2018年6月27日水曜日

あゝ、ビール

東京はいまだ梅雨の最中とは言え、ここのところ連日で夏日が続いている。この季節は、ビールが実にうまい季節であることは、異論を待たないであろう。自分は「毎日欠かさない」というほどではないが、そこそこビール好きの部類に入ると思う。そんな私が生まれて初めてビールを飲んだのは、中学生の時である。御代田の従兄の家に遊びに行った時、ちょうどお盆の時期で公民館に集まった大人たちと一緒に飲み食いしていて、「飲むか?」と差し出されたのである。

生まれて初めて飲んだビールの感想は、大抵の者がそうであると思うが、「苦くて飲めたものではない」というものであった。どうして大人たちはこんなものを美味しいと言うのか、まったく理解不能であった。それがその後、少しずつ無理して飲むうちに味に慣れていったのである。高校生の頃には、もうクラスの打ち上げで居酒屋に飲みに行っていたほどである(まだ大らかな時代だったのである)

やがて大学、社会人になると、普通に飲みに行っては「とりあえずビール」の世界に入って行ったが、なんとなく感じていたのは「ビールの味の違いがわからない」と言うことである。よく、「キレ」だとか「コク」だとか「のどごし」だとか宣伝されているが、今だによくわからない。なんとなくわかったような気がするだけである。それにビールごとの味の違いもわからない。せいぜい、外国産のビールは「なんか違う」と言う程度である。

スーパードライが世に出て大ヒットしたが、あれもよくわからない。なんとなく「辛口」と言う感覚は理解できるが、テイスティングをしてこれがスーパードライだと言い当てる自信はない。自分はそんなに酒好きでもないからだろうか、などと好みのビールの味がある人を羨ましく思うことしばしばであった。ただ、発泡酒が出た時は、そしてそれに続く第三のビールが出てきた時は、なんとなく味の違いがわかった。どうも薄くてイマイチだという程度の感覚ではあるが、それでも自分の中では進歩の部類と感じた。

それを打ち破ったのは、サントリーの「プレミアムモルツ」である。これはうまいと心底思った。たぶん、味の傾向が自分の好みにあっているのであろう。そしてその味の違いも区別できる自信がある。なんとなく「ビールならこれ!」と言う贔屓ができた気がして嬉しく思うところである。と思ったら、最近発売されたキリンの「一番搾り超芳醇」も似たような味で、これもうまいと思った。この2つはちょっと飲んで違いがわかるかどうか自信がないくらい似ている。

ビールは缶でそのまま飲むよりもグラスに注いで飲むのが好みである。なんとなくその方が美味しく感じる(味覚に自信のない私のことだから、それは単なる勘違いかもしれない)。大量に飲むと味覚がボケてしまうようで、缶ビールならせいぜい1本か2本くらいまでが美味しく飲める限度である。まぁガブ飲みしなくて済むからいいのかもしれない。普段は、週末の深夜にバーボンを飲みながら観る映画も、これからはビールに変わる。映画を楽しみつつ、ビールも楽しめる。幸せな瞬間である。

先日読み終えたサントリー創業者の鳥井信治郎を主人公とした『琥珀色の夢』は、サントリーの歴史を綴る物語で、大変面白く読破した。主人公の鳥井信治郎は、主にワインとウィスキーに力を注ぎ、サントリーも「ウィスキー」と「ワイン」と言うイメージだったが、ここにきて「プレミアムモルツ」の登場で、ビールでもサントリーと個人の中では位置付けが変わった。小説も面白かっただけに当分、この思いは揺るがないだろう。

失われた数十年から抜けきれず、懐の寂しいサラリーマンを相手に、ビール会社は知恵を絞って値段の安い発泡酒や第三のビールを開発してくれたが、私からするとどうもこれらは飲む気がしない。発泡酒を2本飲んだと思ってプレミアムモルツを1本飲む方がいいと感じる。幸い毎晩晩酌をしないとやってられないほどではないので、量より質を追い求めていきたいと思う。

 これから夏本番。美味しいビールを飲めるとなれば暑さもまた心地良い。これからの季節を美味しいビールとともに楽しみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 
     

2018年6月24日日曜日

論語雑感 八佾第三(その4)

