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2026年8月23日日曜日

国立科学博物館

 昨年、群馬県立自然史博物館を訪問し、その流れで東京の国立科学博物館にも行こうと思っていたのだが、週末はラグビーと家事とに追われる日々を過ごしているうちに、何となく1年過ぎてしまった。そこで先週末に上野にある国立科学博物館に行ってきた。数えてみれば前回の訪問からは16年ぶり、通算3度目の訪問である。個人的には何度行っても飽きない場所であるし、何度でも行きたい場所であると思う。何やら特別展をやっていたが、そういう特別展よりも、むしろ通常の展示の方が私の趣向にはあっているのである。

 入るとまずはフーコーの振り子が迎えてくれる。初めて行ったのは小学校の時だったと思うが、このフーコーの振り子が強く印象に残っている。その振り子だが、入った時は14時のところを指している。これもよくよく考えてみれば不思議である。フーコーはこれによって地球の自転を証明したとされる。重い振り子を用いることによって地面とは別の動きとなり、自転によって地面が動くことで振り子が動いているように見えるというもの。よくこういうことを思いついたものだと思わざるを得ない。

 日本館では、田中久重の発明品の数々が目に付く。前回も見たかどうか記憶にないが、幕末から明治にかけての時代にこれだけのものを発明したというのは凄いと思う。このコーナーは「測る」というテーマで、距離や時間や重さや長さなどをどのように測ってきたのかが展示されている。今はしっかりと度量衡が定められているから我々は何の躊躇もなく距離や時間や重さや長さなどの話ができる。これも先人のおかげではあるが、我々が恩恵を受けていることだと思う。

 群馬県立自然史博物館へ行った時は、生命の歴史に興味があったからだが、今回はそれほどの興味の対象があったわけではなく、何となく漠然と見て回ったのが正直なところ。全体として、前回の記憶とはかなり異なっていることに気付く。おそらく、定期的に展示内容を変えているのだろう。前回、目についた零戦の展示がなくなっていた。どういう基準なのか興味深いところである。それでも恐竜コーナーは相変わらずで、人の多さから見ても人気コーナーなのだろうという事が窺われる。

 博物館となれば、展示の基準は人気のあるなしではないと思うが、それでも人気のあるコーナーは充実させようという意図が働くものだろう。個人的には恐竜の骨よりも人類の進化の方に目が行ったのは事実である。猿人と呼ばれるところから少しずつ進化を遂げていく。アウストラロピテクスなどお馴染みのものもあり、長い時間をかけてホモ・サピエンスに近づいていく。展示を見るのは簡単であるが、骨の発掘から調査して結論を得てという気の長い作業の結果であり、考古学というものの奥深さを感じさせられる。

 今回、ちょっと興味を惹かれたのは、コンピュータの進化過程。旧国鉄で座席の予約システムが全国規模でできるようになった時のシステムが展示されていた。今では当たり前のように思うが、それまで人力に頼っていた座席の予約が一気にできるようになったのがいかに画期的だったのか、解説を読んで改めて思わされた。と同時に、それを人力でやっていたという方がすごい事のように思う。当時の様子がどんなだったのか、詳しく知りたいとすら思う。

 たまにこういう経験もいいと思う。帰ろうとしてフーコーの振り子のところまで戻ってくると、振り子は17時半過ぎの位置で動いていた。見ている間に地球は休む事なく自転していたようである。もう少し時間をかけて一つ一つじっくり見たかったなというのが正直なところ。しかし、それにあたって最大のネックは疲労かもしれない。途中で少し休憩したが、それでも最後はかなり疲れてしまった。あるいは、日本館と地球館とを別日にして見学するのも手かもしれない。

 博物館も各地にあるし、それぞれ特徴もあるのだろう。少し調べてみて、全国の博物館巡りも面白いかもしれないと思う。意識して時間を作り、己の知的好奇心に刺激を与え続けたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年7月12日日曜日

法律は正義か

 現在会社で訴訟を抱えている。とある上場企業とある取り決めをし、契約書とともに覚書を結んだのであるが、その履行を巡っての争いである。我々は万が一の場合に備えての要望を出し、それを相手が認めて覚書という形で結んだのである。そもそも相手には我々の経営権を欲しているところがあり、それを警戒して覚書を結んだという経緯がある。それは普通では飲まないような条件だったのであるが、相手が最終的に折れる形で条件を飲んできたのである。そして事態は良からぬ方向へと進み、いよいよ覚書で定めた条件を履行してもらおうとなった段階で相手がソッポを向いたのである。

 我々としては、きちんと互いに合意した以上、履行を求めているのであるが、それは相手にとっては不利な条件であり、ここにきて約束を反故にしようというのだろう。そこで我々としては法による正義を求めて訴訟を起こすことになった。話の筋からして当然我々の主張が通るだろうと考えていた。自分たちに都合が悪い条件だというのはわかっていて、それでも我々に取引を求めてきたのである。万が一の場合についても承諾した上で、覚書という形できちんと書類にも残していた。何も問題はないと訴訟に臨んだのである。

 ところが、訴訟が進むにつれ、雲行きが怪しくなる。弁護士からはあらかじめ和解という形での決着も視野に入れてくれと言われていた。こういう民事裁判の場合、弁護士はあまり判決文を書きたがらないらしい。詳しい事情はよくわからない。和解となれば双方の同意であり、裁判所の役割もその仲介となる。裁判所の判断は入らないことになり、いろいろな面倒から逃れられるのだろう。我々としても「多少の」譲歩は仕方がないと考えていた。そこは何が何でも100%の勝ちにこだわるつもりもない。

 しかし、和解にしたところで裁判官が途中での心象というものを示してくる。このまま行くとどちらの判断を下すのかというところである。それが何と我々の主張に否定的であるというものであった。何でも相手は本契約と覚書の細かい条項をついて、グレー部分を主張してきているとのこと、そして裁判所も覚書の条項の表現を相手方の主張通りに捉えているということである。グレー部分とは、明確にどちらというものではなく、取りようによってはそう取れるというものである。

 話の筋か言葉の解釈か。我々としては話の筋だろうと思うのだが、法的には言葉の解釈を優先するという。その考え方はわからなくもない。しかし、裁判員制度が導入されたのは、裁判官の判断だけではなく、市民の常識や感覚を反映させようという意図だったと思うが、まさにその市民の感覚と大きくズレているのを感じる。裁判官の判断と弁護士による解釈。弁護士は我々の味方であるはずなのに、裁判官の意見を翻訳して我々に伝えてくれているはずが、いつの間にか「どちらの味方なんだ」という気がしてくる。

 今回の争いはどういう経緯で起こったのか、覚書を結んだ前後のやり取りやその後の争いに至る経緯。それを勘案すれば、我々の方が正しいというのは市民感覚としてわかるはず。それを法的な契約書や覚書の文言にこだわってその解釈だけで判断しようとすれば(そこに一定の理屈は当然成り立つ)、何が正義なのかという気がしてくる。法的に正しければ、人としての道理は成り立たなくてもいいのだろうかと思わざるを得ない。

