
日頃あれこれ思う事どもを思うがまま自由に綴る

渋谷は自宅から一番近い「街」である。地方から見ると、東京(特に23区山手線環内)全体が巨大な「街」と言えるかもしれないが、東京に住んでいると、どうしても「渋谷」「新宿」「池袋」「銀座」といったところが「街」というイメージになる。そんな中でも、渋谷は我が家から一番近い「街」なのである。小学生の時から「街」へ出かけるのはちょっとしたイベントで(小学生からすれば電車で30分ほどのところへ行くのは「お出かけ」気分である)、映画や身近で買えない買い物に行くところであった。人生で最初に映画館で洋画(『ジョーズ』)を観たのも渋谷である。
そんな渋谷は、今は通勤途上の乗り換え駅で、普段降りることもない。高校を卒業してから学生生活の活動拠点は、新宿、吉祥寺、国分寺、国立、立川といった街に移り、渋谷は通過駅になってしまった。しかし、妻と別居して実家に戻った現在、再び渋谷が身近な街になりつつある。連休最中の昨日、久し振りに買い物と映画鑑賞とで渋谷に出かけてきた。夜の渋谷に出かけるという事をしたのはいつ以来だろうかという思いが頭をよぎる。改めて歩いてみると、見慣れていたはずの街が少しずつ変わっているのに気づく。
夜の8時過ぎ。スクランブル交差点では大勢の人が信号を待ち、みんなスマホを上に向けて写真を撮っている。外国人もかなり多い。スクランブル交差点など見慣れた光景だが、外国や地方から来た人には物珍しいのだろう。私も地方に行くとやたらあちこち歩いて写真に収めたくなる。道玄坂もセンター街もよく見れば見慣れない建物が建っている。もしかしたら建物は変わっていないのかもしれないが、テナントが変わっているので景色も違って見えるのである。目指す渋東シネタワーもいつできたのだろうと思う。昔、よく行った「渋谷パンテオン」が取り壊されて久しいが、映画を観る中心も変わっている。個人的に映画好きであるが、近年は映画館から足が遠のいている。今でも映画館での鑑賞がベストだと思うが、周りを他人に囲まれての中で観るのが苦痛になってしまっている。昨日も両サイドの人を気にし、前の男の頭が気になり、しばし映画の中から現実に引き戻されてしまった。以前は、映画館のある西武線沿線の「町」に住んでいたので、人の少ないレイトショーによく行っていた。何せ映画を観終えてから車で5分で帰宅できるので、夜中の2時に終わっても15分後には布団の中にいられたのである。レイトショーだと貸切状態に近く、他人を気にせず映画の世界に浸れたのである。
しかし、渋谷ではそんな鑑賞はできない。昨日も11:40に終わる回だったが、かなりの入りで、やはり他人が気になってしまった。公開日から時間を置いた方がいいのだろうかと思ってみる。別居して一番不便なのは、これかもしれないと思う。妻と別れることに何の未練もないが、あの家を離れる未練は大き過ぎるくらい大きい。鑑賞方法もチケットが発券されない方式に変わっている。昔は前売り券を買って半券は記念に取っておいたものだが、今や何の記録も残らないデジタルの世界になってしまっている。そう言えば映画のパンフレットも見かけなかった。昔は必ず買っていたものだが、今はネットでいろいろとわかるから売れないのだろうかと思ってみる。
映画鑑賞の形もだいぶ変わった。いいか悪いかと問われれば、圧倒的にいい。昔はデートで映画を観に行くと、2席確保できるかどうか(それもみっともない真似をせずに)が死活問題であったが、今はそういう苦労はかけらもない。そういう点ではいいのだろうと思う。売っていたポップコーンも1人で食べるにはサイズが大き過ぎるようだが、専用のフォルダーも付いて扱いやすそうである。映画館側のスタンスも「観せてやる」から「観ていただく」に変わっているようで、観る形は実に快適である(人がいなければ、だが)。
今後も折に触れて映画館にはもう少し行きたいと思う。されどなるべく人が少ない環境を狙っていくようにしたい。深夜に近く、公開日から時間を経て、可能であれば平日とか。映画はなるべくいい環境で観たいと思う。それも自分にとっていい環境である。いろいろ工夫を重ねて、これからまた昔のように渋谷で映画を観る生活を送りたいと思うのである・・・
