2022年10月30日日曜日

他人と自分を比べない方がいいのか

 先日読んでいた本の中に、スマホの所有が増えることでうつ病が増えているということが書かれていた。それは他人と自分を見比べる機会が爆発的に増えたことが原因だと著者は分析し、「他人と自分を比べない方がいい」というのは幸せの絶対的原則だと言う。そうなのかもしれないと思う。「他人は他人、自分とは違う」ということは当たり前なのであるが、どうしても「そうは言っても・・・」という気持ちが出てしまう。SNSで見た他人の投稿を羨ましく思い、「どうして自分は・・・」と思ってしまうことは私も実感するところである。

 大学時代、ともにグラウンドで汗を流した友人は、外資系のコンサル会社でかなりの地位まで上り詰めた。たぶん、年収は億を超えるのではないかと思う。それはもちろん本人の努力の賜物なのであるが、自分もそういう道を歩めたのではないかと、どこかで思ってしまう。また、会社が上場したことによって、従業員持株会を通じて持っていた株が億単位になってしまった知人もいる。それは単なるラッキーではあるが、自分は就活の時にどうしてそういう会社に目が留まらなかったのだろうかと思ってしまうところがある。

 男も定年年齢が近くなると、「社会人としての成果」が社会での地位と共に家族や持ち家や車などに表れてくる。そうした他人の成果を自分と比較すると、どうしても「差」を感じてしまう。特にそれが表れるのが車であるように思う。私はどちらかと言うと車は「移動手段」であり、「ステイタス」を感じない。正直言って、車など何でもいいと考えるので、国産のファミリーカーで10年乗っていても何の心理的抵抗はないが、それでも知人がフェラーリやポルシェなどに乗っているのを見ると心中穏やかならざるものがある。それは車に対する嫉妬というよりも、「稼ぎの差」あるいは「ゆとりの差」に対する嫉妬かもしれない。

 そんなことを考えると、「他人と自分を比べない方がいい」というのは事実である。しかし、である。逆に「他人と自分を比べて優越感を感じる」というのもまた真実である。自分より遅れている人間を見て安心するのもまた人の真実。それは自分より劣っている場合だけではなく、同程度も含まれる。自分と同じような会社に勤め、同じような家に住み、家族の状況も似ていて、さらに同じような車に乗っているとなれば、そこに安心感を感じる。その場合、「他人と自分を比べる」というのは、一つの大きな安心感を得られる手段である。

 もっとも、「スマホの所有が増えた」という状況と、「うつ病が増えた」という状況の間には、確かに因果関係があるようにも思う。なぜなら、 FacebookでもInstagramでも、投稿するのは大体がいい情報であろう。人に知られたくない恥ずかしい情報はそもそも投稿しないだろう。言ってみれば、他人に自慢したくなるような情報、とまではいかなくても、少なくとも知られても恥ずかしくない情報が投稿されるだろう。となれば、それを見た人が安心したり優越感に浸れたりすることはあまりないということになる。

 本来、幸せの尺度というものは、自分の中に絶対的なものがあればそれに越したことはない。他人がどうあれ、自分はこれに一番幸せを感じるというものを実現できていれば、他人を気にするまでもなく、それだけで満足するはずである。だが、必ずしもそういう絶対的基準を誰もが持っているわけではない。他人と自分との比較は、スマホを見なくとも日常的に避けられないことである。であれば、相対的基準の中で満足する、あるいはそこまでいかなくとも悲観的にならないという程度に収めることもできると思う。

 例えば、先の億を稼ぐ友人であるが、彼には子供がいない。私にとって、「億の収入」と「子供がいること」を比較して、どちらがいいかと問われれば答えるまでもない。子供が生まれ、ヨチヨチ歩きから成長していく過程を見守ることができる喜びは、とても億の収入とは比較できない。億の収入のある生活と子供がいる生活とどちらを選ぶかと問われたら、迷うことなく子供のいる生活を選ぶ。そう考えれば、億の収入のある生活もフェラーリのある生活も羨ましいとは思わなくなる。

 そもそも、人は上を見れば限りがない。「一生に一度くらいハワイに行きたい」と思う人がいたら、ハワイに行ければ満足感を得られるだろう。だが、それが実現すれば毎年行っている人が羨ましくなる。そして毎年行けるようになれば、1週間ではなく2週間行きたくなるし、ホテルのグレードもアップしたくなるし、エコノミーではなくファーストクラスに乗りたくなるものだろう。「もっと、もっと」というのは人間の自然な欲望であり、それが頑張るモチベーションになったりするから悪いことではない。健全な程度にコントロールできていれば問題はないと思う。

 また、下を見て安心するというのもいかがなものかというところはある。「これでいい」と思ってしまえば成長はない。ビジネスでも「現状維持思想」は一番危険である。要はバランスであろう。自分と他人と比べるのは仕方ない。現代社会では、意識しなくとも他人との差は目についてしまう。その時、大事なのは上を見て落ち込むのではなく、「自分も頑張ろう」と健全な方向に感情を向けることであろう。そしてどうしてもそれが無理な場合は、横や下を見て自分はまだマシだと安心感を得ることも必要だろう。そのバランスをうまく取っていくことが、幸せに生きるための条件の一つであるように思う。

