子曰く、三軍も帥を奪う可きなり。匹夫も志を奪う可からざるなり。

日頃あれこれ思う事どもを思うがまま自由に綴る

企業の財務を担当していると、どうも「コスト削減屋」というイメージを持たれる。実際そういう面はかなりある。私自身コストについては常に意識しているし、無駄なコストは削減しようと常々考えている。しかし、ただカットすればいいかと言えばそうではない。費用対効果という言葉があるが、コストをかけてもそれを上回るリターンがあるのであれば、それは収益に負担となる「コスト」ではなく、将来の収益に向けての「投資」になる。同じかけるにしても「コスト」なのか「投資」なのかは重要である。コストはカットしてもいいが、投資をカットすると将来の収益を失うことになる。その見極めが難しい。
さらにカットすべきコストだとしても、コストカットの効果も大事である。ちまちまコストを削減しても全体的に大して影響がない場合、かける手間ひまや疲弊する人心を考えると、果たしてそれがいいのかという気がする。以前、ニデックの名物会長が職場の電気を消すという地道なコストカットを実践しているのを何かで見たことがある。実際に業績回復させているわけであり、それが正しいことなのだろう。蛍光灯の電気代など微々たるものという気がするが、広い社内であったりすればチリ積で大きな効果になるのかもしれない。でも我が社では気が滅入るだけだろう。
利益を出すための第一はやはり「売上」だと思う。売上が上がれば多少経費はかかっても利益は出る。逆に売上が上がらなければ多少コストを削ったところで利益は出ない。例えば5億円の売上があり、原価率が25%だと粗利は1億2,500万円。販管費が1億2,500万円だと営業利益は0である。ここで売上が1,000万円伸びても販管費が1,000万円減っても利益が1,000万円出るという結果においては同じであるが、一般的に売上を1,000万円伸ばす方が販管費を1,000万円落とすよりもたやすいものである。販管費には「人件費」があり、簡単に減らせないのは想像できるだろう。
それに経費削減は売上の増加と両輪でやるべきもので、「売上が上がらないから経費削減で」利益を出そうとする内向きの発想だとどうしても考え方が目先に囚われてしまい、企業の拡大発展という面に目が行きにくくなる。通常は営業が売上増加を考え、財務が経費削減を考え、社長が両輪で見るというのがありうべき姿であろう。企業は社長の器以上に大きくならないという事はよく言われるが、経費削減ばかりに目がいく社長だと企業の拡大発展という面がおろそかになってしまうだろう。そういう意味で社長の器は大事である。
前職では社長が会社をM&Aで売り払ってしまった(それも足元を見て買い叩かれて)。最後にその社長がのたまわったのは、「不動産管理(その時の本業であった)なら手数料を払えば社員に任せなくてもできる」という事であった。我々は、(その社長にとって)手数料に置き換えられる単なるコストだったわけである。そう思われてしまっていた我々にも責任はあるのかもしれない。ただ、それはそれとして、その社長は社員を単なるコストとしか見ていなかったという事である(そのコストのおかげで6期連続で増収になったわけであるが・・・)。
ディズニーランドで遊ぶには、高い入場料を払わないといけない。それと同様に企業も社員を使って金儲けをするなら必要なお金をかけなければならない。効率よく業務を行うためには費用をかけてツールを導入しないといけないかもしれない。信用を高めるには立派なオフィスを借りて構える必要があるかもしれない。それらを維持できるのは何よりも「売上」である。企業は徹底して売上を追及すべきであると基本的には思う。赤字になりそうとなった時、どうやったら売上を上げるかを真っ先に考える発想が必要だと思う。
そこでコスト削減にしか目がいかないようであれば、その企業の行く末も危ぶまれるというものである。まぁ、その際に真っ先にカット対象となる「コスト」とみなされないように自らを高めていく必要はあるだろう。コストにならないように努力し続けたいと思うのである・・・
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【本日の読書】