その昔、私も大学のラグビー部のコーチをしていたことがある。我が大学は国立大学の限界もあり、外部からコーチを招聘できるほどの財力はない。OBの中から有志が選抜されてこの任に当たるのである。今振り返ってみても私には元々コーチの資質はないようで、十分にできたとは言い難い。まぁ、それでもヘッドコーチではなかったし、監督もいたのでそれなりに役割は果たせていたと思う。そんな中でも、一つ印象に残っている事がある。それはとある選手が、「監督に褒められたい」と語った事である。
当時の監督は、厳しい方で、滅多に人を褒めることのない人であった。私はと言えば、良いところがあれば素直に褒めるタイプで、それは我が子の子育てでもそうであったし、会社でも社員に対するスタンスは今もってそうである。滅多に褒めることのない人から褒められるというのは、やはり嬉しいものだろう。そう言えば、映画『プラダを着た悪魔』でのラストシーン。主人公のアンディの転職での面接で、面接官がアンディの元上司ミランダからの推薦の言葉をアンディに伝える。業界でも有名なミランダは部下に厳しくアンディも褒められることはなかったのに思いもかけない最高の褒め言葉を最後にもらう。なかなか良いシーンであった。
褒めるのが良いのか、褒めないのが良いのかは難しい。私の昔の上司はやはり滅多に褒めない人であったが、挨拶しても返事もしない人で、さらに一度大きな判断ミスがあった。自分でもよくできたと思うことはあったが、その人は常にむっつりしていた。正直言ってその人に褒められたいとは露も思わなかった。たとえ褒められたとしても嬉しいと思ったかどうかと思うと微妙である。考えてみれば、褒められたいかどうかはその人に対するリスペクトがあるかないかにもかかっていると思う。
自分に褒められたくて頑張っていると言われれば嬉しいだろう。自分はすぐに褒めるタイプなので、おそらくそう思われた事はないだろうと思う。しかし、では褒めなければいいのかと言うとそうではない。根底にリスペクトがないとダメだろう。ではリスペクトはどうしたら生まれるのかと考えてみると、前述の監督と元上司とを比べてみるとわかるような気がする。監督はラグビーに精通し、日頃の言動から選手はその言葉を信頼し、指導を受け入れている。元上司は挨拶も返さず、部下に対するダメ出しばかりである。そして自分も判断ミスをする。
「やれ」と言うのは簡単だが、できない場合にどうすれば良いのか。そこに対する指導なり見本を見せるなりがないといけない。口ばかりで「自分はできるのか」と思われたらリスペクトは難しい。もちろん、監督は年齢もあるから自ら手本を示すことはなかったが、その指導内容が十分であったから選手のリスペクトは得られていたと思う。元上司もせめて挨拶ぐらい普通の社会人の常識としてできていたらもう少し違ったかもしれないと思う。部下として尻拭いさせられた時も、何のねぎらいの言葉もなかったのには軽蔑の念しか浮かばなかった。
自分はこの先も性格的に「あの人に褒められたい」と思われることはないのだろうと思う。されどそれも仕方ない。自分の判断でいいなと思ったらすぐに褒める事はこれからも継続していこうと思う。そこは無理をせず、自分らしくありたいと思うのである・・・
仕事として採用に携わっている。中小企業としては頑張って毎年新卒採用を継続していると思うが、いかんせん東京での知名度の低さは致命的であり、採用は地方からの割合が多い。地方の大学や専門学校をまわって会社説明会、面接と行っているが、近年そういう地方の学生の「地元志向」が高くなっている。「東京よりも地元で就職したい」ということである。採用側としては残念に思うが、広い目で見れば人口が減少する中で、都市集中・地方衰退という問題に対しては良い傾向と言える。
以前は、「地元に残りたくても仕事がない」という事が言われ、必然的に都会に出てくるというのが多いパターンであったと思う。今もその傾向はあると思うが、だいぶ緩和されてきているということだろうと思う。もともと「仕事があればわざわざ都会へ行くこともない」という意識が潜在的にはあったのかもしれない。そういう意味では、人の意識が変わったというよりも、就職環境が変わったということなのかもしれない。今や地方に行ってもユニクロや吉野家などはどこにでもあり、地名が出ていなければどこの街かわからない所も多い。
