日頃あれこれ思う事どもを思うがまま自由に綴る
昔、映画やドラマのバーとかの中でのワンシーンで、男がマリッジリングを外して女性を口説きに行くシーンがよくあった。映画やドラマはある程度誇張する部分があるからなんとも言えないが、自分は結婚したらマリッジリングをずっとつけていようと思った。例えそれが他の女性を口説きに行く時でも、と。私は変なところで「常に堂々としていたい」という気持ちがあり、女性を口説きに行く時にマリッジリングを外して(独身のフリをして)口説きに行くのは男らしくないという感覚があったのである(そもそも口説きに行く時点でアウトだという意見はこの際なしにする)。
マリッジリングを外して口説きに行くのが、ドラマ的にはカッコいいと創り手の方では思ったのかもしれない。しかし、よくよく考えれば、ぜんぜんカッコよくないだろうと感じていたのである。コソコソと指輪を外して、独身のフリをして口説くなんてチンケな男ではないかと。それに若いうちならいいが、男も妙齢になってくると、逆にその年で独身なのかという方がおかしいようにも思う。その場合、「結婚もできない男」と思われる可能性だってある。もちろん、訳アリというケースだってあるから状況はさまざまかもしれない。
映画やドラマでは、その夜限りのアバンチュールのためにだけリングを外すということかもしれないが、女性の方にしたって、リングがあるかないかを気にするという事は、真剣交際を考えるという事だろうから、そういう女性をそもそも口説けるのかということもあるし、そんなことまで考えない軽いノリの女性ならリングのあるなしを気にするだろうかということもある。映画の中の象徴的な意味合いでリングを外すという「演出」であるなら理解できるところであるが、実生活では意味があるのかという感じがする。
もっとも、一時的に家庭を忘れるという自分自身の精神的な意味合いならわかる。相手を偽るのではなく、自分に巻かれた鎖を解きほどくという意味合いである。よほどひどい男や無感覚な男ならともかく、普通の感覚の妻帯者なら罪悪感を持つわけで、その罪の意識と快楽との境界線の葛藤をリングを外すという行為で乗り越えるという意味合いなら理解できる。女性には理解できないかもしれないが、それが男のどうしようもない本能なのだろうと思う。
結婚した時に、何があっても外さないと決めたマリッジリングであったが、いつしか外してしまった。それは他の女性を口説こうとしたのではなく、妻との関係にもう嫌気がさしたからに他ならない。昨年、別居することにして家を出たが、もうその何年も前からリングを外している。たぶん、自宅に残してきた机の引き出しにまだ入っていると思うが、大事にしまっているというものではなく、とりあえず入れとこうと無造作に突っ込んだ記憶がある。その時すでにもう心は妻から離れてしまったのである。なんでそうなったのかはもうどうでもいい事である。
これからは堂々と女性を口説けるわけであるが(と言っても正式な離婚はもうちょっと先である)、ではと言って相手を探す気は毛頭ない。もう誰かと一緒に暮らすのはごめんだという気持ちが強く、このまま同居している親が亡くなった後は独りで暮らしたいと考えている。そもそもバツ2、バツ3という人の話を聞くが、最初の結婚の破綻で何を学んでいるのだろうと思ってしまう。相手を替えれば変わると思っていたならそれは短絡的としか言いようがない。せめて最初の結婚の教訓を活かして2度目でうまく行くところまでだろう。
ずっとこだわってきたゆえに、マリッジリングを外すという意味は私自身にとって大きな意味を持ち、以来、子供と一緒にその母親と暮らすという意味合いで家庭生活を送ってきた。私にとってその時から、一緒に暮らしている女性は「我が子の母親」であった。もう一緒に暮らす事はないが、「子供の母親」との一定程度の付き合いは生涯続くだろう。それにしてもあのマリッジリングはどうすべきだろうかと思う。捨てるのにはなんとなく抵抗がある。それは結婚の証という「象徴価値」ではなく、単に何万円かしたものという「物価的価値」からもったいないと感じるのである。さりとてもうはめる事はないし・・・
外したはいいが処分に困る。今になってみれば厄介なものに他ならない。いつか夕陽が沈みゆく海に向かってカッコよく投げるのもいいかもしれないと思う。そんなことを候補の1つにして、結婚生活の証の処分については、これからゆっくりと時間をかけて考えていきたいと思うのである・・・