 法律は万能ではない。それでも一定のルールを決めてその範囲内で争いを解決しようとする。双方には双方の正義がある。昨日とある懇親会で「正義の反対は?」と、とある方に尋ねられた。答えは「もう一方の正義」であった。なるほどと納得した。双方に正義があり、それぞれが法律に基づいてどちらの正義に軍配が上がるかを求める。その時に法に基づき判断されることになるが、一方で「事実」が蔑ろにされてはならないと思う。法律は完璧ではない。そこを補うのが、市民感覚ではないかと思う。

 裁判官の解釈に従うならば、一体覚書に定めたことが成就するケースとはどんなケースなのかと疑問に思う。弁護士がそこを追及しているが、裁判所はそれに対して答えてくれない。おそらく答えられないか、あり得ない架空のケースになるしかない。そこにも矛盾が生じる。法と市民感覚と事実。それをうまく裁くのがいい裁判官のように思う。今回は覚書の内容に(グレーの解釈を生む余地である)不備があったのも事実。そこを事実の経緯でもっと補ってほしいと思う。そういうところが法律の限界であり、それが私が大学4年の時、法曹の道へ進むのをやめさせた理由である。

 その判断は正しかったと今も残念ながら思うのである・・・



【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 夫婦はなぜ壊れるのか カウンセリングの現場で見た、絶望と変化 (幻冬舎新書) - 山脇由貴子 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛





2026年3月1日日曜日

しずかちゃんの入浴について

「日本の性加害の根っこにある」との主張が…『ドラえもん』しずかちゃんのお風呂シーンはなくすべき?論争の実態と、意外と知られていない変化

今回物議を醸したのは、ドラえもんアニメにおいて「しずかちゃんのお風呂シーンをなくすべき」という主張だ。お風呂シーン反対派の意見を簡単に説明すると、
「日本の性加害の根っこにあるのは『のび太がしずかちゃんのお風呂を覗く。そして、しずかちゃんがキャーと叫んでのび太に水をかける』シーンだ。ドラえもんにおいて『お風呂を覗く』シーンを日常的に見て育つからこそ、女性の入浴を覗くことが性加害だと理解できず実行に移す人がいる」
ということらしい・・・
東洋経済オンライン2026.3.1
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 何気なく目についた東洋経済オンラインに載った記事であるが、何もとはやと思わざるを得ない。何でも難癖をつける人はいるものであるが、ここまでくると個人的には笑ってしまうしかない。こういう意見を主張する人はどんな人なのだろうと想像すると非常に興味深い。おそらく女性ではないかという気がする。それも若い女性というより小学生くらいの子供がいる女性というイメージである。人の考えはそれぞれであるから何とも言えないが、男の発想ではないように思える。

 男にとって女性の入浴シーンと言えば、何はともあれ見てみたいというものである。これは本能に根差しているものだからカッコつけても仕方がない。ただ、普通は理性があるからこの衝動を抑えられるが、抑えられない者が犯罪者になる。女性の入浴を覗くことは本能に基づくもので、「性加害だと理解できず実行に移す」ものではない。そこが記事のような意見を言う人のピントがずれている点である。覗く気持ちを理解できる男はおそらくそれを理解できている。だからこのようなピントがズレている意見を述べるのは女性だと思う理由である。

 ドラえもんはそもそも大人向けというより子供向け、それも男の子向けの漫画である。原作者は2人とも男だし、小学生からするとそれはエロティックなシーンというより「面白いシーン」という観点から描かれていると思う。風が吹いてスカートが捲れるようなものだろう。それを見て育ったからと言って、大人になって風呂を覗くかどうかはまた別の問題である。もしかしたら、それを見て真似する小学生もいるかもしれない。しかし、だとしてもそれは性加害などとは別物である。子供の頃に女の子のスカートめくりをしたからと言って大人になってもやるかという話である。

 大人になればさすがに積極的に風呂を覗いて回る大人はいないだろう。いるとしたらそれは本当の犯罪者である。しかし、時と場合によっては理性のタガが外れることもある。私も学生時代、大学のラグビー部の仲間と北海道旅行をした時、どこかの森の中に露天風呂があってみんなで入った。そこは人気のない所で、女性の風呂との境も完全ではなく、身を乗り出せば覗ける環境であった。たまたま女性が入っていたのでみんな覗いていたが、私ともう1人だけはやらなかった。もちろん、覗きたかったが、グッと堪えたのである。

 その当時、私には一つの美学があって、「ジェームス・ボンドのような男になりたい」という思いがあった。「ジェームス・ボンドがこんな所で風呂を覗くか?」と考え、泣く泣く堪えたのである。しかし、そんな私も聖人君子ではなく、その後社会人になって行った社内旅行ではやはり露天風呂で同僚が覗きに行った時には行動を共にした(残念ながら誰もいなくて未遂に終わった)。自分の美学も脆いものだと後で後悔したものである。もしも、目の前にチャンスがあって、バレずに覗けるとなった時に、自制できるかどうかは誰にとっても難しいと思う。

 もちろん、覗きに「性加害である」という意識があるかと問われれば「ない」と答える。女性からは怒られると思うが、男としてはどうしても軽く考えるところがある。されど覗かれる女性の立場からすればやはり許されざる所業であろう。あの社内旅行から30年近く経ったが、多分今なら私もしっかり自制できると思う。それは2つの覗き経験を経てのものでもあり、「コソコソ覗くくらいなら堂々と口説きに行く」という美学復活のためでもある。

 それにしても、ドラえもん連載当時にはそんな事を言う者などいなかっただろう。時代はもっと過激になっているし、むしろかわいいもののようにも思う。覗きが悪い事であることは当然であるが、子供向けの漫画(アニメ)に目くじら立てることの狭量さが気になってしまう。差別語の言葉狩りもそうであるが、本質を外した意見のように思う。そんな本質を外した意見がまかり通り、窮屈な思いをせざるを得ない世の中の方になっていく方に大いなる危惧を抱かざるを得ない。

 記事によれば、ドラえもんにおいてもしずかちゃんの入浴シーンは減っているそうである。それを見たいという訳ではないが、「お約束」の一つとしてあってもいいと思う。それを見て大人になってから覗きに走る人間は、見なくても覗きに走る人間であると思う。子供向けのアニメであるし、もっと寛大になれないものかと残念に思うのである・・・


Suzanne deDisseによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  ウロボロスの環 (集英社文芸単行本) - 小池真理子  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年2月25日水曜日

地元か都会か

 就職戦線の早期化は困ったものだとこの時期特に思う。一方で4月に新入社員を迎える準備に追われつつ、一方で27年卒の採用が動き始めている。我が社は悲しいことに首都圏では知名度が低く、いきおい地方での採用が中心になっている。北は札幌から南は鹿児島まで新卒学生を求めての行脚である。例年学生を採用させていただいている各学校の就職課の方とは日頃から情報交換をさせていただいているが、近年目につくようになってきたのは、学生の「地元志向」である。地元の企業を志望する学生の割合が増えてきているのである。我々のような企業にしてみれば由々しき事態であるが、胸中は複雑である。

