
ダイヤモンド・オンラインの『従業員の不満投稿が多いブラック企業ランキング【2026年上半期・製造業ワースト18完全版】…三菱電機、日立、SUBARUの順位は?』という記事を目にした。何に不満を持つかは人それぞれであり、どこの企業であろうと不満のない企業などないと思うが、それでも内容的には興味があって目を通してみた。対象は製造業であり、我が社の属する情報通信業でないのはちょっと残念であるが、それでも見てみる価値はあると思う。
ランキングは、下記の通り。我が目を疑うというのはこのことを指すのだろうかと実感したのは、「東野圭吾さん死去」のニュースに接した時である。こうしたニュースに間違いがあるとは思わないが、まず浮かんだのは「本当なのか、誤報ではないのか」という感情。年齢的にはまだまだそんな歳ではないと思っていたが、68歳と聞いてまだ十分若いと改めて思う。現代ではまだまだお亡くなりになるような年齢ではない。大腸がんとのことであるが、がんも現代では必ずしも不治の病ではない。それでも亡くなったということは、いろいろと現代の医学でもダメな理由があったのだろう。非常に残念である。
初めて東野圭吾作品に触れたのは、どれだったかもう記憶にない。おそらく原作を読むよりも映画が先だったように思う。記憶を辿っていくと、たぶん映画『秘密』あたりだろうと思う。事故で亡くなった妻の意識が娘に移ってしまうという奇想天外なストーリー。最近、ネット漫画で『妻、小学生になる』というのを読んだが、コンセプトとしては同じだと感じたものである。単純に妻と娘が入れ替わったドタバタ騒動ではなく、深い人間ドラマに心打たれたのを覚えている。そのあとすぐに原作小説に手を出したのも覚えている。
東野圭吾と言えば、ミステリー作家ということになるのだろうと思う。しかし、どうもそこに入りきらないように思うのは、上記の『秘密』だけでなく、やはり映画化された『手紙』も心打たれるものであったからである。よく小説を映画化した作品は、「観てから読むか、読んでから観るか」は迷うところ。しかし、東野圭吾は基本的に「読んでから観る」方であった。もっとも、最初の頃は読む方に手が回らなくて、『レイクサイドマーダーケース』や『g@me』などは観る方が先行した。『手紙』は原作を読んでから映画を観ているが、これも心打たれるというか、切ない物語である。
読み始めて東野圭吾が「お気に入り作家」になるのに時間はかからなかったが、ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズのように、同じ人物を主人公にしてシリーズ化するというのも東野圭吾の特徴的なところである。ガリレオは物理学者が警察と協力して事件を解決していくというもの。何より毎回手の込んだトリックに圧倒された。『容疑者Xの献身』が最高傑作と言われているが、確かに物理学者と数学者の間で交わされるトリックは予想外の連続。そしてそこに人間ドラマが加わる。よくこんな筋書きを考えられるなという驚きの連続であった。
私の場合、好きな作家は何人もいる。浅田次郎、池井戸潤、百田尚樹、藤沢周平などであるが、小池真理子と東野圭吾はその筆頭である。小池真理子は文章に惹かれ、東野圭吾はストーリーに惹かれているという違いはある。ただ単に巧妙なトリックに感心させられて終わりというのではなく、真に胸に迫る人間のドラマがなんとも言えない味わいを残す。それは高校野球で3年間ずっと補欠だった選手が、最後の試合の同点で迎えた9回裏一死満塁サヨナラ負けのピンチにライトの守備を命じられ、直後に上がったライトフライからのタッチアップをライナーの返球でホームでアウトにし、味方のピンチを救ったようなドラマである。彼の3年間の努力がその返球だけで報われたというようなものだろう。
そうした人間のドラマは、いろいろな作品の中に散りばめられていたと思う。『ナミヤ雑貨店の奇蹟』もミステリーというよりもそんな人間ドラマの塊のような物語であったし、スリリングなはずの『天空の蜂』は、福島の原発事故の予言のようで、むしろそちらに驚かされた。ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズも本当の魅力は、そこで描かれる人間ドラマであったようにも思う。自分だったらどうするだろうと考えながら読むことしばしば。帰宅時の電車の中で読むことが多かったため、乗り過ごすことも多々あった。そういう意味で、私にとっては「電車間中で読むのは危険な作家」であった。
