2018年6月11日月曜日

論語雑感 八佾第三(その3)



子曰、人而不仁、如禮何。人而不仁、如樂何。
()(のたま)わく、(ひと)にして(じん)ならずんば、(れい)如何(いか)にせん(ひと)にして(じん)ならずんば、(がく)如何(いか)にせん。
【訳】
孔子云う、「思いやりのかけらもない者が、上辺だけ礼に叶っていたとしても、そんなものが何になろう。愛情のかけらもない者が、技巧(テクニック)だけで音楽を奏でたとしても、そんなものが何になろう」と。
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私は常々、上辺の形式よりも本質が大事だと思っている。それゆえにこの孔子の言葉はすんなりと心に落ちてくる。例えばそれは葬儀や法事の時などに、仏教のしきたりをみていて強く思うところである。先日の法要でもやはりそれを感じた。親戚の一周忌の法要で、みんなで仏前に座り僧侶の読経に合わせて読経をしたが、ありがたいはずの「真言」なんてちんぷんかん。般若心教はなんとなく意味のわかる部分があるといった程度である。多分、その場にいたほとんど全員がそうだったと思う。

そもそもなんで死者を弔い、あるいは悼む時にお経を上げるのか。お経の意味のわかる人は、死んだ者も含めてほとんどいないと言うのに。「南無妙法蓮華教」とはどういう意味で、なぜそれを唱えることがいいのか。学校で習ったのは、その昔布教に際し、無知な農民でもこれだけ唱えれば浄土に行けるのだという簡単さが良かったのだということだったが、意味のわからない呪文を唱えて何になると、私などは思ってしまう。

死者を悼むのに大事なのは、僧侶の読経でもなく、文字数の多い戒名でもなく、高い棺桶や骨壷でもなく、「悼む心」だと思う。その気持ちがあれば、極端な話、僧侶による読経などいらないと私は思う。神妙な顔をして手を合わせていても、心の中で考えていることは早く済ませて帰りたいと思っていたら何にもならない。まさに孔子の言う通り。だから、自分が死ぬ際は、形式に流れて良しとしないように仏教式の葬式を拒否する遺言を残そうと考えている。義理で来てもらう必要はないし、たとえ葬儀に来てくれなくても遠くで悼んでくれればそれで満足である。

顧客サービスでも、そういうものを感じる時が多々ある。マニュアルに従って言葉遣いは丁寧であるが、結局はこちらの困った状況には対応できないという時などである。本当にすまなそうな顔で対応してくれる人と、言葉だけは丁寧であるが、さっさと済ませたいという人とがいる。その違いは、言葉には現れないが、表情とかにはっきりと現れる。心がこもっていれば、こちらも仕方ないと諦められるし気分も救われるが、上辺だけの対応だと不満が残る。サービスとはたとえ要望に応えられなくとも、相手に満足感を与えられることだと思う。

当たり前と言えば当たり前であるが、実はその当たり前が当たり前でなかったりすることも多いと思う。「気持ちが大事」ということに異を唱える人は少ないとは思うが、実戦となると形式に流れてしまっていたりするケースが多いのではないだろうか。たとえば印刷だけの年賀状を出して良しとしたり、お中元やお歳暮だけ送って義務は果たしたと思っていたりすることはあるのではないだろうか。年賀状なんかは、やっぱりたとえ一言でもそれぞれ相手を思って書き加えたいと思うし、それでなくても味気ない印刷だけの年賀状はやめたいと、そういう年賀状を受け取るたびに思う。

結局、孔子の時代から2,500年を経ても、不変の真理というものはあるものである。そしてこれはおよそ人間関係においては今後もずっと変わらない真理であろうと思う。音楽などの芸術に関しても、何よりもテクニックに負うところが大きいと思うが、テクニックの裏に「想い」というものが大事な要素としてあるのだろう。私は芸術に疎い人間であるが、それもまた真理だと思いたい。

形式よりも中身が大事なのはこれまでもそう考えてきた通り。今後も論語にもある真理として、自信をもって維持していきたい考え方だと思うのである・・・




【本日の読書】

 
     

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