 学生の地元志向は果たして是か非か。人口減少時代の昨今、地方自治体においては企業誘致に余念がない。我が社も地方進出を検討する時期に来ているが、各自治体は助成金を手厚くして地元への企業誘致に力を入れている。企業が誘致できればそこで働く社員は確実に地元の人間になる(そういう条件で助成金を支給している)。それはすなわち人口増に結び付くわけであり、それこそが企業誘致の目的であろう。当然、地方自治体としては学生の地元志向は歓迎すべき事象と言える。たしかに、地方に衰退してほしいとは思わないし、若い人が地元に残るのは良いことだと思う。しかし、と思うのである。

 若い頃には冒険が必要だろうと思う。冒険と言えば大げさであるが、東京へ出て一人暮らしをしながら厳しい環境(と言えば大げさではあるが)に身を置いて働くというのは悪いことではないと思う。もしも私が地方に住んでいて、息子が就職となった場合、まずは東京に行ってみてはどうかと勧めるだろう(その前に大学進学時に東京の大学へ行けと言うだろう)。かわいい子には旅をさせろではないが、ビジネスマンとして企業で働くのであれば、東京で働くのが一番いいと思う(これが娘なら残れと言うだろう)。

 地元志向がどういうものなのか。親の立場からすれば、将来的には同居かあるいはせめて近くに住んでほしいという気持ちなのは想像できる。誰しも老後ということを考えるだろうし、孫の顔を見ながら暮らしたいと思う気持ちは私も同じである。しかしながら当の若者はどう思うのであろうか。親の近くにいたいというのは、将来面倒を見なくてはという義務感だろうか。あるいは生まれ育った地元への愛着であろうか。生き馬の目を抜くかもしれない都会への不安だろうか。人それぞれではあるが、そんなところが挙げられるのかもしれない。

 しかしながら、「いずれ地元に戻ってくるなら」と送り出すのはあてが外れる可能性が高いだろう。住めば都で、働いて暮らしているうちに人間は環境に慣れてくるもの。ましてや東京で知り合った相手と結婚した場合、自分だけの話ではなくなる。他県の出身者であれば、自分にとって「地元に帰ること」でもパートナーにとっては「見知らぬ土地へ行く」ことに他ならない。さらに子供が生まれれば子供の教育環境だとか、「転校したくない」だとかの問題も出てくる。そうそう思い描いたライフプランを実現するのは難しくなる。

 そう考えると、「若いうちは東京で」という考えは誤算を招く可能性が高いかもしれない。少なくとも軽い気持ちで考えているなら危ういだろう。東京で働くなら何歳まで、結婚相手には将来地元に帰ると事前に告げて了承を得ておくなど、固い意志と準備が必要だろう。そんな事をつらつらと考えると、始めから地元志向というのは、それはそれで懸命なのかもしれないと思う。地元では都会ほど就職環境は良くないかもしれないが、そこは仕事と地元に残ることとどちらを重視するかで割り切るしかない。

 私の両親はともに地方出身である。ともに東京に出てきて知り合い、結婚して私が生まれている。父親は地元に残って大工になるか東京に出て働くかの選択肢しかなく、次男であったこともあるが、中学を卒業後に東京に出てきている。さぞかし不安だっただろうと思う。おかげで私は東京生まれの東京育ちであり、「地元か東京か」で悩むことはなかった。考えてみれば大きな悩みを1つ抱えずに済んだと言えるのかもしれない。こればっかりは生まれたところという運の話であるが、「帰る故郷がない」という寂しさと裏腹の運である。

 そんな中で、故郷を離れて大志を抱いて東京に出てくる新入社員たちには、いい社会人デビューをしてほしいと思う。将来的に故郷に帰るのかどうかはわからないが、今はオンラインの発達もあり、地元に帰りながらも東京の仕事をすることが可能になってきている。いずれ地元か東京かという問題は大きな問題にはならなくなるのかもしれない。就活学生と話をしながら、そんなことを思ったのである・・・


Ilona IlyésによるPixabayからの画像


【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  ウロボロスの環 (集英社文芸単行本) - 小池真理子  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2025年11月9日日曜日

進化する鉄道サービス

 先週、久しぶりに出張で大阪に行った。一泊二日の慌ただしいもので、何か美味しいものを食べたわけでもなく、まぁ仕事だけの関西出張であった。新大阪から御堂筋線に乗ってなんばまで行ったのであるが、「顔認証」改札機があるのを発見した。「関西はまたもや進んでいるな」とその時感じた。実はもう30年くらい前になるが、やはり大阪で初めて自動改札機を目にした。駅員がいないのは新鮮だし面白いと感じた(同時にキセルもできなくなるなと感じた)。これからは皆こうなるのかと思ったものである。その時、東京では導入の気配さえなかったので物珍しさからよく覚えている。

 関西の鉄道会社の方がチャレンジ精神旺盛なのだろうか。首都東京よりもいち早く導入する進取の気性を感じてしまう。残念ながら利用している人は見かけなかったが、利用する人はそれはそれで進取の気性に富んでいるのかなどと思ってしまう。さらに電車の中の広告ではカードならぬ「リング」もあると謳っていた。リング、すなわち指輪である。これだといちいちカードやスマホを取り出してタッチする必要もなく、そのままリングをはめた指をかざすだけである。指輪はそれはそれで気になる人は気になるかもしれないが、顔認証の「顔パス」は便利である。

 30年前に初めて目にした自動改札機はもはや当たり前になっている。関西から始まったのかどうか詳しくは知らないが、やがて顔認証改札機は一般的になっていくような気もする。指リングはそれに比べると何となく伸び悩むような気がする。顔認証は改札だけではなく、あらゆる所に広がりそうな気もする。我が社でも出入口のICカードに替えて顔認証を導入しようと個人的に社内で提案しているが、家の玄関もそうだし、ATMもそうだし、およそセキュリティーが求められる所にはすべて可能性があると思う。

 そんな妄想を抱きながら東京へ帰ってきたが、東京駅から乗った丸の内線は優先席が少なく、その代わりにスペースが広く取られていた。御堂筋線もそうだったが、これはラッシュ対策なのかなと思った。最近は優先席が片側にしかなく、反対側はただのスペースになっている車両が目につく。朝夕のラッシュ対応であるとともに、本来の目的は車椅子対応なのかもしれない。車椅子対応はいいとしても、その分優先席が減るというところはいいのだろうかという気がしなくもない。一般席を減らしてスペースを作るという発想はなかったのだろうか。

 そう言えば、他の都内の私鉄では座席が「個席」になっている車両を見かけた。これは詰めて座らない人が余計なスペースをとってしまい、規定の人数だけ座れないということを避けるものだろう。お行儀よく座らない人には注意するより最初からお行儀よく座らせる方法を考えた結果なのだろう。「自分が源泉」で考えたいい解決策だと思う。ただ、デブはどうなんだろうと感じる。尻がはみ出て座りにくさを感じたりするのだろうか。通常の席でもデブの隣は空いていても私などは残されたスペースと自分の幅を考えて座るのを諦めることがよくある。ちょっと気になる所である。