 浮かんで驕らず、沈んで腐らず。うまく精神の安定を保ちながら、他人の姿を見たいと思うのである・・・


Myriams-FotosによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

   



2022年10月26日水曜日

不思議な話に思う

 毎日の帰宅時の電車の中で石原慎太郎の『弟』を読んでいる。弟、石原裕次郎と過ごした石原慎太郎の自伝である。まだ前半部分であるが、ちょっと気になるエピソードがあった。それは裕次郎が小学生の時に罹った奇妙な病気。なんでも首をしきりに振るものだったらしい。あちこちの医者に見せても北大に入院して検査しても原因がわからない。困った父親が部下から勧められて、ある霊感豊かな老婆に見せたという。すると、その老婆は、裕次郎が最近犬を悪戯して殺してしまったことを言い当て、供養に十日間の間、清めの塩を家の周りの辻々に置くように言われたという。そしてその通りにしたところ、なんと裕次郎の奇病はピタリと治まったと言う。

 このエピソードを読んで思い出したのは、昔、父から聞いた話。まだ父が子供の頃、トイレを改装して移転させたという。それから祖母の具合が悪くなり、良くなるどころか日々悪化する。当時は医者など近くにおらず、思いあまってやはり神主だか何かの霊感あらたかな人に相談したと言う。すると、家に来もせずに、トイレを移転していないかと言い出し、それが風水上か何かの都合の悪い場所で、すぐに清めるように言われたと言う。祖父が訝しがりながらも言われた通りにしたところ、祖母の病はピタリと治まったと言う。初めて聞いた時は、真剣な表情で語る父の話を半分バカにして聞いたものである。

 さらに別の時、父が釣りで川に行った時、何やら珍しい石を拾ったと言う。それを持ち帰って家に飾っていたそうであるが、それからしばらくして突然胸が苦しくなったと言う。それはあまりにもひどく、このまま死ぬかもしれないと思うほどだったと言う。やがて何事もなく症状が治まる。ところが翌週、また同じ症状が出る。そしてしばらく苦しんで治まるということが続いたそうである。そしてふと、症状が出るのは毎週同じ曜日の同じ時間だと気づく。そして閃くようにそれは石を拾った時間だと思い至り、慌ててその石を元の場所に返しに行ったという。すると、その症状は2度と出なかったそうである。

 そんな不思議系の話を現代っ子の私が信じるはずもなく成長したのであるが、父は今でもそのエピソードを真剣に話すし、見てもいないトイレの改装をなぜ言い当てられたのか不思議だと首を傾げる。父の話や『弟』を読んで、おそらく同じような話はどこにでも転がっているのではないかと思われる。科学的には説明のつかない話であるし、真剣に話せば笑われてしまう類の話である。ひょっとしたら犬を殺したのもトイレを改装したのも、シャーロック・ホームズが初対面のワトソンをアフガニスタン帰りの医師と見破ったのと同じ類のものだったのかもしれない。

 父のエピソードはまだあり、ある時、母と車で帰宅する際、家の近所まで来て突然見知らぬ街並みの中に迷い込んでしまったことがあったと言う。こっちだろうと当たりをつけて車を走らせるが、見知らぬ街並みは変わらない。焦りが込み上げる中、父は気持ちを落ち着かせるため、車を止めてタバコに火をつけて吸ったと言う。すると何やら殴られたようなショックを覚え、気がついたらよく知った近所に車は止まっていたと言う。「あれほど不思議な経験はない」と父は今でも語る。田舎であれば、おそらく「キツネにばかされた」のだろうということにされていたのかもしれない。

 柳田邦男の代表作『遠野物語』には、昔から伝わる不思議な話が収められている。昔は科学も発展しておらず、人々の教養レベルも低く、人間にわからないものはみな神様やキツネの仕業にしたところもあるのだろうと思う。『遠野物語』ほどではないが、父の話を聞きながら、自分も是非そういう経験をしてみたいと思う。しかし、60年近く生きてきてそんな経験にありつけたことはない。たぶん、この先もないのだろうと思う。それは、心のどこかで「そんなことはない」と思っているからかもしれない。当事者にはわからなくとも、何か説明のできることがあったのだろうと思う。

 しかし、と思う。そうした不思議な話というのは、現代に生きる我々にも必要な気もする。何でもかんでも原因があって結果があるという因果論的に考えるのではなく、「どう考えても説明できない」ということがあっても良いと思う。そこにあるのは、「畏怖」である。何か正体の知れぬもの、自分では解決できぬ災いをもたらすものに対する「畏怖」。それが人を謙虚にさせる。裕次郎の父親も、10日の間、裕次郎が悪戯して殺してしまった犬を供養して辻々に塩を置く行為を続けたという。そこにあるのは、目に見えぬものに対する「畏怖」である。

