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2025年3月16日日曜日

中学の同窓会

 中学校の同級生から同窓会をやるという連絡が届いた。前回はコロナ禍前の2017年だからおよそ8年ぶりということになろうか。前回、勇気を振り絞って行き、それなりに思い出のある面々と再会して楽しいひと時を過ごした。中には前回来ていなかったメンバーもいて、卒業以来、45年ぶりの再会という者もいた。名前を聞いても思い出せない者もいて、とうとう最後まで思い出せず、申し訳なく思った。それにしても年月は人の外見を見事に変える。指名手配写真などは月日が経てば間違いなく本人とわからなくなるだろうと思う。

 中学の時は、いわゆるツッパリグループがいて、変に絡まれないかと目を伏せてなるべく関わり合いにならないようにと過ごしていた。今回、同窓会でもできれば会いたくないし、たぶんみんなに嫌われていたから来ないだろうと半ば安心していた。ところが、来たのである。初めはそれとわからず、普通に「誰だろう」と思って話をしていたが、なんと会いたくない筆頭メンバーだったので驚いてしまった。内心の動揺を隠しつつ、表面上は穏やかに話していたが、外見からして羽振り良さそうで、聞けば会社経営者ということであった。

 意外な気もしたが、よくよく聞けば高校にもきちんと行き、頭は悪くなかったようで、社会に出てから真面目に頑張ったのであろう。中学時代は確かに喧嘩番長的なところがあったが、道を間違えずに成長したということなのだろう。一方で、その取り巻きだった者は、高校も定時制に行き、まともに卒業せず消息不明。まともな道には進まなかったらしいという話も聞いた。同じように悪い仲間にいても、まともに社会に出る者と道を外れてしまう者との差は、やはり考え方、意識の違いだろう。その会社経営者は私もよく知る同級生の女性と結婚したと聞いて2度驚いた。

 小学校から好きだった女性とは今回も再会できて感慨ひとしおであった。孫も5人いて、それなりに幸せそうであった。小中学校でかわいかった子は、大人になっても美人になるのだろう。当然と言えば当然。そうでなかった子も大人になればそれなりに綺麗になるものだとは思うが、還暦を迎えても見惚れてしまうのはやはり元がいいという事に尽きるだろう。聞けば私がまだ学生の頃に早々に結婚したと言う。交わる事のなかった互いの人生が何となく恨めしい気もする。

 訃報も一件あった。前回も来ていた者だった。同じように生きてきて、途中でそれが終わってしまう。本人もそういう未来は予想もしていなかっただろう。人の寿命はそれぞれだから不思議ではないが、その運命の違いに何とも言えないものがある。本人もたぶん8年後の同窓会に自分が参加できないとその時は想像もしていなかっただろう。考えてみれば、そういう自分も未来は永遠に続くわけではないが、いつになるかわからないが、次にやる時も出席したいし、親よりは長生きしたいと思うだけである。

 今は便利な時代。好きだった子とは2人で記念の2ショットを撮らせてもらい、LINEを交換し、LINEグループにも招待してもらった。次回があればまた誘ってもらえるだろう。それにしても話しかけられ、親しげにあれこれと思い出話をしてくれた友人がいたが、名前を聞いても最後まで思い出せなかった者がいた。名前を聞くとだいたい昔の記憶が蘇ってきたのだが、その者だけはどうしても思い出せなかった。帰ってきて卒業アルバムを引っ張り出して探してみたら、何とクラスメイトだった。昔の顔を見たら何となく思い出したが、考えてみればそれほど仲良くしていたわけではないから無理もない。

 中学時代に仲が良かった者とはさすがに話が弾んだ。卒業後の人生はそれぞれ。毎日のように遊んでいたのに、卒業してプッツリと関係が途切れてしまったのも寂しい気がする。もっとも高校に行って新しい友人ができ、ラグビーも始めてそれなりに充実した日々だったから無理もない。共学だったからそこにはまた魅力的な女の子もいたし、初めて彼女ができたのも高校に入ってからだった。ツッパリグループもいなかったし、楽しい毎日だったからそれはそれで良かったと思う。

 それにしても時を経てこうして昔の同級生に会うというのもいいものだと思う。仲の良かったメンバーとはまた別に飲みに行こうと約束をして別れた。自分の過ごした時間を共有した仲間だし、また会いたいと思う。会いたくなかったツッパリグループの一部のメンバーとも握手して別れた。自分の歴史の一部でもあるし、これからも大事にしたい繋がりだと思うのである・・・

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【今週の読書】
頭のいい人だけが解ける論理的思考問題 - 野村 裕之 世界は経営でできている (講談社現代新書) - 岩尾俊兵 〈他者〉からはじまる社会哲学 - 中山元





2024年8月28日水曜日

友人K

 友人Kは、私の銀行員時代の友人である。銀行内の研修で隣に座ってからの仲で、いろいろと共通点が多く、その場で意気投合。後に同じ職場になった事からも親しくしてきた。私が銀行を辞めてからも何度か2人で飲みに行ったりした。しかし、最近は疎遠になってしまっている。お互い職場が違うというのもあるが、それ以上に何か私の方が原因で彼に距離を置かれてしまっているような気がしてならない。何度か誘ってはみたものの、多忙との事で色よい返事はなく、返事すらなかった事もある。鈍い私でも何となく感じるところがあってそれ以上声はかけていない。

 もしかして私の気のせいで、本当に忙しかったのかもしれないし、メールも見ていないか気がつかないのかもしれない。ただ、何となく感じるだけなので何とも言えない。はっきりとわかればいいのだが、もしも会いたくないのなら直接言うのも憚られる事だろうし、たぶん私が知ることはできないのだろう。そういう相手が他にも1人いるし、私にも良くないところがあるのだろう。何がいけなかったのかと考えてみるも、残念ながらこれと言った原因は思い浮かばない。

