2026年9月2日水曜日

二代目

 最近、「創業社長」と「2代目社長」との違いを感じることが多い。人は誰でも育ってきた環境が大きくモノを言う。それは経営者たる社長にも当てはまる事であると感じるのである。創業社長は、自らがスタートとなって、事業を切り開いてきた人物。どうやって売上を上げるのかを考え、それが軌道に乗れば人を雇い、組織を作って事業を拡大していく。常に0からのスタートであり、創意工夫の日々であろう。だから何か問題があれば自分の意思でそれを解決し、壁を突破していこうという意欲がある。ところが、2代目(以降)となると、様相が変わる。

 2代目が社長に就任した時には、既に事業が軌道に乗っている。組織化されて人もいる。現場、営業、経理、総務など組織が出来上がっていて、新たに作り上げる必要がない。基本的に部下に任せることになり、結果報告を受けて次の指示を出すということになる。いわば「前例踏襲」とでも言うべきものだろうか。そうなると、経営環境に恵まれていれば問題ないが、そうでなければ停滞感が出てくる。必要なのは変化であるが、それができれば業績も伸びていく。2代目、3代目で業績が伸びる企業はこのタイプである。

 私の前職の不動産会社は、お金持ちの父親が息子のためにお金を出して人を集めて、最初は工事会社としてスタートした。最初の頃は父親も会長として経営に関与し、社員が働いて事業は順調であった。ところが父親が亡くなって会社は失速する。社長である息子は基本的に部下任せ。文系の息子は現場の事がわからず、営業もわからない。ボンボンとして苦労せずにサラリーマンをやっていたが、働く能力を身につけておらず、やがて会社の経営は傾き、9年間で7期赤字という状態であった。

 そんな会社に高校の後輩として請われて入社し、私が1から経営を立て直した。自ら考えて事業の先頭に立っていかに売上を上げるかを考えて改善を繰り返したのである。結果、6年連続で増収、累積損失は一掃し、最終年度は最高益を達成した(そしていきなり会社を売却されクビになった)。別の知り合いの会社は、2代目社長は経理畑出身。されどやはり現場の事がわからない。どうやって売上を上げたらよいかわからず、売上が低迷する中、得意の経費削減で危機を乗り越えようとしている。

 企業の成長は何をもって図るかとすれば、基本は売上だろう。売上が伸びることで企業は成長する。そして企業を成長させるのは誰の仕事かと考えると、それはやはり経営の仕事。実際に動くのは現場だとしても、それを導くのは経営である。経費削減も大事だが、一番重要なのは売上である。低迷しているのなら、それはなぜか、どうしたら突破できるのか、それを考えるのは経営である。ところが、自ら道を切り開いてこなかった2代目にはそれができない。部下を叱ってみても部下だって手を抜いているわけではない。やきもきしても売り上げは伸びない。

 創業社長と2代目社長の違いがそんな例に当てはまると、会社は厳しい。現場がわからなければどうすれば良いのか。私自身の経験からすれば、社内にあっては社員と対話し、社外にあっては同業者に話を聞いたり、本を読んだりして自ら道を探っていくことだろう。率先して取引先を開拓することだっていいだろう。経理出身でもそれはできるはず。それが自らの得意分野にこもってしまったら、誰が会社を引っ張るのだろう。現場の部長とでも言うのだろうか。「社長の仕事」は部下を叱ることではない。いかに動かして売上を上げるかである。

 よく観ている『カンブリア宮殿』では、父親から継いだ企業を大きく伸ばした2代目(あるいはそれ以降)の経営者が登場する。みんな自らが主体となってどのように売上を伸ばしていくかを必死に考え、そして部下を叱咤激励して導いている。どんと椅子に座っていて売上が伸びていくなら世話はない。自ら道を切り開いた創業者と並ぶためには、2代目もまた自ら道を切り開く気概がないといけない。それでなければ真の経営者とは言えないと思う。

 私はこの先経営者になることはないと思う。されどそういう気概は常にもっておきたいと思う。そしてそれを生かせる場を得ていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 「偶然」はどのようにあなたをつくるのか: すべてが影響し合う複雑なこの世界を生きることの意味 - ブライアン・クラース, 柴田裕之 百年の時効 (幻冬舎単行本) - 伏尾美紀




