2026年8月5日水曜日

東野圭吾

 我が目を疑うというのはこのことを指すのだろうかと実感したのは、「東野圭吾さん死去」のニュースに接した時である。こうしたニュースに間違いがあるとは思わないが、まず浮かんだのは「本当なのか、誤報ではないのか」という感情。年齢的にはまだまだそんな歳ではないと思っていたが、68歳と聞いてまだ十分若いと改めて思う。現代ではまだまだお亡くなりになるような年齢ではない。大腸がんとのことであるが、がんも現代では必ずしも不治の病ではない。それでも亡くなったということは、いろいろと現代の医学でもダメな理由があったのだろう。非常に残念である。

 初めて東野圭吾作品に触れたのは、どれだったかもう記憶にない。おそらく原作を読むよりも映画が先だったように思う。記憶を辿っていくと、たぶん映画『秘密』あたりだろうと思う。事故で亡くなった妻の意識が娘に移ってしまうという奇想天外なストーリー。最近、ネット漫画で『妻、小学生になる』というのを読んだが、コンセプトとしては同じだと感じたものである。単純に妻と娘が入れ替わったドタバタ騒動ではなく、深い人間ドラマに心打たれたのを覚えている。そのあとすぐに原作小説に手を出したのも覚えている。

 東野圭吾と言えば、ミステリー作家ということになるのだろうと思う。しかし、どうもそこに入りきらないように思うのは、上記の『秘密』だけでなく、やはり映画化された『手紙』も心打たれるものであったからである。よく小説を映画化した作品は、「観てから読むか、読んでから観るか」は迷うところ。しかし、東野圭吾は基本的に「読んでから観る」方であった。もっとも、最初の頃は読む方に手が回らなくて、『レイクサイドマーダーケース』『g@me』などは観る方が先行した。『手紙』は原作を読んでから映画を観ているが、これも心打たれるというか、切ない物語である。

 読み始めて東野圭吾が「お気に入り作家」になるのに時間はかからなかったが、ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズのように、同じ人物を主人公にしてシリーズ化するというのも東野圭吾の特徴的なところである。ガリレオは物理学者が警察と協力して事件を解決していくというもの。何より毎回手の込んだトリックに圧倒された。『容疑者Xの献身』が最高傑作と言われているが、確かに物理学者と数学者の間で交わされるトリックは予想外の連続。そしてそこに人間ドラマが加わる。よくこんな筋書きを考えられるなという驚きの連続であった。

 私の場合、好きな作家は何人もいる。浅田次郎、池井戸潤、百田尚樹、藤沢周平などであるが、小池真理子と東野圭吾はその筆頭である。小池真理子は文章に惹かれ、東野圭吾はストーリーに惹かれているという違いはある。ただ単に巧妙なトリックに感心させられて終わりというのではなく、真に胸に迫る人間のドラマがなんとも言えない味わいを残す。それは高校野球で3年間ずっと補欠だった選手が、最後の試合の同点で迎えた9回裏一死満塁サヨナラ負けのピンチにライトの守備を命じられ、直後に上がったライトフライからのタッチアップをライナーの返球でホームでアウトにし、味方のピンチを救ったようなドラマである。彼の3年間の努力がその返球だけで報われたというようなものだろう。

 そうした人間のドラマは、いろいろな作品の中に散りばめられていたと思う。『ナミヤ雑貨店の奇蹟』もミステリーというよりもそんな人間ドラマの塊のような物語であったし、スリリングなはずの『天空の蜂』は、福島の原発事故の予言のようで、むしろそちらに驚かされた。ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズも本当の魅力は、そこで描かれる人間ドラマであったようにも思う。自分だったらどうするだろうと考えながら読むことしばしば。帰宅時の電車の中で読むことが多かったため、乗り過ごすことも多々あった。そういう意味で、私にとっては「電車間中で読むのは危険な作家」であった。

 遺作となるガリレオシリーズの最新作が発売されたようである。もうそれで終わりだと思うと、読むのを憚れる気持ちがする。主要な作品はほぼ読んでいるが、まだ読んでいない作品もあるので、それらもいずれ読破したいと思う。また、どの作品ももう一度読みたいと思うので、各シリーズも最初から読み直すのもいいかもしれない。当たり前のように続くと思っていたものが途切れる無念。この喪失感は大きい。それでも2度読み3度読みも含めればまだまだ楽しむことができる。改めてそういう作品を世の中に送り出してくれた事に感謝したいと思うのである・・・


 聖女の救済 (文春文庫) - 東野 圭吾 新参者麒麟の翼 (講談社文庫) - 東野 圭吾 ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫) - 東野 圭吾 真夏の方程式 (文春文庫 ひ 13-10) - 東野 圭吾 人魚の眠る家 (幻冬舎文庫) - 東野 圭吾 沈黙のパレード (文春文庫 ひ 13-13) - 東野 圭吾 希望の糸 (講談社文庫) - 東野 圭吾 白鳥とコウモリ - 東野 圭吾 透明な螺旋 - 東野 圭吾



