2009年7月30日木曜日

ワールドカップ

   きのうの朝刊にビッグニュースが載っていた。なんとダブリンで開催された国際ラグビーボード(IRB)理事会において、2019年(平成31年)ラグビーワールドカップの開催地が日本に決定したとのこと。まあ日本の経済力からすれば不思議ではないのだろうが、それでも日本も世界のラグビー界で存在感を増してきた証と言えるだろう。

 とはいえ問題は実力だ。日本はIRBのランキングでは世界14位に位置している。95ヵ国中だからけっこう健闘しているのだ。ラグビーは何といっても体格がモノを言う。でかい外人相手に小さい東洋人はやっぱり不利だ。それでも「柔よく剛を制す」のお国柄、何とかかんとか頑張ってはいる。しかし、上位の壁は厚い。

 もうちょっと頑張れば、たぶん11位までは夢ではない。しかし、ベスト10となるとかなり難しい。これからどのくらい実力をあげられるのだろう。実はいまでも日本代表メンバーの中には外国人がかなり入っている。そうした助っ人がいないと苦しいのだが、そればかりに頼るわけにもいかない。やっぱり日本人選手を養成しないといけない。

 しかしながら少子化の影響でラグビー人口は減少している。我が母校の大学も人数的にはかなり厳しい。昔は50人近い部員がいたから、チームを二つに分けてそれぞれ試合に行く事も可能だった。今は30人ちょっとだから無理な話である(頭数からいけば15人×2チームできるが、補欠やポジションの重なり等によって2チームは困難なのだ)。我々OBの寄付で立派な人工芝グラウンドができたところだが、そんな恵まれた環境なのに誠に嘆かわしい。

 これからどうしたら競技人口が増えるだろうか。野球とサッカーを向こうにまわしては少々分が悪い。高校生の東京都大会の参加チームを見てみると、単独で1チーム作れなくて、何校かで合同チームを作って参加しているところが目に付く。普段はたぶん、満足に練習もできていないはずだ。それでも火を絶やさずにラグビーを続けている若者達にはエールを送りたい気分だ。

 日本で開催決定といってもまだ10年も先の話だ。その頃にはどんな状況になっているのだろう。合同チームの数は益々増えているのだろうか。ワールドカップは是非生で観戦したいと思っている。その時に日本中で話題になっていたらいいと思うのだが、どうだろう。自分でプレーはできないが、その盛り上がりの一助となるような何かができたらいいなと思うのである・・・

    

2009年7月28日火曜日

食育

我々がある人間を憎む場合、
我々は彼の姿を借りて
我々の内部にある何者かを憎んでいるのである。
                    ヘルマン・ヘッセ
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夏休み中でもあり、家族で旅行に行った。今年は少々経済状況も悪く、近場でのレジャーだ。見知らぬ土地で他人と多く接すると、どうしても考え方とか習慣の違いとかが目に付くようになる。他人は他人であり、あまり意識はしないようにしようとは思うのだが、堪えきれぬ部分はブログに綴る事にする。

夏のレジャーは何といってもプールだ。プールに入ると4歳の長男は頻繁にトイレに行く。自分が同じ年頃の頃は「真面目に」トイレに行ったかなぁと考えると、長男は「真面目」だ。そうして出てくる時はトイレのサンダルを揃えて出てくるようにさせている。しかし、トロトロとサンダルを揃えている長男の横を大人がサンダルを脱ぎ散らかして出て行く。何も感じないのだろうか・・・

唖然としたのは夕食時だ。我が家はバイキング好きだ。子供たちに注意している事は、「食べられる分だけ取りなさい」という事。バイキングは好きなものを好きなだけ食べられる。逆に言えば残さないで食べられるという事である。

我が家の隣のテーブルに座った一家。最初から視線を惹き付けられた。とにかくテーブルにお皿を山のように並べている。食べているお母さんも、体型はと言えば「蹲踞(そんきょ)」が似合いそうな体型だ。うっかりハグなぞしようものなら、横から見たら「がっぷり四つ」に組んでいるように見られる事必至だ。食欲も横綱級なのだろうなと見ていた。

さてそんな家族が帰ったあとのテーブルを見ると、山のようなお皿のそれぞれに食べ残しがあれこれと・・・取るだけ取って食べるだけ食べて、あとはいらない、そんな食べ方だったのだろうと思わせられた。子供なら勢い余って取り過ぎたという事もあるかもしれない。だが大人自らがそういう事を、たぶん意識もしていないのだろうが、やっているのを見るのはあまりいい気がしない。

日本には「もったいない」という文化がある(ハズ)。経済大国になって食べるものや着るものやその他諸々の事に不自由しなくなったのは確かだが、だからといってモノを粗末にしていいというものではないと思っている。特に食べ物についてはそう思う。

アメリカに行くととにかくそのスケールには圧倒される。レストランでも「こんなに食えるか」というくらい大盛りで出てくる。ロスに初めて行った時、夜食用に軽く「おつまみ」程度に頼んだシーザーサラダが山盛りで出てきて、夫婦で目をシロクロさせて食べた記憶がある。アメリカに肥満人が多いのも当然だ。

ステーキを頼んだ時も、出されたステーキをみて「全部食べられるだろうか」と焦った。
ふと見ると隣の白髪の老夫婦も同じものを頼んでいた。あんな爺さんでも食べるのか、と感心していたら何の事はない、しっかりと残していた。「残せばいい」という価値観は、飢えをしらない歴史と無関係ではないのだろうが、私には理解不能だ。

