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2026年6月11日木曜日

ノルマの話1

対馬の海に沈む (集英社学芸単行本) - 窪田新之助

 『対馬の海に沈む』というノンフィクションを読んだ。長崎県対馬市にある対馬農業協同組合(JA対馬)で起こった22億円に上る巨額の不正流用事件を追ったノンフィクションである。その遠因として触れられていたのが個人のノルマ達成を最優先させる組織構造や、それに起因する無理な営業体制などである。実際のものは書かれていなかったが、職員には過酷なノルマが課されており、こなせない職員は自爆営業(営業目標を達成するために自分や家族の名義で不要な共済を契約すること)をせざるを得ないというもの。それほど多くない給料から掛け金を払うため、家計を圧迫していたという。

 ノルマとは、もともとロシア語の「норма(基準・規定)」に由来し、第二次世界大戦後のシベリア抑留者によって日本に伝えられた歴史を持つらしい。私も銀行員時代、いろいろなノルマがあって大変だったのを思い出した。他の業界でも保険や証券会社なんかも大変らしいと聞こえてきていたが、どこの業界でも多かれ少なかれあるのかもしれない。私のいた銀行では「ノルマ」という言葉のイメージがよくないのか、「ガイド」と言い換えられていた。言葉が変われば変わるというものではないが、その意図は何となく理解できる。

 企業であれば、当然業績目標をというものを持つ。目標を持つことそのものは悪いことではなく、むしろ必要なことである。そして当然、全社一丸となってその目標達成に向けて活動するのであるが、その目標を達成するために、目標が細分化され、最終的に一人一人の社員に目標として降りてくるということもありうること。それがすなわち個人の目標としてのノルマとなる。そう考えると、ノルマというのは実は必要なことだということになる。実際、私もそういう個人目標はあってもいいと思う。ではノルマは必要善なのか。

 本来、必要なノルマがなぜ不正流用事件の遠因となるのか。それはおそらく「罰則」の有無にあると思う。達成できなくても罰則がなければ苦しむことはない。JA対馬のノルマがどんなものだったのか、罰則がどんなものだったのかまでは詳しく書かれていないのでわからないが、「できません」と言って済ませられるものではなかったのだろうと推測するしかない。家計費を圧迫されても我慢して加入し続けざるを得ないというのは、それ相応のペナルティがあるからなのだろう。

 私の場合、銀行員時代に課された「ガイド」で今でも覚えているのは、「JCBカード獲得10件」というものだった。支店に割り当てられた「ガイド」を単純に職員の頭数で割ったものだが、顧客と接点の多い営業職も少ない事務職も同じ「ガイド」というのは理不尽に思えた。私は融資係だったが、直接交渉できる相手はすでに営業が頼んで作ってもらっているから実際には頼める相手などいなかった。そこで家族や友人知人に頼んで10件集めたが、女性の事務職などは明らかに嫌な顔をしていた。気持ちはよくわかった。そうして集めたJCBカードがどこまで役に立つのか疑問だったし、やればいいというものではなかったと思う。

 その時は未達でも罰則はなかった。しかし、結果は支店内に公表されたし、未達者は誰だか一目瞭然だし、目に見えないプレッシャーはかなりあった。「針の筵」とはこういうことを言うのだとよくわかる状況である。罰則がなければいいと言うものではない。逆に達成したらプラス評価されるのは当然である。それに異論はない。組織として目標を追う以上、それに貢献したら評価しないとそれはそれで問題である。社員を鼓舞するのはいいが、棒グラフなどで暗黙のプレッシャーをかけるのはやはり勘弁願いたいものである。

 人間は尻に火がつかないと動かないというところは確かにある。企業として目標を持つのも必要であり、それを細分化して個人に目標を与えるのも必要である。問題は未達の場合にペナルティを課すことだろう。それは目に見えるものだけではなく、無言のプレッシャーという目に見えないものも含まれる。そんなものはなくても、達成できた場合にみんなが目の色を変えるような褒賞を与えるだけで十分だと思う。ボーナスで報いればいいのである。できなかった場合に、「次こそ頑張ろう」と思わせることができるか。それが大事なのではないかと思う。

 さて、翻って我が社の現状は厳しい。目標の未達は確定的だが、下手すると前年よりも減収ということになりかねない。それは何とか回避したいが、財務担当としては直接売上に貢献できるものではなく、なかなか忸怩たる思いがする。それでも数字を押し付けるノルマは存在せず、個人ごとの目標もない。ただ各課ごとの目標があるのみである。未達のペナルティなどないが、当然達成しようとするマインドは持って欲しいと思っている。ノルマはないが目標はある(かつてガイドと言い換えられたものかもしれない)。両者は似て非なるものである。基本は社員の幸福であるし、そこは忘れずに「目標」に向けて邁進して欲しいと思うのである・・・





【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか (単行本) / エマニュエル・トッド (著)+[販売店ノベルティー]2024年11月8日発売 国際政治地政学世界情勢日本分析社会教養歴史背景解説思考法実用書 みんな彼女のモノだった――奴隷所有者としてのアメリカ南部白人女性の実態 - ステファニー・E・ジョーンズ=ロジャーズ, 落合明子, 白川恵子





2026年2月19日木曜日

『四十年の真実』を読んで思う

  元日本航空の客室乗務員で、ノンフィクション作家である青山透子の『四十年の真実』を読んだ。日航123便の墜落事故の真相と言われると、リアルタイムでニュース見てその衝撃を経験した身としては興味をそそられる。しかし、最初にそれを知った『  書いてはいけない』に書かれていた内容はすぐには信じ難く、それで本書を読むに至ったわけである。この本によると、日航123便の墜落事故はあくまでも人為的な事故で、公表されているような後部圧力隔壁の破損などではないというもの。きっかけは自衛隊の無人標的機が日航123便の垂直尾翼に衝突したとされるが、その事実を自衛隊が隠蔽しようとした結果、墜落した(させられた)というものである。

 その隠蔽内容とは、最後に追尾していたファントムが123第便の第4エンジンを撃ち抜いて墜落させたというもの。さらに墜落現場は世間には不明と発表しつつ、いち早く現場に駆け付けた自衛隊員が撃墜の証拠を隠滅するため現場を焼き払ったとする。 いくら何でもそこまでは行き過ぎなように思えてならない。されど著者は単に推論を述べているのではなく、現場の一つ一つの状況から積み上げて結論を導いているわけで、そこには一笑に付すことのできないものがある。例えば、航空燃料は素人がイメージするのとは違って意外と燃焼性は低く、遺体が炭化するほど焼けることはないといった具合である(さらに現場では軍用燃料が検出されているという)。

 普通の航空事故であれば当然引き上げるべき相模湾に沈んでいる機体の一部(垂直尾翼)を引き上げないとか、ボイスレコーダーを公開しないというのもおかしいと主張する。確かにその主張はもっともであり、一読しただけの者には反論できかねるものがある。しかし、と思う。一歩下がると、これほどの衝撃的な事実を隠蔽しきれるものだろうかと思えてしまう。例えば第4エンジンを撃ち抜いて撃墜させたとするファントムであるが、自衛隊員がいくら命令されたとは言え、そこまでやるだろうかと思う。軍人だから命令は絶対であるとしても、躊躇なく(躊躇したとしても)民間航空機を撃墜できるものだろうか。