2026年8月30日日曜日

論語雑感 郷党第十 (その6)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
君子不以紺緅飾。紅紫不以爲褻 服。當暑袗絺綌、必表而出之。緇衣羔裘、素衣麑裘、黃衣狐裘。褻裘長、短右袂。必有寢衣、長一身有半。狐貉之厚以居。去喪無所不佩。非帷裳、必殺之。羔裘玄冠、不以弔。吉月必朝服而朝。
【読み下し】
くんかんしゅうもっかざらず。こうもっ褻服せつふくさず。しょたってはひとえげきかならひょうしてこれいだす。緇衣しいにはこうきゅう素衣そいにはげいきゅうこうにはきゅうせつきゅうながく、みぎたもとみじかくす。かならしんり、なが一身有半いっしんゆうはんかくあつきをもっる。のぞけばびざるところし。しょうあらざれば、かならこれさいす。こうきゅう玄冠げんかんしては、もっちょうせず。吉月きつげつにはかならちょうふくしてちょうす。
【訳】
先生は 衣服にもこまかな注意を払われる。紺色や淡紅色は喪服の飾りだから、それを他の場合の襟の飾りには用いられないし、また平常服に赤や紫のようなはでな色を用いられることもない。暑い時には単衣のかたびらを着られるが、下着なしに着られることはない。黒衣の下には黒羊の皮衣、白服の下には白鹿の皮衣、黄衣の下には狐の皮衣を用いられる。平常服の皮衣は温かいように長目に仕立てられるが、働きよいように右袂を短くされる。寝衣は必ず別にされ、長さは身長の一倍半である。家居には、狐や狢の毛皮を用いて暖かにされる。喪の時以外は玉その他の装身具をきちんと身につけていられる。官服・祭服のほかは簡略にして布地を節約される。黒羊の皮衣や黒の冠で弔問されることはない。退官後も、毎月朔日には礼服を着て参賀される。
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 人間はいつから服を着るようになったのだろう。たぶん最初は防寒などの機能面からの必要だったのではないかと思う。それから「隠す」「守る」などの目的もあるかもしれない。寒さに震える心配のないアフリカの発展途上民族などはいまだに下半身だけを覆うような感じだが、それはやはり「隠す」という目的なのだろうが、それが羞恥心に結びついているのかどうかは興味深い。そして衣服が広まると、やがて「機能」だけではなく、「装飾」という意味合いも出てきたのだと思う。

 その装飾も最初はちょっとした他人との違いや変化を楽しむものだったのかもしれない。それがやがては地位を表すようになったのであろう。地位が上がれば、服装も贅沢になる。豪華な服装はそれを着る人の地位や財力を表す。それは現在に至るまで変わっていない。それは世界中で共通している考え方であると思う。それが各地域で独自に同じように発展したのか、あるいは祖先が世界各地に散っていく時にはすでにそういう考え方があったのかはわからない。TPOに合わせて服装を選ぶのは社会にも浸透した考え方である。

 サラリーマンの服装と言えばスーツであるが、これも時代とともに少しずつ変化している。私が社会人になった時は、上下のスーツにネクタイが基本的なスタイルで、それは季節を通じて同じであった。それが「クールビズ」が登場し、夏の軽装化が始まった。これは非常にありがたいもの。室内に入ればエアコンが効いているが、外の炎天下でネクタイ着用はかなり厳しい。これがなくなったのは本当にありがたかった。やがてそのクールビズもさらに進化している。

 私は、今や夏場はおろか、オールシーズンノーネクタイである。IT業界は服装が自由だからという理由だけでなく、我が社を訪問してくる銀行の担当者も同様である。お堅い銀行業界がそうなのだから尚更であろう。その昔、銀行員時代に八王子支店に在籍していた時、地域伝統であるネクタイ業界の一社を担当していたが、今は生き残っているのだろうか。ただし、オールシーズンノーネクタイと言っても、新入社員の入社式とそれに伴う新入社員研修の時はネクタイ着用である。ネクタイも今や冠婚葬祭やイベントの時の正装になりつつある。

 と言いつつ、考えてみればネクタイはいつだって「正装」であったのかもしれない。ビジネスにおいては、サラリーマンは「正装」で臨んでいたのかもしれない。それが時代と共に「正装」でなくてもいいという「略式化」が進んだという考え方もできる。それゆえに、入社式のようないわゆる企業の「儀式」の時には「正装」なのである。私もこの夏はこれまでの半袖ワイシャツから進化してとうとうポロシャツなどのカジュアルシャツを導入した。

 最近はさらに靴も革靴からスニーカーへと変化しつつある。私はまだ何となくスニーカーには抵抗があって履いていないが、我が社の社長も一部役員もスニーカーを履いているし、ここぞとばかりなのか、スニーカー業界もビジネス用に乗り出してきているようである。私もまだ抵抗があるとは言え、それは精神的なものというより、何となく「似合っていない」と感じるからである。スーツにニューバランスのスニーカーなどは、今の私の感覚だと真似したいと思わないのである(デザインが変わればわからない)。

 ビジネスがカジュアル化していくのは悪くないと思う。今はまだ「ビジネスカジュアル」だが、いずれ完全にカジュアルになるのだろうか。ただ、個人的には、やはりビジネスシーンにおいては、ある程度私生活とは異なるフォーマル度合いを残していきたいと思う。私は、目標として(最低でも)70歳まで働きたいと頑張っている。あと8年はビジネスマンとして働きたい。その間は、今のビジネスカジュアルが続いていって欲しいと思うが、時代に合わせたいとも思う。

 何事についても変化は否定すべきではないと思うが、服装については現状からあまりカジュアル化して欲しくないと思う。スポーツにユニフォームがあるように、ビジネスにも「ユニフォーム」があってもいいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 百年の時効 (幻冬舎単行本) - 伏尾美紀




2026年8月26日水曜日

平凡な日々がいい

 平日は毎日6時に起きて、髭を剃ったりゴミの日にはゴミを出したりし、ヨーグルトの朝食を取りながら朝の読書をする。それから出勤。電車の中では主にビジネス系の本を読み、仕事をして帰りには主に小説を読みながら帰宅する。両親のために食事の支度をして一緒に食べ、それから寝るまでの間、自由時間を楽しむ。「判で押したような」と言えば言える毎日を送っている。若い頃はそんな毎日を送るのは耐え難く、常に何らかの変化を欲していたが、今はそういう毎日を愛おしく思う。

