとしても、「過去の成功事例と同じように判断した」とすれば、判断ミスは軽減されるか問われずに終わる。とても楽な根拠である。しかし、当然ながら、前例踏襲主義では新しいチャレンジなどできるわけがない。

 また、前例踏襲と同じように日本人に多いのは「大義名分主義」である。「社長が言ったから」というのは立派な根拠となる。日本人は自分を前面に出さず、権威を前に出して戦うのが好きである。戊辰戦争の際の「錦の御旗」が良い例であるが、「俺の勝手な意見ではなく、社長の意見だ」と言えば相手も黙らざるを得なくなる。批判を自分に向けないという意味で、この大義名分は有効である。これは小学生でも「先生が言っていた」という形で使うものであり、日本人には染み付いている考え方なのかもしれない。

 なぜ、こうも過去の例や絶対的な権威に頼るのかと言えば、それは自分自身の考え方に自信がないからなのだろう。自分自身にしっかりとした考え方があれば、こうと主張できる。それがないから確実なものに頼る。それが過去の事例であり、絶対的な権威であり、もう一つ言えば、それは「みんながそうしているから」という横に倣え方式である。みな、根底に通じる考え方は同じである。「自分はこう考える」という意見を人に言うのは簡単そうに思えるが、それは人によっては簡単ではないのだろう。

 普段から自分でしっかりと考えている人は、自分の意見を言うのは簡単である。しかし、そうでない人にとっては難しい。上司に言われたら、黙って従うと言うのも一つの解決策であるが、部下に言われた時に、しっかりとした考えがないと答えられない。特に否定する場合は、なぜダメなのかを説明できないと部下は納得しない。昭和の上司なら「黙って従え」と言うだろうが、昭和の部下だった私でも当然納得などしなかったし、令和の今の世でも同じだろう。説明できない上司は、確実なものに頼るしかない。

 今の会社でも若い時からずっと言われた事を真面目にやってきた人ほど、部長・役員になっても「言われた事をやる」という習慣から抜け出せない人がいる。言われた通りにやる習慣が根付いているから、考える習慣がない。だから権威に頼る。役員間で議論していても、過去の例を持ち出したり(時にそれは間違いではないが)、一旦決めたことにこだわってみたりする。一旦決めたことでも、目標がブレない範囲では柔軟に対応する必要も出てくるし、根本的な部分で変わらなければ目先を変えても大丈夫だが、そういう思考ができなかったりする。

 かねてから自分の頭で考える事は重要だと考えているが、そうでない人と議論すると大いに疲れてしまう。人の考え方はなかなか変えられるものではないし、「自分と違う考え方だから」という理由で他人の意見を否定するのは間違っている。ただ、そこにその人自身のしっかりとした信念に基づく考え方があれば良いのだが、過去の事例や絶対的な権威や、横並び的な思考に基づくものだといかがなものかと思わざるを得ない。たぶん、そういうことを考えるという事をしてこなかったのだろうが、納得のいく議論ができないもどかしさが残ってしまう。

 繰り返すが、人はその考え方を容易には変えない。前例踏襲主義は良くないと思っていても、過去の例と同じケースでは同じようにするのが当然であり、権威に頼っているのではなく、従うのが当然だからであり、横並びはそれが普通の考え方だと思うからであり、そう考える理由は十分あるのである。時代は動いているのであり、柔軟に新しい考え方をするべきとするのも一つの考え方。たとえ社長の意見だろうが、自分の意見と異なれば社長こそ意見を変えるべきと言っても良いし、みんなと違う事はいわゆる差別化であり、ビジネスでは重要な考え方である。

 人の上に立つ立場になればなるほど、自分の考えというものをしっかり持たないといけない。それは自分以外のものに根拠を求めるのではなく、自分自身の考えを根拠とすべきである。そういう人とであれば、議論をしていても納得感が得られる。そうでない人とはストレスが溜まる。自分の意見を持つためには、若いうちから「自分はどう思うか」ということを常に意識しないとダメなのかもしれない。役員になってもまだそうでない人については、残念に思うだけである。

 そういう役員ではダメだとするのではなく、難しくとも少しでも自分の意見を持つことを説いてみようかと思うのである・・・



【本日の読書】

 




2022年12月4日日曜日

分け合う世界の理想

製造業100社調査――中国調達「下げる」5割 台湾有事懸念、代替先は9割日本、キリンやOKIが備え(分断・供給網)

米中対立の激化などを受けて企業が部品などの調達で中国に頼らないサプライチェーンの構築を急ぎ始めた。日本経済新聞の主要製造業100社への調査で、5割の企業が中国比率を下げると回答した。代替先として9割が日本を挙げた。台湾有事や「ゼロコロナ」政策で中国リスクが高まっている。供給網の機能不全を回避するため、企業が備えを本格化しつつある。