遺作となるガリレオシリーズの最新作が発売されたようである。もうそれで終わりだと思うと、読むのを憚れる気持ちがする。主要な作品はほぼ読んでいるが、まだ読んでいない作品もあるので、それらもいずれ読破したいと思う。また、どの作品ももう一度読みたいと思うので、各シリーズも最初から読み直すのもいいかもしれない。当たり前のように続くと思っていたものが途切れる無念。この喪失感は大きい。それでも2度読み3度読みも含めればまだまだ楽しむことができる。改めてそういう作品を世の中に送り出してくれた事に感謝したいと思うのである・・・

LGBTQという言葉が定着し、もはや同性愛は色目で見られる時代ではなくなってきている。私自身はノーマルな人間であり、同性愛は理解できないが、他人のことをとやかく言うつもりもない。世論としては同性婚を認めてもいいという方向に向かっているし、それはそれでいいのではないかと考えている(所詮、他人事だし)。しかし、今回のニュースには少しだけ気を引かれる。大法廷での審理は最高裁が新たな憲法判断を示す場合などに限られるというが、今回はどんな結論を下すのだろうかと思う。
そもそも婚姻については、憲法で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」(24条1項)と定められている。つまり結婚は親が決めるのでもなく、他人から強制されるのでもなく、ただ結婚したいと願う両性(男と女)の合意のみに基づいて成立すると憲法で定められているわけである。これをどう判断するのか。「男同士」、「女同士」は「両性」ではない。単純に解釈すれば、大法廷でなくても「同性婚は違憲」だとわかる。
もっとも第9条をめぐる解釈でもわかるが、我が国は解釈改憲が得意である。世の流れは同性婚を認める方向にあるが、単純に憲法を解釈すれば法的には認められない。最高裁はどちらを取るのであろうかと興味深い。そもそも同性愛者はなぜ結婚したいのだろうか。同性婚を認めろと訴訟を起こしているカップルはその理由として、「家族として法的に認められず、相続や税制上の優遇も受けられないことで重大な不利益を被っている」としている。そこは男女間の感情と同じなのだろう。
男として考えれば、好きになった女性と結婚したいと思うのは普通の感情である。それはいずれ子供が欲しいという思いがあるし、家族にならないと難しい問題も出てくる。相続や税制もそうだが、例えば病院でも「面会は家族だけ」というケースもある。「家族」であることで本人と一体としてみてもらえるのは法律や税制だけではない。結婚は「彼女」と「家族」とを分ける大きな敷居であり、その意味は大きい。それがそのまま同性愛者の感情と考えれば、「結婚したい」という気持ちもよくわかる。
私自身、現在妻とは別居中であり、大学生の息子が卒業したら離婚するつもりである。長年一緒に暮らすうちにどうも妻の方に私に対する不満が鬱積したようで、それが露骨に態度に出るようになり、耐えられなくなって自分から家を出たのである。しかし、すぐに離婚せずに「家族」に留まる理由は、配偶者控除などの経済的な理由である。息子が学生のうちは余計な支出は回避したい。それに離婚して法的に赤の他人となったとしても、「自分の子供の母親」という地位は揺るがない。ここが単なる赤の他人とは違うところである。「子はかすがい」なのである。
離婚の条件などは何も決まっていないが、建てた家はそのまま妻のものになるだろうし、それでも住宅ローンは私が払い続けていくだろう。財産は折半というのが原則だろうが、こちらからそれを主張しにくいのは、「自分の子供の母親」が困窮するようなことはやりにくいという思いである。それに家はいずれ子供たちのものになる。となればあまり自分のものにすることにこだわる必要もない。子供がいなければ、「財産は仲良く半分に分けよう」と主張していたと思う。
離婚したあとどうするのかという人生設計はまだない。誰かと一緒に暮らしたいという気持ちもなくはないが、再婚したいという強い願いはない。相手がいれば、そして相手次第であるが、同棲でもいいように思う。還暦も過ぎれば(加藤茶みたいに年若い相手と結ばれる可能性はないだろうから)、お互いに積み上げたものもある。あえて家族になる必要があるのだろうかと思ってみる。ただ、年齢的には病院のお世話になる確率が高まるし、いざという時に「家族」である必要はあるかもしれない。
そんな妄想をしていると、やはり単に愛する相手と家族になりたいという精神的なつながりという意味ではなく、「結婚」という「制度」を利用することは必要なのかもしれないと思う。そこに切実な思いを持つ同性婚カップルの気持ちもよくわかる。しかし、憲法は憲法である。どういう判断を下すのか。どちらになるのかという結論よりも、どちらになるにせよその理由に深く興味を惹かれる。今後注目していきたいと思うのである・・・
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【本日の読書】