 そんな毎日を「つまらない」と言われるかもしれない。言われてもそれに対する反論は持ち合わせていない。ならばそういう毎日を諦めているのかと言われればさにあらず。そういう「判で押した」毎日こそが大事だと思う。もちろん、それだけで終わっているならいつか耐えきれなくなるのかもしれない。しかし、週末は好きな映画を観たりラグビーをしたりと平日とは変化があるし、年に数回は温泉に行ったりしている。そういう至福の時間も持てている。それで十分だと思う。

 その昔、一緒に働いていた同僚は、一日の仕事が終わると、「今日も良いことがなかった」とボヤいていた。しかし、「悪いことだってなかっただろうし、それでいいじゃないか」と私は毎日心の中で反論していた。どこに焦点を合わせるかという話かもしれないが、私はどちらかと言えば「コップに半分“も”水が入っている」と考える方であり、「良い事がない」よりも「悪い事がない」方を選ぶタイプである。なので何の心配もなく夜布団の中で目を瞑る事ができる平凡な日々をありがたく思う。

 そんな私だが、過去に何度か不安で夜眠れない経験をしたことがある。不安とは誠に厄介なもので、「(悪い事態が)起こるかもしれない」という予想であるが、実際に起こっているわけではない。されど起こった時の状況を想像するだけで苦しくなるものである。起きている間中、その不安が心から離れない。何をしても集中できない。ようやく夜、眠りにつくが、不安で眼が冴えたり、せっかく眠れても不安な夢を見て夜中に目が覚めてしまう。私の性格からして誰にも辛い心中を打ち明けられない。

 逃げ出したくても逃げる場所はなく、12年前は毎朝近所の神社に行き、頭を垂れて心の平安を得ようとした。神頼みは意味がないと常日頃考えているが、神社の厳粛な雰囲気が心を落ち着かせるという効果をもたらした。その間、ブログも中断している。そんな心境ではなかったのである。5年前はそこまで酷くなく、会社の事業展開のために銀行借入の連帯保証人になる事になり、万が一の時には財産を失う恐怖に震えた。それなのに突然の社長の裏切りで失業に瀕したわけで、連帯保証の恐怖と失業の恐怖とがダブルで襲ってきたのだった。それでも「神に祈れ、だが岸に向かって漕ぐ手は緩めるな」というロシアの格言の心境が多少の救いになっていたところがある。

 そうした経験を経て思ったのは、人生至福の経験も大事だが、こういう不安に怯える日々は過ごしたくないという気持ちである。夜中に不安な気持ちが高ぶって目が覚める事ほど耐えがたいものはない。人生山あり谷ありと言われるが、山低くとも谷が浅いに越したことはない。そこに重きを置くがゆえに、何も起こらない平和で平凡な日々が愛おしいのである。もちろん、山は高い方がいいが、富士山でなくても高尾山くらいがいくつかあるほどで十分だと思う。今年の夏休みも万座温泉に行ってこられたし、それが何よりである。

 人を羨めばキリがない。友人知人の中には私よりも金を稼いでいる者がいるし、頻繁に海外旅行に行ったり、高級車に乗ったり(個人的にはあまり高級車には興味はそそられない)、夫婦仲が良かったり(これはかなり羨ましい)しているのを見ると羨ましいと思う。自分もできるだけ欲望に沿うように生きたいと思うし、そのための努力はしたいが、だからと言って足元の平凡な1日1日を嘆くつもりはない。ほとんど記憶にも残らないようなこうした平凡な毎日こそがありがたいと思う。

 こうした心境は、「勝つ事よりも負けない事」を重視するものかもしれない。負けなければいいという考え方は消極的かもしれないが、勝つ事よりも重要だと個人的には思う。それは弱者の戦略かもしれないが、生き残り戦略としては正しいものの一つである。6600万年前の生物の大量絶滅期に生き残ったのは強いものではなく、むしろ弱いものであったようだし、自分が弱者であるとは思わないが、人に羨ましがられる強者でなくてもいいと言うのが正直なところである。何よりも心の安定を維持していきたいし、そこに重きを置くのであれば、平凡な毎日はそれを満たしている。

 いずれ海外旅行にも行こうと思う。国内でも石垣島には行きたいし、非日常の楽しみは追及していきたい。そしてそのためにも心穏やかに暮らせる毎日を大事にしたいと思う。平凡な日々を恥じることなく過ごしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 百年の時効 (幻冬舎単行本) - 伏尾美紀




2026年8月23日日曜日

国立科学博物館

 昨年、群馬県立自然史博物館を訪問し、その流れで東京の国立科学博物館にも行こうと思っていたのだが、週末はラグビーと家事とに追われる日々を過ごしているうちに、何となく1年過ぎてしまった。そこで先週末に上野にある国立科学博物館に行ってきた。数えてみれば前回の訪問からは16年ぶり、通算3度目の訪問である。個人的には何度行っても飽きない場所であるし、何度でも行きたい場所であると思う。何やら特別展をやっていたが、そういう特別展よりも、むしろ通常の展示の方が私の趣向にはあっているのである。