 民間航空機の撃墜と言えば、大韓航空機撃墜事件が脳裏に浮かぶが、あれは自国民ではないし、さらに旧ソ連という国の体質を考えればまだわからなくもない。しかし、自国民であり、さらに我が日本国内でのこととなればにわかには信じがたい。さらに直接手は下さなくとも現場にはもう一機のファントムがそれを目撃しており、その事実を知るパイロットが最低2人(ファントムが複座なら4人)がいるわけである。さらに命令がどこから発せられたのかはわからないが、命令系統に入っていた人物、命令の現場にいた人物など複数が関わっている。内心ではおかしいと思う者もいただろうし、それを外に漏らす者もいたのではないかと思えてならない。

 世の中にはいろいろと陰謀論めいたものが多い。アメリカ政府がUFOや宇宙人に関する事実を隠しているとか、ケネディ大統領の暗殺犯はオズワルドではないとか。そうした陰謀論の中にはまったくの事実無根なものもあるだろう。その真偽を見極めるのは難しいからいきおいどちらかを信じるしかない。この本に書かれていることに関して言えば、「総論反対各論賛成」的な感じがする。「信じられない」というよりも「信じたくない」という意識だろうか。では真相は何かと問われればわかりようもないが、根拠なく「何か違う感じがする」と言うしかない。秘密はそれに関わる人数が多くなるほど漏れやすくなるものであり、40年も隠しおおせるものではないように思う。

 もともと人に知られざる秘密には蜜の味がある。それが大ニュースとなるべき内容であればなおさらである。そうした秘密があることすら知らなければ何とも思わないが、「秘密がある」という事を知ってしまうと、その内容を知りたいという欲求が首をもたげてくる。結果的には知らなければ良かったということも、それは知ったがゆえに思う事であり、知らないうちはたとえ結果がどうであろうと、人は秘密を知りたいと思うものだろう。この本に書かれていることが事実なのかどうなのかはわからない。その疑惑を知らない時は平和だったが、知ってしまうと真実を希求する心は抑えがたい。

 一方で秘密はそれに関わる人が多くなればなるほど漏れるものだと思う。40年間も漏れないということは、この本に書かれているような事実はないという事なのかもしれない。例えば日本航空の社長などはこうした事実の引継ぎを受けているのだろうか。受けているとしたら、歴代社長の中には公表すべきと考える人もいたのではないかと思う。日本航空だけではなく、自衛隊の中でも然りである。もしも、事実であるならば、完璧に隠蔽されているわけであり、そちらの方に恐ろしさを感じてしまう。いずれにせよ、よけいなことを知ってしまったものである。

 疑惑の真相が明らかになる日はくるのだろうか。その日が来ることを待ちわびつつ、ケネディ暗殺事件の真相と日航123便の真相は、死ぬまでに知りたい真相として心に握りしめていたいと思うのである・・・


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2025年12月11日木曜日

人はなぜ自分を殺すのか

3人はCO中毒死 北海道・網走の遺体、集団自殺か 車内から練炭
2025/9/11 16:57
北海道警は11日、網走市美岬の林道に駐車された軽乗用車の中で死亡しているのが8日見つかった男女3人について、死因はいずれも急性一酸化炭素(CO)中毒だったと発表した。車内から練炭が見つかっており、道警は集団自殺の可能性があるとみている。3人の身元も判明し、北九州市の10代後半の女性、北海道の10代後半の女性、福岡市の30代男性だった。

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 スウェーデンの精神科医による『人はなぜ自分を殺すのか』を読んだ。タイトルの通り自殺に関する内容である。この本は自殺について様々な角度から考察を重ねたものであり、個人的にも自殺については必ずしも否定的には考えていないこともあって、なかなか考えさせられるものであった。目についた1つにスイスでは自殺ほう助団体があり、デンマークやベルギーでは安楽死が合法化されているというところ。日本人の感覚ではついていくのが難しいところかもしれないが、我が国でもそうなるといいと思っている。

 著者によれば、自殺を防ぐ方法として自殺の名所などで自殺しにくくする(橋では柵を設けたりする)「設計による予防」が効果的だと紹介している。専門家の言うことに異論を唱えるのもおこがましいが、自殺しようとする人は「あれがだめならこれ」と考えるだろうから本当の意味で(その他の手段を含めて)自殺を防ぐ事にはならないのではないかと思えてならない。ただ、自殺の名所で自殺しようと思ってその場に行ったが柵があってできず、どうしようかと迷っているうちに諦めるということはあるかもしれない。

 それにしても自殺をしようという人はなぜそういう考えに至ったのであろうか。生きていくのに耐えられないほど嫌なことがあったのだろうか。それとも生きていても将来に何も希望が持てないという絶望なのであろうか。私はこれまで自ら命を絶つなど考えたこともないが、自分が生きているより家族が幸せになれるとしたら、それも1つの選択肢かもしれないと考えたことはある。いずれにしても自殺をしようという人はその人なりに考えて導き出した答えなのだろう。それならそれで他人がとやかく言えるものではないと基本的には思う。

 その時にどういう手段を選ぶのか。自分だったらどうするかと考えると考えてしまう。電車に飛び込むのも飛び降りるのも躊躇してしまう。即死ならいいが、苦しむのは嫌だし。致死量の薬物と言っても簡単には手に入らないし、市販の劇物を飲んで苦しむのも嫌だし。何かいい方法がないかと考えてネットの情報を探しているうちに、同じことを考えている仲間を見つけ、一緒に死にましょうとなったのが、上記のニュースなのかもしれない。そうした人たちに「手段」を提供できたらいいなと個人的には思う。→『自殺の法制化はできないものだろうか』

 その時、無条件に与えるのではなく、カウンセリングを義務付ければ、もしかしたら思い直すことにつながるかもしれない。特にニュースで取り上げられていた「10代後半の女性」などは特にそうである。まだ知識も経験も少ない10代で狭い視野の中で自殺を選択するのはあまりに視野狭窄過ぎると思う。もしも、本人をまったく知らない第三者の専門家がカウンセリングしていたら、他の選択肢も提供できたかもしれない。場合によっては知らない土地で生活を再スタートするような支援を提供できれば自殺を防げたかもしれない。

 『人はなぜ自分を殺すのか』は自殺を否定するのではなく、肯定した上で防げるものはどう防げるかを考えたものである。実に建設的だと思う。すべての自殺志願を防ぐことはできないとした上で、防げないものには適切な手段を提供し、防げるものは防ぐというのは、この問題を考える上でのかなり有効な手段であると思う。それを「自殺に手を貸すなんて」と考えて否定してしまうと、もしかしたら防げるものまで見過ごすことになる。それは決してヒューマニズムなどではないと思う。

 私の祖父は89歳で癌になり、余命宣告を受けて農薬を飲んだ。もう十分生きたからいいと考えたのか、入院などで迷惑をかけたくないと思ったのかはわからないが、1週間入院して息を引き取った。もし、安楽死が認められていたら、もっと楽に死ねただろう。カウンセラーから家族と最後に話をしろと言われれば、親戚一同集まって盛大に祖父の好きな酒盛りをして見送ったかもしれない。どちらの死に方がいいかと問われれば答えるまでもない。どちらが人間味があり、人間の命を尊重しているかという事も明らかである。

