日頃あれこれ思う事どもを思うがまま自由に綴る
現在会社で訴訟を抱えている。とある上場企業とある取り決めをし、契約書とともに覚書を結んだのであるが、その履行を巡っての争いである。我々は万が一の場合に備えての要望を出し、それを相手が認めて覚書という形で結んだのである。そもそも相手には我々の経営権を欲しているところがあり、それを警戒して覚書を結んだという経緯がある。それは普通では飲まないような条件だったのであるが、相手が最終的に折れる形で条件を飲んできたのである。そして事態は良からぬ方向へと進み、いよいよ覚書で定めた条件を履行してもらおうとなった段階で相手がソッポを向いたのである。
我々としては、きちんと互いに合意した以上、履行を求めているのであるが、それは相手にとっては不利な条件であり、ここにきて約束を反故にしようというのだろう。そこで我々としては法による正義を求めて訴訟を起こすことになった。話の筋からして当然我々の主張が通るだろうと考えていた。自分たちに都合が悪い条件だというのはわかっていて、それでも我々に取引を求めてきたのである。万が一の場合についても承諾した上で、覚書という形できちんと書類にも残していた。何も問題はないと訴訟に臨んだのである。
ところが、訴訟が進むにつれ、雲行きが怪しくなる。弁護士からはあらかじめ和解という形での決着も視野に入れてくれと言われていた。こういう民事裁判の場合、弁護士はあまり判決文を書きたがらないらしい。詳しい事情はよくわからない。和解となれば双方の同意であり、裁判所の役割もその仲介となる。裁判所の判断は入らないことになり、いろいろな面倒から逃れられるのだろう。我々としても「多少の」譲歩は仕方がないと考えていた。そこは何が何でも100%の勝ちにこだわるつもりもない。
しかし、和解にしたところで裁判官が途中での心象というものを示してくる。このまま行くとどちらの判断を下すのかというところである。それが何と我々の主張に否定的であるというものであった。何でも相手は本契約と覚書の細かい条項をついて、グレー部分を主張してきているとのこと、そして裁判所も覚書の条項の表現を相手方の主張通りに捉えているということである。グレー部分とは、明確にどちらというものではなく、取りようによってはそう取れるというものである。
話の筋か言葉の解釈か。我々としては話の筋だろうと思うのだが、法的には言葉の解釈を優先するという。その考え方はわからなくもない。しかし、裁判員制度が導入されたのは、裁判官の判断だけではなく、市民の常識や感覚を反映させようという意図だったと思うが、まさにその市民の感覚と大きくズレているのを感じる。裁判官の判断と弁護士による解釈。弁護士は我々の味方であるはずなのに、裁判官の意見を翻訳して我々に伝えてくれているはずが、いつの間にか「どちらの味方なんだ」という気がしてくる。
今回の争いはどういう経緯で起こったのか、覚書を結んだ前後のやり取りやその後の争いに至る経緯。それを勘案すれば、我々の方が正しいというのは市民感覚としてわかるはず。それを法的な契約書や覚書の文言にこだわってその解釈だけで判断しようとすれば(そこに一定の理屈は当然成り立つ)、何が正義なのかという気がしてくる。法的に正しければ、人としての道理は成り立たなくてもいいのだろうかと思わざるを得ない。
法律は万能ではない。それでも一定のルールを決めてその範囲内で争いを解決しようとする。双方には双方の正義がある。昨日とある懇親会で「正義の反対は?」と、とある方に尋ねられた。答えは「もう一方の正義」であった。なるほどと納得した。双方に正義があり、それぞれが法律に基づいてどちらの正義に軍配が上がるかを求める。その時に法に基づき判断されることになるが、一方で「事実」が蔑ろにされてはならないと思う。法律は完璧ではない。そこを補うのが、市民感覚ではないかと思う。
裁判官の解釈に従うならば、一体覚書に定めたことが成就するケースとはどんなケースなのかと疑問に思う。弁護士がそこを追及しているが、裁判所はそれに対して答えてくれない。おそらく答えられないか、あり得ない架空のケースになるしかない。そこにも矛盾が生じる。法と市民感覚と事実。それをうまく裁くのがいい裁判官のように思う。今回は覚書の内容に(グレーの解釈を生む余地である)不備があったのも事実。そこを事実の経緯でもっと補ってほしいと思う。そういうところが法律の限界であり、それが私が大学4年の時、法曹の道へ進むのをやめさせた理由である。
