2021年8月9日月曜日

論語雑感 公冶長第五(その25)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
顏淵季路侍。子曰。盍各言爾志。子路曰。願車馬衣輕裘。與朋友共。敝之而無憾。顏淵曰。願無伐善。無施勞。子路曰。願聞子之志。子曰。老者安之。朋友信之。少者懷之。
【読み下し】
顔淵(がんえん)・季路(きろ)侍(じ)す。子(し)曰(いわ)く、盍(なん)ぞ各〻(おのおの)爾(なんじ)の志(こころざし)を言(い)わざる。子路(しろ)曰(いわ)く、願(ねが)わくは車(しゃ)馬(ば)衣(い)軽裘(けいきゅう)を、朋友(ほうゆう)と共(とも)にし、之(これ)を敝(やぶ)りて憾(うら)み無(な)からん。顔淵(がんえん)曰(いわ)く、願(ねが)わくは善(ぜん)に伐(ほこ)ること無(な)く、労(ろう)を施(ほどこ)すこと無(な)からん。子路(しろ)曰(いわ)く、願(ねが)わくは子(し)の志(こころざし)を聞(き)かん。子(し)曰(いわ)く、老者(ろうしゃ)は之(これ)を安(やす)んじ、朋友(ほうゆう)は之(これ)を信(しん)じ、少者(しょうしゃ)は之(これ)を懐(なつ)けん。
【訳】
顔淵と季路とが先師のおそばにいたときのこと、先師がいわれた。「どうだ、今日は一つ、めいめいの理想といったようなものを語りあってみようではないか」すると、子路がすぐいった。「私が馬車に乗り、軽い毛皮の着物が着れるような身分になりました時に、友人とともにそれに乗り、それを着て、かりに友人がそれをいためましても、なんとも思わないようにありたいものだと思います」顔淵はいった。「私は、自分の善事を誇ったり、骨折を吹聴したりするような誘惑にうち克って、自分の為すべきことを、真心こめてやれるようになりたいと、それをひたすら願っております」しばらくして子路が先師にたずねた。「どうか、先生のご理想も承らしていただきたいと思います」先師はこたえられた。「私は、老人たちの心を安らかにしたい。友人とは信をもって交りたい。年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのだ」
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 昔から将来の夢を聞かれるのが苦痛であった。そんなものなかったからである。それは今の今に至るまで同じである。一体全体、夢ってなんだろうと今でも思う。子供は「パイロットになりたい」とか、「お嫁さんになりたい」とか言うが、それは夢というよりも「目標」と言える。では、夢とは目標なのか。「甲子園に行きたい」「会社を上場させたい」という夢もよく聞くが、それもよくよく考えれば「目標」だと言える。そうではなくて、夢とは「理想」なのではないかと改めて思う。

ではそんな理想とはなんだろうか。
これなら人それぞれ誰にでもあるような気がする。高校を卒業したら大学はどこへ行き、就職はどこ(どんな会社)がよくて、どんな相手と結婚して、子供は何人で、どんなところに住んで・・・と理想ならいくらでも出てきそうな気がする。そんな「理想の生活」なら、誰でもいくらでも語れると思う。「年に数回海外旅行をして、欲しいものはなんでも買って」と。ただし、いい大人になるとそこに「実現可能性」という制限が加わる。

 理想を言えばキリがないが、そこに「実現可能性」が加われば、理想はよりリアルな現実に近づく。毎年海外旅行に行きたいとは思うが、現実的には無理である。今はコロナ禍でそもそも無理であるが、それがなくても高校生の息子は部活動で忙しく、転職したばかりだとそもそも時間的に取れない。2人の子供が高校生と大学生となると、教育費の捻出で資金的にも厳しい(もちろん預金を取り崩せば十分可能だが、そんなことで預金は取り崩せない)。将来的には可能かもしれないが、妻は私と2人で行きたがらないだろうし、そうなると1人で行くか同行者を見つけるかしないといけない。この理想はかなりハードルが高い。

