![]() |
| patrik671によるPixabayからの画像 |
日頃あれこれ思う事どもを思うがまま自由に綴る
![]() |
| patrik671によるPixabayからの画像 |
先週、しきりにニュースでアメリカがイランを攻撃する可能性が報じられていた。どういうルートから情報を得ていたのかわからないが、週末になって実際に攻撃が行われた。ニュースで報じられるからにはそれなりのニュースソースから情報を得ていたのだとは思うが、マスコミがわかるという事は、イランもわかっていたのではないかという気がする。わかっていたからといって防げるものでもないが、危機管理という意味では対応策を考えていたのではないかと思う。それでも指導者を含めて幹部が多く殺害されているのは準備ができなかったのか、それを上回る攻撃だったのか、いろいろと思うところは多い。
その昔、戦争は宣戦布告をもってなされるものであった。そのタイミングが遅れた日本は、アメリカから「卑怯者」と言われ徹底的に悪者にされたが、現代の戦争はもはや宣戦布告を必要としなくなったのだろうか。それともこれは「戦争」ではないのか。今回の攻撃の目標について、アメリカは①イランのミサイル能力の破壊、②海軍の殲滅、③核兵器保有をさせないこと、④政権によるテロ組織支援を止めることだと説明している。かつての戦争のように相手を降伏させて自国の言うことを聞かせるというものではなくなっているのだろう。それでも体制転換を目指しているようであるから同じことなのかもしれない。
それにしてもベネズエラの大統領を軍事作戦によって拉致し、今度は核を巡る交渉中にもかかわらず攻撃を行いと、アメリカは好きなように振舞っている感がある。同じことをロシアや中国がやっていたら、アメリカは烈火のごとく声を上げ、経済制裁を呼び掛けていただろうと思う。西側諸国も内心苦虫を嚙みつぶしながら当たり障りのないコメントをしているようだし、高市総理も慎重にコメントをしてアメリカを非難することは避けている。同盟国だから庇うのか、アメリカだから何も言えないのか、おそらくその両方なのだろう。それでいいのだろうかと疑問に思う。アメリカなら何をやっても許されるのか。
力のある者が力にモノを言わせて己の言い分を通すというのは、もっとも原始的な問題解決である。動物では外から来たオスが群れのリーダーにチャレンジして勝てばその群れの新たなリーダーになれるというものがある。先日横目で見ていたカバについての番組でやっていたが、カバはそういう習性があるようである。もちろん、負ければ群れにも入れずすごすごと去っていくしかない。あるいはリーダーに対して恭順な姿勢を示すというのがあり、そうすると群れに迎え入れてくれるのだとか。番組ではリーダーに負けたカバが恭順を示して群れに入れてもらうシーンをやっていた。
アメリカがやっている事と同じである。まぁ、人間もカバ同様の生物であり、同じであっても不思議ではない。ただ、アメリカは群れを守るというより、すべてを従えることが最終目標なのではないかと思うくらいである(おそらくそうなのであろう)。今、世の中では多様性ということがしきりに言われている。昔は毛嫌いされていた者もLGBTと称され権利を認められている。しかし、国際社会では話が異なり、それは共産主義や社会主義には当てはまらず、民主主義でもアメリカに逆らうものは許されないという感じである。どの国にも生存権があり、それは互いに尊重されるべきものであるが、(少なくともアメリカは)そうではない。
なぜ、互いに譲り合うことができないのだろうか。今回、攻撃にイスラエルが加わっているのも象徴的で、イランの核兵器開発はそのターゲットの第一は間違いなくイスラエルであるだろうし、イランはヒズボラを始めとして反イスラエル勢力を支援しているようであるから、イスラエルも自国防衛という意味で便乗したのだろう。中東紛争は憎しみの連鎖で根が深いが、どこかで共存というものが図れないものだろうかと思う。殺し合いを続けてどちらかが敗れなければ共存が図れないというのはあまりにも寂しい。動物は同じ種では殺し合わないようだし、それが生物の本能なのであるなら、人類はそれに反していることになる。
