2022年10月26日水曜日

不思議な話に思う

 毎日の帰宅時の電車の中で石原慎太郎の『弟』を読んでいる。弟、石原裕次郎と過ごした石原慎太郎の自伝である。まだ前半部分であるが、ちょっと気になるエピソードがあった。それは裕次郎が小学生の時に罹った奇妙な病気。なんでも首をしきりに振るものだったらしい。あちこちの医者に見せても北大に入院して検査しても原因がわからない。困った父親が部下から勧められて、ある霊感豊かな老婆に見せたという。すると、その老婆は、裕次郎が最近犬を悪戯して殺してしまったことを言い当て、供養に十日間の間、清めの塩を家の周りの辻々に置くように言われたという。そしてその通りにしたところ、なんと裕次郎の奇病はピタリと治まったと言う。

 このエピソードを読んで思い出したのは、昔、父から聞いた話。まだ父が子供の頃、トイレを改装して移転させたという。それから祖母の具合が悪くなり、良くなるどころか日々悪化する。当時は医者など近くにおらず、思いあまってやはり神主だか何かの霊感あらたかな人に相談したと言う。すると、家に来もせずに、トイレを移転していないかと言い出し、それが風水上か何かの都合の悪い場所で、すぐに清めるように言われたと言う。祖父が訝しがりながらも言われた通りにしたところ、祖母の病はピタリと治まったと言う。初めて聞いた時は、真剣な表情で語る父の話を半分バカにして聞いたものである。

 さらに別の時、父が釣りで川に行った時、何やら珍しい石を拾ったと言う。それを持ち帰って家に飾っていたそうであるが、それからしばらくして突然胸が苦しくなったと言う。それはあまりにもひどく、このまま死ぬかもしれないと思うほどだったと言う。やがて何事もなく症状が治まる。ところが翌週、また同じ症状が出る。そしてしばらく苦しんで治まるということが続いたそうである。そしてふと、症状が出るのは毎週同じ曜日の同じ時間だと気づく。そして閃くようにそれは石を拾った時間だと思い至り、慌ててその石を元の場所に返しに行ったという。すると、その症状は2度と出なかったそうである。

 そんな不思議系の話を現代っ子の私が信じるはずもなく成長したのであるが、父は今でもそのエピソードを真剣に話すし、見てもいないトイレの改装をなぜ言い当てられたのか不思議だと首を傾げる。父の話や『弟』を読んで、おそらく同じような話はどこにでも転がっているのではないかと思われる。科学的には説明のつかない話であるし、真剣に話せば笑われてしまう類の話である。ひょっとしたら犬を殺したのもトイレを改装したのも、シャーロック・ホームズが初対面のワトソンをアフガニスタン帰りの医師と見破ったのと同じ類のものだったのかもしれない。

 父のエピソードはまだあり、ある時、母と車で帰宅する際、家の近所まで来て突然見知らぬ街並みの中に迷い込んでしまったことがあったと言う。こっちだろうと当たりをつけて車を走らせるが、見知らぬ街並みは変わらない。焦りが込み上げる中、父は気持ちを落ち着かせるため、車を止めてタバコに火をつけて吸ったと言う。すると何やら殴られたようなショックを覚え、気がついたらよく知った近所に車は止まっていたと言う。「あれほど不思議な経験はない」と父は今でも語る。田舎であれば、おそらく「キツネにばかされた」のだろうということにされていたのかもしれない。

 柳田邦男の代表作『遠野物語』には、昔から伝わる不思議な話が収められている。昔は科学も発展しておらず、人々の教養レベルも低く、人間にわからないものはみな神様やキツネの仕業にしたところもあるのだろうと思う。『遠野物語』ほどではないが、父の話を聞きながら、自分も是非そういう経験をしてみたいと思う。しかし、60年近く生きてきてそんな経験にありつけたことはない。たぶん、この先もないのだろうと思う。それは、心のどこかで「そんなことはない」と思っているからかもしれない。当事者にはわからなくとも、何か説明のできることがあったのだろうと思う。

 しかし、と思う。そうした不思議な話というのは、現代に生きる我々にも必要な気もする。何でもかんでも原因があって結果があるという因果論的に考えるのではなく、「どう考えても説明できない」ということがあっても良いと思う。そこにあるのは、「畏怖」である。何か正体の知れぬもの、自分では解決できぬ災いをもたらすものに対する「畏怖」。それが人を謙虚にさせる。裕次郎の父親も、10日の間、裕次郎が悪戯して殺してしまった犬を供養して辻々に塩を置く行為を続けたという。そこにあるのは、目に見えぬものに対する「畏怖」である。

 神様に対する信仰もそうであるが、人間には「畏怖」が必要であると思う。「畏怖」があるから謙虚になる。触れてはいけないもの、犯してはいけないものに対する抑制は、法律だけではなく、目に見えないものに対する畏怖もないとダメなように思う。法律はバレなければいいし、うまくごまかせることもあるが、目に見えぬものはごまかせない。「畏怖」こそが人間を謙虚にさせるのだと考えると、現代はそういう「畏怖」がなくなってしまっているがゆえに、自制の効かない時代になったと言えるのかもしれない。

 改めて祟を信じるとまではいかないが、「畏怖」の心と謙虚さを持つ必要はあると思う。父の話は何度も聞いたが、もうバカにする気持ちはない。そこに息づく「畏怖」の気持ちが人を謙虚にすると思うからである。それに、この世の中に少しは不思議なことがあってもいいんじゃないかと思うのである・・・


Stefan KellerによるPixabayからの画像 


【本日の読書 】

   


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