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2026年11月1日日曜日

「持ち家」と「賃貸」結局どっちがいい?

「家賃は捨て金。家を買えば資産が残る」―マイホームを買う理由として、いまもよく聞く言葉だ。ところが、人口減少と空き家の増加で、買った家が「資産」どころか、売るに売れない「負動産」になるケースもある。「家を買うのが当たり前」という常識は、いったいどこから生まれたのか。※本稿は、実業家の堀江貴文『やってはいけない 絶対損する金の使い方』(徳間書店)の一部を抜粋・編集したものです。
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 ダイヤモンド・オンラインに『「持ち家」と「賃貸」結局どっちがいい?→ホリエモンの答えにぐうの音も出ない』という記事が掲載されていた。この問いに関する私の答えはとうに出ている。これに関しては、基本的にそれぞれの人が選択する問題なので、「どちらが正解」というものではない。「どちらを選ぶか」の問題だと考えている。私自身は「持ち家派」なのであるが、なんとなくこうして公に出る意見は「賃貸派」に軍配を上げるものが多いように思う。ここでは、「持ち家派」の「家は資産になる」という考えに反論したものになっている。

 「家なら資産として残る」という意見に対し、「それはごく一部にしか当てはまらない」とする。少子高齢化の流れの中で、「相続したはいいが住む人はおらず、売りたくても買い手がつかない」家はたくさんあるという。さらに「資産どころか『負動産』になる」ともいう。「誰も住まなくなっても固定資産税は毎年取られる。取り壊すだけで100万円は下らないし、更地にすれば土地の税金は3~4倍に跳ね上がる。残しても壊しても、どちらもお金が出ていく。親がよかれと思って建てた家が、子どもを縛る重荷に変わる」とする。これは事実だと思う。

 さらにダメ押しとして、「賃貸で最後まで残る不安は『年を取ると部屋を借りられなくなる』というやつだ。心配しなくていい。これからは借り手が減り、部屋が余っていく。貸す側に高齢者を嫌がる余裕はなくなり、シニア向けの賃貸も増える。」とする。そして「値の落ちない家を買うか。消費と割り切って買うか。買うならそのどちらかだ。どちらでもない大半の人は賃貸でいい。払って終わり。そのなにが悪い。『家賃は捨て金』という思い込みこそ、捨ててしまえ」と結論づける。

 この記事に異論を唱えるつもりはない。ただ、ここに抜け落ちている考え方がある。それは「家賃が払えない人はどうする?」という問題である。今現在、私は自宅を離婚する予定の妻に譲り、1人実家に出戻っている。実家は両親の持ち家で、築後50年超の老朽化物件である。両親は年金暮らしであるが、国民年金のみの両親の年金額は2人合わせても僅かである。これまでなんとかやってこられたのは、「家賃の支払いがなかったから」である。

 実家は幸い売れないということはないので、記事にある負動産となる懸念はない。ただ、仮に売れないとしても、死ぬまでの間、両親が暮らすことができればそれが何よりである。これで持ち家でなければ、当然年金だけで暮らすということはできず、私と弟がその分の経済的な負担をせざるを得なかったであろう。その負担は、負動産となった後の負担など比ではないだろう。両親の亡くなった後、処分に困ったとしても、いざとなれば負動産となる前に相続放棄という手段もある。

 仮に家賃が毎月15万円でとすれば、ボロでも持ち家があればこの15万円は自由に使えるわけである。ホリエモンのように家賃負担が軽微だというだけの資力があれば問題はないが、両親も私も残念ながらそんな資力はない。「払って終わり」とは簡単に言えない。両親がしっかりと持ち家を確保していたことで、両親はもちろん、私も弟も経済的に救われているのは動かしようもない事実である。我々にとってこの問題は、どちらがいいかという問題ではなく、「賃貸では生活していけなかった」ということに尽きるのである。

 つまり、「賃貸でいい」とは老後も困らぬ資力のある人たちだからこそ主張できることであり、持ち家信仰に救われた、そしてその信仰から抜けられない庶民にはとても真似できないことだと思うのである・・・




【今週の読書】
 宗教の起源――私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか - ロビン・ダンバー, 長谷川眞理子, 小田哲 宇宙創成(上)(新潮文庫) - サイモン・シン, 青木薫




2026年10月21日水曜日

その時どうする

ニデック調査委、歴代5社長に損失先送りの責任認定 損害は276億円
2026年10月20日 日経新聞
ニデックは20日、会計不正を巡り旧経営陣の法的責任を調べる調査委員会の報告書を公表した。調査委は創業者の永守重信氏ら歴代5社長が不正を是正する義務を怠ったとして賠償責任を認定した。ニデックに生じた損害は調査費用など計276億円とした。
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 かつては飛ぶ鳥を落とすほどであったニデック(旧日本電産)であるが、いまやすっかり「池に落ちた犬」状態である。創業者の永守重信氏も今は見る影もない。業績拡大へのプレッシャーから会計に手を加えてごまかすということは、大なり小なりあらゆるところで行われていると思う。上場企業だけではなく、非上場の中小企業でも銀行からお金を借りるという事を考えると、業績に無関心ではいられない。気持ちはわかるが、「お化粧」にも限度がある。ルールの範囲を超えた過度なお化粧は、犯罪である。

 ニュースを読んで興味深く思ったのは、今回賠償責任を認定された創業者の永守重信氏を除く歴代4社長である。創業者の永守重信氏は絶対君主だったから、不正を主導したのは間違いないだろう。だが、歴代4社長はどうだったのだろう。不正の認識はあったと思うが、それを正せたのだろうかという思いである。なにせ社長と言っても、絶対君主である創業者の永守重信氏には逆らえなかっただろう。社長を続けるには不正を認めなければならず、正義を貫けばクビになるとしたら、果たして自分はどうするだろう。

