2020年12月31日木曜日

2020年大晦日雑感

 今年も早や大晦日である。世の中、一寸先は闇であり、何が起こるかわからないが、今も収まらぬコロナ禍はその最たるものだろう。怖いのは自分自身が感染することよりもそれを媒体して老齢の両親や家族に移すこと。普段、多少のことなら健康面では自身があるが、それを揺るがされるものである。いつの間にかマスクが当たり前になっているし、こればかりは年初にかけらも予測ができない出来事であった。

 仕事では、取引先の不祥事が発覚し、それが大きな余波となって会社に襲ってきた。なにせ主力の収益源を失うことになったのである。会社が立ちいかなくなれば家族の生活にもそれは及ぶ。社長も健康面からセミリタイア状態であり、今年から代表取締役副社長という肩書きだけは立派なものを与えられたが、会社の舵取りは全て我が肩にのしかかっている。プレッシャーから夜中に何度も目が覚めた。とりあえず新たな収益源を確保し、向こう一年は大丈夫だが、その先はどうなっているだろうか。

 娘はなんとか大学に合格した。高校までの成績であればトップクラスの大学も狙えたはずだが、途中で心の健康問題から失速。なんとか学生生活は送れているが(それもコロナでオンライン授業が大半という環境がいいのかもしれないが)、今はどこの大学だろうと元気にしていればいいと思っている。娘のケースは、改めて子供に何を望むかという問題に直面させられた。それは学歴ではなく、「幸せ」。どんな形であれ、幸せに過ごせるなら学歴も就職も結婚もなんでもいいと思う。そのあたりは間違えないようにしたい。

 一方、高校受験を控える息子は熱心に塾通いをしている。おそらく希望の高校には入れるだろうと思う。心配なのはわかるが、母親は息子がちょっとタブレットで動画を見て息抜きをしていると、「またそんなものを見て」とうるさく言う。私にも「タブレットを取り上げろ」と言わんばかり。しかし、勉強は24時間できるものではない。息子はNetflixの「ワンピース」にハマっているらしいが、「ここまでやったら観よう」というのはOKだと息子には教えている。それで集中して勉強できるのならいい「ご褒美」になる。

 母親というのは、何もわからないくせに「塾に通っていればOK」「机に向かっていればOK」というところがある。世の中のお母さんもそういう人が多いのではないかと思う。だが、塾で何をしているか、机に向かって何をしているかが問題である。ただ、ぼうっと勉強したつもりになっていても意味はない。タブレットで動画を見ていたって、「1時間集中して勉強したご褒美」であればむしろ好影響がある。そういうことは、自分はろくに勉強していなかった妻よりも、苦労して勉強して一流大学に合格した私の方が正しく指導できる。息子にはこっそりとそう教えている。

 銀行を辞めて6年。当時の同期の1人が関連会社の社長になったという。思えば1988年4月に横一線に並んで入行したのに、今では様々に差が開いている。トップは役員になっているし、関連会社の社長なら頑張った方だろう。取引先に出向・転籍してそれなりの地位にいる者もいるし、身分は関連会社になりながら、支店で若手と机を並べて似たような仕事をしている者もいる。その差はなんなのか。もちろん、私が三種の神器と考えている「考え方」「熱意」「創意工夫」の差もあるだろうが、大きなのは「コミュニケーション能力」だと思う。

 コミュニケーション能力は、私が社会に出て、痛切に苦手意識を持ったものである。これがうまくできていたら、私も銀行内でもっと出世していただろうと思う。仕事でも自分の考えを誰が相手であろうと物怖じせず伝えられる自信があるが、大事なのは相手にそれが正しく受け入れられること。キャッチボールで言えば相手がきちんと取れること。強すぎても高すぎても低すぎてもいけない。上手に投げることではなく、相手が取れるように投げること。これが私にはできなかったと思う。

 「できなかった」で終わりにするものではなく、その改善はこれからも続けていかなければならない。会社では、先行きの不安はあるが、それでも年上の部下をうまく導いていくにはやっぱり「コミュニケーション能力」は欠かせない。来年はこれを改めて重視してみたいと考えている。いまさらではあるが、自分の欠点として放置することなく改善努力はしてみたいと思う。それで少しでも社内の活動を円滑に進め、会社を1年でも長く存続できるように航海の舵取りをしていきたいと思う。