 神様に対する信仰もそうであるが、人間には「畏怖」が必要であると思う。「畏怖」があるから謙虚になる。触れてはいけないもの、犯してはいけないものに対する抑制は、法律だけではなく、目に見えないものに対する畏怖もないとダメなように思う。法律はバレなければいいし、うまくごまかせることもあるが、目に見えぬものはごまかせない。「畏怖」こそが人間を謙虚にさせるのだと考えると、現代はそういう「畏怖」がなくなってしまっているがゆえに、自制の効かない時代になったと言えるのかもしれない。

 改めて祟を信じるとまではいかないが、「畏怖」の心と謙虚さを持つ必要はあると思う。父の話は何度も聞いたが、もうバカにする気持ちはない。そこに息づく「畏怖」の気持ちが人を謙虚にすると思うからである。それに、この世の中に少しは不思議なことがあってもいいんじゃないかと思うのである・・・


Stefan KellerによるPixabayからの画像 


【本日の読書 】

   


2022年10月23日日曜日

果たして理想的に行動できるか

 この週末、趣味にしている深夜の映画鑑賞で、『The Crossing ザ・クロッシング Part III』を観た。1945年から1949年にかけての中国を舞台にした二部作構成の映画である。『Part II』のクライマックスは、「太平輪沈没事故」。国共内戦で国民党が敗走する中、上海から台湾に逃れようとする人たちを満載した太平輪という船が、貨物船に衝突して沈没した海難事故である。海に放り出された人たちが近くに浮いていた荷物等にしがみつくだけでなく、他人の浮き輪や救命胴衣を奪ったり、他人が捕まっていた板を奪い合うシーンを観ていて考えてしまった。「果たして自分だったらどうするだろうか」。

 金城武演じる医師は、見ず知らずの子供を助けて板の上にのせる。そこに現れた男がその板を奪おうとする。医師はみんなで掴まれるからと必死に訴えるが、男は医師をナイフで刺し板を奪う。法律的には、自分の命が危機にある時、助かろうとして他人の生命を危険に晒しても、それは「仕方ない」と判断される。いわゆる「緊急避難」というもので、罪に問われることはない(もっともナイフで刺す行為が緊急避難にあたるのかどうかはわからない)。自分も同じ状況下に置かれた時、どう振る舞うだろうか。

 自分1人の時と、家族などと一緒の時とでは違うだろうが、1人の時であればとにかく自分が生きる方法を模索する。基本的に浮き続けるのは疲労もあって困難だろうから何か掴まるものを探すだろう。だが、その時、他人のものを奪うようなことはしないだろう。たとえ力づくで奪えると判断したとしても、それをする事は自分の考えに合わない。他のものを探すとか、何か別の方法を探すだろう。ただし、明らかに何人かで掴まれるものを独り占めしている者がいたら、そこは説得するだろうし、応じなければ力づくで奪うかもしれない。

 もちろん、それはあくまでも何の心配もいらない机に座っている状態で思うだけのことで、実際の現場になったら死の恐怖から他人を溺れさせても助かろうとするかもしれない。ただ、あくまでも映画を観ながらぼんやり考えた範囲での話である。あくまでもその範囲ではそのように行動する(したい)という考えである。もともと他人を押し退けてということに心地良さを感じない性分である。電車の中で座ったり、駐車スペースを探したり、混んでいる中で注文をしたり、そういう中で「人をかき分ける」ということができない性格なのである。

 「いざとなったらわからない」とは思うものの、「いざとなっても大丈夫」という思いもどこかにはある。昨年、理不尽にも働いていた会社の社長が勝手に会社を売って失業してしまった。意趣返しで、関連会社の経営権を合法的に手に入れたが、その関連会社にあった資産はかなりまとまったもの。正直言って独り占めしようと思えばできたが、他に同様に酷い目に遭った社員に声を掛けて分け合う事にした。その結果、元社長とは法廷バトルとなり、それは自分1人が前面に出て対応している。損なことをしているが、独り占めするのは性分にあわないので悔いはない。

 「奪い合えば足らぬ、分け合えば余る」とは、相田みつをの言葉であるが、その精神には深く同意する。みんなが理不尽な思いに覆われている時に、自分だけいい思いをしたいとは思えなかった。それは綺麗事ではなく、何をもって自分は「心地良い」と感じるかなのだろうと思う。会社で言えば、社長は儲けた中から社員に給料を払い、残った中から自分の給料を取るというのが基本的な考え方。逆になるととんでもない。自分の場合、役員であるが、まずは社員にしっかりと払い、最後にたくさんもらうというのを好む。そのためにたくさん儲けないといけないし、他の人より多く欲しければ、それだけ儲ければいいのである。

 会社では、しっかり働き、しっかり休む。そこで気にしているのは、みんなもそう出来ているかどうか。休みはしっかり取れているか。自分の部下だけでなく、社員みんなが休めているかは常時気に留めている。それは前職でもそうであったし、現職でもそうである。「ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。一般的に「財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴う」ということのようであるが、それは財産や権力や社会的地位がなくても果たすべきものであるように思う。