 入るとまずはフーコーの振り子が迎えてくれる。初めて行ったのは小学校の時だったと思うが、このフーコーの振り子が強く印象に残っている。その振り子だが、入った時は14時のところを指している。これもよくよく考えてみれば不思議である。フーコーはこれによって地球の自転を証明したとされる。重い振り子を用いることによって地面とは別の動きとなり、自転によって地面が動くことで振り子が動いているように見えるというもの。よくこういうことを思いついたものだと思わざるを得ない。

 日本館では、田中久重の発明品の数々が目に付く。前回も見たかどうか記憶にないが、幕末から明治にかけての時代にこれだけのものを発明したというのは凄いと思う。このコーナーは「測る」というテーマで、距離や時間や重さや長さなどをどのように測ってきたのかが展示されている。今はしっかりと度量衡が定められているから我々は何の躊躇もなく距離や時間や重さや長さなどの話ができる。これも先人のおかげではあるが、我々が恩恵を受けていることだと思う。

 群馬県立自然史博物館へ行った時は、生命の歴史に興味があったからだが、今回はそれほどの興味の対象があったわけではなく、何となく漠然と見て回ったのが正直なところ。全体として、前回の記憶とはかなり異なっていることに気付く。おそらく、定期的に展示内容を変えているのだろう。前回、目についた零戦の展示がなくなっていた。どういう基準なのか興味深いところである。それでも恐竜コーナーは相変わらずで、人の多さから見ても人気コーナーなのだろうという事が窺われる。

 博物館となれば、展示の基準は人気のあるなしではないと思うが、それでも人気のあるコーナーは充実させようという意図が働くものだろう。個人的には恐竜の骨よりも人類の進化の方に目が行ったのは事実である。猿人と呼ばれるところから少しずつ進化を遂げていく。アウストラロピテクスなどお馴染みのものもあり、長い時間をかけてホモ・サピエンスに近づいていく。展示を見るのは簡単であるが、骨の発掘から調査して結論を得てという気の長い作業の結果であり、考古学というものの奥深さを感じさせられる。

 今回、ちょっと興味を惹かれたのは、コンピュータの進化過程。旧国鉄で座席の予約システムが全国規模でできるようになった時のシステムが展示されていた。今では当たり前のように思うが、それまで人力に頼っていた座席の予約が一気にできるようになったのがいかに画期的だったのか、解説を読んで改めて思わされた。と同時に、それを人力でやっていたという方がすごい事のように思う。当時の様子がどんなだったのか、詳しく知りたいとすら思う。

 たまにこういう経験もいいと思う。帰ろうとしてフーコーの振り子のところまで戻ってくると、振り子は17時半過ぎの位置で動いていた。見ている間に地球は休む事なく自転していたようである。もう少し時間をかけて一つ一つじっくり見たかったなというのが正直なところ。しかし、それにあたって最大のネックは疲労かもしれない。途中で少し休憩したが、それでも最後はかなり疲れてしまった。あるいは、日本館と地球館とを別日にして見学するのも手かもしれない。

 博物館も各地にあるし、それぞれ特徴もあるのだろう。少し調べてみて、全国の博物館巡りも面白いかもしれないと思う。意識して時間を作り、己の知的好奇心に刺激を与え続けたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年8月19日水曜日

映画『ロストケア』を観て考える

 毎週末の映画鑑賞を趣味としているが、先日、『ロストケア』を観た。松山ケンイチと長澤まさみが主演のこの映画、高齢者の殺人を巡って検事と被告とが対峙するというもの。なかなか考えさせられるものであった。物語は松山ケンイチ演じる介護施設の職員が、自ら勤務する施設の高齢者41名を殺害するというもの。被疑者である主人公は、逮捕されて長澤まさみ演じる検事の取り調べに対し、「殺人ではなく救いだ」と語る。というのも、殺害された高齢者は認知症も進んでいて、その介護が家族に重くのしかかっていたもので、亡くなることによって家族が介護から救われ、自分の人生を取り戻せているという主張である。

 実際、その例として前半でとある老人の様子が描かれる。介護スタッフが訪問して体を拭いたりする。本人は話し掛けても返事もせず、されるがまま。食卓には食事後の食器がそのままになっている。そこへ娘がやってきて、食卓を観て一瞬戸惑うも、後片付けを始める。娘には子供がいてその送り迎えもあり、父親とは別れたようで生活のために仕事もしている。すべてワンオペで、介護スタッフはその様子を見て「限界だね」とささやき合う。父親が亡くなった(殺された)あと、ゆとりができたその娘は子供との会話にも笑顔が生まれ、再婚の話も進む。殺人は確かに悪であるが、果たしてそうなのか。娘は確かに「救われている」のである。

 人を殺すことが良くないことは当たり前のことで疑う余地もないことである。十戒にも示されている通り、人類共通の価値観である。しかし、この映画では本当にそうかと問い掛けられる。人類共通の価値観とは言え、そこには例外もあって、国家によって行われるもの(戦争、死刑)や法律によって認められるもの(正当防衛、緊急避難)などの例外はある。ここではそれに当てはまらないものである。それはすなわち法的には違法行為であり、だから主人公も逮捕される。最終的な刑は明らかにされないが、極刑でもおかしくはないのだろう。しかし、その動機は確かに「救い」である。