 来年の大晦日にどんな振り返りができるのか。1つでも多く改善できるように頑張りたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 予想どおりに不合理  行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 - ダン アリエリー, 熊谷 淳子 ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 (河出文庫 ハ 15-3) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田 裕之




2020年12月27日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その11)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子貢曰。我不欲人之加諸我也。吾亦欲無加諸人。子曰。賜也非爾所及也。
【読み下し】
こういわく、われひとこれわれくわうることをほっせざるや、われこれひとくわうることからんとほっす。いわく、や、なんじおよところあらざるなり。
【訳】
子貢がいった。
「私は、自分が人からされたくないことは、自分もまた人に対してしたくないと思っています」
すると先師がいわれた。
「賜よ、それはまだまだおまえにできることではない」
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 なんとなく聞いたことのあるフレーズであるが、論語の中では別のところで「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という言葉で出てくる。「恕(じょ)」という概念であるが、こちらの方が馴染みやすい。人間関係を良好に保つためには必要な考え方だと思う。それ自体、否定するつもりはないが、ではできるかと言えば難しいと答えるしかない。私も賜と同様、「おまえにできることではない」と孔子様に言われてしまうだろう。ただ、「これしかない」のも事実である。

 そもそもであるが、私には「人が考えていることはわからない」という根本的な考え方がある。子供の頃から母親に「人の気持ちになって考えなさい」というようなことをよく言われたが、その都度「人の気持ちなんかわからない」と言い返していた。事実、怒られても私には人の気持ちなんかわからなかったのである。それは今でも変わらない。親としては、「想像しなさい」と言いたかったのだと思うが、「想像はしてもその通りかどうかはわからない」というのが、今に至る正直な気持ちである。

 そういう母親だが、自分ができているかと言えば見事にできていない。先日、実家に行った時の事、長野県に住む伯父(父の兄)が野沢菜を送ると連絡してきた。毎年作ってもらっており、私も好きだから親を連れて取りに行っていたが、今年はコロナとあって行く予定が立たない。ならばと気を利かして送ってくれるそうなのだが、それを聞いた母は即座に「今送られても保管するところがないから困る」と言い出した。しかし、それは次の問題で、まずは感謝だろう。

 実は、母は昔から人の神経を逆撫でるのが得意である。新婚時代、私も気を利かして親に中元歳暮を送ったが、コーヒーを送れば「お父さん胃を壊していてコーヒーが飲めない」だの、ビールを送れば「体調を崩していてしばらく飲めない」だのと言ってきた。送った人の気持ちなど何一つ考えていない。冷静に考えれば照れ隠し的なところもあったと思うが、それであってもそう言われた人の気持ちなんかまるで考慮していない。我が家の嫁姑戦争は起こるべくして起こったと言える。

 我が家でも良かれと思ってやったことが妻に曲解される事なんかしょっちゅうだし、逆に妻に「普通はこうするでしょう」と怒られるのも常である。その都度、心の中で「普通ってなんだよ」と反論しているが、自分基準でマイルールを押し付けてくる妻には辟易するところである。誰もが同じ感性であるわけではないし、同じように考えるわけでもない。コップに半分しか水が入っていないと文句を言う人もいれば、半分も入っていると感謝する人もいる。とかくに人の世は住みにくいのである。

 そんな住みにくい人の世であるだけに、できれば人と距離を置いて生きていきたいと言うのが私の考え方。ごく親しい人だけと付き合って生きていきたいところである。ただ、そうも言っていられないので、なるべく配慮して迷惑をかけないようにと考えているが、他人がどう思うかなんてわかるわけもない。こうすれば喜ぶのか、あるいは嫌がられるのかなど想像してもキリがない。考えれば考えるほど、袋小路に入り込んで行く。

 そこで採用しているのが「自分の考え」だ。人に何かを送るとしたら、相手が喜びそうだと思って「自分が送りたいもの」を送る。その結果、相手が喜ぼうが迷惑がろうが気にしない。年賀状も自分が送りたい人に送る。相手から年賀状が来るか来ないかは関係ない。相手から来ないのが嫌なら次の年からやめればいいし、嫌でないなら送り続ける。常に自分基準である。これだとあれこれ悩まなくて良い。

