2026年3月18日水曜日

コスト

 企業の財務を担当していると、どうも「コスト削減屋」というイメージを持たれる。実際そういう面はかなりある。私自身コストについては常に意識しているし、無駄なコストは削減しようと常々考えている。しかし、ただカットすればいいかと言えばそうではない。費用対効果という言葉があるが、コストをかけてもそれを上回るリターンがあるのであれば、それは収益に負担となる「コスト」ではなく、将来の収益に向けての「投資」になる。同じかけるにしても「コスト」なのか「投資」なのかは重要である。コストはカットしてもいいが、投資をカットすると将来の収益を失うことになる。その見極めが難しい。

 さらにカットすべきコストだとしても、コストカットの効果も大事である。ちまちまコストを削減しても全体的に大して影響がない場合、かける手間ひまや疲弊する人心を考えると、果たしてそれがいいのかという気がする。以前、ニデックの名物会長が職場の電気を消すという地道なコストカットを実践しているのを何かで見たことがある。実際に業績回復させているわけであり、それが正しいことなのだろう。蛍光灯の電気代など微々たるものという気がするが、広い社内であったりすればチリ積で大きな効果になるのかもしれない。でも我が社では気が滅入るだけだろう。

 利益を出すための第一はやはり「売上」だと思う。売上が上がれば多少経費はかかっても利益は出る。逆に売上が上がらなければ多少コストを削ったところで利益は出ない。例えば5億円の売上があり、原価率が25%だと粗利は1億2,500万円。販管費が1億2,500万円だと営業利益は0である。ここで売上が1,000万円伸びても販管費が1,000万円減っても利益が1,000万円出るという結果においては同じであるが、一般的に売上を1,000万円伸ばす方が販管費を1,000万円落とすよりもたやすいものである。販管費には「人件費」があり、簡単に減らせないのは想像できるだろう。

 それに経費削減は売上の増加と両輪でやるべきもので、「売上が上がらないから経費削減で」利益を出そうとする内向きの発想だとどうしても考え方が目先に囚われてしまい、企業の拡大発展という面に目が行きにくくなる。通常は営業が売上増加を考え、財務が経費削減を考え、社長が両輪で見るというのがありうべき姿であろう。企業は社長の器以上に大きくならないという事はよく言われるが、経費削減ばかりに目がいく社長だと企業の拡大発展という面がおろそかになってしまうだろう。そういう意味で社長の器は大事である。

 前職では社長が会社をM&Aで売り払ってしまった(それも足元を見て買い叩かれて)。最後にその社長がのたまわったのは、「不動産管理(その時の本業であった)なら手数料を払えば社員に任せなくてもできる」という事であった。我々は、(その社長にとって)手数料に置き換えられる単なるコストだったわけである。そう思われてしまっていた我々にも責任はあるのかもしれない。ただ、それはそれとして、その社長は社員を単なるコストとしか見ていなかったという事である(そのコストのおかげで6期連続で増収になったわけであるが・・・)。

 ディズニーランドで遊ぶには、高い入場料を払わないといけない。それと同様に企業も社員を使って金儲けをするなら必要なお金をかけなければならない。効率よく業務を行うためには費用をかけてツールを導入しないといけないかもしれない。信用を高めるには立派なオフィスを借りて構える必要があるかもしれない。それらを維持できるのは何よりも「売上」である。企業は徹底して売上を追及すべきであると基本的には思う。赤字になりそうとなった時、どうやったら売上を上げるかを真っ先に考える発想が必要だと思う。

 そこでコスト削減にしか目がいかないようであれば、その企業の行く末も危ぶまれるというものである。まぁ、その際に真っ先にカット対象となる「コスト」とみなされないように自らを高めていく必要はあるだろう。コストにならないように努力し続けたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  確率思考の戦略論 どうすれば売上は増えるのか - 森岡 毅, 今西 聖貴  生殖記 - 朝井リョウ




2026年3月15日日曜日

恐いもの

せめておそろしきもの よる鳴る神。近きとなりに盗人の入りたる。わが住む所にきたるは、物もおぼえねば、何とも知らず。近き火、またおそろし。
枕草子
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 私は昔から怖いもの知らずとまではいかないが、比較的怖いものなく過ごしてきたように思う。もちろん、子供の頃はお化けが怖くて、長野県の御代田にあった従兄弟の家に遊びに行った時には夜怖くてトイレに行けなかったのを覚えている。そういう子供時代を経て、いつしか幽霊の類は信じなくなってしまったし(いるならむしろ見たい方である)、中学生時代に怖かったツッパリ系の先輩や同級生もラグビーを初めて体を鍛えるようになって怖さはなくなった(周りにもいなくなったが)。それでも世の中恐ろしいものはあると思うが、少なくとも身の回りにはないのが大きい。

 それでは今は何も怖くないと言えばそうでもない。考えてみれば今一番恐ろしいのは「失職」だと断言できる。失職するくらいならまだ死んだ方がいいかもしれないと思うくらいである。大袈裟のように思われるかもしれないが、心底そう思う。もちろん、今の世の中、失職したところで職を選ばなければ何でもあるだろうし、生きていく事は十分可能である。正確に言えば「失職」というよりも今の「収入」だろう。まだ長男も大学生であり、就職までは教育費もかかるし住宅ローンも残っている。今の収入が減ることはすなわち生活の質(Quality of Life)の低下に直結する。

 銀行を辞めた時は次を決めていたのでその不安はなかった。収入は下がるものの、まとまった退職金を得られるし、新たなチャレンジと前向きに捉えられた。しかし、その時の社長の裏切りで突如失職するとなった5年前は恐怖であった。その時は会社の業績を大きく立て直して自分の給料も大幅にアップしていたし、転職など考える必要もなかった。それが突然バッサリ切られて心の中では右往左往が始まった。50代半ばでは公の転職市場ではほとんど価値がなく、収入も良くても半減だろうと思われた。子供は2人とも学生。目の前が暗くなった。

 そこで確認したのが生命保険。「自殺でも保険は下りるのか」を確認した。自殺するつもりはなかったが、自分が生きていた方がいいのか、死んだ方がいいのか。冷静に比較してみたいと思ったのである。その結果、「家族にとっては死んだ方が経済的にいい」という自分にとっては非情な現実であった。死ねば団体信用生命保険で住宅ローンは完済される。生命保険で当面の生活費も学費もすべて賄える。だが、生きていると、子供たちは大学を諦めなければならないかもしれない。家も手放さなければならないかもしれない。生活の質の低下が自分たちの責任ではなく、父親の責任だとしたら、家族はそれでも父親を恨まないだろうか。