我が国としては見て見ぬふりしかできないのだろうが、既に「戦費10億ドル突破か 米経済損失33兆円規模の恐れ」という報道(FORBES)も出ている。これは後日、また高額な武器を買えとか、何らかの形でわが国に請求書が回ってきそうな気がする。アメリカの軍事産業もまだまだ大儲けできるのだろうと思う。きっとウハウハしているに違いない。人類に互いに譲り合って生きるという英知は働かないのだろうか。地球上でもっとも賢い生物がもっとも愚かな行動をしているというのが何とも言えずに残念であると思うのである・・・
![]() |
| HUNG QUACHによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
「日本の性加害の根っこにある」との主張が…『ドラえもん』しずかちゃんのお風呂シーンはなくすべき?論争の実態と、意外と知られていない変化
今回物議を醸したのは、ドラえもんアニメにおいて「しずかちゃんのお風呂シーンをなくすべき」という主張だ。お風呂シーン反対派の意見を簡単に説明すると、![]() |
| Suzanne deDisseによるPixabayからの画像 |
就職戦線の早期化は困ったものだとこの時期特に思う。一方で4月に新入社員を迎える準備に追われつつ、一方で27年卒の採用が動き始めている。我が社は悲しいことに首都圏では知名度が低く、いきおい地方での採用が中心になっている。北は札幌から南は鹿児島まで新卒学生を求めての行脚である。例年学生を採用させていただいている各学校の就職課の方とは日頃から情報交換をさせていただいているが、近年目につくようになってきたのは、学生の「地元志向」である。地元の企業を志望する学生の割合が増えてきているのである。我々のような企業にしてみれば由々しき事態であるが、胸中は複雑である。
学生の地元志向は果たして是か非か。人口減少時代の昨今、地方自治体においては企業誘致に余念がない。我が社も地方進出を検討する時期に来ているが、各自治体は助成金を手厚くして地元への企業誘致に力を入れている。企業が誘致できればそこで働く社員は確実に地元の人間になる(そういう条件で助成金を支給している)。それはすなわち人口増に結び付くわけであり、それこそが企業誘致の目的であろう。当然、地方自治体としては学生の地元志向は歓迎すべき事象と言える。たしかに、地方に衰退してほしいとは思わないし、若い人が地元に残るのは良いことだと思う。しかし、と思うのである。
若い頃には冒険が必要だろうと思う。冒険と言えば大げさであるが、東京へ出て一人暮らしをしながら厳しい環境(と言えば大げさではあるが)に身を置いて働くというのは悪いことではないと思う。もしも私が地方に住んでいて、息子が就職となった場合、まずは東京に行ってみてはどうかと勧めるだろう(その前に大学進学時に東京の大学へ行けと言うだろう)。かわいい子には旅をさせろではないが、ビジネスマンとして企業で働くのであれば、東京で働くのが一番いいと思う(これが娘なら残れと言うだろう)。
地元志向がどういうものなのか。親の立場からすれば、将来的には同居かあるいはせめて近くに住んでほしいという気持ちなのは想像できる。誰しも老後ということを考えるだろうし、孫の顔を見ながら暮らしたいと思う気持ちは私も同じである。しかしながら当の若者はどう思うのであろうか。親の近くにいたいというのは、将来面倒を見なくてはという義務感だろうか。あるいは生まれ育った地元への愛着であろうか。生き馬の目を抜くかもしれない都会への不安だろうか。人それぞれではあるが、そんなところが挙げられるのかもしれない。
しかしながら、「いずれ地元に戻ってくるなら」と送り出すのはあてが外れる可能性が高いだろう。住めば都で、働いて暮らしているうちに人間は環境に慣れてくるもの。ましてや東京で知り合った相手と結婚した場合、自分だけの話ではなくなる。他県の出身者であれば、自分にとって「地元に帰ること」でもパートナーにとっては「見知らぬ土地へ行く」ことに他ならない。さらに子供が生まれれば子供の教育環境だとか、「転校したくない」だとかの問題も出てくる。そうそう思い描いたライフプランを実現するのは難しくなる。