先週、しきりにニュースでアメリカがイランを攻撃する可能性が報じられていた。どういうルートから情報を得ていたのかわからないが、週末になって実際に攻撃が行われた。ニュースで報じられるからにはそれなりのニュースソースから情報を得ていたのだとは思うが、マスコミがわかるという事は、イランもわかっていたのではないかという気がする。わかっていたからといって防げるものでもないが、危機管理という意味では対応策を考えていたのではないかと思う。それでも指導者を含めて幹部が多く殺害されているのは準備ができなかったのか、それを上回る攻撃だったのか、いろいろと思うところは多い。
その昔、戦争は宣戦布告をもってなされるものであった。そのタイミングが遅れた日本は、アメリカから「卑怯者」と言われ徹底的に悪者にされたが、現代の戦争はもはや宣戦布告を必要としなくなったのだろうか。それともこれは「戦争」ではないのか。今回の攻撃の目標について、アメリカは①イランのミサイル能力の破壊、②海軍の殲滅、③核兵器保有をさせないこと、④政権によるテロ組織支援を止めることだと説明している。かつての戦争のように相手を降伏させて自国の言うことを聞かせるというものではなくなっているのだろう。それでも体制転換を目指しているようであるから同じことなのかもしれない。
それにしてもベネズエラの大統領を軍事作戦によって拉致し、今度は核を巡る交渉中にもかかわらず攻撃を行いと、アメリカは好きなように振舞っている感がある。同じことをロシアや中国がやっていたら、アメリカは烈火のごとく声を上げ、経済制裁を呼び掛けていただろうと思う。西側諸国も内心苦虫を嚙みつぶしながら当たり障りのないコメントをしているようだし、高市総理も慎重にコメントをしてアメリカを非難することは避けている。同盟国だから庇うのか、アメリカだから何も言えないのか、おそらくその両方なのだろう。それでいいのだろうかと疑問に思う。アメリカなら何をやっても許されるのか。
力のある者が力にモノを言わせて己の言い分を通すというのは、もっとも原始的な問題解決である。動物では外から来たオスが群れのリーダーにチャレンジして勝てばその群れの新たなリーダーになれるというものがある。先日横目で見ていたカバについての番組でやっていたが、カバはそういう習性があるようである。もちろん、負ければ群れにも入れずすごすごと去っていくしかない。あるいはリーダーに対して恭順な姿勢を示すというのがあり、そうすると群れに迎え入れてくれるのだとか。番組ではリーダーに負けたカバが恭順を示して群れに入れてもらうシーンをやっていた。
アメリカがやっている事と同じである。まぁ、人間もカバ同様の生物であり、同じであっても不思議ではない。ただ、アメリカは群れを守るというより、すべてを従えることが最終目標なのではないかと思うくらいである(おそらくそうなのであろう)。今、世の中では多様性ということがしきりに言われている。昔は毛嫌いされていた者もLGBTと称され権利を認められている。しかし、国際社会では話が異なり、それは共産主義や社会主義には当てはまらず、民主主義でもアメリカに逆らうものは許されないという感じである。どの国にも生存権があり、それは互いに尊重されるべきものであるが、(少なくともアメリカは)そうではない。
なぜ、互いに譲り合うことができないのだろうか。今回、攻撃にイスラエルが加わっているのも象徴的で、イランの核兵器開発はそのターゲットの第一は間違いなくイスラエルであるだろうし、イランはヒズボラを始めとして反イスラエル勢力を支援しているようであるから、イスラエルも自国防衛という意味で便乗したのだろう。中東紛争は憎しみの連鎖で根が深いが、どこかで共存というものが図れないものだろうかと思う。殺し合いを続けてどちらかが敗れなければ共存が図れないというのはあまりにも寂しい。動物は同じ種では殺し合わないようだし、それが生物の本能なのであるなら、人類はそれに反していることになる。
我が国としては見て見ぬふりしかできないのだろうが、既に「戦費10億ドル突破か 米経済損失33兆円規模の恐れ」という報道(FORBES)も出ている。これは後日、また高額な武器を買えとか、何らかの形でわが国に請求書が回ってきそうな気がする。アメリカの軍事産業もまだまだ大儲けできるのだろうと思う。きっとウハウハしているに違いない。人類に互いに譲り合って生きるという英知は働かないのだろうか。地球上でもっとも賢い生物がもっとも愚かな行動をしているというのが何とも言えずに残念であると思うのである・・・
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【本日の読書】
「日本の性加害の根っこにある」との主張が…『ドラえもん』しずかちゃんのお風呂シーンはなくすべき?論争の実態と、意外と知られていない変化
