2026年2月11日水曜日

仕事を任せるとは

 「仕事を任せる」ことの意味について考えさせられる出来事があった。我が社には子会社がある。そこの社長が、部下の財務担当役員を首にしたのである。と言っても、当該担当役員は親会社にも席があるので特に問題もない。しかし、本人にしてみれば忸怩たるものがある。きっかけは決算。決算内容が思ってもみない内容で、驚いた子会社の社長が騒ぎ立てたのである。それはとある資金使徒のお金。思ったよりも金額が多かったというのがその理由。されど財務担当役員も勝手にやっていたわけではない。要所要所で包括的な許可を取っていたのである。

 「包括的な」とは、「細かいところは任せるから上手くやってくれ」というもの。その言葉をそのまま受け取り、資金を利用していた。もちろん、リターン計画はしっかり立てており、そこは財務担当であり抜かりはない。ところが総額を見て社長が驚いたのである。そして「聞いていない」と言い出した。挙句に、こんなことをやるなら任せてはおけないと首にしたのである。そこでこのケースについていろいろ考えてみた。もちろん、財務担当役員もこまめに報告すべきであったことは最大の反省点。そうすれば「聞いていない」と言われる事もなかっただろう。されど問題はそこではない。

 最大の問題点は、子会社の社長の対応である。「聞いていない」というのは言語道断。何度か説明を受けており、その都度「細かいことは任せる」と「包括的な委任」をしていたのは動かさざるべき事実である。「任せる」というのは、ただ単にやらせることではない。その「結果についての責任を引き受ける」という意味がある。任せて失敗したのであれば、それは任された人の責任ではなく、任せた人の責任である。それがわかっていない。人の失敗の責任を引き受けるのが嫌なら任せるべきではない。

 この「結果についての責任を引き受ける」という部分が重要で、「失敗すれば自分の責任であると自覚して仕事を任せる」べきなのである。そのためには任せっ放しではいけない。折に触れて進捗を確認し、上手くいっていなければ上手く行く方法をアドバイスしたりする事も大事である。場合によっては途中で任せるのをやめて自らやる必要もあるかもしれない。今回であれば、子会社の社長は任せたことを気にした上で、途中経過を報告させるということも必要であった。任せっ放しにしておいた責任は重い。

 任せて放置してそして結果だけを見てダメ出しをする。これでは人の上に立つ資格などない。部下もついてこないだろう。社長とは言え、そこは子会社であり、一種の名誉職的なところがある。しかし、本人は一端の経営者気取りであり、今回大鉈を振るったわけである。さらに役員を首にするなら自らの責任をも明らかにしなければならない。任命責任もあるわけであり、部下の首を切るなら(不祥事ならともかく)自らの責任も明確にしなければならない。ところが自分の役員報酬は1円たりとも下げていない。それでいいのか。

 人の上に立つ地位についたなら、部下に仕事を任せるのは必然である。その時、それぞれの仕事についてきちんとできるのかどうかを見極めて仕事を任せないといけない。気になるなら途中で報告させるようにすればいいし、そうして部下がうまくやれるように指導しないといけない。もちろん、できる部下に丸投げ放置もいいが、その場合は結果責任は負わないといけない。もしも部下が失敗したなら、それは任せた上司の責任である。きちんと指導して失敗を繰り返さないようにするとともに責任も引き受けないといけない。

 今回、図らずも子会社の社長はそういう人の上に立つ器でないことを自ら証明したことになる。人に仕事を任せるというのは、実は簡単なことではないのである。「自分はお飾り社長ではない」という意識だけはあったようであるが、「人に仕事を任せる」ということの大事な本質を理解できていなかったわけであり、残念ながらお飾りよりタチが悪いと言える。人のふり見て我が振り直せではないが、私も人に仕事を任せる時はきちんと意識しようと思う。もって他山の石としたいと思うのである・・・



Sergio Cerrato - ItaliaによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治 (講談社選書メチエ) - 藤川直也 架空犯 - 東野 圭吾 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年2月8日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その22)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、後生可畏。焉知來者之不如今也。四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已。
【読み下し】
いわく、後生こうせいおそし。いずくんぞ来者らいしゃいまかざるをらんや。じゅうじゅうにしてきこゆることくんば、おそるるにらざるのみ。
【訳】
先師がいわれた。「後輩をばかにしてはならない。彼等の将来がわれわれの現在に及ばないと誰がいい得よう。だが、四十歳にも五十歳にもなって注目をひくに足りないようでは、おそるるに足りない」
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 学生の頃は、まだ長幼の序というものが色濃くあったが、社会人になってからはそれはほとんど消滅している。それはもしかしたら私の中だけのことかもしれない。スポーツの世界では、それよりも早く経験している。それは大学時代のラグビー部での話。もう最初から宣言されたが、練習中は先輩も後輩もなく、名前はすべて呼び捨て。試合中に「◯◯さん」などと言っている暇はないという合理的な考え。当然レギュラーも実力主機である。後輩にレギュラーポジションを取られたくなかったら、とにかく人一倍努力するしかない。

 社会人になってもスポーツの世界は進んでいて、キャプテンも若手の中から選ばれていた。練習も試合もキャプテンが中心となる。「後輩に従う」ということも自然に受け入れていた。そういう「免疫」があったためか仕事でも長幼の序は気にならなかった。逆に仕事でものを言うのは「立場(職責)」だろう。年齢を重ねると「年上の部下」というのも避けては通れない。そういう年上の部下に対して、立場上指示をすることはあってもそこには当然礼儀というものはあり、私自身で言えば呼び捨てにしたことはなく、言葉遣いにおいても相手を尊重している。

 それは別にきれい事を言っているわけではない。人にはそれぞれ自分よりも優っている部分があるという当たり前のことを理解しているからであり、ささやかな優位性(会社内の地位)だけを持ってして上から目線にはなりにくいというものがある。私の場合、ラグビーには優位性があってもサッカーにはない。人はみな同じ経験を積み重ねるものではない。自分にはない知識、経験値を持つ者を年下だからという理由でバカにするのは誠におかしなことである。

