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2026年7月30日木曜日

記憶

 人間の記憶とはつくづく不思議なものだと思う。我々は生まれてからこのかた、さまざまに体験してきたことを記憶している。とは言え、すべてではない。忘却の彼方に消え去ったものも多い。記憶することはごく普通のことであり、我々は特に意識することはないが、考えてみれば不思議だと改めて思う。脳科学の観点からいうと、記憶とは脳内の神経細胞(ニューロン)同士の結びつき(シナプス)のネットワークによるものらしい。専門家の意見に異議を唱えるつもりはないが、それとて目に見えるものではないから、「おそらくそういう事だろう」という予想なのだと思う(その予想自体も凄いと思う)。

 そうであるとしても、それによって記憶される仕組みは考えれば考えるほど不思議である。自分自身のもっとも古い記憶は3歳くらいのものである。それも確かではないが、ちょうど4歳の時に弟が生まれて引っ越しており、それ以前の記憶なので3歳としているのである。もしかしたら2歳の記憶もあるのかもしれない。生まれた時からの記憶がないのは、ニューロン同士のシナプスが未発達だったのかもしれない。3歳の頃の記憶は、特に印象深いイベントだったわけではないのに、なんで記憶に残っているのかも不思議である。

 記憶の中でも、すぐに思い出すことができるものとできないものとがある。先日、大阪に出張に行ったが、新大阪から心斎橋に向かう通路を歩いていて、そう言えば前回来た時もここを通ったと思い出した。ここで昼飯を食べたなという店もあった。風景を見て思い出す記憶というものもある。やはり記憶容量の都合もあるのだろうが、我々の記憶のほとんどがこうした何かのきっかけから思い出されるものが大半であるように思う。逆にそういうきっかけがあってもまったく忘れ去ってしまっているということもある

 読んだ本と観た映画の記録を残すようにしたのも、記憶の補助としてである。この20年間で観た映画は3,000本を越える。そのすべてを記憶していることはできないわけで、ただ思い出せるようにブログに残しているのである。なので私の本と映画のブログは自分の記憶の補助であり、内容を後から思い出せるようにしている。それゆえに感想やうんちくは二の次である。だが、それでも観た事、読んだ事すら忘れているものもある。もちろん、ブログなど読み返さずとも鮮明に覚えているものもある。それは印象と結びついているからだが、なぜ印象と結びつくと鮮明に記憶できるのか、当たり前のようだが不思議である。

 記憶は事実のみが残るものなのかもしれない。そしてその時々の「感情」については記憶の対象外なのかもしれないと思う。小学校6年の時、4年生に対するクラブ紹介で、当時卓球クラブに所属していた私は、どういう経緯だったか4〜6年生の生徒が集合して見守る中で5年生の女の子と対戦し、見事負けてしまったことがある。ものすごく恥ずかしい思いをした記憶はあるが、「恥ずかしい思い」自体(の感覚)は忘れてしまっている。失恋の苦い記憶も覚えているが、「辛かった」という記憶だけで、「辛さ」自体の感覚は残っていない。だからいいのかもしれない。

 一緒に暮らしている両親は、年齢のせいなのか、子供の頃の記憶である長期記憶は健在だが、「今日のお昼ご飯に何を食べた」というような短期記憶は絶望的にない。モノをしまっても、しまった場所どころかしまったことさえ忘れている。なのでマイナンバーカードやキャッシュカードなどは私が管理している。記憶が書き換えられることはよく言われているが、両親とも同様である。母などは先日、訪問買い取りを利用したが、自分でものを渡し、お金を受け取ったにもかかわらず、「お金を受け取っていない」と言い出し、しまいには「トイレに行っている隙に持ち逃げされた」と言い出している。

 考えてみれば、人間とは記憶そのものである。自分の名前から始まり、住んでいるところ、これまで生きてきた経緯、そして考え方もすべて記憶であると思う。もしも、すべての記憶を一瞬にして失い、生まれた時の状況にリセットされたらどういう事になるのか。言葉も発せず、服を着るという事も知らず、羞恥心もない人間である。何もできない赤ん坊だからいいが、大の大人がそうなったら大変だろうと思う。認知症が怖いのは、自分が自分でなくなるから。今の自分の考え方を失い、今の自分が軽蔑するような行動を平気で取るかもしれない。そうなったら、今の自分は安楽死を受け入れるが、その時の自分は抗うかもしれない。そういう自分の姿は想像したくない。

 雨が降った翌日、濡れた傘を玄関に干していたら、いつの間にか母が(まだ乾いていないのに)取り込んでいた。なぜかと問うと、「盗られるから」と言う。そんな事私は考えもしなかったが、母はそんな調子で人を疑う行動や自分本位の言動をよくしている。大学を卒業する23歳まで同居していたが、昔からそうだったわけではない。年老いて衰え、考え方も被害妄想的になってきたのだろうかと思う。あるいはこれが秘められた本性なのかもしれない。自分も年老いたらそうなるのかもしれないと思うと、暗澹たる気持ちになる。老いて体のどの部分が使えなくなってもいいから、「目」と「記憶」だけは最後まで保っていたいと心から思う。

 辛い経験も悲しい経験も時が経てば癒される。それは感情が記憶されないからだと思う。嬉しい経験も同様で、1年間宅浪して勉強して、晴れて第一志望の大学に合格した時の震えて涙が出るような喜びも、今は「そういう経験をした」という記憶だけで「感情」は薄れている。それはそれでいいと思う。ただ、そういう記憶を積み重ねた自分をいつまでも保っていたいと思う。記憶とは自分そのもの。いつまでもそういう記憶を保った自分自身でいたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 蜘蛛 なぜ神で賢者で女なのか (講談社選書メチエ) - 野村育世 マスカレード・ライフ - 東野 圭吾





2026年6月21日日曜日

神は細部に宿る

 毎週末の深夜に映画を観るのを楽しみにしているが、この週末は『異動辞令は音楽隊!』を鑑賞した。その中でとあるシーンが気になってしまった。そのシーンは以下の通り。

①主人公が偶然立ち寄った居酒屋は、同僚の女性の実家。一緒に飲む事になり、そのまま看板になる。②店主である母親はまだ主人公と飲んでいる娘に戸締りを任せて帰る。③主人公は頃合いを見て帰宅する。④帰宅した主人公は認知症の母親がいないのに気づき、近所を探し回る。⑤母親はパトカーで送られて帰宅する。⑥主人公は母親を寝かしつける。⑦そこへ居酒屋の娘が主人公の家に忘れ物を届けに来る⑧母親が起きてきて娘を主人公の別れた嫁と勘違いして「お腹が空いた」と訴える⑨娘は快く料理を買って出て、3人で食べる。

 気になったのは時間である。①②では特に明示されていないが、店の看板の時間だからおそらく夜の10時頃だろう(居酒屋であることを考えるともう少し遅いかもしれない)。③では自宅は近くだとしても帰宅するのに30分くらいはかかるだろう(10:30)。④は近所を探し回る時間が短くても30分くらいだろうか(11:00)。⑤⑥では同僚の警官と話をしているし、母親を寝かしつけるのに30分くらいかかるとして11:30。⑦はこんなに遅い時間に訪ねるかという問題は置いておいて、簡単な調理だとしても⑧⑨では12時過ぎという事になる。そんな時間に普通に食卓を囲んで食事をするだろうか(主人公も同僚の女性も飲んだ後で普通に食事をしているのである)と考えてしまった。

 映画やドラマを観ていて、おかしいと思うことはよくある。しかし、そんな重箱の隅を突くようなことをしていても面白いことはない。したがって、そういう時は「そういうもの」として観る事にしている。主人公が超人的な活躍をしていても、ありえない偶然に遭遇したとしても、「そういうもの」と思えば何という事はない。しかし、この映画ではどうも上記のシーンに引っ掛かりを覚えてしまい、ストーリーから意識が外れ、あれこれと時間の流れを検証し、上記の結論を得て「どうなんだろう」と考えてしまった。

 マーケティングの世界では、「ターゲット」を細かく設定することがよくある。ターゲット顧客について、「二十代後半の女性、働く独身の一人暮らし」などという具合にである。そうして細かくターゲットを設定する事によって、実際の消費誘導行動を具体化しようというものである。どのくらいの効果があるのかはわからないが、ただ万人受けを狙うよりは遥かにいいというのは想像に難くない。結果的にターゲット以外の顧客に売れてもそれはそれ。そういう考え方があるせいか、映画やドラマでも細かい設定は大切なのではないかと思う。