 それにしても常に変化する車両やサービスであるが、鉄道会社などはこういう改善などしなくても顧客確保という意味では安泰なような気もするが、それにあぐらをかくことなく常に改善を目指しているのだろうか。利用者目線ではありがたいことであるが、安泰の上に安住する事なく、改善を続ける姿勢は我が社もかくありたいと思う。ここのところ将来のあるべき姿について問題提起しているが、社内の、特に現場の尻は重い。変化し続けると言っても「何をどうする」という問題はなかなか難しいものがある。

 人間誰でもそうであるが、昨日と同じことを今日も明日も続けるということは楽なことである。何より考えなくて済む。しかし、一般的にはそれでは競争社会の中ではいつの間にか追い抜かれてしまうことになる。それでも鉄道事業のように参入障壁が高く、一見すると安泰な事業で、こういう改善を目指す姿勢は素晴らしいのではないかと思える。もっとも料金が認可性であるから、同じサービスで値段だけ上げろという理屈が通りにくいという理由があるのかもしれない。何にせよ、サービス改善は利用者目線ではありがたい。

 できるなら関東各社は関西に負けず、関東発の新サービスを生み出すことを期待したいと思うのである・・・


유봉, yubong 정,JenogによるPixabayからの画像

【今週の読書】

 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント 一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  菜食主義者 新しい韓国の文学シリーズ - ハン・ガン, きむ ふな




2025年10月13日月曜日

アンケートに思う

公益財団法人「新聞通信調査会」は11日、メディアに関する全国世論調査の結果を公表した。 日本の防衛費の増額について「賛成」と答えた人は54・5%で、「反対」の42・8%を上回った。米国のトランプ大統領が「世界に悪い影響を与えている」と答えた人は79・4%だった。
2025/10/12

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 二者択一の質問に際し、答えは二つのうちの一つを選ぶだけなのであるから一見簡単そうに見える。しかし、私はこのような二者択一の質問に際し、戸惑ってなかなか答えられないケースが多い。それは質問がシンプルであればあるほどその傾向は高くなる。なぜなら質問について掘り下げて考えていくと、行き着いた先のケースバイケースで答えが異なるからである。つまり、「YES」の場合も「NO」の場合も出てきてしまうのである。質問がシンプルであれば、「◯◯だったらYES」、「□□だったらNO」という具合に答えが前提条件付きになってしまうのである。

 例えば上記の「防衛費の増額」についてであるが、そもそもなぜ増額の必要性があるのかという背景を知りたい。中国の脅威なんかは容易に想像がつくが、脅威があるからといって金だけかければいいというものではないだろう。装備の劣化によって最新兵器に代替していく必要があるのかもしれない。あるいはただ単にアメリカの圧力に抗しきれないだけかもしれない。装備も最新兵器になれば同じ目的でも価格が高くなることは容易に理解できるから、一概にダメとも言い難い。

 アメリカとの付き合いもあるから、単に圧力に負けるということではなく、駆け引きから「あちらを譲ってこちらを譲らせる」的なところがあるかもしれない。とにかく最新兵器を導入したくて必要もない更新をしているためとなるといかがなものかと思えてしまう。また、防衛費を増額する場合、その財源をどうするのかも大事な判断要因である。既存の税収の範囲内でやりくりするというのであれば構わない気もするが、それで削られる公共サービスの内容によっては「ちょっと待った!」というケースもあるかもしれない。

 また、基本的に増税は勘弁してくれよと思うが、その金額によっては目くじらを立てることもあるまいと思うだろう。例えば5円の増税と言われれば「まぁいいか」となるが、1,000円となるといい顔はできない。「防衛費の増額に賛成か反対か」と聞かれた時、私ならこういうふうに考えてしまう。そして一体どういう風に増額するのか、それが明らかにならないと答えようがない。このアンケートに答えた人たちはどういう状況で答えたのかわからないが、何を根拠に答えたのか気になってしまう。

 「トランプ大統領が世界に悪い影響を与えている」と答えた人は79・4%だったということについても、当然歴代の大統領はみな世界にいい影響も悪い影響も与えていると思う。トランプ大統領のイメージだけで判断しているように思えてならない。関税戦争についても世界に緊張感を与えたのは事実であるが、本当に悪いかどうかは私には判断できない。ノーベル平和賞狙いだろうと名誉欲からであろうと、戦争終結への努力は認められて然るべきである。

 また、こういうアンケート結果を見た時、ついつい目が行ってしまうのは、悪い影響を与えていると答えた79・4%の人ではなく、いい影響を与えた(設問に「どちらとも言えない」があったかは知らない)と答えた21・6%の人である。どういう考え方だったのだろうかと興味深い。単純に「いい影響を与えた」と考えているとしたら、その人たちは世間一般の(マスコミによって作られた)イメージに左右されることなく、人が目を向けないところに目を向けているということであり、なんとなくたくましさのようなものを感じる。

 そもそもこれがバイデン前大統領だったり、オバマ元大統領だったらこんな設問を用意しただろうかと考えてみると、その設問の根底にある意図は明らかだろう。アンケートと称して、その裏にはトランプ大統領に対する批判が含まれているのは明らかである。そんな意図に塗れたアンケートに答えるとしたら、天邪鬼な私は間違いなく21・6%に入る答えを書いていただろう。いずれにせよ、二者択一のアンケートに答えるのは、私には難しいことであると思うのである・・・


Fathromi RamdlonによるPixabayからの画像


【今週の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也






2025年9月27日土曜日

日本は多民族化するのか

 最近、身の回りに外国人が増えてきた。外出すれば大きなスーツケースを持った観光客に会わない事はない。勤務先は新大久保に近く、店舗を構えている韓国系の人はもちろん、その他の国の方もいて、(英語はもちろん、韓国語、中国語系、フランス語、ロシア語は意味は分からなくともそれとわかるが)聞いてもどこの国の言葉かわからない外国語が飛び交っている。我が社の今年の新入社員5名のうち1名は外国籍だし、中途採用でも2名の外国籍の社員を採用している。さらに来春入社予定の内定者7名のうち3名は外国籍である。中途採用においては人材紹介会社に斡旋を頼んでいるが、紹介される人材の8割は外国籍である。

 我が社は国内オンリーのドメステ企業であり、大手企業のように社内公用語が英語などという事はなく、日本語オンリーである。したがって、外国人の採用に際しては日本語能力を必須としている。しかも、日本語のレベルとして「N1」、「N2」、「N3」とあるうちの、最低でも「N2」というレベルを要求している。採用に至る外国人はみなこのレベルをクリアしている。そして採用に至る外国人はみな優秀である。通常のエンジニアとしての能力の他に日本語も習得しているわけであり、その努力には頭が下がる思いがする。

 翻って我が社の社員を見てみると(優秀な社員ももちろんいるのだが)、なんとなくのんびりしている者が多い。エンジニアは技術者であり、勉強が必要ではあるが、この勉強をあまりしていない者が多い。必要な範囲内ではしているのだろうが、貪欲にさらなる向上を目指してというほどではない。「資格にチャレンジします」と言っても、それは「取れれば取ります」という感じで、「何が何でも取ってみせます」という覚悟のほどではない。勉強に向き合う姿勢が違うのである。いわゆる「ハングリー精神」というものが顕著に違うのである。