 今、会社では私には年上の部下がいる。残念ながら指示待ち族の典型で、とてもビジネスマンとして有能だとは言い難い。しかし、その人は指示すればきちんと仕事をしてくれる。特に助成金申請のような書類ばかりが多いお役所仕事においては丁寧にきっちりやってくれる。その一点を持ってして私はその方を重宝しており、定年年齢を過ぎてもお願いして同じ給料でアルバイトとして勤めてもらっている。いなくなると困る存在であり、そういう意味で、私はその方をバカにする事なく、ただ職務上で指示命令の立場にあるだけと考えて尊重している。

 孔子はさらに後輩でも40〜50代になっても注目を引くような存在でなければ恐るるに足りないと言っている。別に恐るるつもりはないが、先の方などはいなければ困るのは私であり、尊重している。私の地位を脅かすという点では恐るるに足りないが、ただ「辞める」という一言には恐れるのに十分な理由があり、恐るるに足りないことはない。それは先輩後輩などの年齢によるものではなく、あらゆる人に当てはまると思う。自分が万能でない以上、取るに足りない人に頼ることもあり得るわけであり、そういう事も念頭に置いておかないといざという時に助けてもらえないかもしれない。

 どんな人にもその人ならではの知識と経験とがあり、そして自分は万能ではないという事実がある。そこから導き出される結論としては、どんな人でも尊重すべしという事であろう。とは言え、我が社にはもはや老害と化している方がいて、批評家としてはなるほど参考にはなるが、実害を被ると心中穏やかではいられないのも事実。あいだみつおではないが、私もにんげんだもの。どうしても感情的に穏やかでいられない時もある。それはともかく、「将来自分に影響があるから」とかないからとかではなく、先輩だろうが後輩だろうがバカにしてはならないのは当然である。孔子の考え方とはちょっと異なる。

 老害は困ったものであるが、なるべく関わりあわないようにして、他人を尊重する態度は崩さずに人とは付き合っていきたいと思うのである・・・

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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 財務省亡国論 - 高橋洋一 架空犯 - 東野 圭吾 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年2月4日水曜日

個人事業者として働くこと

 知人から独立を考えているという話を聞いていろいろと考えた。知人のやっている仕事はコンサルタントのような仕事で、お客様から(会社が)いただいている金額と自分の給料とを見比べ、その差額の大きさに「これなら独立した方が得だ」と考えたようである。これはコンサル系に限らず、あり得ることである。当然ながら会社もお客様からいただいたお金をそのまま社員に渡していたら事業として成り立たない。会社を維持する経費もかかる。会社としては利益を取った上で給料という形で社員に還元するのは当然である。

 その昔、青色LEDを発明・実用化してノーベル賞に輝いた技術者が、それによって多額の利益を得た会社に対し、給料以上の還元を求めて会社を訴えたのを覚えているが、差額が大きい場合は貢献した社員としては「もう少しよこせ」と思う気持ちはよく理解できる。会社の看板がなくても独立して食っていけるというのであればそれも本人の判断である。ただ、会社の立場に立つと、本人が「食っていける」というレベルになるまで給料を払って育成したのは会社であり、すぐ独立されてもかなわないだろうなと思う。

 青色LEDも成功したからこそであり、失敗していたら結局「ムダ飯食い」の社員を会社はずっと面倒をみないといけなかったはずであり、そこは会社としてリスクを取っているわけである。投資と同じで、100社に投資して99社が失敗しても残り1社が成功すれば99社の損失を補って余りある利益を手に入れられるわけであり、だから投資もできる。会社はそうして成功するかどうかわからない研究をさせているわけであり、成功したから分け前をよこせと言われても(金額にもよるが)「はいそうですか」とは言えない事情にあるのも想像がつく。

 コンサル系の彼もそういう事情は考慮すべきだが、だからといって一生ご奉公しなければならないというのもおかしな話。ある程度貢献したら独立もありだろう。あとは会社に属するメリットとデメリットの比較ではないかと思う。私はコンサルのように独立しても食っていける技量のあるビジネスマンではないから必然的にどこかの会社に属して働くということを選択せざるを得ない。あとはいかに自分を高く買ってくれるところに所属するかということになる。世の中の多くのビジネスマンはそうだろうと思う。

 会社勤めと個人事業とを比較してみると、会社に所属することはまず楽である。仕事は与えられたものをやればいいし、給料は毎月手取り金額を振り込んでくれる。社会保険料だって半額負担してくれるし、税金の納付もすべてやってくれる。仕事だけやっていればいいわけであり、気づいていない人も多いが、何よりも楽である。個人事業者だとそうはいかない。取引先との交渉による仕事の確保、税金の計算と納付、国保の納付(会社で給料から引かれる保険料より高い)、後輩の面倒を見る必要はないが、仕事が途切れればその月は収入が0という事もあり得る。

 よく会社勤めに向いている、向いていないという事が言われるが、向き不向きの話ではなく、1人でやっていけるかいけないかの話だと思う。私自身は残念ながら1人ではやっていけない。父は印刷工だったが、のちに独立して個人事業者になった。腕が良かったとの事で、独立後も取引先からの受注は絶えることなく、同業者には夜逃げをせざるを得ない人もいる中、無事無借金で引退した。学生時代は1人工場で黙々と印刷機を回す父を見て、自分はやりたくないと思ったが、就職して世の中を知って改めて凄いなと感心した。私にはとてもできないことである。

 私にはとうてい個人事業者として1人でやっていく自信はない。まぁ、前職の不動産業時代は、個人的にお金を集めて不動産に投資し、会社を作ればサラリーマンと二足の草鞋も可能だなと思ったが、本格的に不動産投資で利益を得ようと思ったら、管理会社に任せっ放しという事ではダメで、結局両立は難しいと判断した。それでも両立ではなく独立してとなれば、できないこともなかったが、正直リスクを取ってまでやるかと言われればそこまでの覚悟はなかった。リスクの海を泳ぎ切るのは精神的にキツイと思う。