 自分が死ねば家族はその時は悲しんでくれるかもしれない。しかし、生活の質は維持されるし、悲しみは時間と共に薄れていく。子供たちは自分たちの人生に向かっていける。それを考えた時に、「生きていた方がいいです」と安易に言うのは実に無責任である。結局、その時は無事知人の紹介で今の会社に就職し、実力を認められて取締役にも取り立ててもらった。その分、実績は上げているつもりではあるが、取締役は解任されればそれまで。任期に再選されなくとも同様。不安定な立場であることは事実である。その座に胡座をかく事なく、組織に貢献し続けないといけない。

 「不安とは、『起きるかもしれない事』」という言葉がある。実際には起きていないだけに、過度に心配する必要はない。しかし、『起きるかもしれない事』は起きるかもしれないのである。いかにしたらそういう事態が起きないで済むかということは常に意識しないといけない。私にとって最大の恐怖を取り除くために、そういう不安は常に背中合わせに感じていないといけないと思う。世の中には左団扇で穏やかに日々を過ごせる羨ましい人がいるのも事実である。そうでないのを恨んでも仕方がない。息子が卒業するまでもう少し。日々緊張感を持って働いて恐怖に立ち向かっていこうと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  生殖記 - 朝井リョウ  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年3月11日水曜日

母の親友

 母に1人の親友がいる。昔から聞かされていて私も名前を知っている。その親友に先週末、母は会いに行った。久しぶりに電話をしたところ、病気で余命宣告を受けたとのこと。そこで会えるうちに会おうということになったのである。互いに80代後半であるが、どうやら親友の方が先にカウントダウンが始まってしまったという次第である。とは言え、母も腰が曲がって片道2時間の道のりを電車を乗り継いで行くのは困難であり、私が車で送って行くことにした。行きの車中、もう何度か聞いたことがある話を母は嬉しそうに語る。

 その親友に初めて会ったのはまだ10代の頃。高校を卒業して東京に出てきた母は、親戚の家に身を寄せて働いていた。毎朝、最寄り駅で見かけているうちに互いに意識し合うようになる。いつしか言葉を交わし、勤務先が近いことと(もちろん家も近い)勤務先同士も取引があり、互いにお使いで行き来し合うこともあり、そんな共有点が見つかって仲良くなったそうである。やがて日曜日には一緒に銭湯に行っておしゃべりしたりと交友を深めていったそうである。結婚して会う機会は減ったものの、今日に至るまで交友関係が続いている。

 私も幼い頃、母に連れられてその親友の家に遊びに行った記憶がある。中央線に乗ったのもたぶんその時が初めてだったと思うが、中央線がえらく速いという事で驚いたことをうっすらと覚えている。当時、中央線は高度経済成長に伴う沿線人口の爆発的な増加(多摩ニュータウンなど)と通勤混雑の激化に対応するため、大幅な高速化と輸送力増強が実施されたという事のようであるが、母の友人の家に遊びに行ったという事よりも、幼い私には中央線の速さの方が記憶にしっかりと残っている。

 送って行ったものの、母親のおしゃべりに付き合うのは退屈でもあり、母を下ろすと私はあらかじめて調べてあった近くの快活クラブへと向かう。昔はよく家の近所の漫画喫茶を利用したものであるが、近年愛用しているのが快活クラブである。私の基本として、読書もするが漫画も読む。快活クラブは個室でゆっくりと漫画を読めるし、飲み放題のドリンクと食べ放題のソフトクリームは何より楽しいおやつである。家の近所にもあるが、普段のんびりと漫画喫茶に行ってくつろぐ時間などないから、私にとってもいい機会であった。

 2時間ほどのおしゃべりが終わり、母を迎えに行く。2人の老婆は別れを惜しみつつ、これから毎日少しだけでも電話で話をしようということになったようである。親友の娘さんもいて、「母が笑っているのを久しぶりに見た」と喜んでいた。笑いは何よりの薬だと聞いたことがある。それはそうかもしれない。2人の付き合いの歴史はおよそ70年。互いに友人はいるだろうが、年齢を経ると減っていくだろう。亡くなる人もいれば、会いたくても体がいう事をきかず会いに行けないという事もある。

 そんなこともあって、今回はいい孝行ができたかなと思う。一方の父にはわざわざ連絡を取り合う友人もいないのか、亡くなったのか、母のような話は聞こえてこない。自分のことを振り返ってみると、今はまだ付き合いを保ち続けたい友人が何人もいる。会う機会は年に1回とかほんのわずかだが、それでも何かあれば集まって昔話に花を咲かせている。若気のいたりでバカをやった事を取り上げ、いまだに私がそういうことをやる人間だと思っている連中である。そんな奴らといつまでバカ話ができるのだろうかと思ってみる。病気も判明したし、もしかしたら私があの世に一番乗りかもしれない。

 母はよくあるように今の事は3分前のことですら忘れているのに、昔のことはよく覚えている。親友とのエピソードもいくつも出てくる。10代から20代前半の結婚前の母の事は想像もできない。それでもその頃の親友と過ごした楽しいひと時は、今もなお互いに思い出して笑い合うことができる大切な思い出であり、財産なのだろう。不肖の息子は1人出戻りで、当面は二つの家計費を負担してアップアップの状態。たまに親を温泉に連れて行くことくらいしかできないが、豪勢なリゾート地に連れて行くより親友のところの方が嬉しいだろうと勝手に決めつけている。

 次の機会があるかどうかはわからないが、また次回と思う。母の姿を見ながら、自分もバカ話をする友人たちと大事に付き合っていきたいと改めて思うのである・・・


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【本日の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  生殖記 - 朝井リョウ  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年3月9日月曜日

論語雑感 子罕第九 (その24)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、主忠信、毋友不如己者。過則勿憚改。
【読み下し】

いわく、ちゅうしんしゅとし、おのれかざるものともとするかれ。あやまちてはすなわあらたむるにはばかることかれ。
【訳】
先師がいわれた。
「忠実に信義を第一義として一切の言動を貫くがいい。安易に自分より知徳の劣った人と交わって、いい気になるのは禁物だ。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ」
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 「忠実に信義を第一義として一切の言動を貫くがいい」というのは、何となく「言行一致」というか、人によって発言を変えないという事に他ならないように思う。こういう時にいつも思い浮かぶのが、周りにいる、あるいはいた、似たような人である。我が社の古参社員は、それまでの功績が認められて定年年齢を越えてもなお子会社の社長として優遇されている。目につくのは人の好き嫌い。嫌いとなった人物は徹底して批判の嵐。私などはどんな人にも長所と短所があると当たり前のように考えるが、長老は長所か短所しかないと考えているようである。

