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2026年9月23日水曜日

渋谷での映画鑑賞のかたち

 渋谷は自宅から一番近い「街」である。地方から見ると、東京(特に23区山手線環内)全体が巨大な「街」と言えるかもしれないが、東京に住んでいると、どうしても「渋谷」「新宿」「池袋」「銀座」といったところが「街」というイメージになる。そんな中でも、渋谷は我が家から一番近い「街」なのである。小学生の時から「街」へ出かけるのはちょっとしたイベントで(小学生からすれば電車で30分ほどのところへ行くのは「お出かけ」気分である)、映画や身近で買えない買い物に行くところであった。人生で最初に映画館で洋画(『ジョーズ』)を観たのも渋谷である。

 そんな渋谷は、今は通勤途上の乗り換え駅で、普段降りることもない。高校を卒業してから学生生活の活動拠点は、新宿、吉祥寺、国分寺、国立、立川といった街に移り、渋谷は通過駅になってしまった。しかし、妻と別居して実家に戻った現在、再び渋谷が身近な街になりつつある。連休最中の昨日、久し振りに買い物と映画鑑賞とで渋谷に出かけてきた。夜の渋谷に出かけるという事をしたのはいつ以来だろうかという思いが頭をよぎる。改めて歩いてみると、見慣れていたはずの街が少しずつ変わっているのに気づく。

 夜の8時過ぎ。スクランブル交差点では大勢の人が信号を待ち、みんなスマホを上に向けて写真を撮っている。外国人もかなり多い。スクランブル交差点など見慣れた光景だが、外国や地方から来た人には物珍しいのだろう。私も地方に行くとやたらあちこち歩いて写真に収めたくなる。道玄坂もセンター街もよく見れば見慣れない建物が建っている。もしかしたら建物は変わっていないのかもしれないが、テナントが変わっているので景色も違って見えるのである。目指す渋東シネタワーもいつできたのだろうと思う。昔、よく行った「渋谷パンテオン」が取り壊されて久しいが、映画を観る中心も変わっている。

 個人的に映画好きであるが、近年は映画館から足が遠のいている。今でも映画館での鑑賞がベストだと思うが、周りを他人に囲まれての中で観るのが苦痛になってしまっている。昨日も両サイドの人を気にし、前の男の頭が気になり、しばし映画の中から現実に引き戻されてしまった。以前は、映画館のある西武線沿線の「町」に住んでいたので、人の少ないレイトショーによく行っていた。何せ映画を観終えてから車で5分で帰宅できるので、夜中の2時に終わっても15分後には布団の中にいられたのである。レイトショーだと貸切状態に近く、他人を気にせず映画の世界に浸れたのである。

 しかし、渋谷ではそんな鑑賞はできない。昨日も11:40に終わる回だったが、かなりの入りで、やはり他人が気になってしまった。公開日から時間を置いた方がいいのだろうかと思ってみる。別居して一番不便なのは、これかもしれないと思う。妻と別れることに何の未練もないが、あの家を離れる未練は大き過ぎるくらい大きい。鑑賞方法もチケットが発券されない方式に変わっている。昔は前売り券を買って半券は記念に取っておいたものだが、今や何の記録も残らないデジタルの世界になってしまっている。そう言えば映画のパンフレットも見かけなかった。昔は必ず買っていたものだが、今はネットでいろいろとわかるから売れないのだろうかと思ってみる。

 映画鑑賞の形もだいぶ変わった。いいか悪いかと問われれば、圧倒的にいい。昔はデートで映画を観に行くと、2席確保できるかどうか(それもみっともない真似をせずに)が死活問題であったが、今はそういう苦労はかけらもない。そういう点ではいいのだろうと思う。売っていたポップコーンも1人で食べるにはサイズが大き過ぎるようだが、専用のフォルダーも付いて扱いやすそうである。映画館側のスタンスも「観せてやる」から「観ていただく」に変わっているようで、観る形は実に快適である(人がいなければ、だが)。 

 今後も折に触れて映画館にはもう少し行きたいと思う。されどなるべく人が少ない環境を狙っていくようにしたい。深夜に近く、公開日から時間を経て、可能であれば平日とか。映画はなるべくいい環境で観たいと思う。それも自分にとっていい環境である。いろいろ工夫を重ねて、これからまた昔のように渋谷で映画を観る生活を送りたいと思うのである・・・






2026年8月19日水曜日

映画『ロストケア』を観て考える

 毎週末の映画鑑賞を趣味としているが、先日、『ロストケア』を観た。松山ケンイチと長澤まさみが主演のこの映画、高齢者の殺人を巡って検事と被告とが対峙するというもの。なかなか考えさせられるものであった。物語は松山ケンイチ演じる介護施設の職員が、自ら勤務する施設の高齢者41名を殺害するというもの。被疑者である主人公は、逮捕されて長澤まさみ演じる検事の取り調べに対し、「殺人ではなく救いだ」と語る。というのも、殺害された高齢者は認知症も進んでいて、その介護が家族に重くのしかかっていたもので、亡くなることによって家族が介護から救われ、自分の人生を取り戻せているという主張である。

 実際、その例として前半でとある老人の様子が描かれる。介護スタッフが訪問して体を拭いたりする。本人は話し掛けても返事もせず、されるがまま。食卓には食事後の食器がそのままになっている。そこへ娘がやってきて、食卓を観て一瞬戸惑うも、後片付けを始める。娘には子供がいてその送り迎えもあり、父親とは別れたようで生活のために仕事もしている。すべてワンオペで、介護スタッフはその様子を見て「限界だね」とささやき合う。父親が亡くなった(殺された)あと、ゆとりができたその娘は子供との会話にも笑顔が生まれ、再婚の話も進む。殺人は確かに悪であるが、果たしてそうなのか。娘は確かに「救われている」のである。

 人を殺すことが良くないことは当たり前のことで疑う余地もないことである。十戒にも示されている通り、人類共通の価値観である。しかし、この映画では本当にそうかと問い掛けられる。人類共通の価値観とは言え、そこには例外もあって、国家によって行われるもの(戦争、死刑)や法律によって認められるもの(正当防衛、緊急避難)などの例外はある。ここではそれに当てはまらないものである。それはすなわち法的には違法行為であり、だから主人公も逮捕される。最終的な刑は明らかにされないが、極刑でもおかしくはないのだろう。しかし、その動機は確かに「救い」である。

 主人公をその行為に走らせたものは、自分自身の経験。父親の介護に携わり、介護離職を余儀なくされ、生活保護も「働けるでしょう」と断られ、困窮の結果、父を殺している。以前、同様に介護で困窮した息子が母親を殺害(心中未遂)したという事件があった。この映画の主人公も同じ境遇である。個人でできる限りのことをして、それでもどうにもならなくなっての行為である。おそらく、殺害された父親も感謝こそすれ恨みはしないだろう。むしろ、可能であったなら自ら命を絶っていたかもしれない。そうした経験があるからこそ、同じ苦しみを味わう他人の姿を黙って見ていられなかったのだろう。

