2022年10月2日日曜日

論語雑感 雍也第六(その25)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

いは、「つののさかづきつののさかづきつののさかづきつののさかづき。」

【読み下し】

いはく、つののさかづきつののさかづきならつののさかづきならむつののさかづきならむ

【訳】

先師がいわれた。

「觚には角があるものだが、この觚には角がない。角のない觚が觚だろうか。角のない觚が觚だろうか。」

『論語』全文・現代語訳

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 ここに出てくる「觚」とは、何やら儀式に用いる杯らしい。角のあるものだったのであろうが、あるべき角がないので、「そんなものは觚ではない」と語られたのであろう。なにせ論語は2,500年も前のことだから、それがどんなものであったのか、この言葉にはどんな真意があったのかは(素人には)わかるはずもない。それはともかく、「○○とはこういうもの」という考えがあったのは間違いない。そこから感じるのは、「あるべきものに対する思い」であろうか。


 「あるべきものに対する思い」にはその良し悪しがある。「あるべきものに対する思い」は「こだわり」の場合もあるし、「常識」の場合もある。どちらがどうというのはケース・バイ・ケースだろう。例えば、かつては「ビールならキリン」という人が多かったが、私であれば「プレミアム・モルツ」である。ただ、それは絶対というものではなく、「あえて自分で買うなら」という意味で、それ以外は口にしないというものではない。私にも「こだわり」はあるが、あまり強くない。牛丼なら吉野家だが、すき家でも食べる。強い「こだわり」があるとしたら松屋では食べないということだろうか。


 モノに対する「こだわり」もそれほどのものはない。パソコンはMacだし、スマホはiPhoneだが、熱烈なアップル信者というほどでもない。ラグビー用品はスズキスポーツで買うが、それはこれまでの経験でハズレがないからであり、何がなんでもというほどの愛好家でもない。身につけるものも仕事の鞄も「こだわり」のあるものはない。ただ、先駆者に対する敬意のようなものはあり、だからアップル製品を買うし、コーラならペプシではなく本家を選ぶ。そこは「好み」があるかもしれない。


 行為あるいは行動に関しては極めて柔軟になる。仕事では誰かが新しいアイディアを出せば、あれこれ議論するよりも「やってみたらいいんじゃない」と思う方である。私も仕事ではいろいろとアイディアを出すが、それに対して必ず否定的な意見を言う人がいる。それはその人の考え方で悪いとは思わないが、私は否定からは入らない。サントリーの「やってみなはれ」の精神が好きであり、「やってみてダメならやめればいい」と考える方である。もちろん、会社が傾くようなことなら慎重を期する必要はあるが、そうでないならトライ&エラーだろうと考える。


 テレビ番組では「カンブリア宮殿」を見ているが、新しい商品やサービスなどが紹介されるとすぐ買ってみたくなり、利用してみたくなる。新し物好きというのではなく、まず自分で体験してみたいという思いが強くある。私のようにすぐ「試してみよう」と考えるタイプは、こだわりタイプとは対照的だろう。もちろん、試してみてよければそれが新しい「好み」になると思うが、「こだわり」までにはならないと思う。それが私の性格なのかもしれない。


 先日、母校のラグビー部の100周年記念行事に参加したが、そこで部のエールが変わっている事に気がついた。ラグビーでは試合終了時に互いの健闘を讃えて独自のエール交換を行う。だいたいどこも同じなのだが、我が部は最後に一言付け加えるという点で、他校との違いがあった。それは我が部で重視している精神を表した言葉なのであるが、私も現役時代には他校との違いに違和感を覚えつつも行っていた。たぶん、今の現役もそれを感じて他校と同じものに改めたのだろうと思う。


 一部OBからはその変更に対し不満も出ていたが(私も変えるべきではないと考えている)、そういう伝統的なものを変える事にも基本的に異論はない。ただ、「現役がそういう伝統精神を理解した上で変えたのなら」という但し書きがつく。なんとなく他校と違っておかしいという程度の感覚なら考え直してほしいと思う。それをただ直せと押しつけるのではなく、伝統精神をきちんと説明する義務はOB側にある。それを聞いた上で変えるのであれば、それでいいと思う。そこから新しい伝統が始まるのである。


 きっと「角のない觚」もそんな伝統破壊だったのかもしれない。常識を覆すというのは、守る方からすればとんでもないということになるが、古き良き伝統を守るべきか否かは一概には言えない事である。伝統は守らせるものではなく、守ってもらうものである。でなければ続かない。どうしてその伝統が生まれ、どうして代々守られてきたのか。それをきちんと伝えた上で、伝えられた者に守りたいと思ってもらうことが伝統の継続になる。なぜ「觚」に角があるのか。その理由をきちんと説明して理解してもらえれば、「觚」から角はなくならないはずである。


 我が母校のエールは変えてほしくない。私が出しゃばって行くのが筋とは思えないが、まずは伝統をきちんと伝えてもらうように、監督に話してみたいとは思うのである・・・



AlexaによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

  



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