 あれこれと考えてみると、まったく思い浮かばないという事でもない。何かと考え方も同じで息が合った彼であるが、唯一意見が合わなかったものがある。それは「仕事に対する考え方」であった。私は仕事は楽しいし楽しむものという考え方だが、彼は仕事は辛くて厳しいものでありやりたくないものという考えであった。退職してから何度か彼と飲みに行ったが、私は仕事が楽しいという話をしたと思うし、彼もそれに対して異を唱えていなかったが、内心では快く思っていなかったのかもしれない。

 退職後の収入も違っていた。銀行員時代は同じ職責だったのでほぼ給料は同じだったと思うが、私が退職し、彼が子会社に転籍して収入に差がついた。お互いに年収はダウンしたが、私は3割減、彼は半減という感じである(ちなみに今は銀行員時代の年収にほぼ近い)。銀行は52〜53くらいを目途に関連会社に移るか他社に転籍するか、銀行に残るにしても一旦退職して退職金をもらい特別職員となるのである。そこで年収はぐっと下がる。銀行としては人件費を抑える必要もあり、そういう制度を設けているのである。彼は関連会社へと転籍したのである。

 銀行というところは、心穏やかに働けるところではない。全部の銀行とは言わないが、最近読んだ『メガバンク銀行員ぐだぐだ日記』によると、みずほ銀行(筆者は富士銀行出身)でも似たような状況だったので、どこもかしこも似ているのかもしれない。何より一番のストレスは人間関係である。私も仕事自体は面白いと思っていたが、特に上司との関係は最大のストレス要因であった。簡単に言えば意見が合わないのである。

 意見が合わないのは仕方ない部分もあるが、私の建設的な意見を「石橋を叩いても渡らない」的な保守的・保身的考えで否定されるのは本当にストレスであった。そんなエピソードは数えきれないほどある。彼ともよく互いの愚痴を言い合っていたが、転職後は私はそういうストレスからは解放されてのびのびと仕事をした(前職では「そうせい候」の社長の下、ほとんど1人で会社の経営を担っていたほどである)。それを彼に楽し気に語ったのが面白くなかったのかもしれない。

 彼は仕事を続けたくなかったのだろう、今年定年退職している。私はと言えば、住宅ローンも残っているし、息子はまだ大学生だし、定年退職など夢のまた夢であるからうらやましい限りではあるが、たとえゆとりがあったとしても仕事は続けるだろう。それは仕事を楽しめている(ストレスを感じていない)からに他ならないが、その点でも彼とは話が合いそうもない。たぶん、飲みに行ってお互いに現況報告になったら、彼に不快な思いをさせてしまうのかもしれない。

 すべては想像でしかない。本当のところはよくわからない。私の方にはなんのわだかまりもないが、彼の方には何か私の気づかないものがあるのだろうかと思ってみる。それがあるのであれば、何だろうかと知りたいと思う。ただ、上記に想像した仕事に関する価値観の違いであれば話が弾むことはないのかもしれない。そう言えば同じ職場であった頃は、共通の上司のダメさ加減の話題で盛り上がっていたのを思い出す。いつかまた飲みに行ける日がくれば、あの時のダメ上司の話なら盛り上がれるかもしれない。そんな関係にまたなれたらいいなと、今は思うのである・・・


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【本日の読書】

ひこばえ(下) (朝日文庫) - 重松 清 グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない (&books) - ロバート・ウォールディンガー, マーク・シュルツ, 児島 修




2022年8月24日水曜日

人間性

 現在、前職のT社長とは法廷バトルを展開している。そもそもの発端は、前社長が会社を売却してしまったこと。事前に何の相談もなく、ある朝突然全社員を集めて発表するというやり方であった。退職金はなし(理由は退職金規定がなかったから)、退職時期は2ヶ月後。希望者は知り合いの社長(一応、上場会社)に雇用を了承してもらったから自分で履歴書を持って行ってほしいというもの。当然、大ブーイングである。その後の交渉で、1人あたり退職金50万円を認めたものの、中には勤続20年近い社員もいて、納得感はゼロであった。

 そもそも入社したのは、母高のS先輩の紹介。といってもT社長も同じ母高の先輩で10年来の顔見知りであった。赤字会社であることは承知で銀行から転職した。小さな会社だったが、私には「鶏口となるも牛後となるなかれ」という考えが昔からあったので、「面白そうだ」と大胆にも思ったのである。そして、仕事自体は確かに面白かった。T社長から仕事をほぼ任せてもらえたので、会社の経営はすべて代行して行った。結果、私の入社前に8期のうち6期赤字だったものを6期連続黒字に変えたのである。

 もともとT社長は、親が会社を上場させた成功者であり、そのためいわゆる「金持ちのボンボン」として育つ。親が残した遺産でお金だけは億単位で持っていたが、おっとりしていて経営に関してはほぼ素人であった。その代わりお金に関しては執着心が強く、ゆえにM&Aによって会社を売却し、億単位のお金を手にしたのに8人の社員には1人50万円の退職金を渋々出すという有様であった。もしも私であれば、億単位のお金を手にするなら、一人当たり0ひとつ多く出すだろうと思う。

 そういう人柄がわからなかったのかと言えば、6年半一緒に働いてわからなかった。ただ、今にして思えば思い当たる節はある。机を整理していて自分の父親の運転免許証が出てきた時のこと、T社長は迷うことなくそれをゴミ箱に放り入れた。この感覚は私にはない。『ありえないレベルで人を大切にしたら23年連続黒字になった仕組み』という本に共感し、T社長に読んでもらったところ、「俺にはここまで(社員を大切に)する考えはない」と言いきった。