 そんな主人公と相対する検事は、主人公の行為を糾弾する。それは当然であるが、検事もまた認知症になりかかっている母親がいて、しかしながら立派な老人施設に預けている。ギリギリまで自分で介護を余儀なくされた主人公と、月に何度かお菓子をもって訪問するだけの検事。その対比が何とも言えない。立派な施設に預けられる人は理想論を唱えられる。しかし、そうでない人にとって理想論は空虚である。生活保護もやたらに認められないのは当然であるが、介護で働けない主人公に「働けるでしょう」と言って申請を却下する担当者の姿にはやりきれないものがある。

 仮に主人公の父親が認知症ではなくてしっかりとした意識があり、動けなくなった自分を介護するために息子が困窮していくのを見ていたらどう思うであろうか。それでもし父親が息子のために自ら命を絶とうとしたら、それでも「自殺はいけない」と言えるのだろうか。この映画のように困窮した息子が父親を殺害した行為を罪に問えるのだろうか(現実の事件ではさすがに執行猶予の温情判決が出た)。もちろん、そこに至るまでに何とかしないといけないというのは正論だが、現実にその正論が機能するかは疑わしい。誰もがこの映画の検事のように立派な介護施設を利用できれば問題は何もないわけである。

 「救う」という動機が善だとしても、やはりそれを何の権限もない個人が勝手にやっていいという事はないし、何より41人という数字は異常であるし、主人公が罪に問われるのは仕方がない。しかし、そうした要素を除いたとして、この映画の「救い」が本当に糾弾されるべきなのかは難しい。少なくとも長澤まさみ演じる「恵まれた」検事が主人公を糾弾する姿には違和感を禁じ得ない(本人もまたそれを感じているように描かれてはいるが)。実際のケースとスレスレではあるが、映画は時にいろいろな事を考えさせてくれる。いつか自分事になるかもしれず、観終えて重いものが残った映画である。

 これから高齢化社会に拍車がかかる。何より自分の番がもうそこまで迫ってきている。寿命が長くなるのは本当にいいことなのか、何となく考えずにはいられない。主人公の姿が自分の息子の未来の姿にならないようにしたいと切に思う。そこに至る前に、寿命が尽きてほしいと思うし、いざとなったら自分で自分の人生に終止符を打つ選択肢も選べるように意識を保っていたいと思う。それと同時に世の中の「進歩」にも期待したいと思うのである・・・


映画『ロストケア』より


【本日の読書】
全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 物理学と神 (講談社学術文庫) - 池内了 スターリン:独裁者の新たなる伝記 - オレーク・V・フレヴニューク, 石井 規衛




2026年6月21日日曜日

神は細部に宿る

 毎週末の深夜に映画を観るのを楽しみにしているが、この週末は『異動辞令は音楽隊!』を鑑賞した。その中でとあるシーンが気になってしまった。そのシーンは以下の通り。

①主人公が偶然立ち寄った居酒屋は、同僚の女性の実家。一緒に飲む事になり、そのまま看板になる。②店主である母親はまだ主人公と飲んでいる娘に戸締りを任せて帰る。③主人公は頃合いを見て帰宅する。④帰宅した主人公は認知症の母親がいないのに気づき、近所を探し回る。⑤母親はパトカーで送られて帰宅する。⑥主人公は母親を寝かしつける。⑦そこへ居酒屋の娘が主人公の家に忘れ物を届けに来る⑧母親が起きてきて娘を主人公の別れた嫁と勘違いして「お腹が空いた」と訴える⑨娘は快く料理を買って出て、3人で食べる。

 気になったのは時間である。①②では特に明示されていないが、店の看板の時間だからおそらく夜の10時頃だろう(居酒屋であることを考えるともう少し遅いかもしれない)。③では自宅は近くだとしても帰宅するのに30分くらいはかかるだろう(10:30)。④は近所を探し回る時間が短くても30分くらいだろうか(11:00)。⑤⑥では同僚の警官と話をしているし、母親を寝かしつけるのに30分くらいかかるとして11:30。⑦はこんなに遅い時間に訪ねるかという問題は置いておいて、簡単な調理だとしても⑧⑨では12時過ぎという事になる。そんな時間に普通に食卓を囲んで食事をするだろうか(主人公も同僚の女性も飲んだ後で普通に食事をしているのである)と考えてしまった。

 映画やドラマを観ていて、おかしいと思うことはよくある。しかし、そんな重箱の隅を突くようなことをしていても面白いことはない。したがって、そういう時は「そういうもの」として観る事にしている。主人公が超人的な活躍をしていても、ありえない偶然に遭遇したとしても、「そういうもの」と思えば何という事はない。しかし、この映画ではどうも上記のシーンに引っ掛かりを覚えてしまい、ストーリーから意識が外れ、あれこれと時間の流れを検証し、上記の結論を得て「どうなんだろう」と考えてしまった。

 マーケティングの世界では、「ターゲット」を細かく設定することがよくある。ターゲット顧客について、「二十代後半の女性、働く独身の一人暮らし」などという具合にである。そうして細かくターゲットを設定する事によって、実際の消費誘導行動を具体化しようというものである。どのくらいの効果があるのかはわからないが、ただ万人受けを狙うよりは遥かにいいというのは想像に難くない。結果的にターゲット以外の顧客に売れてもそれはそれ。そういう考え方があるせいか、映画やドラマでも細かい設定は大切なのではないかと思う。

 ミュージカルを観に行っても、舞台の端でしっかりと演技をしている端役の人をよく観る。観客の目はあくまでも主人公(または舞台の中央にいる役者)に行っていて、端役などに目を止めている人はいないと思うが(そういう私は観ているわけであるが)、それでもしっかりと演技をする(喜んで手を叩いたり驚いたりする)事によって舞台全体の雰囲気に影響を及ぼしているのだと思う。人が見ていないところ、見えないところにもこだわりを持つ事は芸術などでもよくある事で、それは結果的に全体の雰囲気に現れるものなのだろうと思う。

 現に面白い映画やドラマは、そんな細かいところに引っ掛かる事なく、物語の世界に感情移入させてくれる。『異動辞令は音楽隊!』は面白くないとは言わないが、途中で物語の世界から私の意識が外れてしまったのは事実である。途中でばら撒いた細かい伏線をラストで丁寧に拾ってまとめてみせてくれるストーリーなど(東野圭吾の作品などは割とこういうのが多い)は、読み終えて唸らされることがある。『壬生武士伝』だったか、集団での斬り合いの乱戦後、指がたくさん落ちていたというエピソードがあったが、実際は殺陣のような鮮やかな斬り合いなどではなかったと思う。

 私が担当する財務の仕事でも、経費予測などは細かくやったりする。ざっくりアウトラインを捉えるのもいいが、私は細かくやるほうである。時間はかかるかもしれないが、結果としてざっくりとしたアウトラインも精度が高まったりする。なので個人的には大事な事のように思う。物語の世界は著者や脚本家が自由に世界を構築できる。それが現実に近ければ近いほど、リアリティが増して物語が面白くなるように思う。面白い映画作りのためにも、そういうこだわりを気にして欲しいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり みんな彼女のモノだった――奴隷所有者としてのアメリカ南部白人女性の実態 - ステファニー・E・ジョーンズ=ロジャーズ, 落合明子, 白川恵子 夜明けはピンクゴールドに輝いて - 丸橋 賢 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年5月13日水曜日

