2021年8月29日日曜日

スモーキング・マナー

 およそ26年ぶりにタバコを常習するようになったが、再開してみると否が応でも気がつくのは、「タバコを吸える場所が少ない」という事実である。別にタバコを吸わなくても、なんとなく感じていたことであるが、実際、吸い始めるとその事実に直面する。まずは職場。前職では小さなビルゆえか、外階段に灰皿が設置されていたので、「ちょっと席を外して」という感じであったが、転職した新しい職場は立派なビルの7階。一応、職場内に喫煙ルームがあったが、「電子タバコのみ」。「煙が出ない」というのがその理由。

 その喫煙ルームはどうやら部屋を借りている我が社で勝手にスペースを作ったらしいが、煙はまずいとなって「電子タバコのみ」となったようである。ビル全体は当然禁煙。外へ出るしかないが、近隣にタバコ屋があって店内を喫煙所として開放している。ところがタバコを買わないとダメらしい。たまたま買うタイミングであればまだしも、そうでなければ面倒である。さらにファミリーマートが店内に喫煙所を設けているのが判明。ここは「密を回避」という条件がつくが、時節柄やむを得ない。ただ、狭いゆえに4人も入れば密状態。タイミングが難である。

 足を伸ばせば公共施設に喫煙所が設置されていて、ここはオープンスペースゆえに密の心配はなく、使い勝手は誠に良い。ただ、少し離れているので、仕事中にちょっと一服するには難儀である。路上の喫煙も禁止の表示がいたるところにある。ただ、それが悪いかと言えばそうではない。再開したとは言え、やはり臭いも気になるし、健康面の意味でも本数を制限するようにしているが、そういう我が身にはこういう環境は誠に都合が良いと言える。

 ファミリーマートの狭い喫煙所を利用してみて気がつく。その時はたまたまであるが、灰皿の上に空の箱が捨ててあった。そこは当然吸い殻を入れるところであり、空箱は持って帰ってしかるべきところに捨てるべきである。どこかの不届き者の仕業であろうが、タバコを吸う人間にはこういう「マナー違反」がかなり多いように見受けられる。これは昔から気になっていたところであるが、相変わらずのようである。灰皿の周辺は灰が散乱。非常に見苦しい。おそらくお店の人が掃除しているのだと思うが、かなり不快な気分になると思う。そういう人のことも考えれば、灰の処理にも気を使うべきであろう。

 気がつけば歩きタバコをしている人を目にすることもある。このご時世にとんでもないことである。吸い終わったタバコをどうするのかと想像してみるのも不快である。週末のシニアラグビーの練習後、タバコを吸いながら雑談しているのは、いつもグラウンドを分け合って練習している仲の良いチームの面々。右手にタバコ、そして左手には携帯用の吸い殻入れを持っている。さすが、しっかりしていると感心。そういう自分も一つ持っている。

 考えれば、昔は飲食店には普通に灰皿があった。みんな普通に食後の一服を楽しんでいた。隣の人がこれから食べようとしていても、である。それを考えれば、今は禁煙が普通であり、良い環境になったと思う。そもそもであるが、本来環境に頼るべきではないのである。タバコを吸う人間は、エチケットとして周りに気を配る必要がある。吸い殻の処理もしかり。ポイ捨てなど言語道断である。「吸いにくい」と文句を言うのではなく、本来であれば自らを律するべきであり、律すれば必然的に吸える場所は限られてくるのである。

 タバコを吸う人間は、どこかそういう部分がルーズであるように思う。自分のことしか考えていないとも言える。周りに吸わない人がいるなら吸わないのがマナーであり、それが守れているなら「受動喫煙」という問題は本来発生しないはずである。ポイ捨ても然り。また、せっかく設置してある喫煙所も綺麗に使うように心掛けないといけない。トイレも自分で掃除してみれば綺麗に使おうと心掛けるようになる。喫煙所も然りだろうと思う。マナー違反者は防犯カメラで監視して捕まえた上で罰として掃除させるというのも良いかもしれない。

 喫煙所で何気なく紙タバコを吸っている人を観察していたら、みんなかなり短くなるまで吸っていることに気がついた。今はマルボロが一箱570円。サラリーマンの懐にはかなり厳しい価格である。みんな少し吸って捨てるというもったいない吸い方ができなくなってきているのかもしれないと感じる。それを逆手に、電子タバコが単価の安さを売りに攻勢をかけているようである。確かに、灰と煙というタバコの害悪を極力減らした電子タバコはその意味で良いと言える。ただ、個人的には電子タバコに乗り換えることは当分ないだろう。

 吸いにくい環境はwelcomeである。マナーに期待しても、残念ながらタバコを吸う人間のモラルにはあまり期待できない。ならば徹底して吸いにくくするのは正しい対応であろう。この先、ずっとタバコを吸い続けるかはわからない。また以前のように「休煙」するかもしれない。ただ、吸う限りはエチケットはきちんと守りたいと思う。自分自身、そのように身を律することができる人間でありたいと思うのである・・・




【今週の読書】
      



2021年8月26日木曜日

タリバン政権について思うこと

 アフガニスタンから米軍が撤退すると発表され、その期限が迫るとなった途端、タリバンが北部の州都を制圧し始め、あっという間に首都カブールに侵攻し、政権が崩壊してしまった。米軍が撤退を発表してからあれよあれよという間である。カブールでは外国人はともかく、アフガン人の米軍協力者やタリバンを恐れる人々が空港に殺到しているという。中には発進した輸送機に乗り切れない人が機体にしがみつき、離陸後に落下するという悲劇も起きているらしい。

 なぜ、こんなにも早くタリバンが侵攻し、政権が崩壊してしまったのだろう。ニュースをさらりと聞き流しそうになって、ふと興味を持ってみた。タリバンは中露の後押しを受けているということであるが、総兵力は約6万人と報じられている。一方、これに対するアフガニスタン正規軍は30万人。さらにアメリカは2002年以降、アフガン治安部隊に880億ドル(9兆7000億円)の資金支援を実施し、軍用ヘリコプター「ブラックホーク」など多数の米国製の装備品も提供してきたという(日経新聞)。戦力では圧倒的な差があるはずである。

