2018年5月30日水曜日

社長は電卓を持つべきではない

かつて銀行員だった頃、ずいぶん多くの社長さんとお付き合いさせていただいた。銀行員としては事業内容もさることながら、やはり財務内容に絡む話が多かったたため、財務のわかる社長は安心感があって良かったものである。それに対し、財務に疎い社長には(財務の)話がかみ合わないことがあったりして難儀したものである。特に業績不振企業担当となったあとは社長の財務知識の必要性を実感させられたものである。

 そんなわけで、財務がわかることは経営者には必要なことであるという考えを抱いている。その考えは今もって変わらないが、民間中小企業に転じた後、またちょっと違う感覚も芽生えている。それは、「社長は電卓をもつべきではない」という考えである。何かを判断する時、社長が電卓を持っているとまず電卓を叩くことになる(もちろん、喩えである)。社長が何かを判断する時、まず電卓を叩くのはやめるべきであるというのが私の言いたい事である。

会社で何かを決める時(社長が判断するような時)、それが「経営理念から判断して」どうなのか、あるいは「会社のあるべき姿として」どうなのかを判断基準とすべきであって、「損か得か」で判断すべきではないと思うのである。もちろん、企業として採算は重要である。それを無視するのはよくないが、それは周りにいる経理部長なりが電卓を叩いて「恐れながらこんな採算です」と報告すればよいのである。

社長が電卓を持っていると、何かあって判断を求められた時、まず電卓を叩いて判断する。するとそれは確かに採算には合っているかもしれないが、それよりももっと大事なものを見落とすかもしれない。それはお客様の信頼かもしれないし、社員のモチベーションかもしれない。いずれにせよ、「社長が」まず第一に考えなければならないのは採算ではないということである。

例えば新製品を開発した時、考えるべきことはまずその製品がどう人の役に立つのかということであろう。それが見込めるのであればGOであろうし、そうでなければ改善か中止であろう。GOであれば次に「採算は合うのか」、合わないのであれば「どうすれば合うのか」を考えるという順序であろう。それがまず「儲かるのか?」から入ると道を誤る気がする。

同じ不動産業者として、女性用シェアハウス「かぼちゃの馬車」を運営していたスマードデイズが破綻した問題については関心を持っている。シェアハウスは独自の運営ノウハウが必要であり(ちなみに我が社も不動産管理をやっているが、シェアハウスの管理は無理である)、建築から運営まで手掛けるビジネスモデルは素晴らしいと思う。ただ、破綻してしまったのは、「電卓優先」になったためであろう。オーナーのことより、入居者のことより、自分たちの収益をいかに極大化するかに腐心した結果だと思う。

 同じ轍を踏まないためにも、まずやるべき事は採算をはじく事ではなく、世の中に利益をもたらすか否かを考えることである。「利益は後からついてくる」という考え方に通じるものだと思うが、つくづくそう思う。さしづめ我が社では「顧客満足度の向上」であり、そのための「従業員満足度」の向上である。社長も必要がなければ自ら電卓を持つこともない。そのあたりは我々役員陣がサポートするべきところである。しっかりと補佐していきたいと思うのである・・・







【本日の読書】
  
  
   

2018年5月27日日曜日

論語雑感 八佾第三(その2)

三家者以雍徹。子曰、相維辟公、天子穆穆。奚取於三家之堂。

三家者(さんかしゃ)
(よう)(もっ)(てっ)す。()(のたま)わく、(たす)くるは()(へき)(こう)天子(てんし)穆穆(ぼくぼく)たりと。(なん)三家(さんか)(どう)()らん。
【訳】
御三家が、自家の祭礼で天子の音楽である雍を歌わせてしめくくった。これに対して孔子は、「雍の詩に、祭を助けるのは天下の諸侯、天子は奥床しく控えておられる。とあるが、雍は天子の祭だけに歌われるものである筈なのに、御三家は一体何様のつもりになっているのだろうか!?」と云った。
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前回の八佾の舞もそうであったが、今度は歌のようである。天子というがそれは時の権力者のことだろうから「皇帝」だと思われる。この言葉は、本来であればその皇帝家のみに許されている音楽である雍を御三家が身分をわきまえずに歌ったのを咎めてのものであろう。どうやら孔子は「あるべき秩序」を重視していたのかもしれない。