 会社勤めしかできない自分ではあるが、会社もまた人を必要としているわけであり、ならばより必要とされる人間になるしかない。考えてみれば取締役というのも不安定な立場である。ある日突然解雇されればそれまでである。従業員なら不当解雇で訴える道はあるが、取締役にはない。雇用保険にも入れないから失業給付ももらえない。事実、前職では社長に裏切られ、首にされたが(取締役の地位を守るという点では)どうにもできなかった(代わりに関連会社を合法的に乗っ取ってそれなりの退職金を手にしたが・・・)。

 幸い、今の会社でも社員で入社したあと、働きを認めていただいて取締役にしていただいた。身分は危うくなったが、裁量と収入は増えている。いつ何時首を切られるかわからない不安定な立場であるが、身を守るには実績で示すしかない。自分ではよくやっていると思っていても、まわりがそう思っているかはわからない。「評価は他人が下したものが正しい」とは故野村監督の言葉であるが、コミュニケーションを取りながら自分の評価を確認しつつ、実績を積み上げていくしかない。

 個人事業者ほどではないが、気持ち的には個人事業者に負けじとリスクの海を泳いでいる意識はある。「会社に自営業に来ていると思いなさい」とはユニクロの柳井社長の言葉ではあるが、自分もそれを意識したいと思う。これからも慢心することなく、個人事業をしている意識を持って働きたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  財務省亡国論 - 高橋洋一  豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) - 三島 由紀夫  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年2月1日日曜日

不運な運勢にあって

 運勢のようなものは本当に当てになるのだろうかと、この頃ふと思う。人生においてはいい時ばかりではなく、悪い時もある。何をしてもうまくいかない時というのもあるだろう。最近、私はそんな人生のトンネルに入ってしまっているような気がする。妻と別居して実家に戻って以来、仕事においても主として社内の人間関係で思うようにいかず、何となくこれでいいのだろうかというモヤモヤ感に包まれている。順調に行っている時には感じない焦燥感のようなものと言えるだろうか。

 もともと私は占いのようなものは信じていない。まぁ、何か迷った時の参考にはなると思う。ただ、それは信じるというよりも、迷った時にコインの裏表で決めるのと同じ扱いである。生年月日や星座や血液型や手相やカードなどで人間の何がわかるのかと思う。長い年月の間に、そういうものに何らかの関連性を見出して生まれてきたものではあるのだろうが、何か根拠があるようなものではなく、「当たるも八卦」の世界であると思っている。したがって、いわゆる「運勢」のようなものも信じてはいない。

 人生にいい時もあれば悪い時もあるのは事実だろう。だけどそれは運勢ではなく、「たまたま」である。いい事と悪い事がバランスよく起こるというものではなく、たまたま好ましくない事が続いただけである。しかし、我々はそこにどうしても意味を見出したくなる。何か好ましからざる事をした報いではないかとか、何かの祟りではないかとか。あるいは運勢が悪いとか。そういうもののせいにすれば、「仕方がない」と諦められるし、あるいはお祓いをしようという事になるかもしれない。

 今、不運の渦中にあるとしたら、それは過去の「選択」の結果によるものだろう。例えば私の場合、それは別居という選択をした事によるものかもしれない。しかし、そうだとしてもその選択以外にあり得なかったので、その選択をしなければ良かったとは思わない。その選択の結果だとするならば、甘んじて受け入れるしかない。会社内の人間関係のゴタゴタにしても、それは私の行動という選択の結果であるが、それは意図的に相手と対立するためのものではなく、意識せざる結果であり防ぎようがない。

 私も常日頃、いい上司であり、いい部下であり、いい同僚でありたいと考えている。だから言葉遣いも部下に対してでさえ丁寧にしているし、ハラスメントには特に意識して避けているからその問題はない。しかし、それでもモノの言い方であったり、やり方であったり、報連相が足りていないと思われたりするところから批判を受けている。知らず知らずのうちに信頼度が下がってしまったのである。残念であるが、起こってしまった事はどうにもならない。この後、もっと注意深く行動して信頼回復に努めるしかない。

 病気に関しては意外中の意外であったが、人間である以上ずっと完全な健康体というわけにもいかず、これもまた仕方がない。同僚の中には私より若いのに癌の再発を繰り返している者もいる。神はサイコロを振らないとアインシュタインは言ったが、サイコロを振っているとしか思えないこともある。人間それぞれの持って生まれた細胞の抵抗力なのかはわからないが、彼に比べればまだまだマシである。考えてみれば、そこもすべて運勢などという者ではなく、己の考え方、心の持ち方次第なのかもしれない。

 「人は不幸を数え上げる事を好み、喜びを数え上げる事をしない」とはドストエフスキーの言葉であるが、今回続いている不運の中にも気が付けば幸運も含まれている。例えればトーストを床に落としてしまったが、バターを塗っている部分が上になって落ちたようなものかもしれない。落とした事を嘆くよりも、バターを塗った部分が上になった事を喜べるようにしたい。そうした心の持ち方が、不運の渦中を耐え抜く力なのかもしれない。悪い運勢を嘆くのではなく、「やまない雨はない」と考えるようにしたい。そういう考え方で、今を頑張りたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  財務省亡国論 - 高橋洋一  豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) - 三島 由紀夫  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年1月28日水曜日

転職について

 私の勤める会社では、常時人材を募集しているが、先日は某社主催の転職フェアに出展した。採用目的の会社が多数出展し、転職希望者が出展企業を見て回っていいところがあれば転職しようというものである。需要と供給とをマッチングさせるサービスである。それぞれの思惑もあるのだろうが、実に多くの企業が出店し、転職希望者が来場しているものだと関心する。昔は終身雇用が当たり前であったが、今は転職も一般的になってきている。私自身、過去に2回転職しているが転職も場合によっては悪くないと思うので、今の風潮はwelcomeであると考えている。ただ、転職はエネルギーがいる事なので、できることなら避けたいと個人的には思う。