 ヨーロッパの「先進国」はそういう議論が国民の間でできて結論が出ているという事で、うらやましい限りである。どんなタブーであっても議論に載せることを厭わずというスタンスは必要であると思う。まずは拒絶ではなく、相手の話を聞いて判断する。そういうスタンスは維持したいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 全体主義の起原1 新版――反ユダヤ主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎 一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義






2025年9月18日木曜日

どんな本を読んだらよいのか

 読書の効能はいたるところで語られているから、今さら改めて強調する事でもない。私自身これまで多くの本を読んできた。その中には読み直したいと思える本もあれば、読んだことすら忘れてしまった本もある。何で読書がいいのかと改めて考えてみると、たぶん、今の自分の思考の基礎になっているからと言えるだろう。会社で問題が起こった時、あるいは社長に何かを相談された時、その時の自分の対応、受け答えについて「何でここでそう考えるのか」と自分に問うと、その答えはたぶん「過去の読書の蓄積」としか言いようがない。読書によって積み重ねられてきたいろいろな考え方の集大成だろうと思うのである。

 今、大学生の息子はあと2年すれば社会に出て行く。その時、是非とも読書の習慣をつけるようにアドバイスしたいと考えている。ただ、どんな本を読んだらいいのかと聞かれたら、何て答えるか。それはちょっと悩ましい。と言うのも、先にも述べた通り、自分でもこの本が良かったというのは特にない(まぁ、何冊かはあるにはある)。基本的に時代も違うし、まったく同じ本を読めばいいというものでもないだろう。これから出てくる良本もあるに違いない。時代を経ても古びない本もあるから、そういうのは勧めてもいいだろうと思う。アドバイスできたらいいと思うのは、1つは「本の選び方」かもしれない。

 自分は極めて乱読である。ビジネス書から文学小説までその時々によってさまざまである。最近はもう学びつくしたというわけではないのだが、ビジネス系は減って哲学や自然科学系の趣味に走る事が多い。大まかに読書の分野を「ビジネス・仕事術系」・「思考・考え方系」・「お金・ライフスキル系」・「自己理解・キャリア系」と分けてみると、「仕事術」・「お金・ライフスキル系」・「自己理解・キャリア系」はもういいかなという気がする。「思考・考え方系」はこれから学ぶという部分もあるが、(自分の考え方が間違っていないか)確認という意味合いも強い。

 これから社会に出るのであれば、すべてまんべんなく読むべきだろう。小説だからビジネスに関係ないという事はない。物語の中での登場人物の行動によって学ぶものもあるだろうからである。そういう意味で、手あたり次第本を読んできた感のある私であるが、数撃ちゃ当たる理論でいろいろ読む中でこれといった本からさまざまな知識、思考を少しずつ身に着けてきたとも言える。息子にもそんな読み方でいいと思うが、それはそもそも私が読書好きという面もあったところもある。そうでないと絞って読むとなるが、それでも読まないよりははるかに良い。

 今は会社の採用担当(入社してからの新入社員研修期間は育成担当でもある)という立場を利用して、内定者には「入社までにビジネス書を1冊読破する」という義務を課している。それによってビジネス書に接する機会を強制的に設けている。本の購入費用は会社持ちとしている。大半の社員が初めてビジネス書を読むようだが、それによってビジネス書という存在に気づいて、できれば以後は自分で読んでほしいと思っての強制である。残念ながら、それ以後も読んでいるという社員は極めて少ないが、これはこれで続けていきたいと考えている。

 息子にも同じ事を考えている。社会人になってからというよりも、学生のうちから少しでも触れていればと思い、1冊手渡した。入学直後という事もあって、モチベーションも高かったのだろう。素直に1冊持って行ったが、入学から時間が経ち、授業や部活やアルバイトなどが始まる中で、どうやら意欲も薄れてしまったようである。まぁ、それはそれで仕方ない。それでも「就活」なんて言葉が出てくるから、もう少ししたらもう一度勧めてみたいと思う。多少なりとも読んでいれば、面接での受け答えも違うのではないかと思ってみたりする。

 自分もまだまだ学び続けたいと思うし、学び続けないといけないとも思う。当然、自分でも読み続けていこうと思うが、先にも述べた通り、これぞという分野が狭まっているのが事実。あまり興味のないまま読んでも為になるかという事もあるし、悩ましいところ。それでもいろいろな人が経験や学んだところを語ったものなどはまだまだ興味深い。いわゆる「思考・考え方系」であるが、これはアンテナを張っておきたいと思う。この分野は尽きる事がないと思う。いろいろな人がいろいろな考えを発信している。その人なりの経験から得られた考えであり、自分の狭い世界だけではなく、そういう人の経験も自分の肥しとなるのであれば何よりである。

 わずか2,000円前後の金額でこういう考え方に触れられるのなら安いものである。父親として息子に何をしてやれるか、何を残してやれるかと考えた時に、金銭的な財産は残念ながら心もとない。その代わり、自分で生き抜いていくための知恵を得る方法についてはできると思う(本人が受け入れてくれればであるが)。自分が無駄に生きていなかった証としても、是非とも実践したいと思うのである・・・


isaiah KimによるPixabayからの画像

【本日の読書】
監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  潤日(ルンリィー)―日本へ大脱出する中国人富裕層を追う - 舛友 雄大






2025年6月18日水曜日

霊魂は存在するのか

 今、通勤電車の中で読んでいる『語りえぬものを語る』という本の中で、「霊魂は存在するのか」という話があった。別に真面目に霊魂の存在を議論したものではなかったが、自分の中で引っ掛かったので改めて考えてみた。霊魂とは、ちょっと調べてみると、「肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられ、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在。人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在、個人の肉体や精神をつかさどる人格的・非物質的な存在、感覚による認識を超えた永遠の存在と考えられている」とある。これをそっくりそのまま信じるのは難しいだろう。

 昔からいわゆる「幽霊」と言われるものも、この霊魂とイコールなのだと思う。死してなお存在する人(の名残?)であるが、人間は生物であり、心臓が止まればその生存は終わる。思考も生命活動の一環であり、脳への血流が止まり生命活動が終われば思考も消滅する。すべてがそこで終わって無に帰るわけであり、「死後も存続する」ことはないと考えるのが自然であろう。もしも死後も存在するのであれば、認知症になった人はどうなるのかと思う。当然、認知症のままの霊魂が残る事になる。幽霊=霊魂の存在を信じる人がいるとしたら、この点はどう思うのだろうかを聞いてみたいと興味深く思う。

 とは言え、同じ生物として活動していてもその思考内容は人によってまったく違う。人間であれば心臓の働きも脳の働きもみな同じであろうが、脳の働きの結果としての思考については千差万別である。この点は実に不思議だと思う(当たり前だと思う人の方が多いかもしれないが)。「同じ生命活動でありながら思考が人によって違う」という事ゆえに、生物としての肉体以外に何かがあるとすれば、それが霊魂と名付けられるものなのかもしれないとは思う。ただし、それは肉体を離れて存在するものではなく、肉体とともにあって「生命や精神の原動力となっている存在」というものである。