どうしてこういう事態に陥ったのかと言えば、それは「権力の近接」に他ならない。つまり、皇帝の権威の低下とそれに伴う御三家の権威の上昇だ。孔子の生きていたのは春秋戦国時代であり、要は統一王朝のない混乱期。人はいつの世でも社会の安定が第一だと思うから、孔子もまずそれを第一に考えたであろうことは想像に難くない。となると、秩序の維持という観点から、「身をわきまえない」行為を非難の目で見たのであろう。

だが、それは果たして本当に批判されるべきことだろうかと考えてみる。孔子の生きていた時代の様子などはわからないが、多分孔子の時代には必要だったのだろう。では、現代はどうだろうか。日本でも戦国時代には「下克上」があったが、「下克上」はいいことなのだろうか。社会が安定している現代の日本では、「下克上」はどこにおいても平和裡に起こるだろうから(任侠の世界は別である)、概ね良い事のように思われる。

私が最初に経験した「下克上」はスポーツの世界だ。大学に入りラグビー部の門を叩いたが、そこは完全な実力世界。先輩後輩は試合には関係なく、実力でレギュラーが選ばれていた。先輩だからと言って遠慮する必要はなく、後輩だからと言って油断はできない。そんな世界は心地良く、私は3年時からレギュラーポジションを確保した。その次は社会人になってからだ。就職したのは都市銀行であったが、ここも古い年功序列と学歴序列は崩れゆく過渡期であった。

しかし、スポーツの世界と違って会社の人事は不透明であり、理不尽でもあった。例えば、入行して8年経つと役席者への昇格がある。一生ヒラで終わるか否かはここにかかっている。しかし、当時私が在籍していた支店では、昇格できるのは(半年に)1人と言われていた。同期は私を含めて3人。スポーツの世界では実力がはっきりとわかるが、仕事は融資や外交といったポジションでも異なるし、一概に比較はできない。そして結果的に私の昇格順位は3番目であった。

当時は外交が花形で(支店の成績は外交の営業成績に左右された)、それに比べると守りの融資は部が悪かった。そして何より理不尽だったのは、「支店に1人」という暗黙のルール。理論的には自分より劣っていても、同期が1人しかいない支店であれば昇格順位は1位である(支店長も自分の成績があるから、少々能力が劣っていても自分の部下を昇格させようと努力する)。「あいつが昇格したのに・・・」という思いはどうしたって出てくる。

そうした理不尽があって不満があれば別だが、実力があれば下の者が組織を動かしても悪くはないと思う。今は私も様々な提案を通して会社を動かしている。社長もいいと思えば認めてくれるからそれができるわけである。ただ、それでも一応身をわきまえる必要は心得ているので、社長が決定すべきことはそのように進言し、決定してもらっている。下克上もいいが、組織では秩序も必要だと思う。考えてみれば大学のラグビー部も試合は実力主義であったが、チーム運営はキャプテン中心だし、試合以外のところでは年功序列の秩序が維持されていた。それも大切な事であることは間違いない。

そうして考えてみれば、やはり根幹部分での秩序というものは必要であって、それは例えば会社組織であれば、最終決定権限などであろうか。「社長のみ」に許された行為というのがそれである。そしてその中での下克上なら、実力主義・組織の活性化といった点ではいいのであろうし、そういう意味で孔子の雍もそんな根幹部分の秩序ということなのだろう。それはやっぱり不可侵領域であるべきなのであろうと思う。

 私も自由に会社を動かしているという自負があるが、身をわきまえた下克上を楽しみたいと思うのである・・・





【今週の読書】