その判断は正しかったと今も残念ながら思うのである・・・
現在妻とは別居中である。もう随分前から夫婦関係は他人行儀になっており、今後の事を考えると、1人になった方が良いと考えて私が家を出たのである。このまま結婚していても、夫婦二人だけで旅行に行くなんてまずないだろうし、それどころかランチに行くことすらないだろうと考え、それならと決意した次第である。妻の私に対する冷たい態度の原因は私にあるのだろうが、私にはその自覚がない。よって直しようもない。別居にも「関係修復のための別居」と「離婚に向けての別居」があると思うが、私の意識は後者である。なぜ、そうなってしまったのか。そもそも結婚したのは間違いだったのか。
間違いだったとすれば、どんな相手を選べば良かったのか。いろいろと妄想してみる。男であれば誰でも美人と結婚したいと思うだろう。私もそれは否定しない。しかし、結局、美人と結婚しても、周りに対して優越感に浸れるのと、夜が楽しいくらいなだけのように思う。結婚生活30年の経験からすれば、「顔」や「スタイル」は「二の次」にしたい。やはり「性格」を優先順位の筆頭に挙げたい。このあたりは両者の「バランス」を考えていた20代の頃との意識の変化かもしれない。
では、どんな「性格」なら良いのか。まず「気が強い」人は回避したい。女だてらになどと男尊女卑的なことを言うつもりはないが、やはり喧嘩になった時の対応が違うように思う。私自身はあまり感情的になりにくい性格なこともあり、普通の夫婦喧嘩なら大げさな怒鳴り合いになるようなことにはならないと思う。ただ、強気にまくしたてられれば穏やかではいられない。「やっぱりここはこちらも強く出た方がいいかな」と思ってあえて怒鳴り返すこともあったくらいである(さすがに手を上げることはなかった)。そんなことも嫌な記憶として残っている。
しかし、気の強さはどこでわかるのか。それ以外の「性格」はどこでわかるのか。これが難問である。女はえてして「猫を被っている」(男もそうだろうが)。妻も完璧に被っていた。それがわかったのは結婚した後。もう後の祭りである。では事前にわかる方法はないのか。2人でいる時にはわからない。それがわかるのは第三者に対する時。個人的にはそれは「職場」だと思う。妻には結婚した後で勤めていた頃の職場での様子を聞いたが、「わがままな営業の要求をいかに突っぱねたか」という武勇伝には、己の判断ミスをつくづくと思い知らされた。知っていたら結婚どころか付き合ってさえいなかっただろう。その意味で「職場結婚」は個人的にお勧めだと思う。
実際、一緒に働いてみると、その人のいろいろな姿が見えてくる。電話応対の姿、窓口応対の姿、内部の上司、同僚に対する姿。特に他の係の人とのやり取りはその人の人柄が表れる。嫌なことを押し付けられた時など特にである。妻のように面と向かって対峙するタイプはもっとも避けたいと思う。他の係の人とのやり取りは、結婚後の夫に対する態度と同じように思う。言わなければならないことは言わなければならない。問題はその言い方である。そこにその人の人柄が表れると思う。自分の気持ちをストレートにぶつけるのか、相手に対する配慮を込めるのか。
自分のことを棚上げしている感じはすごくあるが、私も欠点が見えれば直す努力はしたいと思う。家事に関する無関心はその際たるもの。私の時代は「男は仕事」という時代だったが、そこは改めないといけない。ただ、子育てに関してはかなりやったと思う。それは義務というより自ら進んでやりたいこととして、である。今、『夫婦はなぜ壊れるのか カウンセリングの現場で見た絶望と変化』という本を読んでいる。この本を読むと、互いに生い立ちというものも重要らしい。どういう家庭環境で育ったのかというのが重要であるというのである。そうして義父母の関係を思い返してみると、「女尊男卑」の家庭からは女帝が育つという事である。
もしも、昔に戻って人生をやりなおすとなると、理想の相手探しは職場の中から、そして育った家庭環境も意識してとなるが、よく考えてみればそんなことをしているうちに気が付けば独身で人生を終わりそうである。やはり世間でよく言われているように「結婚は勢い」なのかもしれない。失敗に終わった我が結婚だが、子供の存在だけは間違いではない。そこだけが救いかもしれない。あれこれ考えても仕方ないし、妄想している暇があれば、今後に目を向けたい。まだまだ人生は第4コーナー。より良き明日を信じて生きていきたいと思うのである・・・