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母に1人の親友がいる。昔から聞かされていて私も名前を知っている。その親友に先週末、母は会いに行った。久しぶりに電話をしたところ、病気で余命宣告を受けたとのこと。そこで会えるうちに会おうということになったのである。互いに80代後半であるが、どうやら親友の方が先にカウントダウンが始まってしまったという次第である。とは言え、母も腰が曲がって片道2時間の道のりを電車を乗り継いで行くのは困難であり、私が車で送って行くことにした。行きの車中、もう何度か聞いたことがある話を母は嬉しそうに語る。
その親友に初めて会ったのはまだ10代の頃。高校を卒業して東京に出てきた母は、親戚の家に身を寄せて働いていた。毎朝、最寄り駅で見かけているうちに互いに意識し合うようになる。いつしか言葉を交わし、勤務先が近いことと(もちろん家も近い)勤務先同士も取引があり、互いにお使いで行き来し合うこともあり、そんな共有点が見つかって仲良くなったそうである。やがて日曜日には一緒に銭湯に行っておしゃべりしたりと交友を深めていったそうである。結婚して会う機会は減ったものの、今日に至るまで交友関係が続いている。
私も幼い頃、母に連れられてその親友の家に遊びに行った記憶がある。中央線に乗ったのもたぶんその時が初めてだったと思うが、中央線がえらく速いという事で驚いたことをうっすらと覚えている。当時、中央線は高度経済成長に伴う沿線人口の爆発的な増加(多摩ニュータウンなど)と通勤混雑の激化に対応するため、大幅な高速化と輸送力増強が実施されたという事のようであるが、母の友人の家に遊びに行ったという事よりも、幼い私には中央線の速さの方が記憶にしっかりと残っている。
送って行ったものの、母親のおしゃべりに付き合うのは退屈でもあり、母を下ろすと私はあらかじめて調べてあった近くの快活クラブへと向かう。昔はよく家の近所の漫画喫茶を利用したものであるが、近年愛用しているのが快活クラブである。私の基本として、読書もするが漫画も読む。快活クラブは個室でゆっくりと漫画を読めるし、飲み放題のドリンクと食べ放題のソフトクリームは何より楽しいおやつである。家の近所にもあるが、普段のんびりと漫画喫茶に行ってくつろぐ時間などないから、私にとってもいい機会であった。
2時間ほどのおしゃべりが終わり、母を迎えに行く。2人の老婆は別れを惜しみつつ、これから毎日少しだけでも電話で話をしようということになったようである。親友の娘さんもいて、「母が笑っているのを久しぶりに見た」と喜んでいた。笑いは何よりの薬だと聞いたことがある。それはそうかもしれない。2人の付き合いの歴史はおよそ70年。互いに友人はいるだろうが、年齢を経ると減っていくだろう。亡くなる人もいれば、会いたくても体がいう事をきかず会いに行けないという事もある。
そんなこともあって、今回はいい孝行ができたかなと思う。一方の父にはわざわざ連絡を取り合う友人もいないのか、亡くなったのか、母のような話は聞こえてこない。自分のことを振り返ってみると、今はまだ付き合いを保ち続けたい友人が何人もいる。会う機会は年に1回とかほんのわずかだが、それでも何かあれば集まって昔話に花を咲かせている。若気のいたりでバカをやった事を取り上げ、いまだに私がそういうことをやる人間だと思っている連中である。そんな奴らといつまでバカ話ができるのだろうかと思ってみる。病気も判明したし、もしかしたら私があの世に一番乗りかもしれない。
母はよくあるように今の事は3分前のことですら忘れているのに、昔のことはよく覚えている。親友とのエピソードもいくつも出てくる。10代から20代前半の結婚前の母の事は想像もできない。それでもその頃の親友と過ごした楽しいひと時は、今もなお互いに思い出して笑い合うことができる大切な思い出であり、財産なのだろう。不肖の息子は1人出戻りで、当面は二つの家計費を負担してアップアップの状態。たまに親を温泉に連れて行くことくらいしかできないが、豪勢なリゾート地に連れて行くより親友のところの方が嬉しいだろうと勝手に決めつけている。
次の機会があるかどうかはわからないが、また次回と思う。母の姿を見ながら、自分もバカ話をする友人たちと大事に付き合っていきたいと改めて思うのである・・・
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先週、しきりにニュースでアメリカがイランを攻撃する可能性が報じられていた。どういうルートから情報を得ていたのかわからないが、週末になって実際に攻撃が行われた。ニュースで報じられるからにはそれなりのニュースソースから情報を得ていたのだとは思うが、マスコミがわかるという事は、イランもわかっていたのではないかという気がする。わかっていたからといって防げるものでもないが、危機管理という意味では対応策を考えていたのではないかと思う。それでも指導者を含めて幹部が多く殺害されているのは準備ができなかったのか、それを上回る攻撃だったのか、いろいろと思うところは多い。