 今回は転職する方ではなく、受け入れる方であり、当然ながらより良い方を採用したいと思っての出展。ただ、応募してくる人は千差万別、こちらの希望通りの人ばかりではない。転職フェアで我が社のブースにきていただいた人と先日個別に面接をした。某大手企業を定年退職し、再雇用制度はあったものの、大幅に給料が下がるという理由で転職活動をされている方である。労働年齢も上がってきている昨今、60歳でリタイアというのも難しいだろう。私も同年代なのでよくわかる。ただ、その方のスキルは元いた企業内に特化したスキルで、年齢的にも採用は難しいという判断になった。

 私も自分の経験からして、大手企業を定年退職してから改めて再就職先を探すのはなかなか難しいと思う。何か特別なスキルや経験があれば別であるが、そうでないと採用する方にメリットがない。それまでもらっていた給料を念頭に大幅に下げられたからと言って、「やってられるか」と外に転地を求める気持ちはわかるが、「武器」がないとプライドには値がつかないのである。私の場合は2回ともやむなくの転職であったが、それでもまだ「期限」が残っていたのが多少なりとも良かったのだと思う。

 高年齢の場合は、マネジメントスキルや外部にもわかる実績がないと一般的な転職市場では厳しい見方しかされないだろう。私は50歳でのやむにやまれぬ転職であったが、そのあたりの自覚はしっかり持っていて、高望みすることはなく、最後は知人の社長が経営する会社に転がりこんだ。業績改善には多大な貢献をしたが、最終的にはその社長に裏切られ、会社を売却されて路頭に迷うことになった。そこで頼ったのは「知人」である。ビズリーチなど高年齢者には役に立たない。

 幸い、今の会社で評価されて、ありがたいことに年収もほぼ銀行員時代に戻っている。いままでやってきたことが開花している感があり、仕事の満足度も高い。ただ、定年を待って退職金をもらって「期限」を過ぎてから転職しようとしていたら、たぶん今の会社は難しかったと思う。大企業に勤めている人は、あまり天狗にならず身の丈を低めに見積もった方がいいと思う。誰でも自己評価は高くなるものであるが、周りはそれほど高くは見ていない。また、先の人は合間合間に「プライド」が垣間見えた。大企業に勤めていたのはわかるが、それを入社して振りかざされても困ると感じたのである。

 また、転職回数が気になる人もいる。転職が一般的になってきたとは言え、何度も転職をしている人はやはり採用に二の足を踏む。「すぐに転職してしまうのでは」と思うと、積極的に採用しにくい。特に転職して1年も経たないうちにまた転職となると、「なんで?」と思う。もちろん、「当初の説明と違う」などやむにやまれぬ事情もあるだろう。まず事情を聞いてから判断しようと思う。ただ、それに転職回数が加わると事情を聞くまでもないと思ってしまう。何度も転職をしているなら、そのあたりは十分確認する経験値が備わっているはずである。それはただ単に「辛抱が足りないだけ」ではないかと思えてしまう。

 我が社は新卒採用に加えて中途採用も行っているが、中途採用は必要かと言えば必要である。それは他社で基礎訓練を受けており、その必要がなく「明日から働ける」即戦力という意味が強いが、「他社での経験」も大きい。我が社とは違う環境で働いた経験というのは、我が社に新しい風をもたらすところがある。新卒で入ってずっと働いている「純粋培養」の社員はもちろんありがたいが、「外の空気」も交じり合って新しい文化になったりする。私自身も「外から来た人間」であるし、気が付けば社長以外の役員は全員「外から来た人間」である。それが変革をもたらしているのは事実である。

 振り返ってみれば転職は大事な人生戦略である。できればステップアップしていくのが望ましいが、私の場合は「余命を保つ」タイプである。定年を機に年収ダウンすることなく、銀行員時代に近い年収を維持できている。転職をしやすい時代になったからといって安易に「嫌だから」辞めるのではなく、「こうなりたい」という目的があってのものがいいだろう。それは受け入れる側の方からも望む事である。「逃げ出す転職」をすべて否定するわけではないが、「求める転職」の方がはるかに望ましいのである。

 転職をする理由は人それぞれであると思うが、相手もあることであり、「自分が高く売れるのか」は意識したいところ。そういう自分も今の会社が最高に評価してくれるところは間違いなく、他を考えずに今の会社に徹底的に貢献したいと考えている。それが自分を守る最高の方法でもあると思うのである・・・


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【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝 財務省亡国論 - 高橋洋一





2026年1月25日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その21)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、苗而不秀者有矣夫。秀而不實者有矣夫。
【読み下し】
いわく、なえにしてひいでざるものるかな。ひいでてみのらざるものるかな。
【訳】
先師がいわれた。「苗にはなっても、花が咲かないものがある。花は咲いても実を結ばないものがある」
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 作物を育てるにあたり、種から目が出て苗になり、それをさらに育ててやがて花が咲き、実を結んで収穫となる。種類にもよるが、ざっと作物を育てるにあたり期待されている流れだろう。それがここでは順調に行くものだけではなく、うまくいかないものもあるとする。曰く、芽が出ないものもあるだろうし、芽が出て苗になっても花が咲かないものもあり、花が咲いても実を結ばないものもあると。おそらくこれは人に例えたものだろうと思う。そしてそれはその通りだと思う。

 世のママさんたちは、子供が生まれるとやがて教育に敏感になっていく。極端になると幼稚園からお受験コースまっしぐらで我が子を塾に通わせる。とにかく将来いい就職先に就くには、いい大学、いい高校、いい中学、いい小学校、そしていい幼稚園というわけで、こんなママに鞭打たれて塾通いする子は可哀想だなと思う。そして親はいい就職先に就いたらそれで満足して終わり。我が子が幸せな人生を歩めるものと思うのだろう。そして誰彼ともなく、我が子自慢をするのである。

 しかし、花が咲かないものもあれば、花は咲いても実を結ばないものもある。いい高校に行ったはいいが、それで心を病んでごく普通の大学に行くことになったりする。就職までは成功しても、会社の中で人間関係がうまくいかず、出世路線からは外れてしまう。それならまだいいが、鬱になって休職したり、最悪なのは不祥事を起こして解雇なんてこともある。顧客の貸金庫から金品を盗んだ銀行員や、顧客からお金を詐取した外資系保険会社の社員のようになったら最悪である。