ここのところ夏休みに温泉に行くのが恒例になっている。今年もまた昨年に続いて万座温泉に行ってきた。元はと言えば、母親を好きな温泉に連れて行ってあげようというところから始まった温泉巡りであるが、いつしか温泉に入るのが自分自身の楽しみにもなっていて、一石二鳥というわけである。人に話すと「夏に温泉?」と驚かれるが、万座温泉は標高1,800mに位置していて、「星に一番近い温泉」とも言われているらしいが、朝晩涼しくて入浴には程良いのである。ラグビーであちこちガタが来ている体には心地よい。
大体のパターンは決まっていて、夕方チェックインすると母はすぐに入浴、私は周辺の散策である。今回は昨年に引き続き万座亭に宿を取ったが、途中で見かけた牛池へとまずは向かう。なんの変哲もない池であるが、トンボが無数に飛び回っている。昔、小学生の頃、長野県の御代田に住んでいた従兄弟のところに毎年春夏の休みを利用して2週間ほど遊びに行っていた。その頃、外へ出ればトンボもたくさん飛んでいて、捕まえてみたりしたこともある。そんなことも思い出される。
入浴はいつも3回。夕食前後と翌朝である。夕食前は通常の入浴と同様、体を洗って汗に塗れた体を洗いながす。夕食後はただ、湯に浸かるだけ。どちらも露天風呂に入る。万座温泉は周辺に硫黄臭が漂っていて、気分を盛り上げてくれる。乳白色の湯はもちろん硫黄臭付きでゆったりと浸かると何より体に溜まった疲労が抜けていく感じがする。ラグビーの影響で慢性的な痛みを抱える首と肩と膝は入念に動かして湯治気分に浸かる。夕方は澄んだ空気、夜は真っ暗な夜空がさらなる演出を加える。
部屋にはエアコンがないが、うっかり窓を開けて寝ると寒くて目が覚めそうである。この時期でも布団をかけて寝られる。布団の中はたちまち温泉臭に包まれる。翌朝、朝食前に朝風呂。澄み渡った青空の下で湯に浸かる幸せ。こうして母を連れて温泉に行けるのも後何回だろうと考えてみる。すでに衰えた記憶力と思考力では浴場から部屋に戻ることすら不可能になっている。一緒に入って背中を流してあげることはできないが、せめて浴場と部屋の往復には付き添ってあげられる。それしかできないが仕方がない。
この頃、遠出をするのを嫌がるようになった親父は、1週間前から毎日「週末は温泉」と言い聞かせてきたが、今回もやっぱり朝になって「聞いていない」と言い出す。機嫌も悪くなり、無理に連れていくこともないと諦めた。弟も呼んで家族4人これが最後の家族旅行かと思っていたが、残念ながら1人ドタキャンで料金も戻ってこない。家族4人の家族旅行は残念ながらもう無理かもしれない。弟と2人で親父の分の夕食を食べながら、そんな話をする。
チェックアウトして山を降りる。途中、草津へ抜けるルートは火山の噴火の影響で休憩所が封鎖されてしまったが、快晴の下眺めはいい。ただ、運転が上手いと自称する弟は景色を楽しもうという気持ちはサラサラなく、一気に降りてしまう。母と2人の時は、ところどころで車を止めて景色を楽しむだが、弟には風流を解する気持ちがない。そして望月へと抜け、祖先の墓参り。母方の祖父母と伯父と親戚とが眠る。子供の頃遊んでもらったおじさんがどういう関係だったのか、改めて知る場所でもある。小学生の頃、親に連れられて遊びにきた祖父母の家はすでになく、見知らぬ人が家を建てている。子供の遊具などがあり、たぶん若い夫婦が住んでいるのだろう。50年前にここに住んでいた人のことなど想像もできないだろう。あさま山荘事件のニュースもリアルタイムでこの祖父母宅で見た記憶がある。裏山に上り、見つけた風船にくくりつけられていた手紙に返事を出し、しばし文通した記憶もある。個人情報の緩やかな良き時代の思い出である。
暑さが満ちた東京に帰ってくる。温泉はまだちょくちょく行こうと思うが、万座温泉はまた来年になるだろう。母とはいつまで一緒に行けるだろうか。一期一会ではないが、毎回これが最後かもしれないという思いで可能な限り続けていきたいと思うのである・・・