自分たちの価値観こそが正しいとは言わないが、食べ物に関してはいまだに地球上では餓死者が存在するだけに、もう少し意識変革が必要なのではないだろうか。
世の中を変える第一歩はまず我が家から。
そう思って子供たちに対する「食育」はしっかりやっていきたいと思うのである・・・
    
    

2009年7月25日土曜日

最近の男子

男の第3の価値は「言葉」であり、
第2の価値は「行動」であり、
第1の価値は何より「生きる姿勢」である
里中満智子
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 家族で三井アウトレットパークに行った時のこと(ちょうどコストコの会員更新手続きもあり、それも兼ねて行ったのである)。アウトレットと言っても、パパも子供たちも今回は特に何があるというわけでもない。買い物よりはどこで遊ぶかに関心がある子供たちはレゴの店を選び、パパはそのお供である。そんな家族を尻目にママはのんびりと一人でお買い物。こういうところで貢献度を高めておかないといけないので、文句を言っている場合ではない。
 
 さて、帰りの車中のこと。ご満悦の(ハズの)妻が「最近の男子はどうなんやろう」と語り始めた。曰く、下着売り場に行ったらカップルが二組ほどいたらしい。もちろん、一緒に選んでいたと言う。その彼氏であるが、ただその場に付き合っていただけではなく、彼女が「どうこれ?」とやるとあれこれ意見を言っていたらしい。とっても微笑ましい光景ではないかと個人的には思うのだが、どうも妻にとってはそうではないらしい。

 店の中に入るのはもとより、「早く行ってこいよ」と言って外で待つのが妻の「男子たるもの」の基準らしい。ましてや、「どうこれ?」何てやられても、「何でもいいから早くしろよ」というべきだとの事。意外と古風なんだなと思う反面、世間一般ではどうなんだろうとふと思う。

 学生時代の事、ラグビー部の仲間とゲームをした。罰ゲームは女性の下着専門店に入り、5分間中で過ごして出てくること(もちろん一人でだ)というものをやった。ひびった奴もいたが、私はこういうのは受けて立つ(そして見事負けちゃったりする)。受けた以上は男子たるもの逃げるのはもってのほか。堂々と入っていった。

 しかし、さすがに黙って店内をうろうろするのに耐え切れず、店員さんに話しかけた。
「実は彼女にプレゼントをしたくて・・・」と。
いろいろと説明を受け、商品を見せてもらい10分くらいは滞在した。サイズを聞かれ、「まだ教えてもらっていない」と答えたところ、それでは下だけにした方が無難というアドバイスまでもらった。規定の5分の2倍の滞在時間、しかも店員さんとお話までして堂々と罰ゲームをクリアしてみせた。
今ではどうっていう事はないと思うが、当時はかなり度胸のいる事だったのである(事実、ビビッて勝負しなかった奴もいたし・・・)。

 妻にもそんな感覚があるのだろうか?
でもやっぱり一緒に選んでと言われれば、堂々と行って件の若者たちと同じように振舞うと思う。
周りを気にするよりもむしろ、「別に見せるモンでもないし、穿きやすいのにしたら」という内心を悟られない方に緊張すると思うのだ・・・
男の沽券はそんなところで発揮すべきものではないと内心思う。

 そんなことよりトイレでせっせとオメカシしている男の方こそ気になってしまう。
家でやるならまだしも、外出先のトイレで何やら取り出し、あれこれ見る角度を変えてはせっせとやる姿はどうにも気になってしまう。デートの途中でトイレに長く入っていたら、それこそ勘違いされないかと心配になってしまう。もっと中味で勝負しろよ、と後から小突きたくなるのだ。

 古風なのかどうなのか、これがジェネレーション・ギャップというものなのだろうか。
などと思いを馳せた出来事なのである・・・
     
 
    
    

2009年7月22日水曜日

桃狩りにて

 我が家では味覚狩りは季節ごとの重要な行事である。春先のイチゴ狩り、初夏のさくらんぼ狩りに続いて、今年第3弾として桃狩りに行ってきた。行く場所はここ数年決まっていて、山梨県にあるイチフル農園というところ。一度行って満足したので、それ以来今回が3回目である。

 こういったフルーツ狩りの楽しさは、食べる事それ自体もそうであるが、何といっても「木からもぐ」という行為そのものにもある。子供たちにとってみれば、桃はいつもスーパーで箱に入って売っているものであり、食後のデザートにママがむいて切って出してくれるもの、である。それが目の前の木に成っているわけであるから、新鮮なのである。

 4歳の長男は梯子に登る事に楽しさを覚えたようである。普段とは違う遊びに熱中するのはどこの子供も一緒だろう。一人では怖くて登れないくせには、登りたくて仕方がない、そんなところが面白い。

 よくよく観察すると、桃の一つ一つに紙のカバーがかけられている。たぶん何かからの保護であると思うが、何せ膨大な桃の実である。その作業の労力たるや大変だろうと思う。もちろんそれなりの料金はとっているが、そうした作業は手作業である事を考えると、農業というものはやっぱり手のかかるものであると思わざるを得ない。諺通りであるならば、発芽から結実まで桃や栗は3年、柿は8年かかるわけである。