今回物議を醸したのは、ドラえもんアニメにおいて「しずかちゃんのお風呂シーンをなくすべき」という主張だ。お風呂シーン反対派の意見を簡単に説明すると、![]() |
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新春早々なかなか刺激的なニュースに触れた。米軍がベネズエラを攻撃し、なんとベネズエラの大統領を拘束して米国内に移送したという。これから裁判にかけるそうで、随分と大胆なことをやるものだと思う。攻撃理由は「アメリカ国内に海から流入する麻薬のほとんどがベネズエラから密輸されている」ということだそうで、これはたぶん建前で本当の狙いは別にあるのだろう。「大量破壊兵器を隠している」としてイラクに侵攻した「前科」があるからなおさらである。麻薬の件は事実かもしれないが、それだけでここまでするとは素人目にも思えない。何か利権絡みの事情があるのだと思う。
そもそもであるが、アメリカなら何をやっても許されるのかという気がする。これを仮に中国やロシアがやったならアメリカは大層な剣幕で反対するだろう。それに対し、アメリカに対してはおざなりの批判だけで、面と向かって対抗する国はない。それをいいことに、好き勝手やっている。国内の場合、公権力は証拠を上げて裁判所の許可を取って逮捕し、裁判にかけてその罪を問う。日本人であれば、日本人として国から保護される権利を得ると同時に法に従う義務がある。とは言え、何人も令状なしに身体を拘束される事はない。それは国内限定の話である。
これが国外となると、話は違ってくる。国外では日本の国内法が適用されず、したがってどんな悪事であろうと、国外で行われたものに関しては手が出せない。それは原則どこの国でも同じである。その国の法律はその国の中だけでしか通用しない。今回、アメリカはベネズエラのマドゥロ大統領を拘束したが、その根拠はどこにもない。ましてや裁判となると、なぜアメリカの国内法でベネズエラの大統領を裁けるのかと問われたらその根拠はない。そもそも裁判は成立しない。それをやるというのはもはや筋書の決まった茶番でしかない。
それで思い出されるのが東京裁判である。戦勝国が敗戦国を裁くというのも同じで、「人道に対する罪」というのを作り出し、事後法の禁止の原則にも反して、勝手に作って勝手に裁くものであった。裁判という形さえ取れば、公平に裁いたとでも言えると思っているのだろうか。アメリカがどんなに自らの正当性を主張しようと、そこに正義はない。ジャイアンに誰も文句が言えないのと同じである。もっともな理由をつけて軍事行動を起こして領土分取り合戦をやっていた帝国主義の時代があったが、世界でアメリカだけがまだその精神で行動している。
今回の軍事作戦の真の理由であるが、素人にはわからない。いずれそのうち情報が暴露されて伝わってくるのかもしれない。大統領の拘束に終わらず、トランプ大統領は「ベネズエラの安全で適切な政権交代が完了するまで、われわれはベネズエラに駐留し、国を運営する」との意向を明らかにしているから、ベネズエラを自分たちの意に添うように動かすつもりなのだろう。「気に食わない奴はぶん殴って言うことを聞かせる」的な行動で、腕力にモノを言わせるのは見ていていい気はしない。
力を持つ者はそれに奢ってはいけないと思う。最近、部下から手厳しい意見をもらった。私には私なりの考えがあっての事だが、それをしっかり説明したところ、そうした正論で責められると何も言えなくなるとのこと。仕事であればきちんと考え、正論で議論するのは当然だと思う。私にはそういう正論に基づく意見もあるしそれを通す権限もある。しかし、今回はあえて部下の意見を入れて譲る事にした。正論で通せても部下の満足度は得られない。さらにそれはどうしても私が守らなければならない正論ではない。守るべき正論のためにも、ここは譲った方が部下も満足して働いてくれると考えたのである。
それが良いのか悪いのかはわからないが、権限だけで意見を通すのは避けようと思っている。自分の意見は意見として相手の意見も聞き、その損得も考えて総合的に譲るべきところは譲ろうと思う。仕事で「腕力」に当たるのは地位に基づく権限だと思うが、それを振り回すのではなく、相手を説得するのではなく納得させられるように振舞いたいと考えている。アメリカの行動を見ていると、その裏に国益追及の精神があるのだろうが、醜いものにしか見えない。自分も役員として自信を持って行動しているが、それがみんなに支持されているかは意識しないといけないと思っている。
「奢る平家は久しからず」。他人のふり見て我がふり直せではないが、自分自身は大丈夫だろうかと常に身を引き締めていこうと思うのである・・・
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| GobbleGGによるPixabayからの画像 |