 昔からこんな考えを持っていたわけではない気もするが、最近では特にそんな風に思う。関西人の妻が私を評して言う「ええカッコしい」かもしれないが、何が気分的にいいかを大事にするなら、そんな「ええカッコしい」もいいんじゃないかと思う。もう人生も後半戦に入った身であるし、自分ファーストで人から軽蔑されるより、リスペクトを集める方が心地良い。いざとなってもそんな風に行動できる自分でありたいと思うのである・・・


MichaによるPixabayからの画像 

【今週の読書】


   



2022年10月19日水曜日

論語雑感 雍也第六(その26)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

宰我

、『。』。」

く、

。」

【読み下し】

宰我さいがいはく、

よきひとなるものこれげて仁者ひといはふといへども、したがこれか。

いはく、

なんれぞしからむ

君子もののふきも、おとしいるるから

あざむきも、から

【訳】

宰我が先師にたずねた。

「仁者は、もしも井戸の中に人がおちこんだといって、だまされたら、すぐ行ってとびこむものでしょうか。」

先師がこたえられた。

「どうしてそんなことをしよう。君子はだまして井戸まで行かせることは出来る。しかし、おとし入れることは出来ない。人情に訴えて欺くことは出来ても、正しい判断力を失わせることは出来ないのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 「騙す方が悪い」のか、「騙される方が悪い」のかというのは、よく言われることである。それは考えるまでもなく、「騙す方が悪い」のであるが、騙される方にまったく問題がないということでもない。オレオレ詐欺が世間で騒がれ始めたのはもう随分前であるが、その被害はなかなか尽きることがない。何故だろうかと不思議でならない。銀行で振り込みをしようとして銀行員に止められ、それでも振り込みをしようとして駆けつけた警察官に説得されてようやく騙されていることに気づいた、なんてお年寄りの話を聞くと、「騙す方が悪い」とも言いにくくなる。


 騙される人というのは、相手の言うことを疑いなく信じ込んでしまうのだろう。騙す方も言葉巧みに話すから、信じてしまうのも無理はない。オレオレ詐欺に限らず、投資詐欺や結婚詐欺など詐欺の類は昔から尽きない。騙されないためには、「本当かな」と疑う健全なる猜疑心が必要であり、立ち止まって冷静に考えられるなら、調べたり人に聞いたりすることである。そうすれば「おかしい」と思うに至るだろう。さらに騙される一因は、「欲」であると思う。胡散臭い儲け話に乗ってしまうのも、儲けたいという「欲」が猜疑心を失わせてしまうのだと思う。


 年寄りがオレオレ詐欺に簡単に引っかかるのは、その人がもともと人を疑わない善人だということもある。昔読んだ漫画の中で、「疑う」ということは、すなわち「悪の心(または知識)」があるからであるというようなセリフがあったのを覚えている。それを読んで確かにそうだと思った記憶がある。「疑う」ということは、「相手が自分を騙しているかもしれない」と思うことである。「騙す」という行為を知っており、「相手がそれを自分にしているかもしれない」と相手を信用しないという悪の知識である。悪の知識があるからこそ、騙されることを回避できるのであるというのも何だか複雑である。


 自分は騙されないと思っていても、お金を出してしまうケースもある。例えば、家族や友人から金を貸してくれと頼まれた時、当然ながらある程度の事情は聞く。その時、「もしかしたら騙されているのでは」と思ったらどうするか。一応、その懸念は伝えて再考を促すが、それでも貸してくれと頼まれれば、貸すこともある。自分なら絶対に出さないであろうお金をその人物が出すと判断したのなら仕方がない。そこで「そんな金は貸せない」とするのも一つの判断であるが、その人物が信頼できる人物であれば、私はたぶん貸すだろう(もちろん、貸せる範囲で、ではあるが・・・)


 オレオレ詐欺の被害が毎日のように報じられていた頃、一番心配だったのが実家の両親である。老齢で判断力はおぼつかなくなっているし、「金を借りる時は直接会いに行くから」と念押ししていたが、それでも心配であった。ところが当の本人はケロッとして、「大丈夫」と言う。本人の「大丈夫」ほど怪しいものはないが、実際に何度かオレオレ詐欺の電話がかかってきたそうであるが、私も弟もまず自分の名前を名乗っていたからすぐにおかしいと気づいたそうである。しかし、一方で「そんなお金どうしよう」と瞬時に思ったことの方が大きかったそうである。


 「ない袖は触れぬ」と言うが、それは真実。100万円単位のお金を動かすということが普段ない母親にとってそれは一大事。そんな感覚も幸いしたようであるが、確かに大金を簡単に動かせる感覚の人は危ないかもしれない。ニュースで1,000万円単位の被害にあった人のことが報じられているのを見たことがあるが、「お金があるから騙される」のも真実である。ただ、お金のない庶民でも「寸借詐欺」は避けられないかもしれない。「ちょっと小銭を貸してほしい」という程度の詐欺であるが、これはなかなか断りにくいところがある。


