
日頃あれこれ思う事どもを思うがまま自由に綴る

「昔は良かった」という言葉をよく聞く。世の中は常に変化する。その変化は必ずしも好ましいものばかりとは限らない。人によってはその変化によって不利益を被る場合もあるだろう。かつては予約なしでいつでも入れたレストランが、今では人気店になってしまい、何か月も前から予約しないと入れなくなったとか。自然豊かな故郷が開発によって変わってしまったとか。私自身はと言うと、なぜかあまりそんなに良かったと思う昔がない。もちろん、小学校の頃や、中学・高校の頃などはいい思い出もあるが、だから昔の方が良いとまでは思わないだけである。
過去の記憶は過去の記憶として、時代としてはどうなのかと考えてみる。基本的に自分の生きてきたこの60年あまりの時間はいい時代だったのだと思う。祖父の時代は戦争の時代、父の時代は高度成長の時代であり、それぞれに時代の苦労があった。祖父は戦争に行き、幸いなことに病気で送り返されてきたことによって「名誉の戦死」を遂げることもなかった。父は労働基準法もあったのかなかったのかわからない中、東京に出てきて1日18時間くらい働いたというが、私はのうのうと大学まで出させてもらった。世が世なら私も同じ経験をしていただろう。
何の苦労もなく(受験勉強という苦労はあったが)、大学まで行けたというのは時代の恩恵以外の何物でもない。学徒動員されることもなく、せいぜいが1日12時間くらいの労働で生きてこられたわけである(残業はつけられなかったが・・・)。「いい時代に生まれた」という以外に何と言うことができるだろう。逆に高校から始めたラグビーで言えば、当時は土のグラウンドが当たり前。常に手足にすり傷を作っていたが、今は母校は高校も大学も人工芝グラウンドである。今の時代に生まれたかったと思うほどである。
人の記憶は大半が忘れ去られていく中で、いい思い出だけが濾過されて残っていく傾向がある。もちろん、嫌な思い出もあるが(要は良いも悪いも印象深い記憶が残るのだろう)、総じていい思い出の方が多く残るのだろうと思う。人によってはそれが「昔は良かった」という事につながっていると思う。されどやっぱり時代としては今の方が圧倒的にいい時代だと思う。たとえ神様が突然現れて、良かった昔に戻してやろうと言われても、スマホもパソコンもない時代に今さら戻されてもと考えてしまう。
もちろん、個人的にあの頃に戻れたらという思いはある。だから神様のそういうありがたい申し出があったら、喜んで受けるだろう。戻れるのなら高校生の時でいい。ただ、それは「良かったあの頃に戻りたい」というものではなく、人生経験を積んだ今ならもっと楽しい高校生生活を送れるだろうから、もう一度楽しみたいというもので、「あの頃は良かった」という回顧主義的な気持ちではない。ただ、土のグラウンドには躊躇するかもしれない。あの頃は芝生のグラウンドでラグビーをするのは雲の上の存在だけだと思っていたので、改めて今の感覚で土のグラウンドを前にしたら躊躇するかもしれない。
考えてみればみんなそうであると思う。大学生の頃に戻れたら、今度は法学部ではなく迷わず文学部を選ぶだろう。「食っていけない」という言葉を真に受けて、食っていけそうな法律を選んだが、法律は自分には向いていないとわかった現在の、文学部へ行って哲学を専攻したって何とかなるとわかった現在の感覚が備わっていたら、進路に悩むこともなかっただろう。自分は恵まれたいい学生時代を送ったが、たぶん今の自分が当時に戻れたなら、もっといい学生時代を送れると思う。
就職にしても、銀行以外の業態を選ぶだろう。恋愛も諦めずに意中の人にアタックし続けて結婚まで行けただろう。そうしたら今の子供たちには会えなくなる。それが心の痛さになるが、それでも人生でもっとも深く愛した女性と結婚するという魅力には抗えない。そんな風に考えていくと、「昔は良かった」などという言葉は自分の中からどう捻っても絞っても出てこない。自分の過去は否定したくないので、それはそれで「悪かった」とは思わないが、「もっと良くできた」という思いはある。