 同じDNAを持血、同じ親の下で育っても兄弟で性格が違うというのも当たり前にある。同じ学校に通い、同じ担任に教わってもそれぞれ当たり前に違う。自分中心の考え方をする者もいれば、周りの人に配慮できる人もいる。同じ映画を観ても、同じ本を読んでもそこから受ける影響はみな違う。人から面白いと言われて勧められた映画を観てさほど面白いとは思わなかったという経験はザラだし、本もまた然り。逆に自分がめちゃくちゃ感激した映画をせっかく勧めたのに観もしなかったという事も同様。なぜ同じように感じないのだろうか。同じものに触れてもそこから何かを感じる感性というようなものもまた人によって違う。

 そうした感性は、思考の違いも同様、おそらく細胞レベルで研究してもわからないだろう。「病は気から」という言葉がある通り、人間の精神状態は肉体にも影響を及ぼす。そうなると、やはり「生命や精神の原動力となっている存在」というものがあると言ってもおかしくはない。ただ、それを「霊魂」と称するのには抵抗感がある。それは「霊」という言葉に引っ張られているのかもしれない。「霊」はどうしても「幽霊」に通じてしまい、「ありもしないもの」というイメージがしてしまう。基本的に「霊魂」が存在するとしてもそれは生きているものであろう。死んで生命活動が終われば霊魂も消滅する。

 一方で生きている者にはやはり目に見えない「生命や精神の原動力となっている存在」というものがあるように思う。原子レベルのものは目に見る事はできないが存在する。それと同様、今は十分に解明できていないだけで、そういうものがあるのかもしれない。それはそれとして、その人を形作る思考の元になっている何かがあって、それは血管を流れる血液なのかニューロンを伝わる電気信号なのか、何らかの活動によって生み出されているものであろう。それを「霊魂」と名付けるのであれば霊魂は存在する。ただ、個人的には「霊魂」というより「魂」と言った方がしっくりくる。

 こういう「魂」は大事だと思う。「魂を込めて」作ったものには何か普通のものとは異なる霊力のようなものを感じたりする。野球に例えるなら、魂を込めて作ったバットと普通に作ったバットのどちらかを選べと言われたら、たいがい魂を込めて作ったバットを選ぶだろう。たとえ材質はまったく同じだったとしても、そこに目に見えない力を感じて期待して選ぶだろう。その場合、その人は作り手の「魂」の存在を信じているという事になる。目に見えているものがすべてではない。特に人間の精神のようなものは一見、存在を軽視されそうであるが、「魂」は確実に存在すると信じられる。

 ラグビーでは「魂のこもったタックル」と言えば、気迫あるプレーで仲間の気持ちを鼓舞するものである。そういうタックルをする者は何より仲間の信頼を得る。魂が震える芸術作品というものもある(同じ作品を見ても魂が震えない者も当然いる)。現に信じる信じないは別として、我々は魂を前提として考えているのは事実である。「霊魂」という言葉に引きずられることなく、「魂」と考えればその存在は十分に考えられる。魂のこもったタックルはしたいし、ここぞという時には魂のこもった行動を取りたいと思う。

 「霊魂」は存在しないが「魂」は存在する。そんな風に思うのである・・・


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【本日の読書】

 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  【中古】 語りえぬものを語る 講談社学術文庫/野矢茂樹(著者) - ブックオフ 楽天市場店  新古事記 [ 村田 喜代子 ] - 楽天ブックス

2025年2月17日月曜日

『人間の証明』を読んで

人間の証明 勾留226日と私の生存権について - 角川歴彦

角川歴彦氏の『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』を読んだ。あまり関心がなく、ほとんど知らなかったのだが、著者は元KADOKAWAの会長であり、会長時代に五輪汚職をめぐる贈収賄容疑で逮捕され226日間を拘置所で過ごしたという。それは誤認逮捕であり、氏は無実を訴えるが、その拘置所での扱いが人権を無視した「人質司法」であり、その理不尽を訴えたのが本書である。

そう言えば、不動産会社プレサンスコーポレーションの創業社長も無実の罪で逮捕され勾留された経験を綴った『負けへんで! 東証一部上場企業社長vs地検特捜部』(読書日記№1453) を出していて読んだが、どちらも勾留中の理不尽な扱いに怒りを込めて体験記を綴ったものになっている。一般の感覚では罪を犯していなければ逮捕されることもないのであるが、著者のように思いもかけないところから逮捕されるという事もあり得なくはない。そういう私も検察に任意で呼ばれて事情聴取を受けた経験がある。

それは前職時代の事、取引先である上場企業が金融商品取引法違反で罪に問われ、そのとばっちりを受けたのである。簡単に言えば粉飾決算だったのであるが、我が社もグルだと疑われたのである。取り調べで社長は20回以上も任意調査に呼ばれ、時に罵声まで浴びたらしい。取り調べは役職員にも及び、私も計2回呼び出された。我々には身に覚えのないことであり、特に不安には思わなかったが、身元調査では自分の預貯金の額まで書かされた。不安には思わなくとも、同じ事実でも見方によっては違う印象を与えるものであり、検事の尋問にはそういう危険性は感じたのである。

そういう経験があるので、なんとなく著者の取り調べの様子も実感を持って想像できるところがあった(もっとも「被疑者」と「参考人」ではだいぶ圧力も違うだろうが・・・)。世の中では時折冤罪事件が話題になるが、それもまんざらわからなくもない。当時、社長は完全にグルだという前提で、時に検事から怒鳴られたりしたそうである。最終的には起訴に至らずに終わったが、気の弱い社長は体調も崩し、だいぶ参ったようである。検察としては罪に問うためには自供を得て裁判に必要な証拠を揃えなければならないため、必死だったのだろう。

実際に罪を犯していても、裁判で有罪にするにはきちんとした証拠を揃えて罪を立証しないといけない。裁判には「疑わしきは罰せず」の原則があるから、そこは厳密に要求される。その苦労はわからなくもないが、問題は疑われる方が無実だった場合である。「無実であれば心配することはない」という事でもなく、事実、著者は持病を抱え、体調悪化を恐れて早期の保釈を認めてもらうために、意に反していくつかの主張を諦めたそうである。それが裁判にどの程度の影響があるのかはわからないが、せめて有罪が確定するまでは「犯人扱い」のような事は避けるべきであろう。

何事も一方的に判断するのは良くない。拘置所側には拘置所側の事情というものがあるだろう。著者が「人質司法」と呼ぶ実体にもそれなりに意味のある事情はあると思う。しかし、持病があって3度倒れ、体重も15キロ落ちるというのはやっぱり問題があるだろう。少なくとも未決勾留の間は「配慮ある対応」が必要だろうと思う。世の一般人にはなかなか知り得ない世界の話は興味深い。興味とともに問題点についても考えさせられた一冊である。当たり前であるが、自分では決して体験したくはないと思うのである・・・

Volker GlätschによるPixabayからの画像

【本日の読書】
ユニクロ - 杉本 貴司  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎







2024年11月17日日曜日

色眼鏡

ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳

 『ハマスの実像』という本を読んだ。中東では昨年の10月にハマスがイスラエルに越境攻撃を仕掛け、民間人を多数殺害して人質を取るというテロ行為を起こしている。それにイスラエルが反撃し、ハマスの殲滅を宣言して1年以上戦争状態が続いている。もともと中東の紛争には興味があったこともあり、なんとなく「ハマス寄りのハマスに同情的な本」であるというイメージはしていたが、あえて手にした次第である。