そうした「地元志向」は果たしていい事なのだろうか。「男なら東京へ出て一旗揚げようと思わないのかね」と我が社の年配社員は言う。私もその感覚はよく理解できる。ただ、地元志向がチャレンジ精神の衰えという意味かと問われるとそうとも言えないように思う。地方の方が慣れ親しんだいい環境はあるし、友人たちも多いだろう。それに親の近くにいたいという感覚は、親離れしていないというよりも、将来自分が面倒をみないといけないという感覚の方が近いようでもある。
実際、数年前、我が社でも故郷に帰ると離職した社員がいた。3人兄弟であったが、兄が東京へ出て、自分も東京へ出たが、弟も東京へ出ることになり、子供がみんな東京に出てしまうのはどうかと思い、自分が帰ることにしたということであった。我が社としては人材流出になるわけで誠に残念であったが、理由が理由だけに引き止めも難しく見送ることになった。親の立場からすればどう思うのだろうかと思ってみる。気持ち的には「親の事は考えずに自分の人生を好きなように生きろ」と言いたいが、地元に残るのなら頼もしいと思うのではないかと思う。
私はもともと東京生まれなので、就職に際してはそういう迷いはなかった。実際、就職して家を出ても、実家に帰るのはわずかであったが、時間をかけて帰省するという労力がゼロだったのは楽だったと思う。年老いて両親2人ではとても生活が困難となった今、別居もあって私が実家に出戻れたのも、東京に実家があったからである。もしも地方だったらどうなっていただろうと考えると恐ろしい。若い頃には意識すらしなかったが、今になって実感しているメリットである。
「東京へ出てもいずれ戻ってくればいい」という考え方もある。「いずれ」が「老後」を意味するならそれもありうる。ただ、定年も延長傾向にあり親の健康度合いもひとそれぞれであり、想定通りにいくかどうかわからない。それに結婚すればパートナーの意向にも左右される。子供が生まれれば子供の地元は東京になり、慣れない父親の故郷に行きたがらないかもしれない。「いずれ戻ればいい」という考えは、思う通りにいかないリスクが大きい(単身戻るということなら可能だろうが・・・)。
子供も成人すれば後は自分の人生である。もちろん、親は大切な家族であり、そこに対する思いも大切である。故郷を離れて生きていくか、あるいは生まれ育った地元で一生を過ごすか。そこには明確な正解はない。自分は東京で生まれ育ち、今も暮らしている。それゆえに親の面倒を見ながら仕事も続けていられるし、その点ではラッキーだったと言えるだろう。もしも、地元を離れて生活基盤を築いていたらどうなっていただろうか。あまりそこは考えたくないところである。
地元志向の学生に対し、「夢がない」とか「チャレンジ精神がない」などとは思わない。地元に残るにしろ、都会へ出るにしろ、その人の人生でありどちらが良いとか悪いとかではなく、「選択」の問題に過ぎないと思う。ただ、その「選択」をして東京へ出てきて、我が社に就職してくれた社員には感謝したいと思う。そして将来、何かしら実家との関係で困ったことがあれば親身になって相談に乗ってあげたいと思う。たとえ「地元を離れた」事を後悔したとしても、我が社に入社したことだけは正解だったと思ってもらえればと思う。
考えてみれば私の子供たちももしかしたら地方で暮らすことを選ぶかもしれない。今の時代、それは海外かもしれない。そういう「選択」を子供たちがした時には、気兼ねさせることがないようにしたいと思う。歳をとって自分がどうなるか、自分の意思だけでは何ともできないが、そういう意思は持ち続けていきたいと思うのである・・・
人は誰しも同じであるが、他人と必ずしも意思疎通ができるわけではない。考え方も感じ方もそれぞれ違う。「そんなつもりはなかったのに」と思うことはしばしばある。大して利害関係が絡まない相手なら放置しておけばいいが、そうでないと厄介である。特に職場や時に家庭ではかなりのストレスになることが多い。相手から自分に対する悪意すら感じる場合もあり、どういう対応を取るかはなかなか難しい。まともに対立しても日々顔を合わす間柄や仕事をしていかないといけない中ではどうしても堪える必要が出てきたりする。考え方の違いもしかりである。