そう考えると、「若いうちは東京で」という考えは誤算を招く可能性が高いかもしれない。少なくとも軽い気持ちで考えているなら危ういだろう。東京で働くなら何歳まで、結婚相手には将来地元に帰ると事前に告げて了承を得ておくなど、固い意志と準備が必要だろう。そんな事をつらつらと考えると、始めから地元志向というのは、それはそれで懸命なのかもしれないと思う。地元では都会ほど就職環境は良くないかもしれないが、そこは仕事と地元に残ることとどちらを重視するかで割り切るしかない。
私の両親はともに地方出身である。ともに東京に出てきて知り合い、結婚して私が生まれている。父親は地元に残って大工になるか東京に出て働くかの選択肢しかなく、次男であったこともあるが、中学を卒業後に東京に出てきている。さぞかし不安だっただろうと思う。おかげで私は東京生まれの東京育ちであり、「地元か東京か」で悩むことはなかった。考えてみれば大きな悩みを1つ抱えずに済んだと言えるのかもしれない。こればっかりは生まれたところという運の話であるが、「帰る故郷がない」という寂しさと裏腹の運である。
そんな中で、故郷を離れて大志を抱いて東京に出てくる新入社員たちには、いい社会人デビューをしてほしいと思う。将来的に故郷に帰るのかどうかはわからないが、今はオンラインの発達もあり、地元に帰りながらも東京の仕事をすることが可能になってきている。いずれ地元か東京かという問題は大きな問題にはならなくなるのかもしれない。就活学生と話をしながら、そんなことを思ったのである・・・
![]() |
| Ilona IlyésによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
![]() |
| Toshiharu WatanabeによるPixabayからの画像 |

元日本航空の客室乗務員で、ノンフィクション作家である青山透子の『四十年の真実』を読んだ。日航123便の墜落事故の真相と言われると、リアルタイムでニュース見てその衝撃を経験した身としては興味をそそられる。しかし、最初にそれを知った『 書いてはいけない』に書かれていた内容はすぐには信じ難く、それで本書を読むに至ったわけである。この本によると、日航123便の墜落事故はあくまでも人為的な事故で、公表されているような後部圧力隔壁の破損などではないというもの。きっかけは自衛隊の無人標的機が日航123便の垂直尾翼に衝突したとされるが、その事実を自衛隊が隠蔽しようとした結果、墜落した(させられた)というものである。
その隠蔽内容とは、最後に追尾していたファントムが123第便の第4エンジンを撃ち抜いて墜落させたというもの。さらに墜落現場は世間には不明と発表しつつ、いち早く現場に駆け付けた自衛隊員が撃墜の証拠を隠滅するため現場を焼き払ったとする。 いくら何でもそこまでは行き過ぎなように思えてならない。されど著者は単に推論を述べているのではなく、現場の一つ一つの状況から積み上げて結論を導いているわけで、そこには一笑に付すことのできないものがある。例えば、航空燃料は素人がイメージするのとは違って意外と燃焼性は低く、遺体が炭化するほど焼けることはないといった具合である(さらに現場では軍用燃料が検出されているという)。
普通の航空事故であれば当然引き上げるべき相模湾に沈んでいる機体の一部(垂直尾翼)を引き上げないとか、ボイスレコーダーを公開しないというのもおかしいと主張する。確かにその主張はもっともであり、一読しただけの者には反論できかねるものがある。しかし、と思う。一歩下がると、これほどの衝撃的な事実を隠蔽しきれるものだろうかと思えてしまう。例えば第4エンジンを撃ち抜いて撃墜させたとするファントムであるが、自衛隊員がいくら命令されたとは言え、そこまでやるだろうかと思う。軍人だから命令は絶対であるとしても、躊躇なく(躊躇したとしても)民間航空機を撃墜できるものだろうか。
