2016年12月25日日曜日

大聖堂と椅子職人

イソップ寓話に3人の職人の話というのがある。

ある旅人が、ある町でレンガを積んでいる3人の男に会う。旅人は1人目の男に何をしているのかと尋ねると、男は「レンガ積んでいるんだ」と答える。2人目に同じこと尋ねると、「食べるために働いているんだ」と答える。3人目の男に尋ねると「歴史に残る大聖堂を造っているんだ!」と答えたというものである。

同じレンガを積むにしても、どういう目的意識でやるかによって大きく異なるという話である。これはモチベーションの例として、働く者の立場から語られることが多いようである。確かに、自分自身の話として捉えるのであるならば、「レンガを積む」のではなく、「大聖堂を造っている」という気持ちで働きたいものだと思うし、部下にもそういう気持ちで働いて欲しいと思う。しかし、では「大聖堂を造っている気持ちで働け」と指導すればいいかというと、それだけでは難しいと思う。

先日読んだ三枝匡の「ザ・会社改造」という本に、「椅子職人の悲劇」という話が紹介されていた。
《椅子職人の悲劇》
手作りの椅子をまるごと一つずつ組み立て、それを自分で売る職人は、「顧客満足」に敏感で、技術やデザインを磨く努力をする。しかし、ここに大量生産のため「分業制」が導入され、工場で毎日椅子の脚だけしか作らない作業者が生まれると、作業は他の部品とピタリと合うように規格や品質基準が重要になり、作業者は機械のように働き、モノ作りの楽しさから遠ざかり、顧客の不満にも鈍感になる。

 つまり、自ら「大聖堂を造っている」と思える人もいるが、いつのまにか「レンガを積んでいる」人になっている人もいるということである。というより、ほとんどの人は「レンガを積んでいる」人にさせられているのではないかと思う。会社に入り、「これはこうやる」と「作業」を教えられる。そこで目的意識を持てる人は、「どうしてこの仕事をするのだろう」と考えられるが、真面目な人ほど疑問に思うことなく与えられた仕事を一生懸命こなし、やがて「レンガ積み」職人になるのである。

 本人の自覚だと言ってしまえばそれまでなのであるが、部下を指導する立場に立つのであれば、さらに部下を育成しようとするのであれば、「大聖堂を造る」意識を持つように仕向けたいものである。それは何も難しいことではなく、ただ「仕事の意味を語る」ことではないかと思う。よく部下が知らない情報を握っていることが、部下に対するアドバンテージだという優越感に浸っている上司がいるが、私はそうは考えない。今、会社はどういう方向を目指していて、社長以下の経営陣はどんな議論をしていて、そしてそのためにみんなにどんなことをしてもらいたいと考えていて、だからこの仕事をしてもらうのだと伝えたいと思う。

 たとえば自分が現場監督(リーダー)としてレンガを積む作業を指示する場合、ただ「黙って言われたとおりにしろ」というのと、「ここに大聖堂を造るんだ。今はこのあたりもこんな寂れているが、完成したら人で溢れかえるぞ」と言うのとでは、部下の仕事の出来も大きく異なるであろう。そしてそれは全体の出来、すなわちリーダーの実績の違いとなって表れるに違いない。もし自分がリーダーであるなら、どちらを選ぶかは言うまでもない話である。

 そういうわけで、私は日頃から社長と話していることや、取締役会での議論や自分自身が考えていることをよく部下に語っている。理想としては、自分と同じ情報量を持って欲しいと思っている。そうすれば、私が何を考えているのかも理解してもらえるだろうし、自分でも何をするべきか指示されなくても判断できるだろう。秘匿しておく必要があることもあるが、それはごく一部である。基本はすべてオープンである。

 部下を育成するとはどういうことかと考えたら、基本的に(上司である)自分と同じように考え、判断できるようにすることだと言える(もちろん超えてもいいわけである)。であれば、日頃から自分が置かれた状況でどう考え、判断しているかを一緒に体験すればいいわけである。最終的な椅子を常にイメージし、今自分が作っている脚がそのイメージにあっているかどうか、自分がやっているのは「レンガ積み」ではなく、「大聖堂建設」だと思えるようにする環境を作ることが上司の責任であると思うのである。
 
 そういう上司こそが優れた上司であると思うし、自分自身もそうでありたいと思うのである・・・






【今週の読書】
   
     

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