【本日の読書】
私は会社では「CFO」という肩書きをもらっている。前期から社長の意向で我が社も社長がCEOであり、私がCFO、他にCSOとCGOがいる。何もカッコつけてアルファベットにしているわけではない。その前は「取締役」であったが(今も法的には取締役である)、取締役だと「経営全般」ということになり、個々の取締役の役割が曖昧になるという欠点がある。そこで役割を明確化しようということになったのである。同じ取締役でも互いに役割がある。「財務担当取締役」でもいいのであるが、「CFO」の方がシンプルというわけである。
その私が担当する「財務」であるが、しばしば「経理」と混同される。両者は同じようでいて微妙に異なる。「経理」は日々の資金管理である。使ったお金を記録し、それを使途ごとに仕分けして整理したものが最終的に決算書となる。日々の記録であり、「事実」であると言える。「財務」は最終的な決算に向けて決算書を作っていくものとなる。いつどのタイミングで何にお金を使い、そのお金をどう調達するか、そして最終的にどんな決算書に仕上げるか。それはそのまま翌期の資金調達に影響する。
私は元々銀行員ということもあって、決算書は見慣れている。そしてどんな決算書だとお金が借りられて、どんな決算書だと借りられないかもである。私が今の会社の紹介を受けたのも、前職で社長の裏切りによって他の社員もろとも会社を追い出され、一応社長も知り合いの会社を紹介してくれたものの、給料は減額となり、さらに3年後には定年でさらに給料半減という条件など飲めるわけもなく、知り合いに頼んで紹介してもらったのである。ちょうど経理部長の椅子が空いていたのである。
役割はそもそも経理部長であった。日々の記帳を確認して決算までを取り仕切る仕事である。実は銀行員は決算書は見ることができるが、実務である経理は苦手である事が大半である。両者は似て非なるものである。ただ、私の場合、元々企業の再建で経理を細かくチェックすることもあったので、割とすんなり入っていけたところがある。今でも専門の勉強はしていないが、簿記三級くらいならすぐ受かると思う。ただ、私の期待されていた役割は銀行との折衝で、主として資金調達であったから、そこは最初から意識していた。
期初に計画を立て、期末に向けてどういう決算になっていくのか計画を立てる。賞与資金を含めた運転資金の調達計画を立てて、銀行と交渉する。そのためには「借りやすい」決算にする必要があり、それに向けて資金を何に振り向けるかを決めていく。経理は日々の事実を記録していく仕事であるが(私は細かい作業が苦手なところもあって)、私は主にそれをチェックしている程度である。時に記帳科目の指示を出したりすることもあるが、計画通りに進んでいるかを見ているのである。
しかし、そこには限界もあって、それは結局のところ売上が計画通り進まなければどうにもならないというところである。いくら財務上の戦略をしっかり立てていても、売上が上がらなければすべて画餅に帰するのである。もちろん、売上とは関係のないところで、資金調達などで財務面の運用はできる。それはそれで重要な役割と言える。この財務の仕事は心底面白いと思う。もともとやりたいと思っていたわけではなく、何となく銀行に入れば将来何かあっても、どこかの経理部長で食っていると思ったが、もっと面白い世界があったのである。
中小企業では、経理と言えばおばちゃんがやっていて、社長がなんとなく財務的なところをやっているというところが(特に規模が小さくなるほど)多いと思う。しかし、ある程度の規模になれば、経理をきちんとやった上で、それをどう生かすかということが必要になってくる。今の仕事はずっと続けていきたいが、万が一追い出されたらそういう中小企業で役立てるのではないかと漠然と思う(個人的にはかなり役に立てると思う)。そういう事態は決して望んではいないが、別の会社の財務も見てみたいという気持ちはある。掛け持ちでもいいならやってみたいと思う。
天職と言えば大袈裟なような気がするが、面白い仕事であるのは間違いなく、70歳で引退するまで、続けていきたいと思うのである・・・