小学校の4年から中学を卒業するまで、毎年春と夏の休みに2週間ほど長野県の御代田というところに住む従兄の家に遊びに行っていた。夏は地元の小中学校のプールに通い、花火大会や盆踊りがあり、一緒に野球をし、あちこち野山を駆け回った。あの頃、それが最大の楽しみであり、今でもいい思い出である。されど、それは子供の頃のいい思い出であって、大人になった今、同じことをしたいとは思わない。それは「昔は良かった」と懐かしむものではない。自分の子供にも同じ経験をさせたかったが、残念ながら環境が違う。
「昔は良かった」という過去を肯定する言葉の裏には、「それに比べて今は・・・」という否定が隠れている。昔は昔で良かったと思うが、それは自分の歴史の肯定であり、今の否定ではない。今は今で幸せな時代を生きている。パソコンで思いを綴れるし、スマホで簡単にいろいろな人と繋がれる。芝のグラウンドでラグビーができるし、過去の自分が今を見たら明るい未来を期待するだろう。この先、人生も残り少なくなってきたが、まだまだ未来には期待したいと思う。
時代は今よりも良くなっていると思うが、その中でしっかり生きれるかどうかが、時代を肯定できるかどうかの違いになってくるように思う。目標の70歳までは今の収入を何とか維持していきたい。「昔は良かった」という言葉を呟かなくてすむようにしたいと思うのである・・・


あるところで「印籠」という話が出て、かつての人気時代劇シリーズである「水戸黄門」を思い出した。子供の頃、私も何となく観ていたものである。水戸黄門は実在の人物であるが、全国を漫遊したというのはフィクションらしい。もっとも、身分制度の確立した当時、水戸光圀公のような地位のある人物がお忍びで全国を回るなどできなかっただろうという事は何となく想像できる。ただ、物語は物語で、史実とは関係ない。観て面白ければいいわけで、「実際には違うから」というのは観るのを拒む理由にはならない。実際に私が観ていたのは、初代の東野英治郎版であり、小学生から中学生くらいにかけてだったのだろうと思う。
「水戸黄門」の何が面白かったのだろうかと考えてみると、それは完全な勧善懲悪モノだったことが大きいと思う。世の中は理不尽に満ちている。人はやり切れぬ思いを消化するのに、「いつかバチが当たる」と考えて自らのやり切れぬ思いを満たそうとする。天国や地獄もそこから生まれてきたのだろうと個人的には思う。現実的にはバチなんか当たらないし(当たることも「たまたま」あるかもしれないが)、憎まれっ子は世に憚るものである。そんな世の中にあって、「水戸黄門」の世界では、最後に天下の副将軍が身分を明かし、悪を成敗する。スカッとするからいいのだろう。
そもそもそんな水戸黄門を思い出したのは、「印籠」の話が出たからである。印籠とは印鑑ケースだとずっと思っていたが、それは室町時代くらいまでの話で、江戸時代には常備薬などを持ち歩くためのケースになっていたらしい。江戸時代には身分証明書としてどんなものがあったのかはわからないが、徳川家の家紋が入った印籠が身分証明書の代わりとして機能していたのだろう。当時は偽造なんてことを考えなかったのだろうかと思うも、「この紋所が目に入らぬか!」とやるだけで一斉にみんながひれ伏すなら、そういうことを考えた人間もいたのではないかと妄想してしまう。
出張でたまに鹿児島に行くが、鹿児島弁はわかりにくいらしい(まだガチンコの鹿児島弁を直接聞いたことがない)。今はテレビの影響だろうが、標準語で十分話ができるが、昔はよそから人が来ると方言が違うから一発でわかったらしい。幕府の隠密なども入り込むのが難しく、方言が侵入障壁になっていたと聞く。さすれば天下の副将軍がのこのこ出かけて行ってもコミュニケーションが難しかっただろうとこれも妄想してしまう。子供心に印籠を見せても多勢に無勢であれば、悪が「それがどうした」と開き直ったらやばいのではないかと思ったものである。
似たような時代劇としては「遠山の金さん」や「大岡越前」がある。遠山の金さんも最後に「この桜吹雪が目に入らぬか!」とやって悪人の鼻を明かす。大岡越前は「大岡裁き」で有名である。どちらも正義が勝つことが根底にあり、どちらも安心して見ていられる。勧善懲悪がすなおに実現される世界であり、見る者は安心して見ていられる。これがそうでなかったら、たぶん見る人は大幅に減るのだろう。現実で見る理不尽な世界をドラマの中でも見たくはないだろう。正義は正義であり、心正しい者は最後に必ず報われる。だからそう信じて明日も理不尽な世界を生きられる。