【本日の読書】
 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛

2026年8月2日日曜日

論語雑感 郷党第十 (その4) 入公門章

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
入公門、鞠躬如也。如不容。立不中門。行不履閾。過位、色勃如也、足躩如也。其言似不足者。攝齊升堂、鞠躬如也。屛氣似不息者。出降一等、逞顏色、怡怡如也。沒階、趨進翼如也。復其位、踧踖如也。
【読み下し】
公門こうもんるに、きくきゅうじょたり。れられざるがごとし。つにもんちゅうせず。くにしきいまず。くらいぐるに、いろ勃如ぼつじょたり、あし躩如かくじょたり。げんらざるものたり。もすそかかげてどうのぼるに、きくきゅうじょたり。おさめていきせざるものたり。でて一等いっとうくだれば、がんしょくはなちて、怡怡いいじょたり。かいくせば、はしすすむこと翼如よくじょたり。くらいかえれば、しゅくせきじょたり。
【訳】
宮廷の門をおはいりになる時には、小腰をかがめ、身をちぢめて、あたかも狭くて通れないところを通りぬけるかのような様子になられる。門の中央に立ちどまったり、敷居を踏んだりは決してなされない。門内の玉座の前を通られる時には、君いまさずとも、顔色をひきしめ、足をまげて進まれる。そして堂にいたるまでは、みだりに物をいわれない。堂に上る時には、両手をもって衣の裾をかかげ、小腰をかがめ、息を殺していられるかのように見える。君前を退いて階段を一段下ると、ほっとしたように顔色をやわらげて、にこやかになられる。階段をおりきって小走りなさる時には両袖を翼のようにお張りになる。そしてご自分の席におもどりになると、うやうやしくひかえておられる。
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 日本人は割と礼儀を重んじるところがあると思う。例えば、神社に行くと、門前で一礼している人をよく見かける。私は神前を大事にしたいと思うが、どうしても人目を気にしてしまうところがある。素直にできる人はすごいなと思うところである。また、ラグビーでは、グラウンドに出入りする都度、一礼する選手も多い。グラウンドは神前ではないが、「神聖なところ」と捉えるところから来ているのだと思う。一流チームほど徹底しているところがあると思う。

 今回は孔子の行動だと思うが、宮廷を神聖なところとする思いが行動に現れているように思う。それは「礼」を重んじる孔子らしいと言えば孔子らしいのだろう。実際に神様がいる場所以外も神聖な場所と捉えて重んじる行動は素晴らしいと思う。特にグラウンドをそう考えるのは日本人以外にもあるのかどうか知りたいところである。考えてみれば、グラウンドはスポーツをする場所で、神様とは無縁である。そこを神聖な場所と考えるメンタリティ。これは如何なるものなのか。

 そう言えば、小学生の時、近所の野球チームに入部したが、そこで教えられたのがグラウンドでの礼であり、バッターボックスに入る時の礼である。また、試合前には審判を前にして相手チームと向かい合い、一礼して試合に入る。それは神聖な場所というよりも、礼儀という意味合いが強いと思う。正々堂々とルールに従って勝負をしましょうという宣言である。スポーツは何をしても勝てばいいというものではない。スポーツマンシップに則って正々堂々と勝負することが重要なのである。そういう意味もあると思う。

 そしてグラウンドを神聖な場所と捉えるメンタリティ。グラウンドは神様とは無縁であるが、グラウンドがあるからラグビーができる。そこで仲間と切磋琢磨しあう。自分の技術を磨き、ライバルと競う。怪我をしないためにもグラウンド整備は重要であり、グラウンドは意思を持たずとも、基本的に大事にするというのがプレーヤーの考えであろう。今は人工芝のグラウンドが増えているが、我々の学生時代は土のグラウンドだったから、グラウンド整備はより重要であった。

 私も三年時にはグラウンド整備担当責任者になり、1年間グラウンド整備に汗を流した。練習後にはレイキをかけて整地し、夏には除草し、特にラインを引くところは除草剤を使って念入りに除草整備をした。公式戦で使用する場合は、グラウンドの整備状況は試合にも影響するし、また恥ずかしくないグラウンドを見せることは、相手チームに対する1つの勝負でもあった。女性の化粧みたいなものかもしれない。そして試合での泣き笑い。練習で流した汗とが染み込んだあのグラウンドは、確かに神聖な場所であると言える。

 自分が仕える宮廷を神聖な場所として敬うことは大事であると思う。そしてそれを人目を憚らず体現できるのも素晴らしい。そういう気持ちでいたら、不正などは起こさないであろう。翻ってみれば、職場も本来はそういう気持ちで出入りすべき場所なのかもしれない。何よりそこで生活の糧を得ているのであり、もちろん労働を提供しているということはあるが、それは当然として、自分の生活を支えている場であると考えればそこは神聖な場所であると言える気もする。

 明日から密かに一礼して出入りする気持ちでいたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 蜘蛛 なぜ神で賢者で女なのか (講談社選書メチエ) - 野村育世 マスカレード・ライフ - 東野 圭吾




2026年7月30日木曜日

記憶

 人間の記憶とはつくづく不思議なものだと思う。我々は生まれてからこのかた、さまざまに体験してきたことを記憶している。とは言え、すべてではない。忘却の彼方に消え去ったものも多い。記憶することはごく普通のことであり、我々は特に意識することはないが、考えてみれば不思議だと改めて思う。脳科学の観点からいうと、記憶とは脳内の神経細胞(ニューロン)同士の結びつき(シナプス)のネットワークによるものらしい。専門家の意見に異議を唱えるつもりはないが、それとて目に見えるものではないから、「おそらくそういう事だろう」という予想なのだと思う(その予想自体も凄いと思う)。