息子はこの春、大学3年生になった。もうあと2年で私の子育ても終わる。今は別居しているが、それは苦ではない。そもそも同居していても会話は少なくなっていたし、小さい頃、「パパ、パパ」と言って寄ってきたのを思うと寂しい気がするが、それが成長というものであり仕方がない。家を出る時に子供と別居するのが後ろ髪を引かれた部分であるが、いずれ子供達も独立して家を出ていく。地方の大学に行っていたらもっと早かったわけであり、そう腹を括って家を出たという経緯がある。
それでも父親である限り、息子の人生には関与したいと考えている。今はそろそろ就職の事も視野に入ってきていると思うし、近々会って話をしようと考えている。以前、2人で酒を飲みに行ったが、それ以来の2人だけでの会話になる予定である。そこでどんな話をしようかとあれこれと考えている。息子の考えに口を挟むつもりはあまりないが、私と息子ではまず人生経験が違う。悔いのない学生生活を送ってもらうためにも、1人の経験談を話して聞かせるのもまた息子のためになると思う。
大学3年ともなれば、そろそろ就活ということが頭にあるだろう。どの業界がいいかと問われると、銀行くらいしか経験のない私からすると、「銀行はやめておいたら」というのが正直な気持ち。そう言えばその昔、「子供を銀行員にさせたくない」という話を聞いたことがある。それはある業績不振の取引先の担保処分に同行した時のこと。よほど面白くなかったのであろう、銀行員がいかに非人道的かという話を私にしてきた。曰く、知り合いの銀行員が「子供には継がせたくないと言っていた」と。同意を求められた私はキッパリと反論した。「そんなに嫌な仕事ならとっくに辞めてますよ」と。「子供がなりたいというなら私は応援します」と。
その時は、業績不振から担保に差し入れた不動産を売却して借入金を返済させられる恨みを若手の私にぶつけてきたのであるが、銀行は決して嫌な仕事ではないと強く反論した。ではなぜ息子には「辞めておいたら」と言うのかと問われれば、もう銀行という仕事を知り尽くし、自分にとっては魅力が薄れているからである。もし、時間を戻して就活時に戻れるなら、別の仕事をやってみたいと思うからに他ならない。今、お付き合いのある銀行の担当者を見ていても、あまり変わっていない。自分で面白そうだと思えない職業は勧めたくないと思うからである。
それよりもやはり大事なのは「学生生活」。これはもう残り少ない。就活も「将来のことを考える」という意味では必要だが、8:2で学生生活を優先すべきだと思う。そこははっきり息子にも伝えたい。大学の勉強は、「卒業に必要な単位を取る」という意味と、「今しか学べないことを学ぶ」という意味がある。私もそういう意味で、当時は(今も?)遊び優先の学生が大半を占める中で、他の学部の講義とかも幅広くまじめに聴いたものである。面白そうな講座があれば単位とは関係なくても学ぶくらいであってもいいと思う。
アルバイトも貴重な経験になる。大いにやるといいと思う。苦学生は別だが、学生時代のアルバイトはある意味気軽にできる。いつもよく行く近所のスーパーに中年男性がレジに立っている。おそらくパートかアルバイトなのだろうが、いつもどんな事情があるのだろうかと考えてしまう。女性なら、家計の足しにするためのパートなのかなと思えるが、男性のパートは秘められた事情を想像してしまう(そんなことを考えるのは私だけだろうか)。もしかしたら、起業で成功して大金を手にしてアーリーリタイアし、暇つぶしで働いているのかもしれないが・・・
親父の言葉を息子はどう捉えるだろうか。上から目線で押し付けがましく言えば嫌われる。それはこれまで多くのドラマや小説や実例で学んできたこと。息子の考えを尊重しつつ、「自分の判断の参考にしたら」というつもりで話したい。私も親父の話は仕事の役に立つということはあまりなかったが、いろいろと考えるヒントにはなった。きっと息子にも何かのヒントになるだろうと思う。そう信じて、息子と2回目の酒席を楽しみにしたいと思うのである・・・
再び先週末に観た映画『異動辞令は音楽隊!』より。主人公の母親は認知症である。主人公が夜、帰宅すると母親が外に出ている。そして「お父さんがまだ帰ってこない」と言う。主人公は半ばキレかけて「親父は死んだって言っただろう」と母親を叱る。家の中に入れば、「お父さんはもう死にました」という張り紙があり、他にも張り紙が見える。認知症とは文字通り認知能力が衰えるもので、主に記憶部分が劣化するのだと思う。我が家の老親もその傾向にある。大げさな話ではなく、記憶は3分ももたない。「今日は何日だっけ?」という質問を発し、答えて理解した直後にまた「今日は何日だっけ?」という質問を受けるのは日常である。