 考えてみればそれも当然の事で、そもそも我が社の外国籍社員には「外国へ行って仕事をしよう」という強い意思があるわけである。何となく学校を卒業して、働かないといけないので就職して、というレベルとは次元が違う。「外国人だから優秀」というわけではなく、「優秀な外国人」が来日しているのである。それはミャンマーのように国内の政情不安から逃れて少しでも明るい未来を目指してという人もいれば、韓国や中国もそれぞれ自国に限界を感じての国外脱出であろう。言葉に不自由しない自国を出て、単身外国に行こうという決断は、考えれば大変だと思う。我が社に入社したメンバーには幸福をつかんでほしいと思う。

 日本の労働力不足も新聞で読むだけの現象ではなく、身の回りの現実である。そしてそれを外国人が埋めている。我が社の例だけではなく、飲食店やコンビニに行けば当たり前のように外国人が働いている。温泉地の旅館に泊まればそこにも外国人の仲居さんがいる。政府もそんな現実を踏まえ、移民政策の転換というのではなく、現行の制度内で門戸を開放しているように思える。私もかつては外国人が増えれば日本の繊細な文化が破壊されると思って移民には反対していたが、目にする外国人はみな日本の繊細な文化に馴染もうとしているように思える。何となく以前感じていた移民に対する考えは杞憂だったのかもしれないと思える。

 もちろん、例外もいる。交通法規がわからなかったのか、事故を起こす外国人のニュースはちょくちょく目にするし、刑法犯罪でも然り。しかし、だから外国人はダメというのもおかしなもの。日本人だろうが外国人だろうが人が増えれば事故も犯罪も増える。それをもって外国人はけしからんというのもおかしいだろう。ただ、物価の上昇に与える影響については歯がゆいものがある。都内の地価上昇には海外からの投資マネーが影響しているという。高値でもポンポン買うからマンションなども値上がりする。必然的に普通の庶民が手を出せなくなってしまっている。

 聞くところによると、ニューヨークではラーメンが一杯3,000円だと言う。日本に来れば半額以下で食べられる。となれば1,500円のラーメンを食べるのに躊躇しないわけであり、昼食費をいかに減らすかと頭を悩ませるサラリーマンには脅威である。インバウンド価格が浸透したら、とても昼飯を外では食べられなくなる。外国人には大いに来てほしいと思うが、物価高を連れてこられるのには閉口してしまう。日経新聞では中古マンションで億ションが話題に上がっていた。観光客には我が国で大いに気前よく消費していただきたいが、国内向けの価格転嫁はほどほどにしてほしいと思う。

 子供の頃のうっすらとした記憶では、外国人を見かけると「外人だ!」と思うくらい外国人は珍しい存在だったと思う。今はそれは遠い過去の話で、まわりで飛び交う言葉も英語だけではなくなっている。映画『ブレードランナー』ではどこの国かわからない文化がごっちゃになった街が出てきた。SFの世界と思っていたが、いずれ遠くない未来の東京の姿なのかもしれないとふと思う。ラグビーの日本代表チームはおよそ半分が海外にルーツを持つ選手が占めている。いずれ「日本人」が外見ではわからなくなる日がくるのかもしれない。

 そうなっていくのは構わないが、今の日本の居心地の良い文化だけは変わってほしくないと思う。自己主張の文化に謙譲の文化は脇へ押しやられてしまうと思っていたが、踏ん張ってくれるのならどこの国から来た人であろうと気にはならない。今の良き文化を守った「日本人」がこれから先も日本に住み続けてほしいと思う。ついでにきな臭い国際情勢も共存の精神であふれるのが理想的である。残りの人生で、そんな世の中を見られたらと思うのである・・・


Rupert Kittinger-SereinigによるPixabayからの画像

【今週の読書】

  全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  星を編む - 凪良ゆう






2025年8月17日日曜日

出場辞退に思うこと

 夏の全国高校野球選手権が行われているが、先日、1回戦を突破した広陵高校が大会途中で出場辞退という異例な事になった。大会前からネットで部内のいじめ問題が指摘され、出場に疑問の声が上がっていたが、個人的には今は昔ほどでもないので辞退するべきとも思わなかった。昔は何かあるとすぐ出場辞退で、野球部員でない生徒の不祥事の責任まで取らされて気の毒であった。最近はそういう辞退をあまり聞かなくなっていたのでいい傾向だと思っていたが、経緯を見れば出場の判断はおかしいと思わないし、その後の炎上を受けての辞退もやむを得ない気もする。

 大学ラグビーの世界でも今年は関西の雄、天理大学が選手の不祥事(大麻所持)で無制限活動自粛になっている。ちょっと寂しいがやむを得まい。ラグビー部で大麻と言えば、かつての関東の雄、関東学院大学がやはり部員が大麻の所持(部屋で栽培していたとか)と吸引とで逮捕され、名物監督が辞任し、以後凋落して今では関東リーグ戦1部と2部を行ったり来たりという状況である。天理大学も同じような事になると寂しいように思う。一旦、凋落してしまうと持ち直すのも難しいのかもしれない。

 学生スポーツは卒業によって選手が入れ替わる。当然ながら毎年、新しい学生の確保が大事であるが、不祥事を起こすと有望選手は入学を避けてライバル校へ行くだろう。チームが弱くなれば、強いチームでやりたいという選手はますます敬遠するだろうし、歯車の逆回転が止まらなくなる。天理大学も活動を再開したとしても、そういう影響が出るのではないかと思えてならない。その分、新興勢力が出てくるという見方もあるからなんとも言えないが、何より真面目にやっていた学生は気の毒である。

 関東学院大学の事件からもう18年経っている。天理大学のラグビー部員も関東の事件を知らなかったのだろう。誰でも大麻を吸ってみたいという興味はあるだろうから、ちょっとぐらいという誘惑に駆られたのだろう。本人もこういう事態になるとわかっていたら絶対に手を出さなかっただろう。広陵高校の野球部員もイジメは悪い事だとは知っていただろうし、その時は自分の行為がイジメに当たるという意識もなかったのかもしれない。当然、今日の事態が予測できたらやらなかっただろう。「後悔先に立たず」というやつである。

 もしも、自分が指導者だったらどうするだろうと思う。相手は若気の至りの特権のある若者であり、監視するにも限度がある。ゆえにそこは教育しかないだろう。他校の不祥事を例に取り、ちょっとした事がどんな事態を招くのか。それを語って聞かせるしかない。今は飲酒や喫煙も厳しくなっている。私の頃は高校生でも居酒屋で酒が飲めた。今でも覚えているが、クラスで運動会の打ち上げを蒲田の居酒屋でやったものである。1人高校生が混じっているなどというレベルではない。大らかな時代であったとつくづく思う。