 人の気持ちはわからないが自分の気持ちはわかる。ならば確実にわかるものを基準にするべきである。これはデカルトの「COGITO ERGO SUM(我思う、故に我あり)」にも通じる考え方であるようにも思う。孔子様から見れば「おまえにできることではない」と言われてしまうかもしれないが、もしも言われたとしても、それでも「これしかできません」と胸を張って答えるであろう。聞こえの良い言葉で言うならば、「己の心の声に耳を傾けて」、これからも判断していきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 予想どおりに不合理  行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 - ダン アリエリー, 熊谷 淳子 ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 (河出文庫 ハ 15-3) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田 裕之





2020年12月24日木曜日

私の履歴書

 日経新聞の名物コーナーの『私の履歴書』は、私の好きなコーナーである。各界で活躍している方が、それまでの人生を振り返って、文字通りの「履歴書」を披露してくれるものである。みんな最初から優れた人物であったわけではなく、その時々で苦労して頑張ってきた結果、日経新聞で履歴書として披露できるようになったことがよくわかる。今月連載中の方は、特に日頃から直接お世話になっている方だけに、改めてその内容に感服している。紙面には書ききれない苦労もあったのだろうと、行間にも思いを馳せてみたりしている。

 もしも、自分がここに執筆する機会がもらえたとしたら、果たしてどんな内容になるだろうかと夢想してみる。と言っても、無名の一般大衆の一員では間違ってもそんなオファーはこないだろう。大学こそ名の通った国立大学を卒業して都市銀行に入ったが、頭取にも役員にもなれる事すらなく退職し、名もなき中小企業に転職した身ではまずお呼びではない。だが、来たとしてもそれにふさわしい内容のものが書けるだろうか。そう考えてみると、やはり現在の我が身に応じた内容でしかないと、残念ながら思う。

 少し誇れるのは、大学受験の時だろうか。現役の時は、志望校を一校だけに絞って受験したが、失敗。浪人して捲土重来、予備校には行かず宅浪で1年間歯を食いしばって勉強して合格した。これは自分でもよくやったと思う。だが、それ以降は普通だ。大学では当時の風潮に反して授業にはよく出席したが、総花的な勉強で何を極めたということもなかった。就職も当時は真剣に考えたつもりだったが、今から思うと成り行き的だ。売り手市場の中で流れていった感じである。

 銀行に入っても、なんとなくガツガツ働くことがカッコよくなさそうで、一歩引いていたところがあった。今から思えばそれが出遅れた原因だったと思う。「おまえは公務員になった方が良かったんじゃなかったか」と言われたことがあるが、たぶん利益のために額に汗することが当時の私にはクールではなく、そんな心境を見透かされたのだと思う。30歳くらいの時は、自分の考えと回りの考えとが合わず、精神的に苦しい思いをした。今の自分から見れば苦々しく思える。

 目の前の仕事は全力で取り組んできたつもりであるが、まわりとのコミュニケーションに難があったのは事実である。サラリーマン社会では、常に客観的に理想的な対応が取れるわけではない。部長や支店長の顔色を伺う直属の上司のご都合に合わせなければならなかったり、お客様より組織の都合を優先させなければならなかったり。今であれば上手くやれる自信があるが、その時は理想との葛藤の中で難しかった。理想的な立場からは正しくとも、現実に職場の中の協調という点では相容れなかったことが多々あった。

 仕事だけでなく、ラグビーも恋愛も不器用だった。不器用でもサマになるのは高倉健ぐらいで、一般人としてはやはり中途半端でしかない。ラグビーもようやく自信が持てるようになったのは、肉体的にもそろそろ引退を考えねばならない30代も半ばになってからだ。女性に対するアプローチも、もう少し器用に情熱的にやれていたら、もっとモテていたかもしれない。「ああすれば良かった、こうすれば良かった」という後悔のデブリがいたるところに散乱している。しかし、そんな後悔があるからこそ、今の自分に辿り着けたのも事実であり、難しいところがある。

 どうやら私が書く『私の履歴書』は、日経ビジネスの『敗軍の将、兵を語る』の方が相応しいように思う。それでもよくよく思い起こしてみれば、仕事でもなかなかうまく事を成し遂げたことはいくつもあるし、お客さんに喜んでもらえる仕事をしなかったわけではない。上司が対応してダメだったことを私が対応して可能にしたこともある。銀行を辞めて挨拶に行ったら、同じ不動産業界の方からは歓迎されたのである。特に不良債権担当部門にも関わらず、業績の悪いお客さんから高く評価していただいたのは、我ながらよくやったのではないかと思う。