 著者は中東専門のジャーナリストであり、「元朝日新聞記者」という肩書きを見て、そして内容を読んでやっぱりハマス寄りの内容であった。「イスラエルの軍事占領という暴力の元に」、「特にガザは被人道的な封鎖下におかれ、『天井のない牢獄』と呼ばれる状況に閉じ込められてきた」ことを考えれば、「何もないところから暴力が生まれるわけではない」とする。著者によれば、「だからハマスの攻撃も止むを得ない」というものであるが、多くのハマスに同情的な意見は、多分同じであろう。

 私はと言えば、イスラエルの置かれてきた環境を考えれば、ガザの封鎖や入植地の拡大といった施策は、「好ましくはないが止むを得ない」と考えている。だからハマスに同情的な意見には与する事ができない。それにどういう解決策が望ましいかと考えれば、「平和的な話し合いによる解決」であり、それにはハマスによる攻撃を「仕方ない」とは思えない。まずは暴力行為を停止するところからがスタートだと思う。お互いに話し合いのテーブルにつけば、国際世論もハマスやパレスチナ側にもっと支持が集まるだろうと思う。

 それはともかく、人には自分の寄って立つ「視点」というものがある。著者のようにハマスに同情的な立場だと、「原因はイスラエルにある」となる。しかし、私からすると、紛争は過激派のハマスが支配するガザでばかり起こっていて、穏健派のファタハが支配するヨルダン川西岸地区では(あまり)起こっていない事を考えれば、「諸悪の根源はハマス」となる。たぶん、私が著者と議論してもこの「視点」が異なる限り、合意には至らないと思う。言ってみればこの「視点」は色眼鏡である。

 私も自分の意見こそ絶対とは思わず、イスラエル寄りの色眼鏡で見ている事は事実である。そしてそれが正しいと思っているので、訂正するつもりは今のところない。ただし、そこは柔軟でありたいと思うので、自分と反対意見の人の話はきちんと聞きたいと思う。この本をハマス寄りだと思いながらもあえて手に取ったのもそういう次第である。イスラエルも100%正義だとは思わない。特に現在は強硬派のネタニヤフ首相が強力な指導力を発揮している環境であるから尚更である。それでもまだハマスよりはイスラエルの肩を持ってしまう。

 一つの同じ事実も「視点」が異なれば解釈も異なる。色眼鏡の色によって同じ世界も見え方が異なる。「イスラエルの軍事占領に対する抵抗」と言うか「テロ」と言うかによって事実が変わるものではない。ただ「抵抗」と美化しても平和的な解決策には至らない。これは間違いないと思う。会社でも色眼鏡の違いによって意見が相違する事が多々ある。こちらの意見を丁寧に説明してもわかってもらえないのは、色眼鏡は簡単に変えられないという事を意味している。

 常に自分の色眼鏡が正しいと言うつもりはない。できる限り相手の色眼鏡を理解しようと思うし、自分の色はできるだけ丁寧に説明しようと思うが、それが精一杯である。どうしてこうも違うのだろうか。考えてみれば面白い。自分の色眼鏡はどうしたら変わるのだろうかと考えてみると、それは相手の意見の説得力に他ならない。という事は、相手の色眼鏡が変わらないのは、自分の説明に説得力が足りないからと言える。相手の色を理解しつつ、説得力のある説明を試みる他はないだろう。

 歳を取ると頑固になるとはよく言われるが、自分も思考の柔軟性は保っていたいと思う。相手の主張をよく理解し、そこで自分の考えときちんと照らし合わせるようにしようと思う。そう思うものの、今回のこの本の主張にはやっぱり同意できない。平和的解決には、「抵抗」などとテロ行為を正当化する考えはダメだという考えは変えられない。相手の意見はきちんと聞いたうえでのことなので、これはこれでいいと思うのである・・・


Satheesh SankaranによるPixabayからの画像

【本日の読書】
三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功





2024年11月9日土曜日

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) - 三宅香帆

 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本を読んだ。この本、最近売れているらしい。私はもともと著者のように本の虫とまではいかないが、まあまあ本が好きだった事もあり、今でも月に6〜7冊は本を読んでいるので、比較的読んでいる方ではないかと思う。それも読むペースが加速したのはむしろ働くようになってからであり、著者の主張には違和感を禁じ得ない。それはともかくとして、読みながらいろいろと考えるヒントに溢れていた本であるのは確かである。

 「若者の読書離れ」はよく言われるが、なんとそれは80年代からすでに言われていたらしい。読書のピークは79年としているが、その根拠は1世帯あたりの書籍購入金額だとする。しかし、である。40年前と現代では単純比較できないようにも思う。書籍購入金額が定価なのかそれとも中古も含むのかわからないからなんとも言えないが、現代の方が確実に中古市場は広がっているわけであり、中古で買えば値段は下がる。単純に「本を読んだかどうか」は書籍購入金額ではわからない。それに電子書籍の金額は入っているのだろうかと疑問に思った。

 また、図書館を利用した場合、そもそも書籍購入金額に影響はしない。人気の本など図書館の予約数のすごさを見れば、「買わずに読む」人もかなりいる。特に日本経済は「失われた30年」を過ごしているわけであり、安く本を読もうとする傾向は強いはず。よって書籍購入金額だけをもって「本を読まなくなっている」と結論付けるのはいかがなものかと思ってしまう。他に指標がなかったのか(ならばそういう主張は控えた方がいい)、それでいいと考えたのか(根拠薄弱な主張は底を見透かされる)、いずれにせよ主張としては弱い。

 また、著者は明治時代からの読書史を振り返る。著者なりの考えはあったのだろうが、なぜ読書史を長々と連ねる必要があったのだろうか疑問である(単なるトレビアとしては面白い)。日本人の読書史と働いていると本が読めなくなる関連性がよくわからないのである。そして著者の言う「読書」とは、ノイズ(余計な知識)の含まれている小説などのことで、自己啓発書などは含まれない。映画『花束みたいな恋をした』の主人公が働くようになってから疲弊して本を読めなくなることを例に挙げるが、その主人公も自己啓発書は読めているのである。

 著者は結論として働き過ぎの社会の変革を訴えるが、それが実現できたからといって娯楽としての読書が可能になるのだろうかという疑問も残る。今の時代、映画もドラマもスマホで簡単に観られるし、若者はそれ以上にゲームを楽しんでいる。そもそも自己啓発書なら読めるという事は、必要性を感じるものには時間をかけるという事で、仕事で疲れている時は、むしろ自己啓発書よりも娯楽としての小説の方が読めるのではないかとも思う。著者と私の感覚の違いなのかもしれない。

 この本は、今売れているらしいが、「売れている」=「共感されている」という事でもないだろう(事実、私も共感できないでいる)。自分なりの一つの意見を書籍という形で世に問う事は素晴らしいと思うが、どうも私には説得力に欠ける意見であるように思えた。それでもこうして感じた雑感をまとめる契機にはなったので、読んで損はなかったと思う。これからも好き嫌いせずにいろいろな本を読んでいきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
ハマスの実像 (集英社新書) - 川上泰徳  三体2 黒暗森林 上 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功






2024年9月29日日曜日

相手の視点

イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法 - アン・ウーキョン, 花塚 恵 先日、『イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法』という本を読んだ。著者はイェール大学の心理学の教授。もともと心理学には興味を持っており、この手の本は迷わず読むのであるが、人間の持っている様々なバイアスに焦点を当て、よくある人間の行動を理論的に解説してくれるなかなか面白い本であった。自分のことを平均より上だと思ってしまう「流暢性効果」とか、自分が正しいと思う証拠ばかり集めてしまう「確証バイアス」など、「なるほど」と思ってしまうものばかりであった。