 よって長老の覚えめでたければ何をやっても許される(黙認される)し、そうでなければ批判される。同じことをやっても「誰がやったか」で評価は変わる。傍から見ても実に理不尽であるが、ご本人的には公平だと思っているのかもしれない。会社という組織では(そうでなくても)、「誰が言ったか」で発言を評価されることがままある。私も銀行員時代、異例の事務手続きについて上司から本部の担当部署に確認しろと言われた事がしばしばある。私がその手続きについて知っていても確認を求められたのである。知っていることを聞いて知っている回答をもらって報告するのは実に苦痛であった。

 私が信用されていないという事でもあり仕方がないのであるが、我が社の長老も信頼している人の話はろくに確認もせずに信じているのを見ると、「内容よりも人」を見ているのは確かである。逆に言えば「内容よりも人」というところで一貫しているのかもしれない。また、長老ともなると社長以外の者はすべて年下でもあり、社歴も自分より短い。よって「自分より下」という意識があるのだろう。「知徳の劣った人」というのとは少し違うが、気に食わないと威圧的な言動に出るので、あまり刺激しないようにと配慮せざるを得ない。

 人は目上のものには丁寧に接するものであろう。そういう意味で自分が上となると天狗になってしまいがちである。我が社の長老は完全に天狗になっている。自分より下の者の中で天狗になっているのは、孔子の言う「安易に自分より知徳の劣った人と交わって、いい気になるのは禁物」という状況に近いものに思われる。そして当然ながら長老は過失を改めない。先日もとある事象を巡って長老が吠えたが、事前に説明して納得していただいた事なのに「聞いていない」と言い出した。こうなるとなかなか難しい。

 一般的に上司は部下に対して「聞いていない」というのは禁句である(本当に聞いていないのが100%確実であれば別だが)。自分が聞いたかもしれない可能性をよく確かめないといけない。そうでなければ、「聞いていない」と言われた部下はそれ以上何も言えなくなってしまう。仮に、報告したという事を証明したとしても、器の大きい上司なら「すまん」と頭を下げられるだろうが、我が社の長老は火に油である。他のアラを見つけてさらに一段と吠えるだろう。まぁ、過失だとは思っていないから改める必要性も感じないのかもしれない。

 私もこのところ、部下から「前に別の事を言われました」と言われることが出てきた。私にその記憶はない。年齢的にもそろそろ物忘れがひどくなるところかもしれない。その都度、私はすなおに謝っている。基本的に情けないが、「聞いてない」とは口が裂けても言わないつもりである。自分に絶対の自信がないという情けなさもあるが、部下には気持ちよく仕事をしてもらって、成果が上がればそれは自分の成果。であれば、そんなささいなところであいまいな記憶力を振りかざす意味はない。長老の振り見て我が振り直すのは当然である。

 自分が間違った場合は、すなおに「ごめん」と言ってしまうのが一番である。それは過去に仕えてきた「みっともない上司」から学んできた事であり、今なお目の前にいる長老の言動からも教えられる事実である。謝ってばかりいる上司も情けないが、「聞いてない」と自分の非を認めない上司よりははるかにマシだろうと思う。ある社員はそんな長老との一件を経て、長老との会話をすべて録音するようになった。それもいかがかと思うが、自分の身を守るという意味では正解である。

 過失を改めるのは当然としても、自らに過失があるかもしれないと考えられる器量も必要だろうと思う。自分に自信があることは悪いことではない。されど、それを絶対視してはいけない。あまり強固に自己主張してみんなの前で自らの間違いを明らかにされることほどかっこ悪いことはない。孔子の言葉にはそれをもう一つ付け加えたいと思う。いずれにせよ、孔子の言葉からは我が社の老害人物を想像してしまう。そんな老害人物に自分はならないように、改めて自分を戒めたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  生殖記 - 朝井リョウ  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年3月5日木曜日

アメリカのイラン攻撃に思う

  先週、しきりにニュースでアメリカがイランを攻撃する可能性が報じられていた。どういうルートから情報を得ていたのかわからないが、週末になって実際に攻撃が行われた。ニュースで報じられるからにはそれなりのニュースソースから情報を得ていたのだとは思うが、マスコミがわかるという事は、イランもわかっていたのではないかという気がする。わかっていたからといって防げるものでもないが、危機管理という意味では対応策を考えていたのではないかと思う。それでも指導者を含めて幹部が多く殺害されているのは準備ができなかったのか、それを上回る攻撃だったのか、いろいろと思うところは多い。

 その昔、戦争は宣戦布告をもってなされるものであった。そのタイミングが遅れた日本は、アメリカから「卑怯者」と言われ徹底的に悪者にされたが、現代の戦争はもはや宣戦布告を必要としなくなったのだろうか。それともこれは「戦争」ではないのか。今回の攻撃の目標について、アメリカは①イランのミサイル能力の破壊、②海軍の殲滅、③核兵器保有をさせないこと、④政権によるテロ組織支援を止めることだと説明している。かつての戦争のように相手を降伏させて自国の言うことを聞かせるというものではなくなっているのだろう。それでも体制転換を目指しているようであるから同じことなのかもしれない。

 それにしてもベネズエラの大統領を軍事作戦によって拉致し、今度は核を巡る交渉中にもかかわらず攻撃を行いと、アメリカは好きなように振舞っている感がある。同じことをロシアや中国がやっていたら、アメリカは烈火のごとく声を上げ、経済制裁を呼び掛けていただろうと思う。西側諸国も内心苦虫を嚙みつぶしながら当たり障りのないコメントをしているようだし、高市総理も慎重にコメントをしてアメリカを非難することは避けている。同盟国だから庇うのか、アメリカだから何も言えないのか、おそらくその両方なのだろう。それでいいのだろうかと疑問に思う。アメリカなら何をやっても許されるのか。

 力のある者が力にモノを言わせて己の言い分を通すというのは、もっとも原始的な問題解決である。動物では外から来たオスが群れのリーダーにチャレンジして勝てばその群れの新たなリーダーになれるというものがある。先日横目で見ていたカバについての番組でやっていたが、カバはそういう習性があるようである。もちろん、負ければ群れにも入れずすごすごと去っていくしかない。あるいはリーダーに対して恭順な姿勢を示すというのがあり、そうすると群れに迎え入れてくれるのだとか。番組ではリーダーに負けたカバが恭順を示して群れに入れてもらうシーンをやっていた。