ガンダムを観て思う

 NETFLIXで何となく目について『ガンダム 復讐のレクイエム』を観た。『ガンダム』と言えば、私も最初の世代に入っていると思うが、実はあまり興味を持てず、最初のシリーズの最初の何話かを観てやめてしまっていた。何となくストーリーのようなものは把握しているが、その後のシリーズも観ていないし、もちろん「ガンプラ」と呼ばれるプラモデルの存在は知っているが、買おうとするどころか手に取ってみることすら興味がなかった。どちらかと言えば『宇宙戦艦ヤマト』の方に心惹かれていた(それも続編まで)と言える。

 そんな私なのに、『ガンダム』を観てみたのは、今までのようなアニメでなく実写のように思えたのと、「NETFLIXだから」というところがある。実際、観てみたら実写ではなかったが(それに近いアニメ?CG?)、アニメとは異なる迫力でそれはそれで良かったところである。しかし、虚を突かれたのは、主人公が「ガンダム(またはパイロットの少年)」ではなく、ジオン軍の一大尉であったことである。「ガンダム」というタイトルにはなっているが、視点を敵側に代えたところが目新しいところである。

 物語は宇宙を地盤とするジオン公国が、地球連邦が支配する地球に進出してきて地上で戦いを繰り広げているところから始まる。主人公はザクのパイロットであるジオン軍のイリヤ・ソラリ大尉。ソラリ大尉率いる部下たちは、敵基地撃滅を前にして突然連邦軍の新型モビルスーツ「ガンダム」の攻撃を受ける。その力は圧倒的で、ザクをはじめとするジオン軍の部隊は壊滅的な打撃を受けて撤退する。形勢は一気に逆転し、ジオン軍は劣勢のまま反撃の機会を伺う。正義の味方が敵を次々にやっつけるのは見ていて心地良いが、「やられる方」の視点はあまり意識しない。この視点は目新しい。

 意識しなくても相手には相手のドラマがある。イリヤ大尉も戦争前は音楽家で一児の母であったが、戦争で夫を失い、子供は両親に預けて今はザクのパイロットとして戦っている。顔の傷は歴戦を物語っているのだろう。腕のいいパイロットではあるが、「敵」の新型兵器「ガンダム」の威力は圧倒的。腕ではカバーできない兵器の差というものはあるわけであり、対抗する糸口すら見つけられない。「勝てない戦い」を強いられる脅威。そして可愛がっていた部下を殺される怒り。頼もしい正義の味方ガンダムは、ジオン軍から見ると白い悪夢である。イリヤ大尉は劣勢にあっても諦めることなく、戦いから逃げようとはしない。

 いつしか見入ってしまったのは、悪役としてのガンダムの視点が面白かったから。イリヤ大尉はリーダーらしく、理不尽な上司の命令に従いながら、「どうしたら勝てるか」という視点を最後まで捨てない。破壊されたザクの残骸を寄せ集めて一機作って戦おうとするし、限られた条件の中で何とか突破口を探そうとする。その姿は見習うべきところがある。最後も負傷を理由に退却する宇宙船に乗れたものをわざわざ残って仲間を逃すべくザクにのる。その前に立ちはだかるのが難敵ガンダムであっても自分の役割を果たそうとする。

 シリーズでは正義の味方であったガンダムも、敵の視点からみれば脅威の敵。改めて戦争はどちらにとっても自分たちが正義であるのだと思わされる。ウクライナもロシアも自分たちが正義の立場に立っている。アメリカもイスラエルもイランも同様。それぞれにそれぞれの正義があり、難敵を相手に苦しい戦いを強いられているのかもしれない。以前、尊敬する方に「複眼思考」という考え方を教えていただいた。物事を一面からではなく、多角的に見てみるという事である。そうすることで今まで見えていなかったものが見えてくる。

 今回、『ガンダム』を観ることによって改めてそれを感じた。今まで気持ちよく撃破していた敵にもまた敵を主人公とした正義の物語があるのである。どちらが正しいという事ではなく、双方に正義があるという事である。漫画『鬼滅の刃』にもそういうところがあった。人でなしに思える鬼にも鬼になる前には同情すべき事情があり、鬼になった経緯に理解もできる。そこに感情移入の余地があった。鬼を100%の悪で描かなかったところが、物語として心を打つ場面が多かった理由だと思う。それぞれに正義があり、大事なのはどれが本当の正義か否かではなく、それぞれが正義であるという事だろう。

 物語自体も面白かったが、ジオン軍の視点から描いたという点でもなかなか面白いドラマであった。絶大なる人気を博しているガンダムシリーズであるが、これからはジオン軍の視点から描いた方が面白いのではないかと思うのである・・・




【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 人を動かす 改訂文庫版 - D・カーネギー, 山口 博 逆説の日本史: 大正暗雲編 対華二十一箇条と尼港事件の謎 (29) - 井沢 元彦 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年4月9日木曜日

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』観劇記

 劇団四季の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観てきた。これまでもいろいろな舞台を披露してきた劇団四季であり、何をやるにしても驚くという事はなかったが、いつにも増して今回は興味津々であった。それは何よりも映像でこそ表現可能なSFの表現をどうするのかという部分である。さらに物語の重要アイテムは「デロリアン」、つまり車であり、狭い舞台の上でそれをどう見せるのか。走り回ることはないので、止まったままになるのだろうが、スピードをどう表現するのだろうかと疑問が湧いていた。映画の方は過去3回ほど観ており、面白い映画だけに内容も結構頭に入っている。そんな状態で、四季劇場「秋」に向かう。

 相変わらず満席の劇場内。SF的な凝ったデザインの舞台が観客を迎える。定刻通りに物語が始まる。全体的にストーリーは映画をほぼ踏襲している。映画を3回も観たせいか(直近では4年前だ)かなり内容を詳細に覚えている。映画と違うのは、マーティーが誤って過去へと飛んでしまうくだり。映画ではドクがテロリストに襲われるのであるが、舞台ではプルトニウムの放射能漏洩という部分。大きなところではここだけだが、逆になぜここを変えたのか、その部分に興味が湧く。全体を観終わった感想としては、決して舞台で表現できないことはなかったと思うからである。

 要所要所に歌とダンスが入るのはミュージカル的にしているからだろう。これはこれでいいと思う。実際に目の前で俳優が演じ、オーケストラが演奏する迫力は映画とは違う魅力を醸し出す。いわゆる「生の迫力」というやつで、映画の10倍近いチケット代の理由でもある。これはこれでいいと思う。この値段であるが、映画は元を作れば映画館やDVDや配信でたくさんの人に観てもらえるが、舞台は役者がその都度演じるので観客は限られてしまう。その分鑑賞費が高くなってしまうのは仕方ないだろう。こちらもたまにの贅沢である。

 デロリアンも本物っぽくできている。かつてアメリカのユニバーサルスタジオに行った時、展示されていたデロリアンを見ていたく感動したものであるが、そこまでいかずとも雰囲気は十分に出ていて満足であった。時速88マイルで走るシーンは映像とうまくかみ合わせて迫力は十分。気になっていたSF表現はほぼストレスなく観ることができた。さすがだと思う。人間ドラマの方はほぼ映画を踏襲。主人公のマーティとドクと若き日の両親との絡みは馴染みあるもの。印象的なセリフもそのままであった。