 ただ、アメリカも圧倒的な戦力差がありながらベトナムで負けた歴史がある。戦力差だけで単純に比べられないのは確かである。しかし、激しい戦闘の上で敗退したならともかく、わずか3週間ほどの短期間であり、「蜘蛛の子を散らす」ように正規軍が逃げた雰囲気がある。おそらく士気の差が圧倒的だったのだろう。いくら装備に優っていても、立ち向かう気持ちがなければ武器などなんの役にも立たない。それに汚職なんかも激しかったようだし、ガニ大統領は札束抱えて亡命したらしいし、そのあたりに原因があるのだろう。

 我々が見ているのは常に「西側」のニュースである。私が薫陶を受けた師匠は、「複眼思考」という言葉を常々語られている。物事を一方向からだけ見るのではなく、角度を変えて見るということである。今回のニュースでは、タリバンの偶像破壊とか女性抑圧とかの蛮行が強調され、慌てて女性のポスターを剥がす店舗や不安を訴える人々の話などが報じられている。しかし、「アメリカ」を「ロシア」あるいは「中国」と置き換えると、ニュースのニュアンスはガラリと変わる。それが偏っている何よりの証拠である。

 そもそも6万人の兵力だけで国土を支配することができるはずもない。それも重装備の正規軍が30万人もいるのに、である。ニュースではタリバンを恐れる人々の顔しか映さないが、支持する人だって当然いるわけである。アメリカが南ベトナムを支えきれなかったのも、北ベトナムの軍事力が強かっただけではなく(むしろ軍事力ではアメリカ・南ベトナム側の方が優れていたのである)、市民レベルで南ベトナム政府が支持を得られなかったからに他ならない。今回のアフガニスタンも結局のところ同じなのではないかと思う。

 かと言って、タリバンが正義というわけではない。現にタリバンは早くも元政府軍への総攻撃を開始し、厳格なイスラム思想に沿った女性や子供達への締め付け、米軍協力者の捜索が拡大しているという。要はどちらが正しいかと言う話ではなく、どちらが国民の支持を受けているのかという話である。そこにはアメリカ=正義、民主主義=正義という図式が当てはまらないということだと思う。タリバンにはタリバンの正義があり、そしてそれは我々の考える正義とは異なるが、現地の人たちからは(少なくとも政府よりも)支持を得ているということなのではないだろうか。

 それになぜアメリカが撤退を決めたのかということもある。詳しいことはわからないが、「一言で言えばアフガニスタン政府を支える必要がなくなった」ということは間違いない。石油に依存する必要がなくなり、中東のプレゼンスが低下しているということは専門家の意見としてよく目にする。正規軍兵士のモラルも低く、武器の横流しなどもかなり行われていたと言う。20年もの間、10兆円近くつぎ込んできてもそれでは守る価値もないということなのだろう。米軍に占領された歴史のあるわが国と比較してもその違いは明らかである。わが国は戦後6年で米軍の手を離れて国際社会に復帰している。

 今後、タリバン政権がどんな政治を行うのかはわからない。懸念されているように、我々の理解できないイスラム思想に基づいて窮屈な恐怖政治を行うのかもしれない。ただ、それはアフガン人の選択であり、周りがとやかく言うべきものではないと思えてならない。タリバンは、米軍の総攻撃で散り散りなって20年、その間消滅することなく勢力を拡大または維持し、着々と米軍が去るのを待っていたわけである。当然6万人だけではなく、それを支持する人たちがいたという事実は重いと思う。

 事の真相はわからないが、一つの価値観にとらわれる事なく、いろいろな見方をしていきたいとだけは、改めて思うのである・・・


【本日の読書】



2021年8月22日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その26)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。已矣乎。吾未見能見其過。而内自訟者也。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、已(や)んぬるかな。吾(われ)未(いま)だ能(よ)く其(そ)の過(あやま)ちを見(み)て、内(うち)に自(みずか)ら訟(せ)むる者(もの)を見(み)ざるなり。
【訳】
先師がいわれた。
「なんともしようのない世の中だ。自分の過ちを認めて、みずから責める人がまるでいなくなったようだ」
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 人は誰でも自分の人生の主人公であり、したがって自分の行動は常に正しいというのが自分の内なる世界の出来事であろう。傍から見ればおかしいということでも、本人の中では正しいということが多々あるし、それが普通であろうと思う。かくいう自分も、常に自分の中では考えて正しいと思う行動を取っている。ただし、「正しい」とは必ずしも法律やルールやモラルを守ったものとは限らない。あくまでも自分なりの「正当化」である。「盗人にも三分の理」ということわざにある通りである。

 同じようなことに「すっぱいブドウ」がある。イソップ童話にある自己正当化の話である。ある社長はこの典型であった。父親に出資してもらって始めた会社は長年赤字を計上し続けていたが、個人資産がかなりあるので何とか倒産せずに済んでいた。単調な経営でまるで工夫がなく、それゆえに赤字になるのも当然であった。しかし、それは経営が下手ということではなく、あくまでも「相続対策」のためにわざと赤字にしているということであった。父親が出資しているため、相続が発生すれば株をもらうことになる。その時に過大な相続税を回避するために赤字にしているのだと強弁していた。

 そして相続が発生。会社はともかく、その他の相続資産がかなりあって、それなりに相続税は納めたようである。すると、今度は「納税は社会貢献だ」といい始めた。だから変な相続対策などせずにきちんと納めたのだと。どうやら会社を赤字にしていたのは「変な相続対策」ではないらしかった。ただ単に相続税をたくさん取られたので、悔し紛れに「社会貢献だ」と言っているだけなのは明らかだった。その後、事あるごとに「税金がかかるから」と口癖のように言っていたが、「社会貢献」ならかかってもいいのではと聞くたびに思ったものである。