 主人公をその行為に走らせたものは、自分自身の経験。父親の介護に携わり、介護離職を余儀なくされ、生活保護も「働けるでしょう」と断られ、困窮の結果、父を殺している。以前、同様に介護で困窮した息子が母親を殺害(心中未遂)したという事件があった。この映画の主人公も同じ境遇である。個人でできる限りのことをして、それでもどうにもならなくなっての行為である。おそらく、殺害された父親も感謝こそすれ恨みはしないだろう。むしろ、可能であったなら自ら命を絶っていたかもしれない。そうした経験があるからこそ、同じ苦しみを味わう他人の姿を黙って見ていられなかったのだろう。

 そんな主人公と相対する検事は、主人公の行為を糾弾する。それは当然であるが、検事もまた認知症になりかかっている母親がいて、しかしながら立派な老人施設に預けている。ギリギリまで自分で介護を余儀なくされた主人公と、月に何度かお菓子をもって訪問するだけの検事。その対比が何とも言えない。立派な施設に預けられる人は理想論を唱えられる。しかし、そうでない人にとって理想論は空虚である。生活保護もやたらに認められないのは当然であるが、介護で働けない主人公に「働けるでしょう」と言って申請を却下する担当者の姿にはやりきれないものがある。

 仮に主人公の父親が認知症ではなくてしっかりとした意識があり、動けなくなった自分を介護するために息子が困窮していくのを見ていたらどう思うであろうか。それでもし父親が息子のために自ら命を絶とうとしたら、それでも「自殺はいけない」と言えるのだろうか。この映画のように困窮した息子が父親を殺害した行為を罪に問えるのだろうか(現実の事件ではさすがに執行猶予の温情判決が出た)。もちろん、そこに至るまでに何とかしないといけないというのは正論だが、現実にその正論が機能するかは疑わしい。誰もがこの映画の検事のように立派な介護施設を利用できれば問題は何もないわけである。

 「救う」という動機が善だとしても、やはりそれを何の権限もない個人が勝手にやっていいという事はないし、何より41人という数字は異常であるし、主人公が罪に問われるのは仕方がない。しかし、そうした要素を除いたとして、この映画の「救い」が本当に糾弾されるべきなのかは難しい。少なくとも長澤まさみ演じる「恵まれた」検事が主人公を糾弾する姿には違和感を禁じ得ない(本人もまたそれを感じているように描かれてはいるが)。実際のケースとスレスレではあるが、映画は時にいろいろな事を考えさせてくれる。いつか自分事になるかもしれず、観終えて重いものが残った映画である。

 これから高齢化社会に拍車がかかる。何より自分の番がもうそこまで迫ってきている。寿命が長くなるのは本当にいいことなのか、何となく考えずにはいられない。主人公の姿が自分の息子の未来の姿にならないようにしたいと切に思う。そこに至る前に、寿命が尽きてほしいと思うし、いざとなったら自分で自分の人生に終止符を打つ選択肢も選べるように意識を保っていたいと思う。それと同時に世の中の「進歩」にも期待したいと思うのである・・・


映画『ロストケア』より


【本日の読書】
全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年8月16日日曜日

論語雑感 郷党第十 (その5)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
執圭、鞠躬如也。如不勝。上如揖、下如授。勃如戰色。足蹜蹜如有循。享禮有容色。私覿愉愉如也。
【読み下し】
けいれば、きくきゅうじょたり。えざるがごとし。ぐることはゆうするがごとく、ぐることはさずくるがごとし。勃如ぼつじょとしてせんしょくあり。あし蹜蹜しゅくしゅくとしてしたがるがごとし。きょうれいにはようしょくり。覿てきには愉愉ゆゆじょたり。
【訳】
他国に使いし、圭を捧げてその君主にまみえられる時には、小腰をかがめて進まれ、圭の重さにたえられないかのような物腰になられる。圭を捧げられた手をいくらか上下されるが、上っても人にあいさつする程度、下っても人に物を授ける程度で、極めて適度である。その顔色は引きしまり、あたかも戦陣にのぞむかのようであり、足は小股に歩んで地に引きつけられているかのようである。贈物を捧げる礼にはなごやかな表情になられ、式が終って私的の礼となると、全くうちとけた態度になられる。
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 論語も細かく読んでいくと、必ずしも教訓めいた言葉だけが並んでいるのではなく、一見何のことだかよくわからない事もかなり書かれている。ここでは他国に赴いて君主にまみえた時の態度について述べられている。それは何よりも自国の君主に対して取るような恭しい態度を示している。これも礼儀として考えるのであれば当然のことである。おそらくここでは「友好国」という前提があると思う。友好国であれば、失礼な態度はすなわち友好関係を阻害する可能性もあるわけで、当然と言えば当然である。

 『のぼうの城』という映画があった。天下統一を図る豊臣秀吉の小田原攻略の一環で、石田三成が2万の軍勢を率いて主人公成田長親が留守を預かる忍城を包囲する。成田の軍勢は3千であり、戦力差に圧倒的な差がある。城主の成田氏長は開城を許可して小田原に向かっている。三成の使者が長親に面会し、開城を促す。その態度は長親を見下した横柄なもの。家臣は皆忸怩たる思いを抱えてこの会談を見守る。すると、長親は何とここで戦うと宣言する。使者はこの予想外の態度に慌てて再考を促すが、長親の考えは変わらない。