 組織の中において、自分の考えをどこまで殺すのかは難しいところである。組織である以上、周りと考えを合わせていかないといけない。一方で自分の考えは大事である。自分の考えを殺して合わせるのは苦痛である。会社では特に最終決定権を持っているのは社長であり、社長の意見には従わないといけない。会社の株を持ち、借入の個人保証を入れている社長の決定が優先されるのは当然であるが、問題はその決定が間違っている場合である。それでも従わないといけないのであろうか。

 何が間違いかはケースバイケースのところもあるが、最終的には結果で判断するしかない。しかし、結果は最後にならないとわからない。決断時点では、したがって間違っているかどうかはわからないわけであり、やはり従うというのが正解だと思う。ではニデックの会計不正のような明らかな法令違反でも従わないといけないのであろうか。その場合は断るべきというのが正解であるが、家族もいて稼がなければならない(さらに他では再就職が難しい)となると、正論を貫くのは難しい。

 ニデックのような大企業の社長になるような人物であれば、他にもいくらでも引く手はあるだろう。したがって、やはり不正に関与した責任は免れられないと思う。結局、最後に巨額の損害賠償を求められたらそれまで積み上げられてきたものも無に帰するかもしれない。歴代とあるように、責任は辞めてもついて回るわけであり、やはり責任ある地位に就くものはそれなりの覚悟を持って臨まないといけないわけであり、絶対オーナーに逆らってでも不正に手を染めてはいけないという教訓なのだろう。

 翻って我々のような社会の片隅に目につかぬように存在する中小企業であればどうだろうか。今までのところ、そんな不正に手を染めないといけないようなことはなかったし、これからもないだろうとは思う。しかし、会社の方針を巡っては意見の相違はあると思う。これは正解がわからないだけに難しい。最終的には社長の判断に従うしかないのであるが、自分の意見に自信があったりすると、それと違う判断をされた場合、忸怩たる気持ちのモヤモヤが残る。それは仕方のないことであるが、意見は意見として言わなければならないし、それで良しとするしかない。

 後藤田五訓にある通り「勇気を以って意見具申せよ」、「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」を常と思う私としては、たとえ自分の考えと違っていても、「決定が下ったら従い」たいと考えている。その結果、たとえ自分が正しかったとしても、それはそれである。自分の考えに自信を持つことにはなると思うが、それだけである。次の対応に向けてまた知恵を絞る事になるだけである。ニデックの歴代4社長がどのような経緯で不正を正さなかったのかはわからないが、その代償は大きいと思う。自分がそういう苦渋の決断を下す立場になくて良かったと思うだけだが、今後もそうあり続けたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 宗教の起源――私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか - ロビン・ダンバー, 長谷川眞理子, 小田哲 シークレット・オブ・シークレッツ 下 - ダン・ブラウン, 越前 敏弥




2026年10月18日日曜日

日経新聞のニュースに思う

「月収140万円」美容医療に流れる医師 求人6倍、診療分野の偏り拍車
2026年10月11日
美容医療の拡大のひずみが大きくなってきた。都市部を中心に求人はコロナ禍以前の6倍超に急増し、厚待遇もあって若手や地方の人材の転職が相次ぐ。診療科や地域による医師の偏りが加速しかねず、規制を求める声も上がる。
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 先週の日経新聞に興味深い記事が載っていた。美容医療の業界は現在、人材は引く手あまたで、医師や看護師のほか事務職を含め26年4月時点で2,627件と、19年4月の421件から6.2倍に増えたという。給与も高く、医師の正規雇用だと平均月給は26年4月時点で1,411,523円。これは美容医療以外の987,736円と比べると40万円以上の差があるという。単純に給与だけ見れば、普通の医師より美容医療の医師の方がはるかにいいことになる。記事では、診療科、地域による医師の偏りを懸念している。

 人は誰でもお金は欲しいだろう。生きていくためにも、家族を養うためにも、より良い人生を送るためにも。だから同じ働くなら、より稼ぎがいい方と考えるのは当然である。医療業界もその例外ではない。苦労して(お金をかけて)医師になったのであれば、より高い報酬を求めるのは当然である。しかし、だからと言って医師がみんな美容医療の方に流れたら、病気になった時に治してくれる医師が不足し、助かるものも助からないという事態になったら誰もが困る。

 しかし、だから「美容医療の分野に行くのはけしからん」というのもまた筋が違う話。どの分野に行こうが、それは本人の自由意志の問題であり、他人がとやかくいうことではない。分野の話では、産婦人科の分野で「分娩を扱う医師や地方の現場における深刻な不足・偏在」という点において、長年にわたり大きな社会問題となっているのも似たような問題である。「より報酬が高い方」、「より楽な方」に流れるのは人の常である。それを誰が批判できようか。

 それに報酬が高いという事は、それだけ世の中に求められているということに他ならない。これもまた世の常。健康保険に縛られた通常の医療と比べ、美容医療はそれだけ収益力も高いのだろう。それはすなわち、「世の中の人に求められている」という事であり、お金を払う人がいるという事である。そういう世の中に求められている分野に行くという事は、褒められこそすれ批判されることではない。それにしても、美容医療のお世話になろうなどとこれまで考えたこともない私からすると、驚きの事実でもある。

 利用するのは女性ばかりだと、なんとなくイメージしていたが、実は男も多いらしい。記事によると、マスクをしていると顔が怒っているように見えると指摘された男性が、しわの改善効果を謳ったボトックス注射を3ヶ月に1回通って受けていると紹介されていた。私だったら開き直るところだが、真面目な人はどうすれば怒っているように見えないだろうかと考えて門を叩いたのだろう。それがいいか悪いかは、本人が判断することであって、周りがとやかく言う事ではない。単に美容効果だけではないのだろう。