その昔、戦争は宣戦布告をもってなされるものであった。そのタイミングが遅れた日本は、アメリカから「卑怯者」と言われ徹底的に悪者にされたが、現代の戦争はもはや宣戦布告を必要としなくなったのだろうか。それともこれは「戦争」ではないのか。今回の攻撃の目標について、アメリカは①イランのミサイル能力の破壊、②海軍の殲滅、③核兵器保有をさせないこと、④政権によるテロ組織支援を止めることだと説明している。かつての戦争のように相手を降伏させて自国の言うことを聞かせるというものではなくなっているのだろう。それでも体制転換を目指しているようであるから同じことなのかもしれない。
それにしてもベネズエラの大統領を軍事作戦によって拉致し、今度は核を巡る交渉中にもかかわらず攻撃を行いと、アメリカは好きなように振舞っている感がある。同じことをロシアや中国がやっていたら、アメリカは烈火のごとく声を上げ、経済制裁を呼び掛けていただろうと思う。西側諸国も内心苦虫を嚙みつぶしながら当たり障りのないコメントをしているようだし、高市総理も慎重にコメントをしてアメリカを非難することは避けている。同盟国だから庇うのか、アメリカだから何も言えないのか、おそらくその両方なのだろう。それでいいのだろうかと疑問に思う。アメリカなら何をやっても許されるのか。
力のある者が力にモノを言わせて己の言い分を通すというのは、もっとも原始的な問題解決である。動物では外から来たオスが群れのリーダーにチャレンジして勝てばその群れの新たなリーダーになれるというものがある。先日横目で見ていたカバについての番組でやっていたが、カバはそういう習性があるようである。もちろん、負ければ群れにも入れずすごすごと去っていくしかない。あるいはリーダーに対して恭順な姿勢を示すというのがあり、そうすると群れに迎え入れてくれるのだとか。番組ではリーダーに負けたカバが恭順を示して群れに入れてもらうシーンをやっていた。
アメリカがやっている事と同じである。まぁ、人間もカバ同様の生物であり、同じであっても不思議ではない。ただ、アメリカは群れを守るというより、すべてを従えることが最終目標なのではないかと思うくらいである(おそらくそうなのであろう)。今、世の中では多様性ということがしきりに言われている。昔は毛嫌いされていた者もLGBTと称され権利を認められている。しかし、国際社会では話が異なり、それは共産主義や社会主義には当てはまらず、民主主義でもアメリカに逆らうものは許されないという感じである。どの国にも生存権があり、それは互いに尊重されるべきものであるが、(少なくともアメリカは)そうではない。
なぜ、互いに譲り合うことができないのだろうか。今回、攻撃にイスラエルが加わっているのも象徴的で、イランの核兵器開発はそのターゲットの第一は間違いなくイスラエルであるだろうし、イランはヒズボラを始めとして反イスラエル勢力を支援しているようであるから、イスラエルも自国防衛という意味で便乗したのだろう。中東紛争は憎しみの連鎖で根が深いが、どこかで共存というものが図れないものだろうかと思う。殺し合いを続けてどちらかが敗れなければ共存が図れないというのはあまりにも寂しい。動物は同じ種では殺し合わないようだし、それが生物の本能なのであるなら、人類はそれに反していることになる。
我が国としては見て見ぬふりしかできないのだろうが、既に「戦費10億ドル突破か 米経済損失33兆円規模の恐れ」という報道(FORBES)も出ている。これは後日、また高額な武器を買えとか、何らかの形でわが国に請求書が回ってきそうな気がする。アメリカの軍事産業もまだまだ大儲けできるのだろうと思う。きっとウハウハしているに違いない。人類に互いに譲り合って生きるという英知は働かないのだろうか。地球上でもっとも賢い生物がもっとも愚かな行動をしているというのが何とも言えずに残念であると思うのである・・・
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【本日の読書】
「日本の性加害の根っこにある」との主張が…『ドラえもん』しずかちゃんのお風呂シーンはなくすべき?論争の実態と、意外と知られていない変化
今回物議を醸したのは、ドラえもんアニメにおいて「しずかちゃんのお風呂シーンをなくすべき」という主張だ。お風呂シーン反対派の意見を簡単に説明すると、![]() |