 気になったのは、セリフも映画をそのまま踏襲しているため、時代のずれによって理解できないところがあるのではないかというところ。例えば、物語の舞台となっているのは1985年であるが、当時のアメリカ大統領はロナルド・レーガン。そしてタイムスリップした1955年ではレーガンは役者である。30年後の大統領はと聞かれて、主人公のマーティは「ロナルド・レーガン」と答えるが鼻で笑われてしまう。売れない役者が大統領かという1955年当時ではあり得た反応であるが、どのくらいの人がその面白さを理解できただろうかと思ってしまった。若い人だとレーガン元大統領を知らないかもしれない。

 アクシデントで30年前に戻ってしまい、そこで同じ町に住んでいた若き日の両親と出会うマーティ。タイトル通り「未来へ帰る」ことが必要だが、若き日の両親と出会ってしまったために、未来が変わってしまう可能性が出てくる。なんと若き日の母親にマーティが惚れられてしまったためであるが、歴史通りに両親をくっつけないと未来へ戻っても自分の存在が消えてしまう。そんなドタバタもストーリーの味付けとなる。主人公のマーティは学生だからティーンエイジャーであり、30年前の両親も同じくらいの年齢とすると、1985年では40代後半ということになる。今回あらためてそんなことを考えながら鑑賞した。

 考えてみればこの映画は40年も前の映画である。公開当時、映画館でこの映画を観たが、40年後の世界など想像もしてみなかった。あの頃の自分が今の世の中を見たらどう思っただろう。まずスマホに驚いて喜ぶだろうなと思う。映画の配信にも満足するだろう。世の中の進歩には満足するかもしれないが、自分自身についてはどうだろうか。今の自分の姿を見て、40年前の21歳の私は満足するだろうか。残念ながらそちらの方はイマイチかもしれない。もっと何かできたのではないかと思う事ばかりである。

 最後は恒例のスタンディング・オベーションだったが、立たない人も私を含めてチラホラ。となりのおじさんが座っていなかったら私も周りにあわせて立っていたかもしれない。過剰な拍手もどうにも好きになれない。いつもそうだが、ゆっくり座って余韻を楽しみたい私としては、どうもあの雰囲気は苦手である。舞台は好きであるが、あのわざとらしいスタンディング・オベーションだけは好きになれない。映画は静かに座って余韻に浸れるところが良い。まぁ、そんなところはあるが、また機を見て舞台を観に行きたいと思うのである・・・





【本日の読書】 
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 介護未満の父に起きたこと(新潮新書) - ジェーン・スー C線上のアリア - 湊 かなえ 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2025年10月16日木曜日

映画『首』の鑑賞雑感

 先日、ビートたけし監督・主演の『首』という映画を観た(監督のクレジットは北野武であった)。たけし自身は羽柴秀吉を演じ、織田信長や明智光秀、荒木村重などの戦国武将が入り乱れる群像劇で、アレンジの効いた時代劇であった。タイトルにある通り、その中でしばしば出てきたのが、敵の武将を倒した際、その証として首を切り落とすこと。褒賞に際し、それを提示して手柄として認めてもらっていたようである。現代の感覚からすると極めて残虐である。何年か前に中東でISがジャーナリストなどを斬首して殺害し、その動画を公開するという事件があり、世界に衝撃を与えたが、かつては我が国でもそれが当たり前に行われていたのである。

 当時の人の感覚ではなんともなかったのだろう。あるいは、現代でも動物の屠殺が行われているが、慣れた人ならなんともなくても普通の人は目を背けてしまったりするが、同じようなものなのかもしれない。考えてみれば、武士の世ではカメラというものはなく、敵味方入り乱れる戦場などで敵を倒したという証は首以外になかったから、いつからか首を斬り落として手柄の証とするようになったのだろう。昔の刀の切れ味がどのくらいだったかはわからないが、スパッと斬り落とすわけにはいかなかっただろうと推測する。

 スパッと斬り落とすのは、切腹における介錯のようなケース(あるいは処刑における斬首)以外には難しかったのではないかと思う。映画では有名な備中高松城攻めにおいて、高松城主清水宗治が和睦の条件として切腹する様子が描かれる。船の上で舞を舞い切腹する様は有名であるが、長々とした儀式に秀吉がまだかとイライラする様子が描かれる。1人は人生の終わりに際し、ゆっくりと名残を惜しむかのようで、さっさと中国大返しに転じたい秀吉との対比がなされていたが、そんな中で最後に介錯人が首を斬り落としていた。

 切腹における介錯では、「首の皮一枚」を残すようにしたそうであるが、経験則の中から築き上げられたやり方だったのであろう。人間は腹を切ってもすぐには死なない。死ぬまでに苦しまなければならないから、苦しまないように首を斬って楽にする。残酷なのかそうではないのか、現代人の感覚からは判断が難しい。映画『最後の忠臣蔵』では、主人公が最後に腹を切るが、介錯人はおらず、自ら喉を突いていた。自己介錯とも言えるが、当時は武士の作法だったのであろうが、やれと言われてもとてもできるものではない。

 そういう時代だったと言えばそれまでであるが、『首』では、手柄の首を主君に届けて褒賞をもらう。斬り落とすだけではなく、それを持ち歩くこともできるものではない。ラストで山中に逃れた明智光秀が首を落とされ、その首が秀吉の前に持ち込まれる。じっくりと首実験をするが、人相が変わっていてそれとはわからない。伯父が亡くなった時、その死に顔を見たが別人のようだった事が脳裏をよぎる。こういうこともあったのだろうと思う。昔は写真などないからこういうこともよくあったのだろうと思う。

 それにしても、戦では命を賭けて斬り合い、負ければ首を落とされる。勝ったとしても相手の首を斬り落として持ち帰り、手柄として誇示する。大きな責任を取らなければならない時は腹を切り、介錯人になれば首の皮一枚を残すように首を斬らなければならない。首を斬れば出血も激しいだろうし、返り血まみれにもなっただろう。武士の世は死と隣り合わせであり、その血にまみれた感覚はなんとなく想像はしてみるものの、現代人の理解を超えるものがある。それはそれでいいとは思う。

 先日、秋の味覚さんまを食べたが、スーパーではさばいてもらえず、自分ではらわたをさばいた。見よう見まねであるが、なんとかできるものなのだと思ったが、それでも気持ちいいものではなかった。魚でさえそうなのであるから、人間では言わずもがなである。現代人で良かったとつくづく思う。理解などできない方が幸せなのだと改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗





2025年4月27日日曜日

映画『愛がなんだ』に見る愛の形

 映画『愛がなんだ』を観た。ストーリーだけを追えばちょっと変わった恋愛映画という事で片付けられるような映画なのであるが、映画の主人公の2人の関係を観ながらいろいろと考えさせられた。映画の主人公は、まもなくアラサーというOLの山田テルコ。田中マモルという男と付き合っているようであるが、どうもそういうわけでもない。というのも、テルコの思いは一方的で、マモルからはそれが感じられないのである。冒頭では風邪で寝込んでいるマモルからテルコに連絡が入り、差し入れを頼んでくる。喜び勇んでマモルの部屋に向かうテルコ。甲斐甲斐しくお粥を作る。