2022/12/02  日本経済新聞

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 グローバルにビジネスを展開する企業にとって、今や中国は重要な拠点となっているが、その中国依存度を下げようという動きがあるようである。台湾有事など、「まさか」とは思うものの、この頃まことしやかに囁かれているし、同じように「まさか」と思っていたロシアのウクライナ侵攻が現実化したこともあり、「まさか」ではなくなる可能性もあるのかもしれない。尖閣諸島は最近ニュースでは騒がれないが、中国のプレッシャーは相変わらずのようである。なぜ、広大な領土があり、資源もある中国がそんなにガツガツするのだろうかと思う。


 中国に限らず、ではあるが、人類の戦争の歴史は資源・領土の分捕り合戦だろう。その歴史を愚かしくも繰り返している。欲張るのは人間の本能みたいなものであるし、個人レベルでも「もっともっと」は至る所で散見される。私の元勤務先の社長は、突然会社を売却して数億円のお金を手にしたが、社員8名に対して支払った退職金は合計で400万円。無いならともかく、億も手にしてそれかと思う。しかも、会社が高く売れたのは社長の経営能力ではなく、私を中心とした社員の働きによるものであるから尚更である。0をもう一つつけてもバチは当たらないが、本人は独り占めして平気なようである。


 中国も今や世界第2位の経済大国。なのにまだ領土が必要なのか、台湾や日本だけでなく、インド・ベトナム・フィリピンなど周辺国とも火種を抱えている。冒頭の記事の通り、日本企業が中国からシフトすれば、中国にとってもダメージは大きいし、日本企業もコストアップの影響が出るという。お互いにLose-Loseの関係になる。無いならともかく、世界の他の国に比べれば持っているのであるから、少しぐらいは譲れないものだろうかと思う。そうすればWin-Winの関係になれるのに・・・


 「奪い合えば足らぬ 分け合えば余る」というのは、あいだみつおの言葉であるが、まさにその通りだと思う。エレベーターも我先にと降りるのではなく、みんなが降りる間、ボタンを押しておき、自分は最後に降りる。その間、ほんの数十秒である。譲られた方は気持ちがいいし、同じオフィスビルであれば、いつしかみんながそうするようになったりする。我が社が入るオフィスビルのエレベーターでも基本的に階数ボタンの前に立った人は自然と皆やっている。たまに他所のビルで真っ先に降りていく人に出会うと驚くくらいである。


 ウクライナの紛争にしても、ロシアが危機感を抱かなければクリミア半島の維持に汲々とすることもないだろう。NATOなど本来はワルシャワ条約機構の解体と合わせて解散すべきであったのに、まだ勢力を保っている(と言うか、むしろ拡大している)。経済的な繋がりはともかく、軍事的な繋がりは相手国に対して脅威を与える。そういうものを排除すれば、ロシアも安心して欧米社会との繋がりを保てる。ロシアの天然ガスは安定供給されるだろうし、物価も当然安定していただろう。今からそうしようと思えばすぐにできるはずであるが、そんな声は聞こえてこない。


 もともと世界は強欲な白人がいなければもっと平和だっただろうと思う。日本だって無理やり開国させられる前は、世界に迷惑をかけずに社会を維持していたわけである。それが無理やり開国させられ、不平等条約を結ばされ、大国の圧力の下、日本は大陸進出を進めたのである。奪い合いの世界に無理やり参加させられた結果は惨憺たるものであったが、その教訓を生かして平和裡に生きようとしても、世界は油断すればすぐに奪いに来る。そんな事実を『戦うことは「悪」ですか サムライが消えた武士道の国で、いま私たちがなすべきこと』(葛城奈海著)という本では明らかにする。


 この本の女性の著者は、日本政府の弱腰の姿勢を批判し、「日本に男はいないのか」と勇ましく問う。しかしなぁと個人的には思う。分捕り合戦の世界で勇ましく渡り合うのはいいが、それは結局、「奪い合えば足らぬ」世界に参加することである。かと言って、1人だけ「分け合えば余る」と言っていても、それは結局「分け合えば」の話であり、今の「奪い合い」の世界では1国だけで唱えていても踏み躙られるだけである。そんな中では、「郷に入っては郷に従え」となるのもやむを得ないのかもしれない。


 どうすれば「分け合う世界」に移行できるのであろうか。日本が「奪い合い」の世界から脱落したのは敗戦が原因。それも良し悪しであるが、結果的に世界の覇権国より「分け合う」世界に近いのも事実。そうした痛い目に遭わないと実現できないというのも嘆かわしいが、世界の国がみんな弱腰になれば、「分け合う」世界に近づくようにも思う。積極的に譲りあうことができないのなら、弱腰もまた一助である。グローバルな分け合う世界は遠いが、千里の道も一里から。個人として分け合う世界に一歩でも近づけるよう、日々の生活の中で心掛けたいと思うのである・・・