 ミュージカルを観に行っても、舞台の端でしっかりと演技をしている端役の人をよく観る。観客の目はあくまでも主人公(または舞台の中央にいる役者)に行っていて、端役などに目を止めている人はいないと思うが(そういう私は観ているわけであるが)、それでもしっかりと演技をする(喜んで手を叩いたり驚いたりする)事によって舞台全体の雰囲気に影響を及ぼしているのだと思う。人が見ていないところ、見えないところにもこだわりを持つ事は芸術などでもよくある事で、それは結果的に全体の雰囲気に現れるものなのだろうと思う。

 現に面白い映画やドラマは、そんな細かいところに引っ掛かる事なく、物語の世界に感情移入させてくれる。『異動辞令は音楽隊!』は面白くないとは言わないが、途中で物語の世界から私の意識が外れてしまったのは事実である。途中でばら撒いた細かい伏線をラストで丁寧に拾ってまとめてみせてくれるストーリーなど(東野圭吾の作品などは割とこういうのが多い)は、読み終えて唸らされることがある。『壬生武士伝』だったか、集団での斬り合いの乱戦後、指がたくさん落ちていたというエピソードがあったが、実際は殺陣のような鮮やかな斬り合いなどではなかったと思う。

 私が担当する財務の仕事でも、経費予測などは細かくやったりする。ざっくりアウトラインを捉えるのもいいが、私は細かくやるほうである。時間はかかるかもしれないが、結果としてざっくりとしたアウトラインも精度が高まったりする。なので個人的には大事な事のように思う。物語の世界は著者や脚本家が自由に世界を構築できる。それが現実に近ければ近いほど、リアリティが増して物語が面白くなるように思う。面白い映画作りのためにも、そういうこだわりを気にして欲しいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり みんな彼女のモノだった――奴隷所有者としてのアメリカ南部白人女性の実態 - ステファニー・E・ジョーンズ=ロジャーズ, 落合明子, 白川恵子 夜明けはピンクゴールドに輝いて - 丸橋 賢 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史





2026年6月14日日曜日

ノルマの話2

 ノルマはいろいろな業種にあると思う。ノルマそれ自体が悪いものではないと思うが、それがだんだんと担当者レベルに落ちていった時にいろいろな弊害が出てくる。私も銀行員時代、クレジットカードや定期預金などの金融商品、貸出額や回収額といったさまざまなものにノルマを課された。今もそれは変わっていないように思う。つい先日、取引先の銀行の担当者に頼まれて投資信託をやらされたばかりである。その担当者にはそれ以前にクレジットカードを作らされてもいる。元銀行員として苦労がわかるだけについつい応諾してしまうのである。

 あれは入行して2年目か3年目だった時の事、別の財閥系の銀行に入った後輩から電話がかかってきた。曰く、クレジットカードを作ってくれないかというもの。そしてわざわざ私が勤務する支店にまで訪ねてきた。そして差し出されたのは某クレジットカードのゴールドカード。ゴールドカードとなると、当時の年会費は10,000円。私が作ってもらっていたのは年会費無料タイプだったから、頼んだ人には手間以外の負担はかけさせていない。しかし、年会費10,000円は若手銀行員の薄給には厳しいものがあった。

 断りたかったが、わざわざ困って訪ねてきた後輩を手ぶらで返すのも忍びない。ノルマがきついとこぼす後輩に覚悟を決め、さらに支店内を見回して優しかった預金課の課長さんにお願いして一口作ってもらった。その課長さんもとんだとばっちりだったが、「私の顔が立つなら」と引き受けてくれた。かくして予想外の2口の申込書を手に後輩は喜んで帰って行った。そのカードは1年で解約したのはいうまでもない。ノルマは「作成」であって「維持」ではな買ったからである(当然、預金課の課長さんにも解約をお願いした)。

 そうして作ったカードが銀行の経営にどれだけ貢献しているのかと問われれば、はっきり言ってほとんど貢献はしていないだろう。作るだけで動きのないカードなど管理費の負担だけであり、経営的にはマイナスである(ゴールドカードは別だが)。そんなバカみたいなノルマなどやめればいいと思うが、中には動いて収益をもたらすものもあるのかもしれないし、やめないところを見るとトータルでは採算が取れているという事なのだろう。それでもこの程度の負担であれば、何とかなるが、モノによっては厳しいものがある。

 保険なんかはおいそれとは頼まれたくないものの例である。その昔、銀行員時代の知人が某外資系の保険会社に転職した。それを聞いて真っ先に「来るな」と思った。そして案の定、彼は来た。曰く、保険に加入してくれと。保険会社の場合、まず転職に当たって知り合いの多さを聞いてくる。最初は知り合いから顧客を増やしていくためである。私もそれを聞いて保険業界に転職するのはやめたが、個人的に知り合いから勧めていくのは好きではない。「良いものだったら勧めるでしょう?」と諭されたが、「それはそうだがそれでもね」と断った。まぁ、確かに悪くはなかったので貯蓄だと思って加入した(今も入っている)。

 ただ、それでも車なんて高額なものになると、さすがに頼まれても簡単に「いいよ」とは言えない(自動車会社に就職した後輩はいたが、幸いなことに頼まれはしなかった)。自動車会社の営業マンには自爆営業しないといけないような厳しいノルマはあるのだろうか。あっても数は稼げないだろう。せいぜい身内ぐらいしか頼めないだろうと思う。それでもさすがに自家用車は他のメーカーのものにはできないだろうなと思う。自社に誇りを持っている人なら問題はないだろう。それかあえて外国車にすれば角が立たないのだろうかと考えてみる。

 いろいろと妄想は広がる。でもよく考えてみれば、ノルマが嫌なのは、「自爆営業」にあると思う。それがなければ精神的にも楽である。成績が上がらなくてもそれはまた別の問題である。そう考えたら、社員にノルマを貸すのは構わないが、「自爆営業禁止(あるいは許可制)」にすれば良いように思う。人は結局、尻を突かれないと動かないところはある。やり過ぎれば問題になる。プルデンシャル生命保険の不正事件はノルマというより過度の歩合制にあったようだが、ノルマみたいなものである。そこはうまくやらないと首脳陣も首を絞めることになる。

 プルデンシャルのような角の歩合制は別として、単なるノルマなら「自爆営業禁止」とするだけで、かなり社員の精神的な負担は軽減できるのではないだろうか。我が社にノルマはないが、そのあたりよく気をつけて「目標設定」をしなければと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり みんな彼女のモノだった――奴隷所有者としてのアメリカ南部白人女性の実態 - ステファニー・E・ジョーンズ=ロジャーズ, 落合明子, 白川恵子 逆説の日本史: 大正暗雲編 対華二十一箇条と尼港事件の謎 (29) - 井沢 元彦 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年1月4日日曜日

2026新春雑感

 新しい年がスタートした。昨年も正月三が日は実家で過ごしたが、今年は我が家としての実家である。年末に注文していたジャパネットたかたのおせちは量も多く、値段もそれなりであったが、3日間食べるという点では十分。両親も喜んでおり、これからおせちはジャパネットにしようと思う。お雑煮はだし汁の味付けに迷う。初日は失敗してしまったが、二日目からはなんとかなる。年賀状も年々少なくなっていく。内心、全部やめたいと思っているので出してくれる人に限って続けていこうと思う。

 元旦は初詣。今年から実家の氏神様に行く。1人で行こうと思っていたら、母が行くと言う。腰の悪い母だから神社まで歩けるか心配だったが、せっかくなのでのんびりと一緒に歩く。こういうひと時もあと何回あるだろうかと考えると、大事にしたい。昼過ぎになってしまったためか、神社はすでに長蛇の列。それでも初詣に行こうという人がこれだけいることを頼もしく思う。私自身、宗教心は薄いが、人間は自らを超越する神の存在を否定してはいけないと思っている。それゆえに神社は大事にしたい。これまでと同様、ここでも破魔矢を買って帰宅する。

 両親とも短期記憶はウルトラマンより短いかもしれない。つい今言ったことをもう忘れてしまう。親父は銀行にお金を下ろしに行くと前の日から準備していたが、当日、印鑑も通帳もどこかに置き忘れてしまう。自分でももどかしいのか、探しながらイライラして機嫌が悪くなる。当初は私が管理していたのだが、「自分のお金をなぜ自分で下ろせない」とキレてしまい、本人に返したのであるが、どちらにしろ自分で下ろせない状況には変わりない。うまくなだめつつ、どう印鑑と通帳を管理していくか、知恵と工夫が求められている。