我が目を疑うというのはこのことを指すのだろうかと実感したのは、「東野圭吾さん死去」のニュースに接した時である。こうしたニュースに間違いがあるとは思わないが、まず浮かんだのは「本当なのか、誤報ではないのか」という感情。年齢的にはまだまだそんな歳ではないと思っていたが、68歳と聞いてまだ十分若いと改めて思う。現代ではまだまだお亡くなりになるような年齢ではない。大腸がんとのことであるが、がんも現代では必ずしも不治の病ではない。それでも亡くなったということは、いろいろと現代の医学でもダメな理由があったのだろう。非常に残念である。
初めて東野圭吾作品に触れたのは、どれだったかもう記憶にない。おそらく原作を読むよりも映画が先だったように思う。記憶を辿っていくと、たぶん映画『秘密』あたりだろうと思う。事故で亡くなった妻の意識が娘に移ってしまうという奇想天外なストーリー。最近、ネット漫画で『妻、小学生になる』というのを読んだが、コンセプトとしては同じだと感じたものである。単純に妻と娘が入れ替わったドタバタ騒動ではなく、深い人間ドラマに心打たれたのを覚えている。そのあとすぐに原作小説に手を出したのも覚えている。
東野圭吾と言えば、ミステリー作家ということになるのだろうと思う。しかし、どうもそこに入りきらないように思うのは、上記の『秘密』だけでなく、やはり映画化された『手紙』も心打たれるものであったからである。よく小説を映画化した作品は、「観てから読むか、読んでから観るか」は迷うところ。しかし、東野圭吾は基本的に「読んでから観る」方であった。もっとも、最初の頃は読む方に手が回らなくて、『レイクサイドマーダーケース』や『g@me』などは観る方が先行した。『手紙』は原作を読んでから映画を観ているが、これも心打たれるというか、切ない物語である。
読み始めて東野圭吾が「お気に入り作家」になるのに時間はかからなかったが、ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズのように、同じ人物を主人公にしてシリーズ化するというのも東野圭吾の特徴的なところである。ガリレオは物理学者が警察と協力して事件を解決していくというもの。何より毎回手の込んだトリックに圧倒された。『容疑者Xの献身』が最高傑作と言われているが、確かに物理学者と数学者の間で交わされるトリックは予想外の連続。そしてそこに人間ドラマが加わる。よくこんな筋書きを考えられるなという驚きの連続であった。
私の場合、好きな作家は何人もいる。浅田次郎、池井戸潤、百田尚樹、藤沢周平などであるが、小池真理子と東野圭吾はその筆頭である。小池真理子は文章に惹かれ、東野圭吾はストーリーに惹かれているという違いはある。ただ単に巧妙なトリックに感心させられて終わりというのではなく、真に胸に迫る人間のドラマがなんとも言えない味わいを残す。それは高校野球で3年間ずっと補欠だった選手が、最後の試合の同点で迎えた9回裏一死満塁サヨナラ負けのピンチにライトの守備を命じられ、直後に上がったライトフライからのタッチアップをライナーの返球でホームでアウトにし、味方のピンチを救ったようなドラマである。彼の3年間の努力がその返球だけで報われたというようなものだろう。
そうした人間のドラマは、いろいろな作品の中に散りばめられていたと思う。『ナミヤ雑貨店の奇蹟』もミステリーというよりもそんな人間ドラマの塊のような物語であったし、スリリングなはずの『天空の蜂』は、福島の原発事故の予言のようで、むしろそちらに驚かされた。ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズも本当の魅力は、そこで描かれる人間ドラマであったようにも思う。自分だったらどうするだろうと考えながら読むことしばしば。帰宅時の電車の中で読むことが多かったため、乗り過ごすことも多々あった。そういう意味で、私にとっては「電車間中で読むのは危険な作家」であった。
遺作となるガリレオシリーズの最新作が発売されたようである。もうそれで終わりだと思うと、読むのを憚れる気持ちがする。主要な作品はほぼ読んでいるが、まだ読んでいない作品もあるので、それらもいずれ読破したいと思う。また、どの作品ももう一度読みたいと思うので、各シリーズも最初から読み直すのもいいかもしれない。当たり前のように続くと思っていたものが途切れる無念。この喪失感は大きい。それでも2度読み3度読みも含めればまだまだ楽しむことができる。改めてそういう作品を世の中に送り出してくれた事に感謝したいと思うのである・・・