 そうであるとしても、それによって記憶される仕組みは考えれば考えるほど不思議である。自分自身のもっとも古い記憶は3歳くらいのものである。それも確かではないが、ちょうど4歳の時に弟が生まれて引っ越しており、それ以前の記憶なので3歳としているのである。もしかしたら2歳の記憶もあるのかもしれない。生まれた時からの記憶がないのは、ニューロン同士のシナプスが未発達だったのかもしれない。3歳の頃の記憶は、特に印象深いイベントだったわけではないのに、なんで記憶に残っているのかも不思議である。

 記憶の中でも、すぐに思い出すことができるものとできないものとがある。先日、大阪に出張に行ったが、新大阪から心斎橋に向かう通路を歩いていて、そう言えば前回来た時もここを通ったと思い出した。ここで昼飯を食べたなという店もあった。風景を見て思い出す記憶というものもある。やはり記憶容量の都合もあるのだろうが、我々の記憶のほとんどがこうした何かのきっかけから思い出されるものが大半であるように思う。逆にそういうきっかけがあってもまったく忘れ去ってしまっているということもある

 読んだ本と観た映画の記録を残すようにしたのも、記憶の補助としてである。この20年間で観た映画は3,000本を越える。そのすべてを記憶していることはできないわけで、ただ思い出せるようにブログに残しているのである。なので私の本と映画のブログは自分の記憶の補助であり、内容を後から思い出せるようにしている。それゆえに感想やうんちくは二の次である。だが、それでも観た事、読んだ事すら忘れているものもある。もちろん、ブログなど読み返さずとも鮮明に覚えているものもある。それは印象と結びついているからだが、なぜ印象と結びつくと鮮明に記憶できるのか、当たり前のようだが不思議である。

 記憶は事実のみが残るものなのかもしれない。そしてその時々の「感情」については記憶の対象外なのかもしれないと思う。小学校6年の時、4年生に対するクラブ紹介で、当時卓球クラブに所属していた私は、どういう経緯だったか4〜6年生の生徒が集合して見守る中で5年生の女の子と対戦し、見事負けてしまったことがある。ものすごく恥ずかしい思いをした記憶はあるが、「恥ずかしい思い」自体(の感覚)は忘れてしまっている。失恋の苦い記憶も覚えているが、「辛かった」という記憶だけで、「辛さ」自体の感覚は残っていない。だからいいのかもしれない。

 一緒に暮らしている両親は、年齢のせいなのか、子供の頃の記憶である長期記憶は健在だが、「今日のお昼ご飯に何を食べた」というような短期記憶は絶望的にない。モノをしまっても、しまった場所どころかしまったことさえ忘れている。なのでマイナンバーカードやキャッシュカードなどは私が管理している。記憶が書き換えられることはよく言われているが、両親とも同様である。母などは先日、訪問買い取りを利用したが、自分でものを渡し、お金を受け取ったにもかかわらず、「お金を受け取っていない」と言い出し、しまいには「トイレに行っている隙に持ち逃げされた」と言い出している。

 考えてみれば、人間とは記憶そのものである。自分の名前から始まり、住んでいるところ、これまで生きてきた経緯、そして考え方もすべて記憶であると思う。もしも、すべての記憶を一瞬にして失い、生まれた時の状況にリセットされたらどういう事になるのか。言葉も発せず、服を着るという事も知らず、羞恥心もない人間である。何もできない赤ん坊だからいいが、大の大人がそうなったら大変だろうと思う。認知症が怖いのは、自分が自分でなくなるから。今の自分の考え方を失い、今の自分が軽蔑するような行動を平気で取るかもしれない。そうなったら、今の自分は安楽死を受け入れるが、その時の自分は抗うかもしれない。そういう自分の姿は想像したくない。

 雨が降った翌日、濡れた傘を玄関に干していたら、いつの間にか母が(まだ乾いていないのに)取り込んでいた。なぜかと問うと、「盗られるから」と言う。そんな事私は考えもしなかったが、母はそんな調子で人を疑う行動や自分本位の言動をよくしている。大学を卒業する23歳まで同居していたが、昔からそうだったわけではない。年老いて衰え、考え方も被害妄想的になってきたのだろうかと思う。あるいはこれが秘められた本性なのかもしれない。自分も年老いたらそうなるのかもしれないと思うと、暗澹たる気持ちになる。老いて体のどの部分が使えなくなってもいいから、「目」と「記憶」だけは最後まで保っていたいと心から思う。

 辛い経験も悲しい経験も時が経てば癒される。それは感情が記憶されないからだと思う。嬉しい経験も同様で、1年間宅浪して勉強して、晴れて第一志望の大学に合格した時の震えて涙が出るような喜びも、今は「そういう経験をした」という記憶だけで「感情」は薄れている。それはそれでいいと思う。ただ、そういう記憶を積み重ねた自分をいつまでも保っていたいと思う。記憶とは自分そのもの。いつまでもそういう記憶を保った自分自身でいたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 蜘蛛 なぜ神で賢者で女なのか (講談社選書メチエ) - 野村育世 マスカレード・ライフ - 東野 圭吾