昔と違い、今はパワハラやセクハラが大きく問題となる時代であり、私もそこは神経を使っている。部下と言えども丁寧に接しているのは当然である。それでも何が悪いのか、相手の機嫌を損ねてしまっている。とある関連会社の役員からは理不尽な対応を受けている。一連の経緯について報告していたにも関わらず、「聞いてない」と言われて「独断専行」のそしりを受けてしまっている。「聞いていない」というのは、言ってはいけない一言だと思っている私にしてみると、いかがなものかと思う。
それでも社内では社長の信頼を得ている長老であり、正面から対立するわけにもいかない。ぐっと堪えるしかない。それに何かと皮肉たっぷりな物言いをしてくる部下もいる。私も一応役員だし、そういうものの言い方はどうかと思ってしまうが、それを正面から主張しても対立を招くだけだし、よけい感情的な対立になるかもしれない。嫌味な言い方には気づかない振りをして受け流しているが、はらわたはかなり温度上昇中である。ただ、一方でそれを冷静に受け止めている自分もいる。
相手はなぜそんな対応をするのだろうかと考える。世の中の人はすべて自分が人生の主人公であり、すべての自分の行動は正義であり、善である。相手には相手の正義があり、そこから見ると私の方にも何か(相手から見た)非があるのだろう。家庭でもいつからか妻が私に対して冷たい態度を取るようになっていたが、たぶん何か気に食わないことがあったのだろうが、私にはその自覚がない。コミュニケーション不足とも言えるが、時間が経つにつれて修正をしようという気も起こらなくなってしまった。このまま老後を迎えるより1人になった方がいいと判断して家を出たのである。
自分にわからないというのがなかなか厄介である。わかっていてもこちらにはこちらの理由があるというケースもあるかもしれない。お互いに相手の考えがわからない中、一方的に思い込むという事もある。無用な対立を回避するためにも、報連相と言われるコミュニケーションは大事だと思う。それに「私の方にも何か(相手から見た)非がある」という考え方も大事なように思う。自分が絶対に正しいと盲目的に思うのではなく、自分にも何か非があるのかもしれないと考えることによって、自分の行動を振り返ってみる契機になる。
それに相手の「悪意」(と思われる行為)に対し、まともに腹を立てて報復を考えると、心中穏やかにはいられない。そのことが心の中の多くを占め、不毛な争いへとつながる可能性もある。嫌味に嫌味で返してもそれで得られるのはさらなる相手の反感。それで何か得られるかと言えば、一時の報復感だけのように思う。特に職場では否応なく一緒に仕事をしないといけない。相手の不満を察知する「敏感力」も必要だが、相手の嫌味を受け流す「鈍感力」も必要であると思う(逆になると大変であるが・・・)。
それよりも大事なのは「自分がなすべきこと」であると思う。それがきちんとできていれば組織にとって必要な存在となり、我が身の安泰にもつながるというわけである。幸いなことに、長老も嫌味な部下も私の基本的な仕事の範囲ではそれほど関わり合う事もない。であれば淡々と接して自分の仕事をすればいいと思うし、そうするしかない。その他の事は何が自分の非かがわかるように努力はする程度にとどめておくほかはない。わからないものはわからないが、何かがあるのだろうと慎重に対応するのにとどめておく。
コミュニケーションの難しさを実感するのは今に始まったことではない。自分の気づかぬところで思わぬ反感を買っているのは心安くいられないところがある。あまり横柄に振舞っているつもりはないが、やり方、考え方の点で人と合わないところが出てきてしまうのだろう。それをくよくよ考えても仕方がない。自分のやるべきことをしっかりとやるだけ。そう自らに言い聞かせている。「堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え」とは徳川遺訓であるが、その通りだとつくづく思う。不必要に心を苛立たせることなく、やり過ごしていきたいと思うのである・・・
ダイヤモンド・オンラインの『従業員の不満投稿が多いブラック企業ランキング【2026年上半期・製造業ワースト18完全版】…三菱電機、日立、SUBARUの順位は?』という記事を目にした。何に不満を持つかは人それぞれであり、どこの企業であろうと不満のない企業などないと思うが、それでも内容的には興味があって目を通してみた。対象は製造業であり、我が社の属する情報通信業でないのはちょっと残念であるが、それでも見てみる価値はあると思う。