 そうならないためには何よりも心の教育が必要だと思うが、残念ながら我が子には思うようにできなかった。妻の意見に勝てず、2人の子供はずっと塾通いであった。娘は高校までは順調であったが、途中で学校へ行く足が鈍り、不登校にはならなかったものの、卒業はスレスレ。大学は1年目は見送り、2年目でなんとか普通のレベルのところに潜り込んだ。就職は本人も頑張って地方公務員になった。一流ではなくとも元気に働いているので父親としては大満足である。ただ、今の就職先だったら小学校から塾になど通わなくても普通にしていれば就職できたと思う。

 高校でコースから外れたのが燃え尽き症候群なのか学校が合わなかったのか、父親には何も語ってくれないのでわからない。結果論だが、塾へなど通わずに、友達と遊んでいた方が良かったのではないかと思う。まぁ女の子は勉強に興味を持てないとオシャレの方に走ってオツムの軽やかな女性になる可能性もあるのでそこは難しい。何が花で何が実なのかは難しいが、妻が思い描いていた娘の人生でないことは確かだと思う。それでも私からすればなんの不満もない。

 息子は幸い一流コースを進んでいる。それはそれで良いが、だからといっていい就職先に入り、いい人生を歩める保証はない。私としてはむしろこれから息子と時間をとっていろいろな話をしてあげたいと思う。それは出世論などではなく(そんな話をしてくれと言われても困ってしまう)、どうしたら心を守り、勝てずとも負けない人生を歩めるかである。私が歩んできたような道であり、少なくとも負けなければ大きな不幸には陥らないと思う(私もまだこの先はどうなるかわからないから確実な話ではない)。

 花でなくとも、咲かなかったり実を結ばなかったりはあるもので、大事なのはそれはもうダメだではなく、その時はどうするかだろう。転んでも起きることができれば問題ない。花も咲かずに実も結ばない雑草でも逞しく生えて子孫繁栄している。それで十分だと思う。華やかな明るい人生ももちろんいいが、多少日が翳っていても太く長く続く道であれば十分である。一隅を照らす存在であればいいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年1月22日木曜日

自分の中の自分

 いつ頃からか、人に何かを「相談」するという事がなくなってしまった。と言っても専門的な話についてはいろいろと専門家に相談している。裁判をやった時は当然ながら知人の弁護士に相談しながら訴訟をこなし、医師にもいろいろと相談するし、わからないことは素直に教えてもらうようにしている。「相談」というのは「お悩み系相談」である。「どうしたらいい?」と悩み、誰かに相談するという「相談」である。この手の話については、もちろん悩みがないという事ではない。「あるけど相談に至らない」という表現の方が正しいかもしれない。

 以前、驚いたことに転職相談を受けたことがある。大きな病院で働く看護師で、先生の独立に伴い誘われたがどうしようというものであった。なんで私に相談してきたのかいまだに理由はわからない。ただ、その時は「その先生と一緒に働きたいかどうか」で決めたらいいと回答した。看護師ならいくらでもつぶしはきくし、なぜためらうのかよくわからなかった。そもそも迷うということは、メリットとデメリットが拮抗しているということ。つまりメリットもあればデメリットもある。だから悩む。なら割り切るしかない。

 誘われたということはその先生とは良い関係(男女関係という意味ではない)にあるという事、迷うという事は「行きたい」という気持ちと「行って大丈夫か」という気持ちが相対峙しているということ。なら「行ってダメだった場合」を想像してそれに耐えきれない(めちゃくちゃ後悔する)というならやめればいいし、「あの先生と一緒にやってダメなら仕方がない」と諦められるならやればいいとそんなことを答えた。今聞かれても、誰に聞かれても同じ回答をするだろう。

 それはともかく、私の場合、どうするべきかと悩んだ時、自分の中で客観的な人生相談が始まる。「今こういう状態で、~」と私の中で、誰かに相談するかのように私が説明を始める。するとそれを聞いていたもう一人の私がそれに対して回答を与え始める。かくして私の中で悩みに対する回答が出てきてしまう。そしてその答えに満足するので、あらためて誰かに同じ相談をする必要を感じなくなってしまうのである。自問自答であるが、ちょっと違う。正確に言えば、自分Aが問い、自分Bが答えるのであり、A≠Bなのである。

 そう言えば昔、『神との対話』という本を読んだ。心に浮かんだ感情を紙に書いていくと、手が勝手に動いて神が語りだしたという内容である。それが神なのかどうかはわからないが、妙に納得した。私が頭の中でやっているのと同じであると思う。紙に書くか頭の中で自分Bに向けて説明するかの違いだけである。著者が神と呼んでいるものを私は自分Bと言っているだけのように思う。どちらにしても一度自分を客観化することにより、自分が悩みと切り離され、第三者の立場で答えが見えてくるということなのだろうと思う。

 『神との対話』を読んだ時、素直に自分にも誰にでもできると思った。答えを書き出すという作業の中で、同時にそれを読みながら答える自分が(神でもいいと思うが)出てくる。もしも将来、自分が死に瀕した時、子供には「何か迷うことが出てきたら心の中でお父さんに問いかけなさい、その場で答えてあげるから」と伝えようと思った。心に浮かんだ言葉が私の言葉だと。私が今自分でやっていることを理解しにくければ、心の中で亡き父に問えば答えてくれるということで代用できるだろうと思う。

 これが神なのかどうかはわからないが、単純に自分を客観化することによって、他人から見た自分の姿が見えることが答えなのではないかと思う。他人のことはよくわかるのに自分のことはわからないというのはよくあること、また「自分のことは棚に上げて」というのも同じ理屈ではないかと思う。母は事あるごとに、父に「いらないものを捨てて整理しろ」と言っている。父は「いらないものはない」と答えている。私が母に同じことを言うと、母も「いらないものはない」と答える。母の方がはるかに持っているものは多いのに、である。笑い話である。

