日頃あれこれ思う事どもを思うがまま自由に綴る
人は誰しも同じであるが、他人と必ずしも意思疎通ができるわけではない。考え方も感じ方もそれぞれ違う。「そんなつもりはなかったのに」と思うことはしばしばある。大して利害関係が絡まない相手なら放置しておけばいいが、そうでないと厄介である。特に職場や時に家庭ではかなりのストレスになることが多い。相手から自分に対する悪意すら感じる場合もあり、どういう対応を取るかはなかなか難しい。まともに対立しても日々顔を合わす間柄や仕事をしていかないといけない中ではどうしても堪える必要が出てきたりする。考え方の違いもしかりである。
昔と違い、今はパワハラやセクハラが大きく問題となる時代であり、私もそこは神経を使っている。部下と言えども丁寧に接しているのは当然である。それでも何が悪いのか、相手の機嫌を損ねてしまっている。とある関連会社の役員からは理不尽な対応を受けている。一連の経緯について報告していたにも関わらず、「聞いてない」と言われて「独断専行」のそしりを受けてしまっている。「聞いていない」というのは、言ってはいけない一言だと思っている私にしてみると、いかがなものかと思う。
それでも社内では社長の信頼を得ている長老であり、正面から対立するわけにもいかない。ぐっと堪えるしかない。それに何かと皮肉たっぷりな物言いをしてくる部下もいる。私も一応役員だし、そういうものの言い方はどうかと思ってしまうが、それを正面から主張しても対立を招くだけだし、よけい感情的な対立になるかもしれない。嫌味な言い方には気づかない振りをして受け流しているが、はらわたはかなり温度上昇中である。ただ、一方でそれを冷静に受け止めている自分もいる。
相手はなぜそんな対応をするのだろうかと考える。世の中の人はすべて自分が人生の主人公であり、すべての自分の行動は正義であり、善である。相手には相手の正義があり、そこから見ると私の方にも何か(相手から見た)非があるのだろう。家庭でもいつからか妻が私に対して冷たい態度を取るようになっていたが、たぶん何か気に食わないことがあったのだろうが、私にはその自覚がない。コミュニケーション不足とも言えるが、時間が経つにつれて修正をしようという気も起こらなくなってしまった。このまま老後を迎えるより1人になった方がいいと判断して家を出たのである。
自分にわからないというのがなかなか厄介である。わかっていてもこちらにはこちらの理由があるというケースもあるかもしれない。お互いに相手の考えがわからない中、一方的に思い込むという事もある。無用な対立を回避するためにも、報連相と言われるコミュニケーションは大事だと思う。それに「私の方にも何か(相手から見た)非がある」という考え方も大事なように思う。自分が絶対に正しいと盲目的に思うのではなく、自分にも何か非があるのかもしれないと考えることによって、自分の行動を振り返ってみる契機になる。
それに相手の「悪意」(と思われる行為)に対し、まともに腹を立てて報復を考えると、心中穏やかにはいられない。そのことが心の中の多くを占め、不毛な争いへとつながる可能性もある。嫌味に嫌味で返してもそれで得られるのはさらなる相手の反感。それで何か得られるかと言えば、一時の報復感だけのように思う。特に職場では否応なく一緒に仕事をしないといけない。相手の不満を察知する「敏感力」も必要だが、相手の嫌味を受け流す「鈍感力」も必要であると思う(逆になると大変であるが・・・)。
それよりも大事なのは「自分がなすべきこと」であると思う。それがきちんとできていれば組織にとって必要な存在となり、我が身の安泰にもつながるというわけである。幸いなことに、長老も嫌味な部下も私の基本的な仕事の範囲ではそれほど関わり合う事もない。であれば淡々と接して自分の仕事をすればいいと思うし、そうするしかない。その他の事は何が自分の非かがわかるように努力はする程度にとどめておくほかはない。わからないものはわからないが、何かがあるのだろうと慎重に対応するのにとどめておく。