 長いと思った9連休もあっという間に最終日。明日からはまた仕事である。しかし、それはそれで楽しみでもある。会社ではナンバー2として存在感を示せている。しかし、驕らないようにしないといけない。特に互いに意見が相違する場合、相手の考えもより一層尊重したい。自分は常に正論を述べているが、逆に相手が何も言えなくなるという指摘を昨年受けた。正論を唱えるのは当たり前であるが、相手の考えも尊重するという意味で、「内省」は今年もテーマに掲げたいと思う。

 自らの行動や考えを客観的に内省し、相手を受け入れる「寛容」も大事にしたい。特に両親に対しては、自分の意図した行動でなかったとしても、それが善意から出ているのであれば受け入れる寛容さを己に求めたい。そして心乱されず、心を鏡のように振る舞いたい。「鏡心」とでもいうべきであろうか。本来の意味がどうかは別として、自分の中に以上の三つは今年のキーワードとしたいと思う。自分の考えや行動が誰かのためになっているのかを意識したいと思う。

 仕事をしつつ、毎日の食事の支度をするというのは大変なことだと実感している。本格的な働く主婦からすれば笑われてしまうレベルだと思うが、今までのほほんとすべて妻にやってもらっていた身としてはかなり大変である。食事の宅配なども利用して切り抜けているが、これはこれで時間をうまく使っていきたい。日曜日、洗濯に掃除に買い物に食事の支度と忙しく動き回っていると自分の時間はなかなか取れない。親父がのんびりテレビを見ている姿を見ると手伝えと言いたくなる。己の今までの姿であろう。いい経験である。

 明日からまた仕事。会社の発展に大きく寄与したいという気持ちは引き続き意識していきたい。自分にしかできない仕事、自分ならではの仕事、誰かに常に頼られる存在であるとともに、誰かのために働くことを心がけたい。妻との正式離婚は息子が大学を卒業する2年後になる予定だが、その間に自分はこれからどう生きていくのかをよく考えたい。ラグビーもまだまだ楽しみたいし、それには己の体の老化に抗っていかないといけない。トレーニングはこれまで以上にしないといけないだろう。

 今年がどんな年になるのか。それは自分次第。1年が終わる時に、自分自身を褒められるように1年間行動したいと年の初めに思うのである・・・



Murali nathによるPixabayからの画像








2025年12月31日水曜日

2025年大晦日雑感

 早いものでもう1年の終わりである。早いと言ってもそれは過去を振り返ってみるからであり、早いと言いつつ365日をしっかり過ごしていることは間違いない。その365日であるが、記憶に残る日と残らない日とがある。大半は記憶に残らないが、きっかけがあれば思い出せたりする記憶もある。そのきっかけに有効なのは日記であり、このブログであったりする。両方とも欠かさないようにしたい(このブログは週2回だが)と思うゆえんである。

 この1年の大きな動きは、やはり別居と病気だろう。別居はもうこれ以上妻と一緒に生活を続けていくのは無理だと感じ、今後のことも考えて早いうちにと踏み切った。それ自体、後悔はしていないし、両親も2人だけの生活はそろそろ無理があると感じていたので、実家に戻るいいきっかけであったと思う。2年後に息子が大学を卒業したら正式に離婚する予定である。原因はおそらく自分にあると思うが、それを露骨な態度に表されていてはストレスが溜まるのみ。お互いのためになるものだと思っている。

 実家では家事を担うことになったが、何せ記憶が3分ほどしか持たない両親との生活もまた別のストレスに晒されている。すべてやってしまうのも逆に良くないかと思い、ご飯を炊くのは頼んでいる。しかし、帰るコールでご飯を炊くように伝えても、3回に1回はできていない。「(私からの帰るコールの)電話を切る」→「お米を研ぐ」→「炊飯器にセットする」という動作の合間に、何か別の用事が入ったりすると忘れてしまうのだろう。炊き忘れるのも想定して帰宅しないといけないということを学んでいる。

 病気については、あれこれ悩んでみても仕方がない。今後、医師と治療について話していく中で考えるべきことも出てくるのだろう。ラグビーも続けられなくなるかもしれないし、お金もかかるかもしれない。最悪、死ぬのだろうけど、それら諸々をいろいろと想定して動いていくほかない。実家に引っ越す時につくづく感じたが、物は少ない方がいい。身辺整理するにしても残された者の負担も考え、なるべく断捨離を実行して身の回りの物を少なくしておく必要もある。すぐに死ぬことはないだろうが、想定は大事だと思う。

 振り返ってみれば、仕事は順調であった。「経営とは問題のモグラ叩き」だと思っているが、日々問題は発生している。会社は創立50周年を迎えたが、まだまだ安泰とは程遠い。3代目の現社長を支え、4代目も内々に決まった。自分は社長を支え、No.2として引き続き手腕を振いたい。病気がどう進展していくかにもよるが、財務を中心に自分の役割を果たしていきたい。大事なのはコミュニケーションであるが、それが十分にできているかは随時意識していきたいと思う。

 来年は、より一層内省を極めたいと思う。物事に動ぜず、常に「自分が源泉」を心がけ、心の鏡を磨いていきたい。他人の行動は自分を表す鏡であるという考え方もあるそうで、なんとなく今の自分の心境に合っていると感じる。自分を持つことは大事だが、他人の考えを尊重することも大事。それをどう一致させていくか。仕事ではより一層大事なことであるが、プライベートでも同様。しなやかな水の如く隅々にまで目が行き渡る用に行動していきたいと思う。

 自分自身の在り方として、常に「良き夫、良き父親、良き息子、良き友人、良き部下、良き上司、良き同僚」であろうと心がけている。残念ながら「良き夫」はできなかったが、そのほかはこれからも努力したいと思うし、来年はさらに力を入れたい。自分の存在は他人の中にあってこそのところがあり、周りの人たちに快を提供できればいいなと思う。「良き◯◯」を極めていきたいが、その最終形は「良き父親」である。子どもたちに自分たちの父親はどんな人間だったのか。それを示したい。

 2026年はどんな年になるのか。少しずつ完成形に向けて努力と手間暇を惜しまないようにしたいと思うのである・・・



Gerd AltmannによるPixabayからの画像





2025年12月25日木曜日

格言雑感

 先日、出張先のホテルでメモに印刷された格言を見つけた。私は結構、格言の類が好きであり、割とこまめにメモしているが、そんなこともあって目に留まったのである。そこに印刷されていたのは、「人間、所詮入れたものしか出せない」という言葉である。この言葉に特に感銘を受けたという事はなく、「そういう部分もあればそうでない部分もあるのではないか」と単純に考えただけである。確かに、「物理的」に言えばその通りである。人間は食べたものを消化し、エネルギーとしてその活動に必要な部分を取り出し、残りかすは捨てる。トータルでは同じであり、物理学でいう一種のエネルギー保存の法則が当てはまると思う。

 しかし、入れたものが食物ではなくて、知識だったらどうだろうかと思う。もちろん、知識そのものは変化しない。しかし、人間は取り入れた知識を生かして問題を解決する。知識が醸成され、考え方となればその考え方によって問題を解決できる。その広がりは入れたもの以上になるような気がする。一見、それもエネルギー保存の法則に類似して、入れた知識が出ていく点では同じように思う。ただし、知識は忘れない限り何度でも繰り返し利用できる。その点は食物によって得られたエネルギーとは異なる。何度でも繰り返し利用できるという点で、「入れたもの」以上に出せていると言えると思う。

 しかし、量より質に目を向けると、利用する回数という量よりも、解決できる問題のレベルという質の点で入れたもの以上のものが出せているかとなると、また考えさせられるものがある。ビジネス書などを読めば、著者の考えに接してそれまでにない考え方ができるようになるかもしれない。本当はそこに自分なりの考えを付与して発展させれば「入れたもの以上」だと言える。ただ、それは知識の内容によるかもしれない。「全部運が良かったと思いなさい」(松下幸之助)などは考え方のあり方で、慢心を諫めるものであるが、それ以上ではない。

 これに対し、「天才が1時間かかってやる仕事は2時間かけて追いつき、3時間かけて追い越す」(本多静六)なども考え方であるが、天才の仕事ぶりを見て追いつけないと諦めていたとしたら、「時間をかければ追い越せるじゃないか」と考えて継続すれば、それは大きな成果につながるかもしれない。今まで出せなかった成果が出せるようになるという点で、入れた考え方は入れた以上の成果を生み出したと言えるかもしれない。これこそが人間が他の動物と違うところだと言えるのだろう。