 アメリカがやっている事と同じである。まぁ、人間もカバ同様の生物であり、同じであっても不思議ではない。ただ、アメリカは群れを守るというより、すべてを従えることが最終目標なのではないかと思うくらいである(おそらくそうなのであろう)。今、世の中では多様性ということがしきりに言われている。昔は毛嫌いされていた者もLGBTと称され権利を認められている。しかし、国際社会では話が異なり、それは共産主義や社会主義には当てはまらず、民主主義でもアメリカに逆らうものは許されないという感じである。どの国にも生存権があり、それは互いに尊重されるべきものであるが、(少なくともアメリカは)そうではない。

 なぜ、互いに譲り合うことができないのだろうか。今回、攻撃にイスラエルが加わっているのも象徴的で、イランの核兵器開発はそのターゲットの第一は間違いなくイスラエルであるだろうし、イランはヒズボラを始めとして反イスラエル勢力を支援しているようであるから、イスラエルも自国防衛という意味で便乗したのだろう。中東紛争は憎しみの連鎖で根が深いが、どこかで共存というものが図れないものだろうかと思う。殺し合いを続けてどちらかが敗れなければ共存が図れないというのはあまりにも寂しい。動物は同じ種では殺し合わないようだし、それが生物の本能なのであるなら、人類はそれに反していることになる。

 我が国としては見て見ぬふりしかできないのだろうが、既に「戦費10億ドル突破か 米経済損失33兆円規模の恐れ」という報道(FORBES)も出ている。これは後日、また高額な武器を買えとか、何らかの形でわが国に請求書が回ってきそうな気がする。アメリカの軍事産業もまだまだ大儲けできるのだろうと思う。きっとウハウハしているに違いない。人類に互いに譲り合って生きるという英知は働かないのだろうか。地球上でもっとも賢い生物がもっとも愚かな行動をしているというのが何とも言えずに残念であると思うのである・・・


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【本日の読書】

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2026年3月1日日曜日

しずかちゃんの入浴について

「日本の性加害の根っこにある」との主張が…『ドラえもん』しずかちゃんのお風呂シーンはなくすべき?論争の実態と、意外と知られていない変化

今回物議を醸したのは、ドラえもんアニメにおいて「しずかちゃんのお風呂シーンをなくすべき」という主張だ。お風呂シーン反対派の意見を簡単に説明すると、
「日本の性加害の根っこにあるのは『のび太がしずかちゃんのお風呂を覗く。そして、しずかちゃんがキャーと叫んでのび太に水をかける』シーンだ。ドラえもんにおいて『お風呂を覗く』シーンを日常的に見て育つからこそ、女性の入浴を覗くことが性加害だと理解できず実行に移す人がいる」
ということらしい・・・
東洋経済オンライン2026.3.1
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 何気なく目についた東洋経済オンラインに載った記事であるが、何もとはやと思わざるを得ない。何でも難癖をつける人はいるものであるが、ここまでくると個人的には笑ってしまうしかない。こういう意見を主張する人はどんな人なのだろうと想像すると非常に興味深い。おそらく女性ではないかという気がする。それも若い女性というより小学生くらいの子供がいる女性というイメージである。人の考えはそれぞれであるから何とも言えないが、男の発想ではないように思える。

 男にとって女性の入浴シーンと言えば、何はともあれ見てみたいというものである。これは本能に根差しているものだからカッコつけても仕方がない。ただ、普通は理性があるからこの衝動を抑えられるが、抑えられない者が犯罪者になる。女性の入浴を覗くことは本能に基づくもので、「性加害だと理解できず実行に移す」ものではない。そこが記事のような意見を言う人のピントがずれている点である。覗く気持ちを理解できる男はおそらくそれを理解できている。だからこのようなピントがズレている意見を述べるのは女性だと思う理由である。

 ドラえもんはそもそも大人向けというより子供向け、それも男の子向けの漫画である。原作者は2人とも男だし、小学生からするとそれはエロティックなシーンというより「面白いシーン」という観点から描かれていると思う。風が吹いてスカートが捲れるようなものだろう。それを見て育ったからと言って、大人になって風呂を覗くかどうかはまた別の問題である。もしかしたら、それを見て真似する小学生もいるかもしれない。しかし、だとしてもそれは性加害などとは別物である。子供の頃に女の子のスカートめくりをしたからと言って大人になってもやるかという話である。

 大人になればさすがに積極的に風呂を覗いて回る大人はいないだろう。いるとしたらそれは本当の犯罪者である。しかし、時と場合によっては理性のタガが外れることもある。私も学生時代、大学のラグビー部の仲間と北海道旅行をした時、どこかの森の中に露天風呂があってみんなで入った。そこは人気のない所で、女性の風呂との境も完全ではなく、身を乗り出せば覗ける環境であった。たまたま女性が入っていたのでみんな覗いていたが、私ともう1人だけはやらなかった。もちろん、覗きたかったが、グッと堪えたのである。

 その当時、私には一つの美学があって、「ジェームス・ボンドのような男になりたい」という思いがあった。「ジェームス・ボンドがこんな所で風呂を覗くか?」と考え、泣く泣く堪えたのである。しかし、そんな私も聖人君子ではなく、その後社会人になって行った社内旅行ではやはり露天風呂で同僚が覗きに行った時には行動を共にした(残念ながら誰もいなくて未遂に終わった)。自分の美学も脆いものだと後で後悔したものである。もしも、目の前にチャンスがあって、バレずに覗けるとなった時に、自制できるかどうかは誰にとっても難しいと思う。

 もちろん、覗きに「性加害である」という意識があるかと問われれば「ない」と答える。女性からは怒られると思うが、男としてはどうしても軽く考えるところがある。されど覗かれる女性の立場からすればやはり許されざる所業であろう。あの社内旅行から30年近く経ったが、多分今なら私もしっかり自制できると思う。それは2つの覗き経験を経てのものでもあり、「コソコソ覗くくらいなら堂々と口説きに行く」という美学復活のためでもある。

 それにしても、ドラえもん連載当時にはそんな事を言う者などいなかっただろう。時代はもっと過激になっているし、むしろかわいいもののようにも思う。覗きが悪い事であることは当然であるが、子供向けの漫画(アニメ)に目くじら立てることの狭量さが気になってしまう。差別語の言葉狩りもそうであるが、本質を外した意見のように思う。そんな本質を外した意見がまかり通り、窮屈な思いをせざるを得ない世の中の方になっていく方に大いなる危惧を抱かざるを得ない。

 記事によれば、ドラえもんにおいてもしずかちゃんの入浴シーンは減っているそうである。それを見たいという訳ではないが、「お約束」の一つとしてあってもいいと思う。それを見て大人になってから覗きに走る人間は、見なくても覗きに走る人間であると思う。子供向けのアニメであるし、もっと寛大になれないものかと残念に思うのである・・・