コミュニケーションの難しさを実感するのは今に始まったことではない。自分の気づかぬところで思わぬ反感を買っているのは心安くいられないところがある。あまり横柄に振舞っているつもりはないが、やり方、考え方の点で人と合わないところが出てきてしまうのだろう。それをくよくよ考えても仕方がない。自分のやるべきことをしっかりとやるだけ。そう自らに言い聞かせている。「堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え」とは徳川遺訓であるが、その通りだとつくづく思う。不必要に心を苛立たせることなく、やり過ごしていきたいと思うのである・・・
ダイヤモンド・オンラインの『従業員の不満投稿が多いブラック企業ランキング【2026年上半期・製造業ワースト18完全版】…三菱電機、日立、SUBARUの順位は?』という記事を目にした。何に不満を持つかは人それぞれであり、どこの企業であろうと不満のない企業などないと思うが、それでも内容的には興味があって目を通してみた。対象は製造業であり、我が社の属する情報通信業でないのはちょっと残念であるが、それでも見てみる価値はあると思う。
ランキングは、下記の通り。最近、「創業社長」と「2代目社長」との違いを感じることが多い。人は誰でも育ってきた環境が大きくモノを言う。それは経営者たる社長にも当てはまる事であると感じるのである。創業社長は、自らがスタートとなって、事業を切り開いてきた人物。どうやって売上を上げるのかを考え、それが軌道に乗れば人を雇い、組織を作って事業を拡大していく。常に0からのスタートであり、創意工夫の日々であろう。だから何か問題があれば自分の意思でそれを解決し、壁を突破していこうという意欲がある。ところが、2代目(以降)となると、様相が変わる。
2代目が社長に就任した時には、既に事業が軌道に乗っている。組織化されて人もいる。現場、営業、経理、総務など組織が出来上がっていて、新たに作り上げる必要がない。基本的に部下に任せることになり、結果報告を受けて次の指示を出すということになる。いわば「前例踏襲」とでも言うべきものだろうか。そうなると、経営環境に恵まれていれば問題ないが、そうでなければ停滞感が出てくる。必要なのは変化であるが、それができれば業績も伸びていく。2代目、3代目で業績が伸びる企業はこのタイプである。
私の前職の不動産会社は、お金持ちの父親が息子のためにお金を出して人を集めて、最初は工事会社としてスタートした。最初の頃は父親も会長として経営に関与し、社員が働いて事業は順調であった。ところが父親が亡くなって会社は失速する。社長である息子は基本的に部下任せ。文系の息子は現場の事がわからず、営業もわからない。ボンボンとして苦労せずにサラリーマンをやっていたが、働く能力を身につけておらず、やがて会社の経営は傾き、9年間で7期赤字という状態であった。
そんな会社に高校の後輩として請われて入社し、私が1から経営を立て直した。自ら考えて事業の先頭に立っていかに売上を上げるかを考えて改善を繰り返したのである。結果、6年連続で増収、累積損失は一掃し、最終年度は最高益を達成した(そしていきなり会社を売却されクビになった)。別の知り合いの会社は、2代目社長は経理畑出身。されどやはり現場の事がわからない。どうやって売上を上げたらよいかわからず、売上が低迷する中、得意の経費削減で危機を乗り越えようとしている。
企業の成長は何をもって図るかとすれば、基本は売上だろう。売上が伸びることで企業は成長する。そして企業を成長させるのは誰の仕事かと考えると、それはやはり経営の仕事。実際に動くのは現場だとしても、それを導くのは経営である。経費削減も大事だが、一番重要なのは売上である。低迷しているのなら、それはなぜか、どうしたら突破できるのか、それを考えるのは経営である。ところが、自ら道を切り開いてこなかった2代目にはそれができない。部下を叱ってみても部下だって手を抜いているわけではない。やきもきしても売り上げは伸びない。