 似たものとしては「経験」がある。これは自らの経験を知識に変換したものと言える。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」という諺があるが、これは一度熱い吸い物(羹)でやけどした経験から、冷たい和え物(膾)までフーフーと冷ましてしまうという状況を表したものであるが、過去の経験が知識となり、行動として表れているものである。過度な警戒心や臆病さを示す諺であるが、これも入れた知識が繰り返し利用される類のものであり(膾を吹く愚かさに気づくという新たな経験=知識を入れるまで続く)、入れたもの以上に出せる例とも言える。

 この言葉を思いついた人の本来の趣旨は違うのだろう。人間は所詮入れたものしか出せないので、入れたもの以上を出そうとしてはいけない、あるいは出せるものには限度があるといったものだろうと思う。天邪鬼な私としては、ついついそういう言葉に反発したくなる。そうではなくて、入れたもの以上に出せる場合があるのではないか、あるいは入れたもの以上に出せないと自分自身の価値はないのではないかと思ってしまうのである。入れたものが「指示」であれば、「言われたことしかできない」という事になる。それでいいのか、と思ってしまう。

 もしも本当に入れたもの以上は出せないのであれば、ならばより多く入れたらいいんじゃないのと思う。学生時代はラグビーに力を入れていたので、そのために常に体重を「あと5㎏」増やしたいと思っていた。太りにくい体質なのか、食べる量が少なかったのか、運動量が多すぎたのか、筋肉はそれなりについた感はあったが、体重はなかなか増えなかった。その体質は今も続いており、今は重宝しているが、もっと食えば良かったのかもしれない。知識に関しては、通勤時間を利用してたくさんの本を読んできたが、その成果は今しっかり出ていると実感している。それもまた良しであると思う。無理に入れたもの以上を出そうとせず、入れるものを増やし続けるのも大事である。

 出張の夜、1人ビジネスホテルの部屋にこもってつらつらとそんなことを考えてしまった。まだまだこれで打ち止めではなく、飽くことなく知識を入れ続けたいと思うのである・・・



【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  センスの哲学 (文春e-book) - 千葉 雅也  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2025年11月21日金曜日

迷惑メール雑感

 毎日たくさんの迷惑メールが送られてくる。個人で利用しているYahoo!メールは割と迷惑メールフィルターが効いていて、受信箱には入ってこないのでストレスは少ない。しかし、会社で使用しているビジネス用のアドレスはOutlookにそういう機能がないのかすべて入ってくる。感覚的に1日あたり100件近いメールを受信するが、その大半が迷惑メールである。いったい何のためにと思うも、その目的はいろいろなのだろう。ランサムウェアに感染させるという恐ろしい目的もあるだろうし、金銭を詐取するという目的もあるだろう。悪意はなくても宣伝を狙ったものも入っている。毎日大量に削除しながら送る方の考えに思いを巡らせてみる。

 例えば「株式会社ジャックス 個人情報確認のお願い」なんていうのは、フィッシング詐欺なのだろう。あわよくば氏名や住所、クレジットカード番号、パスワードなどを入力させて盗み出すものかもしれない。当然ながら株式会社ジャックスの名を語った詐欺メールである。「NINTENDO 継続課金の解除について」なんてものも同様かもしれない。「東京電力エナジーパートナー 未払い電気料金のお支払い方法について」などは直接お金を振り込ませるのかもしれない。「PayPay 今すぐ!5000円のPayPay残高ゲットのチャンス」なんてのもある。

 こういうものに引っ掛かるほど愚かではないが、どういう流れになるのか、ギリギリのところまで見てみたいという思いからクリックしてみたい誘惑に駆られる。さすがに素人が下手にクリックするとまずいのでそれはやめているが、誘惑はかなりある。何とかブロックしたいが、郵便ポストにチラシを入れるのを防げないようにメールを防ぐのも難しいのだろう。メールアドレスなど適当にアルファベットを組み合わせて片っ端から送っているだけだろうし、人間がやるわけではないからアドレスを変えても無駄だろうと思うから為す術もない。

 一方で、営業メールの方は相手に悪意はない。悪意はないからいいかと言えばそうではない。自宅の郵便ポストに入れられるチラシと同じで、たいていはこちらにとって必要のないものである。しかし、たまに有用なものもあるから見ないというのも具合が悪い。それでもタイトルでどんなものかわかれば中身をみなくてもいいのですぐに削除できる。HPなどから一方的に送り付けるのであれば、せめてそういう工夫くらいはしてほしい。営業目的でメールを送る場合、気を付けないと「諸刃の剣」になると思う。

 以前、毎日営業のメールマガジンを送り付けてくる会社のとある営業マンがいた。メールマガジンの場合、名刺交換などした際、勝手にメールを登録されてしまったりするが、それでも解除方法があれは面倒ながら解除できる。ところがその営業マンのメールマガジンはなぜか解除ができなかった。イライラしていたところ、偶然その営業マンから営業の電話が掛かってきた。名前を聞いた瞬間、それとわかったので先手を取って「いつもメールを送っていただきまして」と伝え、相手がそれを好意と受け取った感じのところへ「解除できなくて迷惑しています」と伝えた。当然ながら相手はセールスどころではなかった。彼は自分の「悪評」を毎日届けていたのである。

 いったいそのメールの目的はなんなのか。営業目的であれば相手に好意を持ってもらわないといけない。ただ闇雲にメールを送り付けても、それが相手に喜ばれているかを考えないと逆効果にしかならない。しかし、それを送り手の方でわかるかと言えば難しいので、せめてタイトルで削除する判断ができるとか、メールマガジンであれば(簡単なステップで)解除できる仕組みは必須だろう。「不要な場合はその旨メールをください」というのもダメである。こちらはその手間さえ惜しい。不要なメールを毎日見る苦痛は、その会社に対する嫌悪感を育成することになるのだと思ってほしいところである。

 メールは手軽である。現物の営業レターであれば、封筒に入れ切手を貼ってポストに投函するという手間がかかるが、メールならばクリック1つで多数の先に送れる。だから毎日熱心に送ればそれだけ仕事をした気になるのかもしれない。しかし、相手がそれを望んでいない場合、送れば送るだけマイナスの印象を与える事になる。先の営業マンみたいに、自分の悪評を毎日届けているとしたらどう思うだろうか。ちなみに、先の営業マンからのメールマガジンは翌日からピタリと止まった。止まったところで悪い印象が拭えたわけではない。私のところだけでなく、他への送付も見直していないと、かの営業マンは商売が難しいかもしれない。

 幸い私は営業が商売ではなく、せっせと営業メールを送る立場にはない。必要なメールのやり取りだけなので「迷惑メール」にはなっていないと思う。営業マンであれば迷惑メールを送っているつもりはないであろうが、受け取る方にしてみればランサムウェアや詐欺目的のメールと何ら変わりはない。少しでも効果的な営業ツールとして利用しようとするのであれば、そうした受け手側の気持ちを考慮してメールを送るべきだと思うのである・・・


Manfred RichterによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義







2025年7月7日月曜日

夏の日雑感2025

 まだ梅雨明け宣言は出ていないと思うが、連日の真夏日である。周りは皆「暑い、暑い」と繰り返すが、私自身はあまり言わないようにしている。と言うのも、夏は暑いのが当たり前であり、逆に暑くなかったら大変なわけである。そうであれば夏は暑くないより暑い方が良いわけであり、「暑い」と言っても始まらない。むしろ今の暑さを楽しむくらいにしたいと思う。実際、暑さにも7月の暑さと8月の暑さは違う。7月の暑さは例えれば「元気な暑さ」であり、8月のそれは「衰えた暑さ」である。肌にあたる日差しの痛さも違う。今の暑さは今のうちでないと味わえないのである。

 そう思うと今の暑さも楽しんでおかねばならないように思う。最近は熱射病や熱中症などに対する注意を促されているが、それはそれで注意したいと思うが、個人的にはあまり心配はしていない。シニアラグビーはこの時期でも活動は休止しない。炎天下で走り回るのはシニアにはよくないようにも思うが、みんな元気だ。この頃は帽子をかぶるようにしているが、意外と効果的であり、練習中だけでなく、外出時にもかぶるようにしている。練習中はたっぷりと汗はかくものの、時折吹いてくる風に妙な清涼感を感じる。「心頭滅却すれば・・・」などと説くつもりはないが、炎天下の涼風もまた心地良いものである。