人間の記憶とはつくづく不思議なものだと思う。我々は生まれてからこのかた、さまざまに体験してきたことを記憶している。とは言え、すべてではない。忘却の彼方に消え去ったものも多い。記憶することはごく普通のことであり、我々は特に意識することはないが、考えてみれば不思議だと改めて思う。脳科学の観点からいうと、記憶とは脳内の神経細胞(ニューロン)同士の結びつき(シナプス)のネットワークによるものらしい。専門家の意見に異議を唱えるつもりはないが、それとて目に見えるものではないから、「おそらくそういう事だろう」という予想なのだと思う(その予想自体も凄いと思う)。
そうであるとしても、それによって記憶される仕組みは考えれば考えるほど不思議である。自分自身のもっとも古い記憶は3歳くらいのものである。それも確かではないが、ちょうど4歳の時に弟が生まれて引っ越しており、それ以前の記憶なので3歳としているのである。もしかしたら2歳の記憶もあるのかもしれない。生まれた時からの記憶がないのは、ニューロン同士のシナプスが未発達だったのかもしれない。3歳の頃の記憶は、特に印象深いイベントだったわけではないのに、なんで記憶に残っているのかも不思議である。
記憶の中でも、すぐに思い出すことができるものとできないものとがある。先日、大阪に出張に行ったが、新大阪から心斎橋に向かう通路を歩いていて、そう言えば前回来た時もここを通ったと思い出した。ここで昼飯を食べたなという店もあった。風景を見て思い出す記憶というものもある。やはり記憶容量の都合もあるのだろうが、我々の記憶のほとんどがこうした何かのきっかけから思い出されるものが大半であるように思う。逆にそういうきっかけがあってもまったく忘れ去ってしまっているということもある。
読んだ本と観た映画の記録を残すようにしたのも、記憶の補助としてである。この20年間で観た映画は3,000本を越える。そのすべてを記憶していることはできないわけで、ただ思い出せるようにブログに残しているのである。なので私の本と映画のブログは自分の記憶の補助であり、内容を後から思い出せるようにしている。それゆえに感想やうんちくは二の次である。だが、それでも観た事、読んだ事すら忘れているものもある。もちろん、ブログなど読み返さずとも鮮明に覚えているものもある。それは印象と結びついているからだが、なぜ印象と結びつくと鮮明に記憶できるのか、当たり前のようだが不思議である。
記憶は事実のみが残るものなのかもしれない。そしてその時々の「感情」については記憶の対象外なのかもしれないと思う。小学校6年の時、4年生に対するクラブ紹介で、当時卓球クラブに所属していた私は、どういう経緯だったか4〜6年生の生徒が集合して見守る中で5年生の女の子と対戦し、見事負けてしまったことがある。ものすごく恥ずかしい思いをした記憶はあるが、「恥ずかしい思い」自体(の感覚)は忘れてしまっている。失恋の苦い記憶も覚えているが、「辛かった」という記憶だけで、「辛さ」自体の感覚は残っていない。だからいいのかもしれない。
一緒に暮らしている両親は、年齢のせいなのか、子供の頃の記憶である長期記憶は健在だが、「今日のお昼ご飯に何を食べた」というような短期記憶は絶望的にない。モノをしまっても、しまった場所どころかしまったことさえ忘れている。なのでマイナンバーカードやキャッシュカードなどは私が管理している。記憶が書き換えられることはよく言われているが、両親とも同様である。母などは先日、訪問買い取りを利用したが、自分でものを渡し、お金を受け取ったにもかかわらず、「お金を受け取っていない」と言い出し、しまいには「トイレに行っている隙に持ち逃げされた」と言い出している。
考えてみれば、人間とは記憶そのものである。自分の名前から始まり、住んでいるところ、これまで生きてきた経緯、そして考え方もすべて記憶であると思う。もしも、すべての記憶を一瞬にして失い、生まれた時の状況にリセットされたらどういう事になるのか。言葉も発せず、服を着るという事も知らず、羞恥心もない人間である。何もできない赤ん坊だからいいが、大の大人がそうなったら大変だろうと思う。認知症が怖いのは、自分が自分でなくなるから。今の自分の考え方を失い、今の自分が軽蔑するような行動を平気で取るかもしれない。そうなったら、今の自分は安楽死を受け入れるが、その時の自分は抗うかもしれない。そういう自分の姿は想像したくない。