 また、高校の同級生を社外取締役にしていたが、その同級生が退任後、お金に困ってT社長に300万円の借金を頼んできた。その話を私にしながら、「返ってくると思うか?」と尋ねてきた。元銀行員の感覚から、貸すなら返済を期待しない方がいいと思ってそう答えたが、T社長はその場で断ったそうである。「泣かれて困ったよ」と半ば愚痴のようにこぼした。ちなみに、断られたその方はS先輩に頼みに行ったそうであるが、S先輩は困惑しつつも貸したそうである(後日返してもらったと言う)。S先輩は普通のビジネスマンの身分である。

 私であれば、親しさにもよるが、自分の会社の社外取締役を頼むくらいの間柄なら、無理のない金額で貸すだろう。少なくともゼロ回答はない。条件として、「例え返せなくても飲みに行く間柄は維持しろ」と言うだろう。それで友達を失いたくはない。T社長にとっては、友人関係よりお金の方が大事だったということだろう。例え損をしたとしても、その金額が自分に悪影響を与えるほどのものでなければ、困っている友人を助ける方が気分もいいと思うが、T社長にとってはそうではないのだろう。「お金には変えられないものがある」とはよく言うが、T社長にはそんなものはないのだろう。

 また、親の代から家族ぐるみである人と付き合っていたそうであるが、その人が数年前に金融証券取引法違反で逮捕された。T社長も我が社も関係を疑われて検察の取調べを受けたが(きちんと関係ないことは認められた)、それを機にT社長はその人とキッパリ関係を絶った。最初のうちは弁護士に接触しない方がいいとアドバイスを受けたことによるものであるが、ほとぼりが覚めて、後日お詫びを兼ねて連絡があった時も嫌々ながら弁護士を同席させて会ったそうである。私なら弁護士がなんと言おうと、無条件で会って励ますだろう。

 よく、窮地に陥った時の友こそ真の友と言われるが、T社長は真っ先に逃げ出すタイプである。おそらく、T社長には窮地に陥った時に友人などに我が身を顧みず手を差し出すなんて感情などないのだろう。いわんや社員の「使い捨て」を気にするようではない。私の感覚から言えばとても信じ難いのであるが、そういう人間性なのである。もっとも、本人はそれのどこが悪いという感覚であろうし、人の感覚は違って当たり前なので悪いとは言わない。強いて言えば、人間性の違いと言える。

 同じ高校の後輩を使い捨ての形で首を切り、そんなことをすれば同窓会での評判が悪くなるであろうにまったく気にする素振りもない。立派と言えば立派である。であれば、法廷バトルも遠慮はしない。徹底抗戦しようと意気込んでいる。世の中には色々な人がいる。冷たい心の人もいれば温かい心の人もいる。冷たい人を恨んでも仕方がない。温かい人とのみ交われば良い。少なくとも自分から人を裏切ることはせず、困った友には手を差し伸べられるようでありたい。そして願わくば、助け上げられるだけの「力」を持ちたい。「知り合えてよかった」と思われる人間でありたい。

 還暦が近づいてきている年であるし、自分自身に後ろめたくない人間、子供に対して恥ずかしくない人間。自分はそういう人間でありたいとつくづく思うのである・・・


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【本日の読書】

 


2019年12月18日水曜日

同姓の他人

私の名字はわりと珍しい方である。なにせ今日まで55年生きてきて「同姓の他人」には2人しか会ったことがないくらいである。と言っても、全国で希少というほどではなく、たとえば以前の職場(銀行)では名簿を見ると5人くらいは名前があったし(でも会ったことはない)、高校の同窓会の名簿を見てもそのくらいの人数の「他人」はいる。また、たまたま通りかかった家の表札を見かけたこともあるから、全国的にはそれなりにいるとは思う。ただ、会うのは珍しいほど少ないということであろう。

過去に直接お会いした2人の「同姓の他人」うち、1人はトヨタの修理スタッフをしていた人で、当時乗っていたカルディナを購入した店舗に持って行った時に偶然お会いした。もう1人(というか家族)は、なんとグアムのプールでであった。当時小学生の我が息子が、名前入りの帽子をかぶって走り回っていたところ、それを見た相手家族の奥さんが「珍しい!」と声を掛けてきたのである。わざわざ異国で見ず知らずの他人に話し掛けたくなるくらい珍しいという証明である。「佐藤」さんや「鈴木」さんがこんなことをやっていたら大変なことになる。

また、初対面で名前を名乗った時に、「どちらのご出身ですか?」と聞かれることがある。こういう時は相手もそれなりの心当たりがある場合が多く、「(私は東京ですが父は)長野県の富士見です」と答えると、「あぁ、やっぱり」となる。事実、長野県の富士見にはこの名前の人が多い。なんでなのかと考えてもその理由はよくわからない。同じ名前の遺跡が長野県にあるので、そこと何かつながりがあるかもしれない。

そんな私の名字なのであるが、先日、とうとう人生3人目の「同姓の他人」にお会いした。その方は高校の先輩。たまたま私の名前を同窓会の会報で見かけたということで連絡をいただいたのであるが、せっかくだからお会いしましょうとなった経緯である。初めは遠縁ではないかと思われたらしいが、お話を伺うと長野県の富士見ではなく、岐阜の方であった。その方はいろいろと我々の名前の由来を調べたらしく、遡れば遠く平家に由来するらしい。真偽のほどは定かではない。ただし、「名前」が平家に由来するとしても、DNAはわからない。なにせご先祖様は(少なくとも江戸時代は)、農民だったはずだからである。