 その社長にとっては、会社を黒字経営できないことも、税金をたくさん取られることも不本意で仕方がなかったのだろう。だから「黒字を出せない」のではなく、「わざと赤字にしている」のだし、「多額の税金を取られた」のではなく、「多額の社会貢献」をしたのである。だから取られた後は、税金がかかることはなるべく避ける、あるいは節税策に勤しむのである。傍から見れば面白いくらいわかりやすい「すっぱいブドウ」である。「すっぱい」とでも言わない限り心中穏やかではいられなかったのであろう。

 「すっぱいブドウ」は自分自身に対する慰めなのか、はたまた他人に対する見栄なのかはわからないが、件の社長はおそらく両方だったのだろうと思う。ただ、そういう言い訳を周囲に、そして自分自身に対してしていると、それは自分の成長には繋がらないと思う。わざと赤字にしていると言えば、その場は取り繕えるのかもしれない。しかし、それではいつまで経っても「どうしたら黒字にできるのか」がわからないままである。素直に「自分の能力が足りない」と自覚して行動しない限り、黒字化するヒントは掴めないし、他からのアドバイスも受けられないだろう。

 私自身、「自己正当化」はよくやっている。同じ行動でも二つの面があったりする。一つは自分自身の私利私欲であるが、実はそれをしなければ大きなデメリットがあるという行動でもあった場合、他人には大きなデメリットの方を強調して「やむを得ない」ということを主張するのである。いわゆる「大義名分」という奴であるが、この「大義名分」はよく利用する。もともと日本人は「大義名分」を重視するところがある。倒幕運動も単なる権力争いであったが、「錦の御旗」を用意した薩長が「官軍」になったようにである。

 「すっぱいブドウ」と「大義名分」は異なるものであるが、「自己正当化」という共通点がある。いずれも他人に対する自己正当化であるが、自己正当化は他人に対してはいいかもしれないが、自分に対してやってはいけないと思う。なぜなら、それをやっていては自分のためにならないと思うからである。できないのには理由がある。その理由をきちんと捉え、できるようにしないといけない。それを「あれはすっぱいから」と言っていたのでは、いつまで経ってもできないままである。件の社長のように、である。

 また、他人に対しても「すっぱいブドウ」は簡単に見透かされる。「では仮に取ろうとしたら取れるのか」と他人は突っ込みたくなる。その時の言い訳は苦しいものにしかならない。しかし、ここで「実は届かないんだよ」と正直に告白すれば、他人も突っ込めなくなる。件の社長も「実は能力がなくて黒字にできない」と告白していれば、私に心の中で突っ込まれることもないし、「じゃあ、あの人に相談してみれば」と親身になってもらえる可能性もある。正直で謙虚な人間を貶すことは、普通の人にはなかなかできないことである。

 人は誰でも自分の人生の主人公であり、ゆえに常に自分は正しく、他人に対してもひとかどの人物として見られたいという思いがある。だが、いたずらに自己正当化に走ってもそれは簡単に見透かされてしまう。結果、かえって他人からは(心の中で) バカにされることになる。だから逆に正直にできないものはできない、誤ったことは誤ったと認めてしまう方がいいし、楽だったりする。見栄を張ってみたところで対して効果はない。逆に正直になってしまった方が、他人からの嘲りを回避できるという効果がある。なら、それだけでも徳ではないかと思う。

 人生も後半になると、これから大人物になれる可能性もますます減ってくる。ならば少なくとも他人から嘲られることのない方を選びたい。件の社長を見ていて、そんな風に思うのである・・・



【今週の読書】
  



2021年8月19日木曜日

共産党独裁は悪か

 先日、日経新聞に『学習塾は敵、ゲームは麻薬 習近平式「大衆動員」の深層』という記事が出ていた。なんでも急成長した中国の教育産業、ゲーム業界に衝撃が走り続けているという。その原因は、7月下旬、義務教育段階の校外補習を担う学習塾に突然、共産党中央から「非営利組織化せよ」というの命令が突き付けられたのだそうである。背景には、「学習塾など教育負担が重すぎる、学校から家に持ち帰る宿題が多すぎる、といった父母らの大きな不満に配慮する」ということがあるらしいが、「実態は民間教育への政治的な管理・統制の強化」ということでもあるらしい。

 また、別の記事では、中国当局がマンション取引の規制を強めるというのがあった。主要都市で住宅購入に資格制を設けたり、中古物件の売買価格に当局が介入したりしているらしい。不動産高騰への社会の不満が強いためで、今後3年で投機や違法取引を抑え込む方針だという。不動産取引の制限については、過去に日本でも「総量規制」というのが行われ、バブル崩壊の原因になったとされているから極端ということでもないが、「非営利組織化せよ」というのは、日本(というか先進国)ではありえない。さすが共産党独裁国家である。

 その「独裁」であるが、その意味は「反対を許さない」というところにある。仮に日本で「非営利組織化せよ」という決定が下ったとしても、まず教育産業界で反対の声が上がり、それに共産党他の野党が便乗して国会ですったもんだとなり、民間でも国会にデモが押し寄せたりして、大騒動の挙句、ひょっとしたら覆るかもしれない。しかし、中国では覆らない。決定は決定である。何より反対する野党はないし、デモは鎮圧されて終わりだし、すぐ逮捕されるし、逮捕されたらどうなるかわからないし。香港の例を見てもそれは明らかである。「鶴の一声」で決まってしまうことである。

 怖いと言えば怖いのであるが、「意思決定即実行」という意味では、誠にスピーディである。例えば、日本でも民間企業では社長が基本的に決定権を持っている。上場企業であればまだしも、多くの中小企業では社長は独裁者である。たとえ全社員が反対したとしても社長の鶴の一声でなんでも決まってしまう。一応、法律では株主総会が最終的な権限を有しているが、社長が株のすべてまたは過半数を持っていれば意味はない。会社の意思決定は取締役会にあるが、社長が株の過半数を押さえていれば、最悪、役員を全員解雇できるからこれも意味はない。