 その中でも私の目を引いたのが、「自己中心性バイアス」というもの。これは自分の持っている情報で考えてしまうというもので、人は全然相手の視点から考えないというものである。読んで真っ先に頭に浮かんだのは母親である。毎週末に実家に通って年老いた母の衰えた家事を手伝っているのだが、同時によく話も聞くようにしている。最近、繰り返し話すのは(年寄りの常で同じ話を何度もするのである)義妹の「許せない態度」である。弟の誘いで弟の家に行ったそうであるが、看護師をしている義妹は夜勤明けとかで寝ていて顔を出さなかったというのである。

 それは母の常識ではあり得ないことで、「義母がわざわざ来ているのに寝ているというのは何事か」と言うのである。それだけを聞くとその通りだと思うが、それこそまさに一面的な見方だと私は思うのである。夜勤明けで帰宅したら寝たいと思うのは普通の事。もしかしたらその次の夜も夜勤のシフトが入っていたのかもしれない。そうなれば睡眠を確保するというのは当然であり、むしろそういう時には誰にも来てほしくないと思うだろう。弟が夫婦でどんな会話をしたのかは知らない。弟は自分の都合で考えるから、「それなら寝ていていい」と言って強引に母を連れて行ったのかもしれない。

 義妹もそれならと寝ていたのかもしれない。そんな状況を想像すれば、私なら寝ていて顔を出さなくても気にしないし、むしろそんな時に訪問してしまった事を後でLINEでもして謝るかもしれない。しかし、母は自分の常識で義妹の態度を批判する。おそらく近所でも吹聴しているかもしれない。我が母であるが、私の妻とは嫁姑の冷戦を通り越してすでに「国交断絶状態」であり、義妹との関係もいいとは言えないだろう。その原因は明らかであり、もしも私だったら2人の息子の嫁と仲の良い嫁姑になっていただろう。それはこの本で言う「相手の視点から考える」という一言に尽きると思う。

 以前からもそういう事はしばしばあった。私は子供の頃、母親から「相手の気持ちになって考えなさい」と叱られた事を覚えている。「そんなのわかるわけがない」と子供の私は反論していたが、わからなくても想像はできる。そして私を叱った母は、そんな事はすっかり忘れて相手の気持ちなどまったく斟酌しない。嫁姑の争いは女の不寛容のなせる技であると思うが、その不寛容は「自己中心性バイアス」の賜物なのだろろうと思う。「相手には相手の都合がある、考えがある」と想像する事で、自分の感情を害することなく寛容になれる。もう年老いた母には無理であるが、自分はそういう寛容の精神を身につけたいと思う。

 考えてみれば、みんながみんな「自己中心性バイアス」から抜け出し、寛容の精神を身につけたなら、嫁姑の争いを始めとしてこの世からかなりの争いは無くなるのではないかと思う。しかしながら、妻を見ているとそう簡単にはいかないのだろうなと思わざるを得ない。わかってはいても、手も足も出ない。考えれば考えるほどそんなもどかしさを改めて感じざるを得ない。つくづく、難しいものだと思うのである・・・

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【本日の読書】
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦




2024年7月28日日曜日

臓器売買は本当に悪なのか

Mine! 私たちを支配する「所有」のルール - マイケル ヘラー, ジェームズ ザルツマン, 村井 章子

 『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』という本を読んだ。面白い着眼点の本で、言われてみれば確かにその通りだが、そんなことは考えてもいなかった「所有権」にまつわる様々な問題が挙げられている。どの事例もそれぞれ興味深く、その根底に「所有/所有権」にまつわる問題があることがわかって面白かった。ただ、その中には深く考えさせられる問題もあった。それは自分の身体に関するもの。自分の身体は自分のものであるが、では自由にできるのか。そしてその一例として臓器売買が挙げられる。

 臓器売買は世界のほとんどの国で禁止されていて、公認されているのはイランくらいらしい。我々の感覚でいけば当たり前のようであるが、髪の毛は自由に売買できるが、なぜ臓器はダメなのか。かつて血液も売ることができたが、今は禁止されている。その理由は「命に関わるから」であろう。髪の毛は切ってもやがて生えて元に戻る。切ることは簡単で命の危険もない。しかし、臓器は手術のリスクがあるし、摘出後に健康を害する可能性もある。だから禁止するのもよくわかる。

 血液も同様で、適度(3ヶ月間隔で200〜400ml)であれば献血は認められているが、無償である。これも多過ぎれば命のリスクがある。そして売血を認めると、お金に困った人が命のリスクを顧みずに献血に走る可能性もある。2015年の韓国映画『いつか家族に』は、主人公がまわりが止めるのを無視して、家族のために限度を超えて売血する姿が描かれる。おそらく売血が可能となれば、金に困った人たちを中心に売りに行く人間はかなりいると思う。生活のためもそうだが、小遣いに不足するサラリーマンもかなり行くかもしれない。

 臓器売買が禁止されるのはよく理解できる。よくヤクザが絡む物語では、金を返せない相手に「臓器を売れ」と迫るのはよくあるストーリーだし、闇金なんかが金を返せない債務者にそんな返済方法を迫るのも容易に想像できる。しかし、『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』では思ってもみなかった世界の現実が紹介される。それは臓器売買が禁止されるアメリカでは、年間43,000人もの人が移植が間に合わずに亡くなっているのに対し、認められているイランではなんと0だと言う。

 考えてみれば、売る方に着目してばかりだと気づかないが、売った先には助かる命があるというのも事実である。もちろん、借金の取り立てに本人の意思に反して売らされるのは論外だが、自主的に売ってもいいと思うのも禁止すべきなのだろうかと思う。事実、先の本では住宅ローンを返済するために深夜労働などの重労働を強いられるよりも、臓器を売って楽に過ごせるならその方がいいのではないかという疑問も投げかけられる。

 考えてみれば、血液だって戦後の混乱期ならまだしも、今であれば厳格な本人確認と記録化によって安全に売血できる仕組みは作れるだろうし、そうすれば売る人も増えて血液が足りなくて必死に呼びかける必要もなくなるように思う。問題があるとしたら、私も今不定期に献血を行なっているが、売血と見られると嫌なので足が遠のくだろうと思うので、そういう献血者が減るかもしれないという危惧だろうか。

 ただ、臓器が買えるようになった場合、うまく仕組みを作らないと、「金持ちだけが助かる」という事態を招くことになるかもしれない危険がある。うまい具合に供給が需要を上回れば問題がないかもしれないが、そうでなければお金のない者が臓器移植のネットワークから弾き出されてしまうかもしれない。これは真剣に考えないといけないところである。ただ、頭からタブー視して議論もしないという態度ではなく、どうやったら問題なくできるのかを考えてもいいようにも思われる。

 売る側の倫理的な問題からだけではなく、「助かる命」という視点からも考えるべきではないかと思うのである・・・


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【本日の読書】
リーマンの牢獄 - 齋藤栄功, 阿部重夫