 幸いな事に、仕事はデスクワークであり、日中はエアコンの効いた室内にいられる。外で働く人は大変だろうと思うが、我々は恵まれている。さらに昔から比べれば上着は必要ないし、ネクタイも不要である。一応我が社はIT企業であり、ドレスコードはなく、みんな私服である。それでも立場的にワイシャツとスラックスは着用しているが、かつてのネクタイ+上着の時代から比べたら天国である。今でもそれにこだわりを持っている人もいるようであるが、個人的には「臨機応変」、「郷に入っては郷に従え」の私としては、そういうこだわりはない。ノージャケット、ノーネクタイで十分満足である。

 銀行員時代、銀行員は50代半ばで肩叩きにあうので、早めに自分から外へ出ようと考えていた。基本的に一般企業がいいなと思っていたが、銀行が紹介(出向→転籍)してくれるところよりも自分で探そうと考えていた。関連会社は給料も大幅に下がるし、人間関係は似たようなものだしで魅力はなかったのである。しかし、出ようと出ようと思いつつ、心のどこかでそれを回避している自分がいたのは確かである。いざとなれば不安や面倒が先立ち、なんだかんだと行動しない理由を自分に言い訳していた。結局、偶発的に飛び出してみれば何の事はない。もっと早く飛び出していればと後から思ったものである。今抱えている問題もそう考えて行動に移そうと決意した。

 気がつけば7月。もう1年も半分が終わった事になる。早いもので、あと半年経てばまた年末年始の慌ただしさとなる。「光陰矢の如し」という諺があるくらいだから、昔も今も時が経つのは早いのだろう。しかし、考えてみればこれは当然で、現在から過去を振り返ればすべて過ぎ去っている事から時間が経つのは早いと感じるのも当たり前である。それが証拠に次の週末の事を考えるとまだまだ先という感覚が強い。楽しみな週末の前に仕事のウィークデーがあると長く感じるのではないかと思う。どう感じようと時計は動き続けているわけであり、その瞬間、瞬間を楽しみながらその時を過ごしたいと思う。

 週末に高校時代の同級生と会う機会があったが、話題の一つは親の事である。年代的に介護の話題が出てくるので情報交換である。幸い我が両親はまだ介護は必要ないが、2人だけで生活させておくのは心もとない状況である。一晩寝ると記憶は飛ぶし、毎日が何日、何曜日かもはっきりしない。影響が出ているのはゴミ出しで、曜日がわからなくなるのでゴミ出しを間違えたりする。生ごみを含む燃えるゴミの日を間違えると大変である。本人も老眼で気がつかないのか、先日はゴミ箱に蛆が多数湧いていた。本人曰く、「ゴミはちゃんと捨てている」と言うが、2日でここまで蛆まみれにはならないだろう。黙ってゴミ箱を掃除したが、やるせない気分になる。

 財布は何度もなくし、何度も見つかっている。実際には家の中で置き忘れているのであるが、その都度キャッシュカードをなくしたと銀行の窓口に行っていて、前回は「またですか?」と窓口担当者に言われ、「息子さん(つまり私)に相談してください」と言われて本人は憤慨して帰宅したという。銀行の窓口の人も大変だろうと思う。誰もが行く道なのかもしれないので邪険にしようとは思わない。ただ、我が身がそうなるのは何としても避けたいところ。家族に負担はかけたくないものである。おそらく我が両親もそう思っているのではないかと思うが、どう思っているのだろうか。

 時間は休むことなく進み続ける。今のままが良くても変化は避けられない。今もいたるところに諸行無常の風が吹く。それは清涼感というよりも寂寥感を伴う。いずれは両親を見送り、気がつけば己も最後の時を迎えているかもしれない。せめてその時にしっかりと意識を保っていたいと思う。振り返ればあっという間の人生なのだろうが、それまでの一瞬、一瞬を大事にしていきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学 (講談社現代新書) - 小熊英二  霜月記 - 砂原浩太朗







2025年1月5日日曜日

2025新春雑感

ここ数年、年末年始の我が家の光景は同じになってきた。元旦に1人起きて近所の氏神様に初詣に行く。心改め、神様には昨年のお礼と今年も見守っていただけるようにお願いする。基本的に神頼みはしない主義だが、このくらいは良いだろうと思う。そして破魔矢を買って帰る。朝も早めの時間だと参拝客も少ない。列に並ぶ時間は心を鎮めていろいろと物事を考える時間には良いが、列も短い方が良い。家族で参拝に来ている人を見ると羨ましく思うが、思い通りに行かないのがこの世の常と考えている。

往復の道すがら、今年の目標を考える。よその家族を羨む気持ちを思うに、我が家に足りない事をあれこれ思うのはやめようと思うと、自然に「知足」という言葉が浮かんだ。その後、実家へ向かう電車の中で読んだ本に「知足安分」という言葉が出ていた。偶然ではあるが、導きのように感じたので、今年はこれにしようと強く思う。さらには「自責」。今ある自分は自分の行動・考え方の結果。改めて「自分が源泉」の考え方を意識しようと思う。

そしてもう一つ「内省」。「自分が源泉」であるとするならそこに至る深い内省が必要だと思う。他人を批判する気持ちが湧いてきたなら、そこでまずはじっくりと考えてみたい。己にその批判をするだけの資格があるかどうか。自分に改善点はないのか。ただ批判するのではなく、それを改善する事はできないのか。じっくりと内省を経てからにしたいと思う。「知足・自責・内省」を1年間心掛けたいと思う。これは毎日の日記の冒頭に掲げているので、否が応でも目に付く。しっかりと意識したいと思う。

三が日は実家で両親と過ごす。毎朝雑煮を作り、夕食の支度をする。頼んでおいたおせちは意外にも量が少なく、2日でなくなってしまった。スーパーは開いていない。それでも冷蔵庫の中を見て、最後は親父を無理やり散歩に連れ出したついでに戸越銀座商店街で夕食のおかずになるものを見つけて何とかする。老いた母は食事の支度をしなくて済むと喜んでくれたが、やっぱり家事は大変である。改めてやってくれる人には感謝しないといけない。

両親とも短期記憶がますますなくなってきている。同じ会話を繰り返すのは当然だが、一晩寝るともう忘れてしまう。年末にビールを買わなければという親父に、「充分あるから不要」と伝えていたが、やっぱりそれを忘れて買っていた。さらに私のためにとウイスキーを買ってくれていた(同じウイスキーの封を切っていないものが棚に入っているのに・・・)。何も言わず、感謝してハイボールにして夜の映画のお供にした。嘆くのではなく、こういう時間も今のうちに大事にしたいと思う。

三が日は実家でのんびりとというわけにはいかなかったが、今年もまた一緒に過ごせたことは良かったと思う。母の家事負担を軽減し、話し相手になり、昔のように上げ膳据え膳ではなくなったが、それはそれで良いと思う。もう還暦の息子は勝手知ったる実家で何でもできるのだが、母はまだ「寝る時に寒くはないか」と何くれとなく世話を焼こうとする。煩わしい気持ちの方が強いのだが、ありがたく受け取る。もうこういう時間を後どれくらい過ごせるだろうか。母親というものはいくつになっても母親であろうとするものなのかもしれない。

こうして私の新たな年は始まった。1日1日を貴重な時間として、今年も過ごしていきたい。過ぎてしまえばまた「時の経つのは早い」と思うが、過ぎる前はたっぷりと時間があることがわかる。今年も4日が過ぎただけであと361日もある。この過ぎゆく時を大切に満喫して過ごしたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
迷ったら、ゆずってみるとうまくいく - 枡野俊明  三体2 黒暗森林 下 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功





2024年12月31日火曜日

2024年末雑感

2024年も最後の1日である。
1年に365日あるが、大半の日々は日常生活の中に埋もれていく。しかし、この日は世の人々は明日の元旦と合わせて穏やかに神妙に過ごすような気がする。この366日を振り返ってみると、大半の日々を同じように平穏に過ごせたと思う。毎年思うが、大きな不幸がなく過ごせたという意味で良い1年であったと思う。人生60回目の大晦日を穏やかな気持ちで過ごせるのは幸せであると思う。