 その後、テルコは風呂掃除を始める。この時点で2人の親密度はわからないが、風呂掃除はやり過ぎのように思う。婚約しているとかならまだしも、そうでなければ「私はいい嫁になる」アピールのように思えてしまう。マモルはもういいからとテルコを追い返すのであるが、その気持ちもよくわかる。しかし、この時点で既に終電はなく(そんな時間に風呂掃除もないだろうが)、追い返すマモルももう少し気を遣いたいところ。テルコも後先考えずに行動するタイプのようで、手持ちの現金がなく、タクシーも呼べずに友達に頼んで泊めてもらう。

 テルコはマモルに一途なのであるが、それがまた異常。常にいつ呼び出されてもいいように待機状態だし、呼び出されれば状況いかんに関わらず喜んで駆けつける。2人で朝まで飲んでも、マモルは1人タクシーに乗って先に帰ろうとする。私の感覚であれば、先に女性をタクシーに乗せるだろう。どうやら惚れているのはテルコだけのようだが、マモルもそんなことは嫌でもわかるだろう。しかし、惚れていなくてもそのくらいの配慮は私ならするだろう。男からすれば、自分に惚れて何でも言いなりの女は実に便利である。会いたい時に呼び出し、やりたい時にやれる。そんな女を男なら1人はキープしておきたいところである。

 映画は少し大袈裟なところはあるが、好きになった相手に一途に突進するタイプは普通にいる。「好き好き」オーラを出しまくって相手に接するのである。相手も同じ気持ちならいいが、そうでない場合は(特に女性は)、便利に利用されてしまう可能性は高い。男にとって口説くハードルのない女は便利この上ない。本命の彼女がいればともかく、いなければ現れるまでの「つなぎ」にしようと思うだろう。それは決して女性にとってはいい事ではないはず。それを防ぐには、グッと気持ちを抑えて距離を保ちつつ接近するしかない。

 テルコの例であれば、具合の悪い相手に差し入れはいいだろうが、用が済んだらさっさと帰るべきだろう。あれもこれもと世話を焼くのはやり過ぎである。呼び出されても3回に1回は気持ちを抑えて断りたいところだ。応じても時間を見て適切な時間に帰る事も大事である。ボクシングで言う「ヒットアンドアウェイ」というやつである。「恋愛は駆け引き」などというつもりはないが、特に女性は男に遊ばれない工夫はすべきであろうと思う。

 相手を好きになったら男も女も相手に対して身も心も開いていくのだろうが、男と女ではやり方は変えるべきだと思う。男は一途にアタックするべきだし、それで相手の女性の心が動く可能性はある。しかし、男は寄ってくる女に対しては、それほど好きでなくても、気のあるふりをして便利なキープ女にしようという邪な考えを抱く可能性は高い。それゆえに女の方もガードしながら近づいていく必要がある。あまり簡単に許してはいけないと思う。

 私も自分の経験を振り返ってみると、上記のように思う。それが今の若者にも通じる原理なのかどうかはわからない。ただ、こういう映画が創られるという事は、今もまだ通じる心理なのかもしれない。男は好きでなくても恋人のように女と付き合えるものなのである。そういう事は私の娘にも警告として伝えてあげたい気もするが、「若い頃に何をやっていたのか」と突っ込まれるのもまずいし、伝え方は難しい。それでも映画を観ながら考えたのは、「注意するとしたら、テルコの方だろう」という事。これは女が自衛するしかないと思う。

 映画は観る者にいろいろな事を示唆してくる。ストーリーとは関係のないところで今回はあれこれと考えてしまった。ちなみに映画では男をいいように振り回す女も登場して、どっちもどっちであった。それぞれ「相手のことを考えてあげようよ」と思ってしまったが、やはりこういうことに関しては男に対して同情心は湧いてこないものである。つくづく、女性には自らを安売りをしないようにしてするべきだと思うのである・・・


映画『愛がなんだ』

【今週の読書】

 いま世界の哲学者が考えていること - 岡本 裕一朗 シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本 猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実 - 藤原喜明, 佐山聡, 前田日明 〈他者〉からはじまる社会哲学 - 中山元 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久






2025年4月16日水曜日

『THE DAYS』に見る部下のあり方

 前回、ドラマ『THE DAYS』を観て心理的安全性について感じる事を記したが、今回は部下のあり方について感じた事を述べてみたい。ドラマの総理大臣(菅直人元総理がモデル)は、未曽有の危機の中、専門家たちが思うような意見を出せず、イライラを募らせ、結果的に怒鳴ったり詰問したりを繰り返していた。今で言うパワハラであるが、部下の方としても対処の仕方はあると思えた。人間、どうしても怒鳴られれば萎縮する。完璧な答えを返そうと思えば思うほど慎重になるし、そうすると益々歯切れは悪くなるし、それはすなわち聞き手からすると不信感へとつながる悪循環である。

 まずは怒鳴られても怯まないのが一番である(と言っても気の弱い人には難しいかもしれない)。頭に血を上らせて怒鳴り返すのは論外だが、心の中で深呼吸し、冷静に言うべき事を返すのがいい。その際、「絶対間違いないか!」「100%正しいのか!」と詰められる事はよくある。そこも冷静に、そもそも「絶対という事はあり得ない」と答えを言う前に納得してもらう必要がある。当時の状況は誰もが経験した事のない状況なわけで、そもそも絶対という事がわかっていれば迷わず行動できるわけである。「より可能性の高い回答しかできない」と私なら怯まず答えるだろう。それで不満なら首にしてくれと。

 そもそも絶対とは言えない可能性のうちどのリスクを取るのか。それこそ最高司令官たる総理大臣の責任である。それを思い出してもらえるよう、冷静に答えたいところである。この「冷静に」というのも重要で、私も銀行員時代、債権回収の場で激高する経営者相手と対峙したことがある。怒鳴りつけてくる相手に対し、終始穏やかに冷静に話をし続けたところ、相手もだんだん落ち着いてきて、最後は互いに穏やかに話をして別れたのであるが、こちらが冷静であれば相手も冷静さを取り戻すのではないかと思う。

 激高する相手に対し、またはイライラして厳しい口調で詰問してくる相手に対し、怯まないでいられるには多少の勇気が必要かもしれない。どうしても顔を背けて逃げたくなるのが人情であるが、そこで面と向き合うのは勇気がいる事かもしれない。私はもともとラグビーをやっていたせいか、あまりビビるという事はこれまでになかった。私が社会人になった時、最初の上司は典型的なパワハラ上司であった。本来、課の№2的存在である主任さんもよく怒られ、立たされていた。新入社員の私はそのパワハラ上司の目の前に座らされており、私とパワハラ上司との間に主任さんが長時間立たされていて、その居心地の悪さに困惑した経験がある。