創業社長と2代目社長の違いがそんな例に当てはまると、会社は厳しい。現場がわからなければどうすれば良いのか。私自身の経験からすれば、社内にあっては社員と対話し、社外にあっては同業者に話を聞いたり、本を読んだりして自ら道を探っていくことだろう。率先して取引先を開拓することだっていいだろう。経理出身でもそれはできるはず。それが自らの得意分野にこもってしまったら、誰が会社を引っ張るのだろう。現場の部長とでも言うのだろうか。「社長の仕事」は部下を叱ることではない。いかに動かして売上を上げるかである。
よく観ている『カンブリア宮殿』では、父親から継いだ企業を大きく伸ばした2代目(あるいはそれ以降)の経営者が登場する。みんな自らが主体となってどのように売上を伸ばしていくかを必死に考え、そして部下を叱咤激励して導いている。どんと椅子に座っていて売上が伸びていくなら世話はない。自ら道を切り開いた創業者と並ぶためには、2代目もまた自ら道を切り開く気概がないといけない。それでなければ真の経営者とは言えないと思う。
私はこの先経営者になることはないと思う。されどそういう気概は常にもっておきたいと思う。そしてそれを生かせる場を得ていきたいと思うのである・・・
平日は毎日6時に起きて、髭を剃ったりゴミの日にはゴミを出したりし、ヨーグルトの朝食を取りながら朝の読書をする。それから出勤。電車の中では主にビジネス系の本を読み、仕事をして帰りには主に小説を読みながら帰宅する。両親のために食事の支度をして一緒に食べ、それから寝るまでの間、自由時間を楽しむ。「判で押したような」と言えば言える毎日を送っている。若い頃はそんな毎日を送るのは耐え難く、常に何らかの変化を欲していたが、今はそういう毎日を愛おしく思う。
そんな毎日を「つまらない」と言われるかもしれない。言われてもそれに対する反論は持ち合わせていない。ならばそういう毎日を諦めているのかと言われればさにあらず。そういう「判で押した」毎日こそが大事だと思う。もちろん、それだけで終わっているならいつか耐えきれなくなるのかもしれない。しかし、週末は好きな映画を観たりラグビーをしたりと平日とは変化があるし、年に数回は温泉に行ったりしている。そういう至福の時間も持てている。それで十分だと思う。
その昔、一緒に働いていた同僚は、一日の仕事が終わると、「今日も良いことがなかった」とボヤいていた。しかし、「悪いことだってなかっただろうし、それでいいじゃないか」と私は毎日心の中で反論していた。どこに焦点を合わせるかという話かもしれないが、私はどちらかと言えば「コップに半分“も”水が入っている」と考える方であり、「良い事がない」よりも「悪い事がない」方を選ぶタイプである。なので何の心配もなく夜布団の中で目を瞑る事ができる平凡な日々をありがたく思う。
そんな私だが、過去に何度か不安で夜眠れない経験をしたことがある。不安とは誠に厄介なもので、「(悪い事態が)起こるかもしれない」という予想であるが、実際に起こっているわけではない。されど起こった時の状況を想像するだけで苦しくなるものである。起きている間中、その不安が心から離れない。何をしても集中できない。ようやく夜、眠りにつくが、不安で眼が冴えたり、せっかく眠れても不安な夢を見て夜中に目が覚めてしまう。私の性格からして誰にも辛い心中を打ち明けられない。
逃げ出したくても逃げる場所はなく、12年前は毎朝近所の神社に行き、頭を垂れて心の平安を得ようとした。神頼みは意味がないと常日頃考えているが、神社の厳粛な雰囲気が心を落ち着かせるという効果をもたらした。その間、ブログも中断している。そんな心境ではなかったのである。5年前はそこまで酷くなく、会社の事業展開のために銀行借入の連帯保証人になる事になり、万が一の時には財産を失う恐怖に震えた。それなのに突然の社長の裏切りで失業に瀕したわけで、連帯保証の恐怖と失業の恐怖とがダブルで襲ってきたのだった。それでも「神に祈れ、だが岸に向かって漕ぐ手は緩めるな」というロシアの格言の心境が多少の救いになっていたところがある。