2026年7月26日日曜日

NHK料金のハガキが届いたが・・・

 私には昔から「NHK料金については地上波分しか払わない」という信念というか考えがあって、ずっとそれを貫いている。NHKの人から見たら誠にけしからん存在であると思う。しかしながら、納得のいかないものはたとえ1円でも払いたくないと思う性格ゆえに、どうしても払う気になれないのである。地上波の意義というものは理解できる。公共放送という意義も理解できるので、見ようと見まいとテレビがある以上、NHKの(地上波の)料金を払うのは納得できる。しかし、衛星放送についてはそうではない。

 昨年、実家に戻ってきたが、我が父は衛星放送も含めて払っていた。ケーブルテレビに加入していたから、おそらく以前私の家に説明に来たのと同様のタイミングくらいで説明を受け、よく考えずに受け入れたのだと思う。それについては、新たに私の名義でケーブルテレビの契約をし直したので、NHKの衛星放送の料金支払いは止めてもらった。ケーブルテレビはケーブルテレビだけの料金を払うことにしたのである。そしてしばらくしてNHKから受信料支払いのハガキが送られてきた。

 それはよくある口座振替かクレジットカード払いを選択できるようになっているもの。「地上契約」、「衛星契約」とそれぞれ「2か月払」「6か月払」「12か月払」の料金が表示されている。地上契約だけ払おうと目を凝らして見たが、ハガキには何を選択するのかを表示する欄がない。地上契約だけ、あるいは両方もそうだが、何回払いにするかも選択する欄がないのである。ただ、口座振替かクレジットカード払かを選択できるのみである。これをこのまま送ったらどう処理されるのであろうかと困惑した。

 真っ先に思い浮かんだのは、父が12ヶ月払を選択していたため、自動的に12ヶ月払になるというもの。しかし、よく考えてみればこれはおかしい。同居しているとは言え、父と私とは別々の個人である。相続でもない限り私が父の契約を自動的に引き継ぐいわれはない。仮に私が衛星放送の料金も払おうとしたとしても、どの支払い方法を選択するのかは私の選択肢になるはずである。それすら表示されないと、いくら引き落としされるかわからないわけで、怖くて返送などできるものではない。

 いったいこの書式を考えた人はどういう意図なのだろうかと不思議でならない。このハガキを真面目に書いて送り返したら、担当者の判断でどの契約(まぁ両方の契約にするのだろう)か、どの支払い間隔にするのかを勝手に選んで請求されることになるのだろう。考えてみると恐ろしい。それでも一応確認しようと電話で問い合わせすることにした。ところが、例によって電話はつながらない。この手の問い合わせは最近どこも似たようなもので、とにかくなかなかつながらない。結局、諦めてしまった。

 この手の問い合わせに必要なのはともかく根気。電話を繋ぎっぱなしにして出るのを根気強く待つしかない。20分以上待たされたこともあったが、電話をかけたまま仕事をしてつながるのを待つのはよくやることである。しかし、今回はそこまでして電話して問い合わせする必要性を感じられず、早々に切り上げてしまった。「放っておこう」というのが今回の結論である。払わなくてもこちらに実害はない。ハガキの意図を説明されたとしてもその結論に変わりはない。

 それにしても今衛星放送ではどんな番組を放送しているのだろうか。試しに番組表を見てみたが、地上波と大して変わり映えしない眠たくなるような番組ばかりである。これで料金を取ろうという意図は何であろうか。NHKが衛星放送で我々に対して提供する「地上波とは異なる価値」は何であろうか。そう問うてみてもおそらくしっかりとした答えは返ってこないだろう。いやしくもお金を取るわけである。「公共放送」ということだけをその拠り所とするのであれば、「地上波のみで十分でしょう」と言わざるを得ない。

 提供する価値にしろ、意味不明のハガキにしろ、どこか世間というか資本主義の世の中とは別のところにNHKはいる。どうやら私が衛星放送の料金を払いたくなる日はまだまだ来ないだろうと思うのである・・・




【今週の読書】
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2026年7月22日水曜日

他人の考えを読むこと

 先日、とある集まりに参加して「赤黒ゲーム」という心理ゲームを体験した。参加者は2つのチームに分かれ、それぞれのチーム内で話し合い、「赤」または「黒」のどちらかに投票する。相手チームも同様で、その結果、
 1 両チームがともに「黒」の場合、両チームに3点をプラス
 2 両チームがともに「赤」の場合、両チームから3点をマイナス
 3 それぞれ「赤」と「黒」に分かれた場合、「赤」を選んだチームが3点プラス。
   「黒」を選んだチームは5点マイナスとする。

 これを数回繰り返して合計点を出すというもの。やり始めてわかるのだが、重要なのは「相手チームが何色を選ぶか」を予想するもの。心理学の「囚人のジレンマ」と似た感じであるが、相手の選択によって結果が変わるわけであり、相手が何を選ぶかを予想するのが面白く、難しい。考えてみれば、これは至るところで起こっている出来事。学生時代は好きになった女性が自分の事をどう思っているのかが気になった。好意を持っているとわかれば積極的にアプローチできるが、そうでない場合はどうするか(振り向いてもらうようにするか諦めるか)。

 また、先日テレビ番組を見ていたら、中国、韓国の企業とともに入札に臨む企業が、ライバル会社がどんな提案をするのかを気にしていた。ビジネスの現場ではよくある事である。相手の考えがわかれば、それにズバリ突き刺さる提案ができる。スポーツの現場でも、シニアとなった今でもラグビーの試合前は、相手がどんなアタックをしてくるのかが気になる。それがわかればアタックもディフェンスもそれに備えたものができる。超能力にはいろいろと心惹かれるものがあるが、特に読心術は魅力的である。