 「脱毛」などもこの分野に入るのだろう。男でも最近はすね毛がみっともないと言われているようである。私も夏場はいつも短いズボンを履いているが、それも実は女性の顰蹙を買っているのかもしれない。ただ、私の場合、だからと言って長いズボンにするとか、ましてやすね毛の処理をするなどという発想は間違ってもしない。それで嫌われたとしても、それは仕方ないと考えてしまう。そもそも女性はすね毛だけで男の良し悪しを決める事はないだろうという気持ちがある。すね毛が気持ち悪いと言われる人は、そもそも魅力がないのだと思う。

 考えてみれば、美容医療どころか、医者そのものにお世話になりたくはない。誰でもそうであると思うが、一生世話にならなくてもいいならそれに越した事はない。それでも病気になるし、怪我もするのでやむなく行くところであるが、だからこそ「ありがたい存在」でもある。世間一般のサラリーマンに比べて高い報酬をもらうのも当然だと思う。私のひねくれ者の叔父は医者と弁護士が大っ嫌いだと公言していたが(人の弱みにつけ込んで高い報酬を得ているというのがその理由)、だったら一生世話になるなと心の中で思っている。

 こういう記事を読むと、それでも通常の医療の世界に進む医師の方はありがたい存在だし、「分娩を扱う医師」にはよけい尊敬の念が湧く。みんながみんな美容医療の世界に進むわけではないし、あらためて通常医療の世界の医師の人はリスペクトしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 宗教の起源――私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか - ロビン・ダンバー, 長谷川眞理子, 小田哲 シークレット・オブ・シークレッツ 下 - ダン・ブラウン, 越前 敏弥




2026年9月6日日曜日

会社に対する不満

 ダイヤモンド・オンラインの『従業員の不満投稿が多いブラック企業ランキング【2026年上半期・製造業ワースト18完全版】…三菱電機、日立、SUBARUの順位は?』という記事を目にした。何に不満を持つかは人それぞれであり、どこの企業であろうと不満のない企業などないと思うが、それでも内容的には興味があって目を通してみた。対象は製造業であり、我が社の属する情報通信業でないのはちょっと残念であるが、それでも見てみる価値はあると思う。

ランキングは、下記の通り。
1.日産自動車 14件
2.シャープ  10件
3.スズキ    9件
  マツダ    9件
5.ニデック   8件
以下略。

 何となく業績が悪かったりする企業に従業員の不満が溜まるのは理解できる。業績が悪いと給料も上がらないし、プレッシャーもキツくなる。日産自動車もニデックも業績が悪いというのは一般的にも知れ渡っており、頷けるものがある。詳しくはわからないが、スズキとマツダが上がっているのも、自動車業界全般(トヨタは除いて)が厳しいのかもしれない。車もやがて本格化する電気自動車の時代に向けて、対応が厳しさを増しているのだろうか。

 ニデックは、名物会長が会計不正で退陣した。次々と赤字企業を買収して短期間で黒字化させる手法は凄いなと思っていたが、テレビの特集などで紹介されたその内容は、電気を半分にするとかの古典的な経費カットばかりで、肝心な(黒字化)ノウハウは隠しているのかと思っていた。しかし、「電気代の大幅なコストカットで真夏にエアコンが停止することがあり、通常時も空調が弱く」なんて言葉を読むと、コストがまさに秘訣だったのかと思うとともに、社員のやる気までカットされていたのかもしれないと思う。

 長時間労働と給料は、社員の不満の最たるものだと思う。「定時退社日がなく業務量も多いため、定時で帰れることは稀。リーダー職以上は帰りにくい空気もあり、残業しないと給与が低いというジレンマがあった」(ニデック)というのも、私が社会人デビューした頃は当たり前だったが、今でもそういう企業は多いのかもしれない。ワークライフバランスという言葉も浸透している現在においては、不満の元になるのだろう。

 「残業をしないと給与が低い」というのは、生産効率を落とす原因になる。なぜなら、「どうせやるなら1時間で終わらせるのではなく2時間かけてやろう」という考えを引き起こすからである。定時に帰りにくい雰囲気であれば尚更で、日中はのんびりやって時間を見ながら仕上げるという行動を取ってもおかしくはない。残業手当のつかない管理職になると、途端に仕事が早くなるのである。上から見ているとわからないだろう。

 勢いがあって、業績が良い企業であれば、残業が多くても不満にはつながらないようにも思う。働くモチベーションは給料ばかりではない。やりがいも大事である。しかし、苦しい企業になると、やりがいの部分が薄れ、給料や待遇といったところの不満が浮き上がってくるのかもしれない。翻って我が社は大丈夫だろうかと思う。給料はそれほど高くない。不満の声が聞こえてこないわけではない。そして業績は厳しく、給与水準は上げられない。経営層には経営層なりの苦しさがある。ここのランキングの企業もそうかもしれない。

 ただ、投稿数を見ると、トップでも14件であり、全体的にかなり少ない。もっと大々的にやれば変わるのか、あるいはそれほど変わらないのかはわからないが、業績が良くないところに不満が溜まるのは理解できるところである。大手企業ならともかく、社員の少ない中小企業では人材流出のインパクトは大きい。すでにその兆候は出ており、もって他山の石とせねばならないと思う。自分の身を守るためにも、社員の気持ちには意識を向け、何とか業績向上ができるように頑張りたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 「偶然」はどのようにあなたをつくるのか: すべてが影響し合う複雑なこの世界を生きることの意味 - ブライアン・クラース, 柴田裕之 百年の時効 (幻冬舎単行本) - 伏尾美紀