ランキングは、下記の通り。最近、「創業社長」と「2代目社長」との違いを感じることが多い。人は誰でも育ってきた環境が大きくモノを言う。それは経営者たる社長にも当てはまる事であると感じるのである。創業社長は、自らがスタートとなって、事業を切り開いてきた人物。どうやって売上を上げるのかを考え、それが軌道に乗れば人を雇い、組織を作って事業を拡大していく。常に0からのスタートであり、創意工夫の日々であろう。だから何か問題があれば自分の意思でそれを解決し、壁を突破していこうという意欲がある。ところが、2代目(以降)となると、様相が変わる。
2代目が社長に就任した時には、既に事業が軌道に乗っている。組織化されて人もいる。現場、営業、経理、総務など組織が出来上がっていて、新たに作り上げる必要がない。基本的に部下に任せることになり、結果報告を受けて次の指示を出すということになる。いわば「前例踏襲」とでも言うべきものだろうか。そうなると、経営環境に恵まれていれば問題ないが、そうでなければ停滞感が出てくる。必要なのは変化であるが、それができれば業績も伸びていく。2代目、3代目で業績が伸びる企業はこのタイプである。
私の前職の不動産会社は、お金持ちの父親が息子のためにお金を出して人を集めて、最初は工事会社としてスタートした。最初の頃は父親も会長として経営に関与し、社員が働いて事業は順調であった。ところが父親が亡くなって会社は失速する。社長である息子は基本的に部下任せ。文系の息子は現場の事がわからず、営業もわからない。ボンボンとして苦労せずにサラリーマンをやっていたが、働く能力を身につけておらず、やがて会社の経営は傾き、9年間で7期赤字という状態であった。
そんな会社に高校の後輩として請われて入社し、私が1から経営を立て直した。自ら考えて事業の先頭に立っていかに売上を上げるかを考えて改善を繰り返したのである。結果、6年連続で増収、累積損失は一掃し、最終年度は最高益を達成した(そしていきなり会社を売却されクビになった)。別の知り合いの会社は、2代目社長は経理畑出身。されどやはり現場の事がわからない。どうやって売上を上げたらよいかわからず、売上が低迷する中、得意の経費削減で危機を乗り越えようとしている。
企業の成長は何をもって図るかとすれば、基本は売上だろう。売上が伸びることで企業は成長する。そして企業を成長させるのは誰の仕事かと考えると、それはやはり経営の仕事。実際に動くのは現場だとしても、それを導くのは経営である。経費削減も大事だが、一番重要なのは売上である。低迷しているのなら、それはなぜか、どうしたら突破できるのか、それを考えるのは経営である。ところが、自ら道を切り開いてこなかった2代目にはそれができない。部下を叱ってみても部下だって手を抜いているわけではない。やきもきしても売り上げは伸びない。
創業社長と2代目社長の違いがそんな例に当てはまると、会社は厳しい。現場がわからなければどうすれば良いのか。私自身の経験からすれば、社内にあっては社員と対話し、社外にあっては同業者に話を聞いたり、本を読んだりして自ら道を探っていくことだろう。率先して取引先を開拓することだっていいだろう。経理出身でもそれはできるはず。それが自らの得意分野にこもってしまったら、誰が会社を引っ張るのだろう。現場の部長とでも言うのだろうか。「社長の仕事」は部下を叱ることではない。いかに動かして売上を上げるかである。
よく観ている『カンブリア宮殿』では、父親から継いだ企業を大きく伸ばした2代目(あるいはそれ以降)の経営者が登場する。みんな自らが主体となってどのように売上を伸ばしていくかを必死に考え、そして部下を叱咤激励して導いている。どんと椅子に座っていて売上が伸びていくなら世話はない。自ら道を切り開いた創業者と並ぶためには、2代目もまた自ら道を切り開く気概がないといけない。それでなければ真の経営者とは言えないと思う。
私はこの先経営者になることはないと思う。されどそういう気概は常にもっておきたいと思う。そしてそれを生かせる場を得ていきたいと思うのである・・・