 「人のふり見て我がふり直せ」という諺がある。これも理屈は似たようなものだろう。他人というのはよく見えるもの。そして自分というのは見えないもの。顔はどうしても鏡がなければ見えないが、悩みは客観視することができる。それによって他人なら見えるのに自分のは見えない解決策が見えたりする。自分はそれができているのだろう。もっとも、いくら自分を客観視できたところで、肝心の問題解決力がなければそもそも相談しても答えられないことは当然である。問題解決力はそれゆえに鍛えておきたいところである。これからも自分の中でお悩み解決をやっていけるようにしたいと思うのである・・・



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【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年1月18日日曜日

歯医者にて

 先週末、久しぶりに歯医者に行った。夕食の最中、突然昔詰めた銀歯が取れてしまったためである。歯医者に行くのは久し振りで、たぶん30年近く前に行ったのが最後だと思う。個人的に医者自体あまり好きではないが、中でも歯医者はその最筆頭であり、最も行きたくない医者である。迷った末に、「詰めるだけなら大丈夫だろう」と思い切って予約を取ったのである。30年近く前と言ってもその時は親知らずを抜いた時で、虫歯の治療では小学生の時が最後である。今回取れたのもその時のもの。50年近く前の詰め物である。

 予約したのは職場の近くの医者。それでもとネットで「名医」と検索して探すところが自分でもいじらしいと思う。ちなみに、親知らずを抜いた時は、最初の時が一番大変でこりごりしてやはり本屋で「名医」を探して行ったのである。そうしたら噂にたがわず簡単に抜いてくれて感動的であった。ただ、それは抜きやすい上の親知らずということもあったが、下の歯もスムーズに抜いてくれた。その時、虫歯も見つかったのだが、「痛くなったらくればいいよ」と言っていただいた。その考え方も「名医」に相応しいと思う。

 さて今回であるが、受付で渡されたのがタブレット。そこにいろいろと情報を入力していく。情報を手軽に管理するという意味では現代的である。内部は白で統一されていて清潔感あふれている。完全予約制と謳っており、患者は少ない。必要以上に待たされることもなく、見込んでいた1時間もかからずに終わった。予約はかなり埋まっていたが、合理的なシステムだと思う。担当は若い女医さんで、若干の不安が頭をもたげる。よく観察すれば何人も医師がいる。「名医」は嘘だなと思うももう遅い。

 ネットの情報も玉石混交であり、よく「◯◯ベスト10」などがある。地方に出張に行った時にお土産やラーメン屋などを検索する時に必ず出てくる。こういうサイトはアクセスを稼ぐ目的だったりするから気をつけないといけない。お土産やラーメン屋ならともかく、「名医」は何を持ってそう判断しているのかわからない。住所だけで掲載しているのかもしれない。1人医師の歯科医ならまだしも、何人も医師がいる医院では全員が名医というわけではないだろう。「痛くなったらくればいいよ」というような医師こそが名医だと個人的には思うが、そんな医師はいるのだろうか。

 さて、若い女医さんだが、軽く診たあと、レントゲンを撮りましょうという。なんで歯に詰め物をするだけなのにと思うも、そこは指示に従う。そのデータに基づいて丁寧に説明してくれるのだが、気になった他の歯の状況も見てくれたようである。穿った見方をすればそこで悪い歯を見つけて治療を促すのかと言えなくもない。そして治療。なぜか麻酔をしてくれる。それも注射器ではなく、ハンドガンのようなタイプのもの。「痛くない」というのを徹底しているのだろうか。

 今は銀ではなくプラスチックのようである。なぜプラスチックになったのか、そもそもなぜ銀だったのかは興味深いところである。医療も進歩しているのでプラスチックもいいのだろう。その場で簡単に終わったので加工のしやすさというところもあるのかもしれない。例によってドリルで削られたが、記憶に残っているような嫌な音をけたたましく立てるものではなく、静かであった。麻酔のせいか痛みもそれほどでもなく、なんとか治療も無事終わった。

 終わってホッとしていると、女医さんに歯石が溜まっていますと告げられる。そういえば治療中、関係のないところをいじってくれていた。「酷かったところをとりあえず綺麗にした」ということであった。確かにそれも大事なのかもしれない。やってもいいかなと思ったが、虫歯の存在を指摘された。そして「次に治療しましょう」とのこと。それはあの名医が「痛くなったらくればいいよ」と言ってくれたところ。まだ痛くならないから放置しているのである。

 医師として間違ってはいないが、正解ではないと思う。「論語と算盤」ではないが、「医師と算盤」なのかもしれない。丁寧でいい先生だとは思うが、まだ「名医」の域には達していないなと1人思う。個人的にはこれからもあの名医の先生の言葉に従おうと思うのである・・・



Rubén GonzálezによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子 潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史



2026年1月15日木曜日

あぁ、コミュニケーション!

 コミュニケーションを取るのは難しいとつくづく思う。今に始まったことではないが、還暦過ぎてそれなりに人生経験を積んでいてもいまだにコミュニケーションには悩まされる。それは家族でもそうだし、仕事でも同様。コミュニケーションがうまくいかず、互いの関係がギクシャクすると、それは何をするにしても余計な神経を使うことになり、煩わしいことこの上ない。子供の頃は引っ込み思案で人見知りで、それが素の自分だと思っているが、だからよけい他人とのコミュニケーションが下手なのかもしれない。

 言葉も便利なようで不便に働く。意図した通りに伝わってくれればいいが、そうでないことはよくある。そんなつもりはないのに別の意図で捉えられるというのは今でも苦しむところである。たとえば「情けは人の為ならず」という諺がある。本来の意味は、「他人に情けをかければ、それは巡り巡って自分のためになることもあり、だから情けをかけるべき」ということだろうが、「情けをかけてもそれはその人のためにならず、だから情けをかけない方がいい」と誤解する人もいる。