 桃はその昔、多くの実がなることから豊穣の象徴とされ、古くから魔よけや不老不死の仙果として重宝されていたそうである。という事は、一般庶民だと食べたくても食べられないものだったのだろう。戦後の日本ではバナナが高級品だったという話を聞いた事があるが、世が世なら我々庶民がこうして家族でもいで好きなだけ食べるなどという行為は、夢のまた夢であったのかもしれない。

 桃と言えば「桃源郷」。中国の漁師が迷い込んだ桃の花が咲き乱れる仙境(俗界を離れた清浄な土地)に由来する「桃源郷」は、もう一度行こうとして探しても、どこにも見つからない「どこにもない場所」を指す。そんな「桃源郷」は、貴重品であった桃に対する憧れなのかもしれない。

 山梨県はすぐお隣だし、渋滞が日常化している中央道とはいえ我が家から3時間程度で行けるところである。桃源郷とはほど遠いものの、農家の人はみなさん人が良く、のんびりとリラックスできる上にお腹一杯桃を食べられるのは幸せだ。子供ならずとも大人も毎年行くのを楽しみにしている。

 満足したあとは山の中腹のフルーツ公園へ移動。そこから甲府盆地を見渡す事ができる。武田信玄も同じ光景を見たのかもしれないなと考えたりする。子供たちの歓声を聞きながら、当時からすれば現代社会は過去の人が夢見た桃源郷と言えるのだろうかと考えてみた。そうだと言える部分と言えない部分がある。現代社会は問題はあるとは言え、過去から比べると幸せな社会だと言えるだろう。それでもやっぱり桃源郷とは言い難い部分が多い気がする。

 まだまだ理想に向って進歩していかなければならない、という事なのだろうと思うのである・・・

      

2009年7月20日月曜日

ホタル

 東京では野生のホタルにはお目にかかれない。もっとも23区外では、ところどころ見られるところもあるらしいと聞く。私は子供の頃、長野県にある祖父の家を訪ねた際、一度だけ野生のホタルを見た経験がある。祖父の家から歩いて数分の小川のほとりで、小さな光が浮かび上がっては消え、揺れるように飛ぶホタルを生まれて初めて見たのである。たぶん、小学校低学年の頃だったと思うが、その時の記憶は今でも強烈に残っている。それ以来、野生のホタルにはお目にかかっていない。

 高島平にあるホタル飼育施設が、この時期飼育しているホタルを夜間に一般公開している。東京12チャンネルの「出没!アド街ック天国」という番組で放送されていたのを、昨年偶然見つけ、「近くだし行って見るか」と昨年初めて家族で見に行ったのだ。繊細な生き物であるせいか、見学時間も一瞬であった。「立ち止まらないで」と言われ、さっと見学しただけであった。それでも子供たちにとってはいい経験だったみたいなので、今年も再度行ってきた。

 並んで整理券をもらわないといけないほどで、地元ではそれなりに知名度のあるイベントのようである。飼育ハウスに入ると、ほとんど明かりのない中で無数のホタル(ヘイケボタル)が飛び交っている。たいがいの人は入った瞬間に歓声を上げる。かすかに明るいハウス内で、かなりの数のホタルが飛び交う様は幻想的である。

 中では人工の川が流れている。ひんやりとした室内にしっとりとした水の香が漂う。あちこちでホタルが光る。あるものは飛び、あるものは止まったまま。私が子供の頃見たのは自然のままのホタルであったが、数でいけばここの方が圧倒的に多い。自分の子供の頃の体験が今も強烈に残っている以上、子供たちにとってもここで見たホタルはずっと後々までも印象に残るかもしれないと思うが、たぶんそれは間違いないだろう。

 身の回りにホタルが自然とたくさんいた時代はどうだったのだろう。あんまり物珍しくは思わなかったのだろうか。日々の暮らしが大変で、ホタルを愛でる余裕なんかなかったのだろうか。きれいな水辺にしか住まないというホタル。社会の発展はそんな水辺をホタルたちから奪っていった。

 こんな形でしかホタルに接する事のできない我々ははたして不幸なのか、幸福なのか。ホタルの儚い光は、現代の忙しい日常生活から、しばし異なる世界に誘ってくれる事だけは確かである・・・


    
     

2009年7月18日土曜日

お笑いタレントの戦略

最も強いものが生き残るのではなく、
 最も賢いものが生き延びるでもない。
  唯一生き延びるものは、変化できるものである
    ダーウィン
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 自分ひとりでは観る事はないが、家族が観ているとついつい観てしまうテレビ番組というものがある。そのひとつが土曜日にやっている「エンタの神様」というお笑い番組である。ここでは比較的芸歴の浅いお笑い芸人さんが多数登場し、毎回毎回お笑いを提供してくれる。子供たちが大好きでよく観ているため、観るとはなしに観る機会が多い。

 もう20年以上前であったが、漫才ブームなるものが世の中を席巻した。
あの時は様々な漫才師たちが登場し、あちらこちらのメディアを随分とにぎわせたものである。「エンタの神様」は、もちろん漫才もあるが、いろいろな芸人が漫才に限らず思い思いの芸を披露してくれる。

 けっこう面白いものも多いのであるが、ふと気がついた事がある。
それは「一発芸的なもので売り出している若手が目に付く」という事である。
面白い事は面白いのであるが、所詮「一発芸」である。
お笑いの世界で生きていこうとしたら、当然「一発芸」で生き残れるわけがない。
そういう事を意識して考えてやっているのだろうか、と疑問に思うのである。

 例えばヒライケンジという芸人。その名の通り「平井堅」の真似で売っている。しかし、「いつまでも平井堅でいいのか?」と問わずにはいられない。確かに面白いが、いずれ飽きる。
 物まねといえばその昔、コロッケのデビューは衝撃的であった。男だろうが女だろうが見事な物まねだった。そんなコロッケが今でも生き残っているのは、その物まねを進化させ続けてきたからだ。
「平井堅」だけでいつまで食えるのだ?