「仕事人」シリーズも勧善懲悪モノの時代劇である。こちらは悪を懲らしめるというより、殺してしまうのでちょっと過激である。しかし、殺される人間は悪人であり、悪人であるがゆえに殺されて当然という前提である。考えてみればそれは危険な発想で、冤罪も起こるかもしれないし、何より目安箱に密告という形で対象者が訴えられ、仕事人の価値観で裁かれるのである。弁護士もいないし、殺される方からするとたまらないだろうと思う。ただ、「悪いことをしてはいけない」というメッセージにはなるだろう。
そういうことを考え始めるとキリがないが、映画やドラマを観ると(それがそれほど引き込まれるものでなければ)そういう妄想をよくしてしまう。そういう事を考えていくと、ドラマの面白さを損ねてしまうところはある。遠山の金さんの桜吹雪が最後にモノをいうのは、桜吹雪の刺青を覚えていないといけないが、みんなよく覚えているなと考え出すと、ドラマの面白さはなくなってしまう。大岡裁きも大半がフィクションらしいが、そういうフィクションが作られる土台はあったのだろう。さもありなんと思われる人物だったのだろうと思う。
元は印籠から発した妄想であるが、 いろいろ考えて行くと楽しいと思う。今また改めて「水戸黄門」を観てみたいとなんとなく思うのである・・・
現在、高校ラグビーの全国大会予選が各地で行われている。我が母校の高校も無事1回戦を突破し、本日2回戦に臨んだ。相手はかつて全国大会に出場した実績もある古豪。少子化で単独校としては出場できず、合同チームとして出場する高校が増えている中、わが母校は都立高ながら単独校で頑張っている。そんな母校の応援に本日はグラウンドに足を運んできた。以前は一部暇なOBが数人応援に来ればいい方であったが、最近の傾向として(OBの傾向は変わらないが)父母の応援がすごい。
父母の応援団は共通のTシャツを作り、選手名鑑も作り(それを我々OBにも配布してくれる)、試合が始めれば黄色い声援(?)が飛び交う。選手たちも歓声の中で試合をするのはいい気分だろうと思う。しかしながら、一緒に観ている我々とその黄色い歓声はどこかズレがあると感じる。トライを取ればみんな歓声を上げるのは同じだが、ママさん応援団はボールを持って走れば歓声を上げる。実にわかりやすい。ただ、試合の展開を観ていると、いいプレーだと感心するのはボールを持って走るところばかりではない。
そう言えば2019年に日本でラグビーのワールドカップが開札された時、「にわかファン」という言葉が流行った。ワールドカップ国内開催という契機に興味を持った人がどっと増えのだろう。それはそれで悪くはないが、「にわかファン」という言葉にはどこか卑下するニュアンスを感じたものである。個人的には少子化の中で我が国のラグビーが衰退するのを防ぐには、やはりみんなの関心が必要だと思うので、にわかでも何でもファンはウェルカムだと思っているから好感を抱いている。
しかし、やはり気になるのは「素人目線」。それはある意味仕方ないことではあるが、やはりプレー経験の有無が出るのが「目立たないプレー」に対する見方だと思う。テレビを観ていても、アナウンサーはトライに過剰に反応する。誰がトライを取ったか、それが今シーズン何本目かといったところである。しかし、ラグビーのトライはチームプレーである。野球のホームランとは違う。確かにトライはすごいかもしれないが、そこに至るプレーというものがある。タックルでボールを奪ったかもしれない。鋭いステップで相手を2人抜いてその結果、フリーになった味方のプレーヤーがトライしたのかもしれない。
そういう途中経過を無視してトライだけにスポットライトを当てるのはどこかズレている。ゴール前のフォワードの密集プレーでは、フォワードが固まって一団となってゴールに押し込んだ時、誰がトライをしたかなどまるで意味がない。そうした観るポイントのズレがプレー経験のないファンとのズレが生じる原因である。しかし、そんなズレがあろうと、それは些細なことでしかない。この日曜日の同じ時間、母校を応援するという点では同じである。観るポイントの違いは大したことではない。
我々は、母校の後輩の一つ一つのプレーに注目し、応援する。父母は我が子の勇姿を見て応援する。トライを取ればみんなで歓声を上げ、取られれば沈黙する。そんな後輩たちは、わずか1ゴール差(2点差)で涙を飲んだ。一部のお母さんたちも泣いていた。3年生にとってはこれが現役最後の試合となった。観る立場やポイントは違えども、応援する気持ちは同じである。泣き崩れる3年生を見ていて、自分たちの最後の試合を思い出した。応援は数人のOBだけだった。