士農工商の歴史は小学校で習うところであるが、「名字帯刀」が許されていたのは基本的に武士のみに限定されていたと習っている。明治初期に名字が解禁されるまでは、権兵衛や吾作の類だっただろうから、名前の由来を考えるのなら、明治の時代にご先祖様が何らかの考えでもって我が名字を選択したのだろうと思う。ちなみに、曾祖父の時代(明治後期)は、我がご先祖は桶を作っていたということで、「桶屋」と呼ばれていたらしい(とは父の談である)。名字ではなく、職業や屋号で呼び合う習わしだったのだろうと思う。

今から考えると惜しいことをしたもので、もしかしたら亡くなった祖父であれば、我が家系の名字(を名乗るに至る経緯)について何か知っていたかもしれないと思う。祖父は明治39年、曽祖父は明治13年の生まれであり、明治8年の「平民苗字必称義務令」のあとのことについて、おそらく何か記憶していたのではないかと思うのである。もしも、何かそのあたりの経緯を聞いたなら、面白いエピソードが聞けたかもしれないと思う。

そんな我が名字であるが、本家は既に私の従兄で途絶えてしまう。次男である父の家系は私と弟が受け継ぎ、順当にいけば息子と甥が引き継いでいく。いつか息子か孫が名前の由来について興味を持った時のために、少し調べておくのもいいかもしれないと思ってみたりする。これから少子化の世界。我が名字はどうなっていくのだろうか。まぁ自分の死んだ後の世界のことを案じても仕方がないし、せいぜい孫子の代まではしっかり見守りたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 文芸オタクの私が教える バズる文章教室 (サンクチュアリ出版) - 三宅香帆 そして、バトンは渡された (文春文庫) - 瀬尾 まいこ




2019年12月5日木曜日

一緒に働きたい人

先日、かつて務めていた銀行時代の集まりがあった。集まったのは、銀行に入って最初に転勤した時の融資外為課のメンバーである。実は昨年、同じ支店時代の支店全体の集まりがあって、20人くらいが集まったのであるが、今回は規模を縮小し、同じ課だけでこじんまりと集まった次第である。この手の集まりの常であるが、昔話に花が咲き、実に楽しいひと時であった。またやりましょうと約束し合って散会した次第である。

銀行員は転勤の多い種族だと思うが、私も支店だけで4カ店、出向2回(2社)、本部セクション数か所を経験している。しかし、こうしたかつての集まりが続いているのはこの時の支店だけである。もちろん、他の部署でも個人的に今でも親しくさせていただいている人はいるが、部署ベースとなるとこの1カ店だけである。他にもやはりかつての部署で集まっているという話を聞くこともあるが、こうした集まりが続く秘訣は何だろうかとふと考えてみた。

1つにはやはり中心となって汗をかく「幹事」の存在だろうと思うが、いくら幹事が汗をかいてくれても「行きたい」と思わなければ人は集まらない。そう考えると、大事なのは「この人に会いたい」という存在が大きいと思う。そしてそれはその人の「人柄」に負うところが大だろうと思う。たとえば今回集まったのは5人であったが、私が参加した理由は、他の4人がみな「会って話がしたい」と思える人たちであったからである。昨年、大規模に集まった時もそう思えるメンバーが何人かいたので「参加してもいい」と思ったのである。そうでなければ行かない。

事実、何年か前に大学のクラス会に誘われたことがある。熱心に誘っていただいたのに、申し訳ないことに私は欠席した。それはその当時のクラスのメンバーに魅力を感じなかったからであり、「会いたい」と思う人物がいなかったからである。それはたとえば最初の支店のメンバーでも、一部若手の集まりであれば参加するだろうが、当時気が合わなかった支店長を始めとして、直属の上司や営業の人たちや同じ融資外為課の中でも一部の人が来るならご免である。

「職場は仲良しクラブではない」とは、最初に配属された支店の直属の上司に言われた言葉であるが、その方は言葉通りに仕事はよくできたし、仕事に関しては厳しい方であった。それを間違っていると否定するつもりはないし、むしろその通りだと思う。だから、仕事を離れたところでは会いたくないと思う。プライベートで会うなら「仲良しクラブ」のメンバーだろう。そう考えると、果たして一緒に働きたい人の条件は何だろうか。「仕事ができる人」は確かに頼りにはなるだろうが、では人柄は関係ないかと言われればそんなことはない。事実、その時の直属の上司と一緒に仕事をして楽しかったということはないし、それどころかもう一度一緒に働きたいかと言われれば、「No!」と即答である。

たとえばスポーツに置き換えてみる。一緒にプレーしたいと思うような仲間はどんな人間であろうか。私の場合、それはやはり「一緒にやってて楽しい人間」と答えたい。実力のある人間同士が互いにミスをしないように緊張関係を保ちながらやるよりも、ミスをカバーし合いながらも一緒に勝利に向けて頑張れる仲間が好ましいと思う。チームとしての力は劣るかもしれないが、勝利のために実力本位でチームを組むよりも、気の合うメンバーでひたすら勝てるように努力する方がはるかに「楽しい」。

スポーツでも仕事でも大事なのは勝つことであり、よく多くの収益を稼ぐことである。であれば実力のある人間と組んだ方がいいに決まっている。しかし、それでもやっぱり一緒にプレーし一緒に仕事をするならば、気心の知れる相手がいいと思う。たとえそれで負けてしまったり、目標を達成できなかったりしたとしても、である。5人で集まって昔話をしても、その内容は収益目標がどうだったかというようなことは欠片もなく、あんなことがあった、こんなことがあったという笑い話などである。そういう話ばかりだから楽しく過ごせる。