あまりにも同じことを繰り返されるといい加減にしろよという気持ちが強くなる。主人公が怒るのもよく理解できる。また、そんな調子だから言って伝えることは無益である。したがって「紙に書く」事になる。気が付けば我が家もさまざまな「メモ」が家の中に氾濫している。しかし、それでも慣れてしまうのか、メモを無視されることもしょっちゅうである。始めはイライラして怒っていたが、それも無駄なことであり、また自分自身に対する嫌悪感も強まることから怒らないように心掛けている。
基本は鏡のように穏やかで静かな心「鏡心」である。今年の目標でもある。相手が母親だと思うから腹が立つ。3歳の子供だと思えば腹も立たない。そう考えるようにしている。それに母親の私をイラ立たせる行動の根本にあるのは、「子供のために」という世の母親に共通する行動原理である。私が用意し、食べ終えて洗った食器の片付けとか。干した洗濯物を取り入れたりとか。布団を敷くためにテレビの前にある座椅子を移動させるとか。座椅子など腰が悪いから動かすのもしんどいと思うが、それでも動かしてくれる。
食器の片づけは、「元の場所」に戻してくれるなら問題ない。ところが母親はそれを覚えておらず、適当にしまう。そのため、場所が変わってしまい、私が次に使おうとしてあちこち探す羽目になる。見つかればまだしも、見つからない時もある。しゃもじなど台所以外のどこにしまうのかと不思議で仕方がないが、今も見つかっていない。洗濯物も同様。背が低いので無理に引っ張って洗濯ばさみを壊したり、適当にしまってわからなくなったり。座椅子はまだ使うのでそのままにしておいてほしい。こんな具合に「好意」からの行動であっても「よけいなこと」になっている。
家事はすべて私がやろうと思うが、本人の生活力の維持のため、少しは何かをやってもらおうと思っている。「ご飯を炊く」というのがその一つ。言い残して行っても忘れるから、帰る前に電話をする。返事は良いが、帰るとご飯を炊いていない。まぁそこから炊いても少し夕食の時間が遅くなるだけでどうという事はない。根気よく繰り返したら言わなくても炊いておいてくれるようになった。
しかし、今度は「炊かない」という事ができない。ジャーに「ご飯は炊かない」と書いて張っておいても、「昨日のかと思った」と言ってはがして炊いてくれている。こうなると頭脳戦である。そして張り紙+お釜を隠すという作戦に出た。ところが隠したお釜を見つけられてご飯を炊いてくれた。そして今度は見つからないところに隠したが、それでようやくご飯を炊くことを阻止できた。相手を責めるのではなく、自分に原因があると考える。「自分が源泉」のいい行動例である。
『異動辞令は音楽隊!』の主人公もまだまだである。いちいち腹を立てても仕方がない。我が家の両親はまだ会話はできる。「お昼に何食べた?」と聞いても答えは「?」しか返ってこないが、昔の話を聞けば嬉々として答えてくれる。学校から帰るとまずは飼っていた馬の餌の干し草を切ることが仕事だったと語る父。「長男大事」という風潮で、家の仕事は次男である父にすべて回ってきたようである。それが不公平で嫌でたまらなかったらしいが、今では「俺は親父の(農作業の)右腕だった」と誇らしそうに語る。
母もおそらく言動がおかしくなってきたからであろう、最近町内会の役職を解任されたという。本人は不満げだが、町内会の人の考えもよくわかる。それでもまだ家の前の公園の花壇の手入れという区から任されている仕事はある。公園で雑草を取ったりという事を続けている姿は腰が悪いためしんどそうに思うが、それでもやりがいになっているところもあって何も言わずに見守っている。最近、「要介護1」の認定を取ったが、まだ施設に入らなくて済むだけありがたいと思う。
映画の主人公を見て、「怒ってもだめだよ」と思ったが、それは我が身を写した鏡のように思う。怒ったりイライラしても問題は解決しない。事実をどう受け止め、どう行動するか。老親との暮らしは自分を鍛えてくれる。そうして己を鍛えつつ、残り少ないであろう3人での生活を心穏やかに送りたいと思うのである・・・