 しかし、会社は逆に民主的であると意思決定という意味で機能しなくなるところがある。それに多数決がいつも正しいというわけではない。ヤマト運輸が宅急便事業に進出すると決めた時も、役員は全員反対したというし、会社が民主主義を採用していたら今頃ヤマト運輸はとうの昔に消滅していたのであろう。もちろん、社長の独断専行で失敗して消えていった会社も数多くあるから、そこは良し悪しである。「会社は社長の器以上に大きくならない」と言われている通り、ダメ社長の下の社員は悲劇から逃れるには会社を辞めるしかない。

 果たして会社は、独裁と民主主義とどちらがいいのかと言われれば、それはやはり独裁だと思う。日本電産や京セラ、ソフトバンクやユニクロなど「名独裁者」がいたからこそ大発展したのは間違いないし、中小企業でもそれでうまくいっているところが大半であろう。逆に中小企業では、たとえ役員という肩書きを持っていたとしても、「指示待ち族」だったり、自分なりの経営観を持っていない「名ばかり役員」も多いから「民主主義」が育たないという面も否定できない。

 では国家はどうなのだろうか。
独裁者が、国民の人権に充分配慮し、国民の幸福のために権力を行使するのであれば、それは歓迎なのかもしれない。何より意思決定が早いし、今回のコロナ禍のような危機的状況や災害などに際しては圧倒的に早い意思決定がなされ、それを有無を言わさず実行して効果を発揮するのだろうと思える。ただ、問題は私利私欲に走られるとどうにも止められないというところにある。中国も人権弾圧という大問題を抱えている。

 「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」とは、かのチャーチルの名言であるが、これはやっぱり当面真実であり続けるのだろうと思う。もし、民主主義以上の政治形態が出てくるとしたら、それはやっぱり「AI独裁」なのかもしれないと思う。そういうAI独裁体制下で暮らしてみたいかと問われると、不安もあるが、個人的にはいいのではないかとも思う。少なくとも今の中国よりははるかに安心して暮らせそうな気もする。そんな「独裁体制」が実現するかどうかはわからないが、当面は独裁体制はどうも不安だし、今の日本に生まれて暮らせる幸せを改めて噛みしめたいと思うのである・・・



【本日の読書】
  



2021年8月15日日曜日

AI独裁

 先日、『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』という本を読んだ。その前にも『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』という本も読んでいるが、「サピエンス三部作」と名付けても良さそうな人類の過去、現在、未来を語ったユヴァル・ノア・ハラリという人の記した大作である。その中で、AI(アルゴリズム)の進化について語っている部分が深く印象に残った。

 AIの進化については至る所で語られている。医療の分野では、たとえば画像診断で医師でも見落とすような異変を指摘できるそうである。やがて診断はすべてAIが行い、治療方針もAIが決め、手術もロボットがやるようになれば医師の出番はほとんどなくなってしまう。それが様々な分野に進出する。ちょっと衝撃的でさえあったのは、「自動運転」「軍事技術」「政治」であろうか。詳しくは本書の一読をお薦めしたいと思う。

 なかでもたとえば軍事技術では、AIを搭載したロボット兵士の話は衝撃的でる。殺人ロボットなどというとSFの影響でついつい危険視してしまう。しかし、AIは事前に決められたルールに従って正確に行動(つまり敵を殺害)する。人間と違って戦闘中に正気を失うことがない。ベトナム戦争では「ソンミ村の虐殺」という米軍兵士が民間人を何百人も虐殺した事件が起こってしまったが、ロボット兵士ではそういうことが起こらない。史上初めて戦場で「戦場ルール」が遵守されることになるという。

 また、近年、イギリスのEU離脱(ブレクジット)が話題となったが、大衆はしばし感情に左右される。わが国でも小泉首相が郵政民営化を唱えた時に支持率が急騰して郵政選挙に圧勝したり、民主党が圧勝したり、戦前であれば朝日新聞を筆頭としたメディアの煽りによって大衆が熱狂し、軍国主義へとまっしぐらに突き進んで行った過去がある。AIは感情に左右されないから、冷静に合理的に判断を下す。そうすると、誰に投票したら良いのかとということについて、過去の実績や言動などに基づいて冷静に判断を下すようになるかもしれず、人はなかなかその判断を無視しにくくなるかもしれない。

 それどころか政策すらもAIが判断して決めることになると、それは果たしていいのかどうかと疑問に思うが、よくよく考えると人間よりもいいのかもしれない。前東京都知事の猪瀬直樹による著『日本人はなぜ戦争をしたか』によると、昭和16年夏の段階で総力戦研究所という所が、「もし日米開戦すれば日本必敗」という研究結果を導いたという。彼我の国力を冷静に分析した結果であるが、時の東條英機首相は労をねぎらいつつも現実は理屈通りにはいかないとして、この成果を却下している。もしもAI首相であれば違う決断を下していただろう。人間の政治家が何人も集まるより、AIなら一台で事足りてしまう。それは果たして危険な未来なのだろうかと考えてしまう。

 他愛もない話だが、十代の頃は恋愛で好きな相手との相性を占ったことがある。結婚前は今の妻との相性である。妻との相性はかなり悪く、ショックを受けたのを覚えている。「まぁ、所詮くだらない占いだから」とバカにして気にしなかったが、今にして思えばバカになどせず真面目に捉えて他にしておけば良かったと思う。もしもAIが結婚相手を決めるとなれば、膨大な結婚・離婚データを元に最適な相手を選んで勧めてくれるだろうし、そうなれば一時の感情に流されて後になって後悔することもないのかもしれない。生まれる子供の可能性まで判断材料とすれば、その方が幸せなのかもしれない。

 子供が生まれれば、両親の性格や遺伝データから生まれた子供の性格を判定し、最適な進路を提示する。あとは決められた通りに進学し、就職し、結婚する。能力が発揮できる会社に就職し、能力が発揮できる上司との組み合わせを選んで配属先が決められる。それに沿って能力を発揮すれば昇進させてもらえる。しかし、出世しても副社長どまりかもしれない。なぜなら経営判断はAI社長が行うからで、それによって放漫経営などとは無縁になり、働く社員もハッピーになるかもしれない。「会社は社長の器以上に大きくならない」という真理があるが、そうするとどの会社も果てしなく大きくなるだろう。