仕事も思う通りにやって、それなりの実績は示せている。自分が思いついて提案し、実行した事は「自分ならではの仕事」と言える。自分がこの会社にいなかったらやっていなかった事であり、自分の存在価値そのものである。転職フェアへの出展を提案し、また別の新たな採用手法を提案し、採用の実績に繋げた。私がいなければ、2人の人間が我が社に入社しなかったと考えると、足跡を残せたかなと思う。

採用のために今年も出張に行った。北は札幌から、新潟、鹿児島と定例のところに加え、沖縄と富山が加わった。基本的に出張はあまり好きではないのであるが、夜、ホテルで1人過ごす時間は気に入っている。出張に行く限りは何か成果を残さないとと考えているが、そんな成果を振り返りつつ、映画を観たりして1人くつろぐ時間は結構好きである。あまりに気に入ったので、夏休みに1日家族に内緒で都内のアパホテルに泊まりに行ったほどである。これも気に入ったので、これからしばしばやろうと思う。

昨年、母方の従兄弟と会った際、「来年は親戚会をやろう」と約束した。実行が伴わない空約束は嫌なので、積極的に従兄弟たちを中心に連絡を取り、夏に実行した。叔父叔母と従兄弟たち4家族総勢10人だったが、夜遅くまで飲んで歌ってみんなに喜ばれた。基本的に幹事は好きじゃないし、面倒なので嫌なのだが、最後まで気持ちを押し殺してやり切った。もう親世代はいつまで会えるかわからない。これが最後かもしれないし、やって良かったと思う。

一方、夏に父方の叔父が亡くなった。父よりも先に逝った事も驚いたが、最後に会ったのはいつだったか思い出そうとしても思い出せなかった。同じ東京に住んでいながら、30年くらい会っていなかったかもしれない。遺影の叔父は確かに私の記憶している叔父であったが、遺体の叔父はどこかの知らない人であるかのようだった。そう言えば、昨年亡くなった父方の伯父も亡骸は別人のようであった。突然、道で会ってもたぶんわからないだろう。老いて死ぬという事の現実を改めて見たような気がした。

娘は就職し、息子は大学に進学した。娘は公務員になったが、初任給もボーナスも我が社の大卒の新入社員よりもいい。何となく複雑な気がする。娘の父としてはいいが、会社の役員としては何とかしないといけない。初任給で何かプレゼントしてくれるという事は残念ながらなかったが、まぁ良いだろう。それなりの大学に進学した息子を誇らしく思う一方で、父として今のうちに語っておきたい事もたくさんある。来年は少し息子と語り合う時間を作りたいと思う。

早いようでも366日もあればいろいろな事があった。ラクビーも楽しくできたし、親と過ごす週末も良かったと思う。早いと感じるのは振り返るからであり、その時々ではゆっくりと時間が過ぎている。人生も何となく2/3が過ぎたという気がしているが、まだまだ1/3が残っている。過ぎゆくひと時ひと時を味わいながらこれからも過ごしていきたい。そして大晦日にはゆっくり振り返ってみたい。そしてそこで良い年だったと満足したい。今日この大晦日、366日が凝縮された2024年も良い年だったと思うのである・・・


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【今週の読書】


運 ドン・キホーテ創業者「最強の遺言」 (文春新書) - 安田 隆夫三体2 黒暗森林 下 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功

2024年7月7日日曜日

2024夏の日雑感

 週末は例年の酷暑がやってきた。そんな酷暑でもシニアラグビーの練習はある。自分の事は棚に上げて、みんなよく参加するよなと呆れてしまう。世間では「危険な暑さ」と言われているが、そんな炎天下の中でのラグビーの練習に汗をながす。学生時代はこの時期シーズンオフで、高校の時はそんなものがなかっただけに喜んだものである。なのに学生より体力の劣るシニアでこの時期にラグビーをやるというのもどうなのかという気もする。おまけに来週は公式戦の試合が組まれている。

 それはそうと、過酷な練習をするわけでもなく、みんな頻繁に水分補給しながらやっている。高校時代は水を飲ませてもらえなかったから、今から考えると酷いものである。水分補給しながら、濡らしたタオルで頭から顔、首と拭っては次の練習に移る。時折、吹いてくる風になんとも言えぬ涼を感じる。立っていても汗が流れるような炎天下で、ちょっとした風が心地よく感じられる。どんな状況でもいい事はあるという暗示のようでもある。練習後の冷たいシャワーに幸せ感を得られる。

 一夜明けて本日は東京都知事選。炎天下でも投票には行く。今回は小池さんにも蓮舫さんにも投票する気はしない。第三の候補となると、個人的には元航空幕僚長か元安芸高田市長かと迷うところ。最後まで迷ったが、名前を書く段階で、もう一度候補者リストを見てみたが、数が多過ぎて探すのが面倒になる。やっぱり誰もが立候補できることは大事だと思うが、だからこそ真剣に市長を目指す人だけが立候補すべきではないかと思う。そのあたりは自由を与えられている方が持つべきモラルではないかと思うのである。

 その足で実家に向かう。週末1日は実家に行き、家事の手伝いである。トイレ掃除や床掃除。昼と夜の食事。母もよる年波には勝てず、だいぶ家事能力が衰えている。特に料理の気力が衰え、昭和男子の私がレシピと睨めっこして見様見真似で作った食事でも「豪華だ」と喜んでくれる。冷凍食品など1週間分の買い出しも行う。まだ自立して生活できているからいいが、介護となったらどうなるのだろうとよく思う。そしてそれは27年後の自分の姿なのだろうかと。

 父は耳が遠くなり、したがってテレビの音量も大きい。同じ部屋にいると猛烈なストレスを感じる。テレビのバラエティ番組はもともと好きではないが、音量を高くして聴くと害悪にしか感じられない。「テレビを見ていてバカになる」ような気が本当にしてくる。悪いとは思いつつ、音量を下げてもらったが、27年後の自分はどのような老後を過ごしているだろうかと思う。たぶん、PCに向かっている時間が長くなってはいるだろう。このブログもたぶん続けているだろうと思う。今のこの文章を読み直してどう感じるだろうか。

 8月には親戚会をやる事にした。親世代も数が少なくなってきたので、存命のうちにみんなで集まろうという企画である。我々は従兄弟同士の仲が良い。それは子供の自分に望月の母方の実家に集まり、みんなで遊んだ経験が大きい。だが、みんなそれぞれの都合があって、日程と場所の調整に難航している。「やりたい」という気持ちになってくれれば、調整も容易いと思うのだが、なかなか壁は厚い。こういう幹事役はもっとも苦手としている自分であるが、親のためにもやり切ろうと思う。

 暑い夏だが、夏だから暑い。それを嘆いていても仕方がない。冷夏で冷害に悩む事態よりは遥かにいいだろうと思う。どうせすぐに涼しくなって寒くなる。ならば今のうちに炎天下すら楽しもうと思う。そう思えば、わずかな風にも涼を感じられる。酷暑にあってもわずかな風に涼を感じられる、そんな自分でありたいと改めて思うのである・・・


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【本日の読書】
射精道 (光文社新書) - 今井 伸  心はあなたのもとに (村上龍電子本製作所) - 村上 龍




2024年3月20日水曜日

祝日雑感

 毎週末、1日はラグビーに行き、1日は実家へ行って掃除と料理をして帰ってくるとほぼそれで土日は終わる。好きなことをしているわけであるが、それ以外の事をする時間があまりない。もう1日あれば他のことができるのにと常々思っている。そんな中、本日のような祝日はそんな「もう1日」にあたる。朝から予定のない1日というのは、実にありがたい。前夜は翌朝のことを気にしなくていいので、2時間23分の映画(『BAD LANDS バッド・ランズ』)を観た。目覚ましもセットしないで寝る。

 しかし、悲しいかな、それでも6時間もせずに目が覚めてしまう。たまたま本日は家族もみんな出掛けてしまい、私1人。こういう時間も貴重である。ブランチは近所のラーメン屋へ行く。基本的にラーメン好きであるが、あれこれ凝って食べ歩くほどではない。近所に「家系」のラーメン店があったので行ってみる事に。こういうラーメン店ではところによって入りにくい店がある。ラーメン二郎などはその最たるもので、通でないとオーダーからマゴマゴしてしまいそうで居心地が良くないから行くのを躊躇する。