 ラグビーも全国大会とは程遠かったが、草の根レベルで心から楽しい経験ができたのも事実である。勝ち負けに涙を流したこともあるし、今でも週末に仲間とともに汗を流す事ができるのもありがたいこと。私の履歴書も新聞に載せるほどのレベルではないが、身の回りの人にそっと語るくらいはできそうである。まぁ、誰でもそのくらいはできるのだろう。そんな身の丈レベルではあるが、この後ももう少し面白い履歴書を書けるようになれればと思う。

 日経新聞の連載の方もこれからいよいよ残り少なくなってきた。大先輩の履歴書の残りを楽しむとともに、身の丈レベルの自分の履歴書ももう少し読み応えのあるものにできないかとも思う。これから波乱万丈というのもしんどいが、そこそこに頑張ったと思えるようなものにしたい。子供にも背中で語りたいと思うし、そういう「履歴書」意識をもって、これからの難局に臨みたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書) - 宮口幸治 ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 (河出文庫 ハ 15-3) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田 裕之



2020年12月20日日曜日

意味がある

 以前、マンションの管理組合の総会に出席した時のこと、その時は「経費削減」が一つのテーマであった。そこで検討されたのはケーブルテレビの解約。なくても良いのではないかと。それにあたっては、現時点で契約している家庭が何軒くらいあるのかとなり、マンションの管理会社の担当者がケーブルテレビの会社に事前に聞いてくれていた。ところが教えてもらえなかったと言う。理由は「個人情報の保護」である。さも仕方ないという感じで報告した担当者に感じたことは、「考えていない」ということである。

 「個人情報」ってなんなのか。文字通り「個人を特定する情報」である。では、そのマンションにおけるケーブルテレビの「契約件数」が個人情報だろうか。ちょっと考えれば(考えなくても)わかりそうなものである。もしも報告通り「件数」を聞いたのに教えてもらえなかったのであれば、それはケーブルテレビの担当者も聞いた管理会社の担当者も共にわかっていなかったということになる。あるいは、「誰が契約しているのか」と聞いたのかもしれない。その場合は、管理会社の担当者が「何軒?」と聞き方を変えればよかったのである。何れにしてもわかっていない。

 車や家を買う時、銀行から融資を受ける時、いずれも実印を押し、印鑑証明書を提出する。それはなぜかと言えば、「本人確認」のためである。大きなお金が動くとき、あるいは銀行が融資する時、重要なのは相手が本人かどうかである。偽名を使われて詐欺などに悪用されては困るわけで、だからこそ国が本人確認を行なった実印で取引を行うのである。新聞の契約などは、家もわかっているし金額も月々せいぜい5,000円程度だし、悪用されても高が知れている。だから認印でも構わないのである。

 信用金庫でお金を借りる時、いつも納税証明書の提出を求められる。これはきちんと税金を払っているかどうかの確認である。税金の未納は資金繰りが苦しいことの裏付けともなる。決算内容や資金使途を偽ってお金を借りようとする者の嘘を見破る1つの方法である。機械を買う場合にはその機会の見積書が必要であるが、それは確かに「その機械を買うのに(融資金を)使う」という確認である。およそそうした行為にはなんらかの意味があるのである。

 我が社でも在宅勤務を始めるべく、手続きを進めている。先日担当者が情報の持ち出し簿のフォーマットを作って持ってきた。「これは何の為に必要なのか」と問うと、「責任の所在を明らかにする為」と答えてきた。「ではダウンロードする場合は?」と問うと、それも必要だと言う。その場合、どうやって持ち出す情報を特定するのかと問うと、担当者もフリーズしてしまった。サーバーにアクセスすればかなりの数の情報にアクセスできる。とても持ち出し簿では管理できない。

 私はもともと銀行員時代にこうした考え方を身につけたのであるが、「意味を考える」ことは何においても大事なことである。仕事でも日常生活でも然りである。特に仕事においては、管理職であればなおさらと言える。管理職は時として判断をしないといけない。部下から指示を求められた時、それがイレギュラーな場合は特に前例がなかったりする。そうした時に適切な指示を出せるかは、この意味を考えられないとできない。それにはどんなリスクがあるのか、それを回避する為にはどんな方法があるのか。