 「独裁」という言葉は悪いイメージでしかない。そこには民意を無視して独裁者が好き勝手に振る舞い、大衆は圧政に苦しむというイメージである。しかし、もしもAIが大衆にとって常に最適な政策を施行するような社会となった場合、「AI独裁」は悪い政治形態なのだろうか。ワンマンAI社長の下で働く社員は、安月給で働かされ放漫経営で会社が潰れる心配はないとなると、果たしてそれは悪なのであろうか。少なくとも、「会社はオレのもの」と勘違いして好き勝手する社長よりは圧倒的に善であると思う。国もまた然りか。

 人間が一番と思い込んでいると、ひょっとしたらそれは大きな間違いなのかもしれない。そして我々は少なからずSF映画に毒されているのかもしれない。もしかしたら、大事な判断は人間がやるよりもいいのかもしれない。いろいろと想像力を働かせてみると面白い。こういう思考訓練になるような本をこれからも読んでいきたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
  



2021年8月12日木曜日

東京オリンピック雑感

 東京オリンピックが閉幕した。金27、銀14、銅17の計58個のメダルは、日本史上最高だと言う。地元だから特に何か有利になるとも思えないが、開催国として関係者一同の力がみなぎったのだろうか、それとも特別な国の後押しがあったのだろうかと思ってみる。何にせよ、喜ばしいことである。当初は、主に資金的な理由からオリンピック誘致には反対であったが、決まってしまったものは仕方ないというスタンスでいた。実際にかかった費用は、当初の見積もりの倍以上の1兆7,000万円だったという。

 しかし、開催の時期が近づき、いよいよチケットの販売も始まると事情が変わる。実家の母親が観に行きたいとつぶやき出したのである。前回の東京オリンピックの時、ちょうど私が生まれている。両親はともに無一文で田舎から出てきていて生活にゆとりなどなく、狭いアパートに住んで子育ても必死だったようである。父も夜遅くまで残業の毎日で、とてもゆっくりオリンピックなど楽しんでいる余裕などなかったそうである。なので今回はそのリベンジとなるわけで、「チケットが取れた」と知らせた時は大いに喜んでいたのである。

 ところが、思いもかけないコロナ禍で無観客試合となり、残念無念。母もがっかりしていた。本来であれば、やはりバレーボール好きの叔母と一緒に行けるように、当日は運転手に徹するつもりで手はずを整えていただけに、無観客試合は私自身も残念であった。それでも母はあれこれとテレビで観戦していたようである。バレーボールのチケットが取れ、母親が楽しみにしている姿を見て、それだけで東京オリンピックはやってよかったと思う。共産党などは、閉幕まで「反対!」と唱えていたが、たぶん自民党政府が開催中止としていたら、開催賛成と主張したのだろうと思う。

 私は、と言えば、もともとオリンピックにそんなに興味があるわけでもない。それでも柔道やレスリングや水泳なんかは(時間があれば)見ていたいと思ったが、悲しいかなそういうのんびりとした時間がなく、ほとんどチラ見した程度であった。「時間がない」とはビジネスマン的には禁句だが、正確に言えば、「優先順位を上げられない」である。平日は平日で、家に帰ってきてもやりたいことがある(それにチャンネル権もない)。週末はラグビーの練習があったり、実家に顔を出して料理をしたりという有様。裏でやっていたラグビーのブリティッシュ&アイリッシュライオンズの南ア遠征の各試合すらろくに観られなかったのだから余計である。

 ブリティッシュ&アイリッシュライオンズは4年に一度イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの代表から選抜されて結成される「全イギリス」というべきチームで、前回のラグビーワールドカップ日本大会の覇者南アに遠征して、南アの代表チームと3試合、南アのプロチームと数試合対戦するという垂涎モノだったが、これも2試合(あと1試合は録画したまま)しか観れていない。大好きなラグビーですらその有様なのに、オリンピックに割く時間など取れなかったのである。まぁ、仕方ない。

 続いてパラリンピックがあるが、これはもう論外。初めから見たいとも思わない。障害者スポーツが悪いとは思わないし、むしろ積極的に好ましいと思うが、だからと言って観たいということにはならない。障害があってもスポーツができるということは素晴らしいことで、それを地域に止めるのではなく、パラリンピックという最高の舞台を用意することは、障害者にも夢を与えるし、素晴らしいことだと思う。ただ、個人的にそれを観たいかとなると、興味がないというだけのことである。高校野球よりもレベルの高いプロ野球の方が面白いのと同様、どうせ「観るならオリンピック」なのである。

 前回の東京オリンピックは、スポーツの秋10月10日に開幕し、ゆえにその日が長年「体育の日」として親しまれてきた。されど今回は真夏の祭典。何でそんなバカな時期にやるのかと素人的には思うが、それは最大のスポンサーであるアメリカのテレビ局の意向なのだとか。秋になれば自国のスポーツが目白押しとなるから、それを回避したかったのだとか。真偽は定かではないが、実際、大会費用の7割はアメリカのテレビ局が出しているらしいから、実に理屈に合った話であり、個人的には真実であると思っている。アスリートや観戦する人たちのことは二の次、それが資本主義の言うなれば欠点なのだろう。

 それにしても毎回オリンピックのたびに思うのだが、オリンピックの1つの意義としては、マイナースポーツに陽が当たることではないかと思う。野球やテニスはそれだけで成り立つが、フェンシングやアーチェリー、カヌーなんかの競技はほとんど目にする事はない。そうしたマイナースポーツにも(多少の)陽が当たるのはいい事だと思う。そういう意味で、金メダルは取れたが、野球のプロ選手の参加は如何なものかと個人的には思う。サッカーもそうだが、ワールドカップクラスの試合がある競技は、なくてもいいように思う。その分、マイナースポーツにもっとスポットライトを当ててもいいのではないだろうか。