2023年10月22日日曜日

遺伝の影響はどこまであるのか

 先日、『生まれが9割の世界をどう生きるか 遺伝と環境による不平等な現実を生き抜く処方箋』という本を読んだ。人間の遺伝にまつわる話である。内容的には特に興味を引くというものではなかった。もともと「遺伝」ということにあまり関心はなく、自分には大して影響も無い話だと感じていた事もあるし、内容的には当たり前のように感じる部分が多かった事もある。自分にはどうする事もできない遺伝の影響と言えば、顔形とか、特定の病気になりやすいとか、その程度だろうとなんとなく日頃感じているからである。

 決定的に否定できないのは「顔」だろうか。私の顔は父とも母ともあまり似ていない。それゆえに「橋の下で拾われてきた」と言われても、確信を持って否定できない。ところが、父の若かりし頃の写真を見ると、なんとなく自分に似ていると思う。初めて父の若い頃の写真を見た時、「間違いなく父の子である」という実感を持てて嬉しかったのを覚えている。さらに祖父の20代の頃の写真を見た時は尚更であった。私はむしろ父よりも祖父に似ているとさえ感じたのである。

 一方、同じ血を分けた兄弟である弟の方は、あまり父とは似ていない。昔の写真を見てもそうである。私自身、弟と似ていると思ったことはなく、父と祖父との繋がりの確信を得られた後となっては、むしろ弟の方が「橋の下」であると言えるかもしれないと思うほどである。だが、弟が生まれたという知らせを受け、父に連れられて生まれたばかりの弟を見に行った記憶がある(第一印象は「猿みたいだ」である)ので、もちろん、「橋の下」ではない。似ていないのは、遺伝子は両親から受け継ぐので、母親の遺伝子もかなり入っているからなのだろう(と言っても弟は母にもそれほど似ていない)。

 娘が生まれ、しばらくすると、なんとなく自分に似ていると思うようになった。小学生の頃は特にそうだったし、ママ友などにもよく指摘されていたから、自他ともに認めるところであった。娘は父親に似るとはよく言われるが、それは我が家の場合真実である。それに対して、妻は複雑な思いを抱いていたようだが、私としては確実に自分の遺伝子が生きていると実感できて喜ばしかったものである。今、成長して大人の女性になったが、今は残念ながらそれほど似ていないように思う。

 遺伝の影響はどの程度かはわからないが、夫婦2人の遺伝子が組み合わさっているのだから、子供に伝わる私の遺伝子は理論上50%である。という事は、何から何までまったく同じという事はあり得ず、従って「似ている」と言ってもパーツ的なものにとどまるのだろう。それに同じ人間でも年齢を経れば変わるので、親子であっても兄弟であっても、そっくりになるのは稀なのだろう。先の本でも、「遺伝と環境の影響は半々」と説かれていた。私も弟とはまったく性格が違う。同じ両親の元に生まれ、育っているにも関わらず、である。

 もっとも、「環境」も同じようでいて違うという。私は長男だが、弟は次男。「生まれた時に兄がいる」という環境は、私と弟とでは異なるわけで、兄弟だから同じ環境というわけではない。母はよく、「同じように育てているのに」とぼやいていたが、同じではなかったのである。さらに人は環境の影響を受ける。私は小学生の頃は漫画や小説にかなり人格面で影響を受けている。弟とは漫画の好みはまったく異なっていたので、この点でも同じではない。遺伝子もそこまで影響はしない。

 娘に続き、息子が生まれた時、私は同じ男として息子には「私が良かれと思う考え方」を伝授しようと思ったが、それはなかなか至難の業であることがわかった。何より息子と接する時間は妻の方が圧倒的に多い。「すべての息子をダメにするのは母親」という信念が私にはあるが、大いに危惧する状況が多々あった(が、何も口出しできなかった・・・)。遺伝子の影響も50%だし、思う通りには育てられないというのは、早々に悟った。育っている環境も、もちろん私とは大きく異なる。私にできることは、折に触れ、「父の考え」を語ることだけであると思う。

 遺伝の影響でもう一つ感じているのは、「基礎体力」だろうか。私はこれまでの人生でインフルエンザに罹った事は(記憶は、の方が正しいかもしれない)ない。高校生の時に熱で遅刻、早退はあるが、「病欠」はない。それは大学、社会人を通じて今に至るまで続いている。娘は肺炎で入院したが、息子はそういう経験は今のところない。病欠はほとんどない。父もそうであったし、89歳まで生きた祖父がどうだったかはわからないが、なんとなく、この丈夫な遺伝子はありがたいと思う。風邪は気合いで治せるし・・・

 遺伝という自分にはコントロールできないものに、いろいろと原因を求めるのは私の性には合わない。したがって、遺伝に原因を求めるのは、せいぜい顔形や病気になり難さくらいである。あとは自分の努力次第。できないのは力が足りないのであって遺伝のせいではない。ちなみに、先の本では、身体的な特徴は80%の確率で遺伝するというが、それもほどほどに考えている。確かに、息子は同じ年頃の時の私とほぼ同じ体型だが、そもそも明治の時代の日本人は皆背が低かったわけだし、環境の影響も多分にある。これも遺伝に原因を求める気持ちはない。

 本でも主張されていたが、「良いところは遺伝、悪いところは努力不足」と考える方が、生きる上では大切だと思う。遺伝とはそういうものと、これからも考えていきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 



2023年9月21日木曜日

読書雑感

 よく「愛読書は何か?」と聞かれて答えている人の記事を読んだりする。その都度、思う。「自分は同じ質問を受けた時に果たしてなんと答えるだろうか」。しかし、その都度、思う。「わからない」と。そもそもであるが、愛読書とは何だろうか。「愛読」なので繰り返し繰り返し何度も読み返すような本という事であろうか。私の場合、月に7~8冊平均の本を読んでいるが、「愛読書」と言われるほど何度も読み返している本はない。せいぜい、2~3回読んだという程度である。愛読書があるという人は、一体どんな読み方をしているのだろうかと疑問に思う。

 月に7~8冊と言っても、半分は「ビジネス系」で、半分は小説や哲学などの「非ビジネス=趣味系」である。だいたい、朝はビジネス系、帰りは趣味系と分けている。鞄は重くなるが、何となく朝と夜とで読み分ける事を長年の習慣にしている。朝は仕事に向かうゆえにビジネス系の方がしっくり来るし、帰りはリラックスモードなので趣味系がいい。何となくの気分である。そうして日々読んでいるが、大概の本は読めばその内容を忘れてしまう。なので、ブログに読書記録としてまとめる事で記憶を整理している。振り返ると、読んだことすら記憶に残っていない本があるので、読書記録としては最適である。

 そうした読書記録をしばしば見返しているが、読んだことすら忘れている本は悲しい気がする。それは、「せっかく読んだのにもったいない」という意味と、「己の記憶力が情けない」という意味と2つある。昔読んだ本ならまだしも、たかだか1年前に読んだ本だと後者の意味合いが強い。ブログには、実は同じ本が取り上げられているのもある。読んだことすら忘れてしまい、もう一度読んでも思い出せず、初めてのようにブログに残しているのである。それに気づいた時は愕然としてしまった。せめて、読んでいて気づきたかったと思う。せっかく読んだのに、何も自分の中に残っていないわけである。