 表面上の言葉だけを見れば後者の解釈も成り立つわけで、だからこそ表面的に捉えただけの人は誤解するのである。例えばかつて読んだ本の中に、「2人の囚人が監獄の窓から外を見上げた。1人は薄汚れた鉄格子を、もう1人は輝く月を見た」という言葉があった。これをどう解釈するか。鉄格子は現実を、輝く月は理想または夢を指すということはわかる。理想よりも目の前の冷たい現実を重視するのか、どんな境地にあっても常に理想を胸に抱くのか、どちらの解釈も成り立つ。

 これはこちらの解釈だと決められるのは本の著者だけだろう。そして本の著者は、現実に囚われて理想を見失うのではなく、常に星を見ろという意味で使っていたと記憶している。それはそれで自分の主張の補足として使った言葉だろうし、悪いとは思わない。しかし、現実を見ずに理想ばかり唱えるというのも愚かなことである。理想もいいが、現実問題として目の前の鉄格子(=問題)を何とかしないといけないわけであり、まずはそこに注力するのは当然である。2人の囚人のモノの見方、考え方に優劣はつけられない。

 かように著者が意図した意味とは違う解釈をされるわけである。先の諺のようにそれが1人歩きしたとしても、本来の意図をよく考えれば「情けをかけるな」という解釈はおかしいなと気づく。しかし、2人の囚人の例はどちらもそれなりに正しい。かく言う私もこの本を読んだのは随分昔であり、何となく意味を理解しているが、時間が経つとどちらの解釈だったかわからなくなってもおかしくはない。

 こうしたことが日常のさまざまな場面で起こる。何気なく言ったことが曲解される。それが曲解されたとわかれば訂正なり説明なりができるが、人の頭の中は見えない。こちらが意図した通りに伝わっていると思い込んでいたら、2人の間に見えない溝がいつしか深まっていくことになる。最近、社内で何となくギクシャク感を感じる人がいる。もしかしたら意図せぬ誤解が生じているのかもしれない。しかし、確たる証拠がないのでなんとも言えない。

 コミュニケーションには「誤解」もあるが、「言いにくい」という事もある。とあるベテランの方は、事あるごとに他人の批判を繰り返している。その批判は的外れではなく、正しい批判であると思う。されどそれを批判して終わっていたら何にもならない。かくあるべしという道を示し、改善を図るように働きかけてほしいと常々思っている。ベテランなんだし。だが、それを直接ご本人に言うのは憚られるところがある。相手がそれなりの地位にいるからなおさらである。

 それはもしかしたら私自身にも当てはまるのかもしれない。何となく違和感を感じているが、直接言いにくいので言えないでいるということもあるかもしれない。そうしたことがあるなら遠慮なく言ってほしいと思うが、相手からすれば「言えるなら言っている」というところかもしれない。それが批判であればあまり聞きたくはないが、知らずにいる方がもっと悪い。最近、とあるところから私に対する不満の声が聞こえてきた。その不満はもっともなところであり、私の対応が悪かったと反省しているところである。そうした目に見えない不満が伝わってくれば改善もできる。不満に対しては真摯に耳を傾けたいと思っている。

 コミュニケーションが難しいのは確かであるが、だからと言って忌避するのではなく、前向きに受け止めていきたい。まだまだ修業が足りないと嫌になるくらい実感する。輝く星を見上げながら、目の前の鉄格子に知恵を絞る。そんな態度でいたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子  潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年1月11日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その20)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子謂顏淵曰、惜乎、吾見其進也。未見其止也。
【読み下し】
顔淵がんえんいていわく、しいかな、われすすむをるなり。いまとどまるをざるなり。
【訳】
先師が顔淵のことをこういわれた。「惜しい人物だった。私は彼が進んでいるところは見たが、彼が止まっているところを見たことがなかったのだ」

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 「惜しい人物だった」という表現から、この時点で顔淵という人物は亡くなっていることがわかる。亡くなった人に対しては、日本人的には悪く言わないものであるが、中国の当時の状況はわからないので何とも言えない。ただ、孔子が褒めていることは間違いないことであり、また、たびたび論語にも登場するくらいなので、孔子に負けず劣らず立派な人物であったのだろう。「進んでいるところは見たが、止まっているところを見たことがない」という表現も何となくではあるが、よくわかる気がする。

 「進んでいる」と言われて連想するのは、「すぐに動く」ということ。仕事でも何か言われてすぐ動く人とそうでない人とがいる。我が社の役員会でも、とある役員は会議で話題になると、すぐに動いている。それは資料を集めたり調べたりすることだったり、ざっと計画を作って意見を求めてきたり、AIを駆使してパワポで資料を作ってみんなに提示したりである。特に社長からの意見に対しては敏感に反応している。私にはないスピード感で、最近では私も負けじと同じように動くようにしている。

 一方、これに対するのがなかなか動かない人である。何か指示されると期限を確認してくる。そして期限ギリギリになって提出してくる。もちろん、手元の仕事もあるだろうから、期限を睨みながら手元の仕事との優先度合いを確認しつつ、期限までにやるのは悪いことではない。しかし、それほど忙しくはないであろうと思われる人物が、できる限り先延ばししているのが見え見えというケースがある。おそらく、あくせく仕事をしたくはないのであろう。なるべく先送りしようとしているように思われる。

 最近がっかりしたことの一つは、我が社でも新規事業としてある分野の入札を進めていこうとしていることに対して、現場の責任者から今期スタートした中期計画(3ヵ年計画)において、2年目の後半からスタートするとしていることであった。なぜ、2年目の後半なのか。それは特に理由もなく、単なる先送りである。おそらく1年目は何もしないのであろう。2年目の後半スタートだったとしても、1年目のスタートに何をやり、それから何か体制整備や人員トレーニングなどの準備があるというのならわかるが、そういうものは何もない。単なる先送りである。

 また、今期から主要重点先として数社の取引先をピックアップした。当社としても今期力を入れて売り上げを伸ばしていこうという先である。しかし、期初の10月の初めに出てきた計画は、11月に挨拶に行くというもの。挨拶ならなぜ10月に行かないのかと問うと、「手ぶらで行くわけにも行かないので計画を立てている」という。それはそれでもっともらしく聞こえるが、私であればまず挨拶に行き、そこで相手の抱えている問題や課題を聞き出し、次の訪問では当社がそれに対して何ができるかを提案するだろう。