 オリンピックは観戦できなかったが、母は孫(つまり私の息子だ)の野球をネット中継で観られて喜んでいた。今は高校野球は一回戦からテレビかまたはネット配信で試合が観られる。スマホの画像をテレビに転送して観ていたが、思いもかけぬ「観戦」に大喜びであった。残念ながら二回戦で敗退だったが、「次はいつ?」と聞く有様であった。まぁ、ラグビーに進まなかったのは残念だが、代わりに孝行してくれたので良しとしたい。やっぱりオリンピックよりも孫なのだろうか。あと2年は母を楽しませて欲しいと、楕円球ではなく白球を追う息子にエールを送りたいと思うのである・・・



【本日の読書】
  


2021年8月9日月曜日

論語雑感 公冶長第五(その25)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
顏淵季路侍。子曰。盍各言爾志。子路曰。願車馬衣輕裘。與朋友共。敝之而無憾。顏淵曰。願無伐善。無施勞。子路曰。願聞子之志。子曰。老者安之。朋友信之。少者懷之。
【読み下し】
顔淵(がんえん)・季路(きろ)侍(じ)す。子(し)曰(いわ)く、盍(なん)ぞ各〻(おのおの)爾(なんじ)の志(こころざし)を言(い)わざる。子路(しろ)曰(いわ)く、願(ねが)わくは車(しゃ)馬(ば)衣(い)軽裘(けいきゅう)を、朋友(ほうゆう)と共(とも)にし、之(これ)を敝(やぶ)りて憾(うら)み無(な)からん。顔淵(がんえん)曰(いわ)く、願(ねが)わくは善(ぜん)に伐(ほこ)ること無(な)く、労(ろう)を施(ほどこ)すこと無(な)からん。子路(しろ)曰(いわ)く、願(ねが)わくは子(し)の志(こころざし)を聞(き)かん。子(し)曰(いわ)く、老者(ろうしゃ)は之(これ)を安(やす)んじ、朋友(ほうゆう)は之(これ)を信(しん)じ、少者(しょうしゃ)は之(これ)を懐(なつ)けん。
【訳】
顔淵と季路とが先師のおそばにいたときのこと、先師がいわれた。「どうだ、今日は一つ、めいめいの理想といったようなものを語りあってみようではないか」すると、子路がすぐいった。「私が馬車に乗り、軽い毛皮の着物が着れるような身分になりました時に、友人とともにそれに乗り、それを着て、かりに友人がそれをいためましても、なんとも思わないようにありたいものだと思います」顔淵はいった。「私は、自分の善事を誇ったり、骨折を吹聴したりするような誘惑にうち克って、自分の為すべきことを、真心こめてやれるようになりたいと、それをひたすら願っております」しばらくして子路が先師にたずねた。「どうか、先生のご理想も承らしていただきたいと思います」先師はこたえられた。「私は、老人たちの心を安らかにしたい。友人とは信をもって交りたい。年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのだ」
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 昔から将来の夢を聞かれるのが苦痛であった。そんなものなかったからである。それは今の今に至るまで同じである。一体全体、夢ってなんだろうと今でも思う。子供は「パイロットになりたい」とか、「お嫁さんになりたい」とか言うが、それは夢というよりも「目標」と言える。では、夢とは目標なのか。「甲子園に行きたい」「会社を上場させたい」という夢もよく聞くが、それもよくよく考えれば「目標」だと言える。そうではなくて、夢とは「理想」なのではないかと改めて思う。

ではそんな理想とはなんだろうか。
これなら人それぞれ誰にでもあるような気がする。高校を卒業したら大学はどこへ行き、就職はどこ(どんな会社)がよくて、どんな相手と結婚して、子供は何人で、どんなところに住んで・・・と理想ならいくらでも出てきそうな気がする。そんな「理想の生活」なら、誰でもいくらでも語れると思う。「年に数回海外旅行をして、欲しいものはなんでも買って」と。ただし、いい大人になるとそこに「実現可能性」という制限が加わる。

 理想を言えばキリがないが、そこに「実現可能性」が加われば、理想はよりリアルな現実に近づく。毎年海外旅行に行きたいとは思うが、現実的には無理である。今はコロナ禍でそもそも無理であるが、それがなくても高校生の息子は部活動で忙しく、転職したばかりだとそもそも時間的に取れない。2人の子供が高校生と大学生となると、教育費の捻出で資金的にも厳しい(もちろん預金を取り崩せば十分可能だが、そんなことで預金は取り崩せない)。将来的には可能かもしれないが、妻は私と2人で行きたがらないだろうし、そうなると1人で行くか同行者を見つけるかしないといけない。この理想はかなりハードルが高い。

 今は平日は会社に出勤している。仕事は総務で会社の裏方役であるが、一方で今後の会社の行くべき道を考えたり、苦しい現状を打破したりということも考えないといけない。財務に加え、人事面でも人材育成の方法を考えたり、総務本来の仕事の見直しもしないといけない。着任して1週間しか経っていないが、やるべきことは日ごとに増えていく。なかなか仕事も楽しそうである。当面、70歳まではこうして楽しみながら仕事をしたいと考えている。人によってはハッピーリタイアを急ぐ人もいるかもしれないが、私は1つの刺激として仕事をしていきたいと思う。理想の生活の1つである。

 週末にはシニアのラグビーの練習に参加している。ハァハァゼィゼィと息を切らし、汗を流すのは実に心地よい。1つ1つのプレーの精度を上げ、できないことをやれるようにする(あるいはできることをもっとうまくできるようにする)という試みは、体全体への刺激になる。ラグビーの試合を観ては自分のプレーの参考にもなるし、自分の技術を上げるための創意工夫は、それはそれで楽しい。たまに参加する試合でもタックルを決めれば気持ちいいし、たとえ後に打撲や擦り傷が残ったとしても、それすら心地よい。いつまでとは言わず、いつまでも続けたいと思う。これも理想の生活の1つである。 

 週末の夜は映画が楽しみである。面白そうな映画を片っ端から観ていく。お供は大抵ジャックダニエルだが、今の時期はサントリー・プレミアムモルツだったりする。本は通勤電車の中で読むのが日課であるが、転職で通勤時間が短くなったのが残念である。どちらもたくさん観たいし読みたいが、感想をブログにまとめるのが追いつかず、それがストレスになっている。けれど、一本、一冊の積み重ねが楽しく、より多く積み上げる幸せをこれからも続けていきたいと思う。これも理想の生活の1つである。