 子供たちは一発芸が大好きだ。「そんなの関係ねぇ~」とかよくやっていた。
面白いからいいとは思うが、今は誰もそんな事はやっていない。
その次のネタがあるのかどうか、芸能界に疎い私だからか聞えてこない。
妙な踊りや掛け声を売りにしている芸人たち。
一発芸としては面白いが、10年後、いや1年後にその踊りや掛け声でお客さんを笑わせられるのか?

 ビートたけしや島田紳助は、漫才から見事転進し今でもトップを維持している。島田紳助の『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する―絶対に失敗しないビジネス経営哲学』を読むと、彼は実に考えに考えて自らの身を処している事がわかる。その場その場で行き当たりばったりで今の地位を築いたわけではないのである。そんな哲学ないし戦略が彼ら彼女らにあるのだろうか、と思ってしまうのである。

 お笑いの世界は実力オンリーの厳しい世界。安易な一発芸だけで目先のウケを狙った芸は線香花火のごとく消えていく。世の注目を取りあえず集めるのだというだけだと、次に出るのは「あの人は今」のコーナーだ。せっかく人生を賭けたチャレンジをするのだ。他人事ながらよく戦略を練り、哲学を持ってチャレンジすべきだ、と遠いところから思うのである・・・
                  
                      

2009年7月16日木曜日

やぶ入り

幸せな子を育てるのではなく、
どんな境遇に置かれても幸せになれる子を育てたい   
                   皇后陛下美智子
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本日7月16日は「地獄の釜の蓋も開く」といわれた日、「やぶ入り」である。
今は、「やぶ入り」といってもピンとこないが、お正月とお盆の16日ごろを指し、いわば昔の夏休みと冬休みといったものだったようである。

その昔、新嫁さんや奉公人は日頃の苦労の慰安のため一泊の休みを貰えた。
なので、この日が来るのを待ち焦がれていたという。
親元では里帰りした子をあたたかく迎え、子は食べて寝て、縦の物を横にもせず一泊し、また、帰りに親は沢山の土産物を持たせて帰らせたそうだ。
わが娘が婚家に帰って恥をかかないようにとの配慮からだったという。

奉公人は、丁稚、手代、番頭とたたき上げて何十年も働き、運が良ければのれん分けしてもらい、店が持てた。しかし、早ければ10歳に満たない幼子が奉公に出て、貧しさ故につらくとも帰ることも出来ず、日々の労働に耐えたという。貧しい家では子供はよけいな口であり、早く働きに出して養う口を減らす必要があったのである。

それは戦後の高度成長期に、「金の卵」ともてはやされた中卒者が集団就職で上京する形へと姿を変えた。私の父も16歳で働くために東京に出てきたという。最初に努めた町工場では、朝6時に起きて夜12時まで働いたそうである。今そんな事をさせたらとんでもない事になる。

今は大学に行けば、卒業する20代前半までろくに働かなくても、のほほんと暮らしていける。
働くといってもせいぜいがアルバイトで、嫌なら辞められるし、働くといっても丁稚や金の卵たちに比べれば遊んでいるようなものに違いない。自分自身振り返ってみても実に温かく庇護されていたと思う。社会人になればそれなりに大変であった事も確かだが、それでも半年にたった一泊のやぶ入りを楽しみにしていた昔の人達から比べれば天国だろう。

それが悪いとは思わない。むしろそうした社会の発展は喜ばしい事である。だがそれが当たり前になってしまうと、ありがたみというものは感じられなくなる。そしてそれこそが問題だ。そればかりか、さらには現状に不満を訴え、もっともっと楽しようとするのだ。知恵を働かせて、脳ミソに汗をかいて楽をする方法を考えるのなら悪くもないが、何もせずに楽する事ばかり考えるのは許されざる事だ。先代の苦労は子孫を遊んでだらけさせるためのものではなかったはずである。

自分自身もそうであるが、自分の子供を10歳から丁稚奉公に出さなくてもいい事はこの上なく幸せな事である。息子が高校生になった時に18時間も働かせなくてすむ事も同様である。そんな事を考えると、もうちょっと親孝行しないとバチがあたるだろうと思う。

「やぶ入り」という言葉もだんだんと死語になりつつある。
だがそれが意味する事は子供たちにもしっかりと伝えたいと思う。
「当然の事」が「当然でなかった」時代があったこと。
「当然の事」が「当然である」悦び。
しっかりと身に沁み込ませたいと思うのである・・・
    
    

2009年7月14日火曜日

7月14日に思う・・・

 7月14日になるといつも「ああフランス革命の日だな」と思わずにはいられない。
別にフランス革命に思い入れがあるわけではない。なんでそうなったかというと「ベルばら」の影響である。