 先日、公共の喫煙スペースにいたところ、怪しげなおじさんが「タバコ一本ください」とその場にいた人に声をかけていた。まずは若い女性が「ごめんなさい」と言い、次の若い男性が「一本しかないので」と断り、その次の人も断っていた。私のところには来なかったが、来たらたぶん一本恵んであげただろう。詐欺とは違うが、人はちょっとした簡単な頼み事は断りにくいものである。「みんなしっかり断れるんだなぁ」と1人妙な感想を抱いていたが、頼み事を「断りにくい」という感情も無視できないものがあるかもしれない。


 お金を貸す場合、私はまずは相手を見る。信頼できる相手かそうでないか。私には友人の少ないのが幸いし、「こいつになら騙されても仕方がない」と思える友人は少ない。という事は、大抵の人の話、特にお金が絡む話は身構えて聞く事になる。基本的に「楽してお金は手に入らない」という考えが自分には根付いているから、「美味しい話」にはまず警戒感から入る。確たる断言はできないが、まず騙される事はないんじゃないかと漠然と思う。しっかりした考え方があれば、誰もが騙されることもないのではないかと思う。


 そうは言っても、というところはある。何より怖いのは「欲と慢心」だろうか。「自分は大丈夫」と慢心する事は避け、健全なる猜疑心を大事にしていきたいと思うのである・・・


Mert ÖzbağdatによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

   



2022年10月16日日曜日

倍速

 最近、若者はドラマなどを倍速視聴していると言う。ネットでも録画でも倍速送りは可能であるが、それはあくまでも「見たい部分へ移動する」という意味合いで使っている身としては、「そんなので楽しめるのか」と思うも、インタビューに答えてほとんど倍速視聴していると真面目に答える若者の姿は驚き以外の何ものでもない。ドラマなどは小説とは違い、「間」や「絵(場面)」で見せるというところがあるが、倍速だと意味がなくなる。ただストーリーだけを追う感じなのだろう。小津安二郎監督の映画などは倍速で観たら、間違いなく面白くも何ともないだろうと思う。

 倍速視聴の背景には「時間がない」、「見たいドラマが多すぎる」ということがあるようである。確かに、自分自身に置き換えてみても観たい映画のリストは軽く300本を超えているし、読みたい本のリストも200冊を超えている。減らしても減らしてもその分増えるからまったく減らない。倍速視聴でもしない限り今のペースでは仕事を引退するまで減ることはだろう。ただ、だからと言って、倍速視聴で片っ端から観ていこうという発想は自分にはない。人間歳を取ると新しいことを受け入れられなくなるというが、これもその一つなのだろうかと思ってもみる。

 読書でも「速読」というのがある。忙しいビジネスマンが効率的に読書で知識を得ていく方法として、意識の高いビジネスマンが習得に走っていたようであるが、私は受け入れられなかった。今でも読書は最初から最後の解説まで読むタイプである。速読とまではいかなくても、有用な部分だけ読むということを勧める人もいたが、私は読むならすべて読む。もちろん、合わないと判断して途中でやめるパターンはあるが、読む場合は最後まで読む。さすがに「出版できたのは○○さんのおかげ」的な謝辞の部分は飛ばすが、それ以外はすべて目を通している。

 特にビジネス書の場合、ヒントは随所に隠れている。目次だけ見て面白そうなところだけをピックアップして読むのもいいかもしれないが、それだと「意外な発見」は出てこない可能性がある。もう充分に知っているということでも、「では自分ならそれをどう書くか」という視点で見ると、そこには違うヒントがある。基本的に一冊の本を読んでそこから何を得るかは読み手次第である。サラリと速読して概要を掴んでわかった気になるのもいいが、それだとしばし読むのをやめて考えてみたり、後で読み直して改めて考えるということができない。自分の望む結果を得るのに速読はあわないのである。

 本を読んで何を得るかはその人自身の問題であるから、その人がそれで良ければ問題はない。ただ、私の場合、速読はあわないというだけのことである。もちろん、それだと限られた時間で読むことのできる本には限界がある。溜まった「積ん読リスト」の中には、既に陳腐化してしまい、今さら読みたいとは思わないものも出てくるが、それはそれで仕方がない。時間は有限であり、人生は読書だけで終わらせることはできない。「早くたくさん」よりも「少なくともじっくり」を選びたいと思う。

 ドラマも同様である。倍速視聴すればドラマ1本分の時間で2本観られるわけであるが、それで2つのドラマを観るよりも、どちらか1つを選んでそちらを観る方を選びたいと思う。ドラマに限らず、ラグビーの試合も場面場面で重要なのは結果よりもプロセス。「トライを取った」ことよりも「どういうプレーで取った」ことが観たいポイントであり、倍速では動きをしっかりとらえられない。むしろここぞというプレーはリプレイで何度も観るから普通に観るよりも時間がかかることが多い。