【今週の読書】

   





2022年12月1日木曜日

論語雑感 雍也第六(その29)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「中庸之爲德也、其至矣乎。民鮮久矣。」

【読み下し】
いはく、中庸なからいきほひいたれるなるたみあざやかになじたり

【訳】

先師がいわれた。

「中庸こそは完全至高の徳だ。それが人々の間に行われなくなってから久しいものである。」

『論語』全文・現代語訳

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 中庸とは、平たく言えば真ん中のこと。右に偏ることもなく、左に偏ることもなく、真ん中がいいというのは、感覚的に理解しやすいことである。偏りがないと言うことは、「公平」であるということ。日本人は「公平」「平等」といったキーワードに敏感であり、そういう意味でも理解は得やすい。簡単そうであるが、孔子はわざわざ採り上げるのは、その当時よほどアンバランスな社会になっていたのかもしれない。


 身近な実例で見ると、我が社の取締役は私以外に2(社長は除く)いるが、互いに仲がよろしくない。その2人はお互いに反発しあっている。そんな中で私はと言えば、後から入社したこともあり、それぞれ一からのお付き合いであるという事もあり、等距離で付き合っている。どちらの意見に与する事もなく(個々のケースでは片方の意見に賛成することはある)、自らの役目を果たしている。両取締役の反目は、今はいいがそれが嵩じると世に言う派閥になるのだと思う。


 等距離で付き合っているから、それぞれから相談を受ける。時に相手方には知られないようにというものもあるが、そこもうまくやっている。気がつけば、取締役の中での潤滑油的な存在になっている。そもそも互いに相手を尊重して、会社経営という観点から協力し合うのが一番であるが、人間そうもいかない事もある。時に煩わしい事もあるが、今のところは私が中立的な立ち位置を守る限りはうまく回っていくのだと思う。見方によっては、双方にいい顔をしているように見えるだろうが、中立という立ち位置はそういう批判を受けやすいものだと思う。


 中立的な立場が一番だと思うかもしれないが、世の中必ずしもそうではない。たとえば、ロシアとウクライナの戦争では、国内世論は西側先進国の世論と同様、完全にウクライナ寄りである。そう言うと、「戦争を仕掛けたのはロシアだから悪いのはロシアだ」と言われそうであるが、ロシアにはロシアの言い分がある。ロシアの立場からすれば、仮想敵国をロシアとするNATO(ワルシャワ条約機構が解体した現在でも)いまだ勢力を保ち、さらにウクライナがそれに加盟する(すなわちロシアに敵対する)という行動をとっているわけである。ロシアの主張も当然であり、それを無視するのは偏りがある。


 米中の対立も、中国が悪者になっているが同じ構図である。もっとも、我が国の尖閣諸島を武力で奪いに来たら、我が国も(当事者になるゆえに)さすがに中立を維持するわけにはいかない。また、中国に飲み込まれまいと抵抗しているだけの台湾に侵攻したら、さすがにそれはルール違反だからこれも中立というわけにはいくまい。かくも中立とは難しいものだと改めて思う。永世中立国のシンボル、スイスはその立場を守るためにきちんと軍備をしているのは有名な話である。


 中立と言えば、聞こえはいいが、微妙なバランスで一方から批判される事もありうる。そうなると、もう中立とは見做されず、「敵側」と見なされてしまう。そうならないためには、きちんとした揺るがぬ自分の意見を持ち、分け隔てなくその意見を通さなければならない。どちらか一方の意見を支持する場合も、「人」ではなく「意見」を支持するというスタンスを維持しないといけない。そうでなければ、たちまち信用を失ってしまうだろう。


 孔子の言う中庸とは、かくも考えてくると難しいものだということがわかる。ついつい、人柄を見て支持したくなるというのが人情。私も2人の取締役のうち、人間的には一方の方が好きである。ただ、それは当然ながら表には出さない。相談を受ければ、公平中立な立場でそれに応えるし、批判する場合も「考え方」「意見」に焦点を合わせて行う。基本は相手の立場を尊重することが大事ではないかと思う。偏ることなく、と言うよりも人と人との関係においては、それが結果的に中立的な立場になるのではないかと思う。


 人と人との間も国家間の関係も結局は相手の立場を尊重することに尽きると思う。中立・中庸も大事であるが、それよりも基本的なリスペクト精神を大事にしたいと思うのである・・・

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【本日の読書】