 痴漢もセクハラもなくなりはしないのだろうが、かなり「やってはまずいもの」という認識は世に広まっている。私の若き銀行員時代は、営業担当の課長さんにお客様だけではなく、 行内に対する営業として、女性に対してもたまにはお尻を触ってやらないといかんと諭されたものである(さすがにやらなかったけど・・・)。今はそんな事をしたら大問題になるだろうが、そういう事を気軽に言える雰囲気だったのは確かである。それで世の中は、大らかだったかつてより世知辛くなったのかと言えば、それはいい方向へ改善したという事だと思う。

 これからもルールから逸脱する若者はなくならないだろうが、指導者はひたすら教育するしかないだろう。練習だけさせるのが指導者の役割ではない。野村監督も語っていたが、「人間的成長なくして技術的な成長はない」だろうから、練習以外にも教え諭す必要があるだろう。広陵高校の辞退という事態を受けて、甲子園出場を狙える学校の野球部監督はもちろんであるが、そうでなくても、まずは指導者たる者は今回の例を採り上げて生徒に話してみるくらいはするべきではないかと思う。

 学生スポーツの場合は、何よりも勝負の前に教育があるべきであろうし、それは学業もさりながら勝負に臨む前の姿勢という事でもある。また、指導者にしてみれば「リスクコントロール」という面もある。広陵高校の監督さんは、野球部の出場選手全員から「尊敬する人」とされていたようであるが、野球以外の指導に漏れがあったのは確かであろう。私には無縁の世界であるが、指導者にしてみれば「対岸の火事」ではなく、「他山の石」とすべきであると思うのである・・・


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【今週の読書】
 ビジュアル図鑑 昆虫 驚異の科学 - デイヴィッド・A・グリマルディ, 丸山 宗利, 中里 京子 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  カラー図説 生命の大進化40億年史 中生代編 恐竜の時代ーー誕生、繁栄、そして大量絶滅 (ブルーバックス) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館  片想い (文春文庫) - 東野 圭吾





2025年8月13日水曜日

和解は難しいのか

ロシア軍、ウクライナ東部ドネツク州で10キロ以上前進…米露首脳会談で主導権の確保狙いか
ロイター通信は12日、ロシア軍がウクライナ東部ドネツク州の前線地帯の一部で、急激な進軍を見せたと報じた。数日間で10キロ・メートル以上前進したとしている。15日に予定される米露首脳会談でプーチン露政権は、ウクライナ軍に同州からの撤退を求めていると報じられており、交渉で主導権を握ろうと攻勢を強めているとみられる。
2025/08/13 10:10日本経済新聞
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 米露首脳会談が予定され、そこでウクライナとの和平が協議されるという。ロシアとウクライナの戦争も気づけば3年5か月になろうとしている。日米間の太平洋戦争が3年9ヶ月であったことを考えると随分長く続いている。日米間では戦力差が圧倒的であり、日本は無条件降伏を選ぶしかなかったが、ウクライナは欧米の支援もあって善戦しているから、戦争終結の形としては今のところ和平合意しかないだろう。ただ、双方に思惑があるだろうから簡単にはいかないのかもしれない。

 以前、電車の中でどこかの酔っ払いサラリーマンと喧嘩になった事がある。次の駅で下りて先制パンチをかましたところで周囲にいた人たちにあっという間に引き離された。一人二人ではなく、見知らぬ者同士の連携に私自身驚いてしまったが、こんな喧嘩みたいに紛争当事者を上回る仲裁者がいれば強引に和解させる事も可能だろうが、大国ロシアが相手ではそれも難しい。どうしても話し合いにならざるを得ないが、ウクライナも意地と思惑があるから簡単には妥協しないであろう。特にどちらかが優勢だと確たるやめる理由がない限り、仲を取り持つのは容易ではない。

 裁判などは法律というルールがあるので勝ち負けははっきりとわかる。それでも判決ではなく途中で和解というのはよくあるケースで、と言うより判決を書くのは大変なので裁判官は和解を勧めたがるらしいが、その場合も双方にメリットがないと和解には至らない。私も2年前に裁判を経験し、内容的には敗訴に等しい和解となった。苦渋の決断の要因はそのまま続けて判決に行って、たとえ勝っても次の訴訟を起こされれば時間的、精神的苦痛が続くし、最終的にはどこかで負けると考えられたからである。

 日本も日露戦争ではアメリカの仲裁を受けて「判定勝ち」したわけであるが、日露双方に戦争継続が困難な事情があったからこその和平成立だったわけで、いまだ体力のある段階での和平は難しいのであろう。一方、ガザではイスラエルの戦力がハマスを圧倒しているが、こちらも停戦の見通しは経たない。それはイスラエルが戦力的に優位であり、ハマス殲滅という目標が可能であると考えるからやめる理由がないのであろう。国際世論を気にしないイスラエルを止めるとしたら、イスラエル兵の犠牲が増えるとか、国内の反戦ムードの高まりとかがないと難しいのかもしれない。

 ボクシングでは既定のラウンドが終われば判定となり、裁判では原告被告よりも強力な力を持つ裁判官がいるから無期限の争いとなることはない。だが、戦争はそうではない。英仏100年戦争という歴史もあるくらいである。もっともウクライナもガザの戦争もそう長くは続かないと思うが、どのような形で決着がつくのであろうか。ウクライナは欧米の支援があって戦争を継続できている。そうすると、見方を変えれば欧米はウクライナに戦争を継続させているわけであり、それによって双方に戦死者を増やし続けさせているとも言える。それは果たしてどうなのかと思う。

 かと言って支援をやめればウクライナは屈辱の敗北を喫する事になる。ウクライナからの視点とロシアからの視点、人類全体からの視点とでいろいろ考えは変ってくる。人類全体が譲り合いの精神を持って共存できればいいと思うが、武器を突きつけ合って「抑止力」の形でしか平和を保てないというのはつくづく残念である。首脳の思惑はいろいろとあるのかもしれないが、命を懸けて戦場で戦うのは名もなき兵士だし、被害を受けるのは市民だし、早くどこかで手打ちになればいいと思う。

 我が国も台湾で火の手が上がれば対岸の火事ではすまないだろうし、人類もそろそろ共存という事ができるようになってほしいと思う。自分もそうだが、これから我が子たちの世の中になっていく。生きて行く上でいろいろと苦難はあるだろうが、何より平和な世の中にあっての苦難であって欲しいと思う。平和共存という人類の叡智を駆使した世の中を実現できる日は到来するのであろうか。できれば自分の生きている間に、そんな世界に少しでも近づいて欲しいと思うのである・・・

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【本日の読書】
 ビジュアル図鑑 昆虫 驚異の科学 - デイヴィッド・A・グリマルディ, 丸山 宗利, 中里 京子  監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) - 小熊英二  片想い (文春文庫) - 東野 圭吾





2025年7月10日木曜日

外国人と生きる

 身の回りに外国人が溢れている。コロナ禍が明けて以来、再びインバウンドの観光客をいたるところで見かける。観光客だけでなく、コンビニの店員さんや温泉に行けばホテルや旅館のスタッフや建設現場などでも外国人が珍しくなくなっている。人手不足もそれを後押ししているのだろう。以前は移民を認めるか認めないかの議論があったが、今やなし崩し的に外国人が国内に入ってきている。一方で外国人観光客が慣れない日本の道路事情の中で交通事故を起こして問題になっているが、問題は解決するだけの事であり、もはや外国人とどう共存していくかというステージなのではないかと感じている。そんな我が社も今年外国人を3人採用した。