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【今週の読書】
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2026年2月25日水曜日

地元か都会か

 就職戦線の早期化は困ったものだとこの時期特に思う。一方で4月に新入社員を迎える準備に追われつつ、一方で27年卒の採用が動き始めている。我が社は悲しいことに首都圏では知名度が低く、いきおい地方での採用が中心になっている。北は札幌から南は鹿児島まで新卒学生を求めての行脚である。例年学生を採用させていただいている各学校の就職課の方とは日頃から情報交換をさせていただいているが、近年目につくようになってきたのは、学生の「地元志向」である。地元の企業を志望する学生の割合が増えてきているのである。我々のような企業にしてみれば由々しき事態であるが、胸中は複雑である。

 学生の地元志向は果たして是か非か。人口減少時代の昨今、地方自治体においては企業誘致に余念がない。我が社も地方進出を検討する時期に来ているが、各自治体は助成金を手厚くして地元への企業誘致に力を入れている。企業が誘致できればそこで働く社員は確実に地元の人間になる(そういう条件で助成金を支給している)。それはすなわち人口増に結び付くわけであり、それこそが企業誘致の目的であろう。当然、地方自治体としては学生の地元志向は歓迎すべき事象と言える。たしかに、地方に衰退してほしいとは思わないし、若い人が地元に残るのは良いことだと思う。しかし、と思うのである。

 若い頃には冒険が必要だろうと思う。冒険と言えば大げさであるが、東京へ出て一人暮らしをしながら厳しい環境(と言えば大げさではあるが)に身を置いて働くというのは悪いことではないと思う。もしも私が地方に住んでいて、息子が就職となった場合、まずは東京に行ってみてはどうかと勧めるだろう(その前に大学進学時に東京の大学へ行けと言うだろう)。かわいい子には旅をさせろではないが、ビジネスマンとして企業で働くのであれば、東京で働くのが一番いいと思う(これが娘なら残れと言うだろう)。

 地元志向がどういうものなのか。親の立場からすれば、将来的には同居かあるいはせめて近くに住んでほしいという気持ちなのは想像できる。誰しも老後ということを考えるだろうし、孫の顔を見ながら暮らしたいと思う気持ちは私も同じである。しかしながら当の若者はどう思うのであろうか。親の近くにいたいというのは、将来面倒を見なくてはという義務感だろうか。あるいは生まれ育った地元への愛着であろうか。生き馬の目を抜くかもしれない都会への不安だろうか。人それぞれではあるが、そんなところが挙げられるのかもしれない。

 しかしながら、「いずれ地元に戻ってくるなら」と送り出すのはあてが外れる可能性が高いだろう。住めば都で、働いて暮らしているうちに人間は環境に慣れてくるもの。ましてや東京で知り合った相手と結婚した場合、自分だけの話ではなくなる。他県の出身者であれば、自分にとって「地元に帰ること」でもパートナーにとっては「見知らぬ土地へ行く」ことに他ならない。さらに子供が生まれれば子供の教育環境だとか、「転校したくない」だとかの問題も出てくる。そうそう思い描いたライフプランを実現するのは難しくなる。

 そう考えると、「若いうちは東京で」という考えは誤算を招く可能性が高いかもしれない。少なくとも軽い気持ちで考えているなら危ういだろう。東京で働くなら何歳まで、結婚相手には将来地元に帰ると事前に告げて了承を得ておくなど、固い意志と準備が必要だろう。そんな事をつらつらと考えると、始めから地元志向というのは、それはそれで懸命なのかもしれないと思う。地元では都会ほど就職環境は良くないかもしれないが、そこは仕事と地元に残ることとどちらを重視するかで割り切るしかない。

 私の両親はともに地方出身である。ともに東京に出てきて知り合い、結婚して私が生まれている。父親は地元に残って大工になるか東京に出て働くかの選択肢しかなく、次男であったこともあるが、中学を卒業後に東京に出てきている。さぞかし不安だっただろうと思う。おかげで私は東京生まれの東京育ちであり、「地元か東京か」で悩むことはなかった。考えてみれば大きな悩みを1つ抱えずに済んだと言えるのかもしれない。こればっかりは生まれたところという運の話であるが、「帰る故郷がない」という寂しさと裏腹の運である。

 そんな中で、故郷を離れて大志を抱いて東京に出てくる新入社員たちには、いい社会人デビューをしてほしいと思う。将来的に故郷に帰るのかどうかはわからないが、今はオンラインの発達もあり、地元に帰りながらも東京の仕事をすることが可能になってきている。いずれ地元か東京かという問題は大きな問題にはならなくなるのかもしれない。就活学生と話をしながら、そんなことを思ったのである・・・


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【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  ウロボロスの環 (集英社文芸単行本) - 小池真理子  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年2月22日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その23)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、法語之言、能無從乎。改之爲貴。巽與之言、能無說乎。繹之爲貴。說而不繹、從而不改、吾末如之何也已矣。
【読み下し】
いわく、ほうげんは、したがうことからんや。これあらたむるをたっとしとす。そんげんは、よろこぶことからんや。これたずぬるをたっとしとす。よろこびてたずねず、したがいてあらためざるは、われこれ如何いかんともするきのみ。
【訳】
先師がいわれた。「正面切って道理を説かれると、誰でもその場はなるほどとうなずかざるを得ない。だが大事なのは過ちを改めることだ。やさしく婉曲に注意してもらうと、誰でも気持よくそれに耳をかたむけることができる。だが、大事なのは、その真意のあるところをよく考えてみることだ。いい気になって真意を考えてみようともせず、表面だけ従って過ちを改めようとしない人は、私には全く手のつけようがない」
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 社会人生活の中で何よりも難しいのは人間関係であると断言できる。私も社会人デビューしてからずっとこれで煩わされている。うまくやれる人とやれない人とがいるが、その違いは何かと言われるとよくわからない(わかれば苦労しない)。しかし、上司からすれば自分に従順な部下は「愛い奴」とされ、何かあれば面倒を見てやろうという気になるのだろうという事は何となくわかる。逆に自分とは反対の意見をきちんと論理立てて反論し難く主張してくる者は「小生意気な」と思われるのかもしれない。私はどちらかというと、間違いなく後者だと思う。

 若い頃はそれこそ遠慮なく思うところをぶつけていたと思う。社会人2年目になった時、支店のレクリエーション係になった。ある時の事、休みの日でも関係なく役割を言いつけられるのに辟易し、正面から担当の役席者に反論した。「休みの日にはやりたくない」と。そして言われたのが、「仕事だぞ」の一言。それに対し、「仕事なら休日出勤手当は出るんですか!」と返した。その時の役席者の腹の中は煮えくりかえっていただろう。もちろん、理屈では私の方が正しい。正面切って道理を説かれたので、その方も一言も反論できなかった。