毎週末の深夜に映画を観るのを楽しみにしているが、この週末は『異動辞令は音楽隊!』を鑑賞した。その中でとあるシーンが気になってしまった。そのシーンは以下の通り。
①主人公が偶然立ち寄った居酒屋は、同僚の女性の実家。一緒に飲む事になり、そのまま看板になる。②店主である母親はまだ主人公と飲んでいる娘に戸締りを任せて帰る。③主人公は頃合いを見て帰宅する。④帰宅した主人公は認知症の母親がいないのに気づき、近所を探し回る。⑤母親はパトカーで送られて帰宅する。⑥主人公は母親を寝かしつける。⑦そこへ居酒屋の娘が主人公の家に忘れ物を届けに来る⑧母親が起きてきて娘を主人公の別れた嫁と勘違いして「お腹が空いた」と訴える⑨娘は快く料理を買って出て、3人で食べる。
気になったのは時間である。①②では特に明示されていないが、店の看板の時間だからおそらく夜の10時頃だろう(居酒屋であることを考えるともう少し遅いかもしれない)。③では自宅は近くだとしても帰宅するのに30分くらいはかかるだろう(10:30)。④は近所を探し回る時間が短くても30分くらいだろうか(11:00)。⑤⑥では同僚の警官と話をしているし、母親を寝かしつけるのに30分くらいかかるとして11:30。⑦はこんなに遅い時間に訪ねるかという問題は置いておいて、簡単な調理だとしても⑧⑨では12時過ぎという事になる。そんな時間に普通に食卓を囲んで食事をするだろうか(主人公も同僚の女性も飲んだ後で普通に食事をしているのである)と考えてしまった。
映画やドラマを観ていて、おかしいと思うことはよくある。しかし、そんな重箱の隅を突くようなことをしていても面白いことはない。したがって、そういう時は「そういうもの」として観る事にしている。主人公が超人的な活躍をしていても、ありえない偶然に遭遇したとしても、「そういうもの」と思えば何という事はない。しかし、この映画ではどうも上記のシーンに引っ掛かりを覚えてしまい、ストーリーから意識が外れ、あれこれと時間の流れを検証し、上記の結論を得て「どうなんだろう」と考えてしまった。
マーケティングの世界では、「ターゲット」を細かく設定することがよくある。ターゲット顧客について、「二十代後半の女性、働く独身の一人暮らし」などという具合にである。そうして細かくターゲットを設定する事によって、実際の消費誘導行動を具体化しようというものである。どのくらいの効果があるのかはわからないが、ただ万人受けを狙うよりは遥かにいいというのは想像に難くない。結果的にターゲット以外の顧客に売れてもそれはそれ。そういう考え方があるせいか、映画やドラマでも細かい設定は大切なのではないかと思う。
ミュージカルを観に行っても、舞台の端でしっかりと演技をしている端役の人をよく観る。観客の目はあくまでも主人公(または舞台の中央にいる役者)に行っていて、端役などに目を止めている人はいないと思うが(そういう私は観ているわけであるが)、それでもしっかりと演技をする(喜んで手を叩いたり驚いたりする)事によって舞台全体の雰囲気に影響を及ぼしているのだと思う。人が見ていないところ、見えないところにもこだわりを持つ事は芸術などでもよくある事で、それは結果的に全体の雰囲気に現れるものなのだろうと思う。
現に面白い映画やドラマは、そんな細かいところに引っ掛かる事なく、物語の世界に感情移入させてくれる。『異動辞令は音楽隊!』は面白くないとは言わないが、途中で物語の世界から私の意識が外れてしまったのは事実である。途中でばら撒いた細かい伏線をラストで丁寧に拾ってまとめてみせてくれるストーリーなど(東野圭吾の作品などは割とこういうのが多い)は、読み終えて唸らされることがある。『壬生武士伝』だったか、集団での斬り合いの乱戦後、指がたくさん落ちていたというエピソードがあったが、実際は殺陣のような鮮やかな斬り合いなどではなかったと思う。
私が担当する財務の仕事でも、経費予測などは細かくやったりする。ざっくりアウトラインを捉えるのもいいが、私は細かくやるほうである。時間はかかるかもしれないが、結果としてざっくりとしたアウトラインも精度が高まったりする。なので個人的には大事な事のように思う。物語の世界は著者や脚本家が自由に世界を構築できる。それが現実に近ければ近いほど、リアリティが増して物語が面白くなるように思う。面白い映画作りのためにも、そういうこだわりを気にして欲しいと思うのである・・・