 と言いながらも、すべてじっくり読んだり観たりするわけではない。マニュアルの類は基本的に見るのも嫌なので、ポイントだけ、あるいはサラッと全体を大雑把に把握する程度にしか読まない。ラグビーの試合も、ゴールキックの場面は倍速ではなく早送りしてしまう。音楽もじっくり聴く。若者と言えども、さすがに音楽は「速聴」することはないのだろうと思う。映画もちょっと感じ入った映画であれば、エンドクレジットまでしっかり観る。それはマーベル作品のようにエンドクレジットの途中で次につながるシーンが含まれる場合もあるが、多くは映画の余韻に浸りたいからである。そしてそれもまた映画の楽しみの一つなのである。

 倍速視聴する若者の嗜好に異を唱えるつもりはないが、自分の楽しみ方として、じっくりしっかり観ることはやめられない。そして生きることもまた然り。倍速で人の2倍の人生を送るよりも、巡航速度でしっかりと己の人生を生きたいと思うのである・・・


【本日の読書】

 



2022年10月13日木曜日

最近の若者

 我が社の若手社員の話である。彼はもともとコミュニケーションが苦手。当然、口数も少ない。さらにもともと持病があったとかで、仕事も休みがち。それはそれで仕方ないのであるが、個人面談で彼に対して感じた違和感の一つに、「仕事の時間以外に自己研鑽などしたくない」と堂々と語ったこと。将来特に決まった目標があるわけでもない。彼女がいるわけでもない。側から見ると、「ただ何となく」毎日を暮らしているようである。

 私も社会人になりたての頃は似たようなものだったと思う。休みの日に会社の行事に引っ張り出されるのなんて真っ平御免だったし、将来出世したいなどとも思わなかった。仕事はあくまでも生活の手段であり、それ以上でもそれ以下でもない。必要なだけ仕事をして給料をもらう。職場の人と仕事が終わってまで付き合うなんて気がしれず、余計な人間関係など不要と考えていた。銀行で出世できなかったのも無理はないと思う。

 基本的に今でもその感覚は残っている。ただ、当時と違うのは、うまくやる事を覚えた事だろう。将来どうしたいかと問われれば(そもそも「将来」と言えるほど残り時間はないのだが)、相変わらず確たる目的があるわけではなく、ただ平凡で普通の毎日が送れればそれでいいという程度である。「普通の生活」こそが実は大変だということに気づいたということもあるが、若者に胸を張って語れる目標とは言い難い。

 仕事は相変わらず生活の手段にしか過ぎないが、どうせやるなら楽しくやりたいし、上手にやりたい。コミュニケーションは仕事の一つであるし、仕事は大変なのが当たり前。それをいかにこなすかが腕の見せ所。仕事をして給料をもらう。職場の人と仕事が終わってまで付き合うなんて気が知れないが、仕事を円滑にこなすためであれば頑なに拒むのも馬鹿らしい。余計な人間関係など不要であるが、チームスポーツと考えれば、チームメイトと息を合わせることは大事であり、それに必要であれば飲みニケーションも躊躇わない。そんな風に変わっただけである。

 それもこれも痛い経験をいろいろと積んできたからであり、最初はかの若手社員と同じである。だから彼もやがて考えが変わるかも知れないと思ってみたりする。ただ、そこに至る過程で痛い思いをするかも知れないとは思う。今年入った新人も彼より若い若手社員の中にも前向きに頑張っている者はいる。家に帰ってから資格を取らんと勉強している者もいるし、そういう者にやがてまもなく追い抜かれることになるだろう。12年の差など、我が社の業界では大きな差ではない。

 後輩に追い抜かれた時、それでも彼は今と同じように考えられるだろうかと思う。見たところ、学校を卒業するにあたり、就職しなくてはと普通に思い、たまたま興味を持って採用してくれた我が社に就職したが、とりあえず給料分だけ働ければそれでいいという感じがしている。出世など到底(今は)興味もないだろう。後輩が先にリーダーになり、自分が指示される立場になった時、初めて「ヤバい」と思うのかも知れない。あるいはそれでも「別にいいや」と思うのかも知れない。

 私も出世欲はなかったが、それでも「仕事ができない奴とは思われたくない」という矜持があった。だから、最低限、自己研鑽に励んだし、それなりに責任感を持って仕事もこなした。持病のある彼は最近何日間か病欠したが、どうやら苦手な仕事を振られ、それが高じてストレスになり発症したようである。苦手な仕事から逃げたのかも知れない。ベテラン社員が彼の様子を見て、「俺たちの若い頃は毎日怒鳴られて仕事を覚えたものだ」と呟く。まだ「パワハラ」という言葉が辞書になかった時代の話である。

 若手の彼を見ていて、つくづく両親に大切に育てられたのだろうなと思う。「温室育ち」という言葉があるが、彼はおそらく人とそれほど争うこともなく、厳しい環境の中で歯を食いしばることもなく育ってきたのだろうと思う。それは世の中が豊かになった証であるが、若手の彼はそんな時代の産物のように思えてしまう。出世がすべてではないし、後輩に追い抜かれても本人がそれでよければ他人がとやかく言うことではない。ただ、給料は仕事に応じてもらえるものなので、それ相応になるだけである。