 その時の主任さんも気の弱い方で、やはり蛇に睨まれた蛙よろしく、パワハラ上司の詰問に黙り込む事がしばしばであった。黙り込まれるとよけいにイライラして回答を強い口調で求める。そうすると萎縮して声も小さくなり、自信のない回答になる。するとパワハラ上司はイライラして「はっきりしろ!」と怒鳴る。まさにドラマのような悪循環であった。隣で聞いていた私は、「間違ってもいいからはっきり自分の意見を言えばいいのに」と思っていたものである。毅然とした態度こそが、相手に対する安心感を与えるものではないかと思う。

 ドラマでは総理に報告すべく待ち構えていた関係者が歩いてくる総理に恐る恐る話しかける。「今聞かないといけない要件か!」と一喝されて、その関係者は怯んで「後でもかまいません」と引きさがってしまう。私なら、「こういう事態ですので、歩きながらでも聞いてください」と食い下がるだろう。どういう内容のものだったかはわからないが、本当に後でもいいような報告なら、総理の側近に報告して伝えてもらえばいいのであり、そうするべきである。わざわざ報告しようと思った内容であるなら、無理やりにでも報告するくらいの度胸がないとダメではないかと思う。

 そもそも上に立つ者がそんな態度ではいけないので、それがすべてであるが、運悪くそういう器量の狭い上司に当たってしまった場合は、殴られてもいい覚悟で堂々と報告すればきちんと対応してもらえるものだと思う(実際に殴られる事はまずないだろう)。東電の首脳陣も総理の勢いに怯んで海水注入中止を現場に指示する。それに対して現場責任者の吉田所長は面従腹背の態度で、中止する振りをしながら実際は注水を続ける。結果的にそれが良かったようなのであるが、そういう度胸のある人間が現場にいたから良かったものの、東電首脳陣のような「言いなり君」ばかりだったらどうなっていたのだろうかと背筋が寒くなる。

 パワハラ上司の下で、仕事では何も言い返せない2年目の若造だった私だが、夏休みの取得については、怯む先輩を差し置いて1人パワハラ上司と交渉し、上司から指定された7連休を拒否して9連休を勝ち取った。その時も自分の意見を怯むことなく伝えた結果であるが、その時にパワハラには「怯むな立ち向かえ」という教訓を得たのである。今はパワハラも指導が入る良い時代になったが、それに甘んじるのではなく、仕事では怯まず立ち向かう気概が部下にも必要だと思うのである・・・


【本日の読書】
MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭  黄色い家 - 川上未映子





2025年4月13日日曜日

『THE DAYS』に見る心理的安全性

 福島第一原発の事故を描いた『THE DAYS』を観ている。その前に本では『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日』(門田隆将著) を読んでいるし、映画では『Fukushima 50』を観ているが、今度は全8話のドラマである。もうストーリーはお馴染みであるが、それでもそこから伝わってくる緊迫感、喉元過ぎればで「原発必要論」を声高に主張する人たちへの反発もあって観たくなるのかもしれない。さすがにドラマ版は映画版よりも長いのでじっくりと描かれる。観ているとストーリーとは別のところで考えさせられるシーンが出てくる。

 特徴的なのは、総理大臣(当時は民主党の菅総理)の言動だ。現場の混乱も構わずヘリで視察に向かう。危機管理室では関係者をヒステリックに怒鳴り散らす。当時も批判されていたが、本や映画やドラマでもすっかり悪者である。しかしながら、そんな表面的な部分ではなく、よくよく総理の言動を追って行くと、そこには総理の苛立ちと焦りが感じられる。一国の最高責任者として的確な判断を下さなければならないのに、そのために必要な情報が与えられないという苛立ちと焦りである。

 まず批判された現場視察であるが、これも危機管理室で総理の疑問に的確に答えられる者がいないため、「ならば直接この目で確かめに行く」となったのである。総理の側近には原子力安全委員会の者もいれば東電の人間もいる。しかし、総理の疑問に対し、的確に答えられない。それで総理はイライラを募らせ、周囲に当たり散らす。すると関係者は萎縮してはっきりと答えられなくなる。その悪循環に陥るのである。総理に問われた関係者が下を向いたり他の者に転化したり、口ごもる様子は確かに観ていてイライラする。

 しかし、それも当事者の立場に立てば当然なのである。誰しもが経験したことのない未曾有の事態なのである。誰も正解を知っているわけではない。象徴的なのが、第5話で海水注入を巡るやり取りである。真水の不足を見越して現場では原子炉を冷やすために海水注入を準備する。しかし、危機管理室では海水を注入すると再臨界が起きるのではという疑問が呈される。総理は原子力安全委員会の者に問う。「海水注入で再臨界は起きるのか」と。その口調は厳しいものであり、その場には緊張感が漂う。

 問われた専門家は、起こらないだろうとは思うものの、「絶対か?」と問われれば口ごもる。「可能性はゼロかと聞かれればゼロとは言い切れない」という何とも歯切れの悪い答えである。それで総理はイライラしてまた怒鳴りつける。するとよけい萎縮して何も言えなくなる。総理の気持ちはもっともだが、トップに立つものとしては様々な可能性、意見の中から適切に判断を下さないといけない。何より大事なのは、とにかくあらゆる情報、あらゆる意見を出させてそれを検討することである。その点ではこの総理の態度はまるでダメである。

 部下が思う通りに発言するためには、何を言っても大丈夫という安心感がないといけない。最近ではそれを「心理的安全性」という言葉で表しているが、まさにその心理的安全性がここではまったく機能していない。総理としては、イライラはグッと堪え、冷静かつ穏やかに問いかけ、どんな意見であろうと感謝の言葉とともにその意見を受け入れることが必要である。側近もいろいろと意見を述べている。頭からそれを否定するのではなく、すべて一旦受け入れるのである。「気がついた事があればすぐに言ってほしい」と加えて。

 総理にご報告と原子力安全委員会の者が総理を呼び止めるシーン。総理はかしこまる者に対して、「今報告すべき急ぎの報告か!」と詰問する。するとその者は萎縮して「後でも構いません」と答えて引き下がる。これではいけない。本当に余裕がないのであれば、「◯◯の後で聞くから待っててくれ」とすればいいわけで、怒鳴ったり詰問したりしても何も得るものはない。結局、菅総理はその時の一連の危機対応について批判されてしまったが、それも無理からぬ事、たぶんご本人はまわりの者の無能を言い訳にしたいだろう。だが、心理的安全性を確保しなかったのは間違いなく本人の責任であるし、批判は回り回ってその身に返ってきたものと言える。

 ビジネスの現場でも結局は同じである。部下だからと言って軽視するのではなく、いろいろな意見を忌憚なく言わせられれば、それは結局自分自身が正確に判断を下す助けになる。人の振り見て我が振り直せ。学びは至る所に落ちている。その他にもリーダーシップや部下としてあるべき姿など、ビジネスにも有益なドラマであると思うのである・・・



【今週の読書】
〈他者〉からはじまる社会哲学 - 中山元 MORAL 善悪と道徳の人類史 - ハンノ・ザウアー, 長谷川圭  黄色い家 - 川上未映子





2024年10月7日月曜日

隠れた事情

 Netflixのドラマ『極悪女王』が面白い。何でもそうだが、知られざる舞台裏を知るというのはまったくもって興味深いものである。ドラマは一時代を席巻した女子プロレスのヒールであったダンプ松本を主人公にしたものであるが、デビュー前は気の優しい女の子で、後にライバルとして熾烈な争いを展開する長与千種とは同期入門で、互いに恵まれない家庭環境の中から女子プロ入りし、共に励まし合いながら新人時代を過ごす。後の対決からはまったく想像のできないものであった。