卒業してもみんなにラグビーを続けて欲しいと思う。できれば母校の大学に進学してもらって、今度は大学の試合で応援できたらとも思う。それにしても、私の34歳上の先輩たちが始めたラグビー部が、今の1年生で81期になる。連綿と受け継がれたバトンをこれからも長く受け渡していって欲しいと思うのである・・・
【今週の読書】
最近、よく「息子に伝えたいこと」を考える。息子は現在、大学生。父親としていろいろと教えたいと思う。しかし、自分自身、改めて考えてみると「成功者」とは程遠い(何をもって「成功者」とするかにもよるが、いわゆる世間から見た「成功者」とする)。しかしながら自分を卑下するわけではないが、「失敗者」でもない。どちらかと言うと「勝つ」よりも「負けない」事の方が大事ではないかと思う。たとえば人生の後半に借金を返せなくなり、自己破産して、年金か生活保護でとりあえず最低限の生活を送るという状態になるよりも、そこそこの生活でも自立して生きられればいいという程度である。
自分も今、人生の第4コーナーを回るあたりで、まだまだゴール前でこける可能性もあるわけであるが、とりあえずここまでのところで人生の第1コーナーを回ろうとしている息子に何を伝えるべきだろうか。いろいろあるが、あまり細々としたことは伝えきれるものでもない。これというものを一つ選ぶとしたらなんだろうか。日頃そんなことをつらつらと考えたりしている。自分の経験(それもうまくいかなかった経験)を踏まえ、息子が自分なりの幸せな人生を送る上で役立ちそうなアドバイスはなんだろうか。
「これをやれば大丈夫」というようなものは、残念ながらない。我が身を振り返ってみると、何となく「窮地に陥った時に何をすべきか」ではないかと思う。これまでも何回か、窮地に陥ったことがある。仕事の上でも私生活の上でもである。そこで潰れなかったから、今とりあえず普通の生活が送れているように思う。不安で居ても立ってもいられず、夜ようやく眠りについても夢の中で怖くなって目が覚める。不安に神経を削られて精神の休まる時がない。そういう経験をするともう二度と同じ経験をしたくはないと思う。
ではどうすればそういう経験をせずに済ますことができるだろうか。残念ながらそれは難しいと思う。株で失敗してかなりの借金を抱えてしまったり、業績の芳しくない企業で借入の連帯保証をしたり、にもかかわらず社長に裏切られて失業の恐怖を味わったりしたが、それらは予測不可能であり、避けようと思っても避けられるものではない。避けられないものであれば、受け止めてそこから脱出するまでの間、耐えるしかない。まずはそういう危機に陥ることになるという事を伝えたいと思う。
危機に陥った時にどうして不安で眠れなくなるのかと言えば、それは最悪の事態に対する恐怖である。「不安とは起こるかもしれない事」という言葉があり、それは「まだ起こっていない事」であるから大丈夫だという慰めもある。しかし、「起こるかもしれない」という恐怖はそれで緩和できるわけではない。その不安を緩和するとしたら、起こった場合にどうするかをひたすら想定するしかない。その最悪の事態に陥った場合、どうするべきかを考えて覚悟ができれば腹をくくれるが、できない場合もある。その場合は神に祈るのも手だと思う。
私は基本的に宮本武蔵の「神仏を尊びて神仏を頼らず」という考え方であるが、過去に危機に陥った時にはさすがに神頼みをした。早朝、眠れなくて目が覚めてしまい、居ても立ってもいられず近所の神社に参拝した。その頃は毎朝のように参拝していたが、それはむしろ心を落ち着かせるためであったが、不安が最高潮に達した時は神頼みをした。我ながら情けないと思ったし、神頼みをしても解決しないことは十分に理解していた。しかし、一時の不安を和らげる効果があった事は事実である。
あとその時ひたすら考えていたのは、この不安を誰かに肩代わりさせるとしたらどうする、ということ。たとえば尻尾の先が尖った悪魔が突然目の前に現れて、「お前の苦悩を息子に肩代わらせて楽にしてやろう」と言われたら、その申し出に飛びつくかという事である。答えはもちろん「NO」である。ならば自分で背負わないといけない。これは家族に代わって自分が引き受ける苦悩だと思うと少し楽になった。状況は何一つ変わっていなかったが、少し楽になったのは、要は「考え方」という事なのだろう。