ノルマはいろいろな業種にあると思う。ノルマそれ自体が悪いものではないと思うが、それがだんだんと担当者レベルに落ちていった時にいろいろな弊害が出てくる。私も銀行員時代、クレジットカードや定期預金などの金融商品、貸出額や回収額といったさまざまなものにノルマを課された。今もそれは変わっていないように思う。つい先日、取引先の銀行の担当者に頼まれて投資信託をやらされたばかりである。その担当者にはそれ以前にクレジットカードを作らされてもいる。元銀行員として苦労がわかるだけについつい応諾してしまうのである。
あれは入行して2年目か3年目だった時の事、別の財閥系の銀行に入った後輩から電話がかかってきた。曰く、クレジットカードを作ってくれないかというもの。そしてわざわざ私が勤務する支店にまで訪ねてきた。そして差し出されたのは某クレジットカードのゴールドカード。ゴールドカードとなると、当時の年会費は10,000円。私が作ってもらっていたのは年会費無料タイプだったから、頼んだ人には手間以外の負担はかけさせていない。しかし、年会費10,000円は若手銀行員の薄給には厳しいものがあった。
断りたかったが、わざわざ困って訪ねてきた後輩を手ぶらで返すのも忍びない。ノルマがきついとこぼす後輩に覚悟を決め、さらに支店内を見回して優しかった預金課の課長さんにお願いして一口作ってもらった。その課長さんもとんだとばっちりだったが、「私の顔が立つなら」と引き受けてくれた。かくして予想外の2口の申込書を手に後輩は喜んで帰って行った。そのカードは1年で解約したのはいうまでもない。ノルマは「作成」であって「維持」ではな買ったからである(当然、預金課の課長さんにも解約をお願いした)。
そうして作ったカードが銀行の経営にどれだけ貢献しているのかと問われれば、はっきり言ってほとんど貢献はしていないだろう。作るだけで動きのないカードなど管理費の負担だけであり、経営的にはマイナスである(ゴールドカードは別だが)。そんなバカみたいなノルマなどやめればいいと思うが、中には動いて収益をもたらすものもあるのかもしれないし、やめないところを見るとトータルでは採算が取れているという事なのだろう。それでもこの程度の負担であれば、何とかなるが、モノによっては厳しいものがある。
保険なんかはおいそれとは頼まれたくないものの例である。その昔、銀行員時代の知人が某外資系の保険会社に転職した。それを聞いて真っ先に「来るな」と思った。そして案の定、彼は来た。曰く、保険に加入してくれと。保険会社の場合、まず転職に当たって知り合いの多さを聞いてくる。最初は知り合いから顧客を増やしていくためである。私もそれを聞いて保険業界に転職するのはやめたが、個人的に知り合いから勧めていくのは好きではない。「良いものだったら勧めるでしょう?」と諭されたが、「それはそうだがそれでもね」と断った。まぁ、確かに悪くはなかったので貯蓄だと思って加入した(今も入っている)。
ただ、それでも車なんて高額なものになると、さすがに頼まれても簡単に「いいよ」とは言えない(自動車会社に就職した後輩はいたが、幸いなことに頼まれはしなかった)。自動車会社の営業マンには自爆営業しないといけないような厳しいノルマはあるのだろうか。あっても数は稼げないだろう。せいぜい身内ぐらいしか頼めないだろうと思う。それでもさすがに自家用車は他のメーカーのものにはできないだろうなと思う。自社に誇りを持っている人なら問題はないだろう。それかあえて外国車にすれば角が立たないのだろうかと考えてみる。
いろいろと妄想は広がる。でもよく考えてみれば、ノルマが嫌なのは、「自爆営業」にあると思う。それがなければ精神的にも楽である。成績が上がらなくてもそれはまた別の問題である。そう考えたら、社員にノルマを貸すのは構わないが、「自爆営業禁止(あるいは許可制)」にすれば良いように思う。人は結局、尻を突かれないと動かないところはある。やり過ぎれば問題になる。プルデンシャル生命保険の不正事件はノルマというより過度の歩合制にあったようだが、ノルマみたいなものである。そこはうまくやらないと首脳陣も首を絞めることになる。
プルデンシャルのような角の歩合制は別として、単なるノルマなら「自爆営業禁止」とするだけで、かなり社員の精神的な負担は軽減できるのではないだろうか。我が社にノルマはないが、そのあたりよく気をつけて「目標設定」をしなければと思うのである・・・