そうした経験を経て思ったのは、人生至福の経験も大事だが、こういう不安に怯える日々は過ごしたくないという気持ちである。夜中に不安な気持ちが高ぶって目が覚める事ほど耐えがたいものはない。人生山あり谷ありと言われるが、山低くとも谷が浅いに越したことはない。そこに重きを置くがゆえに、何も起こらない平和で平凡な日々が愛おしいのである。もちろん、山は高い方がいいが、富士山でなくても高尾山くらいがいくつかあるほどで十分だと思う。今年の夏休みも万座温泉に行ってこられたし、それが何よりである。
人を羨めばキリがない。友人知人の中には私よりも金を稼いでいる者がいるし、頻繁に海外旅行に行ったり、高級車に乗ったり(個人的にはあまり高級車には興味はそそられない)、夫婦仲が良かったり(これはかなり羨ましい)しているのを見ると羨ましいと思う。自分もできるだけ欲望に沿うように生きたいと思うし、そのための努力はしたいが、だからと言って足元の平凡な1日1日を嘆くつもりはない。ほとんど記憶にも残らないようなこうした平凡な毎日こそがありがたいと思う。
こうした心境は、「勝つ事よりも負けない事」を重視するものかもしれない。負けなければいいという考え方は消極的かもしれないが、勝つ事よりも重要だと個人的には思う。それは弱者の戦略かもしれないが、生き残り戦略としては正しいものの一つである。6600万年前の生物の大量絶滅期に生き残ったのは強いものではなく、むしろ弱いものであったようだし、自分が弱者であるとは思わないが、人に羨ましがられる強者でなくてもいいと言うのが正直なところである。何よりも心の安定を維持していきたいし、そこに重きを置くのであれば、平凡な毎日はそれを満たしている。
いずれ海外旅行にも行こうと思う。国内でも石垣島には行きたいし、非日常の楽しみは追及していきたい。そしてそのためにも心穏やかに暮らせる毎日を大事にしたいと思う。平凡な日々を恥じることなく過ごしたいと思うのである・・・
昨年、群馬県立自然史博物館を訪問し、その流れで東京の国立科学博物館にも行こうと思っていたのだが、週末はラグビーと家事とに追われる日々を過ごしているうちに、何となく1年過ぎてしまった。そこで先週末に上野にある国立科学博物館に行ってきた。数えてみれば前回の訪問からは16年ぶり、通算3度目の訪問である。個人的には何度行っても飽きない場所であるし、何度でも行きたい場所であると思う。何やら特別展をやっていたが、そういう特別展よりも、むしろ通常の展示の方が私の趣向にはあっているのである。
入るとまずはフーコーの振り子が迎えてくれる。初めて行ったのは小学校の時だったと思うが、このフーコーの振り子が強く印象に残っている。その振り子だが、入った時は14時のところを指している。これもよくよく考えてみれば不思議である。フーコーはこれによって地球の自転を証明したとされる。重い振り子を用いることによって地面とは別の動きとなり、自転によって地面が動くことで振り子が動いているように見えるというもの。よくこういうことを思いついたものだと思わざるを得ない。
日本館では、田中久重の発明品の数々が目に付く。前回も見たかどうか記憶にないが、幕末から明治にかけての時代にこれだけのものを発明したというのは凄いと思う。このコーナーは「測る」というテーマで、距離や時間や重さや長さなどをどのように測ってきたのかが展示されている。今はしっかりと度量衡が定められているから我々は何の躊躇もなく距離や時間や重さや長さなどの話ができる。これも先人のおかげではあるが、我々が恩恵を受けていることだと思う。