 そんなことを繰り返していると、心もだんだん疲弊してくる。そこで対立を避けるために考えたのが、冠婚葬祭。どうしても参加したくない休日の支店行事に際し、「友人の結婚式に呼ばれていまして」と何度使っただろう。友人の結婚式は親戚の葬式に比べて無数に使える良さがある。そうすると、相手も「仕方ないな」と思ってくれる。表面的な対立は起こらず、多少の良心の痛みだけで済む。誰でも気持ちよくそれに耳を傾けてくれる。今はそんなことをしなくても、そもそも休みの日に若手の意向を無視して駆り出すことなどできなくなっている。いい時代である。

 孔子の意向とは異なるかもしれない。しかし、会社では上司の意向には「しなやかに」対応する必要があると思う。たとえ内心ではおかしいと思っていても、直球で正面切って道理を説けば反発を招きかねない(もちろん、そんな「直球」を歓迎する寛大な上司なら別であるが・・・)。優しく婉曲に道理を伝え、「わかっていただく」ように工夫を凝らさないといけない。それでも意見が通らない場合は、「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」(後藤田五訓)である。私の場合、上司は社長になるのでそこはきちんとわきまえないといけないと思っている。

 しかし、我が社には社長の同輩がいて、隠然たる力を持っている。長年の功績には揺るがないものもあるが、もはや老害と化していて社内でも苦虫を噛み潰す者も多い。正面切って道理を説くなど言語道断であり、優しく婉曲に言うしかない。ご機嫌さえとっておけば害はない。表面だけ従っておくのが賢い処世術となっている。孔子の考えからしたらまったくけしからん状態なのかもしれないが、しかしそれが今のところ有効なのだから仕方がない。「物は言いよう」という言葉もある。同じ事でも言い方は大事である。礼儀があるのは当然だが、正面切って道理を説く前に相手を見る事が重要である。

 さて、翻って自分はどうだろうと思う。正面切って道理を説く部下を疎ましく思い、優しく婉曲に注意する者を愛い奴と愛でていないだろうか。今のところ大丈夫なような気がしている。正面切って道理を説く者はむしろ歓迎で、こちらも正面切って道理を説き返すつもりがある。婉曲な表現はむしろ嫌いで、「言いたいことがあるならはっきり言え」というくらいである。そのスタンスは維持したいと思う。怖いのは己自身が老害になること。人の振り見て我が振り直せで、意識したいところである。

 孔子の説く意見とは異なるかもしれないが、そんな感のある今回の言葉。良き上司であることを意識しつつ、もういい歳だし、賢く振る舞いたいと思うのである・・・


Toshiharu WatanabeによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  ウロボロスの環 (集英社文芸単行本) - 小池真理子  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史






2026年2月19日木曜日

『四十年の真実』を読んで思う

  元日本航空の客室乗務員で、ノンフィクション作家である青山透子の『四十年の真実』を読んだ。日航123便の墜落事故の真相と言われると、リアルタイムでニュース見てその衝撃を経験した身としては興味をそそられる。しかし、最初にそれを知った『  書いてはいけない』に書かれていた内容はすぐには信じ難く、それで本書を読むに至ったわけである。この本によると、日航123便の墜落事故はあくまでも人為的な事故で、公表されているような後部圧力隔壁の破損などではないというもの。きっかけは自衛隊の無人標的機が日航123便の垂直尾翼に衝突したとされるが、その事実を自衛隊が隠蔽しようとした結果、墜落した(させられた)というものである。

 その隠蔽内容とは、最後に追尾していたファントムが123第便の第4エンジンを撃ち抜いて墜落させたというもの。さらに墜落現場は世間には不明と発表しつつ、いち早く現場に駆け付けた自衛隊員が撃墜の証拠を隠滅するため現場を焼き払ったとする。 いくら何でもそこまでは行き過ぎなように思えてならない。されど著者は単に推論を述べているのではなく、現場の一つ一つの状況から積み上げて結論を導いているわけで、そこには一笑に付すことのできないものがある。例えば、航空燃料は素人がイメージするのとは違って意外と燃焼性は低く、遺体が炭化するほど焼けることはないといった具合である(さらに現場では軍用燃料が検出されているという)。

 普通の航空事故であれば当然引き上げるべき相模湾に沈んでいる機体の一部(垂直尾翼)を引き上げないとか、ボイスレコーダーを公開しないというのもおかしいと主張する。確かにその主張はもっともであり、一読しただけの者には反論できかねるものがある。しかし、と思う。一歩下がると、これほどの衝撃的な事実を隠蔽しきれるものだろうかと思えてしまう。例えば第4エンジンを撃ち抜いて撃墜させたとするファントムであるが、自衛隊員がいくら命令されたとは言え、そこまでやるだろうかと思う。軍人だから命令は絶対であるとしても、躊躇なく(躊躇したとしても)民間航空機を撃墜できるものだろうか。

 民間航空機の撃墜と言えば、大韓航空機撃墜事件が脳裏に浮かぶが、あれは自国民ではないし、さらに旧ソ連という国の体質を考えればまだわからなくもない。しかし、自国民であり、さらに我が日本国内でのこととなればにわかには信じがたい。さらに直接手は下さなくとも現場にはもう一機のファントムがそれを目撃しており、その事実を知るパイロットが最低2人(ファントムが複座なら4人)がいるわけである。さらに命令がどこから発せられたのかはわからないが、命令系統に入っていた人物、命令の現場にいた人物など複数が関わっている。内心ではおかしいと思う者もいただろうし、それを外に漏らす者もいたのではないかと思えてならない。

 世の中にはいろいろと陰謀論めいたものが多い。アメリカ政府がUFOや宇宙人に関する事実を隠しているとか、ケネディ大統領の暗殺犯はオズワルドではないとか。そうした陰謀論の中にはまったくの事実無根なものもあるだろう。その真偽を見極めるのは難しいからいきおいどちらかを信じるしかない。この本に書かれていることに関して言えば、「総論反対各論賛成」的な感じがする。「信じられない」というよりも「信じたくない」という意識だろうか。では真相は何かと問われればわかりようもないが、根拠なく「何か違う感じがする」と言うしかない。秘密はそれに関わる人数が多くなるほど漏れやすくなるものであり、40年も隠しおおせるものではないように思う。