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就職戦線の早期化は困ったものだとこの時期特に思う。一方で4月に新入社員を迎える準備に追われつつ、一方で27年卒の採用が動き始めている。我が社は悲しいことに首都圏では知名度が低く、いきおい地方での採用が中心になっている。北は札幌から南は鹿児島まで新卒学生を求めての行脚である。例年学生を採用させていただいている各学校の就職課の方とは日頃から情報交換をさせていただいているが、近年目につくようになってきたのは、学生の「地元志向」である。地元の企業を志望する学生の割合が増えてきているのである。我々のような企業にしてみれば由々しき事態であるが、胸中は複雑である。
学生の地元志向は果たして是か非か。人口減少時代の昨今、地方自治体においては企業誘致に余念がない。我が社も地方進出を検討する時期に来ているが、各自治体は助成金を手厚くして地元への企業誘致に力を入れている。企業が誘致できればそこで働く社員は確実に地元の人間になる(そういう条件で助成金を支給している)。それはすなわち人口増に結び付くわけであり、それこそが企業誘致の目的であろう。当然、地方自治体としては学生の地元志向は歓迎すべき事象と言える。たしかに、地方に衰退してほしいとは思わないし、若い人が地元に残るのは良いことだと思う。しかし、と思うのである。
若い頃には冒険が必要だろうと思う。冒険と言えば大げさであるが、東京へ出て一人暮らしをしながら厳しい環境(と言えば大げさではあるが)に身を置いて働くというのは悪いことではないと思う。もしも私が地方に住んでいて、息子が就職となった場合、まずは東京に行ってみてはどうかと勧めるだろう(その前に大学進学時に東京の大学へ行けと言うだろう)。かわいい子には旅をさせろではないが、ビジネスマンとして企業で働くのであれば、東京で働くのが一番いいと思う(これが娘なら残れと言うだろう)。
地元志向がどういうものなのか。親の立場からすれば、将来的には同居かあるいはせめて近くに住んでほしいという気持ちなのは想像できる。誰しも老後ということを考えるだろうし、孫の顔を見ながら暮らしたいと思う気持ちは私も同じである。しかしながら当の若者はどう思うのであろうか。親の近くにいたいというのは、将来面倒を見なくてはという義務感だろうか。あるいは生まれ育った地元への愛着であろうか。生き馬の目を抜くかもしれない都会への不安だろうか。人それぞれではあるが、そんなところが挙げられるのかもしれない。
しかしながら、「いずれ地元に戻ってくるなら」と送り出すのはあてが外れる可能性が高いだろう。住めば都で、働いて暮らしているうちに人間は環境に慣れてくるもの。ましてや東京で知り合った相手と結婚した場合、自分だけの話ではなくなる。他県の出身者であれば、自分にとって「地元に帰ること」でもパートナーにとっては「見知らぬ土地へ行く」ことに他ならない。さらに子供が生まれれば子供の教育環境だとか、「転校したくない」だとかの問題も出てくる。そうそう思い描いたライフプランを実現するのは難しくなる。
そう考えると、「若いうちは東京で」という考えは誤算を招く可能性が高いかもしれない。少なくとも軽い気持ちで考えているなら危ういだろう。東京で働くなら何歳まで、結婚相手には将来地元に帰ると事前に告げて了承を得ておくなど、固い意志と準備が必要だろう。そんな事をつらつらと考えると、始めから地元志向というのは、それはそれで懸命なのかもしれないと思う。地元では都会ほど就職環境は良くないかもしれないが、そこは仕事と地元に残ることとどちらを重視するかで割り切るしかない。
私の両親はともに地方出身である。ともに東京に出てきて知り合い、結婚して私が生まれている。父親は地元に残って大工になるか東京に出て働くかの選択肢しかなく、次男であったこともあるが、中学を卒業後に東京に出てきている。さぞかし不安だっただろうと思う。おかげで私は東京生まれの東京育ちであり、「地元か東京か」で悩むことはなかった。考えてみれば大きな悩みを1つ抱えずに済んだと言えるのかもしれない。こればっかりは生まれたところという運の話であるが、「帰る故郷がない」という寂しさと裏腹の運である。
そんな中で、故郷を離れて大志を抱いて東京に出てくる新入社員たちには、いい社会人デビューをしてほしいと思う。将来的に故郷に帰るのかどうかはわからないが、今はオンラインの発達もあり、地元に帰りながらも東京の仕事をすることが可能になってきている。いずれ地元か東京かという問題は大きな問題にはならなくなるのかもしれない。就活学生と話をしながら、そんなことを思ったのである・・・