 私は財務・人事採用担当であり、なかなか現場のことには口出し難いのであるが、それでも考え方がおかしいと伝えている。しかしながら、結局、挨拶は延ばし延ばしになり、ようやく初回が終わったのは12月で、先によっては今月新年の挨拶を兼ねていくということになっている。何ともはやのスピード感である。孔子の言い方に倣えば、「止まっている」と言えると思う。ニデックの「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」ではないが、前へ進むには「すぐやる」精神は重要である。

 実際の顔淵がどんな人物だったのかは知る由もないが、我が社にいたらこんな働き方をしていたのではないかと想像できるところはある。私もまだまだこの会社で存在感を示さないといけない。私も「止まっているところは見たことがない」と言われるようにしたいと改めて思うのである・・・


Kateřina HartlováによるPixabayからの画像


【今週の読書】

全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子 潮音 第一巻 (文春e-book) - 宮本 輝 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史

2026年1月7日水曜日

米軍によるベネズエラ攻撃に思う

トランプ大統領がベネズエラ攻撃「成功裏に完遂した」 マドゥロ大統領と夫人を拘束し国外へ連行したとも
Yahoo!ニュース 1/3(土) 18:42配信
アメリカのトランプ大統領は日本時間3日午後6時すぎに自身のSNSを更新し、ベネズエラの攻撃を「成功裏に完遂した」と発表し、マドゥロ大統領と夫人を拘束した上でベネズエラ国外に連れ出したと発表しました。********************************************************************************************************

 新春早々なかなか刺激的なニュースに触れた。米軍がベネズエラを攻撃し、なんとベネズエラの大統領を拘束して米国内に移送したという。これから裁判にかけるそうで、随分と大胆なことをやるものだと思う。攻撃理由は「アメリカ国内に海から流入する麻薬のほとんどがベネズエラから密輸されている」ということだそうで、これはたぶん建前で本当の狙いは別にあるのだろう。「大量破壊兵器を隠している」としてイラクに侵攻した「前科」があるからなおさらである。麻薬の件は事実かもしれないが、それだけでここまでするとは素人目にも思えない。何か利権絡みの事情があるのだと思う。

 そもそもであるが、アメリカなら何をやっても許されるのかという気がする。これを仮に中国やロシアがやったならアメリカは大層な剣幕で反対するだろう。それに対し、アメリカに対してはおざなりの批判だけで、面と向かって対抗する国はない。それをいいことに、好き勝手やっている。国内の場合、公権力は証拠を上げて裁判所の許可を取って逮捕し、裁判にかけてその罪を問う。日本人であれば、日本人として国から保護される権利を得ると同時に法に従う義務がある。とは言え、何人も令状なしに身体を拘束される事はない。それは国内限定の話である。

 これが国外となると、話は違ってくる。国外では日本の国内法が適用されず、したがってどんな悪事であろうと、国外で行われたものに関しては手が出せない。それは原則どこの国でも同じである。その国の法律はその国の中だけでしか通用しない。今回、アメリカはベネズエラのマドゥロ大統領を拘束したが、その根拠はどこにもない。ましてや裁判となると、なぜアメリカの国内法でベネズエラの大統領を裁けるのかと問われたらその根拠はない。そもそも裁判は成立しない。それをやるというのはもはや筋書の決まった茶番でしかない。

 それで思い出されるのが東京裁判である。戦勝国が敗戦国を裁くというのも同じで、「人道に対する罪」というのを作り出し、事後法の禁止の原則にも反して、勝手に作って勝手に裁くものであった。裁判という形さえ取れば、公平に裁いたとでも言えると思っているのだろうか。アメリカがどんなに自らの正当性を主張しようと、そこに正義はない。ジャイアンに誰も文句が言えないのと同じである。もっともな理由をつけて軍事行動を起こして領土分取り合戦をやっていた帝国主義の時代があったが、世界でアメリカだけがまだその精神で行動している。

 今回の軍事作戦の真の理由であるが、素人にはわからない。いずれそのうち情報が暴露されて伝わってくるのかもしれない。大統領の拘束に終わらず、トランプ大統領は「ベネズエラの安全で適切な政権交代が完了するまで、われわれはベネズエラに駐留し、国を運営する」との意向を明らかにしているから、ベネズエラを自分たちの意に添うように動かすつもりなのだろう。「気に食わない奴はぶん殴って言うことを聞かせる」的な行動で、腕力にモノを言わせるのは見ていていい気はしない。

 力を持つ者はそれに奢ってはいけないと思う。最近、部下から手厳しい意見をもらった。私には私なりの考えがあっての事だが、それをしっかり説明したところ、そうした正論で責められると何も言えなくなるとのこと。仕事であればきちんと考え、正論で議論するのは当然だと思う。私にはそういう正論に基づく意見もあるしそれを通す権限もある。しかし、今回はあえて部下の意見を入れて譲る事にした。正論で通せても部下の満足度は得られない。さらにそれはどうしても私が守らなければならない正論ではない。守るべき正論のためにも、ここは譲った方が部下も満足して働いてくれると考えたのである。

 それが良いのか悪いのかはわからないが、権限だけで意見を通すのは避けようと思っている。自分の意見は意見として相手の意見も聞き、その損得も考えて総合的に譲るべきところは譲ろうと思う。仕事で「腕力」に当たるのは地位に基づく権限だと思うが、それを振り回すのではなく、相手を説得するのではなく納得させられるように振舞いたいと考えている。アメリカの行動を見ていると、その裏に国益追及の精神があるのだろうが、醜いものにしか見えない。自分も役員として自信を持って行動しているが、それがみんなに支持されているかは意識しないといけないと思っている。

 「奢る平家は久しからず」。他人のふり見て我がふり直せではないが、自分自身は大丈夫だろうかと常に身を引き締めていこうと思うのである・・・


GobbleGGによるPixabayからの画像


【本日の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  日航123便墜落事件 四十年の真実 - 青山透子  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義