 SF映画は、人間の願望に基づくものが多い。超能力や人間以上の能力を持つスーパーヒーローなどはその際たるものだろう。映画『ハート・オブ・ウーマン』はある日突然、女性の心の声が聞こえるようになった男の話。自信過剰のプレイボーイである主人公が、さまざまな女性の心の中の本音を知ることによって変わっていくという物語。物語の世界に没頭して楽しめたのは、「こんな能力が自分にもあったら、自分の人生ももっと良いものになっていただろう」という思いからである(その逆の『ハート・オブ・マン』という映画もあった)。

 しかしながら妄想を進めていくと、人の心を読む力は、自分だけに備わっていてこそだと思う。誰もができたらそれはそれで厄介だろう。人には知られたくない考えというものがある。男であれば、ビジネスの現場で相手の女性と真面目な話をしつつ、容姿について心に浮かんだことがそのまま相手に伝わったら大変なことになる。会議の最中に「つまんない意見だな」という考えは伏せておきたい。接待の場で、相手を持ち上げつつ心の中でついた悪態が相手に伝わったらせっかくの接待もぶち壊しになる。わからないからこそ、世の中がうまく回るというものが実に多いのも確かである。

 わからないからこそ、わかろうとして工夫するというのも確かである。その昔、好きな女性の心を振り向かせたくて、あれこれと努力した。その人にふさわしい男になりたいと思い、それはどんな男だろうかと考えていたからこそ、それ以前より多少人に優しい人間になれたように思う。相手の戦法がわからないからこそ、いろいろな想定をして練習している。採用の現場でいろいろと考えているのも、どんなPRをすれば学生の志望を得られるかと思うからである。わからないからこそ努力する。それが結果的に進歩につながる。

 人の心はわからないというのは当たり前である。それでももしもわかっていたら、結婚相手は間違いなく違っていただろうし、仮に今の妻と結婚しても現在の別居はもしかしたらなかったかもしれない。どちらがいいのか、そこまで妄想しても始まらない。現実に人間は他人の考えを読むことはできない。だから大変であり、だからいいのだろう。まぁ、妄想ネタとしてはいいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 蜘蛛 なぜ神で賢者で女なのか (講談社選書メチエ) - 野村育世 マスカレード・ライフ - 東野 圭吾






2026年7月19日日曜日

息子と

 かねてから予定していた通り、息子と会ってきた。「飲みにいくか」ではなく、「メシを食いにいこう」と誘ったのは、昨年の経験に基づくところである。息子の帰り道を考えて池袋で待ち合わせをする。やはり肉系がいいかと考えてそれっぽい店を選ぶ。何だかデートのようだと思わなくもない。昨年、別居して以来、何度か会っているし、LINEでやり取りもしている(なかなか既読がつかないのは、あまり優先的に見てくれていないようでもある)。息子と向かい合い、息子が選んだ牛タンを食べながら話をする。

 息子は今年、大学3年。教養課程を終えて専門課程に入っているようである。私も法学部であったが、息子は同じ法学部でも政治学科。国際政治なんかを中心に学んでいるそうだが、授業は面白いらしい。ゼミにも参加し、週7コマの授業に出ていると言う。野球も続けていて、週1回活動をしているのだとか。飲食店でアルバイトし、なかなか忙しい学生生活を送っているようである。気になるのは、就活の事。最近は早まっているらしく、その辺りも聞いてみた。

 早い者はもう2年生くらいから活動しているようで、息子は就活はまだだが、夏のインターンシップには何社か申し込んでいるらしい。私の頃は、リクルーター制度が全盛で、ラグビー部の先輩が片っ端から我々に声を掛けてくれてメシを食いに連れて行ってくれたものである。「それって人事部に繋がるの?」と息子が問う。というか、人事部の先兵となって動いていたから直結だよと答えたら驚いていた。今もOB訪問はあるらしいが、ホントに働く様子を聞くだけのものらしい。

 そのインターンシップであるが、息子は商社と海運会社に申し込んでいるらしい。もちろん、その2つの業界を志望しているということで、商社はともかく、「何で海運なの?」と聞くと、「海外で働けて給料がいいところ」とのこと。海外で働くのはともかく、海運会社は給料が低いというイメージがあったが、最近はそうではないらしい。今度海運会社に行った先輩に会ったら聞いてみようと思う。それにしても海外で働きたいという気持ちはいいと思う。

 それであれば英語力は磨いておいた方がいいとアドバイス。技術の進歩で、翻訳機も進歩するし、あえて外国語を学ぶ必要はなくなるように思うが、それでも個人的には翻訳ではなく、きちんと使えるようになることが必要だと思う。息子にはそう伝えたが、本人もそれを自覚していて、IELTS(アイエルツ)も受けるのだとか。初めて聞く言葉に2度聞してしまったが、今はTOEICではなくIELTSなのだと言う。さらにAIでスピーキングの添削をしてもらっているとのこと。偉そうにいろいろアドバイスしようと思ったら、息子の方が先を行っていた感がある。