 意味を考えられない部下は、ただ言われたことだけを機械的にやるだけの存在である。意味を考えられれば、おかしな指示を出された時に上司に確認することができる。そうでないと、上司が間違った指示を出したら止まることなく実行されてしまう。オレオレ詐欺でお年寄りが言われるがままATMを操作して振り込んでしまうのも、「意味を考えられないから」に他ならない。相手を無条件に信用するのも悪いことではないが、意味を考えられれば相手の悪意を回避できたりする。

 そういうことは、日頃から癖をつけておく必要がある。なぜ本人確認資料を求められるのか(そういうケースは多々ある)、家を買ったり借りたり、入会したりする時に資料を求められるケースがあれば、なぜそれが必要とされるのか考えてみるのもいいトレーニングである。わからなければ聞けばいい。ひょっとしたら相手もわかっていなくて、ただ「決まりだから」としか答えられないかもしれない。そういう知的好奇心がないと、やがてオレオレ詐欺の被害者に名前を連ねることになるかもしれない。

 「考える」ことは重要である。「考える」と言っても「頭の中で何となく思う」ことではない。「その意味を理解し筋道を立てて説明できるか」である。最近、いろいろと身の回りでそういう事例に接し、つくづくそう思うのである・・・


Gerhard G.によるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 崩れゆく韓国 - 井沢元彦 ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 (河出文庫 ハ 15-3) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田 裕之



2020年12月17日木曜日

コロナ雑感~その後

 コロナ禍はみんなの願い虚しく収束の兆しはなく、いよいよ東京の感染者が過去最高を更新している。私もかつてはマスクなど年末の大掃除の時以外したことがなかったが、今では外出時には欠かせないアイテムとなっている。ふだん、インフルエンザにさえ無縁の生活を送っている身であり、なんとなく「自分は大丈夫」という根拠のない自信を持っていたが、さすがに今回はかなり注意を払っている。「無自覚、無症状」もあるようであり、自分は大丈夫でも家族や年老いた両親に「媒介」してはいけないからである。

 と言っても、その注意が有効なのかどうかはわからない。マスクをしていれば大丈夫なのか、手指の消毒をマメにしていれば大丈夫なのか、推奨されていることはやっているが、それで完璧なのかどうかわからないので、なんとなくモヤモヤ感がある。飲み会もほとんど行かないし、ごくまれに行くのは2人の少人数のパターンで、それも「おっかなびっくりで」である。今月初めには両親を箱根の温泉に連れていこうと計画していたが、早々にキャンセルしたのも当然である。

 そういう行動を振り返ってみと、飲食店や旅行関係者は大変だろうなと改めて思う。会社の近所には沖縄の焼き肉チェーンが出店する予定で、私も楽しみにしていたが、予定の12月の半ばが過ぎてもその兆しがない。おそらく見送っているのだろう。計画が狂って大変だろうが、その店が出店予定だった店舗の大家さんも家賃が入ってこなくて大変だろう。「大変だろう」の連鎖が続いているように思う。

 大企業に勤めている友人・知人はすっかり在宅勤務に染まっている様子。シニアラグビーに参加している先輩も、貫禄のある腹が一層目立ち、指摘したら嫌そうな顔をして「おまえにもこの4㎏の貫禄分けてやるよ」と言われた。別の友人は、在宅勤務なのにそれを同居する高齢の母親が理解してくれず、「仕事中」に買い物や病院への送迎を頼まれたりするとぼやいていた。

 今回、大臣の会食が批判されているが、利用された店舗の方は当然ながら歓迎だろう。会食批判も我が国のマスコミの傾向を考えると、行き過ぎることしばしばだから、そのうち会食そのものが非難され、飲食店はますます窮地に追いやられるような気がする。飲食店関係者は、こうしたニュースを苦々しく見ているのではないかと思ってみたりする。社員数10人の我が社も今年は忘年会を中止したが、その他にも忘年会は軒並み中止である。やめる方はいいが、やめられる方は大変である。