勝つためのメンバー、勝てるメンバーこそが大事と言われれば、それを否定するつもりは毛頭ない。ただ、いろいろ経験してきた中で、個人の意見として「一緒に働きたいメンバーは?」と問われたならば、「人柄中心に考えたい」と思うだけである。それではチームの力が劣るというなら、その分自分が頑張れば良いわけで、そういう頑張りなら楽しく頑張れるだろう。そういう意味でも今の職場は居心地がいいと思う。これからまだまだサラリーマン人生は残っているし、居心地のいいメンバーで楽しく働きたいと改めて思うのである・・・


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【本日の読書】
 読みたいことを、書けばいい。 - 田中 泰延 過酷なるニーチェ (河出文庫) - 中島義道




2018年5月10日木曜日

30年

大学を卒業したのは1988年の3月。つまりちょうど30年前である。この春は私が社会人になって30年目の節目となる年なのである。30年前、大学を卒業した私はそのまま都市銀行に入行。同じ大学から一緒に入行した同期は22名であった。全体で何人入行したのかは忘れてしまったが、有名私大ほどではなかったにしても結構多い方だったと思う。その時の同期の仲間と久しぶりに再会した。

 集まったのは、現在東京に勤務している者14名。14/22だからわりと集まった方だと思う。これだけ集まったのは、内定が決まってからみんなで「拘束旅行」として連れていかれた時以来だろうと誰彼ともなく声が上がったが、事実、入行してからこれまでみんなバラバラの道を歩いてきている。関東配属組と関西配属組に別れたところから始まり、独身寮もバラバラ、おまけに配属支店もバラバラだったから余計だろう。

 個々には会っていたりする仲間もいたが、早々に辞めた者など20年ぶり、あるいはほとんど入行以来という仲間もいて、それはそれは懐かしい集まりであった。久しぶりの集まりとなると、気になるのはお互いの容姿の変貌。昨年暮れに高校の先輩の集まりに参加したが、ほとんど37年ぶりに会った先輩の中には、まったくその人とわからない人もいたからである。それについては、髪の毛とお腹周りが笑ってしまうほどの変化のある者もいたが、それほど酷い変貌がなかったのが残念でもある。

 もう1つ気になるのはお互いの現状。なにせ銀行は50代前半でほぼ銀行内でのキャリアを終える。そこから一度退職金をもらって、関連会社か一般の事業会社を紹介してもらって「転籍」する。体のいい人件費削減策(あるいはポスト確保策)であるが、銀行に残っているのは少数派である。そして互いの序列についても微妙な雰囲気が漂う。やはり同じ大学を出ていたとしても、それぞれの歩みの中で出世するスピードも異なる。同期だから飲み会の時は昔と同じだが、同じ職場で働くとなったら「身分の違い」がはっきりと表れる。

 私はもう銀行を退職してしまっているから関係ないが、男の場合、どこかでそういう「お互いの地位」を意識することがある。別にそれで態度が変わることはないが、どこかで意識し合っているのは確かだと思う。ただ、それもみんな銀行を退職、あるいは転籍して離れてしまうまでなのかもしれない。少なくとも、自分はもう気にならない。確かに転職したところは小さな中小企業に過ぎないが、それでもある程度自分に自信があると不思議なことに引け目は感じない。

 転籍仲間は、従業員2,000~5,000人なんて規模の大きな会社に行っているのもいて、会社の規模では私とは蟻と象くらいの差があるが、毎日楽しく充実して仕事をしていると、そういう規模の差も気にならない。会社を発展させるのも自分の腕一つだし、うまく生き残っていけば定年など関係なく働ける。「鶏口となるも牛後となるなかれ」ではないが、ストレスもなく働けるいい環境が一番だと思う。

 30年前には想像もできなかった互いの姿であるが、久しぶりに空白を埋められていい機会であったと言える。これからみんな暇になるし、また集まる機会も増えていくかもしれない。大学時代はほとんど互いに交流もなく、ただ「同じ大学を出て同じ銀行に入った」という間柄ではあるが、これもまた一つの繋がりと言える。今年の目標の一つとして、「友人に会う」を掲げていたから迷わず参加を決めた(そうでなかったら行かなかったかもしれない)が、行って良かったと思う。

 これからこういう「再会」も増えるかもしれない。それについては、迷わず参加するようにしようと、改めて思えた一夜であった。それとみんな互いに人生の終盤戦に向かって、今度は出世競争ではなく満足の行く人生を送る競争となる。新たな競争のスタートに、こちらではみんなに負けないようにしたいと思うのである・・・ 




【本日の読書】
 朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』 - 崔 吉城 ボクたちはみんな大人になれなかった(新潮文庫) - 燃え殻





2017年8月24日木曜日

批判するのではなく・・・

下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番にしておかぬ。
小林一三
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先日の事、久しぶりにSに会った。Sは悪い人間ではないのであるが、とにかく仕事の愚痴が多いのが玉に瑕な人間である。以前からそうなのであるが、今回もまた今の部署での上司批判のオンパレード。Sも仕事はよくできるのだと思う。だから上司の粗も目に付くのであろうし、言っていることは間違いないのだろうし、その上司とやらも確かにあまり仕事はできないのかもしれない。

ただ、だからといってそれでいいのだろうかと言うとそうは思わない。自分だったらどうするだろうと考えてみた。自分も就職以来、いろいろな上司に仕えてきた。上司として優秀な人もいれば、そうでない人も当然いた。銀行員時代は、やはり周りはそれなりに優秀な人が揃っていたので、上司もそれなりの人が多かったが、中にはやはり首を傾げたくなるような人がいたのも事実である。だが、だからといって愚痴っていても仕方がないと考えるように私はしてきた。