 いろいろな価値観がある中で、本人の考えはもちろん尊重したいと思うが、後で「もっと早く気づいていれば」と後悔する事態になっては気の毒だと思う。自分もそうだったから、そのあたりはアドバイスしてあげたいと思う。彼を案じる両親はいるわけだし、せっかく同じ会社で働く縁もあるわけだし、いずれ自分の子供たちも社会へ出て行く事を考えると、自分の家族に接するが如くに接してあげたいと思うのである・・・


【本日の読書】

   



2022年10月9日日曜日

生きることは悩むことなのか

 「人間は生きている限り悩むものです」とは、瀬戸内寂聴さんの言葉であるが、本当に次から次へと困難が生じてくる。心休まる時がない。今も元勤務先の社長との裁判を抱え、弟の金銭トラブルに巻き込まれ、それには両親も巻き込まれて母親が心を痛めており、その母親も最近記憶力が急速に劣化して時々支離滅裂なことを言うし、腰の痛みなどから家事もおぼつかなくなり心配が絶えない。我が身も妻との関係が改善せず、仕事も「問題のモグラ叩き状態」である。

 心穏やかに暮らしたいなぁとつくづく思うも、なかなかそうは行かない。振り返れば50代に入って苦悩の量が劇的に増えているような気がする。どうして毎日満足感に満たされて過ごせないのだろうかと思わずにはいられない。人を羨みたいとは思わないが、順風満帆な人生を送っているように見える友人知人を見るにつけ、ついつい羨ましくて仕方がなくなる。自分と何が違うのだろうか。どうすれば良かったのだろうか。どうすれば良いのだろうか。

 「幸せは気づくもの」という言葉がある。この言葉を知って随分と救われたように思う。苦悩に満ちた生活でも、そこには誰でも気づかない幸福があるのだと言う。たとえば、仕事では問題のモグラ叩き状態ではあるものの、「それは仕事があるから」である。もしも失業状態であれば、確かに日々生じる問題に煩わされることはないが、その代わり収入が絶えて家族を養えないという状態になる。それは想像するだに絶えられない恐怖。それに比べれば、いくらでもモグラ叩きをしようという気になる。

 裁判もまだどうなるかはわからないが、例え負けても全財産を奪われることはない。手にした退職金を失うだけである。それも恐怖であるが、幸い元職場の同僚が一蓮托生の仲間としているので、精神的には軽くなっている。1人で苦悩しているわけではない。それにこの役割をこなせるのは自分だけだったのであるから、他人に運命を委ねるよりも自分で矢面に立つ方がまだ良い。それに負けない可能性もまだまだある。

 弟の金銭トラブルも解決する可能性はある。例え解決しなくても、それは弟の問題。自分については、弟に貸した金が返ってこないだけ。ただ、裁判の敗訴とダブルパンチとなった時はかなり厄介かもしれない。母親も会話ができないというわけでもないし、同世代の友人知人の中にはもう親のない者も珍しくないわけであり、まだ両親が揃っていて話ができるというのはそれだけでも幸せかもしれない。

 友人知人先輩後輩の中には、金銭的に恵まれている者も多い。どういう伝手なのか会社社長に収まって年収数千万円とか、勤務先が上場して持株の価値が億を超えたとか聞くと心穏やかではいられない。しかし、子供がいなかったりすると、そこにはまた自分のわからない苦悩があるのかもしれないと思ってみたりする。夫婦2人で悠々自適の人生を送れても、子供を持つことの幸福は得られないわけであり、どちらがいいかと問われれば、金よりも子供のいる今の自分の生活を選ぶだろう。

 この身に降りかかる様々な困難はなんとか自分で引き受けられている。これを家族の誰かに肩代わりさせることはできないし、したくない。そう考えれば、この苦悩を背負って行くのも仕方ないかもしれない。と考えてきたところで、新たな恐怖に駆られる。それは「もしも自分が明日死んだらどうなるのだろう」ということである。少なくとも裁判の方は家族では対処できない。事情もわからないからなす術もなく負けてしまうかもしれない。

 そこで取り急ぎ財産目録を作成した。銀行口座と証券会社、生命保険会社、裁判では連絡を取るべき人、パソコンとiPhoneのパスワード。住宅ローンは銀行に連絡すれば団信でチャラになるし、生命保険金を滞りなく手にすることができれば、とりあえずなんとかなるだろう。考えれば、子供もまだ学生だし、自分の役割はまだまだ果たし終えていない。大事なのは生き続けることであると今は言えるだろう。

 なぜ苦悩ばかりが頭を占めるのかと考えてみると、それは心穏やかなことは目立たないからだと思う。生きていることがまず第一であるが、生きているからこそ生きていることは意識に上らない。自分も家族も健康であるから、自分の健康も家族の健康も気にならない。仕事があるから失業の恐怖も感じない。この週末、洗濯機が故障して大騒動になったが、それ以外の家電製品はきちんと機能しているから気にもならない。