 本日入った店は「紫極」という店であったが、券売機も人件費削減のためではあろうが、初めての者にはプレッシャーとなる。券売機の前で時間をかけるのも憚られるから何がいいのかゆっくり選べない。したがってとりあえず無難な普通のラーメンにする。席に座ってゆっくりとメニューを見て選ぶということができれば他のメニューにしていたかもしれない。チケットを渡してよく観察すれば、みんな麺の硬さやスープの濃さなど好みを伝えている。値段は800円。普段、平日に行く日高屋の倍であるが普通だろう。日高屋のラーメンは、「値段並みの味」を意識しているそうで、特別に美味しいわけではないが不味いわけもない。サラリーマンの懐には優しい店でありがたい。ラーメン店もいろいろあっていいと思う。

 帰った後は録画したビデオの鑑賞。普段、時間がなくてとりあえず撮っておくが、いざ観ようと思うとあまり時間の余裕なくいつの間にやら溜まっている。そうした溜まったビデオが今日は2番組減った。まだまだ残っているが、急ぐものではないし、ゆっくり観ていこうと思う。思うにこういう暇な1日がもっとあればと思うが、ラグビーも好きでやっているわけだし、実家の両親と過ごす時間もいつまでもあるわけでもないし、減らすわけにはいかない時間である。となれば当面は仕方ない。

 昨年、定年退職した知人は、独身ではあるが毎日楽しく過ごしていると言う。よく定年後、しばらくはいいがやがて暇に耐えきれなくなると聞いたことがあるが、今のところまったくそういう気配はないと言う。私も割と孤独には強いと思うので、おそらく毎日快適に過ごせると思う。今はまだ経済的にもそんなゆとりはないから仕事を辞めるわけにはいかないし、仕事を楽しめるのも今のうちであるから、今は今で働くことを楽しみたいと思う。

 それにしても、仕事を辞めた後はどんな生活をするだろうか。私の性格からすると、毎日決まった時間に起きて、決まったルーティーンを繰り返すだろう。今は、起きてから出勤前の1時間ほどは哲学読書の時間に充てている。同じように朝は自宅でまずは勉強系の読書をし、掃除洗濯系の家事をこなし、それから喫茶店に行って気楽に読める読書を楽しみ、日中はその時々のフリータイムで、夕食後は海外を含むドラマを楽しみ、寝る前に1日の締めとして映画を観るという生活になるだろうと今から考えている。たぶん、ほぼそれに近い生活を送ると思う。

 普段とは違う休みということで、たまの祝日は新鮮である。来るべき老後のデモというわけではないが、そんなことをつらつらと考えてみた。どんな老後生活を送るのだろうか。こういう祝日に、今から少しずつシミュレーションしていくのも悪くないなと思うのである・・・

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【今週の読書】

世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book) - 牛尾 剛  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義







2024年1月3日水曜日

2024新春雑感

 新しい年が始まった。年末年始は7連休なのであるが、例によって7日間は矢の如く過ぎていく。今年は長男が大学受験ということもあり、妻も帰省せずに家にこもった7日間。私はと言えば、年末2日間と年始2日間を実家で過ごす。大掃除らしきことを手伝ったり、年始の用意を手伝ったり。かつてのように実家に帰れば上げ膳据え膳というわけにはいかなくなった。両親も齢86となり、体も思うように動かせなくなり、家の中も乱雑になりがちである。同居できたら良かったと思うが、そこは不肖の息子の及ばぬところである。

 新しい年は、私にとっては還暦となる節目の年。還暦と言っても、長生きの時代、かつてほどありがいものでもないが、それでもなんとか暮らしていけるのは感謝である。これから悠々自適というのであればよいが、まだまだスピードダウンするわけにはいかない。住宅ローンはまだ10年残っているし、弟のために新たに作った借金もある。トラック競技で言えば第4コーナーを曲がったところだろうか、ゴールまでラストスパートが残っている。その後、ウィニングランができるかどうかがこれからにかかっている。

 元旦は1人、近所の氏神様に初詣に行く。毎年の恒例行事である。神様の前で首を垂れるのも下手をすると年に一回であるが、それでも1年の初めの挨拶として欠かせないと考えている。思えば日本の神道は実に素晴らしいと思う。教義などないから、信徒に義務を果たすこともない。八百万の神々は、自分だけを信仰せよと強制することもない。「キリスト教徒でなければ人にあらず」と信仰を強制した血塗られた歴史もなく、「聖戦(ジハード)」の名のもとに殺人を正当化することもない。だからこそ安心して首を垂れることができるのである。

 妻と子供たちはのんびりと寝坊を楽しみ、お雑煮を食べてから、夕方おっとりと初詣に出かけて行った。私のように「元旦の最初の行事として参拝する」という考え方とは違う。それはそれで悪くはないが、こういう時、自分はどこまで家族に自分の考えを伝えるべきかとよく考える。家長として号令をかけ、強制的に起こして参拝するのか、家族に従って自分の考えを曲げるのか。「父の教え」を伝えるには前者だし、みんなの考えを尊重するなら後者である。多くの人が「親の教え」を後から振り返ったりする。嫌がられても押し通すべきなのか、嫌がられずに自分の考えを伝えることなく終わらせるのか、なかなか判断は難しい。

 毎年、1年間の目標となるキーワードを決めているが、今年は「もう一段高く」にしようと思う。まだまだペースダウンはできないが、一気に駆け上がるのも体力的に厳しいものがある。無理せず着実にステップアップしていけば、やがては眺めの良い景色に辿り着けるかもしれない。後ろを振り返るのはほどほどに、まだまだ顔を上げて一歩一歩高みを目指して行きたい。仕事でも会社の状況は楽観できる状態ではないし、社員みんなの生活もかかっているので真剣に取り組んでいきたいところである。

 膝の痛みは相変わらずで、早く試合に復帰したいが、まだ走れるかどうかもわからない。客観的に考えれば、年齢的にラグビーなどやるものではないと思うが、頭の中は20代のままであり、まだまだできると思ってしまう。実際、同年齢のおじさんたち相手ならまだまだできると思うが、まともに動けないと話は始まらない。老化に抵抗し、美容のためのアンチエイジングに力を注ぎたいなどとは思わないが、まだまだラグビーをやりたいというただその一心で、筋トレをしたり走ったりという努力は続けたいと思う。

 今年、娘は就職である。公務員を選んだのは娘らしい。働く上での心構えを伝えたい気もするが、難しいとも感じている。せめて2人でゆっくり話をする時間くらいは作りたいようにも思う。そして息子は大学受験。私立の難関を目指しているが、自分の経験を伝えることはできていない。それが必要なのか、それとも疎ましいだけなのかはわからないが、親父の経験を知ってほしい気もする。もしも万が一、浪人することになったら、どこかで自分の考えをしっかり伝える機会を作りたいと思う。

 スタートした2024年もあっという間に過ぎていくのだろう。年末に振り返った時に、「今年はこれをやった」というのをしっかり残したいと思う。映画もたくさん観たいし、NetflixやAmazonPrimeのドラマも観たい。本も読みたいし、自分の考えをブログに綴ることも続けたい。誰かに読んでもらうというより、後から自分で読み返すためだけに。週2回のペースを維持できれば100本くらいの雑感が溜まるだろう。それも自分自身の記録である。年末には今より一段高いところにいられるように、今年1年頑張って過ごしたいと思うのである・・・

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【今週の読書】

  




2023年12月31日日曜日

2023年末雑感

 2023年も最後の1日となった。振り返れば365日、1日とて同じ日はなく、その1日1日が自分の人生を作っている。2年越しの裁判は和解という形で終わった。会社として借りていたお金の返金裁判を起こされ、結局全額返済させられた。たった1回返済が遅れただけで、次の月末には払うと告げていたのに裁判を起こされ、和解とは言え、全額返済させられたのだから負けに等しい。法律とは公平でもあり、冷たくもある。うまく利用した者が勝つとも言える。もう過ぎた事と諦めるしかない。

 裁判は元同僚たちにも支えられた。結果は驚くほど仕方ないと受け入れてもらえた。年末には忘年会にも声をかけてもらい、楽しいひと時を過ごした。元社長は恨まれた挙句、元社員たちとの人間関係を失った。本人はそんなものよりお金の方が大事なのだからいいのだろうが、価値観の違いというものは大きいものである。私としては、元社長には少なくとも一矢報いたし、元同僚たちとはこれからも年に何回か飲みに行ったりできるだろうし、それで良しと致したい。