 読み終えてブログにまとめるという行為は、やってみると意外といいなと思わされる。読み終えた段階で、再度ページをパラパラとめくりながら付箋をつけたところを中心に整理する。すると、著者の主張も改めてよく理解できる部分がある。そしてブログ内だと検索機能があるので、過去の著作とか、似たような内容の本を引っ張り出すことができる。ブログも今となっては誰かに読んで欲しいという気持ちはサラサラなくなっていて、想定読者は自分だけである。自分だけの読書記録という意味では、無料で利用できて便利である。

 一方で、複数回読んだ本というと、『狼たちへの伝言』『企業参謀』『自分が源泉』などがある。『狼たちへの伝言』は20代に読んだが、著者の落合信彦の生き方、考え方に共感し、かなり影響を受けた。『企業参謀』は、銀行員としてビジネスの見方、考え方の基礎になるものとして目新しく、刺激的な一冊であった。『自分が源泉』は、40代の頃に読んだが、自責の考え方に深く共感するものがあった。いずれもずっと手元に置いておきたいと思い、今も多少埃を被っているが、本棚に並べている。考えてみれば、記憶から消えてしまうものもあれば、ずっと残るものもある。消えたものを嘆くよりも残っているものを喜びたいと思う。

 また、「愛読書」ならぬ「愛読シリーズ」という意味では『逆説の日本史』シリーズがある。もう第1巻は30年近く前になるが、歴史好きという趣向から何気なく手に取り、その内容に衝撃を受け、以来欠かさず読んでいる。出版されれば迷わず購入しており、まだ読み返しはしていないが、いずれ読み返したいと思っている。これも本棚のかなりのスペースを占めている。「迷わず読む」という意味では、「愛読作家」ならかなりいる。小説家では、小池真理子、東野圭吾、浅田次郎、百田尚樹(小説分野)などがいる。こうした「愛読シリーズ」「愛読作家」という意味であれば、自信をもって答えられる。

 本は読み始めれば、最初から最後まできっちり読む方である。ビジネス書などは、パラパラとめくって興味のあるところだけ読むとか、速読とかを勧める人もいる。本の読み方は人それぞれだから異論をはさむつもりはない。ただ、辞書的に読むより、手っ取り早く読むより、自分のペースでしっかり読む方がよいと考えている。著者なりに意味があって書いていることであろうから、その意図を汲みたいという意味合いがある。ただ、どうしても読む意味を見いだせなくなったら、途中で読むのをやめることもある。

 そうして読んできた本であるが、気がつけばそれなりに身についていると実感している。特に会社の経営に関しては、専門的な教育を受けてはいないが、前職に続き現職でもそれなりにやれている。それについては、銀行員時代の経験を除けば読書くらいしか思い浮かばない。有名な経営者の自伝や考え方などのさまざまなビジネス知識が、知らず知らずのうちに身についているのだと思う。読書は今や趣味であるが、実益も兼ねていたわけで、通勤時間を有効活用できていたわけである。いずれ社会人になる娘と息子にもつけさせたい習慣である。

 これからもいろいろな本を読んでいきたいと考えているが、ビジネスにも活かしたいし、何よりも自分自身を深化させて行きたいとも思う。老いて老害や邪魔者になるのではなく、賢老になるにはやはり読書が大事だろうと思うのである・・・

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【本日の読書】

  




2023年8月2日水曜日

死後の世界は存在するのか

『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』と言う本を読んだ。著者の田坂広志は、多数の著作があるが、原子力工学の博士号を持つ人物。そんな著者が「死後の世界」について語った一冊である。もともと私は、「人間は脳の活動によって思考しているのであり、脳の活動が止まれば思考も止まり、人間はそれでおしまい」という考えである。したがって死後の世界も霊魂も存在などしないと考えている。著者が「唯物論的思想」と呼ぶ考え方である。そう考える方が自然であり、違和感がない。

 そもそもなぜこの世に神や仏があり、霊魂の存在や死後の世界がまことしやかに語られるのかと言えば、それは人間の不安からきているのだと思う。「人間は死んだらどうなるのか」と問うても誰も答えられない。一度死んで死後の世界を見て来た人間がいない以上(臨死体験は除く)、それも仕方ない。そこで死後の世界を「考えた」わけである。「人間はどうやって生まれて来たのか」、「この世はどうやってできたのか」そんな疑問を太古の人たちは「神」を生み出して答えにしたのである。

 著者もそう考えていたらしい。しかし、「直感」「以心伝心」「予感」「予知」「シンクロニシティ」「コンステレーション」などの説明ができない出来事や、何より人類はまだ物質からどのように「意識」が生まれてくるのかを解明できていないという事実などを突き詰めていくと、「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場が量子真空の場に存在するのではないかという仮説をこの本で主張しているのである。『なぜ宇宙は存在するのか はじめての現代宇宙論』を読んだ時は、科学と宗教の違いが曖昧になってきているようにも感じたが、あまり合理的な考えに凝り固まるのも良くないのかもしれないと感じる。

 この本を読んで、著者の主張する仮説が本当かどうかは半信半疑(と言っても「疑」の方が強い)だが、この世にふしぎな現象があるのも事実。父からはよく父が体験したふしぎな話を聞かされてきたし、それをすべて笑い飛ばしたり、合理的な説明を加えることはできない。私自身はあまりそういう経験をしたことはないが、子供の頃、親戚が集まって甲子園の優勝校を当てる賭けをやった時、出場校の名前を眺めていてなぜか目を惹かれた2校が決勝に残ったという経験ならある。「第六感」とでもいうのであろうか。あの時は何故かこの2校がくると確信めいた閃きを得たのである。

 そのほかにも野球を見ていて、ホームランを打つような「予感」が当たることなどはよくあったが、著者はそれも「ゼロ・ポイント・フィールド」という場で説明する。なるほど、とは思うが、まだ半信半疑。しかし、なぜ人間が死後の世界があると考えるようになったのかと言えば、それはやはり「不安解消」だと思う。私も神は存在しないと考えているが、信じてはいる。神社にお参りに行き、首を垂れることによって安心感を得られるのであれば、それはそれで有意義であり、宗教の効能だと思う。自分の限られた知識の中で、「合理的でない」からと言って否定するのもおかしいだろう。

 確かに死後の世界があれば安心はする。体がなくなるだけで、心が存在し続けると考えられれば不安はなくなる。ただ、そこに映画館はないだろうし、本屋もないだろうし、ラグビーもできないだろう。そんな死後の世界があるからと言って安心するかと言えば、そんなことはない。つまらない世界のように思えてならない。著者は自我が消えて宇宙意識と一体になると語るが、不安や苦痛はなくともいい世界なのかどうかはわからない。著者の意見を否定するつもりはないが、不安や苦痛はあっても喜びや楽しみのある世界の方が圧倒的にいいように思う。

 人間は間違いなく死ぬのであり、私も残りの人生はたぶん長くても40年くらいだろう。いずれ行く世界ではあるだろうが、早く行きたいとは思わない。まだまだ観たい映画もあるし、読みたい本もある。ラグビーもやりたいし、今年のW杯も楽しみである。仕事は大変ではあるが、やり甲斐もあって楽しい。辛いことも困難もあるが、やっぱり今の現世をしっかりと楽しむ方がいい。死後の世界があろうがなかろうが、興味はあるがどうでもいい話。大事なのは現世であり、それがすべてである。生まれた意義は現世においてのみにあるのだろうと思う。そんな現世を最後まで楽しみたいと思うのである・・・

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【今週の読書】