群馬県立自然史博物館へ行った時は、生命の歴史に興味があったからだが、今回はそれほどの興味の対象があったわけではなく、何となく漠然と見て回ったのが正直なところ。全体として、前回の記憶とはかなり異なっていることに気付く。おそらく、定期的に展示内容を変えているのだろう。前回、目についた零戦の展示がなくなっていた。どういう基準なのか興味深いところである。それでも恐竜コーナーは相変わらずで、人の多さから見ても人気コーナーなのだろうという事が窺われる。
博物館となれば、展示の基準は人気のあるなしではないと思うが、それでも人気のあるコーナーは充実させようという意図が働くものだろう。個人的には恐竜の骨よりも人類の進化の方に目が行ったのは事実である。猿人と呼ばれるところから少しずつ進化を遂げていく。アウストラロピテクスなどお馴染みのものもあり、長い時間をかけてホモ・サピエンスに近づいていく。展示を見るのは簡単であるが、骨の発掘から調査して結論を得てという気の長い作業の結果であり、考古学というものの奥深さを感じさせられる。
今回、ちょっと興味を惹かれたのは、コンピュータの進化過程。旧国鉄で座席の予約システムが全国規模でできるようになった時のシステムが展示されていた。今では当たり前のように思うが、それまで人力に頼っていた座席の予約が一気にできるようになったのがいかに画期的だったのか、解説を読んで改めて思わされた。と同時に、それを人力でやっていたという方がすごい事のように思う。当時の様子がどんなだったのか、詳しく知りたいとすら思う。たまにこういう経験もいいと思う。帰ろうとしてフーコーの振り子のところまで戻ってくると、振り子は17時半過ぎの位置で動いていた。見ている間に地球は休む事なく自転していたようである。もう少し時間をかけて一つ一つじっくり見たかったなというのが正直なところ。しかし、それにあたって最大のネックは疲労かもしれない。途中で少し休憩したが、それでも最後はかなり疲れてしまった。あるいは、日本館と地球館とを別日にして見学するのも手かもしれない。
博物館も各地にあるし、それぞれ特徴もあるのだろう。少し調べてみて、全国の博物館巡りも面白いかもしれないと思う。意識して時間を作り、己の知的好奇心に刺激を与え続けたいと思うのである・・・
毎週末の映画鑑賞を趣味としているが、先日、『ロストケア』を観た。松山ケンイチと長澤まさみが主演のこの映画、高齢者の殺人を巡って検事と被告とが対峙するというもの。なかなか考えさせられるものであった。物語は松山ケンイチ演じる介護施設の職員が、自ら勤務する施設の高齢者41名を殺害するというもの。被疑者である主人公は、逮捕されて長澤まさみ演じる検事の取り調べに対し、「殺人ではなく救いだ」と語る。というのも、殺害された高齢者は認知症も進んでいて、その介護が家族に重くのしかかっていたもので、亡くなることによって家族が介護から救われ、自分の人生を取り戻せているという主張である。
実際、その例として前半でとある老人の様子が描かれる。介護スタッフが訪問して体を拭いたりする。本人は話し掛けても返事もせず、されるがまま。食卓には食事後の食器がそのままになっている。そこへ娘がやってきて、食卓を観て一瞬戸惑うも、後片付けを始める。娘には子供がいてその送り迎えもあり、父親とは別れたようで生活のために仕事もしている。すべてワンオペで、介護スタッフはその様子を見て「限界だね」とささやき合う。父親が亡くなった(殺された)あと、ゆとりができたその娘は子供との会話にも笑顔が生まれ、再婚の話も進む。殺人は確かに悪であるが、果たしてそうなのか。娘は確かに「救われている」のである。
人を殺すことが良くないことは当たり前のことで疑う余地もないことである。十戒にも示されている通り、人類共通の価値観である。しかし、この映画では本当にそうかと問い掛けられる。人類共通の価値観とは言え、そこには例外もあって、国家によって行われるもの(戦争、死刑)や法律によって認められるもの(正当防衛、緊急避難)などの例外はある。ここではそれに当てはまらないものである。それはすなわち法的には違法行為であり、だから主人公も逮捕される。最終的な刑は明らかにされないが、極刑でもおかしくはないのだろう。しかし、その動機は確かに「救い」である。