 当時、武士は相手と座って話す時、刀を右側に置いていたという。それは(右利きであれば)「すぐに抜けない位置」であり、それが礼儀だったそうである。このシーンで長親が戦いを宣言すると、家臣たちが一斉に刀を左側に置き換える。なかなか血が湧くシーンであったのを思い出す。映画であるのであくまでフィクションであるだろうが、もしもここで相手の使者が礼を持って長親に接していたら、あるいは長親は城主の指示に従って素直に開城していたかもしれない。この映画の1番の見所だと個人的には思う。

 日露戦争の末期、乃木将軍率いる第三軍は多大なる犠牲を払って旅順要塞を攻略し、乃木将軍は降伏したロシア軍の司令官ステッセル中将との降伏式に臨む。式が終わって双方並んでの記念撮影では相手に帯剣を許可したという。これは勝者として奢ることなく、敗者である相手を立てる行為で、当時は色濃く残っていた武士道精神の現れだったのだろう(戦国時代にはなかったのだろうか)。ステッセル中将とてこうした扱いを受ければ、否応なく「礼には礼をもって」対応しなければならなくなる。

 おおよそ人間関係というのはみなこのようなものではないかと思う。特に立場が有利な者ほど、不利な者に対して礼を持って接することが大切で、それでこそ相手の敬意を獲得できるのではないかと思う。現代でも上司と部下、取引先において発注先と受注先などにおいて力関係を背景とした「上から目線」になりがちである。父もかつて自営業をしていたが、発注先の経理部長は、母が集金に行った際、かなり横柄な態度であったらしい。ビジネスにおいては、会社対会社の力関係が自らの力のように勘違いしてしまうのかもしれないが、あまり見られたものではない。

 「実るほど頭を垂るる稲穂かな」ではないが、常に人には丁寧に接すべきだと思う。自分の方が関係性において上だと思われる時には、常に意識したいことである。もちろん、ビジネス関係において、特に親しくなった人とは、友人関係を築けたらと、友人の数が少ない身としては思う。「人には常に礼を持って接する」ことをこれからも意識していたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年8月12日水曜日

マリッジリングを外す意味

 昔、映画やドラマのバーとかの中でのワンシーンで、男がマリッジリングを外して女性を口説きに行くシーンがよくあった。映画やドラマはある程度誇張する部分があるからなんとも言えないが、自分は結婚したらマリッジリングをずっとつけていようと思った。例えそれが他の女性を口説きに行く時でも、と。私は変なところで「常に堂々としていたい」という気持ちがあり、女性を口説きに行く時にマリッジリングを外して(独身のフリをして)口説きに行くのは男らしくないという感覚があったのである(そもそも口説きに行く時点でアウトだという意見はこの際なしにする)。

 マリッジリングを外して口説きに行くのが、ドラマ的にはカッコいいと創り手の方では思ったのかもしれない。しかし、よくよく考えれば、ぜんぜんカッコよくないだろうと感じていたのである。コソコソと指輪を外して、独身のフリをして口説くなんてチンケな男ではないかと。それに若いうちならいいが、男も妙齢になってくると、逆にその年で独身なのかという方がおかしいようにも思う。その場合、「結婚もできない男」と思われる可能性だってある。もちろん、訳アリというケースだってあるから状況はさまざまかもしれない。

 映画やドラマでは、その夜限りのアバンチュールのためにだけリングを外すということかもしれないが、女性の方にしたって、リングがあるかないかを気にするという事は、真剣交際を考えるという事だろうから、そういう女性をそもそも口説けるのかということもあるし、そんなことまで考えない軽いノリの女性ならリングのあるなしを気にするだろうかということもある。映画の中の象徴的な意味合いでリングを外すという「演出」であるなら理解できるところであるが、実生活では意味があるのかという感じがする。

 もっとも、一時的に家庭を忘れるという自分自身の精神的な意味合いならわかる。相手を偽るのではなく、自分に巻かれた鎖を解きほどくという意味合いである。よほどひどい男や無感覚な男ならともかく、普通の感覚の妻帯者なら罪悪感を持つわけで、その罪の意識と快楽との境界線の葛藤をリングを外すという行為で乗り越えるという意味合いなら理解できる。女性には理解できないかもしれないが、それが男のどうしようもない本能なのだろうと思う。

 結婚した時に、何があっても外さないと決めたマリッジリングであったが、いつしか外してしまった。それは他の女性を口説こうとしたのではなく、妻との関係にもう嫌気がさしたからに他ならない。昨年、別居することにして家を出たが、もうその何年も前からリングを外している。たぶん、自宅に残してきた机の引き出しにまだ入っていると思うが、大事にしまっているというものではなく、とりあえず入れとこうと無造作に突っ込んだ記憶がある。その時すでにもう心は妻から離れてしまったのである。なんでそうなったのかはもうどうでもいい事である。

 これからは堂々と女性を口説けるわけであるが(と言っても正式な離婚はもうちょっと先である)、ではと言って相手を探す気は毛頭ない。もう誰かと一緒に暮らすのはごめんだという気持ちが強く、このまま同居している親が亡くなった後は独りで暮らしたいと考えている。そもそもバツ2、バツ3という人の話を聞くが、最初の結婚の破綻で何を学んでいるのだろうと思ってしまう。相手を替えれば変わると思っていたならそれは短絡的としか言いようがない。せめて最初の結婚の教訓を活かして2度目でうまく行くところまでだろう。