やがて社会に出て、いずれどうにもし難い困難に陥ることがあるだろう。そういう困難に陥らないに限るが、そうならないと根拠のない楽観にすがるよりも、あらかじめ迎え入れる心の準備をしておくべきだろう。人生には苦難がつきものであるとし、その時溺れないように心の準備をしておく。「神に祈れ、だが岸に向かって漕ぐ手を休めるな」というロシアの格言の精神が大事だろう。泳ぎ切らなくても、流れが岸に向かっているなら溺れない程度に浮かんでいるだけでもいいと思う。
消極的かもしれないが、「負けない」ことも大事だと思うゆえ、いずれそんな話を伝えたいと思うのである・・・

渋谷は自宅から一番近い「街」である。地方から見ると、東京(特に23区山手線環内)全体が巨大な「街」と言えるかもしれないが、東京に住んでいると、どうしても「渋谷」「新宿」「池袋」「銀座」といったところが「街」というイメージになる。そんな中でも、渋谷は我が家から一番近い「街」なのである。小学生の時から「街」へ出かけるのはちょっとしたイベントで(小学生からすれば電車で30分ほどのところへ行くのは「お出かけ」気分である)、映画や身近で買えない買い物に行くところであった。人生で最初に映画館で洋画(『ジョーズ』)を観たのも渋谷である。
そんな渋谷は、今は通勤途上の乗り換え駅で、普段降りることもない。高校を卒業してから学生生活の活動拠点は、新宿、吉祥寺、国分寺、国立、立川といった街に移り、渋谷は通過駅になってしまった。しかし、妻と別居して実家に戻った現在、再び渋谷が身近な街になりつつある。連休最中の昨日、久し振りに買い物と映画鑑賞とで渋谷に出かけてきた。夜の渋谷に出かけるという事をしたのはいつ以来だろうかという思いが頭をよぎる。改めて歩いてみると、見慣れていたはずの街が少しずつ変わっているのに気づく。
夜の8時過ぎ。スクランブル交差点では大勢の人が信号を待ち、みんなスマホを上に向けて写真を撮っている。外国人もかなり多い。スクランブル交差点など見慣れた光景だが、外国や地方から来た人には物珍しいのだろう。私も地方に行くとやたらあちこち歩いて写真に収めたくなる。道玄坂もセンター街もよく見れば見慣れない建物が建っている。もしかしたら建物は変わっていないのかもしれないが、テナントが変わっているので景色も違って見えるのである。目指す渋東シネタワーもいつできたのだろうと思う。昔、よく行った「渋谷パンテオン」が取り壊されて久しいが、映画を観る中心も変わっている。個人的に映画好きであるが、近年は映画館から足が遠のいている。今でも映画館での鑑賞がベストだと思うが、周りを他人に囲まれての中で観るのが苦痛になってしまっている。昨日も両サイドの人を気にし、前の男の頭が気になり、しばし映画の中から現実に引き戻されてしまった。以前は、映画館のある西武線沿線の「町」に住んでいたので、人の少ないレイトショーによく行っていた。何せ映画を観終えてから車で5分で帰宅できるので、夜中の2時に終わっても15分後には布団の中にいられたのである。レイトショーだと貸切状態に近く、他人を気にせず映画の世界に浸れたのである。
しかし、渋谷ではそんな鑑賞はできない。昨日も11:40に終わる回だったが、かなりの入りで、やはり他人が気になってしまった。公開日から時間を置いた方がいいのだろうかと思ってみる。別居して一番不便なのは、これかもしれないと思う。妻と別れることに何の未練もないが、あの家を離れる未練は大き過ぎるくらい大きい。鑑賞方法もチケットが発券されない方式に変わっている。昔は前売り券を買って半券は記念に取っておいたものだが、今や何の記録も残らないデジタルの世界になってしまっている。そう言えば映画のパンフレットも見かけなかった。昔は必ず買っていたものだが、今はネットでいろいろとわかるから売れないのだろうかと思ってみる。