  それにしても、感染防止策についても、きちんと考えながらやることが必要だと思うが、ただ示された基準を盲目的に守ってればそれでいいといった風潮が強いと感じる。例えば5人以上の会食はダメだと言うが、4人ならいいのだろうか。4人で居酒屋に飲みに行き、両隣のテーブルに4人座っていたら、その一角は12人だ。それで問題ないなら12人で飲みにいってもテーブルが分かれればそれでOKとういうことになる。一つの長テーブルではダメで、4人掛けのテーブル3つならOKなのか。ちょっと考えればおかしな基準だとわかる。

 今回、大臣の忘年会が批判されている。8名での会食だったらしいが、大臣が居酒屋などに行くわけがなく、当然高級な店のしかも個室だろう。となれば感染リスクはかなり低いと考えられる。それを「8人だから(5名以上だから)」という理由だけで批判するのは愚かしい限りである。大事なのは「人数」ではなく、「感染対策」だ。なので「感染対策はどうなっていたのか?」と突っ込むならわかるが、「8人だから」批判するのはいかがなものかと思う。「考えないマスコミ」の典型だし、それを支持する人も「考えない人」に他ならない。

 また営業時間を10時までというのもわからない。個人的には収容人員50%の方が営業時間短縮より効果的だと思う。10時まで満席なのと、半数制限で12時まで営業するのと、どちらが「密」回避になるかは明らかだ。うちは「半数制限で12時まで営業する」と理屈をこねても、おそらく「自粛警察」に嫌がらせをされ、Twitterで晒されるのがオチだろう。例えば我が社は職員が10人だが、個室で忘年会をやれば感染リスクは職場と同じで変わらない。店の従業員との接触だけが追加リスクだ。そのリスクをどう考えるかであり、闇雲に中止すればいいというものではない(その理屈は聞いてもらえなかったが・・・)。

 お上が示した基準に従うのも大事だが、もっと大事なのはその行動が本当にリスク回避(感染対策)になっているかをよく考えることである。形式的に基準に従っていたって意味はない。けど、形式に従っていないと鬼の首を取ったように批判する。野党もマスコミもそれに踊らされる自粛警察も自分の頭で考えていない。そういう無批判に基準に従おうとする考えこそが、大げさに言えば全体主義につながる危険なのである。胸を張って堂々と説明できるように自分の頭で考えて感染対策を取る必要があると思う。

 大事なのは、実際に感染しないことである。基準を守ることではない。「自分の頭で考えて」しっかり感染対策を取りたいと思うのである・・・


Alexandra_KochによるPixabayからの画像 


【本日の読書】
 崩れゆく韓国 - 井沢元彦 ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 (河出文庫 ハ 15-2) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田 裕之




2020年12月13日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その10)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。吾未見剛者。或對曰申棖。子曰。棖也慾。焉得剛。
【読み下し】
いわく、われいま剛者ごうしゃず。あるひとこたえていわく、申棖しんとうあり。いわく、とうよくあり。いずくんぞごうなるをん。
【訳】
先師がいわれた。「私はまだ剛者というほどの人物に会ったことがない」するとある人がいった。「申棖という人物がいるではありませんか」先師は、いわれた。「棖は慾が深い。あんなに慾が深くては剛者にはなれないね」

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 論語も2,500年前のものであり、漢字を使っているからと言ってその意味が当時のまま現代に伝わっているかは必ずしも定かではなく、疑わしいところがあると思う。訳語も人によって違うのは事実である。今回キーワードとなるのが「剛者」という言葉であるが、 ここでは「意志の強い人」という意味で捉えているようである。

 孔子は、例として挙げられた棖という人物について、「あんなに慾が深くては剛者にはなれない」と語っている。欲深いというと、「あれもこれも欲しがる」というイメージがする。しかも「手っ取り早く」である。それに対して、「意志が強い」となると、「時間をかけても目的を達する」というイメージがするから、確かに両者は相容れないように思う。「時間をかけても」という点に関しては、自分も意志が強い方だと昔から自覚している。

 私は、子供の頃から「コツコツ派」である。普通の人が1時間かかることを天才は30分でやってしまうとしたら、私は2時間かけて追い抜くことを考える。大学受験も宅浪して1日10時間の勉強を363日やることを自分に課してやり抜いたし、最近ではマンション管理士の資格を3年かけて取得した(コツコツと積もり積もって1,027時間)。ウサギとカメの例で言えば、私は残念ながら完全に亀タイプである(自分ではゴールについてから寝るウサギに憧れている)。自分でも思うが、亀タイプは意志が強くないととてもできないと思う。