 もともと人に知られざる秘密には蜜の味がある。それが大ニュースとなるべき内容であればなおさらである。そうした秘密があることすら知らなければ何とも思わないが、「秘密がある」という事を知ってしまうと、その内容を知りたいという欲求が首をもたげてくる。結果的には知らなければ良かったということも、それは知ったがゆえに思う事であり、知らないうちはたとえ結果がどうであろうと、人は秘密を知りたいと思うものだろう。この本に書かれていることが事実なのかどうなのかはわからない。その疑惑を知らない時は平和だったが、知ってしまうと真実を希求する心は抑えがたい。

 一方で秘密はそれに関わる人が多くなればなるほど漏れるものだと思う。40年間も漏れないということは、この本に書かれているような事実はないという事なのかもしれない。例えば日本航空の社長などはこうした事実の引継ぎを受けているのだろうか。受けているとしたら、歴代社長の中には公表すべきと考える人もいたのではないかと思う。日本航空だけではなく、自衛隊の中でも然りである。もしも、事実であるならば、完璧に隠蔽されているわけであり、そちらの方に恐ろしさを感じてしまう。いずれにせよ、よけいなことを知ってしまったものである。

 疑惑の真相が明らかになる日はくるのだろうか。その日が来ることを待ちわびつつ、ケネディ暗殺事件の真相と日航123便の真相は、死ぬまでに知りたい真相として心に握りしめていたいと思うのである・・・


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2026年2月15日日曜日

婚活に思う

 この週末、珍しく時間に余裕があって、何気なくTVerでやっていた「ザ・ノンフィクション」という番組を見てしまった。その回のテーマは「結婚したい彼と彼女の場合 令和の婚活漂流記2026」というもの。見始めたら面白くて前後編見てしまった。内容はタイトルの通りで、結婚したいと結婚相談所を通じて婚活をする31歳の男性の姿を追うものであった。31歳と言えば私が結婚した年である。そこに登場する男性は、おそらく女性と付き合った事がないのだろうと思われるが、涙ぐましい努力をしている。

 彼には結婚アドバイザーの女性がついており、そのアドバイザーは力を込めてサポートしていく。それには厳しい現実も伝えないといけない。介護職についているその男性に年収370万円は、結婚相談所に登録する男性の平均400〜500万円よりも下であることを告げ、服装や髪型を直させ、お見合いの結果を厳しくフィードバックする。男性もそのアドバイスに素直に従う。転職して年収を上げ、髭脱毛までする。年上で自分よりも年収の高い女性には、家事はすべて自分がやって支えるとまで宣言してアプローチする。それでも男性は相手から選ばれない。

 見ていてその努力に感心するものの、何となく違うように思えてならなかった。彼は相手の女性に合わせようとするばかりで、何か芯に自分というものがないように感じられたのである。もちろん、女性アドバイザーのアドバイスも大事であるが、私だったら脱毛などやらないし、転職も婚活のためならやらない。その昔、「優しい人が好き」という女性の言葉を受け、優しくしてもその女性から好かれることはなく、逆にその女性は全然優しくない男を好きになってしまったりするという話を聞いた事がある。それと似ている。

 彼は結婚相談所で紹介された女性から軒並み「いい人」という評価を得ている。しかし、「いい人」は褒め言葉ではあってもその言葉の裏には「それ以上ではない」という意味が隠れている。思うに彼に必要なのは、「自分はどういう男なのか」という確固たる信念であろう。仕事も年収は低いかもしれないが、こういう考えがあって生き甲斐を持ってやっているという意思が伝われば問題にはならないと思う(それを問題にするような相手ならこちらから断れば良い)。相手に好かれようとするばかりで、自分はどういう人間なのかがないように思えた。

 その昔、決していい男とは言えない友人が私の知人の女性といつの間にか婚約していて、驚いて尋ねた事がある。その友人は、自分はこれまでも女性にモテる事はなかったし、これからもその自信はないが、これと決めた女性だけなら落とせる自信はあると語ってくれた。それは自分の人生を賭けて口説くからだという事であった。それは決して相手に合わせるという意味ではない。その信念で猛アタックして口説き落としたそうである。私も若い頃は決してモテた方ではなく、むしろ枕を涙で濡らした経験の方が多いが、その考え方には共感している。

 私もプレイボーイのようにどんな女性でも口説き落とせるという事はなかったが、本当に惚れたたった1人の女性ならかなりの確率で口説き落とせると思う。それは一時ベッドを共にするのではなく、生涯を共にする女性である。まぁ、それはさまざまな経験を経てきた今だから言える事で、若い頃にそういう考え方が持てていたら私の人生も違ったものになっていたかもしれない。結婚前の時間に戻れるのであれば、その言葉を証明してみせられるのにと思う。つくづく、人生ってうまくいかないものだと思えてならない。

 番組に登場した男性が今後良縁に巡り会えるかどうかはわからない。番組の放映には間に合わなかったが、いい人そうだっただけに努力が実ればいいなと思う。仮に結婚したとしても、私のように別居という結果になるかもしれず、結婚生活はその維持も難しいと思う。それでも結婚したこと自体に後悔はないし、番組の男性も望んでいるのであれば結果はともかくとして結婚を目指すのはいいと思う。人のこともさることながら、自分の老後をどうするか。それをこれからじっくりと考えたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也  架空犯 - 東野 圭吾  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史



2026年2月11日水曜日

仕事を任せるとは

 「仕事を任せる」ことの意味について考えさせられる出来事があった。我が社には子会社がある。そこの社長が、部下の財務担当役員を首にしたのである。と言っても、当該担当役員は親会社にも席があるので特に問題もない。しかし、本人にしてみれば忸怩たるものがある。きっかけは決算。決算内容が思ってもみない内容で、驚いた子会社の社長が騒ぎ立てたのである。それはとある資金使徒のお金。思ったよりも金額が多かったというのがその理由。されど財務担当役員も勝手にやっていたわけではない。要所要所で包括的な許可を取っていたのである。

 「包括的な」とは、「細かいところは任せるから上手くやってくれ」というもの。その言葉をそのまま受け取り、資金を利用していた。もちろん、リターン計画はしっかり立てており、そこは財務担当であり抜かりはない。ところが総額を見て社長が驚いたのである。そして「聞いていない」と言い出した。挙句に、こんなことをやるなら任せてはおけないと首にしたのである。そこでこのケースについていろいろ考えてみた。もちろん、財務担当役員もこまめに報告すべきであったことは最大の反省点。そうすれば「聞いていない」と言われる事もなかっただろう。されど問題はそこではない。