民間航空機の撃墜と言えば、大韓航空機撃墜事件が脳裏に浮かぶが、あれは自国民ではないし、さらに旧ソ連という国の体質を考えればまだわからなくもない。しかし、自国民であり、さらに我が日本国内でのこととなればにわかには信じがたい。さらに直接手は下さなくとも現場にはもう一機のファントムがそれを目撃しており、その事実を知るパイロットが最低2人(ファントムが複座なら4人)がいるわけである。さらに命令がどこから発せられたのかはわからないが、命令系統に入っていた人物、命令の現場にいた人物など複数が関わっている。内心ではおかしいと思う者もいただろうし、それを外に漏らす者もいたのではないかと思えてならない。
世の中にはいろいろと陰謀論めいたものが多い。アメリカ政府がUFOや宇宙人に関する事実を隠しているとか、ケネディ大統領の暗殺犯はオズワルドではないとか。そうした陰謀論の中にはまったくの事実無根なものもあるだろう。その真偽を見極めるのは難しいからいきおいどちらかを信じるしかない。この本に書かれていることに関して言えば、「総論反対各論賛成」的な感じがする。「信じられない」というよりも「信じたくない」という意識だろうか。では真相は何かと問われればわかりようもないが、根拠なく「何か違う感じがする」と言うしかない。秘密はそれに関わる人数が多くなるほど漏れやすくなるものであり、40年も隠しおおせるものではないように思う。
もともと人に知られざる秘密には蜜の味がある。それが大ニュースとなるべき内容であればなおさらである。そうした秘密があることすら知らなければ何とも思わないが、「秘密がある」という事を知ってしまうと、その内容を知りたいという欲求が首をもたげてくる。結果的には知らなければ良かったということも、それは知ったがゆえに思う事であり、知らないうちはたとえ結果がどうであろうと、人は秘密を知りたいと思うものだろう。この本に書かれていることが事実なのかどうなのかはわからない。その疑惑を知らない時は平和だったが、知ってしまうと真実を希求する心は抑えがたい。
一方で秘密はそれに関わる人が多くなればなるほど漏れるものだと思う。40年間も漏れないということは、この本に書かれているような事実はないという事なのかもしれない。例えば日本航空の社長などはこうした事実の引継ぎを受けているのだろうか。受けているとしたら、歴代社長の中には公表すべきと考える人もいたのではないかと思う。日本航空だけではなく、自衛隊の中でも然りである。もしも、事実であるならば、完璧に隠蔽されているわけであり、そちらの方に恐ろしさを感じてしまう。いずれにせよ、よけいなことを知ってしまったものである。
疑惑の真相が明らかになる日はくるのだろうか。その日が来ることを待ちわびつつ、ケネディ暗殺事件の真相と日航123便の真相は、死ぬまでに知りたい真相として心に握りしめていたいと思うのである・・・
![]() |
| philm1310によるPixabayからの画像 |
この週末、珍しく時間に余裕があって、何気なくTVerでやっていた「ザ・ノンフィクション」という番組を見てしまった。その回のテーマは「結婚したい彼と彼女の場合 令和の婚活漂流記2026」というもの。見始めたら面白くて前後編見てしまった。内容はタイトルの通りで、結婚したいと結婚相談所を通じて婚活をする31歳の男性の姿を追うものであった。31歳と言えば私が結婚した年である。そこに登場する男性は、おそらく女性と付き合った事がないのだろうと思われるが、涙ぐましい努力をしている。
彼には結婚アドバイザーの女性がついており、そのアドバイザーは力を込めてサポートしていく。それには厳しい現実も伝えないといけない。介護職についているその男性に年収370万円は、結婚相談所に登録する男性の平均400〜500万円よりも下であることを告げ、服装や髪型を直させ、お見合いの結果を厳しくフィードバックする。男性もそのアドバイスに素直に従う。転職して年収を上げ、髭脱毛までする。年上で自分よりも年収の高い女性には、家事はすべて自分がやって支えるとまで宣言してアプローチする。それでも男性は相手から選ばれない。