 「ベルサイユのばら」の存在を知って、漫画を夢中になって読んだのは、たぶん中学生くらいの頃の事だったと思う。当時すでに「マンガ小僧」であった私は、こずかいであれこれといろいろなマンガを買い込んでいたものであるが、一方で少女マンガには目もくれていなかった。顔の半分もある目をキラキラさせて、愛だの恋だのとハートマークが飛び交うマンガには興味のかけらも持てなかったのである。

 そんな私が「ベルサイユのばら」に惹かれたのは、それが歴史上の史実をベースにしたものであったからだった。当時すでに歴史好きであったから、18世紀のヨーロッパを舞台にしていただけで興味をそそられたのである。史実の中に架空の登場人物をあてはめて活躍させるというやり方は、映画『タイタニック』でも使われたが、一つの手法として面白いと思う。そんなコミックにハマってしまい、熱心に読んだのである。

 ただ今からだと笑ってしまうのだが、当時の私には少女マンガを買う勇気がなく、かといって持っている友達もいないし(もちろん女の子の友達に「貸して」なんて言えるわけない)、現代のようにマンガ喫茶もない状況で、苦肉の策として選んだ手段が「立ち読み」であった。自転車でちょっと遠くの本屋へ行き(少女マンガを読んでいるところを友達に見られたくなかったのだ)、毎回1冊と決めて熱心に通って読破したのだ(本屋さんごめんなさい)。

 それはそれで満足したのだが、思わぬ効果をその後実感した。何とフランス革命についてはすっかり詳しくなってしまったのだ。それは受験でも威力を発揮。共通一次試験の選択科目は世界史であったが、フランス革命についてはあらためて勉強する必要などないくらい覚えてしまったのである。

 ハプスブルグ家(マリー・アントワネット)とブルボン家(ルイ16世)の政略結婚から始まり、1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃、三部会の召集からテニスコートの誓い、ナポレオンの登場まですっかり頭に入ってしまったのである。受験ではここの部分に本来割くべき労力を他に振り向けられた。極めて為になる「受験対策本」であったのである。

 後年、会社の同僚が「娘がマンガばっかり読んでいて勉強をしなくて困る」と嘆くのを聞いた。何気なく取り上げたというそのマンガのタイトルを聞いたら「ベルばら」が入っていた。その娘さんの趣味に感心しつつ、お父さんにその場で説教をした。自らの体験を語って聞かせ、マンガを一律目の敵にするのは間違っていると諭した。モノによっては親が買い与えてでも読ませるべきものがある、と。

 特に歴史の場合、教科書の文字を追うのはあまりにも無味乾燥過ぎるきらいがある。歴史は生きた人間の営みの結果であり、その一つ一つにドラマがある。1492年コロンブスはアメリカ大陸を発見したが、そこに至るスペイン・ポルトガルの関係等の時代背景、発見までの出来事などのドラマは深い味わいがある。「1492年コロンブス、アメリカ大陸を発見」とだけ暗記してもまったく意味はない。そんな歴史の深い味わいを「ベルばら」では体験できたのである。

 オスカルとアンドレのフィクションももちろん感動的であった(身分制というものを実感をもって理解できるという効果もある)。30年たってもしっかり覚えているから、その効果は絶大だ。一時期「マンガでわかる~」といった何でもかんでもマンガ化して簡単にわかりやすくしようとしたブームがあった。大人にとってはいかがなものかと反発してあまり見た記憶がないが、ある程度の年齢まではマンガも否定すべきものではない。むしろたくさん読んでもいいとさえ思う。

 マンガは間違いなく日本の代表的な文化である。そんな事を思わずにはいられない7月14日なのである・・・

     

2009年7月12日日曜日

都議会議員選挙

 都議会議員選挙に行ってきた。開票はまだ途中であるが、どうやら民主党が予想通り圧勝しそうである。まあこれまでの状況からするとそれも当然なのかもしれない。ただ、これが民主党が実力で勝ち取ったものであるならば、大いに期待もできるところであるが、自民党の体たらくで転がり込んできたものとしか言えないだけに、何とも言いようもない。

 「今日は選挙だ」と家族に宣言し、出かけるついでに投票所に寄った。ちょうど小学校3年の娘にも選挙なるものを教えようと投票所に連れて入った。ところが、中に入るとすぐに「子供は連れて入らないでくれ」とストップされてしまった。「小さな子供であれば仕方がないが、しっかりしている子はダメ」なのだと言う。どうにも釈然としない。候補者の名前のリストを見せて、投票用紙に名前を書いて、投票箱に入れるところまで一緒に見せたかったのに・・・

 納得のいく説明を求めようと思ったが、近くに止めた車の中では妻が交替するのを待っていたし、相手は所詮ボランティアで規則を守る事以外の判断力はないとみて、それ以上の追求はやめた。何でダメなのか?たぶん、役人が決めたくだらない理由だ。子供を連れて投票してはいけないような理由など思い浮かばない。

 そういえば候補者を縛るルールもくだらないものが多い。今やネット時代だというのに、「選挙期間中はブログの更新をしてはいけない」というのもそうだ。時代錯誤も甚だしい。大きな組織になると意思決定が遅くなる。これまでの古いルールを変えようと思ったらなかなか大変だ。役人はみんな優秀だから、そんな時代にあわないルールは問題だと個人個人はわかっているはずだ。だが、変えるという膨大なエネルギーを費やせないだけなのだろうと思う。