2026年8月5日水曜日

東野圭吾

 我が目を疑うというのはこのことを指すのだろうかと実感したのは、「東野圭吾さん死去」のニュースに接した時である。こうしたニュースに間違いがあるとは思わないが、まず浮かんだのは「本当なのか、誤報ではないのか」という感情。年齢的にはまだまだそんな歳ではないと思っていたが、68歳と聞いてまだ十分若いと改めて思う。現代ではまだまだお亡くなりになるような年齢ではない。大腸がんとのことであるが、がんも現代では必ずしも不治の病ではない。それでも亡くなったということは、いろいろと現代の医学でもダメな理由があったのだろう。非常に残念である。

 初めて東野圭吾作品に触れたのは、どれだったかもう記憶にない。おそらく原作を読むよりも映画が先だったように思う。記憶を辿っていくと、たぶん映画『秘密』あたりだろうと思う。事故で亡くなった妻の意識が娘に移ってしまうという奇想天外なストーリー。最近、ネット漫画で『妻、小学生になる』というのを読んだが、コンセプトとしては同じだと感じたものである。単純に妻と娘が入れ替わったドタバタ騒動ではなく、深い人間ドラマに心打たれたのを覚えている。そのあとすぐに原作小説に手を出したのも覚えている。

 東野圭吾と言えば、ミステリー作家ということになるのだろうと思う。しかし、どうもそこに入りきらないように思うのは、上記の『秘密』だけでなく、やはり映画化された『手紙』も心打たれるものであったからである。よく小説を映画化した作品は、「観てから読むか、読んでから観るか」は迷うところ。しかし、東野圭吾は基本的に「読んでから観る」方であった。もっとも、最初の頃は読む方に手が回らなくて、『レイクサイドマーダーケース』や『g@me』などは観る方が先行した。『手紙』は原作を読んでから映画を観ているが、これも心打たれるというか、切ない物語である。

 読み始めて東野圭吾が「お気に入り作家」になるのに時間はかからなかったが、ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズのように、同じ人物を主人公にしてシリーズ化するというのも東野圭吾の特徴的なところである。ガリレオは物理学者が警察と協力して事件を解決していくというもの。何より毎回手の込んだトリックに圧倒された。『容疑者Xの献身』が最高傑作と言われているが、確かに物理学者と数学者の間で交わされるトリックは予想外の連続。そしてそこに人間ドラマが加わる。よくこんな筋書きを考えられるなという驚きの連続であった。

 私の場合、好きな作家は何人もいる。浅田次郎、池井戸潤、百田尚樹、藤沢周平などであるが、小池真理子と東野圭吾はその筆頭である。小池真理子は文章に惹かれ、東野圭吾はストーリーに惹かれているという違いはある。ただ単に巧妙なトリックに感心させられて終わりというのではなく、真に胸に迫る人間のドラマがなんとも言えない味わいを残す。それは高校野球で3年間ずっと補欠だった選手が、最後の試合の同点で迎えた9回裏一死満塁サヨナラ負けのピンチにライトの守備を命じられ、直後に上がったライトフライからのタッチアップをライナーの返球でホームでアウトにし、味方のピンチを救ったようなドラマである。彼の3年間の努力がその返球だけで報われたというようなものだろう。

 そうした人間のドラマは、いろいろな作品の中に散りばめられていたと思う。『ナミヤ雑貨店の奇蹟』もミステリーというよりもそんな人間ドラマの塊のような物語であったし、スリリングなはずの『天空の蜂』は、福島の原発事故の予言のようで、むしろそちらに驚かされた。ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズも本当の魅力は、そこで描かれる人間ドラマであったようにも思う。自分だったらどうするだろうと考えながら読むことしばしば。帰宅時の電車の中で読むことが多かったため、乗り過ごすことも多々あった。そういう意味で、私にとっては「電車間中で読むのは危険な作家」であった。

 遺作となるガリレオシリーズの最新作が発売されたようである。もうそれで終わりだと思うと、読むのを憚れる気持ちがする。主要な作品はほぼ読んでいるが、まだ読んでいない作品もあるので、それらもいずれ読破したいと思う。また、どの作品ももう一度読みたいと思うので、各シリーズも最初から読み直すのもいいかもしれない。当たり前のように続くと思っていたものが途切れる無念。この喪失感は大きい。それでも2度読み3度読みも含めればまだまだ楽しむことができる。改めてそういう作品を世の中に送り出してくれた事に感謝したいと思うのである・・・


 聖女の救済 (文春文庫) - 東野 圭吾 新参者麒麟の翼 (講談社文庫) - 東野 圭吾 ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫) - 東野 圭吾 真夏の方程式 (文春文庫 ひ 13-10) - 東野 圭吾 人魚の眠る家 (幻冬舎文庫) - 東野 圭吾 沈黙のパレード (文春文庫 ひ 13-13) - 東野 圭吾 希望の糸 (講談社文庫) - 東野 圭吾 白鳥とコウモリ - 東野 圭吾 透明な螺旋 - 東野 圭吾



【本日の読書】
 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛

2026年4月26日日曜日

パートと正社員の待遇差は問題なのか

東京のパートの7割、正社員と「不合理な待遇差」 環境改善進まず
日本経済新聞2026年4月22日
東京都は22日、都内の中小企業を対象にした「パートタイマーに関する実態調査」の結果を公表した。パートの69.6%が正社員との間に不合理な待遇差があると感じていることが分かった。2021年度調査(69.2%)からほぼ横ばいで、改善が進まない状況が明らかになった。
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 日経新聞のニュースであるが、一見そのまま読み流してしまいそうな内容であったが、何となく引っ掛かりを覚えて目がとまった。今は「同一労働同一賃金」というのが原則として認識されている。しかし、実態はなかなか原則通りにはいかず、ニュースによると、パートが待遇差を感じる点は賞与(51.6%)が最も多く、退職金(33.8%)、基本給(28.3%)という順になっているそうである。さらに正社員と同等の通勤手当や昇給制度を設けている事業所が半数以上ある一方、退職金や役職手当を正社員のみとする事業所は7割を超えたという。