 我々の業界もエンジニアの人手不足とは無縁ではない。我々中小企業ではなかなか高い給料は払えない。そうすると応募者は外国人の割合が増えてくる。もちろん、採用は誰でもいいというわけではないが、「仕方ないから外国人を採用する」というわけではなく、それなりに、否、下手な日本人より惹かれるものがあったりするのである。特にわざわざ外国(日本)に行って働こうという人は志も高く、努力もしている。元気のない日本人を採用するより、こうした外国人をむしろ採用したいという気にさせられる。

 最近、中途採用で人材紹介会社から多く紹介されるのはミャンマーの方。現在ミャンマーは軍事政権下で政情不安という事情もあって多数日本に来ているのだと思う。まず日本語という壁があり、それも話すだけではなく複雑な漢字を覚えるという努力をした上で、エンジニアとしてのスキルを磨いている。日々是勉強という姿が胸を打つ。日本語も所々で発音がおかしかったりするが、一生懸命話す姿にそんな細かい事を忘れさせられる。自分が英語を話す(たどたどしいレベルだが)場合を考えると、聞くのも話すのもかなりの集中力が必要である。それを1日やるのであるから大変だろう。

 今年採用した新卒の韓国人は、母国で軍務に就いてき義務をこなした後、お金を貯めて日本の専門学校に入学したという苦労人。その分、年は取っているが、新入社員研修に真面目に取り組む姿勢は、同期の新入社員の刺激になってくれればいいなと思う。一方で同期入社ながら3日で辞めた社員と比較すると、その差は歴然としている。日本はというより、「日本人は」大丈夫なのかと思わざるを得ない。もっとも日本人でも努力家はいる。当たり前だが日本人でも外国人でも頑張る者もいればそうでない者もいる。ただ、日本に来るのは頑張る者だという事なのだろう。

 少子高齢化で日本人は減っていく。「だから移民を受け入れよう」という考え方には今でも強く反対する。ただ、志を持って努力して日本にやってくる者を拒む気持ちはない。外国人観光客がたくさんやって来てたくさんお金を使ってくれるのは、日本経済のためにはいいように思う(ただ、「インバウンド価格」には閉口してしまうが)。そしてそれを外国人スタッフが支えてくれるというのも、日本にとってはいいことなのだろうと思う。努力して言葉を覚え、一生懸命働くのは、誰であろうと良い事である。

 一方、先日面接に来た日本人の方であるが、年齢的にはそろそろリーダー的役割を果たしてほしいところであるが、将来的にも一担当者のままがいいという意向。考え方は人それぞれであるからそういう考え方についてとやかく言うつもりはないが、人としてはともかく、ビジネスマンとしては魅力の欠片もない。辟易するような野心を持てとは言わないが、やはりある程度の野心というより向上心は持たないと、と思う。

 よく「金持ちは3代で潰れる」と言う。初代が苦労して成功して金持ちになるも、その息子はまだしも、3代目は生まれた時から金持ちとして生活するので苦労知らずで育ち、身を持ち崩したりして身代を潰すというのである。日本人も金持ちの3代目になっているのかもしれない。戦後の混乱期を苦労して経済大国にした祖父に対し、息子の代はまだその苦労と余録が残っているが、生まれた時から恵まれている3代目は、苦労知らずで育っているため、ハングリー精神に欠けている。

 我々はいつまでも経済大国として余裕をかましていられるのだろうかと思う。もしもそれを支えるのがハングリー精神あふれる外国人たちだったら、それは果たしていい事なのだろうか。ハングリー精神にあふれ、努力する外国人が増えることはいい事だと思う。我が社の若手社員も含めて、それに刺激を受けた3代目のボンボンが少しは目覚めてくれたら、と願わずにはいられない。我が社の若手社員には少しはハッパをかけてみようかと思うのである・・・


Stéphane CHADOURNEによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) - 小熊英二  霜月記 - 砂原浩太朗





2025年6月8日日曜日

退職代行は必要か

 退職代行を巡って「ダイヤモンドオンライン」で二つの記事が目についた。一つが肯定的な『退職代行を使う人はどこに行っても通用しない?→ひろゆきの答えがド正論すぎて、ぐうの音もでなかった』であり、もう一つが否定的な『退職代行は使っちゃダメ?→「転職のプロ」による直球解説がド正論すぎて、ぐうの音もでなかった』である。どちらが正しいかという比較は意味がない。どちらもそれなりに正しいと思うからである。ただ、自分だったらどうするかと問われれば、答えははっきりしている。「自分だったら退職代行は使わない」。

 前半はひろゆき氏の意見だが、ひろゆき氏は仕事にやりがいなんて必要ないし、自分の時代はアルバイトなんて「ブッチが当たり前」だったとしている。退職代行を使ってさっさと辞めればいいというもの。後半はキャリアコンサルタントによるもので、退職代行を使うようでは逃げグセがつくし、後々できる社員にはなれないというもの。私はどちらかと言えば後半の方の意見であり、自分でしっかり意思表示して手続きできないような人間はどこに行っても通用しないだろうと思う。

 もちろん、それはあくまで相手が「まとも」な場合であり、そうではなくて心を病んでしまった場合などはこの限りではない。退職代行も有効な離職手段であり、大いに活用すべきだろう。パワハラ被害に遭ったりした場合は、顔を見るのも会社に行くのもトラウマになるというケースもあるだろう。すべての場合を否定するわけではない。それにしても退職代行という商売はなかなかうまいところに目をつけたものだと思う。世の中にだいぶ認知はされてきたし、これはこれで面白いビジネスだと思う。

 息子が就職してもしも退職代行を使って退職したいと相談されたらなんて答えるだろう。まずは退職したいという状況を確認し、相手に問題がなければ当然「自分で直接意思表示して退職手続きを取れ」と伝えるだろう。それがまずは社会人としてのあり方だと思う。お別れの挨拶をきちんと済ますのは基本的なそれだろう。「ブッチ」など間違っても息子にはさせたくない。「ビジネスライク」という言葉があるが、いくらビジネスでも人と人との関係にあっては、しっかりと挨拶から始まり挨拶で終わる人間関係を維持したいところである。

 もともと私は、高校生の時には既に親に小遣いをもらわなくなっていたぐらい自立的・自律的な人間である。自分でやるべきことを他人にお金を払ってやってもらおうという考え方は欠片すらない。退職代行などもしも私の時代にあったとしても利用なんて考えすらしなかっただろう。相手に問題があればまだしも(私などは相手に問題があったとしても)、辞めるという事ぐらいさっさと伝えてしまえばいいだけだろうと思う。鼻くそを掘るくらい簡単な事を代行に頼むなんて想像もできない。