見ていてその努力に感心するものの、何となく違うように思えてならなかった。彼は相手の女性に合わせようとするばかりで、何か芯に自分というものがないように感じられたのである。もちろん、女性アドバイザーのアドバイスも大事であるが、私だったら脱毛などやらないし、転職も婚活のためならやらない。その昔、「優しい人が好き」という女性の言葉を受け、優しくしてもその女性から好かれることはなく、逆にその女性は全然優しくない男を好きになってしまったりするという話を聞いた事がある。それと似ている。
彼は結婚相談所で紹介された女性から軒並み「いい人」という評価を得ている。しかし、「いい人」は褒め言葉ではあってもその言葉の裏には「それ以上ではない」という意味が隠れている。思うに彼に必要なのは、「自分はどういう男なのか」という確固たる信念であろう。仕事も年収は低いかもしれないが、こういう考えがあって生き甲斐を持ってやっているという意思が伝われば問題にはならないと思う(それを問題にするような相手ならこちらから断れば良い)。相手に好かれようとするばかりで、自分はどういう人間なのかがないように思えた。
その昔、決していい男とは言えない友人が私の知人の女性といつの間にか婚約していて、驚いて尋ねた事がある。その友人は、自分はこれまでも女性にモテる事はなかったし、これからもその自信はないが、これと決めた女性だけなら落とせる自信はあると語ってくれた。それは自分の人生を賭けて口説くからだという事であった。それは決して相手に合わせるという意味ではない。その信念で猛アタックして口説き落としたそうである。私も若い頃は決してモテた方ではなく、むしろ枕を涙で濡らした経験の方が多いが、その考え方には共感している。
私もプレイボーイのようにどんな女性でも口説き落とせるという事はなかったが、本当に惚れたたった1人の女性ならかなりの確率で口説き落とせると思う。それは一時ベッドを共にするのではなく、生涯を共にする女性である。まぁ、それはさまざまな経験を経てきた今だから言える事で、若い頃にそういう考え方が持てていたら私の人生も違ったものになっていたかもしれない。結婚前の時間に戻れるのであれば、その言葉を証明してみせられるのにと思う。つくづく、人生ってうまくいかないものだと思えてならない。
番組に登場した男性が今後良縁に巡り会えるかどうかはわからない。番組の放映には間に合わなかったが、いい人そうだっただけに努力が実ればいいなと思う。仮に結婚したとしても、私のように別居という結果になるかもしれず、結婚生活はその維持も難しいと思う。それでも結婚したこと自体に後悔はないし、番組の男性も望んでいるのであれば結果はともかくとして結婚を目指すのはいいと思う。人のこともさることながら、自分の老後をどうするか。それをこれからじっくりと考えたいと思うのである・・・
![]() |
| ANURAG1112によるPixabayからの画像 |
「仕事を任せる」ことの意味について考えさせられる出来事があった。我が社には子会社がある。そこの社長が、部下の財務担当役員を首にしたのである。と言っても、当該担当役員は親会社にも席があるので特に問題もない。しかし、本人にしてみれば忸怩たるものがある。きっかけは決算。決算内容が思ってもみない内容で、驚いた子会社の社長が騒ぎ立てたのである。それはとある資金使徒のお金。思ったよりも金額が多かったというのがその理由。されど財務担当役員も勝手にやっていたわけではない。要所要所で包括的な許可を取っていたのである。
「包括的な」とは、「細かいところは任せるから上手くやってくれ」というもの。その言葉をそのまま受け取り、資金を利用していた。もちろん、リターン計画はしっかり立てており、そこは財務担当であり抜かりはない。ところが総額を見て社長が驚いたのである。そして「聞いていない」と言い出した。挙句に、こんなことをやるなら任せてはおけないと首にしたのである。そこでこのケースについていろいろ考えてみた。もちろん、財務担当役員もこまめに報告すべきであったことは最大の反省点。そうすれば「聞いていない」と言われる事もなかっただろう。されど問題はそこではない。