映画鑑賞の形もだいぶ変わった。いいか悪いかと問われれば、圧倒的にいい。昔はデートで映画を観に行くと、2席確保できるかどうか(それもみっともない真似をせずに)が死活問題であったが、今はそういう苦労はかけらもない。そういう点ではいいのだろうと思う。売っていたポップコーンも1人で食べるにはサイズが大き過ぎるようだが、専用のフォルダーも付いて扱いやすそうである。映画館側のスタンスも「観せてやる」から「観ていただく」に変わっているようで、観る形は実に快適である(人がいなければ、だが)。
今後も折に触れて映画館にはもう少し行きたいと思う。されどなるべく人が少ない環境を狙っていくようにしたい。深夜に近く、公開日から時間を経て、可能であれば平日とか。映画はなるべくいい環境で観たいと思う。それも自分にとっていい環境である。いろいろ工夫を重ねて、これからまた昔のように渋谷で映画を観る生活を送りたいと思うのである・・・
その昔、私も大学のラグビー部のコーチをしていたことがある。我が大学は国立大学の限界もあり、外部からコーチを招聘できるほどの財力はない。OBの中から有志が選抜されてこの任に当たるのである。今振り返ってみても私には元々コーチの資質はないようで、十分にできたとは言い難い。まぁ、それでもヘッドコーチではなかったし、監督もいたのでそれなりに役割は果たせていたと思う。そんな中でも、一つ印象に残っている事がある。それはとある選手が、「監督に褒められたい」と語った事である。
当時の監督は、厳しい方で、滅多に人を褒めることのない人であった。私はと言えば、良いところがあれば素直に褒めるタイプで、それは我が子の子育てでもそうであったし、会社でも社員に対するスタンスは今もってそうである。滅多に褒めることのない人から褒められるというのは、やはり嬉しいものだろう。そう言えば、映画『プラダを着た悪魔』でのラストシーン。主人公のアンディの転職での面接で、面接官がアンディの元上司ミランダからの推薦の言葉をアンディに伝える。業界でも有名なミランダは部下に厳しくアンディも褒められることはなかったのに思いもかけない最高の褒め言葉を最後にもらう。なかなか良いシーンであった。
褒めるのが良いのか、褒めないのが良いのかは難しい。私の昔の上司はやはり滅多に褒めない人であったが、挨拶しても返事もしない人で、さらに一度大きな判断ミスがあった。自分でもよくできたと思うことはあったが、その人は常にむっつりしていた。正直言ってその人に褒められたいとは露も思わなかった。たとえ褒められたとしても嬉しいと思ったかどうかと思うと微妙である。考えてみれば、褒められたいかどうかはその人に対するリスペクトがあるかないかにもかかっていると思う。
自分に褒められたくて頑張っていると言われれば嬉しいだろう。自分はすぐに褒めるタイプなので、おそらくそう思われた事はないだろうと思う。しかし、では褒めなければいいのかと言うとそうではない。根底にリスペクトがないとダメだろう。ではリスペクトはどうしたら生まれるのかと考えてみると、前述の監督と元上司とを比べてみるとわかるような気がする。監督はラグビーに精通し、日頃の言動から選手はその言葉を信頼し、指導を受け入れている。元上司は挨拶も返さず、部下に対するダメ出しばかりである。そして自分も判断ミスをする。
「やれ」と言うのは簡単だが、できない場合にどうすれば良いのか。そこに対する指導なり見本を見せるなりがないといけない。口ばかりで「自分はできるのか」と思われたらリスペクトは難しい。もちろん、監督は年齢もあるから自ら手本を示すことはなかったが、その指導内容が十分であったから選手のリスペクトは得られていたと思う。元上司もせめて挨拶ぐらい普通の社会人の常識としてできていたらもう少し違ったかもしれないと思う。部下として尻拭いさせられた時も、何のねぎらいの言葉もなかったのには軽蔑の念しか浮かばなかった。
自分はこの先も性格的に「あの人に褒められたい」と思われることはないのだろうと思う。されどそれも仕方ない。自分の判断でいいなと思ったらすぐに褒める事はこれからも継続していこうと思う。そこは無理をせず、自分らしくありたいと思うのである・・・
仕事として採用に携わっている。中小企業としては頑張って毎年新卒採用を継続していると思うが、いかんせん東京での知名度の低さは致命的であり、採用は地方からの割合が多い。地方の大学や専門学校をまわって会社説明会、面接と行っているが、近年そういう地方の学生の「地元志向」が高くなっている。「東京よりも地元で就職したい」ということである。採用側としては残念に思うが、広い目で見れば人口が減少する中で、都市集中・地方衰退という問題に対しては良い傾向と言える。