 夏には息子の高校野球観戦に3度行った。炎天下の中であったが、両親も同行した。昔から高校野球は高校スポーツの中でも優遇されていたが、1回戦で駒沢球場、2回戦から神宮球場というのは贅沢である。ただ、親としてはありがたい。どこかの高校のグラウンドで立ち見となったら、高齢の両親はとても観戦できなかっただろう。3回戦でシード校に負けたが、1点差の接戦だったし、相手は結局甲子園に行ったし、十分だったと思う。親子ともどもいい思い出になったと思う。

 秋には伯父が亡くなった。突然の訃報で驚いたが、家族によると突然でもなかったらしい。コロナ禍で行くこともなかったので仕方がないが、伯父の時間は動いていたが、こちらから見た伯父の時間は止まったままだったのである。同い年の従兄弟が喪主を務め、私も弟と共に遺族側として葬儀を手伝った。いずれ伯母の時がくるし、その前に我が両親かもしれない。亡くなってから偲ぶのもいいが、生前に十分話をしておきたいと思う。父も急速にボケてきているから尚更である。

 年末には喪中葉書が例年より多く届いた。私の年代だとやはり親が亡くなったというのが多い。いずれみんなその時はやってくるわけであり、私と同年代の人の親ということは、みんなそれなりに長生きしていると言えるわけであり、それはそれでいい事だと思う。今年も一年を通じて毎週実家に通い、掃除と料理をした。料理も主菜と副菜の組み合わせとか、肉好きの父と肉を食べない母との嗜好の違い、高齢者向けの味付けの工夫と、ただ作ればいいというものではない難しさを味わっている。来年はもう少し腕を磨きたいと思う。

 順調だったのは仕事だろうか。会社の業績は目標未達であったが、M&Aに挑戦して成功させた。間違いなく自分がいなければできなかった事であり、会社の歴史に名前を刻んだという自覚を持てた。買収して子会社にした会社の役員にもなり、そこでの役員報酬をもらえることになって収入も増えた。その分、仕事は増えたが、収入増の対価であれば仕方がない。それに買収した会社にも社員がいる。みんながハッピーになれるようにしないといけない。本当の意味で成果に胸を張れるようになれるかどうかはこれからである。

 ラグビーではまたも秋の試合で膝が悪化してしまった。昨年同様、2ヶ月試合も練習もできず、復帰の予定は見えない。やはり頭の中とは違い、体は確実に老化しているのだろう。いつまでも同じようにラグビーをやり続けることはできないと思うが、自分よりも年上の人たちがまだまだやっているので、体に合わせてうまくやっていこうと思う。とは言え、体で覚えたラグビーを変えるのは難しいのも事実である。

 あと何時間かしたらまた新しい年を迎える。人の人生など壮大な宇宙の時の流れの中では、瞬きするよりも短い時間かもしれないが、これも一つの区切りである。ずっと続く長い道でも、途中にいろいろと区切りがあった方が道中の変化になっていいと思う。今年もいい年だったかと問われれば、幸福より不幸が少なかったという意味ではいい年だったと思う。また、次の一年もそう思えるように過ごしたいと思う。何はともあれ、健康で一年を終えられることは何より。感謝の気持ちと共に2023年を見送りたいと思うのである・・・

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【今週の読書】

 







2023年6月7日水曜日

内なる自分と分人

 還暦まであと1年となり、自分自身について改めて振り返ってみた。先日読んだ吉田松陰の書物には、「人の評価は棺の蓋を閉じた時に決まる」というようなことが書かれていた。その通りだと思う。だとすると、自分がどんな評価を受けるのだろうかはまだまだわからないことになる。「あなたが生れた時、周りの人は笑ってあなたは泣いていたでしょう。だからあなたが死ぬ時は周りの人が泣くような人生を送りなさい」(村枝賢一)という言葉があるが、意識したいと思う。今の自分はどんな風に周りから思われているのだろうか。ただ、その印象はだいぶ分かれていると思う。

 平野敬一郎の小説『ドーン』に出てきた概念で、『私とは何か-個人から分人へ-』でも紹介されていた「分人」という概念は面白いと思う。簡単に言えば、人はそれぞれ状況によって異なる顔を持っているというもの。私も親に対する顔や友人に対する顔(友人といっても高校時代の友人と大学時代の友人とはまた違う)はそれぞれ違う。ある友人に見せている顔は別の友人には見せていないということもよくある。それほど大きな違いがあるわけではないが、確実に家族に見せている顔とは違うと思う。それはまた職場の同僚やシニアラグビーチームのメンバーに対するものもまた然りである。

 多重人格というわけではないだろうが、それぞれの環境によって自然とそうなっていくのだろうと思う。誰でも年を取れば考え方も変わる。学生時代のノリでいつまでもいるわけではない。ところが学生時代の友人は、学生時代に形成された自分のイメージでずっと接してくる。すると、こちらも自然とその対応になる。高校生の時と大学の時も違うし、社会人になってからもまた微妙に異なっていたりする。それが証拠に友達がごちゃ混ぜになっているFacebookだと自由に投稿できなくなっている。それはある友人には知られてもいいが、別の知人にはちょっとというところがあるからである。当然、子供たちに対する顔も違う。

 今の生活を考えてみると、自分には大きく分けて4つのグループがある。家庭と職場とラグビーチームとである。それ以外の友人知人関係はもちろんあるが、頻度から考えれば4つ目のその他グループになる。家庭内での自分と職場での自分とラグビーチームの自分もまた違う。家庭では妻の横暴にじっと耐え、かろうじて相手をしてくれる娘と良好な関係を築こうと気を使い、なんとか普通に会話できる息子に父親としての威厳を支えてもらって自分の世界を維持している。唯一、両親に対しては自然な自分で接している。

 職場では部下に対しては威張らないように穏やかな感情を維持し、同僚と議論して自分の考えと違うことがあっても、一旦は受け入れるように心掛けている。おそらくその顔は、社会人デビューしたての頃とはまるで違うと思う。あの頃ぶつかった人たちには申し訳なく思う。たぶん、今の私の姿を見たら印象もだいぶ違うかもしれない。そう考えると、「あいつは〇〇な奴だ」という事は、あまり当てはまらないかもしれない。嫌いな相手に見せる顔と好きな相手に見せる顔は当然違う。ならば第三者から聞くその人の評判は割り引いて考える必要がある。

 最近では年齢の影響もあるかもしれないが、なるべく善人でありたいと考えている。人に媚びを売るのとは違うが、あえて嫌われる必要もない。自分と接した相手にはなるべくいい気分でいてもらいたいと思う。しかしながら、根っからの善人というわけでもないから、万人に対してというわけではない。特に今裁判をやっている相手には憎まれているだろうが、それを改善しようとは思わない。むしろ徹底して勝利してやろうと考えており、そのための手加減をするつもりもない。裁判所に提出する答弁書や準備書面では相手に痛みを与えるように書いている。さぞかし私を憎んでいるだろうと思う。それもまた私という人間である。

 ラグビーの試合では、チームメイトからタックルを賞賛される。私自身、タックルは得意なプレーの一つと認識していて、恐れずに行くことができるプレーである。ただ、常に満足いくものであるわけではない。試合後に褒められても、自分としては満足いくものでなかったりすると、お世辞と捉える。しかし、私のタックルを見ていると「倒してくれるので(そこまで)急いで戻らないといけないと思う」とか「自分も負けずに全力でいかなければと思う」とか言われると嬉しくなるし、お世辞とも思えなくなる。内から見た自分と外から見た自分とにギャップがあるのかもしれない。

 録音された自分の声を聞いた時、誰でも自分の声とは違うイメージを持つ。それは試合の動画を観ても同じ。自分はこんな走り方をしているのか、などは改めて気づくギャップである。それと同様、私と接した人から見た私は、内なるイメージとは異なるものだと思うのが自然なのかもしれない。付き合ってみたらどんな人間なのか、知りたいと思う。それは男と女ではまた違うだろう。果たして女性から見た私はどうなのだろう。内なる紳士のイメージと大きなギャップがあるのだろうか。一度誰かに忌憚のない意見を聞いてみたいと思う。

 私にもいろいろな顔があるが、その一つ一つの評価を聞いてみたいと思う。果たして自分はいい夫(これはかなり難しい)、いい父親(でありたい)、いい友人(人によるだろう)、いい同僚(であるのではないか)だろうか。評判を気にして生きるつもりはないが、好きなように生きて、いろいろとバラエティに富んだ評価になると面白いと思う。しかしながら、何よりもやはり分人を統一する内なる自分のイメージを大切にしていきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】