あるところで「印籠」という話が出て、かつての人気時代劇シリーズである「水戸黄門」を思い出した。子供の頃、私も何となく観ていたものである。水戸黄門は実在の人物であるが、全国を漫遊したというのはフィクションらしい。もっとも、身分制度の確立した当時、水戸光圀公のような地位のある人物がお忍びで全国を回るなどできなかっただろうという事は何となく想像できる。ただ、物語は物語で、史実とは関係ない。観て面白ければいいわけで、「実際には違うから」というのは観るのを拒む理由にはならない。実際に私が観ていたのは、初代の東野英治郎版であり、小学生から中学生くらいにかけてだったのだろうと思う。
「水戸黄門」の何が面白かったのだろうかと考えてみると、それは完全な勧善懲悪モノだったことが大きいと思う。世の中は理不尽に満ちている。人はやり切れぬ思いを消化するのに、「いつかバチが当たる」と考えて自らのやり切れぬ思いを満たそうとする。天国や地獄もそこから生まれてきたのだろうと個人的には思う。現実的にはバチなんか当たらないし(当たることも「たまたま」あるかもしれないが)、憎まれっ子は世に憚るものである。そんな世の中にあって、「水戸黄門」の世界では、最後に天下の副将軍が身分を明かし、悪を成敗する。スカッとするからいいのだろう。
そもそもそんな水戸黄門を思い出したのは、「印籠」の話が出たからである。印籠とは印鑑ケースだとずっと思っていたが、それは室町時代くらいまでの話で、江戸時代には常備薬などを持ち歩くためのケースになっていたらしい。江戸時代には身分証明書としてどんなものがあったのかはわからないが、徳川家の家紋が入った印籠が身分証明書の代わりとして機能していたのだろう。当時は偽造なんてことを考えなかったのだろうかと思うも、「この紋所が目に入らぬか!」とやるだけで一斉にみんながひれ伏すなら、そういうことを考えた人間もいたのではないかと妄想してしまう。
出張でたまに鹿児島に行くが、鹿児島弁はわかりにくいらしい(まだガチンコの鹿児島弁を直接聞いたことがない)。今はテレビの影響だろうが、標準語で十分話ができるが、昔はよそから人が来ると方言が違うから一発でわかったらしい。幕府の隠密なども入り込むのが難しく、方言が侵入障壁になっていたと聞く。さすれば天下の副将軍がのこのこ出かけて行ってもコミュニケーションが難しかっただろうとこれも妄想してしまう。子供心に印籠を見せても多勢に無勢であれば、悪が「それがどうした」と開き直ったらやばいのではないかと思ったものである。
似たような時代劇としては「遠山の金さん」や「大岡越前」がある。遠山の金さんも最後に「この桜吹雪が目に入らぬか!」とやって悪人の鼻を明かす。大岡越前は「大岡裁き」で有名である。どちらも正義が勝つことが根底にあり、どちらも安心して見ていられる。勧善懲悪がすなおに実現される世界であり、見る者は安心して見ていられる。これがそうでなかったら、たぶん見る人は大幅に減るのだろう。現実で見る理不尽な世界をドラマの中でも見たくはないだろう。正義は正義であり、心正しい者は最後に必ず報われる。だからそう信じて明日も理不尽な世界を生きられる。
「仕事人」シリーズも勧善懲悪モノの時代劇である。こちらは悪を懲らしめるというより、殺してしまうのでちょっと過激である。しかし、殺される人間は悪人であり、悪人であるがゆえに殺されて当然という前提である。考えてみればそれは危険な発想で、冤罪も起こるかもしれないし、何より目安箱に密告という形で対象者が訴えられ、仕事人の価値観で裁かれるのである。弁護士もいないし、殺される方からするとたまらないだろうと思う。ただ、「悪いことをしてはいけない」というメッセージにはなるだろう。
そういうことを考え始めるとキリがないが、映画やドラマを観ると(それがそれほど引き込まれるものでなければ)そういう妄想をよくしてしまう。そういう事を考えていくと、ドラマの面白さを損ねてしまうところはある。遠山の金さんの桜吹雪が最後にモノをいうのは、桜吹雪の刺青を覚えていないといけないが、みんなよく覚えているなと考え出すと、ドラマの面白さはなくなってしまう。大岡裁きも大半がフィクションらしいが、そういうフィクションが作られる土台はあったのだろう。さもありなんと思われる人物だったのだろうと思う。
元は印籠から発した妄想であるが、 いろいろ考えて行くと楽しいと思う。今また改めて「水戸黄門」を観てみたいとなんとなく思うのである・・・
