 ニュースの雰囲気からすると、待遇差は改善されなければならないという論調である。それについて反対するわけではないが、何となく違和感のようなものは残る。例えばよくスーパーなどで「パート募集」という張り紙を見たことがある。大抵、「時給◯◯円」などと表示されている。それに応募する人は、大体の仕事内容と時給の金額を頭に入れて、その上で応募してくるわけである。その時点で、その同じ仕事を正社員がいくらもらってやっているかなど知らないだろう。そしてその条件に本人が納得した上で働いているわけであり、そのどこに問題があるのだろうか。

 日本には職業選択の自由があり、「嫌なら辞めればいい」のである。企業は正社員ではなく、時給で働く人を募集しているわけであり、応募する人がいなければ募集条件を変えて募集することになる。時給を上げたり、あるいはパートでは集まらないと思えば正社員を募集する。そうした中で双方の思惑が合致して雇用契約が成立しているわけであるから、本来そこには何の問題もないはずである。また、応募者側でも正社員として働きたければそういう条件の仕事を探せばいいわけで、無理にパートで働く必要はない。パートで働くということは、「フルタイムで働きたくない」という考えがあるからではないのだろうか。

 そうすると、そもそも「正社員との間に不合理な待遇差」があるのは当然とも言える。否、そもそも「不合理な」と言えるのだろうかとも思う。正社員からすれば、初めからフルタイムで働くという意思と覚悟を持って就職しているわけであり、一緒にするのがそもそも「不合理」のように思える。「パートタイマーに関する実態調査」が具体的にどのようなケースについてなのか非常に興味深いが、「正社員と同じ仕事をしているのに」待遇に差があるという事が前提になっているのだと思われる(そうでなければ「待遇差」は当然である)。ただ、本当に同じなのだろうかと思う。

 例えば我が社の経理スタッフはみんなほとんど同じ仕事をしているが、正社員間でも給料は同じではない。「主任」とそれ以下の「一般」とでは当然、基本給も賞与も違う。パートに賞与はあるが、金額は「寸志」のレベルである。それでも何度かの誘いにも関わらず、パートさんは正社員になりたいと言わない。家庭の事情からパートとしての働き方を選択しているのである。もちろん、やっている事は正社員とほとんど同じである。会社としてもそれはそれでその意思を尊重している。もちろん、我が社もパートに退職金制度はない(貢献度を考慮して「寸志」は出すかもしれない)。

 少なくとも、我が社に限って言えば、「パートタイマーに関する実態調査」が来て調べたとしても、パートと正社員の間に「賞与」「退職金」「基本給(時給ベースでは一部正社員より単価は高い)」の間に待遇差はあるが、「不合理」ではないはずである。仮に客観的に見て「不合理」であると判定されようと、当のパートはそれを「不満」には思っていないはずである。とすればそこには何も問題がないことになる。百歩譲って不合理な待遇差が嫌なら辞めて別の正社員の仕事を探せば良いのである。

 私の場合、すでに還暦を過ぎており、今の仕事を辞めて他の仕事を探しても今の年収はほとんど見込めないと思う。それは市場原理としてやむを得ない事であり、「不合理な待遇差」でも何でもない。その人がいくら正社員でこれだけの収入が欲しいと言っても、市場で受け入れられなければそれまでである。不合理な待遇差を嘆いても、それを受け入れるしかないのであれば仕方のない事である。どうも世の中の考え方には違和感しか抱けない所以である。私も、今の仕事でしっかり成果を挙げてクビにならないようにしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか (単行本) / エマニュエル・トッド (著)+[販売店ノベルティー]2024年11月8日発売 国際政治地政学世界情勢日本分析社会教養歴史背景解説思考法実用書





2026年4月22日水曜日

同性婚は違憲か

同性婚排除の規定は憲法違反か 
最高裁大法廷が26年度にも判断へ
朝日新聞2026年3月25日
民法や戸籍法の規定が同性婚を認めていないのは憲法違反だとして、同性カップルらが国を訴えた6件の訴訟で、最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は25日、原告側の上告を受理し、裁判官15人全員で審理する大法廷(裁判長=今崎幸彦長官)で結論を出すことを決めた。
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 LGBTQという言葉が定着し、もはや同性愛は色目で見られる時代ではなくなってきている。私自身はノーマルな人間であり、同性愛は理解できないが、他人のことをとやかく言うつもりもない。世論としては同性婚を認めてもいいという方向に向かっているし、それはそれでいいのではないかと考えている(所詮、他人事だし)。しかし、今回のニュースには少しだけ気を引かれる。大法廷での審理は最高裁が新たな憲法判断を示す場合などに限られるというが、今回はどんな結論を下すのだろうかと思う。

 そもそも婚姻については、憲法で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」(24条1項)と定められている。つまり結婚は親が決めるのでもなく、他人から強制されるのでもなく、ただ結婚したいと願う両性(男と女)の合意のみに基づいて成立すると憲法で定められているわけである。これをどう判断するのか。「男同士」、「女同士」は「両性」ではない。単純に解釈すれば、大法廷でなくても「同性婚は違憲」だとわかる。

 もっとも第9条をめぐる解釈でもわかるが、我が国は解釈改憲が得意である。世の流れは同性婚を認める方向にあるが、単純に憲法を解釈すれば法的には認められない。最高裁はどちらを取るのであろうかと興味深い。そもそも同性愛者はなぜ結婚したいのだろうか。同性婚を認めろと訴訟を起こしているカップルはその理由として、「家族として法的に認められず、相続や税制上の優遇も受けられないことで重大な不利益を被っている」としている。そこは男女間の感情と同じなのだろう。