以前は、「地元に残りたくても仕事がない」という事が言われ、必然的に都会に出てくるというのが多いパターンであったと思う。今もその傾向はあると思うが、だいぶ緩和されてきているということだろうと思う。もともと「仕事があればわざわざ都会へ行くこともない」という意識が潜在的にはあったのかもしれない。そういう意味では、人の意識が変わったというよりも、就職環境が変わったということなのかもしれない。今や地方に行ってもユニクロや吉野家などはどこにでもあり、地名が出ていなければどこの街かわからない所も多い。
そうした「地元志向」は果たしていい事なのだろうか。「男なら東京へ出て一旗揚げようと思わないのかね」と我が社の年配社員は言う。私もその感覚はよく理解できる。ただ、地元志向がチャレンジ精神の衰えという意味かと問われるとそうとも言えないように思う。地方の方が慣れ親しんだいい環境はあるし、友人たちも多いだろう。それに親の近くにいたいという感覚は、親離れしていないというよりも、将来自分が面倒をみないといけないという感覚の方が近いようでもある。
実際、数年前、我が社でも故郷に帰ると離職した社員がいた。3人兄弟であったが、兄が東京へ出て、自分も東京へ出たが、弟も東京へ出ることになり、子供がみんな東京に出てしまうのはどうかと思い、自分が帰ることにしたということであった。我が社としては人材流出になるわけで誠に残念であったが、理由が理由だけに引き止めも難しく見送ることになった。親の立場からすればどう思うのだろうかと思ってみる。気持ち的には「親の事は考えずに自分の人生を好きなように生きろ」と言いたいが、地元に残るのなら頼もしいと思うのではないかと思う。
私はもともと東京生まれなので、就職に際してはそういう迷いはなかった。実際、就職して家を出ても、実家に帰るのはわずかであったが、時間をかけて帰省するという労力がゼロだったのは楽だったと思う。年老いて両親2人ではとても生活が困難となった今、別居もあって私が実家に出戻れたのも、東京に実家があったからである。もしも地方だったらどうなっていただろうと考えると恐ろしい。若い頃には意識すらしなかったが、今になって実感しているメリットである。
「東京へ出てもいずれ戻ってくればいい」という考え方もある。「いずれ」が「老後」を意味するならそれもありうる。ただ、定年も延長傾向にあり親の健康度合いもひとそれぞれであり、想定通りにいくかどうかわからない。それに結婚すればパートナーの意向にも左右される。子供が生まれれば子供の地元は東京になり、慣れない父親の故郷に行きたがらないかもしれない。「いずれ戻ればいい」という考えは、思う通りにいかないリスクが大きい(単身戻るということなら可能だろうが・・・)。
子供も成人すれば後は自分の人生である。もちろん、親は大切な家族であり、そこに対する思いも大切である。故郷を離れて生きていくか、あるいは生まれ育った地元で一生を過ごすか。そこには明確な正解はない。自分は東京で生まれ育ち、今も暮らしている。それゆえに親の面倒を見ながら仕事も続けていられるし、その点ではラッキーだったと言えるだろう。もしも、地元を離れて生活基盤を築いていたらどうなっていただろうか。あまりそこは考えたくないところである。
地元志向の学生に対し、「夢がない」とか「チャレンジ精神がない」などとは思わない。地元に残るにしろ、都会へ出るにしろ、その人の人生でありどちらが良いとか悪いとかではなく、「選択」の問題に過ぎないと思う。ただ、その「選択」をして東京へ出てきて、我が社に就職してくれた社員には感謝したいと思う。そして将来、何かしら実家との関係で困ったことがあれば親身になって相談に乗ってあげたいと思う。たとえ「地元を離れた」事を後悔したとしても、我が社に入社したことだけは正解だったと思ってもらえればと思う。
考えてみれば私の子供たちももしかしたら地方で暮らすことを選ぶかもしれない。今の時代、それは海外かもしれない。そういう「選択」を子供たちがした時には、気兼ねさせることがないようにしたいと思う。歳をとって自分がどうなるか、自分の意思だけでは何ともできないが、そういう意思は持ち続けていきたいと思うのである・・・