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【本日の読書】
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元日本航空の客室乗務員で、ノンフィクション作家である青山透子の『四十年の真実』を読んだ。日航123便の墜落事故の真相と言われると、リアルタイムでニュース見てその衝撃を経験した身としては興味をそそられる。しかし、最初にそれを知った『 書いてはいけない』に書かれていた内容はすぐには信じ難く、それで本書を読むに至ったわけである。この本によると、日航123便の墜落事故はあくまでも人為的な事故で、公表されているような後部圧力隔壁の破損などではないというもの。きっかけは自衛隊の無人標的機が日航123便の垂直尾翼に衝突したとされるが、その事実を自衛隊が隠蔽しようとした結果、墜落した(させられた)というものである。
その隠蔽内容とは、最後に追尾していたファントムが123第便の第4エンジンを撃ち抜いて墜落させたというもの。さらに墜落現場は世間には不明と発表しつつ、いち早く現場に駆け付けた自衛隊員が撃墜の証拠を隠滅するため現場を焼き払ったとする。 いくら何でもそこまでは行き過ぎなように思えてならない。されど著者は単に推論を述べているのではなく、現場の一つ一つの状況から積み上げて結論を導いているわけで、そこには一笑に付すことのできないものがある。例えば、航空燃料は素人がイメージするのとは違って意外と燃焼性は低く、遺体が炭化するほど焼けることはないといった具合である(さらに現場では軍用燃料が検出されているという)。
普通の航空事故であれば当然引き上げるべき相模湾に沈んでいる機体の一部(垂直尾翼)を引き上げないとか、ボイスレコーダーを公開しないというのもおかしいと主張する。確かにその主張はもっともであり、一読しただけの者には反論できかねるものがある。しかし、と思う。一歩下がると、これほどの衝撃的な事実を隠蔽しきれるものだろうかと思えてしまう。例えば第4エンジンを撃ち抜いて撃墜させたとするファントムであるが、自衛隊員がいくら命令されたとは言え、そこまでやるだろうかと思う。軍人だから命令は絶対であるとしても、躊躇なく(躊躇したとしても)民間航空機を撃墜できるものだろうか。
民間航空機の撃墜と言えば、大韓航空機撃墜事件が脳裏に浮かぶが、あれは自国民ではないし、さらに旧ソ連という国の体質を考えればまだわからなくもない。しかし、自国民であり、さらに我が日本国内でのこととなればにわかには信じがたい。さらに直接手は下さなくとも現場にはもう一機のファントムがそれを目撃しており、その事実を知るパイロットが最低2人(ファントムが複座なら4人)がいるわけである。さらに命令がどこから発せられたのかはわからないが、命令系統に入っていた人物、命令の現場にいた人物など複数が関わっている。内心ではおかしいと思う者もいただろうし、それを外に漏らす者もいたのではないかと思えてならない。
世の中にはいろいろと陰謀論めいたものが多い。アメリカ政府がUFOや宇宙人に関する事実を隠しているとか、ケネディ大統領の暗殺犯はオズワルドではないとか。そうした陰謀論の中にはまったくの事実無根なものもあるだろう。その真偽を見極めるのは難しいからいきおいどちらかを信じるしかない。この本に書かれていることに関して言えば、「総論反対各論賛成」的な感じがする。「信じられない」というよりも「信じたくない」という意識だろうか。では真相は何かと問われればわかりようもないが、根拠なく「何か違う感じがする」と言うしかない。秘密はそれに関わる人数が多くなるほど漏れやすくなるものであり、40年も隠しおおせるものではないように思う。
もともと人に知られざる秘密には蜜の味がある。それが大ニュースとなるべき内容であればなおさらである。そうした秘密があることすら知らなければ何とも思わないが、「秘密がある」という事を知ってしまうと、その内容を知りたいという欲求が首をもたげてくる。結果的には知らなければ良かったということも、それは知ったがゆえに思う事であり、知らないうちはたとえ結果がどうであろうと、人は秘密を知りたいと思うものだろう。この本に書かれていることが事実なのかどうなのかはわからない。その疑惑を知らない時は平和だったが、知ってしまうと真実を希求する心は抑えがたい。