 靴の中に小石が入ると、それだけで人生の大問題であるかのようにそれが気になって仕方がなくなるとは、ショーペンハウアーの弁。例えそのほかのことすべてに恵まれていても、人間は靴の中の小石を気にするという。実にその通りであると思う。まぁ、そう考えると、苦悩も仕方ないのかと思えてくる。逃げたくなるのは山々であるが、逃げるよりも受け流す方法を考えるほかないのかもしれない。そう考えてくると少しは苦悩も和らぐ。そう自分を慰めて、明日もまた頑張ろうと思うのである・・・


Anja-#pray for ukraine# #helping hands# stop the warによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 



2022年10月6日木曜日

武器輸出について

韓国の武器輸出3倍、8位に

相手国を徹底調査し営業、米頼みの危機感が背中押す

韓国製の兵器を買う国が増えている。韓国輸出入銀行によると韓国の防衛産業の輸出額は2021年に70億ドル(1兆円)と前年から倍増し、22年には20年比で3倍近い100億ドルを超す見通しだ。きめ細かな市場調査に基づく「オーダーメード型」の輸出で商機をつかんでいる。

日本経済新聞2022929

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 韓国が武器の輸出を伸ばし、なんと世界で14位から8位になったと言う。買っている国も何となく裕福でないため仕方なく安い武器を買わざるを得ない開発途上国なのかと思ったら、オーストラリアを筆頭にエジプトやフィンランド、エストニアなどが名を連ねていると言う。1年間に1兆円もの売上高を上げていると言うから、もう立派な武器輸出大国と言える。ちなみに、上位国はアメリカ、ロシア、フランス、中国、ドイツ、スペイン、イギリスであるらしい。スペインも意外性がある。


 翻って我が国は過去8年間の実績は完成品の輸出がたった1件という状況らしい。これをどう考えるか。ビジネスとして見るならば、日本の技術力を持ってすれば韓国に負けないくらいの輸出力を備えるのは簡単なように思える。しかし、そうならないのは、やはりそれが「武器」であるからだろう。武器とはすなわち人殺しの道具。それを売って金儲けするのかという倫理的な問題がつきまとう。我が国の場合、この点をついて激しく反対する人たちがいるのも当然である。


 かつて『ロード・オブ・ウォー』という映画を観た。ニコラス・ケイジが扮する武器商人を主人公とした映画である。武器商人と言うと、何やらダークな印象が伴う。その通りなのであるが、映画の中で主人公は自分を追うインターポールの刑事に向かって、「最大の商人はあんたのボス、アメリカ合衆国大統領だ。俺たちの商売の1年分を1日で売り上げる。」と言い放つ。そこに強烈な矛盾を含む。とは言え、「1人を殺せば殺人だが、大勢を殺せば英雄」という言葉もある通り、国家の行為となると悪事も正当化されてしまうところがあるから何とも言えない。


 我が国も長期間経済が停滞している。一人当たりの生産性を上げなければならないとかいろいろと言われているが、輸出で1兆円も稼げば大きいと思う。国内の防衛産業もお客さんが自衛隊だけでは技術も伸びないらしい。単純にビジネスとして考えるのか、倫理的に考えるのかは難しい。ただ、それはあくまでも売る立場の話であり、買う立場で考えるとまた違う面がある。買うからには必要があるからであり、それは仮想敵国に対する対抗上のものになるだろう。誰でも自国の安全は確保したいだろうし、それを悪と決めつけるのもおかしい。買い手があっての売り手である。


 ウクライナの問題にしても、ロシアの侵略を受けて領土を奪われているが、最近反撃して随分と領土を奪還しているという。それに大いに貢献しているのはアメリカから供与されている最新兵器である。ウクライナ支援となれば正当化するのだろうが、それによって戦闘が長期化し、両軍の戦死者は増え続けている。それが果たして良いのか悪いのか。そしてその陰で、アメリカの軍需産業は大いに潤っているし、今回有名になった武器「ハイマース」は、今後世界中で売れるようになるのではないかと思う。


 「売るから買う」のか「買うから売る」のか。その立場によって見方は変わる。武器輸出に反対する「平和派」の人たちに欠けているのは、「抑止力」という考え方。武器は人を殺すものであるが、それがゆえに武力に訴えることを躊躇させる働きがある。本当は理性がその役割を果たすべきであるが、残念ながら人間の理性にはそこまでの働きはない。武器による抑止力に頼らなければならないというのも情けない気もするが、相互不信という(特に白人間の)感情がある限り、理想は遠いように思う。


 翻って我が国については、経済も大事であるが、武器を売らないという選択肢も悪くはないと思う。「世界がそういう場所だから売ってもいい」と言うのではなく、「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」(明治天皇)。あえて「よも(四方)の海みなはらから(同胞)」という精神がある我が国であるのだから、武器を売るのことができない、あるいは売るのが下手な国であっても良いように思うのである・・・



MasterTuxによるPixabayからの画像 

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