 お金がたくさんあれば幸せになれるとは限らないが、理想の生活に一歩近づくことはできる。だからお金は欲しいが、だからと言って他人を貶めたり、他人から恨まれたりしてまでかき集めたいとは思わない。お金も大事だが、人(それは家族であり、親戚であり、友人であり、会社の同僚であり、関わり合う人である)からの信頼を損ねてまで大事だとは思わない。もっとも1億円くらい目の前に積まれたらわからないが、その時は分け合うとかしてなるべく信頼は損ねないようにすると思う。

 お金以外に欲しいのは、やはり人からの信頼であろうか。自分自身常に「良き夫、良き父、良き息子、良き友人、良き同僚」でありたいと思っているし、そのために一肌脱ぐ必要があれば、喜んで脱ごうと思う。たとえ時間がかかったり、手間がかかったりしたとしても、「ありがとう」と言ってもらえるなら、これは1つの報酬と言える。頼まれごとを受ければ、たとえ面倒であってもそのこと自体が1つの報酬と言える。なぜなら嫌われていたら頼まれ事すらないだろうからである。

 友達は量より質だと考えている。大学時代の友人は7人(ラグビー部の同期6人とゼミの同期1人)だが、それで寂しいとは思わない。表面上、顔と名前を知っている友人10人よりも心を許していろいろと話せる友人が1人いればそれでいいと思う。たまにであっても、会えば「よぉ!」と普通に話せるのであればそれだけでいい。同期以外にも先輩もいて後輩もいて、気がつけばそういう関係の友人が結構いるもので、これからも積極的に増やしたいとは思わないが、新しい友人を拒絶しようとも思わない。ただ、気に入らない人間とはたとえ上辺だけでも付き合いたいとは思わない。そこは積極的に距離を置きたいと思う。これは理想の生活のための態度である。

 これから年々歳をとる。体も衰える。体力が衰えると気力も衰えるのが気になるが、なんとか穏やかに暮らしていきたいと思う。妻との関係改善もできるならしたいと思うが、無理なら別々の老後を送るのも選択肢の1つである。なんともまぁ、ささやかな「理想の生活」であるが、今楽しんでいることをずっと続けていくのが、考えてみれば望ましいと思う。そういう「理想」を持って、これからも日々を送りたいと思うのである・・・



【今週の読書】

  


2021年8月5日木曜日

コロナ妄想

 コロナの感染拡大が続いている。なんとかうまく食い止める方法はないのかと思うが、まわりを見渡すとなかなか難しいということを肌で感じる。先月までの勤務地は蒲田。コロナで飲食店街もすっかり閑古鳥という感じだが、一駅隣の川崎はそうではないらしい。というのも、川を渡った川崎は神奈川県で緊急事態宣言の対象外(今は違うが・・・)。蒲田で飲めないならと、一駅お隣に「遠征」しているようである。その人たちがすべて感染しているというわけではないだろうが、そういう「考え方」が感染拡大の底辺にあるのは間違いないだろう。

 一方、知人がある飲食店に行って経験したことであるが、その店では酒類の販売は停止中であり、メニューにもソフトドリンクしかない。しかし、店員さんに「シロップ」を追加で頼むと、その「シロップ」入りの「ソフトドリンク」で酔っ払えるのだとか。ビール党には物足りないだろうが、サワー党には十分なようである。お店としては顧客サービス兼売上維持のための苦肉の策なのであろうが、そういう「考え方」が感染拡大の底辺にあるのは間違いないだろう。

 我が家ではいち早くワクチン接種を済ませたのは妻である。地方銀行に勤務しているため、職場での接種ができたのである。パートの身分であっても接種対象になっているのは、地方銀行といえどもさすが大きい企業ならではである。しかしながら、翌日から2日間熱を出して寝込んでしまった。なんでもモデルナ製のワクチンの2回目接種後、78%の人が発熱するそうである。まぁ、熱が出るだけでそれよりも大きなリスクを回避できるのであればそれに越したことはないが、なんとなくモデルナには抵抗感を覚えてしまう。もしかしたらそれを見越しての金曜日接種なのだろうかと思ってみる。

 ワクチンの2回接種完了者は、総人口の31.5%の4,000万人を超えたのだとか。私も来週最初の接種を予定しているが、最終的には総人口のどのくらいまでいくのだろうかと興味深く思う。しかし、ワクチンを接種しても感染しないわけではないらしいから、それもなんとも言えない。まぁ、2回接種をしたからといって、マスクなしの生活に戻れるというわけではなさそうである。一体、どこまで続くのだろうかと思う。当初から5波くらいまではいくと予想されていて、「そうなんだろうか」と疑問に思っていたが、見事予想通りになってしまった。さすがだと変なところで感心。

 昨年あたりは、ダラダラと続けるより、スパッと外出禁止令を出して1ヶ月間くらい人の動きを強制的に止めたらどうだろうかと思ったものである。緊急事態宣言と言っても、営業活動に制限を受けているのは今や飲食店ぐらいである。それ以外は不自由がないからみんな普通に活動している。だから感染も収まらない。特定の業種だけを犠牲にするのではなく、みんな外出禁止とすれば公平である。理屈であれば1ヶ月間くらいで感染を根絶できるように思う。

 その時問題になるのはやはり食料だろう。配給には工夫を凝らす必要があるが、物流業界はフル回転で頑張っていただく他ない。町内会単位で配るという考え方もあるが、そこで主婦同士のおしゃべりでも始まれば意味はない。やはり一軒一軒配る他はないが、その間、アマゾンも楽天市場も通常の購買は制限が必要になるかもしれない。医師は往診対応だろう。例外を設ければすぐにそこに殺到しそうであるから、生死に関わるもの以外は例外なしとすべきだろう。

