人は誰しも同じであるが、他人と必ずしも意思疎通ができるわけではない。考え方も感じ方もそれぞれ違う。「そんなつもりはなかったのに」と思うことはしばしばある。大して利害関係が絡まない相手なら放置しておけばいいが、そうでないと厄介である。特に職場や時に家庭ではかなりのストレスになることが多い。相手から自分に対する悪意すら感じる場合もあり、どういう対応を取るかはなかなか難しい。まともに対立しても日々顔を合わす間柄や仕事をしていかないといけない中ではどうしても堪える必要が出てきたりする。考え方の違いもしかりである。
昔と違い、今はパワハラやセクハラが大きく問題となる時代であり、私もそこは神経を使っている。部下と言えども丁寧に接しているのは当然である。それでも何が悪いのか、相手の機嫌を損ねてしまっている。とある関連会社の役員からは理不尽な対応を受けている。一連の経緯について報告していたにも関わらず、「聞いてない」と言われて「独断専行」のそしりを受けてしまっている。「聞いていない」というのは、言ってはいけない一言だと思っている私にしてみると、いかがなものかと思う。
それでも社内では社長の信頼を得ている長老であり、正面から対立するわけにもいかない。ぐっと堪えるしかない。それに何かと皮肉たっぷりな物言いをしてくる部下もいる。私も一応役員だし、そういうものの言い方はどうかと思ってしまうが、それを正面から主張しても対立を招くだけだし、よけい感情的な対立になるかもしれない。嫌味な言い方には気づかない振りをして受け流しているが、はらわたはかなり温度上昇中である。ただ、一方でそれを冷静に受け止めている自分もいる。
相手はなぜそんな対応をするのだろうかと考える。世の中の人はすべて自分が人生の主人公であり、すべての自分の行動は正義であり、善である。相手には相手の正義があり、そこから見ると私の方にも何か(相手から見た)非があるのだろう。家庭でもいつからか妻が私に対して冷たい態度を取るようになっていたが、たぶん何か気に食わないことがあったのだろうが、私にはその自覚がない。コミュニケーション不足とも言えるが、時間が経つにつれて修正をしようという気も起こらなくなってしまった。このまま老後を迎えるより1人になった方がいいと判断して家を出たのである。
自分にわからないというのがなかなか厄介である。わかっていてもこちらにはこちらの理由があるというケースもあるかもしれない。お互いに相手の考えがわからない中、一方的に思い込むという事もある。無用な対立を回避するためにも、報連相と言われるコミュニケーションは大事だと思う。それに「私の方にも何か(相手から見た)非がある」という考え方も大事なように思う。自分が絶対に正しいと盲目的に思うのではなく、自分にも何か非があるのかもしれないと考えることによって、自分の行動を振り返ってみる契機になる。
それに相手の「悪意」(と思われる行為)に対し、まともに腹を立てて報復を考えると、心中穏やかにはいられない。そのことが心の中の多くを占め、不毛な争いへとつながる可能性もある。嫌味に嫌味で返してもそれで得られるのはさらなる相手の反感。それで何か得られるかと言えば、一時の報復感だけのように思う。特に職場では否応なく一緒に仕事をしないといけない。相手の不満を察知する「敏感力」も必要だが、相手の嫌味を受け流す「鈍感力」も必要であると思う(逆になると大変であるが・・・)。
それよりも大事なのは「自分がなすべきこと」であると思う。それがきちんとできていれば組織にとって必要な存在となり、我が身の安泰にもつながるというわけである。幸いなことに、長老も嫌味な部下も私の基本的な仕事の範囲ではそれほど関わり合う事もない。であれば淡々と接して自分の仕事をすればいいと思うし、そうするしかない。その他の事は何が自分の非かがわかるように努力はする程度にとどめておくほかはない。わからないものはわからないが、何かがあるのだろうと慎重に対応するのにとどめておく。
コミュニケーションの難しさを実感するのは今に始まったことではない。自分の気づかぬところで思わぬ反感を買っているのは心安くいられないところがある。あまり横柄に振舞っているつもりはないが、やり方、考え方の点で人と合わないところが出てきてしまうのだろう。それをくよくよ考えても仕方がない。自分のやるべきことをしっかりとやるだけ。そう自らに言い聞かせている。「堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え」とは徳川遺訓であるが、その通りだとつくづく思う。不必要に心を苛立たせることなく、やり過ごしていきたいと思うのである・・・























