最近、よく「息子に伝えたいこと」を考える。息子は現在、大学生。父親としていろいろと教えたいと思う。しかし、自分自身、改めて考えてみると「成功者」とは程遠い(何をもって「成功者」とするかにもよるが、いわゆる世間から見た「成功者」とする)。しかしながら自分を卑下するわけではないが、「失敗者」でもない。どちらかと言うと「勝つ」よりも「負けない」事の方が大事ではないかと思う。たとえば人生の後半に借金を返せなくなり、自己破産して、年金か生活保護でとりあえず最低限の生活を送るという状態になるよりも、そこそこの生活でも自立して生きられればいいという程度である。
自分も今、人生の第4コーナーを回るあたりで、まだまだゴール前でこける可能性もあるわけであるが、とりあえずここまでのところで人生の第1コーナーを回ろうとしている息子に何を伝えるべきだろうか。いろいろあるが、あまり細々としたことは伝えきれるものでもない。これというものを一つ選ぶとしたらなんだろうか。日頃そんなことをつらつらと考えたりしている。自分の経験(それもうまくいかなかった経験)を踏まえ、息子が自分なりの幸せな人生を送る上で役立ちそうなアドバイスはなんだろうか。
「これをやれば大丈夫」というようなものは、残念ながらない。我が身を振り返ってみると、何となく「窮地に陥った時に何をすべきか」ではないかと思う。これまでも何回か、窮地に陥ったことがある。仕事の上でも私生活の上でもである。そこで潰れなかったから、今とりあえず普通の生活が送れているように思う。不安で居ても立ってもいられず、夜ようやく眠りについても夢の中で怖くなって目が覚める。不安に神経を削られて精神の休まる時がない。そういう経験をするともう二度と同じ経験をしたくはないと思う。
ではどうすればそういう経験をせずに済ますことができるだろうか。残念ながらそれは難しいと思う。株で失敗してかなりの借金を抱えてしまったり、業績の芳しくない企業で借入の連帯保証をしたり、にもかかわらず社長に裏切られて失業の恐怖を味わったりしたが、それらは予測不可能であり、避けようと思っても避けられるものではない。避けられないものであれば、受け止めてそこから脱出するまでの間、耐えるしかない。まずはそういう危機に陥ることになるという事を伝えたいと思う。
危機に陥った時にどうして不安で眠れなくなるのかと言えば、それは最悪の事態に対する恐怖である。「不安とは起こるかもしれない事」という言葉があり、それは「まだ起こっていない事」であるから大丈夫だという慰めもある。しかし、「起こるかもしれない」という恐怖はそれで緩和できるわけではない。その不安を緩和するとしたら、起こった場合にどうするかをひたすら想定するしかない。その最悪の事態に陥った場合、どうするべきかを考えて覚悟ができれば腹をくくれるが、できない場合もある。その場合は神に祈るのも手だと思う。
私は基本的に宮本武蔵の「神仏を尊びて神仏を頼らず」という考え方であるが、過去に危機に陥った時にはさすがに神頼みをした。早朝、眠れなくて目が覚めてしまい、居ても立ってもいられず近所の神社に参拝した。その頃は毎朝のように参拝していたが、それはむしろ心を落ち着かせるためであったが、不安が最高潮に達した時は神頼みをした。我ながら情けないと思ったし、神頼みをしても解決しないことは十分に理解していた。しかし、一時の不安を和らげる効果があった事は事実である。
あとその時ひたすら考えていたのは、この不安を誰かに肩代わりさせるとしたらどうする、ということ。たとえば尻尾の先が尖った悪魔が突然目の前に現れて、「お前の苦悩を息子に肩代わらせて楽にしてやろう」と言われたら、その申し出に飛びつくかという事である。答えはもちろん「NO」である。ならば自分で背負わないといけない。これは家族に代わって自分が引き受ける苦悩だと思うと少し楽になった。状況は何一つ変わっていなかったが、少し楽になったのは、要は「考え方」という事なのだろう。
やがて社会に出て、いずれどうにもし難い困難に陥ることがあるだろう。そういう困難に陥らないに限るが、そうならないと根拠のない楽観にすがるよりも、あらかじめ迎え入れる心の準備をしておくべきだろう。人生には苦難がつきものであるとし、その時溺れないように心の準備をしておく。「神に祈れ、だが岸に向かって漕ぐ手を休めるな」というロシアの格言の精神が大事だろう。泳ぎ切らなくても、流れが岸に向かっているなら溺れない程度に浮かんでいるだけでもいいと思う。
消極的かもしれないが、「負けない」ことも大事だと思うゆえ、いずれそんな話を伝えたいと思うのである・・・
