一方で秘密はそれに関わる人が多くなればなるほど漏れるものだと思う。40年間も漏れないということは、この本に書かれているような事実はないという事なのかもしれない。例えば日本航空の社長などはこうした事実の引継ぎを受けているのだろうか。受けているとしたら、歴代社長の中には公表すべきと考える人もいたのではないかと思う。日本航空だけではなく、自衛隊の中でも然りである。もしも、事実であるならば、完璧に隠蔽されているわけであり、そちらの方に恐ろしさを感じてしまう。いずれにせよ、よけいなことを知ってしまったものである。
疑惑の真相が明らかになる日はくるのだろうか。その日が来ることを待ちわびつつ、ケネディ暗殺事件の真相と日航123便の真相は、死ぬまでに知りたい真相として心に握りしめていたいと思うのである・・・
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この週末、珍しく時間に余裕があって、何気なくTVerでやっていた「ザ・ノンフィクション」という番組を見てしまった。その回のテーマは「結婚したい彼と彼女の場合 令和の婚活漂流記2026」というもの。見始めたら面白くて前後編見てしまった。内容はタイトルの通りで、結婚したいと結婚相談所を通じて婚活をする31歳の男性の姿を追うものであった。31歳と言えば私が結婚した年である。そこに登場する男性は、おそらく女性と付き合った事がないのだろうと思われるが、涙ぐましい努力をしている。
彼には結婚アドバイザーの女性がついており、そのアドバイザーは力を込めてサポートしていく。それには厳しい現実も伝えないといけない。介護職についているその男性に年収370万円は、結婚相談所に登録する男性の平均400〜500万円よりも下であることを告げ、服装や髪型を直させ、お見合いの結果を厳しくフィードバックする。男性もそのアドバイスに素直に従う。転職して年収を上げ、髭脱毛までする。年上で自分よりも年収の高い女性には、家事はすべて自分がやって支えるとまで宣言してアプローチする。それでも男性は相手から選ばれない。
見ていてその努力に感心するものの、何となく違うように思えてならなかった。彼は相手の女性に合わせようとするばかりで、何か芯に自分というものがないように感じられたのである。もちろん、女性アドバイザーのアドバイスも大事であるが、私だったら脱毛などやらないし、転職も婚活のためならやらない。その昔、「優しい人が好き」という女性の言葉を受け、優しくしてもその女性から好かれることはなく、逆にその女性は全然優しくない男を好きになってしまったりするという話を聞いた事がある。それと似ている。
彼は結婚相談所で紹介された女性から軒並み「いい人」という評価を得ている。しかし、「いい人」は褒め言葉ではあってもその言葉の裏には「それ以上ではない」という意味が隠れている。思うに彼に必要なのは、「自分はどういう男なのか」という確固たる信念であろう。仕事も年収は低いかもしれないが、こういう考えがあって生き甲斐を持ってやっているという意思が伝われば問題にはならないと思う(それを問題にするような相手ならこちらから断れば良い)。相手に好かれようとするばかりで、自分はどういう人間なのかがないように思えた。
その昔、決していい男とは言えない友人が私の知人の女性といつの間にか婚約していて、驚いて尋ねた事がある。その友人は、自分はこれまでも女性にモテる事はなかったし、これからもその自信はないが、これと決めた女性だけなら落とせる自信はあると語ってくれた。それは自分の人生を賭けて口説くからだという事であった。それは決して相手に合わせるという意味ではない。その信念で猛アタックして口説き落としたそうである。私も若い頃は決してモテた方ではなく、むしろ枕を涙で濡らした経験の方が多いが、その考え方には共感している。
私もプレイボーイのようにどんな女性でも口説き落とせるという事はなかったが、本当に惚れたたった1人の女性ならかなりの確率で口説き落とせると思う。それは一時ベッドを共にするのではなく、生涯を共にする女性である。まぁ、それはさまざまな経験を経てきた今だから言える事で、若い頃にそういう考え方が持てていたら私の人生も違ったものになっていたかもしれない。結婚前の時間に戻れるのであれば、その言葉を証明してみせられるのにと思う。つくづく、人生ってうまくいかないものだと思えてならない。