 1日10時間の勉強は、宅浪時代にはこなせていたが、今はもう無理である。その代わり1週間で10時間(1日1時間、週末5時間)なら今でもできる。時間をかける(かかる)ことのデメリットは途中で(意志が)萎えることだろう。意志の強さは、「萎える」こととの戦いとも言える。よく言われる「三日坊主」は、まさに「萎える」ことに他ならない。「嫌になる」、「めんどくさくなる」ことである。妻の口癖、「明日からダイエット」と同義である。

 なぜ、「萎える」のだろうか。それは一つには「希望」の支えがないからとも言える。希望があれば、「もうちょっと」という気持ちが維持できる。希望があれば、「なにくそ」という気持ちが持てる。逆に希望が潰えてしまうと「もうちょっと」も「なにくそ」も出てこない。しかしそれだけではなく、希望があっても他人(の気持ち)という要素が入ってくると意志の強さの世界とは異なるものとなる。例えば王女と兵士の話のようなものである。映画『ニューシネマパラダイス』で以下のような王女と兵士の話が紹介されていた。

 ある兵士が王女に一目惚れしてしまう。兵士の熱意に王女は心を動かされ、100日の間、王宮の庭で王女を待ち続けたなら、王女は兵士に身を任せると約束する。私なら完勝だとほくそ笑むところである。兵士は、99日間、雨の日も雪の日も風の日も王宮の庭に立ち尽くし王女を待つ。立ち尽くす兵士に鳥が糞をし風雨に晒されるが、兵士は動かない。そして99日目の夜、つまり、あと1日で王女を手に入れることができるという晩に、兵士は王宮の庭から立ち去ってしまう。

 兵士が立ち去った理由は、私は2つあると思う。1つはそんな風に試されるのが嫌だったからである。あえて99日目に去ったのは、「意志が弱い」と思われたくないからに他ならない。無茶な要求に対する抗議を含んでいる。そしてもう1つは身分違いの恋に対する王女への配慮だと思う。王女と結ばれれば自分は幸せになれるが、相手を幸せにすることはできないかもしれない。99日間の葛藤の末、兵士は自分の気持ちよりも王女を大切にしたというものである。

 意志の強弱はあくまでも自分自身に向けるもの。相手があればそれは関係ない。自分も似たような経験があり、兵士の気持ちは後者だったと信じている(そしてそれが間違いだということも)が、自分自身に向けるものである限り、強靭な意志というものは人生を切り開いていく強力な武器になると思う。孔子の言うように、欲望は(希望との差は微妙ではあるが)その妨げになるかもしれない。

 自分は、純粋なる希望を胸に努力し続けられる人間でありたいと思ってきたし、これからもそうありたいと思う。そして我が子にもそんな人間になってほしいと思うのである・・・


Elias Sch.によるPixabayからの画像 


【本日の読書】
 未来を見る力 人口減少に負けない思考法 (PHP新書) - 河合 雅司 いけない (文春文庫) - 道尾 秀介




2020年12月10日木曜日

どんなリーダーにもついていくべきか

 世の中には優れたリーダーがたくさんいて、凄いなぁと思うことしばしばである。自分もビジネスマンの立場からは、やはり経営者という立場のリーダーには目が向いてしまう。では、かくいう自分もそんなリーダーでありたいかと問われればそれはまた別の話で、自分はどちらかと言えば№2の方が居心地がいいと感じるタイプである。性格的に向き不向きというのはあると思うが、自分はリーダーよりもフォロワーの方が性に合っている。それも末尾ではなくて№2というところがずるいところかもしれない。

 №2はいいのであるが、問題はどんなリーダーの下につくかということである。これまでも銀行員時代を含めていろいろな上司に仕えてきたが、好ましい人もいればそうでない人もいた。そうでない人であっても、それなりに仕えて組織としてのパフォーマンスを果たせればいいと思うのだが、必ずしもそうでないことの方が多い。上司をうまくコントロールできればいいが、そう簡単なものでもなく、ストレスは溜まるしパフォーマンスも残せなかったりすると大変である。