最大の問題点は、子会社の社長の対応である。「聞いていない」というのは言語道断。何度か説明を受けており、その都度「細かいことは任せる」と「包括的な委任」をしていたのは動かさざるべき事実である。「任せる」というのは、ただ単にやらせることではない。その「結果についての責任を引き受ける」という意味がある。任せて失敗したのであれば、それは任された人の責任ではなく、任せた人の責任である。それがわかっていない。人の失敗の責任を引き受けるのが嫌なら任せるべきではない。
この「結果についての責任を引き受ける」という部分が重要で、「失敗すれば自分の責任であると自覚して仕事を任せる」べきなのである。そのためには任せっ放しではいけない。折に触れて進捗を確認し、上手くいっていなければ上手く行く方法をアドバイスしたりする事も大事である。場合によっては途中で任せるのをやめて自らやる必要もあるかもしれない。今回であれば、子会社の社長は任せたことを気にした上で、途中経過を報告させるということも必要であった。任せっ放しにしておいた責任は重い。
任せて放置してそして結果だけを見てダメ出しをする。これでは人の上に立つ資格などない。部下もついてこないだろう。社長とは言え、そこは子会社であり、一種の名誉職的なところがある。しかし、本人は一端の経営者気取りであり、今回大鉈を振るったわけである。さらに役員を首にするなら自らの責任をも明らかにしなければならない。任命責任もあるわけであり、部下の首を切るなら(不祥事ならともかく)自らの責任も明確にしなければならない。ところが自分の役員報酬は1円たりとも下げていない。それでいいのか。
人の上に立つ地位についたなら、部下に仕事を任せるのは必然である。その時、それぞれの仕事についてきちんとできるのかどうかを見極めて仕事を任せないといけない。気になるなら途中で報告させるようにすればいいし、そうして部下がうまくやれるように指導しないといけない。もちろん、できる部下に丸投げ放置もいいが、その場合は結果責任は負わないといけない。もしも部下が失敗したなら、それは任せた上司の責任である。きちんと指導して失敗を繰り返さないようにするとともに責任も引き受けないといけない。
今回、図らずも子会社の社長はそういう人の上に立つ器でないことを自ら証明したことになる。人に仕事を任せるというのは、実は簡単なことではないのである。「自分はお飾り社長ではない」という意識だけはあったようであるが、「人に仕事を任せる」ということの大事な本質を理解できていなかったわけであり、残念ながらお飾りよりタチが悪いと言える。人のふり見て我が振り直せではないが、私も人に仕事を任せる時はきちんと意識しようと思う。もって他山の石としたいと思うのである・・・
![]() |
| Sergio Cerrato - ItaliaによるPixabayからの画像 |
![]() |
| vined mindによるPixabayからの画像 |

知人から独立を考えているという話を聞いていろいろと考えた。知人のやっている仕事はコンサルタントのような仕事で、お客様から(会社が)いただいている金額と自分の給料とを見比べ、その差額の大きさに「これなら独立した方が得だ」と考えたようである。これはコンサル系に限らず、あり得ることである。当然ながら会社もお客様からいただいたお金をそのまま社員に渡していたら事業として成り立たない。会社を維持する経費もかかる。会社としては利益を取った上で給料という形で社員に還元するのは当然である。
その昔、青色LEDを発明・実用化してノーベル賞に輝いた技術者が、それによって多額の利益を得た会社に対し、給料以上の還元を求めて会社を訴えたのを覚えているが、差額が大きい場合は貢献した社員としては「もう少しよこせ」と思う気持ちはよく理解できる。会社の看板がなくても独立して食っていけるというのであればそれも本人の判断である。ただ、会社の立場に立つと、本人が「食っていける」というレベルになるまで給料を払って育成したのは会社であり、すぐ独立されてもかなわないだろうなと思う。