 ずっとこだわってきたゆえに、マリッジリングを外すという意味は私自身にとって大きな意味を持ち、以来、子供と一緒にその母親と暮らすという意味合いで家庭生活を送ってきた。私にとってその時から、一緒に暮らしている女性は「我が子の母親」であった。もう一緒に暮らす事はないが、「子供の母親」との一定程度の付き合いは生涯続くだろう。それにしてもあのマリッジリングはどうすべきだろうかと思う。捨てるのにはなんとなく抵抗がある。それは結婚の証という「象徴価値」ではなく、単に何万円かしたものという「物価的価値」からもったいないと感じるのである。さりとてもうはめる事はないし・・・

 外したはいいが処分に困る。今になってみれば厄介なものに他ならない。いつか夕陽が沈みゆく海に向かってカッコよく投げるのもいいかもしれないと思う。そんなことを候補の1つにして、結婚生活の証の処分については、これからゆっくりと時間をかけて考えていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年8月9日日曜日

万座温泉2026

 ここのところ夏休みに温泉に行くのが恒例になっている。今年もまた昨年に続いて万座温泉に行ってきた。元はと言えば、母親を好きな温泉に連れて行ってあげようというところから始まった温泉巡りであるが、いつしか温泉に入るのが自分自身の楽しみにもなっていて、一石二鳥というわけである。人に話すと「夏に温泉?」と驚かれるが、万座温泉は標高1,800mに位置していて、「星に一番近い温泉」とも言われているらしいが、朝晩涼しくて入浴には程良いのである。ラグビーであちこちガタが来ている体には心地よい。


 大体のパターンは決まっていて、夕方チェックインすると母はすぐに入浴、私は周辺の散策である。今回は昨年に引き続き万座亭に宿を取ったが、途中で見かけた牛池へとまずは向かう。なんの変哲もない池であるが、トンボが無数に飛び回っている。昔、小学生の頃、長野県の御代田に住んでいた従兄弟のところに毎年春夏の休みを利用して2週間ほど遊びに行っていた。その頃、外へ出ればトンボもたくさん飛んでいて、捕まえてみたりしたこともある。そんなことも思い出される。


 入浴はいつも3回。夕食前後と翌朝である。夕食前は通常の入浴と同様、体を洗って汗に塗れた体を洗いながす。夕食後はただ、湯に浸かるだけ。どちらも露天風呂に入る。万座温泉は周辺に硫黄臭が漂っていて、気分を盛り上げてくれる。乳白色の湯はもちろん硫黄臭付きでゆったりと浸かると何より体に溜まった疲労が抜けていく感じがする。ラグビーの影響で慢性的な痛みを抱える首と肩と膝は入念に動かして湯治気分に浸かる。夕方は澄んだ空気、夜は真っ暗な夜空がさらなる演出を加える。

 部屋にはエアコンがないが、うっかり窓を開けて寝ると寒くて目が覚めそうである。この時期でも布団をかけて寝られる。布団の中はたちまち温泉臭に包まれる。翌朝、朝食前に朝風呂。澄み渡った青空の下で湯に浸かる幸せ。こうして母を連れて温泉に行けるのも後何回だろうと考えてみる。すでに衰えた記憶力と思考力では浴場から部屋に戻ることすら不可能になっている。一緒に入って背中を流してあげることはできないが、せめて浴場と部屋の往復には付き添ってあげられる。それしかできないが仕方がない。

 この頃、遠出をするのを嫌がるようになった親父は、1週間前から毎日「週末は温泉」と言い聞かせてきたが、今回もやっぱり朝になって「聞いていない」と言い出す。機嫌も悪くなり、無理に連れていくこともないと諦めた。弟も呼んで家族4人これが最後の家族旅行かと思っていたが、残念ながら1人ドタキャンで料金も戻ってこない。家族4人の家族旅行は残念ながらもう無理かもしれない。弟と2人で親父の分の夕食を食べながら、そんな話をする。

 チェックアウトして山を降りる。途中、草津へ抜けるルートは火山の噴火の影響で休憩所が封鎖されてしまったが、快晴の下眺めはいい。ただ、運転が上手いと自称する弟は景色を楽しもうという気持ちはサラサラなく、一気に降りてしまう。母と2人の時は、ところどころで車を止めて景色を楽しむだが、弟には風流を解する気持ちがない。そして望月へと抜け、祖先の墓参り。母方の祖父母と伯父と親戚とが眠る。子供の頃遊んでもらったおじさんがどういう関係だったのか、改めて知る場所でもある。

 小学生の頃、親に連れられて遊びにきた祖父母の家はすでになく、見知らぬ人が家を建てている。子供の遊具などがあり、たぶん若い夫婦が住んでいるのだろう。50年前にここに住んでいた人のことなど想像もできないだろう。あさま山荘事件のニュースもリアルタイムでこの祖父母宅で見た記憶がある。裏山に上り、見つけた風船にくくりつけられていた手紙に返事を出し、しばし文通した記憶もある。個人情報の緩やかな良き時代の思い出である。