 最大の問題点は、子会社の社長の対応である。「聞いていない」というのは言語道断。何度か説明を受けており、その都度「細かいことは任せる」と「包括的な委任」をしていたのは動かさざるべき事実である。「任せる」というのは、ただ単にやらせることではない。その「結果についての責任を引き受ける」という意味がある。任せて失敗したのであれば、それは任された人の責任ではなく、任せた人の責任である。それがわかっていない。人の失敗の責任を引き受けるのが嫌なら任せるべきではない。

 この「結果についての責任を引き受ける」という部分が重要で、「失敗すれば自分の責任であると自覚して仕事を任せる」べきなのである。そのためには任せっ放しではいけない。折に触れて進捗を確認し、上手くいっていなければ上手く行く方法をアドバイスしたりする事も大事である。場合によっては途中で任せるのをやめて自らやる必要もあるかもしれない。今回であれば、子会社の社長は任せたことを気にした上で、途中経過を報告させるということも必要であった。任せっ放しにしておいた責任は重い。

 任せて放置してそして結果だけを見てダメ出しをする。これでは人の上に立つ資格などない。部下もついてこないだろう。社長とは言え、そこは子会社であり、一種の名誉職的なところがある。しかし、本人は一端の経営者気取りであり、今回大鉈を振るったわけである。さらに役員を首にするなら自らの責任をも明らかにしなければならない。任命責任もあるわけであり、部下の首を切るなら(不祥事ならともかく)自らの責任も明確にしなければならない。ところが自分の役員報酬は1円たりとも下げていない。それでいいのか。

 人の上に立つ地位についたなら、部下に仕事を任せるのは必然である。その時、それぞれの仕事についてきちんとできるのかどうかを見極めて仕事を任せないといけない。気になるなら途中で報告させるようにすればいいし、そうして部下がうまくやれるように指導しないといけない。もちろん、できる部下に丸投げ放置もいいが、その場合は結果責任は負わないといけない。もしも部下が失敗したなら、それは任せた上司の責任である。きちんと指導して失敗を繰り返さないようにするとともに責任も引き受けないといけない。

 今回、図らずも子会社の社長はそういう人の上に立つ器でないことを自ら証明したことになる。人に仕事を任せるというのは、実は簡単なことではないのである。「自分はお飾り社長ではない」という意識だけはあったようであるが、「人に仕事を任せる」ということの大事な本質を理解できていなかったわけであり、残念ながらお飾りよりタチが悪いと言える。人のふり見て我が振り直せではないが、私も人に仕事を任せる時はきちんと意識しようと思う。もって他山の石としたいと思うのである・・・



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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也 架空犯 - 東野 圭吾 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年2月8日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その22)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、後生可畏。焉知來者之不如今也。四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已。
【読み下し】
いわく、後生こうせいおそし。いずくんぞ来者らいしゃいまかざるをらんや。じゅうじゅうにしてきこゆることくんば、おそるるにらざるのみ。
【訳】
先師がいわれた。「後輩をばかにしてはならない。彼等の将来がわれわれの現在に及ばないと誰がいい得よう。だが、四十歳にも五十歳にもなって注目をひくに足りないようでは、おそるるに足りない」
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 学生の頃は、まだ長幼の序というものが色濃くあったが、社会人になってからはそれはほとんど消滅している。それはもしかしたら私の中だけのことかもしれない。スポーツの世界では、それよりも早く経験している。それは大学時代のラグビー部での話。もう最初から宣言されたが、練習中は先輩も後輩もなく、名前はすべて呼び捨て。試合中に「◯◯さん」などと言っている暇はないという合理的な考え。当然レギュラーも実力主機である。後輩にレギュラーポジションを取られたくなかったら、とにかく人一倍努力するしかない。

 社会人になってもスポーツの世界は進んでいて、キャプテンも若手の中から選ばれていた。練習も試合もキャプテンが中心となる。「後輩に従う」ということも自然に受け入れていた。そういう「免疫」があったためか仕事でも長幼の序は気にならなかった。逆に仕事でものを言うのは「立場(職責)」だろう。年齢を重ねると「年上の部下」というのも避けては通れない。そういう年上の部下に対して、立場上指示をすることはあってもそこには当然礼儀というものはあり、私自身で言えば呼び捨てにしたことはなく、言葉遣いにおいても相手を尊重している。

 それは別にきれい事を言っているわけではない。人にはそれぞれ自分よりも優っている部分があるという当たり前のことを理解しているからであり、ささやかな優位性(会社内の地位)だけを持ってして上から目線にはなりにくいというものがある。私の場合、ラグビーには優位性があってもサッカーにはない。人はみな同じ経験を積み重ねるものではない。自分にはない知識、経験値を持つ者を年下だからという理由でバカにするのは誠におかしなことである。

 今、会社では私には年上の部下がいる。残念ながら指示待ち族の典型で、とてもビジネスマンとして有能だとは言い難い。しかし、その人は指示すればきちんと仕事をしてくれる。特に助成金申請のような書類ばかりが多いお役所仕事においては丁寧にきっちりやってくれる。その一点を持ってして私はその方を重宝しており、定年年齢を過ぎてもお願いして同じ給料でアルバイトとして勤めてもらっている。いなくなると困る存在であり、そういう意味で、私はその方をバカにする事なく、ただ職務上で指示命令の立場にあるだけと考えて尊重している。

 孔子はさらに後輩でも40〜50代になっても注目を引くような存在でなければ恐るるに足りないと言っている。別に恐るるつもりはないが、先の方などはいなければ困るのは私であり、尊重している。私の地位を脅かすという点では恐るるに足りないが、ただ「辞める」という一言には恐れるのに十分な理由があり、恐るるに足りないことはない。それは先輩後輩などの年齢によるものではなく、あらゆる人に当てはまると思う。自分が万能でない以上、取るに足りない人に頼ることもあり得るわけであり、そういう事も念頭に置いておかないといざという時に助けてもらえないかもしれない。

 どんな人にもその人ならではの知識と経験とがあり、そして自分は万能ではないという事実がある。そこから導き出される結論としては、どんな人でも尊重すべしという事であろう。とは言え、我が社にはもはや老害と化している方がいて、批評家としてはなるほど参考にはなるが、実害を被ると心中穏やかではいられないのも事実。あいだみつおではないが、私もにんげんだもの。どうしても感情的に穏やかでいられない時もある。それはともかく、「将来自分に影響があるから」とかないからとかではなく、先輩だろうが後輩だろうがバカにしてはならないのは当然である。孔子の考え方とはちょっと異なる。

 老害は困ったものであるが、なるべく関わりあわないようにして、他人を尊重する態度は崩さずに人とは付き合っていきたいと思うのである・・・

vined mindによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 財務省亡国論 - 高橋洋一 架空犯 - 東野 圭吾 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史