平日は毎日6時に起きて、髭を剃ったりゴミの日にはゴミを出したりし、ヨーグルトの朝食を取りながら朝の読書をする。それから出勤。電車の中では主にビジネス系の本を読み、仕事をして帰りには主に小説を読みながら帰宅する。両親のために食事の支度をして一緒に食べ、それから寝るまでの間、自由時間を楽しむ。「判で押したような」と言えば言える毎日を送っている。若い頃はそんな毎日を送るのは耐え難く、常に何らかの変化を欲していたが、今はそういう毎日を愛おしく思う。
そんな毎日を「つまらない」と言われるかもしれない。言われてもそれに対する反論は持ち合わせていない。ならばそういう毎日を諦めているのかと言われればさにあらず。そういう「判で押した」毎日こそが大事だと思う。もちろん、それだけで終わっているならいつか耐えきれなくなるのかもしれない。しかし、週末は好きな映画を観たりラグビーをしたりと平日とは変化があるし、年に数回は温泉に行ったりしている。そういう至福の時間も持てている。それで十分だと思う。
その昔、一緒に働いていた同僚は、一日の仕事が終わると、「今日も良いことがなかった」とボヤいていた。しかし、「悪いことだってなかっただろうし、それでいいじゃないか」と私は毎日心の中で反論していた。どこに焦点を合わせるかという話かもしれないが、私はどちらかと言えば「コップに半分“も”水が入っている」と考える方であり、「良い事がない」よりも「悪い事がない」方を選ぶタイプである。なので何の心配もなく夜布団の中で目を瞑る事ができる平凡な日々をありがたく思う。
そんな私だが、過去に何度か不安で夜眠れない経験をしたことがある。不安とは誠に厄介なもので、「(悪い事態が)起こるかもしれない」という予想であるが、実際に起こっているわけではない。されど起こった時の状況を想像するだけで苦しくなるものである。起きている間中、その不安が心から離れない。何をしても集中できない。ようやく夜、眠りにつくが、不安で眼が冴えたり、せっかく眠れても不安な夢を見て夜中に目が覚めてしまう。私の性格からして誰にも辛い心中を打ち明けられない。
逃げ出したくても逃げる場所はなく、12年前は毎朝近所の神社に行き、頭を垂れて心の平安を得ようとした。神頼みは意味がないと常日頃考えているが、神社の厳粛な雰囲気が心を落ち着かせるという効果をもたらした。その間、ブログも中断している。そんな心境ではなかったのである。5年前はそこまで酷くなく、会社の事業展開のために銀行借入の連帯保証人になる事になり、万が一の時には財産を失う恐怖に震えた。それなのに突然の社長の裏切りで失業に瀕したわけで、連帯保証の恐怖と失業の恐怖とがダブルで襲ってきたのだった。それでも「神に祈れ、だが岸に向かって漕ぐ手は緩めるな」というロシアの格言の心境が多少の救いになっていたところがある。
そうした経験を経て思ったのは、人生至福の経験も大事だが、こういう不安に怯える日々は過ごしたくないという気持ちである。夜中に不安な気持ちが高ぶって目が覚める事ほど耐えがたいものはない。人生山あり谷ありと言われるが、山低くとも谷が浅いに越したことはない。そこに重きを置くがゆえに、何も起こらない平和で平凡な日々が愛おしいのである。もちろん、山は高い方がいいが、富士山でなくても高尾山くらいがいくつかあるほどで十分だと思う。今年の夏休みも万座温泉に行ってこられたし、それが何よりである。
人を羨めばキリがない。友人知人の中には私よりも金を稼いでいる者がいるし、頻繁に海外旅行に行ったり、高級車に乗ったり(個人的にはあまり高級車には興味はそそられない)、夫婦仲が良かったり(これはかなり羨ましい)しているのを見ると羨ましいと思う。自分もできるだけ欲望に沿うように生きたいと思うし、そのための努力はしたいが、だからと言って足元の平凡な1日1日を嘆くつもりはない。ほとんど記憶にも残らないようなこうした平凡な毎日こそがありがたいと思う。
こうした心境は、「勝つ事よりも負けない事」を重視するものかもしれない。負けなければいいという考え方は消極的かもしれないが、勝つ事よりも重要だと個人的には思う。それは弱者の戦略かもしれないが、生き残り戦略としては正しいものの一つである。6600万年前の生物の大量絶滅期に生き残ったのは強いものではなく、むしろ弱いものであったようだし、自分が弱者であるとは思わないが、人に羨ましがられる強者でなくてもいいと言うのが正直なところである。何よりも心の安定を維持していきたいし、そこに重きを置くのであれば、平凡な毎日はそれを満たしている。
