2026年7月30日木曜日

記憶

 人間の記憶とはつくづく不思議なものだと思う。我々は生まれてからこのかた、さまざまに体験してきたことを記憶している。とは言え、すべてではない。忘却の彼方に消え去ったものも多い。記憶することはごく普通のことであり、我々は特に意識することはないが、考えてみれば不思議だと改めて思う。脳科学の観点からいうと、記憶とは脳内の神経細胞(ニューロン)同士の結びつき(シナプス)のネットワークによるものらしい。専門家の意見に異議を唱えるつもりはないが、それとて目に見えるものではないから、「おそらくそういう事だろう」という予想なのだと思う(その予想自体も凄いと思う)。

 そうであるとしても、それによって記憶される仕組みは考えれば考えるほど不思議である。自分自身のもっとも古い記憶は3歳くらいのものである。それも確かではないが、ちょうど4歳の時に弟が生まれて引っ越しており、それ以前の記憶なので3歳としているのである。もしかしたら2歳の記憶もあるのかもしれない。生まれた時からの記憶がないのは、ニューロン同士のシナプスが未発達だったのかもしれない。3歳の頃の記憶は、特に印象深いイベントだったわけではないのに、なんで記憶に残っているのかも不思議である。

 記憶の中でも、すぐに思い出すことができるものとできないものとがある。先日、大阪に出張に行ったが、新大阪から心斎橋に向かう通路を歩いていて、そう言えば前回来た時もここを通ったと思い出した。ここで昼飯を食べたなという店もあった。風景を見て思い出す記憶というものもある。やはり記憶容量の都合もあるのだろうが、我々の記憶のほとんどがこうした何かのきっかけから思い出されるものが大半であるように思う。逆にそういうきっかけがあってもまったく忘れ去ってしまっているということもある

 読んだ本と観た映画の記録を残すようにしたのも、記憶の補助としてである。この20年間で観た映画は3,000本を越える。そのすべてを記憶していることはできないわけで、ただ思い出せるようにブログに残しているのである。なので私の本と映画のブログは自分の記憶の補助であり、内容を後から思い出せるようにしている。それゆえに感想やうんちくは二の次である。だが、それでも観た事、読んだ事すら忘れているものもある。もちろん、ブログなど読み返さずとも鮮明に覚えているものもある。それは印象と結びついているからだが、なぜ印象と結びつくと鮮明に記憶できるのか、当たり前のようだが不思議である。

 記憶は事実のみが残るものなのかもしれない。そしてその時々の「感情」については記憶の対象外なのかもしれないと思う。小学校6年の時、4年生に対するクラブ紹介で、当時卓球クラブに所属していた私は、どういう経緯だったか4〜6年生の生徒が集合して見守る中で5年生の女の子と対戦し、見事負けてしまったことがある。ものすごく恥ずかしい思いをした記憶はあるが、「恥ずかしい思い」自体(の感覚)は忘れてしまっている。失恋の苦い記憶も覚えているが、「辛かった」という記憶だけで、「辛さ」自体の感覚は残っていない。だからいいのかもしれない。

 一緒に暮らしている両親は、年齢のせいなのか、子供の頃の記憶である長期記憶は健在だが、「今日のお昼ご飯に何を食べた」というような短期記憶は絶望的にない。モノをしまっても、しまった場所どころかしまったことさえ忘れている。なのでマイナンバーカードやキャッシュカードなどは私が管理している。記憶が書き換えられることはよく言われているが、両親とも同様である。母などは先日、訪問買い取りを利用したが、自分でものを渡し、お金を受け取ったにもかかわらず、「お金を受け取っていない」と言い出し、しまいには「トイレに行っている隙に持ち逃げされた」と言い出している。

 考えてみれば、人間とは記憶そのものである。自分の名前から始まり、住んでいるところ、これまで生きてきた経緯、そして考え方もすべて記憶であると思う。もしも、すべての記憶を一瞬にして失い、生まれた時の状況にリセットされたらどういう事になるのか。言葉も発せず、服を着るという事も知らず、羞恥心もない人間である。何もできない赤ん坊だからいいが、大の大人がそうなったら大変だろうと思う。認知症が怖いのは、自分が自分でなくなるから。今の自分の考え方を失い、今の自分が軽蔑するような行動を平気で取るかもしれない。そうなったら、今の自分は安楽死を受け入れるが、その時の自分は抗うかもしれない。そういう自分の姿は想像したくない。

 雨が降った翌日、濡れた傘を玄関に干していたら、いつの間にか母が(まだ乾いていないのに)取り込んでいた。なぜかと問うと、「盗られるから」と言う。そんな事私は考えもしなかったが、母はそんな調子で人を疑う行動や自分本位の言動をよくしている。大学を卒業する23歳まで同居していたが、昔からそうだったわけではない。年老いて衰え、考え方も被害妄想的になってきたのだろうかと思う。あるいはこれが秘められた本性なのかもしれない。自分も年老いたらそうなるのかもしれないと思うと、暗澹たる気持ちになる。老いて体のどの部分が使えなくなってもいいから、「目」と「記憶」だけは最後まで保っていたいと心から思う。

 辛い経験も悲しい経験も時が経てば癒される。それは感情が記憶されないからだと思う。嬉しい経験も同様で、1年間宅浪して勉強して、晴れて第一志望の大学に合格した時の震えて涙が出るような喜びも、今は「そういう経験をした」という記憶だけで「感情」は薄れている。それはそれでいいと思う。ただ、そういう記憶を積み重ねた自分をいつまでも保っていたいと思う。記憶とは自分そのもの。いつまでもそういう記憶を保った自分自身でいたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原3 新版――全体主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎, 大島かおり 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史 蜘蛛 なぜ神で賢者で女なのか (講談社選書メチエ) - 野村育世 マスカレード・ライフ - 東野 圭吾





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