 男として考えれば、好きになった女性と結婚したいと思うのは普通の感情である。それはいずれ子供が欲しいという思いがあるし、家族にならないと難しい問題も出てくる。相続や税制もそうだが、例えば病院でも「面会は家族だけ」というケースもある。「家族」であることで本人と一体としてみてもらえるのは法律や税制だけではない。結婚は「彼女」と「家族」とを分ける大きな敷居であり、その意味は大きい。それがそのまま同性愛者の感情と考えれば、「結婚したい」という気持ちもよくわかる。

 私自身、現在妻とは別居中であり、大学生の息子が卒業したら離婚するつもりである。長年一緒に暮らすうちにどうも妻の方に私に対する不満が鬱積したようで、それが露骨に態度に出るようになり、耐えられなくなって自分から家を出たのである。しかし、すぐに離婚せずに「家族」に留まる理由は、配偶者控除などの経済的な理由である。息子が学生のうちは余計な支出は回避したい。それに離婚して法的に赤の他人となったとしても、「自分の子供の母親」という地位は揺るがない。ここが単なる赤の他人とは違うところである。「子はかすがい」なのである。

 離婚の条件などは何も決まっていないが、建てた家はそのまま妻のものになるだろうし、それでも住宅ローンは私が払い続けていくだろう。財産は折半というのが原則だろうが、こちらからそれを主張しにくいのは、「自分の子供の母親」が困窮するようなことはやりにくいという思いである。それに家はいずれ子供たちのものになる。となればあまり自分のものにすることにこだわる必要もない。子供がいなければ、「財産は仲良く半分に分けよう」と主張していたと思う。

 離婚したあとどうするのかという人生設計はまだない。誰かと一緒に暮らしたいという気持ちもなくはないが、再婚したいという強い願いはない。相手がいれば、そして相手次第であるが、同棲でもいいように思う。還暦も過ぎれば(加藤茶みたいに年若い相手と結ばれる可能性はないだろうから)、お互いに積み上げたものもある。あえて家族になる必要があるのだろうかと思ってみる。ただ、年齢的には病院のお世話になる確率が高まるし、いざという時に「家族」である必要はあるかもしれない。

 そんな妄想をしていると、やはり単に愛する相手と家族になりたいという精神的なつながりという意味ではなく、「結婚」という「制度」を利用することは必要なのかもしれないと思う。そこに切実な思いを持つ同性婚カップルの気持ちもよくわかる。しかし、憲法は憲法である。どういう判断を下すのか。どちらになるのかという結論よりも、どちらになるにせよその理由に深く興味を惹かれる。今後注目していきたいと思うのである・・・


KanによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか (単行本) / エマニュエル・トッド (著)+[販売店ノベルティー]2024年11月8日発売 国際政治地政学世界情勢日本分析社会教養歴史背景解説思考法実用書 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年3月5日木曜日

アメリカのイラン攻撃に思う

  先週、しきりにニュースでアメリカがイランを攻撃する可能性が報じられていた。どういうルートから情報を得ていたのかわからないが、週末になって実際に攻撃が行われた。ニュースで報じられるからにはそれなりのニュースソースから情報を得ていたのだとは思うが、マスコミがわかるという事は、イランもわかっていたのではないかという気がする。わかっていたからといって防げるものでもないが、危機管理という意味では対応策を考えていたのではないかと思う。それでも指導者を含めて幹部が多く殺害されているのは準備ができなかったのか、それを上回る攻撃だったのか、いろいろと思うところは多い。

 その昔、戦争は宣戦布告をもってなされるものであった。そのタイミングが遅れた日本は、アメリカから「卑怯者」と言われ徹底的に悪者にされたが、現代の戦争はもはや宣戦布告を必要としなくなったのだろうか。それともこれは「戦争」ではないのか。今回の攻撃の目標について、アメリカは①イランのミサイル能力の破壊、②海軍の殲滅、③核兵器保有をさせないこと、④政権によるテロ組織支援を止めることだと説明している。かつての戦争のように相手を降伏させて自国の言うことを聞かせるというものではなくなっているのだろう。それでも体制転換を目指しているようであるから同じことなのかもしれない。

 それにしてもベネズエラの大統領を軍事作戦によって拉致し、今度は核を巡る交渉中にもかかわらず攻撃を行いと、アメリカは好きなように振舞っている感がある。同じことをロシアや中国がやっていたら、アメリカは烈火のごとく声を上げ、経済制裁を呼び掛けていただろうと思う。西側諸国も内心苦虫を嚙みつぶしながら当たり障りのないコメントをしているようだし、高市総理も慎重にコメントをしてアメリカを非難することは避けている。同盟国だから庇うのか、アメリカだから何も言えないのか、おそらくその両方なのだろう。それでいいのだろうかと疑問に思う。アメリカなら何をやっても許されるのか。

 力のある者が力にモノを言わせて己の言い分を通すというのは、もっとも原始的な問題解決である。動物では外から来たオスが群れのリーダーにチャレンジして勝てばその群れの新たなリーダーになれるというものがある。先日横目で見ていたカバについての番組でやっていたが、カバはそういう習性があるようである。もちろん、負ければ群れにも入れずすごすごと去っていくしかない。あるいはリーダーに対して恭順な姿勢を示すというのがあり、そうすると群れに迎え入れてくれるのだとか。番組ではリーダーに負けたカバが恭順を示して群れに入れてもらうシーンをやっていた。

 アメリカがやっている事と同じである。まぁ、人間もカバ同様の生物であり、同じであっても不思議ではない。ただ、アメリカは群れを守るというより、すべてを従えることが最終目標なのではないかと思うくらいである(おそらくそうなのであろう)。今、世の中では多様性ということがしきりに言われている。昔は毛嫌いされていた者もLGBTと称され権利を認められている。しかし、国際社会では話が異なり、それは共産主義や社会主義には当てはまらず、民主主義でもアメリカに逆らうものは許されないという感じである。どの国にも生存権があり、それは互いに尊重されるべきものであるが、(少なくともアメリカは)そうではない。