青色LEDも成功したからこそであり、失敗していたら結局「ムダ飯食い」の社員を会社はずっと面倒をみないといけなかったはずであり、そこは会社としてリスクを取っているわけである。投資と同じで、100社に投資して99社が失敗しても残り1社が成功すれば99社の損失を補って余りある利益を手に入れられるわけであり、だから投資もできる。会社はそうして成功するかどうかわからない研究をさせているわけであり、成功したから分け前をよこせと言われても(金額にもよるが)「はいそうですか」とは言えない事情にあるのも想像がつく。
コンサル系の彼もそういう事情は考慮すべきだが、だからといって一生ご奉公しなければならないというのもおかしな話。ある程度貢献したら独立もありだろう。あとは会社に属するメリットとデメリットの比較ではないかと思う。私はコンサルのように独立しても食っていける技量のあるビジネスマンではないから必然的にどこかの会社に属して働くということを選択せざるを得ない。あとはいかに自分を高く買ってくれるところに所属するかということになる。世の中の多くのビジネスマンはそうだろうと思う。
会社勤めと個人事業とを比較してみると、会社に所属することはまず楽である。仕事は与えられたものをやればいいし、給料は毎月手取り金額を振り込んでくれる。社会保険料だって半額負担してくれるし、税金の納付もすべてやってくれる。仕事だけやっていればいいわけであり、気づいていない人も多いが、何よりも楽である。個人事業者だとそうはいかない。取引先との交渉による仕事の確保、税金の計算と納付、国保の納付(会社で給料から引かれる保険料より高い)、後輩の面倒を見る必要はないが、仕事が途切れればその月は収入が0という事もあり得る。
よく会社勤めに向いている、向いていないという事が言われるが、向き不向きの話ではなく、1人でやっていけるかいけないかの話だと思う。私自身は残念ながら1人ではやっていけない。父は印刷工だったが、のちに独立して個人事業者になった。腕が良かったとの事で、独立後も取引先からの受注は絶えることなく、同業者には夜逃げをせざるを得ない人もいる中、無事無借金で引退した。学生時代は1人工場で黙々と印刷機を回す父を見て、自分はやりたくないと思ったが、就職して世の中を知って改めて凄いなと感心した。私にはとてもできないことである。
私にはとうてい個人事業者として1人でやっていく自信はない。まぁ、前職の不動産業時代は、個人的にお金を集めて不動産に投資し、会社を作ればサラリーマンと二足の草鞋も可能だなと思ったが、本格的に不動産投資で利益を得ようと思ったら、管理会社に任せっ放しという事ではダメで、結局両立は難しいと判断した。それでも両立ではなく独立してとなれば、できないこともなかったが、正直リスクを取ってまでやるかと言われればそこまでの覚悟はなかった。リスクの海を泳ぎ切るのは精神的にキツイと思う。
会社勤めしかできない自分ではあるが、会社もまた人を必要としているわけであり、ならばより必要とされる人間になるしかない。考えてみれば取締役というのも不安定な立場である。ある日突然解雇されればそれまでである。従業員なら不当解雇で訴える道はあるが、取締役にはない。雇用保険にも入れないから失業給付ももらえない。事実、前職では社長に裏切られ、首にされたが(取締役の地位を守るという点では)どうにもできなかった(代わりに関連会社を合法的に乗っ取ってそれなりの退職金を手にしたが・・・)。
幸い、今の会社でも社員で入社したあと、働きを認めていただいて取締役にしていただいた。身分は危うくなったが、裁量と収入は増えている。いつ何時首を切られるかわからない不安定な立場であるが、身を守るには実績で示すしかない。自分ではよくやっていると思っていても、まわりがそう思っているかはわからない。「評価は他人が下したものが正しい」とは故野村監督の言葉であるが、コミュニケーションを取りながら自分の評価を確認しつつ、実績を積み上げていくしかない。
個人事業者ほどではないが、気持ち的には個人事業者に負けじとリスクの海を泳いでいる意識はある。「会社に自営業に来ていると思いなさい」とはユニクロの柳井社長の言葉ではあるが、自分もそれを意識したいと思う。これからも慢心することなく、個人事業をしている意識を持って働きたいと思うのである・・・