雨が降った翌日、濡れた傘を玄関に干していたら、いつの間にか母が(まだ乾いていないのに)取り込んでいた。なぜかと問うと、「盗られるから」と言う。そんな事私は考えもしなかったが、母はそんな調子で人を疑う行動や自分本位の言動をよくしている。大学を卒業する23歳まで同居していたが、昔からそうだったわけではない。年老いて衰え、考え方も被害妄想的になってきたのだろうかと思う。あるいはこれが秘められた本性なのかもしれない。自分も年老いたらそうなるのかもしれないと思うと、暗澹たる気持ちになる。老いて体のどの部分が使えなくなってもいいから、「目」と「記憶」だけは最後まで保っていたいと心から思う。
辛い経験も悲しい経験も時が経てば癒される。それは感情が記憶されないからだと思う。嬉しい経験も同様で、1年間宅浪して勉強して、晴れて第一志望の大学に合格した時の震えて涙が出るような喜びも、今は「そういう経験をした」という記憶だけで「感情」は薄れている。それはそれでいいと思う。ただ、そういう記憶を積み重ねた自分をいつまでも保っていたいと思う。記憶とは自分そのもの。いつまでもそういう記憶を保った自分自身でいたいと思うのである・・・
私には昔から「NHK料金については地上波分しか払わない」という信念というか考えがあって、ずっとそれを貫いている。NHKの人から見たら誠にけしからん存在であると思う。しかしながら、納得のいかないものはたとえ1円でも払いたくないと思う性格ゆえに、どうしても払う気になれないのである。地上波の意義というものは理解できる。公共放送という意義も理解できるので、見ようと見まいとテレビがある以上、NHKの(地上波の)料金を払うのは納得できる。しかし、衛星放送についてはそうではない。
昨年、実家に戻ってきたが、我が父は衛星放送も含めて払っていた。ケーブルテレビに加入していたから、おそらく以前私の家に説明に来たのと同様のタイミングくらいで説明を受け、よく考えずに受け入れたのだと思う。それについては、新たに私の名義でケーブルテレビの契約をし直したので、NHKの衛星放送の料金支払いは止めてもらった。ケーブルテレビはケーブルテレビだけの料金を払うことにしたのである。そしてしばらくしてNHKから受信料支払いのハガキが送られてきた。
それはよくある口座振替かクレジットカード払いを選択できるようになっているもの。「地上契約」、「衛星契約」とそれぞれ「2か月払」「6か月払」「12か月払」の料金が表示されている。地上契約だけ払おうと目を凝らして見たが、ハガキには何を選択するのかを表示する欄がない。地上契約だけ、あるいは両方もそうだが、何回払いにするかも選択する欄がないのである。ただ、口座振替かクレジットカード払かを選択できるのみである。これをこのまま送ったらどう処理されるのであろうかと困惑した。
真っ先に思い浮かんだのは、父が12ヶ月払を選択していたため、自動的に12ヶ月払になるというもの。しかし、よく考えてみればこれはおかしい。同居しているとは言え、父と私とは別々の個人である。相続でもない限り私が父の契約を自動的に引き継ぐいわれはない。仮に私が衛星放送の料金も払おうとしたとしても、どの支払い方法を選択するのかは私の選択肢になるはずである。それすら表示されないと、いくら引き落としされるかわからないわけで、怖くて返送などできるものではない。
いったいこの書式を考えた人はどういう意図なのだろうかと不思議でならない。このハガキを真面目に書いて送り返したら、担当者の判断でどの契約(まぁ両方の契約にするのだろう)か、どの支払い間隔にするのかを勝手に選んで請求されることになるのだろう。考えてみると恐ろしい。それでも一応確認しようと電話で問い合わせすることにした。ところが、例によって電話はつながらない。この手の問い合わせは最近どこも似たようなもので、とにかくなかなかつながらない。結局、諦めてしまった。
この手の問い合わせに必要なのはともかく根気。電話を繋ぎっぱなしにして出るのを根気強く待つしかない。20分以上待たされたこともあったが、電話をかけたまま仕事をしてつながるのを待つのはよくやることである。しかし、今回はそこまでして電話して問い合わせする必要性を感じられず、早々に切り上げてしまった。「放っておこう」というのが今回の結論である。払わなくてもこちらに実害はない。ハガキの意図を説明されたとしてもその結論に変わりはない。
