2021年8月22日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その26)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。已矣乎。吾未見能見其過。而内自訟者也。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、已(や)んぬるかな。吾(われ)未(いま)だ能(よ)く其(そ)の過(あやま)ちを見(み)て、内(うち)に自(みずか)ら訟(せ)むる者(もの)を見(み)ざるなり。
【訳】
先師がいわれた。
「なんともしようのない世の中だ。自分の過ちを認めて、みずから責める人がまるでいなくなったようだ」
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 人は誰でも自分の人生の主人公であり、したがって自分の行動は常に正しいというのが自分の内なる世界の出来事であろう。傍から見ればおかしいということでも、本人の中では正しいということが多々あるし、それが普通であろうと思う。かくいう自分も、常に自分の中では考えて正しいと思う行動を取っている。ただし、「正しい」とは必ずしも法律やルールやモラルを守ったものとは限らない。あくまでも自分なりの「正当化」である。「盗人にも三分の理」ということわざにある通りである。

 同じようなことに「すっぱいブドウ」がある。イソップ童話にある自己正当化の話である。ある社長はこの典型であった。父親に出資してもらって始めた会社は長年赤字を計上し続けていたが、個人資産がかなりあるので何とか倒産せずに済んでいた。単調な経営でまるで工夫がなく、それゆえに赤字になるのも当然であった。しかし、それは経営が下手ということではなく、あくまでも「相続対策」のためにわざと赤字にしているということであった。父親が出資しているため、相続が発生すれば株をもらうことになる。その時に過大な相続税を回避するために赤字にしているのだと強弁していた。

 そして相続が発生。会社はともかく、その他の相続資産がかなりあって、それなりに相続税は納めたようである。すると、今度は「納税は社会貢献だ」といい始めた。だから変な相続対策などせずにきちんと納めたのだと。どうやら会社を赤字にしていたのは「変な相続対策」ではないらしかった。ただ単に相続税をたくさん取られたので、悔し紛れに「社会貢献だ」と言っているだけなのは明らかだった。その後、事あるごとに「税金がかかるから」と口癖のように言っていたが、「社会貢献」ならかかってもいいのではと聞くたびに思ったものである。

 その社長にとっては、会社を黒字経営できないことも、税金をたくさん取られることも不本意で仕方がなかったのだろう。だから「黒字を出せない」のではなく、「わざと赤字にしている」のだし、「多額の税金を取られた」のではなく、「多額の社会貢献」をしたのである。だから取られた後は、税金がかかることはなるべく避ける、あるいは節税策に勤しむのである。傍から見れば面白いくらいわかりやすい「すっぱいブドウ」である。「すっぱい」とでも言わない限り心中穏やかではいられなかったのであろう。

 「すっぱいブドウ」は自分自身に対する慰めなのか、はたまた他人に対する見栄なのかはわからないが、件の社長はおそらく両方だったのだろうと思う。ただ、そういう言い訳を周囲に、そして自分自身に対してしていると、それは自分の成長には繋がらないと思う。わざと赤字にしていると言えば、その場は取り繕えるのかもしれない。しかし、それではいつまで経っても「どうしたら黒字にできるのか」がわからないままである。素直に「自分の能力が足りない」と自覚して行動しない限り、黒字化するヒントは掴めないし、他からのアドバイスも受けられないだろう。

 私自身、「自己正当化」はよくやっている。同じ行動でも二つの面があったりする。一つは自分自身の私利私欲であるが、実はそれをしなければ大きなデメリットがあるという行動でもあった場合、他人には大きなデメリットの方を強調して「やむを得ない」ということを主張するのである。いわゆる「大義名分」という奴であるが、この「大義名分」はよく利用する。もともと日本人は「大義名分」を重視するところがある。倒幕運動も単なる権力争いであったが、「錦の御旗」を用意した薩長が「官軍」になったようにである。

 「すっぱいブドウ」と「大義名分」は異なるものであるが、「自己正当化」という共通点がある。いずれも他人に対する自己正当化であるが、自己正当化は他人に対してはいいかもしれないが、自分に対してやってはいけないと思う。なぜなら、それをやっていては自分のためにならないと思うからである。できないのには理由がある。その理由をきちんと捉え、できるようにしないといけない。それを「あれはすっぱいから」と言っていたのでは、いつまで経ってもできないままである。件の社長のように、である。

 また、他人に対しても「すっぱいブドウ」は簡単に見透かされる。「では仮に取ろうとしたら取れるのか」と他人は突っ込みたくなる。その時の言い訳は苦しいものにしかならない。しかし、ここで「実は届かないんだよ」と正直に告白すれば、他人も突っ込めなくなる。件の社長も「実は能力がなくて黒字にできない」と告白していれば、私に心の中で突っ込まれることもないし、「じゃあ、あの人に相談してみれば」と親身になってもらえる可能性もある。正直で謙虚な人間を貶すことは、普通の人にはなかなかできないことである。

 人は誰でも自分の人生の主人公であり、ゆえに常に自分は正しく、他人に対してもひとかどの人物として見られたいという思いがある。だが、いたずらに自己正当化に走ってもそれは簡単に見透かされてしまう。結果、かえって他人からは(心の中で) バカにされることになる。だから逆に正直にできないものはできない、誤ったことは誤ったと認めてしまう方がいいし、楽だったりする。見栄を張ってみたところで対して効果はない。逆に正直になってしまった方が、他人からの嘲りを回避できるという効果がある。なら、それだけでも徳ではないかと思う。

 人生も後半になると、これから大人物になれる可能性もますます減ってくる。ならば少なくとも他人から嘲られることのない方を選びたい。件の社長を見ていて、そんな風に思うのである・・・



【今週の読書】
  



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