 もちろん、対決というのはあくまでもリングの上だけでの話はわかっているが、2人の新人時代のエピソードは心温まるものがある。かくして物事は外側だけ見ていてもわからないものだという事がわかる。おかしいと思う事であってもその裏側には外側からは窺い知れない事情があったりするものである。裏側の事情を知らないのは仕方ないとしても、外側の事情だけをもって一方的に人を批判するのは避けた方がいいと改めて思う。

 一方、これとは対照的に自分の見えている事実がすべてという人たちがいる。ある程度は致し方ないのであるが、世界は自分が見えているところだけで成り立っているわけではない。「視野が狭い」という言い方もあるが、物事の裏側を想像してみるという事ができる人とできない人がいる。人間は神様ではないので、見えていない部分を見ることはできない。ただ想像してみる事はできる。

 今日、父の弟である叔父が亡くなったと従姉妹から私に連絡があった。いつものように週末に実家に帰っていたところだったので、私は両親にそれを告げた。両親ともに突然の訃報に驚いていたが、母は自分のところでなくなぜ私のところに連絡が来るのだと文句を言い出した。「筋が違う」と言いたいのかもしれない。しかし、相手の事情を想像してみれば、叔母も高齢だし、動揺しているかもしれない。その中で一人娘の従姉妹が悲しみの中で手続きに奮闘していたのだろうと想像できる。

 昼に亡くなったにも関わらず、夜には通夜と告別式の日程が送られてきた。葬儀屋が手際よく手配したのであろうが、遺族もゆっくり悲しんではいられない。そんな中で、中心になって仕切ったのは従姉妹だろうし、我が母の言う「筋を通して」我が父か母に電話するなどというゆとりもなく、手っ取り早くLINEで連絡が取れる私に連絡してきたのだろうと想像できる。

 母にしてみれば自分たちが後回しにされた事が面白くないのかもしれないが、例えそうだとしても「寛容」の精神があれば流せる話であるし、私のように相手の事情を想像してみれば何も気にならないと思う。それはいろいろな場面で当てはまるように思う。仕事でも同様で、「なぜこんな事をしたのか」と怒り半分、あきれる事半分の時があるが、じっとこらえてよくよく事情を聞くとその人なりに考えていたのだとわかったりする。それは考えが足りないとしても、ただ腹を立てるのではなく、まだまだだと思って根気よく教え諭して指導するしかない。

 ドラマはこれから後半戦。世の中では「一気見」などする人も多いようだが、私はあえてじっくり1話1話楽しんで観ていくタイプである。他にも観ているものはあるし、1週間で1話くらいのペースだろうか。もともと女子プロには興味などなかったが、それでも極悪同盟の存在は知らず知らずのうちに視野に入ってきていたし、チラ見もしていたりした。それだけの人気だったという事であるが、出演陣の熱演も凄いし、時間をかけてゆっくり楽しみたいと思う。

 それにしても『サンクチュアリ』もかなり面白かったし、Netflixのドラマはこれからも要注目であると思うのである・・・

Leandro De CarvalhoによるPixabayからの画像

【本日の読書】
言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書) - 今井むつみ, 秋田喜美  逆説の日本史: 大正混迷編 南北朝正閏論とシーメンス事件の謎 (28) - 井沢 元彦





2024年1月18日木曜日

映画『ほんとうのピノッキオ』に見る人の成長

 この正月、『ほんとうのピノッキオ』という映画を観た。基本的に原作にかなり忠実なストーリーらしい。と言っても、大筋は子供の頃から慣れ親しんでいるピノッキオの物語と大きくは違わない。貧しい木工職人のジェペット爺さんが作った木の人形が命を宿し、様々な経験を積んでやがて人間になるというものである。映画自体は実写版として楽しく観ることができたが、ピノッキオの行動にこれまでとは違うものを感じた。それは、「改心」と言うより「成長」と言うピノッキオの姿にである。

 ジェペット爺さんは、自分が作った人形が生命を得たのに驚き、そして喜ぶ。貧しいゆえに自分の着ていたコートを売ってピノッキオのために教科書を買い、ピノッキオを学校へ入れる。ところが、ピノッキオは学校へ行く途中に見かけた人形劇が気になり、学校を抜け出して人形劇を見に行ってしまう。一般常識からすればとんでもない悪童だが、しかしピノッキオは生まれたばかりである。暖炉に足を向けて燃やしてしまうほど無知である。人はみな物事の善悪は「経験」によって学ぶものである事を考えると、より好奇心を刺激される方に動いたピノッキオの反応は普通であると言える。

 さらに人形劇団から解放されたピノッキオは、親方にもらった金貨5枚を握りしめて家に帰る途中、キツネとネコに出会う。そこで金貨5枚を持っていると言ったものだから、たちまちカモられる。金貨を増やそうと持ちかけられ、埋めれば金貨のなる木が生えるからとそそのかされてその話を信じる。もちろん、金貨は後で持って行かれてしまうのだが、人を疑う事もまた学習で身につくものであり、経験のないピノッキオが簡単に騙されてしまうのも当然である。疑う事を知らない小さな子供を騙すのは簡単であるのと同じである。現代ではお年寄りも簡単に騙されるし、いい歳をした我が弟もだまされた。

 さらに、ようやく真面目に学校へ通い勉強するようになったピノッキオだが、今度は友達に誘われて一緒におもちゃで1日遊べる所へ行ってしまう。この時点ではそれまでの学びから躊躇するようになっているが、結局誘いに乗ってしまう。このあたりは普通の大人でもあり得ることである。正しい道を選ぶのは大人でも難しい。しかし、その成長は確実であり、くじら(映画では怪獣のようだった)のお腹の中でジェペット爺さんと再会したピノッキオは、知恵と勇気を使いジェペット爺さんを助けて脱出する。こうした精神的な成長が認められて、晴れて最後は人間の子供になれるのである。

 何となく「親の言う事を聞かない悪い子は酷い目に遭い、言う事を聞く良い子にはご褒美がある」といった単純な話のように思っていたが、実はそうではなかったのである(今さら気づいたのかもしれない)。子供用のお話であり、子供がいい子になるようにという教育的配慮がなされているとしても、人は誰でも白紙の状態からスタートするという事を、実は描いている。初めはこおろぎの警告を聞かない悪い子なのではなく、経験がないので判断基準となる正しい道がわからないのである。

 人は誰でも親に叱られていつの間にやら「正しい道」を覚えていく。学校には行かなければいけないし、先生の話はきちんと聞かないといけない。そして何よりも、途中で黙って学校を出てはいけないと学ぶ。そうしたことを教えられなければ、誰もがピノッキオと同じ行動を取るに違いない。人間には高度に発達した脳があるから、動物にはできない高度な学習をすることができる。学校に行くのもその一つ。そして経験からさまざまな事を学ぶ。そこには人間の悪意もある。