 暑さが満ちた東京に帰ってくる。温泉はまだちょくちょく行こうと思うが、万座温泉はまた来年になるだろう。母とはいつまで一緒に行けるだろうか。一期一会ではないが、毎回これが最後かもしれないという思いで可能な限り続けていきたいと思うのである・・・



2026年8月5日水曜日

東野圭吾

 我が目を疑うというのはこのことを指すのだろうかと実感したのは、「東野圭吾さん死去」のニュースに接した時である。こうしたニュースに間違いがあるとは思わないが、まず浮かんだのは「本当なのか、誤報ではないのか」という感情。年齢的にはまだまだそんな歳ではないと思っていたが、68歳と聞いてまだ十分若いと改めて思う。現代ではまだまだお亡くなりになるような年齢ではない。大腸がんとのことであるが、がんも現代では必ずしも不治の病ではない。それでも亡くなったということは、いろいろと現代の医学でもダメな理由があったのだろう。非常に残念である。

 初めて東野圭吾作品に触れたのは、どれだったかもう記憶にない。おそらく原作を読むよりも映画が先だったように思う。記憶を辿っていくと、たぶん映画『秘密』あたりだろうと思う。事故で亡くなった妻の意識が娘に移ってしまうという奇想天外なストーリー。最近、ネット漫画で『妻、小学生になる』というのを読んだが、コンセプトとしては同じだと感じたものである。単純に妻と娘が入れ替わったドタバタ騒動ではなく、深い人間ドラマに心打たれたのを覚えている。そのあとすぐに原作小説に手を出したのも覚えている。

 東野圭吾と言えば、ミステリー作家ということになるのだろうと思う。しかし、どうもそこに入りきらないように思うのは、上記の『秘密』だけでなく、やはり映画化された『手紙』も心打たれるものであったからである。よく小説を映画化した作品は、「観てから読むか、読んでから観るか」は迷うところ。しかし、東野圭吾は基本的に「読んでから観る」方であった。もっとも、最初の頃は読む方に手が回らなくて、『レイクサイドマーダーケース』『g@me』などは観る方が先行した。『手紙』は原作を読んでから映画を観ているが、これも心打たれるというか、切ない物語である。

 読み始めて東野圭吾が「お気に入り作家」になるのに時間はかからなかったが、ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズのように、同じ人物を主人公にしてシリーズ化するというのも東野圭吾の特徴的なところである。ガリレオは物理学者が警察と協力して事件を解決していくというもの。何より毎回手の込んだトリックに圧倒された。『容疑者Xの献身』が最高傑作と言われているが、確かに物理学者と数学者の間で交わされるトリックは予想外の連続。そしてそこに人間ドラマが加わる。よくこんな筋書きを考えられるなという驚きの連続であった。

 私の場合、好きな作家は何人もいる。浅田次郎、池井戸潤、百田尚樹、藤沢周平などであるが、小池真理子と東野圭吾はその筆頭である。小池真理子は文章に惹かれ、東野圭吾はストーリーに惹かれているという違いはある。ただ単に巧妙なトリックに感心させられて終わりというのではなく、真に胸に迫る人間のドラマがなんとも言えない味わいを残す。それは高校野球で3年間ずっと補欠だった選手が、最後の試合の同点で迎えた9回裏一死満塁サヨナラ負けのピンチにライトの守備を命じられ、直後に上がったライトフライからのタッチアップをライナーの返球でホームでアウトにし、味方のピンチを救ったようなドラマである。彼の3年間の努力がその返球だけで報われたというようなものだろう。

 そうした人間のドラマは、いろいろな作品の中に散りばめられていたと思う。『ナミヤ雑貨店の奇蹟』もミステリーというよりもそんな人間ドラマの塊のような物語であったし、スリリングなはずの『天空の蜂』は、福島の原発事故の予言のようで、むしろそちらに驚かされた。ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズも本当の魅力は、そこで描かれる人間ドラマであったようにも思う。自分だったらどうするだろうと考えながら読むことしばしば。帰宅時の電車の中で読むことが多かったため、乗り過ごすことも多々あった。そういう意味で、私にとっては「電車間中で読むのは危険な作家」であった。

 遺作となるガリレオシリーズの最新作が発売されたようである。もうそれで終わりだと思うと、読むのを憚れる気持ちがする。主要な作品はほぼ読んでいるが、まだ読んでいない作品もあるので、それらもいずれ読破したいと思う。また、どの作品ももう一度読みたいと思うので、各シリーズも最初から読み直すのもいいかもしれない。当たり前のように続くと思っていたものが途切れる無念。この喪失感は大きい。それでも2度読み3度読みも含めればまだまだ楽しむことができる。改めてそういう作品を世の中に送り出してくれた事に感謝したいと思うのである・・・


 聖女の救済 (文春文庫) - 東野 圭吾 新参者麒麟の翼 (講談社文庫) - 東野 圭吾 ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫) - 東野 圭吾 真夏の方程式 (文春文庫 ひ 13-10) - 東野 圭吾 人魚の眠る家 (幻冬舎文庫) - 東野 圭吾 沈黙のパレード (文春文庫 ひ 13-13) - 東野 圭吾 希望の糸 (講談社文庫) - 東野 圭吾 白鳥とコウモリ - 東野 圭吾 透明な螺旋 - 東野 圭吾



【本日の読書】
 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