 そんなアホくさい気分にさらされた投票だったが、さて満足いく投票ができたかというとそうでもない。最大の原因は「候補者の顔が見えない」事だ。
選挙となると急に街頭や駅前に現れられても戸惑うばかりである。普段から顔と名前を売る努力をしている事が大切だと思うのだが、政治家の立場からするとどうなのであろう。

 あれこれ迷ったが、「新銀行東京を潰す」「オリンピックに反対している」というキーワードで選ぶ事にした。適当に鉛筆を転がして選ぶよりも、それなりの理由があった方が少しでもマシに思えたからだ。その結果は明日のお楽しみといえよう。

 自民党も都議会選で手痛い敗北を喫すれば尻に火がつくだろう。共産党や宗教政党に比べればはるかにマシなので、この敗北とおそらく衆院選の敗北が加われば自浄作用も働いてよくなるかもしれない。近いうちに自民党がダメージから復活し、民主党も敵失ではなく実力で政権を奪える力をつけ、互いにがっぷり組み合って烈しい選挙戦を展開するようになってもらいたいものである。

 くだらない公職選挙法も時代にあったものにリニューアルしてほしい。
いろいろと不満はあるものの、自分たちのリーダーを決めるという事については、例え芥子粒のような一票であったとしても、国民の一人としてきちんと自分の責任は果たしていきたい。
 その上で、政治については文句や不満ではなく、明るい理想を語りたいと思うのである・・・


       

2009年7月10日金曜日

妻に何が起こったのか

家の玄関に置かれた大きな箱。
宅配便で届いたまま何日間か放置されていたが、何だろうなと思っていた。妻の注文品ではあるが、いろいろと整理用のものを仕入れるのが好きなだけに、その類かと思っていた。
そしてそれがついに姿を現した。

何とそれは「レッグ・マジック」という名の健康器具であった。
「明日からダイエット」が口癖の我が妻。そういうものはたとえ気になっても買わない人種だと思っていただけに、かなりの衝撃を受けた。心の中の笑いを悟られないようにするのは結構大変だった。何か気に食わない事を言おうものなら、どこでどう弾が跳ね返ってくるかはわからない。ここは無関心を装うのが正解だ、というのが長年の結婚生活で身につけた危機回避のテクニックだ。

こういう器具をバカにするつもりはないが、私個人は絶対に買わない。
正直に言うと高校に入学した時に「ブルワーカー」というトレーニング器具を買った事がある。
ラグビーを始めたため、何か家でトレーニングができないかと思っていた時に見つけて買ったのだ。

こういう器具が効くかどうか、それを議論するのは愚の骨頂だ。
「効くか効かないか」ではない。
「やるかやらないか」だ。
それがすべてだ。

親父から受け継いだ「コツコツ派」の血が、この身には流れている。
ブルワーカーも毎日ずっとやっていた。元は取ったはずだ。
それでマッチョになるほどには至らなかったが、大学で本格的にトレーニングを始める前の肩慣らしにはなった。

果たして妻は、というと絶対コツコツ毎日やるタイプではない。
最初だけはある程度やるだろうけど、そのうち埃を被るか、雨の日の物干し代わりになるか・・・
大事なのは「やる意思」だ。それがあれば器具など不要だ。
畳一畳のスペースがあれば、腕立てでも腹筋でもスクワットでも何でもできる。
プロレスラーは、遠征先では狭いホテルの一室でタオル一本でトレーニングをするという。
必要なのは、ただただ実行力たる意思の力だけだ。

まあ「大枚はたいて買った」、「目の前に器具がある」という事実のみが毎日続けるモチベーションになる人もいるから、一概に否定はしない。どういう心境の変化か知らないが、せっかくその気になって買ったのだから温かく見守ろうと思う(君子危うきに近寄らずとも言う)。

はたして、妻がその謳い文句の通りの美脚を手に入れられるだろうか?
いろいろな意味で楽しみに思えて仕方ないのである・・・


これがブルワーカーの最新バージョンだ


2009年7月9日木曜日

春のめざめ

久しぶりにミュージカルを観に行った。
劇団四季の「春のめざめ」である。

劇場内に入ると舞台の上両端に観客席。
出演者かと思いきや、なんと観客だという。
変わった試みである。
プレミアムシートなのかと思ったが、通常の席が8,000円なのに対して7,000円だという。
安い理由は何なのであろう?
ちょっと疑問が残る。

あらかじめ予備知識など何も持たないでいった。ミュージカルを観に行く時はいつもそうである。ただ、本場のそれはトニー賞8部門受賞というから、まあハズレはないのだろうと思っていただけである。

舞台が始まる。
いきなり、「赤ちゃんはどうやってできるの?」というセリフ。
始まってみるとどうやらセックスに興味を持ち始めた若者達のストーリーだとわかる。
「春」とはその「春」なのか、「めざめ」とはその「めざめ」なのか、と納得。
自分自身、身に覚えがないわけではないような話が続くが、あまりにも昔の事なので、記憶も曖昧だ。

そういえば、中学・高校あたりでは、やっぱり他愛ないものを想像していては興奮していたかもしれない。今なら見てもなんとも思わないような雑誌を隠れて読んで興奮していた時代があったなあ、と思い起こされる。迫真の演技とでもいうのか、露骨な演技とでも言うのか、ちょっと生々しすぎる表現が目に付くところもあったが、それを大真面目にやっているのだからさすがプロだ。