それにしても今衛星放送ではどんな番組を放送しているのだろうか。試しに番組表を見てみたが、地上波と大して変わり映えしない眠たくなるような番組ばかりである。これで料金を取ろうという意図は何であろうか。NHKが衛星放送で我々に対して提供する「地上波とは異なる価値」は何であろうか。そう問うてみてもおそらくしっかりとした答えは返ってこないだろう。いやしくもお金を取るわけである。「公共放送」ということだけをその拠り所とするのであれば、「地上波のみで十分でしょう」と言わざるを得ない。
提供する価値にしろ、意味不明のハガキにしろ、どこか世間というか資本主義の世の中とは別のところにNHKはいる。どうやら私が衛星放送の料金を払いたくなる日はまだまだ来ないだろうと思うのである・・・
先日、とある集まりに参加して「赤黒ゲーム」という心理ゲームを体験した。参加者は2つのチームに分かれ、それぞれのチーム内で話し合い、「赤」または「黒」のどちらかに投票する。相手チームも同様で、その結果、
1 両チームがともに「黒」の場合、両チームに3点をプラス
2 両チームがともに「赤」の場合、両チームから3点をマイナス
3 それぞれ「赤」と「黒」に分かれた場合、「赤」を選んだチームが3点プラス。
「黒」を選んだチームは5点マイナスとする。
これを数回繰り返して合計点を出すというもの。やり始めてわかるのだが、重要なのは「相手チームが何色を選ぶか」を予想するもの。心理学の「囚人のジレンマ」と似た感じであるが、相手の選択によって結果が変わるわけであり、相手が何を選ぶかを予想するのが面白く、難しい。考えてみれば、これは至るところで起こっている出来事。学生時代は好きになった女性が自分の事をどう思っているのかが気になった。好意を持っているとわかれば積極的にアプローチできるが、そうでない場合はどうするか(振り向いてもらうようにするか諦めるか)。
また、先日テレビ番組を見ていたら、中国、韓国の企業とともに入札に臨む企業が、ライバル会社がどんな提案をするのかを気にしていた。ビジネスの現場ではよくある事である。相手の考えがわかれば、それにズバリ突き刺さる提案ができる。スポーツの現場でも、シニアとなった今でもラグビーの試合前は、相手がどんなアタックをしてくるのかが気になる。それがわかればアタックもディフェンスもそれに備えたものができる。超能力にはいろいろと心惹かれるものがあるが、特に読心術は魅力的である。
SF映画は、人間の願望に基づくものが多い。超能力や人間以上の能力を持つスーパーヒーローなどはその際たるものだろう。映画『ハート・オブ・ウーマン』はある日突然、女性の心の声が聞こえるようになった男の話。自信過剰のプレイボーイである主人公が、さまざまな女性の心の中の本音を知ることによって変わっていくという物語。物語の世界に没頭して楽しめたのは、「こんな能力が自分にもあったら、自分の人生ももっと良いものになっていただろう」という思いからである(その逆の『ハート・オブ・マン』という映画もあった)。
しかしながら妄想を進めていくと、人の心を読む力は、自分だけに備わっていてこそだと思う。誰もができたらそれはそれで厄介だろう。人には知られたくない考えというものがある。男であれば、ビジネスの現場で相手の女性と真面目な話をしつつ、容姿について心に浮かんだことがそのまま相手に伝わったら大変なことになる。会議の最中に「つまんない意見だな」という考えは伏せておきたい。接待の場で、相手を持ち上げつつ心の中でついた悪態が相手に伝わったらせっかくの接待もぶち壊しになる。わからないからこそ、世の中がうまく回るというものが実に多いのも確かである。
わからないからこそ、わかろうとして工夫するというのも確かである。その昔、好きな女性の心を振り向かせたくて、あれこれと努力した。その人にふさわしい男になりたいと思い、それはどんな男だろうかと考えていたからこそ、それ以前より多少人に優しい人間になれたように思う。相手の戦法がわからないからこそ、いろいろな想定をして練習している。採用の現場でいろいろと考えているのも、どんなPRをすれば学生の志望を得られるかと思うからである。わからないからこそ努力する。それが結果的に進歩につながる。