今でもそうだが、私の上司は社長であり、そして社長と意見が合わないのは日常茶飯事である。大抵は議論の末、説き伏せて思う通りにしているのだが、議論をするのも疲れるもので、こちらの考えをスムーズに理解してくれたらと苛立たしく思うこともなくはない。ただ、そこはお互いに考え方もあるので、じっくり議論するしかない。批判的な気持ちも湧いてくるが、それよりも「どう説明しようか」に頭を使った方がいいと考えている。説得できなければ、それは相手の責任ではなく、「自分の能力」の問題である。

Sの話を聞いていると、そこに感じられるのは視野の狭さだ。例えばSの上司はプレイング・マネージャーのようである。つまり、マネージャーであると同時に自分もプレーをしているようである。そしてそこはその上司にとって初めての部署で、慣れない中、プレーもやらされているようである。そしてSはその部署に長年いて、当然プレーヤーとしてはそこそこの働きをしている。そんなわけで、上司のプレーの粗が目について仕方ないようである。

そこでの上司批判となるわけであるが、上司の本業はマネジメントであって、プレーではない。たとえある程度やらなくてはならないとしても、プレーヤーとして求められているわけではない。その部分はSら「優秀な」プレーヤーがやればいいわけで、上司はそれでもカバーできない部分を自らがプレーヤーとして埋めているようである。ならば、自分がSの立場であれば、なるべく上司の分をカバーし、負担させないようにしてやればいいと思う。プレーの部分では自分が中心となって全体が動くようにするなど、視野を広くすればいくらでもやることはあるように思う。

そこがSの限界なのだと思う。Sの視野から見える世界では、上司は頼りなく仕事もできない人である。そしてその世界の中心にいるSにとっては、「自分の方が優秀なのに立場は下」という不条理が成り立っているのである。だが、視野を変えれば世界の姿もまた変わる。優秀な上司の元でスムーズに仕事ができるのは確かに理想的だろう。だが、そこの中心は「優秀な上司」であって自分ではない。しかし、無能な上司の下でいかにチームとして優秀な成績を上げるかを考えれば、その中心は自分である。無能な上司を嘆く前に考えることは山ほどあると思う。

結局、今回もSの愚痴に付き合わされた。そういう欠点はあるものの、Sには付き合い続けたいと思う良さもある。人の考え方を直させようとするほど自惚れてはいないが、反面教師としては、なかなかいい教師でもある。我が身の手本として、いい部分も悪い部分もひっくるめて、Sとは付き合っていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 日本経済入門 (講談社現代新書) - 野口悠紀雄 心に残る物語――日本文学秀作選 見上げれば 星は天に満ちて (文春文庫 あ 39-5 心に残る物語-日本文学秀作選) - 浅田 次郎






2017年3月27日月曜日

私が影響を受けた人

 人はいろいろな人に影響を受けて育つものである。かくいう自分もいろいろな人から影響を受けている。先日、高校のラグビー部OBの試合に参加した。そして久しぶりにお会いしたH先輩(大学のH先輩とは別人である)も高校生だった私が影響を受けた人の一人である。

高校に入学し、ふとしたきっかけでラグビー部の門を叩いた私の前に現れたH先輩は当時3年生でキャプテン。新入生には眩しい存在だ。練習はキャプテンの指示のもと行われていたから、当然その一挙手一投足に目がいく。ラグビーは当然うまいし、キャプテンシーもあって、自分もかくありたいと思ったものである。

その想いから、必然的にポジションもH先輩と同じナンバー8を選んだ。コーチには、体格的にはフランカーとか、運動神経も良かったからバックスも勧められたが、あくまでもナンバー8を希望した。幸いそれほどライバルもなく希望は叶ったが、それは卵から孵った雛が最初に目にしたものを親だと思うのと同じようなものかもしれない(その後大学に入るとさすがにフランカーに移ったが、それはそれで良かったと思う)。

H先輩の影響は、ラグビーだけではない。そのユニークなキャラクターだ。もちろん、現役中はどちらかと言うと怖いイメージだったのだが、引退して受験モードに入ったあとは気軽に接してもらえるようになった。その時、初めて「素」に戻った先輩と接したのである。練習後にみんなで行きつけの喫茶店に行くと、H先輩らもなぜか受験の息抜きと称して来ていて、そこでH先輩の「本当の姿」を見たのである。

H先輩は、常に話の中心にいて、その話が面白いのなんのと。初めこそ練習中のイメージと違って戸惑ったのだが、慣れたあとはその「トーク」を楽しんだ。何と言っても一年坊主だし、隅で聞いているのが精一杯だったのである。H先輩はそんな隅っこの私を目ざとく捕まえては、よくダシにしてくれた。「お前暗いから一日一つ何か面白いことを言え!」。

そんなことを言われても、力なく笑うしかなかったが、先輩のトークは聞き流すだけでも効果があった。もともと父に似て無口だった私だが、大学に入り合コンに参加した際は、軽快なトーク(と自分では思っていた)を披露して女子大生の笑いを取れたのは、間違いなくH先輩のおかげである。「スピードラーニング」が、「聞き流すだけで英語が話せる」という謳い文句の宣伝をしているが、「聞き流す」だけでしゃべれるようになったのは事実だから、効果があるのは間違いないと断言できる。

ビールを飲みながら久しぶりにH先輩のトークを聞いていたが、相変わらずの面白さだった。大学を卒業したあと、大手製薬会社に入社し営業マンとなったH先輩だが、営業成績も良かったという。それはとりもなおさず、先輩のキャラクターとトークの結果だろうと思う。自分はといえば、影響を受けたとは言え、もともとは物静かで無口であるから先輩ほどの営業力は身につかなかったと思う。せいぜいが、社内でそれなりの人間関係(特に女性)を作るのに役立った程度である。だが、それでも大いに役立ったのは事実である。