![]() |
| StartupStockPhotosによるPixabayからの画像 |
運勢のようなものは本当に当てになるのだろうかと、この頃ふと思う。人生においてはいい時ばかりではなく、悪い時もある。何をしてもうまくいかない時というのもあるだろう。最近、私はそんな人生のトンネルに入ってしまっているような気がする。妻と別居して実家に戻って以来、仕事においても主として社内の人間関係で思うようにいかず、何となくこれでいいのだろうかというモヤモヤ感に包まれている。順調に行っている時には感じない焦燥感のようなものと言えるだろうか。
もともと私は占いのようなものは信じていない。まぁ、何か迷った時の参考にはなると思う。ただ、それは信じるというよりも、迷った時にコインの裏表で決めるのと同じ扱いである。生年月日や星座や血液型や手相やカードなどで人間の何がわかるのかと思う。長い年月の間に、そういうものに何らかの関連性を見出して生まれてきたものではあるのだろうが、何か根拠があるようなものではなく、「当たるも八卦」の世界であると思っている。したがって、いわゆる「運勢」のようなものも信じてはいない。
人生にいい時もあれば悪い時もあるのは事実だろう。だけどそれは運勢ではなく、「たまたま」である。いい事と悪い事がバランスよく起こるというものではなく、たまたま好ましくない事が続いただけである。しかし、我々はそこにどうしても意味を見出したくなる。何か好ましからざる事をした報いではないかとか、何かの祟りではないかとか。あるいは運勢が悪いとか。そういうもののせいにすれば、「仕方がない」と諦められるし、あるいはお祓いをしようという事になるかもしれない。
今、不運の渦中にあるとしたら、それは過去の「選択」の結果によるものだろう。例えば私の場合、それは別居という選択をした事によるものかもしれない。しかし、そうだとしてもその選択以外にあり得なかったので、その選択をしなければ良かったとは思わない。その選択の結果だとするならば、甘んじて受け入れるしかない。会社内の人間関係のゴタゴタにしても、それは私の行動という選択の結果であるが、それは意図的に相手と対立するためのものではなく、意識せざる結果であり防ぎようがない。
私も常日頃、いい上司であり、いい部下であり、いい同僚でありたいと考えている。だから言葉遣いも部下に対してでさえ丁寧にしているし、ハラスメントには特に意識して避けているからその問題はない。しかし、それでもモノの言い方であったり、やり方であったり、報連相が足りていないと思われたりするところから批判を受けている。知らず知らずのうちに信頼度が下がってしまったのである。残念であるが、起こってしまった事はどうにもならない。この後、もっと注意深く行動して信頼回復に努めるしかない。
病気に関しては意外中の意外であったが、人間である以上ずっと完全な健康体というわけにもいかず、これもまた仕方がない。同僚の中には私より若いのに癌の再発を繰り返している者もいる。神はサイコロを振らないとアインシュタインは言ったが、サイコロを振っているとしか思えないこともある。人間それぞれの持って生まれた細胞の抵抗力なのかはわからないが、彼に比べればまだまだマシである。考えてみれば、そこもすべて運勢などという者ではなく、己の考え方、心の持ち方次第なのかもしれない。
「人は不幸を数え上げる事を好み、喜びを数え上げる事をしない」とはドストエフスキーの言葉であるが、今回続いている不運の中にも気が付けば幸運も含まれている。例えればトーストを床に落としてしまったが、バターを塗っている部分が上になって落ちたようなものかもしれない。落とした事を嘆くよりも、バターを塗った部分が上になった事を喜べるようにしたい。そうした心の持ち方が、不運の渦中を耐え抜く力なのかもしれない。悪い運勢を嘆くのではなく、「やまない雨はない」と考えるようにしたい。そういう考え方で、今を頑張りたいと思うのである・・・
![]() |
| Ben KerckxによるPixabayからの画像 |