林放問禮之本。子曰、大哉問。禮與其奢也寧儉。喪與其易也寧戚。
(りん)(ぽう)(れい)(もと)()う。()(のたま)わく、(だい)なるかな(とい)や。(れい)()(おご)らんよりは(むし)(けん)せよ。(そう)はその(そなわ)らんよりは(むし)(いた)めよ。

【訳】
門人の林放が礼の本質を問うた。孔子は、「これはいい質問だ。礼式は華美にするよりは寧ろ慎ましくやるが良かろう。喪礼の場合も、体裁を整えるよりも寧ろ心から哀悼の誠を捧げるようにしなさい。形よりも心を尽くすこと、これが礼というものの本質だ」と答えた。
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以前より自分は「形式より実態(実質)」だと強く思ってきた。葬儀の時などに強く感じることが多かったためであるが、論語にもまさに同じことが書いてあるので、「我が意を得たり」の感がある。ただ、葬儀のやり方が形式的だからいけないというものでもないとは思う。みんな悼む気持ちはあると思うが、要はその表し方だ。「こうすることだ」と形式を示されれば、そういうものかと従っているのが大半だと思う。

例えば、焼香などの場合、私などは今だにその作法が気になってしまい、先にやっている人のやり方を密かにチェックしている。孔子によればそんな作法などより、哀悼の気持ちの方が大事だということだろうし、私もそれは強くそう思う。ただ、仏教で決められた作法があるなら、それに従って気持ちを表すのも一つの方法である。みんな同じだと思う。ただ、なぜそうするのかをあまり理解していないのが大半だと思う。

形式より中身が大事だとは言うものの、「では各自、自由にやって下さい」と言われてもまた困るかもしれない。その場合、なんとなくみんな目をつぶって手を合わせるだろうが、それとて「形式」と言えなくもない。そこまで「形式にこだわるな」と言われると、逆にどうして良いかわからなくなってしまうだろう。ある程度の形式はあってもいいかもしれないが、形式を真似ることに一生懸命になり過ぎて、肝心な故人に対し心の中で気持ちを伝えると言うことを忘れてはいけないと言うことだろう。

形式を大事にしすぎると、困るのはその意味を忘れてしまうこと(あるいは意味を考えないこと)だろう。サラリーマンなど特に仕事でその傾向がある。昨日、レゴランド東京が聴覚障害者に対し入場を拒否した問題が報じられていた。なんでも聴覚障害者だけで入場しようとしたところ、「避難誘導が困難(案内が聞こえない)」から安全のため入場を認められないと言うことらしい。これなんかは形式主義の最たるものだろう。対応した職員は多分悪気はなく、形式(ルール)に従っただけだったのだと思う。

こういうことは、サラリーマン組織の中では溢れかえっている。形式的には正しいかもしれないが、実態として合っていない場合、そこで「これはダメだろう」と疑問に思うことがないといけないが、形式を優先させてしまう。レゴランドであれば、感覚的に入場拒絶はまずいと思わなければならない。ルールという形式を変えられないのであれば、上司に相談して対処するとか、それでもダメなら私だったら「自分が付添人になります」ぐらいの機転を利かすだろう。あとでルール違反が社内で問題にされたとしても、(まともな組織なら)ルールの方が問題だとなるだろう。

結局、「真面目にルールに従ってしまう」のは、何も考えずに「形式(ルール)に従うことこそが正しいこと」と思い込んでいるからであるし、そう考える方が楽だからだろう。だってルールに従っていれば間違っていると言われることはないから。レゴランドの問題にしても、ルール上は社員の対応は間違ってはいなかったのだろう。だから運営会社は(社員に)誤解を与える表現をサイト上から削除したのだろう。でも経営層から見れば、一方で「おかしいと思えよ」と言いたくなるだろう。「そんなことまで一々指示されなきゃできないのか」と。こういう対応しかできないのであれば、それはやがてAIに取って代わられる仕事ぶりだと言えるだろう。

 表面上の体裁よりも中身を重んじるのが「礼」の本質であるならば、それはあらゆることに応用が効くだろう。要は「大事なことはなんなのか」を理解する力である。いたずらに形式に流れることなく、大事なことは何かを常に正しく理解して行動する。そんな当たり前のことを当たり前として行動したいと思うのである・・・



【今週の読書】