小説と同じように、ミュージカルも強烈なストーリーで展開されるものと、そこそこのストーリーに歌や踊りをブレンドして香りたてるものとがある。
「オペラ座の怪人」や「ウィキッド」などのようにストーリー自体が面白く、映画化しても通用するようなものは前者だ。

そしてこの「春のめざめ」は後者だ。
ちょっと子供には見せられないようなドキッとするシーンもあるが、全体的にストーリーはそんなに大したものではない。ただ、俳優たちの迫真の演技と歌と踊りとが、ストーリーを肉づけして行く。正面の主役だけでなく、隅にいる一人一人に至るまで、まるで全員が主役のスポットライトを浴びているが如くに演技するさまは、例によって感心させられる。

映画のようにCGがあるわけでもないから、すべて生身の演技である。
足りない部分は観客の想像力で補わせる。
大人の役は男女2名の俳優さんが何役もこなすのも、その一つだ。
カーテンコールもしつこくなくてすっきりしていて良かった。
ただ、観客が珍しく少なかった。
四季のファンにはあまり受けないのだろうか。
個人的にはいつもと変わらず十分堪能できたのだが・・・

映画では味わう事のできない演技・演出の世界。
人生のより深い味わいを感じられるように思うのである。

次は「アイーダ」かな・・・

     

2009年7月7日火曜日

餃子の王将

 不景気になれば庶民の財布の紐は固くなる。そうした影響はあちこちに及ぶが、その中のひとつが外食である。

 外食産業が軒並み減収となる中、増収を維持しているのが「餃子の王将」だ。しかも「全体では増収だが、既存店は減収、増収は店舗増加が寄与したため」、といった見せかけの増収ではなく、既存店ベースで増収というのだから大したものである。

 もともとは関西系のチェーン店であり、東京人の私にとって「存在こそ知ってはいるものの、馴染みがない」存在であったが、関西人からすると馴染み深い庶民の食堂のようである。

 「学生時代によく行っとったわ、ランチタイムなんか働くおっちゃんばっかりだったけど賑わってたでぇ~、でも女の子はあんまり行かんかったかなぁ~、だからあたしらが行くと目立ったでぇ~、おっちゃんばかりの中にボディコン4人組(*注)やからなぁ~」とは我が家の関西人の弁である。
 当時から安くておいしかったらしい。

 そんなわけで興味を持ってさっそく家族で行く事にした。何事も実践家族である。いきなり店舗前の人だかり。なんと「お待ち」で溢れていたのである。しかし、そんな事でめげる我が家ではなく、辛抱強く待つ。

 中に入ると、とにかくの活気。
かつて業績低迷期に今の社長が厨房の活気を伝えるようにしたという。
食器がガチャガチャいう音にフライパンでジュージューいう音、飛び交う店員さんの声・・・
なるほど、中華料理はまさにこういう雰囲気であるべきという雰囲気である。

 頼んだのはもちろん餃子にチャーハン(関西風にいえば焼き飯)に天津飯にetc・・・
天津飯は関東と関西では味付けが異なる。関東では甘酢ダレがお馴染みであるが、関西では塩ダレといって上にかかっているタレが関東よりも色が薄い。関東の店舗では両方メニューにあって選択できるが、関西では塩ダレのみらしい。塩ダレを試してみたが、なかなかイケル味であった。

 家族でけっこう食べたが、何といっても嬉しかったのは会計時だ。予想していた以上に安かった。流行るわけだ。やっぱり今の時期は値段が安いというのが大きいだろう。外食を控えると言ってもなくなるわけではない。どこを削るかの問題である。その時いかにしたら家計のリストに残るか。餃子の王将の戦略はその一つの答えだ。

 見回せば店内は意外なほどファミリー層が多い。
もちろん、出店地域の状況にもよるだろうが、テイクアウトも行列が絶えなかった。
また行きたいものであるが、我が家の近所にないのが玉に瑕である・・・
     

*注:ボディ・コンプレックスの略ではないかと思っているが、我が家の関西人妻がいつもつるんでいたメンバーである
    

    
         

2009年7月3日金曜日

椿山課長の七日間

Dream as if you’ll live forever,
    live as if you’ll die today!
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浅田次郎の小説を久しぶりに読んだ。
「鉄道員(ぽっぽや)」で衝撃を受けて以来、浅田次郎の作品は機会があれば読んできたつもりであったが、まだまだ読んでいないものも多い。この本は映画化もされているが、映画の方はまだ観ていない。期待しながら手に取った一冊である。

「鉄道員」は死んだ娘が父に会いにくる話であった。
「地下鉄に乗って」も父親の過去を見る話であった。
そういう一見荒唐無稽な設定が心を打つストーリーの伏線となったりする。この物語は突然死んでしまった一人のサラリーマンが、やり残した事をすべく現世に戻ってくる話である。考えてみれば我々とていつ死ぬかわからない。それがいつだろうと、たぶんやり残した事は椿山課長ならずともたくさんありそうな気がする。

 椿山課長の心残りは非常に現実的だ。妻とまだ小学生の息子の行く末。ローンの残った家。まさにかき入れ時の仕事。ボケて老人ホームにいる父。さらに体の付き合いのあった女性。自分の身に置き換えてみれば実に身につまされる話である。