主人公をその行為に走らせたものは、自分自身の経験。父親の介護に携わり、介護離職を余儀なくされ、生活保護も「働けるでしょう」と断られ、困窮の結果、父を殺している。以前、同様に介護で困窮した息子が母親を殺害(心中未遂)したという事件があった。この映画の主人公も同じ境遇である。個人でできる限りのことをして、それでもどうにもならなくなっての行為である。おそらく、殺害された父親も感謝こそすれ恨みはしないだろう。むしろ、可能であったなら自ら命を絶っていたかもしれない。そうした経験があるからこそ、同じ苦しみを味わう他人の姿を黙って見ていられなかったのだろう。
そんな主人公と相対する検事は、主人公の行為を糾弾する。それは当然であるが、検事もまた認知症になりかかっている母親がいて、しかしながら立派な老人施設に預けている。ギリギリまで自分で介護を余儀なくされた主人公と、月に何度かお菓子をもって訪問するだけの検事。その対比が何とも言えない。立派な施設に預けられる人は理想論を唱えられる。しかし、そうでない人にとって理想論は空虚である。生活保護もやたらに認められないのは当然であるが、介護で働けない主人公に「働けるでしょう」と言って申請を却下する担当者の姿にはやりきれないものがある。
仮に主人公の父親が認知症ではなくてしっかりとした意識があり、動けなくなった自分を介護するために息子が困窮していくのを見ていたらどう思うであろうか。それでもし父親が息子のために自ら命を絶とうとしたら、それでも「自殺はいけない」と言えるのだろうか。この映画のように困窮した息子が父親を殺害した行為を罪に問えるのだろうか(現実の事件ではさすがに執行猶予の温情判決が出た)。もちろん、そこに至るまでに何とかしないといけないというのは正論だが、現実にその正論が機能するかは疑わしい。誰もがこの映画の検事のように立派な介護施設を利用できれば問題は何もないわけである。
「救う」という動機が善だとしても、やはりそれを何の権限もない個人が勝手にやっていいという事はないし、何より41人という数字は異常であるし、主人公が罪に問われるのは仕方がない。しかし、そうした要素を除いたとして、この映画の「救い」が本当に糾弾されるべきなのかは難しい。少なくとも長澤まさみ演じる「恵まれた」検事が主人公を糾弾する姿には違和感を禁じ得ない(本人もまたそれを感じているように描かれてはいるが)。実際のケースとスレスレではあるが、映画は時にいろいろな事を考えさせてくれる。いつか自分事になるかもしれず、観終えて重いものが残った映画である。
これから高齢化社会に拍車がかかる。何より自分の番がもうそこまで迫ってきている。寿命が長くなるのは本当にいいことなのか、何となく考えずにはいられない。主人公の姿が自分の息子の未来の姿にならないようにしたいと切に思う。そこに至る前に、寿命が尽きてほしいと思うし、いざとなったら自分で自分の人生に終止符を打つ選択肢も選べるように意識を保っていたいと思う。それと同時に世の中の「進歩」にも期待したいと思うのである・・・
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| 映画『ロストケア』より |
昔、映画やドラマのバーとかの中でのワンシーンで、男がマリッジリングを外して女性を口説きに行くシーンがよくあった。映画やドラマはある程度誇張する部分があるからなんとも言えないが、自分は結婚したらマリッジリングをずっとつけていようと思った。例えそれが他の女性を口説きに行く時でも、と。私は変なところで「常に堂々としていたい」という気持ちがあり、女性を口説きに行く時にマリッジリングを外して(独身のフリをして)口説きに行くのは男らしくないという感覚があったのである(そもそも口説きに行く時点でアウトだという意見はこの際なしにする)。