 騙されて悔しい思いをした人は、自分も誰かを騙してやろうと思うかもしれない。しかし、モラルが高い社会であれば、それは社会的な制裁を受けるから、それが自制に繋がる。そうでない社会は、「騙した者勝ち」の社会になってしまう。幸い我が国は前者である。そして騙された経験は学習として残り、(同じパターンで)二度と騙される事はなくなる。キツネとネコに再び遭遇したピノッキオも、今度はその甘言に耳を貸さずにその場を立ち去る。学習経験のあるなしではかくも大きな違いとなる。

 親は(白紙の心の)子供にあれこれと価値観を植え付けて育てる。子供はその価値観の中で育つ(あるいはその価値観に反発してかもしれない)。少し大きくなれば、他の大人や先生やあるいは童話などからも影響を受けるだろう。このピノッキオの物語も、子供は「言う事を聞かないピノッキオが酷い目に遭う」という風なメッセージで受け取るかもしれない(私もそうだったように思う)。そして「良い子にしていれば最後にいい結果が待っている」と。大人としては、正しいメッセージを子供に伝える義務があるのである。

 さらに物語の舞台となっているイタリアの田舎の町は貧しい町である。ピノッキオを騙したキツネとネコも食べていくのにカツカツで、人を騙して何とか食い扶持を確保していたと見ることもできる。貧しくとも悪の道に走らずに踏みとどまる人もいることを考えると、弱い存在なのかもしれない。嘘をつくと鼻が伸びるというのも、子供達には良い教育なのかもしれない。だが、大きくなるにつれて「嘘をついてはいけない」というメッセージも雲散霧消してしまう。童話の効果も結局、素直な子供時代限定なのかもしれない。

 できれば我が家の子供たちがまだ小さかった頃に一緒に観たかった映画である。良く知ったストーリーだったからかもしれないが、映画を観ながら余計なことをあれこれと考えてしまった。たまにはこういう映画鑑賞もいいかもしれないと思うのである・・・



【本日の読書】
哲学がわかる 哲学の方法 - ティモシー・ウィリアムソン, 廣瀬 覚 勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南







2023年5月24日水曜日

耳に痛いことを言う

 最近、Netflixでよくドラマを観ている。今観ているものの一つに「アリサ ヒューマノイド」がある。ロシア発という珍しいSFドラマである。タイトルにあるアリサとは人間型のロボット。最新式で人間の感情もわかると言われている。そのアリサがテストでキッチンに入る。客のオーダーを聞いて料理を出すのだが、ある太った女性客が生クリームを要求したところ、アリサは「健康に良くない」とこれを拒絶する。怒った客とその場で論争となる。本筋とは関係ないが、面白いシーンだなと観ていて思った。

 アリサは客の体型から必要なカロリーを瞬時に計算し、生クリームは控えるべしとの結論を出してそれを客に伝えている。しかし、客は健康よりも食欲を優先しており、生クリームを食べたいと主張する。ロボットは人間の命令を聞き、人間のために働く。されどこの場合、何が「人間のため」なのか。アリサはそれを健康に置いたが、客は食欲に置いている。どちらを優先するべきか。「良薬は口に苦し」と言うが、「美味しいもの」と「体に良いもの」はしばし相対立する。

 これが人間であれば、オーダー通りのものを出すだろう。相手の健康のことを考えても売上にはつながらない。高カロリーの食事をとって太ろうが病気にかかろうがそんなのは個人責任であり他人には関係ない。客もそれを望んでいるわけだし、言われた通りに出せばお互いWin-Winである。例え大盛りでも笑顔で生クリームを出すだろう。だが、家族であれば制止するだろう。家族は当然相手のことを考える。文句を言われようと、それが家族のためであれば苦言も呈するだろう。アリサはロボットながら家族の対応をしているのである。

 先日、会社である若手が遅刻してきた。と言ってもほんの数分である。ただ、初めてではない。こここのところよく数分の遅刻をすることがある。さて、どうするか。直属の上司はそれに対して何も言わない。席がちょっと離れていることもあり、たぶん気がついていない。私にしてみれば直属の部下というわけでもないが、そのまま何もしないでいいのだろうかと迷った。注意すれば相手は嫌な思いをするだろう。こちらにしても然り。ひょっとしたら嫌な存在だと思われるかもしれない。何も言わなければこれまで通りの良好な関係が維持できる。

 形は違えど、アリサのパターンと一緒である。迷った末、注意することにした(別にアリサの影響を受けたわけではない)。直属の上司に伝えて注意してもらうという方法も脳裏に浮かんだが、その若手とは知らない仲ではないし、それどころか席も近くて普段からよく話をしている。また何より私は役員でもあるから広い意味では彼も部下である。やはり自分で直接注意することにした。数分とは言え、遅刻は遅刻。1分遅れても日本の新幹線は出発してしまう。それに1分を放置すると、それが2分になり、3分となるかもしれない。

 「褒める時はみんなの前、怒る時はこっそりと」という原則に従い、彼をそっと脇に呼んで注意をした。彼はこの春主任に昇格している。「わずか数分の遅刻でも遅刻は遅刻、主任という立場は後輩がその行動を見ている。彼らに遅刻してもいいんだというメッセージになってしまう。そういう意味で、きちんと時間通りに来てほしい」と。私はもともと人に怒ったりするのが苦手な性分であり、できれば怒らずに済ませたい。注意も然り。されど自分の快楽よりも教育的指導を優先させることにしたのである。

 間違ったことを言っているわけではないが、モノには言い方がある(妻が大の苦手としていることである)。同じ内容でもモノの言い方一つで相手に伝わるものが違う。言い方一つですんなり受け入れてもらえるし、言い方一つで反発を買う(と妻には言いたい!)。穏やかに教え諭すように伝えたところ、彼も素直に頭を下げてくれた。次の日、彼は10分早く出社した(本音を言えば30分前に来いと言いたいところである)。もともと10分早く起きて行動すればいいだけの事。遅刻するのは意識の問題である。

 良薬は口に苦く、耳にも痛いものかもしれない。しかし、本人のためであるならばきちんと注意しないといけないと改めて思う。組織には規律が必要。それが息苦しいものであれば問題かもしれないが、時間を守るという規律は必要であろう。例えそれが数分だとしても。そして注意するということで自分が不快な気分になろうとも、相手のためになると信じるのであるならその不快を引き受けなければならない、と思う。くれぐれも相手に伝わる「言い方」は意識しないといけないが・・・

 これからどんどん進化していくAIが、アリサのように純粋に相手のためを思う行為ができるようになっていくのだろうか。たぶんそうなっていくのかもしれないが、その前にいい歳した大人として相手のためを思って嫌な役割を引き受けることもしていかないといけないと、改めて思う。そしてもし、逆に相手がそういう苦言を自分に対して言ってきたなら、「生クリームを食べたいのだ」と怒った客のようではなく、その真意を汲み取って素直に聞けるようでありたいとも思う。例え相手が年下の若者であったとしても。

 何より苦言は言われた相手にもよる。「お前に言われたくないよ」と思われたら効果はない。そういうところにおいても、己の行動も普段から意識していきたいと思うのである・・・

Sandeep HandaによるPixabayからの画像 

【本日の読書】