 今は平日は会社に出勤している。仕事は総務で会社の裏方役であるが、一方で今後の会社の行くべき道を考えたり、苦しい現状を打破したりということも考えないといけない。財務に加え、人事面でも人材育成の方法を考えたり、総務本来の仕事の見直しもしないといけない。着任して1週間しか経っていないが、やるべきことは日ごとに増えていく。なかなか仕事も楽しそうである。当面、70歳まではこうして楽しみながら仕事をしたいと考えている。人によってはハッピーリタイアを急ぐ人もいるかもしれないが、私は1つの刺激として仕事をしていきたいと思う。理想の生活の1つである。

 週末にはシニアのラグビーの練習に参加している。ハァハァゼィゼィと息を切らし、汗を流すのは実に心地よい。1つ1つのプレーの精度を上げ、できないことをやれるようにする(あるいはできることをもっとうまくできるようにする)という試みは、体全体への刺激になる。ラグビーの試合を観ては自分のプレーの参考にもなるし、自分の技術を上げるための創意工夫は、それはそれで楽しい。たまに参加する試合でもタックルを決めれば気持ちいいし、たとえ後に打撲や擦り傷が残ったとしても、それすら心地よい。いつまでとは言わず、いつまでも続けたいと思う。これも理想の生活の1つである。 

 週末の夜は映画が楽しみである。面白そうな映画を片っ端から観ていく。お供は大抵ジャックダニエルだが、今の時期はサントリー・プレミアムモルツだったりする。本は通勤電車の中で読むのが日課であるが、転職で通勤時間が短くなったのが残念である。どちらもたくさん観たいし読みたいが、感想をブログにまとめるのが追いつかず、それがストレスになっている。けれど、一本、一冊の積み重ねが楽しく、より多く積み上げる幸せをこれからも続けていきたいと思う。これも理想の生活の1つである。

 お金がたくさんあれば幸せになれるとは限らないが、理想の生活に一歩近づくことはできる。だからお金は欲しいが、だからと言って他人を貶めたり、他人から恨まれたりしてまでかき集めたいとは思わない。お金も大事だが、人(それは家族であり、親戚であり、友人であり、会社の同僚であり、関わり合う人である)からの信頼を損ねてまで大事だとは思わない。もっとも1億円くらい目の前に積まれたらわからないが、その時は分け合うとかしてなるべく信頼は損ねないようにすると思う。

 お金以外に欲しいのは、やはり人からの信頼であろうか。自分自身常に「良き夫、良き父、良き息子、良き友人、良き同僚」でありたいと思っているし、そのために一肌脱ぐ必要があれば、喜んで脱ごうと思う。たとえ時間がかかったり、手間がかかったりしたとしても、「ありがとう」と言ってもらえるなら、これは1つの報酬と言える。頼まれごとを受ければ、たとえ面倒であってもそのこと自体が1つの報酬と言える。なぜなら嫌われていたら頼まれ事すらないだろうからである。

 友達は量より質だと考えている。大学時代の友人は7人(ラグビー部の同期6人とゼミの同期1人)だが、それで寂しいとは思わない。表面上、顔と名前を知っている友人10人よりも心を許していろいろと話せる友人が1人いればそれでいいと思う。たまにであっても、会えば「よぉ!」と普通に話せるのであればそれだけでいい。同期以外にも先輩もいて後輩もいて、気がつけばそういう関係の友人が結構いるもので、これからも積極的に増やしたいとは思わないが、新しい友人を拒絶しようとも思わない。ただ、気に入らない人間とはたとえ上辺だけでも付き合いたいとは思わない。そこは積極的に距離を置きたいと思う。これは理想の生活のための態度である。

 これから年々歳をとる。体も衰える。体力が衰えると気力も衰えるのが気になるが、なんとか穏やかに暮らしていきたいと思う。妻との関係改善もできるならしたいと思うが、無理なら別々の老後を送るのも選択肢の1つである。なんともまぁ、ささやかな「理想の生活」であるが、今楽しんでいることをずっと続けていくのが、考えてみれば望ましいと思う。そういう「理想」を持って、これからも日々を送りたいと思うのである・・・



【今週の読書】

  


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