 煩わしい、面倒だという気持ちからなのかもしれないが、そんな無駄金を使うくらいなら、自分で「辞めます」と伝えてその分おいしいものを食べるとか、どこかに行くとか、ちょっと贅沢に趣味に費やすとかの方がよっぽどお金の有効活用になる。自分でできない事なら仕方ないが、できる事なら自分でやってお金は有効活用したい。そんな退職代行なんかに、辞めると言うだけの簡単な事にお金を使うという方が精神的な苦痛は大きい。そんな簡単な事ができないなんて、本当に大丈夫かとそっちの方が心配になる。

 「辞める」と言うだけの簡単な事ができないという事は、ちょっとややこしそうな事はすぐ敬遠したがるという事だろう。それでその後の人生を乗り切っていけるのだろうか。実際にはどんな人なのかわからないが、女性に振られるのが怖いと告白すらできない男のようにも思えてしまう。挨拶はできるのだろうか、わからない事はきちんと聞けるのだろうか、遅刻した時は「すみません」と謝れるのだろうか、人に何かをしてもらった時は「ありがとうございます」と素直に言えるのだろうか。そんな事まで考えてしまう。

 世の中には避けて通りたくなる面倒な事は山ほどある。それをいちいち避けていたら、乗り越える力などつくはずもない。そんなのは次から次へとひと足ふた足で乗り越えてさっさと次へ行くくらいの気概とパワーがないといけない。退職代行を使うのはまだ一部だろうが、そんな若者ばかりになったら日本の未来も暗澹たるものになるように思う。現代的なビジネスではあると思うが、それは一時の隆盛で、いずれ衰退していく方が日本の未来のためには安心であると思うのである・・・


Markus WinklerによるPixabayからの画像

【本日の読書】
 百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓







2025年5月8日木曜日

AIは人類を幸福にするのだろうか?

 先日、読んだ『いま世界の哲学者が考えていること』の中で、「AIは人類を幸せにするのだろうか」という項目があった。興味深いテーマである。AIは一部の領域では既に人間を凌駕している。チェスや碁でも既に人間に勝つAIが登場しているし、医療分野や自動運転ではかなりの期待がされている。お掃除ロボットなど家電にも搭載されており、我々の日常生活にAIは欠かせないものになっている。それなのになぜ「AIは人類を幸福にするのだろうか」という疑問が付されるのであろうか。

 その疑問に対しては、根底に「AIによって人間が不幸になる可能性もある」という考えがあると思う。その筆頭は映画『ターミネーター』だろう。このSF映画では、近未来に進化したAIが、地球にとって人類は害悪をもたらすと判断し、人類抹殺を決定して実行に移すというストーリーであった。しかし、人類の抵抗にあって苦戦するAIは、過去にさかのぼり人類の指導者であるジョン・コナーをまだ子供のうちに抹殺しようとターミネーターを過去(映画では現在)に送り込んでくるというストーリーである。

 確かに、人類の発展によって現在は地球温暖化という問題が起こっており(これについては同書でも反対意見が紹介され議論を提示している)、人間が地球にとって有害な存在であるという意見も成立しなくもない。SF映画とは言え、AIが人類を有害と判断して排除しようとしても不思議ではない。そんな事は起こりえないと断言できるかと言われると、素人の私としては「断言できないのではないか」と思うしかない。あらかじめそんな事にならないようにプログラムすればいいように思うが、シンギュラリティを超えたらどうなるかわからないのではないかと思う。

 シンギュラリティを超えると、AIが自己改善を繰り返し、人間の知能を超える、あるいは、人間の知能を超えるようなAI自身が生まれるらしい。そうなるといくら事前に人間に害をなさないようにプログラムしていても、そのプログラムをAI自体が書き換えるのではないかと思う。さらにそんな書き換えができないようにプログラムしておいても、そのプログラム自体を書き換えるかもしれない。そんな歯止めを考えたとしても、その歯止め自体を越えられないようにできなければ意味はないし、人間に作れるものであればAIにも作れるはずであるし、結局は歯止めは機能しないように思う。

 人間には善人と悪人がいる。果たしてAIには善なるAIと悪のAIはできるのであろうか。できるとしたら悪のAIはどんな悪事をするのだろうか。そもそも悪事は人間の欲望に基づいていると思うが、AIには欲望がないはずであるし(そう考えてもいいのかと考えると眠れなくなる)、そうするとAIが独自にどんな悪事を働けるのか疑問に思う。仮に善なるAIしかできないとして、その善の定義はどうなるのだろうか。「人間にとっての善」か「地球にとっての善」か、それによって「善だから安心」とは言えなくなる。

 人類と大げさに掲げなくても、AIがすべて判断し、人間はそれに従うだけという世界もあり得そうに思う。しかし、それとて現在の支配者がAIに代わるだけと言えなくもない。我が家では妻が独裁政権を築いているので、私はその決定に同意するだけである。それがAIに代わったとしても何か変わるものでもない。会社の社長も側近の意見を聞いて決定している場合、側近がAIに代わったとしても何か変わるわけでもない。指示待ち族のサラリーマンにしてみれば指示するのが人間かAIかの違いだけで、「AIに従っていれば責任は問われない」とすれば、何の疑問もなくAIの指示を受け入れるだろう。

 そんなところで何の根拠もなく思うのだが、人類を排除するようなAIは出現しないように思う。私の性格として楽観的なところもあるが、AIは賢いので人類を滅ぼすような方向には働かないのではないかと根拠なく思う。ただ、では安心かと言うとそうではない。滅ぼす代わりに支配する方向にはいくかもしれない。支配と言っても欲望にまみれた人間の支配とは違い、人類に苦役を課す事はないが、「すべてAIの指示通りに生活しなさい」という形でのコントロールである。「人間の幸福はすべてAIが考えるので、人間はただそれに従っていれば良い」という事になったら、それは果たして幸福と言えるのだろうか。

 指示待ち族の人にとっては、誰をデートに誘い、どこのレストランに行き、どのメニューを注文し、どんな言葉を耳元でささやくのかすべてAIが指示してくれたら楽でいいだろう。そういう人にとってはAIは幸福をもたらしてくれるものと言えるだろう。指示待ち族でなくても、いつも誰かに助言を求めたり、自分で調べるにしてもネットで調べたりするのであればその手段がAIになるだけであり、同じであると言える。私ならsiriがもっとスムーズに人間のように回答してくれるなら、「新宿でお勧めのレストラン教えて!」など頻繁に使うだろう。ただ、さすがに耳元でささやく言葉は自分の脳みそで考えるだろうが・・・

 デートならまだしも、進路相談や結婚相談などするようになれば、それはもう支配と同じように思う。「支配」と考えれば抵抗があるが、「アシスタント」と考えれば抵抗はない。何事につけ、アシスタントに助言を求め、その通りに行動するのであれば「支配」と「アシスト」は同義になるように思う。果たしてそれは幸福なのだろうか。それは次世代の問題という気もするが、私としては自分の存命中にそういう時代が来てほしいと思う。そしてその答えを自分で出したいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 なぜか人生がうまくいく「優しい人」の科学 - 和田秀樹 シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