マリッジリングを外して口説きに行くのが、ドラマ的にはカッコいいと創り手の方では思ったのかもしれない。しかし、よくよく考えれば、ぜんぜんカッコよくないだろうと感じていたのである。コソコソと指輪を外して、独身のフリをして口説くなんてチンケな男ではないかと。それに若いうちならいいが、男も妙齢になってくると、逆にその年で独身なのかという方がおかしいようにも思う。その場合、「結婚もできない男」と思われる可能性だってある。もちろん、訳アリというケースだってあるから状況はさまざまかもしれない。
映画やドラマでは、その夜限りのアバンチュールのためにだけリングを外すということかもしれないが、女性の方にしたって、リングがあるかないかを気にするという事は、真剣交際を考えるという事だろうから、そういう女性をそもそも口説けるのかということもあるし、そんなことまで考えない軽いノリの女性ならリングのあるなしを気にするだろうかということもある。映画の中の象徴的な意味合いでリングを外すという「演出」であるなら理解できるところであるが、実生活では意味があるのかという感じがする。
もっとも、一時的に家庭を忘れるという自分自身の精神的な意味合いならわかる。相手を偽るのではなく、自分に巻かれた鎖を解きほどくという意味合いである。よほどひどい男や無感覚な男ならともかく、普通の感覚の妻帯者なら罪悪感を持つわけで、その罪の意識と快楽との境界線の葛藤をリングを外すという行為で乗り越えるという意味合いなら理解できる。女性には理解できないかもしれないが、それが男のどうしようもない本能なのだろうと思う。
結婚した時に、何があっても外さないと決めたマリッジリングであったが、いつしか外してしまった。それは他の女性を口説こうとしたのではなく、妻との関係にもう嫌気がさしたからに他ならない。昨年、別居することにして家を出たが、もうその何年も前からリングを外している。たぶん、自宅に残してきた机の引き出しにまだ入っていると思うが、大事にしまっているというものではなく、とりあえず入れとこうと無造作に突っ込んだ記憶がある。その時すでにもう心は妻から離れてしまったのである。なんでそうなったのかはもうどうでもいい事である。
これからは堂々と女性を口説けるわけであるが(と言っても正式な離婚はもうちょっと先である)、ではと言って相手を探す気は毛頭ない。もう誰かと一緒に暮らすのはごめんだという気持ちが強く、このまま同居している親が亡くなった後は独りで暮らしたいと考えている。そもそもバツ2、バツ3という人の話を聞くが、最初の結婚の破綻で何を学んでいるのだろうと思ってしまう。相手を替えれば変わると思っていたならそれは短絡的としか言いようがない。せめて最初の結婚の教訓を活かして2度目でうまく行くところまでだろう。
ずっとこだわってきたゆえに、マリッジリングを外すという意味は私自身にとって大きな意味を持ち、以来、子供と一緒にその母親と暮らすという意味合いで家庭生活を送ってきた。私にとってその時から、一緒に暮らしている女性は「我が子の母親」であった。もう一緒に暮らす事はないが、「子供の母親」との一定程度の付き合いは生涯続くだろう。それにしてもあのマリッジリングはどうすべきだろうかと思う。捨てるのにはなんとなく抵抗がある。それは結婚の証という「象徴価値」ではなく、単に何万円かしたものという「物価的価値」からもったいないと感じるのである。さりとてもうはめる事はないし・・・
外したはいいが処分に困る。今になってみれば厄介なものに他ならない。いつか夕陽が沈みゆく海に向かってカッコよく投げるのもいいかもしれないと思う。そんなことを候補の1つにして、結婚生活の証の処分については、これからゆっくりと時間をかけて考えていきたいと思うのである・・・