 いつしか、場所をスタバに変え、3時間近く話をしていた。皮肉なもので、家にいた時よりもいろいろと話をしていた。彼女はまだいないとの事。今は合コンはあるのかと尋ねると、あるにあるがあまり流行りではないらしい。ここでも親父の自慢話をと思ったが空振りに終わる。と言っても、親父はもともと学生時代は空振りばかりだったので、「俺の若い頃はな」と話して聞かせるようなものはないのである。息子相手に自虐ネタもないだろうと聞き置いておいた。 

 こうして息子と2人の時間を持てたことは、家を出たことの1つのメリットかもしれない。「離婚する」という話も「好きにすれば」という反応。このあたりは子供が大きくなってからの方が影響は少ないだろうと改めて実感する。「夫婦ではなくなっても親子の絆は一生だからな」と最後に加えておいた。また改めてこういう場を設けたいと思う。1つ難しいのは、息子とは気軽に会えるが、娘とはどうしようかと考えてしまうこと。話題は続くだろうか、そもそも誘ったらきてくれるだろうか。美味しいもので釣れるかもしれないが、会話は難しいのではないかと不安になる。

 それはそれであるが、やはり親子の絆は永遠。子供達とこういう大人の会話の場はこれからも設けていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 蜘蛛 なぜ神で賢者で女なのか (講談社選書メチエ) - 野村育世 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛



2026年7月15日水曜日

論語雑感 郷党第十 (その3)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
君召使擯、色勃如也。足躩如也。揖所與立、左右手。衣前後、襜如也。趨進、翼如也。賓退、必復命曰、賓不顧矣。
【読み下し】
きみしてひんせしむれば、いろ勃如ぼつじょたり。あし躩如かくじょたり。ともところゆうすれば、ゆうにす。ころもぜん襜如せんじょたり。はしすすむに、翼如よくじょたり。ひん退しりぞくや、かなら復命ふくめいしていわく、ひんかえりみずと。
【訳】
君公に召されて国賓の接待を仰せつけられると、顔色が変るほど緊張され、足がすくむほど慎まれる。そして同役の人々にあいさつされるため、左右を向いて拱こまねいた手を上下されるが、その場合、衣の裾の前後がきちんと合っていて、寸分もみだれることがない。国賓の先導をなされる時には、小走りにお進みになり、両袖を鳥の翼のようにお張りになる。そして国賓退出の後には、必ず君公に復命していわれる。「国賓はご満足のご様子でお帰りになりました」
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 接待という事を考えてみると、振り返ってみるとこれまであまり苦労した経験がないなと改めて思う。それはそもそもそういう機会がほとんどなかったからとも言える。銀行員時代からお客さんと酒席をともにする機会がなかったわけではない。それなりに回数はあったが、どちらかというと「接待される」方であり、銀行は営業店にいると、やはり接待するよりされる方が多かったと記憶している(今はどうかわからない)。そういう接待の場では主賓は支店長であり、私はお供であったから「傍に侍る」だけで良かったことがほとんどであった。

 それでも銀行というところは立場が微妙で、お客さんとより親しくなるという意味では酒席も必要なのであるが、あまり過度な接待になると「癒着」にもなりかねず、その匙加減が難しいものであった。どちらかというと、「接待」というより「ちょっと飲みに行きましょう」というレベルが多かったのも確かである。規模の小さい中小企業となると、「気を遣う支店長」よりも実務的に「頼れる担当者」の方が気楽だったかもしれず、私もちょくちょく「ちょっと飲みに行きましょう」というお誘いを受けることも多かった。

 銀行員時代の前半はそうした支店勤務だったが、途中から不良債権担当がメインになると、接待の機会はなくなった。それはやはり「癒着」のリスクを避けるためである。それでなくても銀行はお金を扱う微妙な立場。「接待したのに融資してくれなかった」と言われても困るし、「接待したから融資してくれた」と言われても困る。お中元、お歳暮も気を遣う業態である。それが接待の機会が少ない理由でもあると思うし、個人的にはそれが良かったと思っている。正直言って、接待はするのもされるのも苦手であり、できれば避けて通りたいところである。

 接待とまではいかなくても、仲の良いお客さんとは個別に酒席をともにしたこともある。その時は先方も「気を遣う支店長がいないところで気楽に飲みましょう」という意味合いであった。接待には気を遣うと言っても、親しくなったお客さんとの「お付き合い」が必要なのも事実である。応接室で話をするのもいいが、飲みに行けばプライベートの話をしたりしてより親しくなるのも事実である。それが「情状融資」などにつながればまずいが、担当レベルではそれほど大事にはなりにくい。そういう「お付き合い」もしばしばあった。

 記憶に残っているのは、最後の支店勤務で親しくなったとある社長さん。社長1人、事務員1人の小さな企業で、銀行としては接待対象になるような取引先ではなかった。支店長らの関心も薄い取引先であったが、資金需要はしばしばあり、私がこまめに対応していた。相手の社長さんからすると、それがありがたかったらしく、他にも取引銀行はあるようだったが、最後はほとんど一行先のようになっていた。転勤になり挨拶に行くと残念がられ、こっそりと「韓国に行きませんか」と誘われた。目的はエステでも買い物でもない。

 今はどうかはわからない。当時は韓国に行くと「エスコートサービス」のようなものがあり、女性が24時間エスコートしてくれるものだったらしい。もちろん、費用は全額社長持ちである。支店勤務時だとまずいというのは社長も理解していたようで、転勤時にはと考えてくれていたらしい。非常に魅力的なオファーだったが、新婚ではなかったものの、結婚して2〜3年目くらいの身で気が引けてお断りした。今誘われたら喜んで行くところだが、思い出すと残念に思う。ただ、それだけ喜んでいただいたのは事実であり、他の銀行よりも良いサービスを提供できたことは誇らしく思う。