人の心はわからないというのは当たり前である。それでももしもわかっていたら、結婚相手は間違いなく違っていただろうし、仮に今の妻と結婚しても現在の別居はもしかしたらなかったかもしれない。どちらがいいのか、そこまで妄想しても始まらない。現実に人間は他人の考えを読むことはできない。だから大変であり、だからいいのだろう。まぁ、妄想ネタとしてはいいと思うのである・・・
かねてから予定していた通り、息子と会ってきた。「飲みにいくか」ではなく、「メシを食いにいこう」と誘ったのは、昨年の経験に基づくところである。息子の帰り道を考えて池袋で待ち合わせをする。やはり肉系がいいかと考えてそれっぽい店を選ぶ。何だかデートのようだと思わなくもない。昨年、別居して以来、何度か会っているし、LINEでやり取りもしている(なかなか既読がつかないのは、あまり優先的に見てくれていないようでもある)。息子と向かい合い、息子が選んだ牛タンを食べながら話をする。
息子は今年、大学3年。教養課程を終えて専門課程に入っているようである。私も法学部であったが、息子は同じ法学部でも政治学科。国際政治なんかを中心に学んでいるそうだが、授業は面白いらしい。ゼミにも参加し、週7コマの授業に出ていると言う。野球も続けていて、週1回活動をしているのだとか。飲食店でアルバイトし、なかなか忙しい学生生活を送っているようである。気になるのは、就活の事。最近は早まっているらしく、その辺りも聞いてみた。
早い者はもう2年生くらいから活動しているようで、息子は就活はまだだが、夏のインターンシップには何社か申し込んでいるらしい。私の頃は、リクルーター制度が全盛で、ラグビー部の先輩が片っ端から我々に声を掛けてくれてメシを食いに連れて行ってくれたものである。「それって人事部に繋がるの?」と息子が問う。というか、人事部の先兵となって動いていたから直結だよと答えたら驚いていた。今もOB訪問はあるらしいが、ホントに働く様子を聞くだけのものらしい。
そのインターンシップであるが、息子は商社と海運会社に申し込んでいるらしい。もちろん、その2つの業界を志望しているということで、商社はともかく、「何で海運なの?」と聞くと、「海外で働けて給料がいいところ」とのこと。海外で働くのはともかく、海運会社は給料が低いというイメージがあったが、最近はそうではないらしい。今度海運会社に行った先輩に会ったら聞いてみようと思う。それにしても海外で働きたいという気持ちはいいと思う。
それであれば英語力は磨いておいた方がいいとアドバイス。技術の進歩で、翻訳機も進歩するし、あえて外国語を学ぶ必要はなくなるように思うが、それでも個人的には翻訳ではなく、きちんと使えるようになることが必要だと思う。息子にはそう伝えたが、本人もそれを自覚していて、IELTS(アイエルツ)も受けるのだとか。初めて聞く言葉に2度聞してしまったが、今はTOEICではなくIELTSなのだと言う。さらにAIでスピーキングの添削をしてもらっているとのこと。偉そうにいろいろアドバイスしようと思ったら、息子の方が先を行っていた感がある。
いつしか、場所をスタバに変え、3時間近く話をしていた。皮肉なもので、家にいた時よりもいろいろと話をしていた。彼女はまだいないとの事。今は合コンはあるのかと尋ねると、あるにあるがあまり流行りではないらしい。ここでも親父の自慢話をと思ったが空振りに終わる。と言っても、親父はもともと学生時代は空振りばかりだったので、「俺の若い頃はな」と話して聞かせるようなものはないのである。息子相手に自虐ネタもないだろうと聞き置いておいた。
こうして息子と2人の時間を持てたことは、家を出たことの1つのメリットかもしれない。「離婚する」という話も「好きにすれば」という反応。このあたりは子供が大きくなってからの方が影響は少ないだろうと改めて実感する。「夫婦ではなくなっても親子の絆は一生だからな」と最後に加えておいた。また改めてこういう場を設けたいと思う。1つ難しいのは、息子とは気軽に会えるが、娘とはどうしようかと考えてしまうこと。話題は続くだろうか、そもそも誘ったらきてくれるだろうか。美味しいもので釣れるかもしれないが、会話は難しいのではないかと不安になる。
それはそれであるが、やはり親子の絆は永遠。子供達とこういう大人の会話の場はこれからも設けていきたいと思うのである・・・