 なぜ、互いに譲り合うことができないのだろうか。今回、攻撃にイスラエルが加わっているのも象徴的で、イランの核兵器開発はそのターゲットの第一は間違いなくイスラエルであるだろうし、イランはヒズボラを始めとして反イスラエル勢力を支援しているようであるから、イスラエルも自国防衛という意味で便乗したのだろう。中東紛争は憎しみの連鎖で根が深いが、どこかで共存というものが図れないものだろうかと思う。殺し合いを続けてどちらかが敗れなければ共存が図れないというのはあまりにも寂しい。動物は同じ種では殺し合わないようだし、それが生物の本能なのであるなら、人類はそれに反していることになる。

 我が国としては見て見ぬふりしかできないのだろうが、既に「戦費10億ドル突破か 米経済損失33兆円規模の恐れ」という報道(FORBES)も出ている。これは後日、また高額な武器を買えとか、何らかの形でわが国に請求書が回ってきそうな気がする。アメリカの軍事産業もまだまだ大儲けできるのだろうと思う。きっとウハウハしているに違いない。人類に互いに譲り合って生きるという英知は働かないのだろうか。地球上でもっとも賢い生物がもっとも愚かな行動をしているというのが何とも言えずに残念であると思うのである・・・


HUNG QUACHによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  ウロボロスの環 (集英社文芸単行本) - 小池真理子  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年3月1日日曜日

しずかちゃんの入浴について

「日本の性加害の根っこにある」との主張が…『ドラえもん』しずかちゃんのお風呂シーンはなくすべき?論争の実態と、意外と知られていない変化

今回物議を醸したのは、ドラえもんアニメにおいて「しずかちゃんのお風呂シーンをなくすべき」という主張だ。お風呂シーン反対派の意見を簡単に説明すると、
「日本の性加害の根っこにあるのは『のび太がしずかちゃんのお風呂を覗く。そして、しずかちゃんがキャーと叫んでのび太に水をかける』シーンだ。ドラえもんにおいて『お風呂を覗く』シーンを日常的に見て育つからこそ、女性の入浴を覗くことが性加害だと理解できず実行に移す人がいる」
ということらしい・・・
東洋経済オンライン2026.3.1
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 何気なく目についた東洋経済オンラインに載った記事であるが、何もとはやと思わざるを得ない。何でも難癖をつける人はいるものであるが、ここまでくると個人的には笑ってしまうしかない。こういう意見を主張する人はどんな人なのだろうと想像すると非常に興味深い。おそらく女性ではないかという気がする。それも若い女性というより小学生くらいの子供がいる女性というイメージである。人の考えはそれぞれであるから何とも言えないが、男の発想ではないように思える。

 男にとって女性の入浴シーンと言えば、何はともあれ見てみたいというものである。これは本能に根差しているものだからカッコつけても仕方がない。ただ、普通は理性があるからこの衝動を抑えられるが、抑えられない者が犯罪者になる。女性の入浴を覗くことは本能に基づくもので、「性加害だと理解できず実行に移す」ものではない。そこが記事のような意見を言う人のピントがずれている点である。覗く気持ちを理解できる男はおそらくそれを理解できている。だからこのようなピントがズレている意見を述べるのは女性だと思う理由である。

 ドラえもんはそもそも大人向けというより子供向け、それも男の子向けの漫画である。原作者は2人とも男だし、小学生からするとそれはエロティックなシーンというより「面白いシーン」という観点から描かれていると思う。風が吹いてスカートが捲れるようなものだろう。それを見て育ったからと言って、大人になって風呂を覗くかどうかはまた別の問題である。もしかしたら、それを見て真似する小学生もいるかもしれない。しかし、だとしてもそれは性加害などとは別物である。子供の頃に女の子のスカートめくりをしたからと言って大人になってもやるかという話である。

 大人になればさすがに積極的に風呂を覗いて回る大人はいないだろう。いるとしたらそれは本当の犯罪者である。しかし、時と場合によっては理性のタガが外れることもある。私も学生時代、大学のラグビー部の仲間と北海道旅行をした時、どこかの森の中に露天風呂があってみんなで入った。そこは人気のない所で、女性の風呂との境も完全ではなく、身を乗り出せば覗ける環境であった。たまたま女性が入っていたのでみんな覗いていたが、私ともう1人だけはやらなかった。もちろん、覗きたかったが、グッと堪えたのである。

 その当時、私には一つの美学があって、「ジェームス・ボンドのような男になりたい」という思いがあった。「ジェームス・ボンドがこんな所で風呂を覗くか?」と考え、泣く泣く堪えたのである。しかし、そんな私も聖人君子ではなく、その後社会人になって行った社内旅行ではやはり露天風呂で同僚が覗きに行った時には行動を共にした(残念ながら誰もいなくて未遂に終わった)。自分の美学も脆いものだと後で後悔したものである。もしも、目の前にチャンスがあって、バレずに覗けるとなった時に、自制できるかどうかは誰にとっても難しいと思う。

 もちろん、覗きに「性加害である」という意識があるかと問われれば「ない」と答える。女性からは怒られると思うが、男としてはどうしても軽く考えるところがある。されど覗かれる女性の立場からすればやはり許されざる所業であろう。あの社内旅行から30年近く経ったが、多分今なら私もしっかり自制できると思う。それは2つの覗き経験を経てのものでもあり、「コソコソ覗くくらいなら堂々と口説きに行く」という美学復活のためでもある。