 銀行を離れたあともそれほど接待とは縁なく過ごしている。唯一、昨年取引先の銀行から接待されたくらいである。銀行から接待されるという事は、1つには「前向きの取引先」であるという事がわかる。問題先であれば酒席をともなう接触は避けるものである。先方は地域統括の責任者がホストであったが、目的は「親睦」であった。銀行の接待用施設を利用してのもので、部屋は個室であり、それなりの高級感もあって好感を与えるという意味では接待の意味は大きい。ただ、やはりこちらも気を遣うのは確かであり、頻繁に招かれたいというものではない。

 考えてみれば、接待は飲食を伴う「儀式」であると思う。本来的にお付き合いであり、楽しむものではない(少なくとも楽しむのは二の次だろう)。楽しみたいと思うから大変なのであり、仕事と割り切ればそうではない。今の立場だと接待とは(する方もされる方も)縁がなさそうである。それはそれでありがたいと思う。「親睦を深める」「取引深耕を図る」等接待にはいろいろと目的があるだろうが、個人的には韓国に誘っていただいた社長さんのように、仕事の成果を評価してもらえるようなものがいいと思う。それが目的ではないが、常にそういう仕事をする意識で働きたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 蜘蛛 なぜ神で賢者で女なのか (講談社選書メチエ) - 野村育世 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年7月12日日曜日

法律は正義か

 現在会社で訴訟を抱えている。とある上場企業とある取り決めをし、契約書とともに覚書を結んだのであるが、その履行を巡っての争いである。我々は万が一の場合に備えての要望を出し、それを相手が認めて覚書という形で結んだのである。そもそも相手には我々の経営権を欲しているところがあり、それを警戒して覚書を結んだという経緯がある。それは普通では飲まないような条件だったのであるが、相手が最終的に折れる形で条件を飲んできたのである。そして事態は良からぬ方向へと進み、いよいよ覚書で定めた条件を履行してもらおうとなった段階で相手がソッポを向いたのである。

 我々としては、きちんと互いに合意した以上、履行を求めているのであるが、それは相手にとっては不利な条件であり、ここにきて約束を反故にしようというのだろう。そこで我々としては法による正義を求めて訴訟を起こすことになった。話の筋からして当然我々の主張が通るだろうと考えていた。自分たちに都合が悪い条件だというのはわかっていて、それでも我々に取引を求めてきたのである。万が一の場合についても承諾した上で、覚書という形できちんと書類にも残していた。何も問題はないと訴訟に臨んだのである。

 ところが、訴訟が進むにつれ、雲行きが怪しくなる。弁護士からはあらかじめ和解という形での決着も視野に入れてくれと言われていた。こういう民事裁判の場合、弁護士はあまり判決文を書きたがらないらしい。詳しい事情はよくわからない。和解となれば双方の同意であり、裁判所の役割もその仲介となる。裁判所の判断は入らないことになり、いろいろな面倒から逃れられるのだろう。我々としても「多少の」譲歩は仕方がないと考えていた。そこは何が何でも100%の勝ちにこだわるつもりもない。

 しかし、和解にしたところで裁判官が途中での心象というものを示してくる。このまま行くとどちらの判断を下すのかというところである。それが何と我々の主張に否定的であるというものであった。何でも相手は本契約と覚書の細かい条項をついて、グレー部分を主張してきているとのこと、そして裁判所も覚書の条項の表現を相手方の主張通りに捉えているということである。グレー部分とは、明確にどちらというものではなく、取りようによってはそう取れるというものである。

 話の筋か言葉の解釈か。我々としては話の筋だろうと思うのだが、法的には言葉の解釈を優先するという。その考え方はわからなくもない。しかし、裁判員制度が導入されたのは、裁判官の判断だけではなく、市民の常識や感覚を反映させようという意図だったと思うが、まさにその市民の感覚と大きくズレているのを感じる。裁判官の判断と弁護士による解釈。弁護士は我々の味方であるはずなのに、裁判官の意見を翻訳して我々に伝えてくれているはずが、いつの間にか「どちらの味方なんだ」という気がしてくる。

 今回の争いはどういう経緯で起こったのか、覚書を結んだ前後のやり取りやその後の争いに至る経緯。それを勘案すれば、我々の方が正しいというのは市民感覚としてわかるはず。それを法的な契約書や覚書の文言にこだわってその解釈だけで判断しようとすれば(そこに一定の理屈は当然成り立つ)、何が正義なのかという気がしてくる。法的に正しければ、人としての道理は成り立たなくてもいいのだろうかと思わざるを得ない。

 法律は万能ではない。それでも一定のルールを決めてその範囲内で争いを解決しようとする。双方には双方の正義がある。昨日とある懇親会で「正義の反対は?」と、とある方に尋ねられた。答えは「もう一方の正義」であった。なるほどと納得した。双方に正義があり、それぞれが法律に基づいてどちらの正義に軍配が上がるかを求める。その時に法に基づき判断されることになるが、一方で「事実」が蔑ろにされてはならないと思う。法律は完璧ではない。そこを補うのが、市民感覚ではないかと思う。