 例外は、警察、消防をはじめとした公共機関。病院も当然。配給に携わる物流関係、食料準備関係も例外だろう。マスコミもテレビ・ラジオ局と新聞関係は例外だろうが、新聞は新聞でも新聞とは言えない赤旗は例外扱いはできないだろう。マスコミと言えども雑誌関係はダメだろう。公共交通機関は難しいところだが、ストップだろう。例外扱いの関係者は自家用車か許可を得たタクシーだろう。道路も空いているだろうから、渋滞の影響もないだろう。

 1ヶ月間家にこもったらかなりストレスは溜まると思うが、感染はかなり抑えられると思う。下手にダラダラ緊急事態宣言だとかまんえん防止とかをやるよりも経済に与える影響は少ないように思う。今回は、後手後手に回ってしまったのはやむを得ないところがあるが、「次」もあるかもしれず、その時にはこういう思い切った手もいいように思う。少なくとも個人的には賛成するだろう。もともと家で時間を過ごすことにそれほど抵抗感はないので、状況を楽しみながら過ごすかもしれない。ブログも毎日更新するかもしれないし・・・

 実現性はともかく、中途半端に対峙するよりも一気にケリをつけたいと思うのは、私だけではないと思うのである・・・




【本日の読書】
  


2021年8月1日日曜日

コロナ雑感2021年8月

 新型コロナの第5派の渦中にあり、東京都の感染者数は昨日はとうとう4,000人を超え、本日もまだ3,000人超えの状況である。感染した友人に聞いたところ、「身に覚えはない」とのこと。それゆえに自分もいつ感染するかはわからない。とは言え、これまで感染を免れてきたのは、一応一通り気をつけているからだと思う。飲みには行っていないし、密は可能な限り避けている。手指の消毒にマスクは基本中の基本。通勤電車に1時間以上揺られているが、早朝(6時台)の時差出勤がいいのだろうかと思ってみたりする。

 ワクチンの接種は後10日ほどであるが、ワクチンを打ったから大丈夫というわけでもなさそうなので、引き続き今の生活態度を維持しようと思っている。そうすれば、これまで同様、大丈夫な気がする。それにしても3,000人レベルで感染者が発生したら、医療機関をはじめとして大変だろうなと思う。我が母校の高校のラグビー部でもついに感染者が発生したそうであるが、保健所の手が回らず濃厚接触者の特定ができず、ゆえに部員全員が自宅待機となったそうである。部活顧問の先生も突然の夏休みかもしれない。

 そんな中、昨日劇団四季の『アナと雪の女王』の鑑賞に行ってきた。親しい友人に誘われたからであるが、おっかなびっくりの鑑賞である。訪れたのは、「ウォーターズ竹芝」という複合施設内に新設された劇場「春」。以前の施設よりもデッキができたりして周辺も楽しめる。その名の通り海に面しており、この時期でもやはり潮風にはどこか涼しげな感じが混じる。ちょうど遊覧船が到着したが、降りてくる客はさすがにまばら。都内に住む人たちが、この時期地方に出かけるわけにもいかず、子どもを連れて遊びがてら乗っていたという雰囲気である。

 そんな心地良さを味わいつつ、場内に入ると、なんと満席。「いいのだろうか」と席に座りつつ思う。そこかしこに鑑賞の登録を呼びかける文言とQRコードが掲示されていて、おそらく感染情報が入れば登録者に通知するのだろうと想像してみる。しかし、よくよく考えてみると、みんな静かに座って鑑賞しており、場内スタッフが会話の自粛を呼び掛けている。マスクをしていて、静かに喋らずに鑑賞しているのであれば、意外と感染リスクは少ないのかもしれないと思ってみる。

 結局、鑑賞登録は面倒だったのでやらなかったが、それは考えてみれば鑑賞の事実はオンラインでのチケット購入記録から追おうと思えば追えるのではないかと思ったこともある。今はそういう時代である。なんでもオンラインで手続きができる。チケットも現物を手にすることもなく、指定された座席に座り、後日クレジットカードに請求がきて口座から料金が落ちる。その人気ゆえに当日窓口に並んでチケットを買うことができず、みんな予約制であるから誰がきていたかわからないということはないはずである。

 密の劇場内を見回して、そう言えば「左系」の人たちは此の期に及んでまだオリンピック中止を訴えているなぁと思い出す。オリンピックは、結局無観客になってしまい、海外からの観光客も来ないし、それほど感染の増加に影響しないのではないかと思うが、「左系」の人たちにとってはそうではないのかもしれない。それよりも超過密な劇場鑑賞の方がよっぽど問題視すべきだと思う。まあ、「左系」の人たちにすれば、劇団四季など叩いたところで政権批判には繋がらないから意味はないのかもしれない。それにしてもここにきての感染拡大は一体、何が原因なのだろうか。 

 私の友人の例を挙げるまでもなく、感染理由は「わからない」のが多いのだろう。本当にわからないのか、「言えない」のかはわからないが、そうした感染ルートがわからないと個人としても気をつけようがないのがもどかしい。引き続き、家と職場の往復に徹し、密を避け、少なくともマスクを外す必要がある飲食店に行く場合は食べたらすぐに撤収するというこれまでの心掛けで行くしかないだろう。それで大丈夫かどうかはわからないが、それ以外の方法はわからないので仕方がない。

 シニアのラグビーの練習にしたって、青空の下で走り回っているがゆえに感染のリスクは極めて低いのではないかと思う。唯一気をつけるべきはロッカールームであろうが、サクッと着替えてグラウンドに飛び出せば、あとは青い空と熱風とが守ってくれそうな気がする。グラウンドではコロナよりも熱中症の方が危険な気がする。練習後のビールも当然ながら当分はお預けである。これも残念だが仕方ない。

 一体、いつまで続くのだろうかと暗澹たる気持ちになる。早く落ち着いて、練習後の一杯を仲間たちと楽しみたいと思う。まだまだ暑い夏、明日からは転職後の新しい職場。暗い面を見て下を向くより、明るい面を見て上を向いていきたいと、改めて思うのである・・・


TumisuによるPixabayからの画像 

【今週の読書】