あの世とこの世の中間で死者を導く役割を担う役所が冒頭に出てくる。
登場人物たちが現世に戻る手伝いをする様をユーモラスに展開してくれる。
しかも生前はデブでハゲの中年サラリーマンだった椿山課長が、美女として蘇るのだから、なんとなくそのままコメディーになってもいいような展開となる。
こうした遊び心も物語に幅を持たせてくれるものである。

人間は誰でも自分がすべてわかったような気でいるものである。
しかし、当然の事ながら相手の胸の内まではわからないもの。
目の前に見えている事実だけがすべてではない。
死んで他人として蘇る事で、椿山課長も今まで気がつかなかった事実を一つ一つ知る事になる。
やっぱり自分もいろいろ気付かない事を抱えて生きているのだろう。
そんな思いが脳裏をよぎる。

椿山課長とたまたま一緒に蘇るヤクザの親分と7歳の少年。
3人が蘇りを希望した理由は、みな家族や身近な者への愛情ゆえだ。
そうした愛情を描き出すのは浅田次郎は得意である。
登場人物たちはみなそれぞれに他者への愛情を胸に秘めている。
そしてみんな自分の事よりもそれらの愛情を優先する。
そんな愛情の一つ一つが静かに心に染み入る・・・

自分もそんな愛情を身近な者に送りたい。
そして知らないうちに自分に向けられている愛情にも気付くようにしたい。
涙腺の弱い人は通勤電車の中でなんて間違っても読まない方がいい。

映画の方も観てみたいと思う。
まだ読んでいない方にはお勧めの一冊である・・・
   

2009年7月1日水曜日

選挙権

 だいぶ選挙の事が話題になってきた。自民党も今回はそうとう危ないだろう。個人的には2大政党時代の到来を期待していたし、民主党の躍進は期待すべきところなのであるが、肝心の民主党はというとどうもやる事なすこと心もとない。政権取ってもすぐ失速、そんな気さえする。ではと言って他を見回してみると、それ以外の政党はというと、宗教政党は趣旨に合わないし、共産党や民社党は論外中の論外だし、消去法でいくと何も残らない・・・
実に絶望的な状況である。

 それはさておき、選挙となるといつも気になる事がある。それは投票率の低さだ。私は選挙権を得て以来、ほとんどすべての選挙に行っている。旅行と重なった時は不在者投票までした事もある。だが、はたしてどれほどの人が毎回きちんと投票に行っているのだろう。最近では投票率が50%を下回る事も珍しくもない。非常に嘆かわしい。

 なぜ投票率が低いのか?
確かにアメリカの大統領選挙みたいに国を挙げて盛り上がる事もないし、入れたくなるような政治家も政党も少ない。入れたって入れなくたって何も変わらない。選挙に行く気がしないというのもわかる。しかし投票率が少ない根本的な理由は、そうした「選ばれる側」の問題ではなく、むしろ実は「選ぶ側」の問題だと思う。簡単に言えば「当然に与えられたものは大切にしない」という精神だ。

 父が小学生の頃、実家はかなり貧しかったそうである。いつもぞうり履きで学校に通っていたらしいが、ある時教室のゴミ箱に使い古した鉛筆が捨てられていたそうである。たぶん裕福な家の子が使い終わって捨てたのだろうが、その長さは父にすると十分使える長さであったそうである。拾いたくてたまらなかったが、周りの目を気にして拾うのにかなり時間がかかったそうである。

 父の実家の近所の住職さんは同じノートを端から端まで上下変えて3度使ったそうである。最後にはそのノートはまっくろになったという。物がなかった時代、手に入らない時代だからこそ徹底的にあるものを大事にした。今は物が溢れかえり、何でも簡単に手に入り、簡単に捨てられる。セブンイレブンが話題になっていたが、コンビニは時間が過ぎればまだ食べられる弁当を廃棄処分にする・・・

 選挙権だって今の完全な普通選挙の歴史は100年もない(日本では1945年から)。選挙権を巡って血を流した時代もそんなに古い時代の事ではない。そんな代償である選挙権も当たり前のように与えられれば、やがて見向きもしなくなる。20歳になって初めて選挙権を手にした時の感動もすぐに忘れ去る。「入れたい政党や政治家がいない」というのはただの言い訳で、これこそが投票率が低い真の理由だと思う。

 だから投票率を上げようと思ったら、実は簡単だと思う。例えば3度続けて棄権したら選挙権停止とでもすればいいのだ。そして復権するには、講習を受けて誓約書を提出するといった障壁をつくれば、たぶんみんな選挙に行くはずだ。失うとなれば、大事にしないものでも惜しくなるのが人の常だからだ。

 日本人はみな贅沢に慣れ、ブクブクと太ったブタの如きである。飢えていた時代から学ぶことに目を背け、身の回りに溢れるものの一つ一つがいかに大切なものかを忘れ去ってしまっている。失って初めてその大切さに気付くなどという事は嘆かわしい事だ。今の時代に生きられる幸せは当たり前の事ではない。それを築き上げてくれた先代に感謝すべき事なのだ。

 考えれば考えるほど絶望的な選択肢ではあるものの、今度の選挙もきちんと己の権利であり義務である一票を投じたいと思うのである・・・