 裁判官の解釈に従うならば、一体覚書に定めたことが成就するケースとはどんなケースなのかと疑問に思う。弁護士がそこを追及しているが、裁判所はそれに対して答えてくれない。おそらく答えられないか、あり得ない架空のケースになるしかない。そこにも矛盾が生じる。法と市民感覚と事実。それをうまく裁くのがいい裁判官のように思う。今回は覚書の内容に(グレーの解釈を生む余地である)不備があったのも事実。そこを事実の経緯でもっと補ってほしいと思う。そういうところが法律の限界であり、それが私が大学4年の時、法曹の道へ進むのをやめさせた理由である。

 その判断は正しかったと今も残念ながら思うのである・・・



【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 夫婦はなぜ壊れるのか カウンセリングの現場で見た、絶望と変化 (幻冬舎新書) - 山脇由貴子 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛





2026年7月9日木曜日

理想の結婚相手

 現在妻とは別居中である。もう随分前から夫婦関係は他人行儀になっており、今後の事を考えると、1人になった方が良いと考えて私が家を出たのである。このまま結婚していても、夫婦二人だけで旅行に行くなんてまずないだろうし、それどころかランチに行くことすらないだろうと考え、それならと決意した次第である。妻の私に対する冷たい態度の原因は私にあるのだろうが、私にはその自覚がない。よって直しようもない。別居にも「関係修復のための別居」と「離婚に向けての別居」があると思うが、私の意識は後者である。なぜ、そうなってしまったのか。そもそも結婚したのは間違いだったのか。

 間違いだったとすれば、どんな相手を選べば良かったのか。いろいろと妄想してみる。男であれば誰でも美人と結婚したいと思うだろう。私もそれは否定しない。しかし、結局、美人と結婚しても、周りに対して優越感に浸れるのと、夜が楽しいくらいなだけのように思う。結婚生活30年の経験からすれば、「顔」や「スタイル」は「二の次」にしたい。やはり「性格」を優先順位の筆頭に挙げたい。このあたりは両者の「バランス」を考えていた20代の頃との意識の変化かもしれない。

 では、どんな「性格」なら良いのか。まず「気が強い」人は回避したい。女だてらになどと男尊女卑的なことを言うつもりはないが、やはり喧嘩になった時の対応が違うように思う。私自身はあまり感情的になりにくい性格なこともあり、普通の夫婦喧嘩なら大げさな怒鳴り合いになるようなことにはならないと思う。ただ、強気にまくしたてられれば穏やかではいられない。「やっぱりここはこちらも強く出た方がいいかな」と思ってあえて怒鳴り返すこともあったくらいである(さすがに手を上げることはなかった)。そんなことも嫌な記憶として残っている。

 しかし、気の強さはどこでわかるのか。それ以外の「性格」はどこでわかるのか。これが難問である。女はえてして「猫を被っている」(男もそうだろうが)。妻も完璧に被っていた。それがわかったのは結婚した後。もう後の祭りである。では事前にわかる方法はないのか。2人でいる時にはわからない。それがわかるのは第三者に対する時。個人的にはそれは「職場」だと思う。妻には結婚した後で勤めていた頃の職場での様子を聞いたが、「わがままな営業の要求をいかに突っぱねたか」という武勇伝には、己の判断ミスをつくづくと思い知らされた。知っていたら結婚どころか付き合ってさえいなかっただろう。その意味で「職場結婚」は個人的にお勧めだと思う。

 実際、一緒に働いてみると、その人のいろいろな姿が見えてくる。電話応対の姿、窓口応対の姿、内部の上司、同僚に対する姿。特に他の係の人とのやり取りはその人の人柄が表れる。嫌なことを押し付けられた時など特にである。妻のように面と向かって対峙するタイプはもっとも避けたいと思う。他の係の人とのやり取りは、結婚後の夫に対する態度と同じように思う。言わなければならないことは言わなければならない。問題はその言い方である。そこにその人の人柄が表れると思う。自分の気持ちをストレートにぶつけるのか、相手に対する配慮を込めるのか。

 自分のことを棚上げしている感じはすごくあるが、私も欠点が見えれば直す努力はしたいと思う。家事に関する無関心はその際たるもの。私の時代は「男は仕事」という時代だったが、そこは改めないといけない。ただ、子育てに関してはかなりやったと思う。それは義務というより自ら進んでやりたいこととして、である。今、『夫婦はなぜ壊れるのか カウンセリングの現場で見た絶望と変化』という本を読んでいる。この本を読むと、互いに生い立ちというものも重要らしい。どういう家庭環境で育ったのかというのが重要であるというのである。そうして義父母の関係を思い返してみると、「女尊男卑」の家庭からは女帝が育つという事である。

 もしも、昔に戻って人生をやりなおすとなると、理想の相手探しは職場の中から、そして育った家庭環境も意識してとなるが、よく考えてみればそんなことをしているうちに気が付けば独身で人生を終わりそうである。やはり世間でよく言われているように「結婚は勢い」なのかもしれない。失敗に終わった我が結婚だが、子供の存在だけは間違いではない。そこだけが救いかもしれない。あれこれ考えても仕方ないし、妄想している暇があれば、今後に目を向けたい。まだまだ人生は第4コーナー。より良き明日を信じて生きていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】

 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 夫婦はなぜ壊れるのか カウンセリングの現場で見た、絶望と変化 (幻冬舎新書) - 山脇由貴子