 それにしても、ドラえもん連載当時にはそんな事を言う者などいなかっただろう。時代はもっと過激になっているし、むしろかわいいもののようにも思う。覗きが悪い事であることは当然であるが、子供向けの漫画(アニメ)に目くじら立てることの狭量さが気になってしまう。差別語の言葉狩りもそうであるが、本質を外した意見のように思う。そんな本質を外した意見がまかり通り、窮屈な思いをせざるを得ない世の中の方になっていく方に大いなる危惧を抱かざるを得ない。

 記事によれば、ドラえもんにおいてもしずかちゃんの入浴シーンは減っているそうである。それを見たいという訳ではないが、「お約束」の一つとしてあってもいいと思う。それを見て大人になってから覗きに走る人間は、見なくても覗きに走る人間であると思う。子供向けのアニメであるし、もっと寛大になれないものかと残念に思うのである・・・


Suzanne deDisseによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  ウロボロスの環 (集英社文芸単行本) - 小池真理子  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年1月7日水曜日

米軍によるベネズエラ攻撃に思う

トランプ大統領がベネズエラ攻撃「成功裏に完遂した」 マドゥロ大統領と夫人を拘束し国外へ連行したとも
Yahoo!ニュース 1/3(土) 18:42配信
アメリカのトランプ大統領は日本時間3日午後6時すぎに自身のSNSを更新し、ベネズエラの攻撃を「成功裏に完遂した」と発表し、マドゥロ大統領と夫人を拘束した上でベネズエラ国外に連れ出したと発表しました。********************************************************************************************************

 新春早々なかなか刺激的なニュースに触れた。米軍がベネズエラを攻撃し、なんとベネズエラの大統領を拘束して米国内に移送したという。これから裁判にかけるそうで、随分と大胆なことをやるものだと思う。攻撃理由は「アメリカ国内に海から流入する麻薬のほとんどがベネズエラから密輸されている」ということだそうで、これはたぶん建前で本当の狙いは別にあるのだろう。「大量破壊兵器を隠している」としてイラクに侵攻した「前科」があるからなおさらである。麻薬の件は事実かもしれないが、それだけでここまでするとは素人目にも思えない。何か利権絡みの事情があるのだと思う。

 そもそもであるが、アメリカなら何をやっても許されるのかという気がする。これを仮に中国やロシアがやったならアメリカは大層な剣幕で反対するだろう。それに対し、アメリカに対してはおざなりの批判だけで、面と向かって対抗する国はない。それをいいことに、好き勝手やっている。国内の場合、公権力は証拠を上げて裁判所の許可を取って逮捕し、裁判にかけてその罪を問う。日本人であれば、日本人として国から保護される権利を得ると同時に法に従う義務がある。とは言え、何人も令状なしに身体を拘束される事はない。それは国内限定の話である。

 これが国外となると、話は違ってくる。国外では日本の国内法が適用されず、したがってどんな悪事であろうと、国外で行われたものに関しては手が出せない。それは原則どこの国でも同じである。その国の法律はその国の中だけでしか通用しない。今回、アメリカはベネズエラのマドゥロ大統領を拘束したが、その根拠はどこにもない。ましてや裁判となると、なぜアメリカの国内法でベネズエラの大統領を裁けるのかと問われたらその根拠はない。そもそも裁判は成立しない。それをやるというのはもはや筋書の決まった茶番でしかない。

 それで思い出されるのが東京裁判である。戦勝国が敗戦国を裁くというのも同じで、「人道に対する罪」というのを作り出し、事後法の禁止の原則にも反して、勝手に作って勝手に裁くものであった。裁判という形さえ取れば、公平に裁いたとでも言えると思っているのだろうか。アメリカがどんなに自らの正当性を主張しようと、そこに正義はない。ジャイアンに誰も文句が言えないのと同じである。もっともな理由をつけて軍事行動を起こして領土分取り合戦をやっていた帝国主義の時代があったが、世界でアメリカだけがまだその精神で行動している。

 今回の軍事作戦の真の理由であるが、素人にはわからない。いずれそのうち情報が暴露されて伝わってくるのかもしれない。大統領の拘束に終わらず、トランプ大統領は「ベネズエラの安全で適切な政権交代が完了するまで、われわれはベネズエラに駐留し、国を運営する」との意向を明らかにしているから、ベネズエラを自分たちの意に添うように動かすつもりなのだろう。「気に食わない奴はぶん殴って言うことを聞かせる」的な行動で、腕力にモノを言わせるのは見ていていい気はしない。

 力を持つ者はそれに奢ってはいけないと思う。最近、部下から手厳しい意見をもらった。私には私なりの考えがあっての事だが、それをしっかり説明したところ、そうした正論で責められると何も言えなくなるとのこと。仕事であればきちんと考え、正論で議論するのは当然だと思う。私にはそういう正論に基づく意見もあるしそれを通す権限もある。しかし、今回はあえて部下の意見を入れて譲る事にした。正論で通せても部下の満足度は得られない。さらにそれはどうしても私が守らなければならない正論ではない。守るべき正論のためにも、ここは譲った方が部下も満足して働いてくれると考えたのである。

 それが良いのか悪いのかはわからないが、権限だけで意見を通すのは避けようと思っている。自分の意見は意見として相手の意見も聞き、その損得も考えて総合的に譲るべきところは譲ろうと思う。仕事で「腕力」に当たるのは地位に基づく権限だと思うが、それを振り回すのではなく、相手を説得するのではなく納得させられるように振舞いたいと考えている。アメリカの行動を見ていると、その裏に国益追及の精神があるのだろうが、醜いものにしか見えない。自分も役員として自信を持って行動しているが、それがみんなに支持されているかは意識しないといけないと思っている。

 「奢る平家は久しからず」。他人のふり見て我がふり直せではないが、自分自身は大丈夫だろうかと常に身を引き締めていこうと思うのである・・・


GobbleGGによるPixabayからの画像


【本日の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義