番組に登場した男性が今後良縁に巡り会えるかどうかはわからない。番組の放映には間に合わなかったが、いい人そうだっただけに努力が実ればいいなと思う。仮に結婚したとしても、私のように別居という結果になるかもしれず、結婚生活はその維持も難しいと思う。それでも結婚したこと自体に後悔はないし、番組の男性も望んでいるのであれば結果はともかくとして結婚を目指すのはいいと思う。人のこともさることながら、自分の老後をどうするか。それをこれからじっくりと考えたいと思うのである・・・
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「仕事を任せる」ことの意味について考えさせられる出来事があった。我が社には子会社がある。そこの社長が、部下の財務担当役員を首にしたのである。と言っても、当該担当役員は親会社にも席があるので特に問題もない。しかし、本人にしてみれば忸怩たるものがある。きっかけは決算。決算内容が思ってもみない内容で、驚いた子会社の社長が騒ぎ立てたのである。それはとある資金使徒のお金。思ったよりも金額が多かったというのがその理由。されど財務担当役員も勝手にやっていたわけではない。要所要所で包括的な許可を取っていたのである。
「包括的な」とは、「細かいところは任せるから上手くやってくれ」というもの。その言葉をそのまま受け取り、資金を利用していた。もちろん、リターン計画はしっかり立てており、そこは財務担当であり抜かりはない。ところが総額を見て社長が驚いたのである。そして「聞いていない」と言い出した。挙句に、こんなことをやるなら任せてはおけないと首にしたのである。そこでこのケースについていろいろ考えてみた。もちろん、財務担当役員もこまめに報告すべきであったことは最大の反省点。そうすれば「聞いていない」と言われる事もなかっただろう。されど問題はそこではない。
最大の問題点は、子会社の社長の対応である。「聞いていない」というのは言語道断。何度か説明を受けており、その都度「細かいことは任せる」と「包括的な委任」をしていたのは動かさざるべき事実である。「任せる」というのは、ただ単にやらせることではない。その「結果についての責任を引き受ける」という意味がある。任せて失敗したのであれば、それは任された人の責任ではなく、任せた人の責任である。それがわかっていない。人の失敗の責任を引き受けるのが嫌なら任せるべきではない。
この「結果についての責任を引き受ける」という部分が重要で、「失敗すれば自分の責任であると自覚して仕事を任せる」べきなのである。そのためには任せっ放しではいけない。折に触れて進捗を確認し、上手くいっていなければ上手く行く方法をアドバイスしたりする事も大事である。場合によっては途中で任せるのをやめて自らやる必要もあるかもしれない。今回であれば、子会社の社長は任せたことを気にした上で、途中経過を報告させるということも必要であった。任せっ放しにしておいた責任は重い。
任せて放置してそして結果だけを見てダメ出しをする。これでは人の上に立つ資格などない。部下もついてこないだろう。社長とは言え、そこは子会社であり、一種の名誉職的なところがある。しかし、本人は一端の経営者気取りであり、今回大鉈を振るったわけである。さらに役員を首にするなら自らの責任をも明らかにしなければならない。任命責任もあるわけであり、部下の首を切るなら(不祥事ならともかく)自らの責任も明確にしなければならない。ところが自分の役員報酬は1円たりとも下げていない。それでいいのか。
人の上に立つ地位についたなら、部下に仕事を任せるのは必然である。その時、それぞれの仕事についてきちんとできるのかどうかを見極めて仕事を任せないといけない。気になるなら途中で報告させるようにすればいいし、そうして部下がうまくやれるように指導しないといけない。もちろん、できる部下に丸投げ放置もいいが、その場合は結果責任は負わないといけない。もしも部下が失敗したなら、それは任せた上司の責任である。きちんと指導して失敗を繰り返さないようにするとともに責任も引き受けないといけない。
今回、図らずも子会社の社長はそういう人の上に立つ器でないことを自ら証明したことになる。人に仕事を任せるというのは、実は簡単なことではないのである。「自分はお飾り社長ではない」という意識だけはあったようであるが、「人に仕事を任せる」ということの大事な本質を理解できていなかったわけであり、残念ながらお飾りよりタチが悪いと言える。人のふり見て我が振り直せではないが、私も人に仕事を任せる時はきちんと意識しようと思う。もって他山の石としたいと思うのである・・・
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