先輩のトークは、やっぱり何年経っても自分が到達できる領域のものではない。だが、間違いなく自分の欠点を補ってくれるものであった。考えてみれば、キャプテンとして眩しい存在で、カッコよくて、だから同じポジションを志望してという流れがあったのが良かったかもしれない。最初からおチャラケた素顔を見てしまっていたら、距離を置いていたかもしれない。

先輩のトークの洗礼を浴びていなかったら、自分はどんなキャラクターになっていただろうとふと思う。多分、無口で根暗で、高校時代に付き合っていた彼女から「何考えているんだかわからない」と言われたことがあるが、どちらかというとカタブツのそういう人間になっていたのではないかと思う。そうしたら、自分の人生ももっとつまらないものになっていたかもしれない。

考えてみれば、それもありがたいことだと思う。今年は同じラグビーチームに入れてもらうことになっているが、そうすると接する機会も増え、相変わらずのトークを聞く機会も増えるだろう。それがさらなる影響としてわが身に現れるかどうかはわからない。ただ、もうすでに十分な恩恵を被ったことだし、今度その感謝の気持ちを伝えてみたいと思う。その場で先輩を笑わせられたら、高校時代果たせなかった課題をようやく果たせるのかもしれない。

先輩とは、末長くお付き合いさせていただきたいと、つくづく思うのである・・・


【今週の読書】
 雪煙チェイス (実業之日本社文庫 ひ 1-3) - 東野圭吾 投資家の父より 息子への13の遺言 - 高橋 三千綱 危険なビーナス (講談社文庫) - 東野 圭吾





2016年9月4日日曜日

数学を学ぶ際の心得8箇条

昨日は、高校の同期会であった。クラス担任の先生とは卒業以来の再会で、その他の旧友たちとも楽しい再会のひと時であった。数学の担任であったN先生とは前回以来4年ぶりの再会。N先生は、私が所属していたラグビー班(普通の高校の「部」に当たるものである)の顧問の先生でもあった。ラグビーの「ラ」の字も知らないN先生だが、休みの日の試合にも引率で来ていただいたこともあり、当時から、そして今も感謝の気持ちが絶えない。

そんなN先生とは、私が今でも数学が好きであること、高校一年の娘が「確率がわからない」と言っているのを聞き、私も本を借りてきて改めて勉強し直していることを伝えた。そうすると、酔っ払いつつも目をキラリと光らせたN先生は、おもむろにA4の紙の束を取り出して私に差し出した。見れば「数学を学ぶ際の心得8箇条」と名打っている。それまで7箇条だったのだが、最近一つ加えたのだと教えてくれた。

【数学を学ぶ際の8箇条】
1.        別解・別証明を幾通りも考えよ
2.        逆は成立するかを考えよ
3.        類題を研究し、一般化及び特殊化を図れ
4.        答案作成・プレゼンテーションの練習をせよ
5.        論理の流れを大局的に捉えよ。その際、順不同が成立するかを考えよ
6.        なぜその考え方に気づいたのかを考えよ
7.        なぜそれを学ぶかを考えよ
8.        失敗・行き詰まりを記録し、その理由の分析を何度も試み、分析が進んだ範囲でその都度その分析を記録して公表せよ

 先生はすでに現役をリタイアされている。だが、まだ数学の研究は続けているという。いただいた資料の中には、数学の問題がいくつも載っていた。
『a≧b>0,r>0とする。半径の大きさがrの動円が楕円x2/a2+y2/b2=1に外接しながら楕円を一周するという。この時
①       動円の掃過する領域をFとする時、Fの外周曲線の方程式とその長さとを求めよ。
②       ①のFの面積を求めよ
③       ・・・・』
そして最後には、これからの類題や解答例をインターネットで発信してみたらいかがかと呼びかけられている。また、数学オリンピックを始めとした各種オリンピックへの出場を考えている人への提案もなされている。正直言って、文系の私にはついていけない世界だ。

しかし、にもかかわらず、昔から、そして今もなんとなく数学は好きなのである。年度始めには、子供達に教科書を見せてもらうことがあるが、その時じっくり見るのが歴史と数学だ。この二つは「できる」「できない」ではなく、「見たい」「知りたい」という気持ちが働く。昨年は微分・積分をすっかり忘れていることに気がついて、思い出したいと思って図書館で本を借りてきて読んだ。基本書だったからよく理解できたし、やっぱり数学は面白いと思えた。

先生の作った8箇条は、長い年月をかけてできたものだという。そういえばその第1条は、高校時代にも授業で言われたような気がする。先生は、数学は単に学校の勉強というだけでなく、その考え方はあらゆるところで基本になると語られた。そう考えてみると、自分は何でも一つアイデアが浮かぶとそれで満足してしまうところがある。第1条や第2条などはそれを戒めてくれるところがあり、第8条まですべて今の仕事に応用できることに気がついた。事業を考える上でも役立つ考え方かもしれない。

 今でもラグビーの練習試合に相手高校に行った時の1シーンを思い出す。グラウンドの片隅に佇み、先生はずっと我々の試合を観ておられた。ルールも何もわからない中、いかにも場違いなその様子に、休みの日にわざわざ出てきていただいて申し訳なく思ったものである。「最後に一言と言われても、何も専門的なアドバイスができなくて申し訳なかったよね」と先生は語られたが、それで対外試合ができたわけで、それだけでもちろん十分だったのである。