いずれ海外旅行にも行こうと思う。国内でも石垣島には行きたいし、非日常の楽しみは追及していきたい。そしてそのためにも心穏やかに暮らせる毎日を大事にしたいと思う。平凡な日々を恥じることなく過ごしたいと思うのである・・・
昨年、群馬県立自然史博物館を訪問し、その流れで東京の国立科学博物館にも行こうと思っていたのだが、週末はラグビーと家事とに追われる日々を過ごしているうちに、何となく1年過ぎてしまった。そこで先週末に上野にある国立科学博物館に行ってきた。数えてみれば前回の訪問からは16年ぶり、通算3度目の訪問である。個人的には何度行っても飽きない場所であるし、何度でも行きたい場所であると思う。何やら特別展をやっていたが、そういう特別展よりも、むしろ通常の展示の方が私の趣向にはあっているのである。
入るとまずはフーコーの振り子が迎えてくれる。初めて行ったのは小学校の時だったと思うが、このフーコーの振り子が強く印象に残っている。その振り子だが、入った時は14時のところを指している。これもよくよく考えてみれば不思議である。フーコーはこれによって地球の自転を証明したとされる。重い振り子を用いることによって地面とは別の動きとなり、自転によって地面が動くことで振り子が動いているように見えるというもの。よくこういうことを思いついたものだと思わざるを得ない。
日本館では、田中久重の発明品の数々が目に付く。前回も見たかどうか記憶にないが、幕末から明治にかけての時代にこれだけのものを発明したというのは凄いと思う。このコーナーは「測る」というテーマで、距離や時間や重さや長さなどをどのように測ってきたのかが展示されている。今はしっかりと度量衡が定められているから我々は何の躊躇もなく距離や時間や重さや長さなどの話ができる。これも先人のおかげではあるが、我々が恩恵を受けていることだと思う。
群馬県立自然史博物館へ行った時は、生命の歴史に興味があったからだが、今回はそれほどの興味の対象があったわけではなく、何となく漠然と見て回ったのが正直なところ。全体として、前回の記憶とはかなり異なっていることに気付く。おそらく、定期的に展示内容を変えているのだろう。前回、目についた零戦の展示がなくなっていた。どういう基準なのか興味深いところである。それでも恐竜コーナーは相変わらずで、人の多さから見ても人気コーナーなのだろうという事が窺われる。
博物館となれば、展示の基準は人気のあるなしではないと思うが、それでも人気のあるコーナーは充実させようという意図が働くものだろう。個人的には恐竜の骨よりも人類の進化の方に目が行ったのは事実である。猿人と呼ばれるところから少しずつ進化を遂げていく。アウストラロピテクスなどお馴染みのものもあり、長い時間をかけてホモ・サピエンスに近づいていく。展示を見るのは簡単であるが、骨の発掘から調査して結論を得てという気の長い作業の結果であり、考古学というものの奥深さを感じさせられる。
今回、ちょっと興味を惹かれたのは、コンピュータの進化過程。旧国鉄で座席の予約システムが全国規模でできるようになった時のシステムが展示されていた。今では当たり前のように思うが、それまで人力に頼っていた座席の予約が一気にできるようになったのがいかに画期的だったのか、解説を読んで改めて思わされた。と同時に、それを人力でやっていたという方がすごい事のように思う。当時の様子がどんなだったのか、詳しく知りたいとすら思う。たまにこういう経験もいいと思う。帰ろうとしてフーコーの振り子のところまで戻ってくると、振り子は17時半過ぎの位置で動いていた。見ている間に地球は休む事なく自転していたようである。もう少し時間をかけて一つ一つじっくり見たかったなというのが正直なところ。しかし、それにあたって最大のネックは疲労かもしれない。途中で少し休憩したが、それでも最後はかなり疲れてしまった。あるいは、日本館と地球館とを別日にして見学するのも手かもしれない。
博物館も各地にあるし、それぞれ特徴もあるのだろう。少し調べてみて、全国の博物館巡りも面白いかもしれないと思う。意識して時間を作り、己の知的好奇心に刺激を与え続けたいと思うのである・・・