大学受験に失敗し宅浪している時、どうしても分からない数学の問題を持って先生の元を訪ねたことがある。その時も、忙しい合間を縫って丁寧に教えていただいた。その話をすると、「数学のことを聞かれたら、誰であろうと私は答えるから」と先生は答えられた。自分の職業、そして好きなことに対する誇りが、先生との短い会話の中から伺えた。

先生は、これからも研究を続けられるのだという。もうその教えを聞く生徒もいないし、続けてどうなるものでもないのであろうが、先生にとってはそんなことはどうでもいいらしい。ただ、自分が携わってきたことについて、最後まで続けたいのだという。インターネットや図書館や古書店等で調べたり等、手段はいろいろあるらしい。「今度会う時には、10箇条になっているかもしれないよ」と先生は笑って語られた。

 そのスタンスは、先生からの新たな教えである。『Masterキートン』のユーリー・スコット教授は、「人間はどんなところでも学ぶことができる。知りたいという心さえあれば」と語っている。それを先生はまさに地で行っているわけである。それに触れた以上、自分もそういう心意気を持ち続けないといけない。体も鍛えなおしたいし、勉強もし続けたい。そして何よりそういう気持ちを保ち続けたい。よく見れば8箇条のサブタイトルは、【人生を歩む上での8箇条のご誓文】とちゃんと書いてある。心に刻んでおきたいと思うのである・・・



【本日の読書】 
USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門 (角川書店単行本) - 森岡 毅 
     






2016年8月28日日曜日

電子書籍(先輩編)

老子 ― もう一つの道 - 原田 禎忠
 世の中日々進歩していて、スマホが当たり前のように日常生活に溢れている光景は、10年前にはなかったものである。そんな中で書籍の世界も「電子書籍」が登場し、かなり普及してきている。普段通勤途中で本を読む私だが、年間100冊以上読むとはいえ、まだこれに手を出してはいない。

それにはいろいろ理由があって、読みにくそうだとか、本の方が後からページを戻って読み返すのが便利だとかであるが、それが本当の理由かというと、実はそうでもない。「もうちょっと便利になってからでもいいだろう」という軽い程度である。『ガラケーにこだわる』スタンスを批判する以上、電子書籍を否定するわけにはいかない。

ではいつからかと問われると、「そのうち」と答えていたが、昨日ついに手を出した。キンドルのアプリをとりあえずiPhoneにインストールし、記念すべき最初の電子書籍を購入した。『老子-もう一つの道』である。なぜ電子書籍に手を出したのかというと、答えは簡単で、「電子書籍でしか手に入らないから」である。本屋に行ってもこの本は売っていないし、そもそも形すらこの世に存在しないのである。

そして衝撃的だったのが、何よりもこの本の著者が先輩Hであったということである。先輩Hも、私と同様というか私以上の読書家であり、先輩Hの読む本は常に私の関心事である。その先輩がいつの間にか本を書いていたという事実に、私は衝撃を受けたのである。そして「本を書く」ということが、かつては遠い世界だったものが、手を伸ばせばすぐ届く現実の世界のものになったと意識させられたのである。

およそ、本好きの人間なら、「いつか自分も本を書いてみたい」と多少なりとも思うだろう。私も例外ではない。そしてそう思いつつ、日々の忙しさを理由に先送りしている人が大半だろうと思う。もちろん、「何を書くか」という問題もあるが、たとえ書けたとしても、どこの出版社に原稿を持ち込もうかとか、現実の行動もまたハードルが高い。

高校時代、やはり本好きの友人は、自ら原稿を書き出版社に送付した。後日それは本人も読めないほど達筆な手紙とともに、真っ赤になって返ってきた。なんでも出版社の方で手直しをすれば、出版も考えるというような内容であった。私も「すごいな」とその何が書いてあるか判読できない手紙を見ながら思いつつ、しかし原型をとどめないほど修正されて果たして著者と言えるのか、という疑問も同時に感じたものである。結局、その友人はそれ以上の行動はとらずに終わったが、必ずしも自分の書いた通り出版されるわけではないという事実に気がついたエピソードである。

我々一般人にとって、本を出すとなると、そんな覚悟をして出版社に認めてもらえるように頑張るか、あるいは自費出版という方法しか今まではなかった。自費出版も『夢を売る男』のような本を読むと、お金もかかるし、それで商売されるかもしれない可能性もあるわけで、そうなると躊躇するところがある。しかし、電子出版となると、それらの紙の本にまつわるハードルは一気になくなってしまう。

もちろん、出版のハードルが低くなっても、売れるかどうかはまた別の問題である。出版社はまずこの売れるかどうかを考えるので、売れそうな内容かどうかは当然として、本のタイトルなどのようなことも出版社の意向で決まるという。書店でちょっと売れた本が出ると、二番煎じの内容や関連やタイトルの本が溢れるのも、出版社のプライドのない営業方針の表れだとよくわかる(さしずめ今は田中角栄がブームである)。電子書籍は、そうした出版社の邪念から自由になれるが、その代わり売れるという保証はまったくない。むしろよほど著者が著名人でない限り、売れる数は限られることになるだろう。

しかし、先輩Hの出版にはいろいろな可能性を感じさせるものがある。印税で儲けようという考えでもない限り、出版のハードルが低いことはもっと自由に本を書くことを考えられることになる。今は紙の本に強いこだわりを持つ人たちが多いかもしれないが、やがてそれも少数派になるだろう。「やっぱり紙でなきゃ」といつまでも言わないようにしないといけない。そして「いつか書こう」ではなく、「とりあえず書いてみよう」と考え方も切り替えないといけないだろう。

まずは先輩Hの処女作を読んでみて、考えたいと思うのである・・・