 先日、『K-19』という映画を観た。2002年製作の古い映画であるが、旧ソ連の原潜事故の実話を映画化したものである。この中でハリソン・フォード演じる艦長は、部下に過酷な訓練を課し、リーアム・ニーソン演じる副長がしばしば諫めるのであるが、艦長は頑として自らの考えを貫く。そうしてとうとう原子炉の事故が起こり、放射能汚染も広がり始める。そこへ米軍の駆逐艦が現れる。副長は米軍へ救助を求めようと進言するが、艦長は国益を考えこれを拒否する。 

 人命よりも国益を優先するリーダーってどうなのかと観ながら思う。そしてついに艦内では政治局員を中心に反乱がおこり、艦長の権限を停止させようとする。ヒトラーも在任中は何度も暗殺未遂事件があったという。ヒトラーほどの狂気のリーダーではないとしても、この艦の艦長くらいだったらどうなのだろうと観ながら考えていた。あるいは人命がかかっていなくても、ビジネス上でリーダーたる社長が間違った(と思われる)判断を下す場合はどうなのだろうか。反乱を起こすことは善なのだろうか。

 ちなみにK-19では、氾濫グループは艦長に代えて副長に艦の指揮を託す。すると、意外なことに副長は反乱グループを捕らえさせ、艦長の指揮を回復させる。あれだけ対立してきたにも関わらず、自分とは考えの異なる艦長に引き続き艦の指揮を委ねたのである。副長は、自分の考えよりも秩序を重んじたと言える。折よく友軍の潜水艦が救助に駆けつけ、最悪の事態は回避されるのであるが、そうでなければ救助されることなく原子炉の暴走によって艦は沈んでいたかもしれない。副長の判断もまた考えさせられるものがある。

 ヤマト運輸の故小倉昌男社長は、当時先行きの見通せない運送業において、役員全員の反対を押し切って宅配事業に乗り出したという。その結果は語るまでもないが、逆に社長が役員の反対を押し切って不動産投資に乗り出して失敗した例を私は知っている。「勝てば官軍」と言えばそれまでであるが、失敗した会社の社長もきちんと事業の行く末を考えていたわけであり、その動機は善である。社長の独断が良いか悪いかは一概には言えない。

 実は我が社でも最近そういう事例があった。役員の提案に社長が1人反対。話し合いは平行線。社長も折れる気配はなく、取締役会で多数決で押し切るなら、株主の権限で全役員を首にするということになった。事柄は会社の命運にも影響する内容で、役員側も簡単には引っ込められない。3か月間の議論の末、検証を重ねて最後は我々役員側が正当性を立証して社長が折れた。感情的にならずに根気よく妥協点を探っていった成果であるが、うまくいかなければどうなっていただろう。

 意にそぐわないリーダーの行動を「暴走」と論じるのは簡単だが、どちらが正しいのかは歴史の判断によるしかないのかもしれない。そういう時に、果たしてリーダーにとことん従うべきなのか否かは難しい。「絶対正しい」も当てにならない。K-19だって、「国益」を重視するか「人命」を重視するかで「絶対正しい」は変わってくる。たとえば「会社が潰れる」か「法を順守すべき」かとなったらどうだろうか?(会社の危機を回避するために法律違反を犯すことは正しいのであろうか?)

 自分の考えに合わないリーダーを狂気のリーダーと批判するのは簡単だが、自分の考えがすべてではない。株式会社(特に中小企業)においては、社長はたいてい会社の連帯保証人になっているもので、潰れれば個人の財産も失うリスクをしょっている。ならばその考えも慎重に考えた結果だと言えるし(先の不動産投資に失敗した社長もそうだった)、一概には批判できないし、正しい答えも存在しない。難しい問題である。

 次にまた考えが対立したらどうすべきだろうか。その時はやっぱりとことんお互いが納得するまで議論するしかないのだろう。そしてその手間を惜しまないことが大切なのだろうと思うのである・・・


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【本日の読書】
 未来を見る力 人口減少に負けない思考法 (PHP新書) - 河合 雅司 流人道中記(上) (中公文庫) - 浅田次郎





2020年12月6日日曜日

考えて働く

 高校生の時だったが、将来どうするのかと聞かれた時のことをよく覚えている。その時は、「サラリーマンにはなりたくないから弁護士でも目指そうかと思っている」と答えた。まだ世間知らずだった私には、「サラリーマン=こき使われる人」というイメージがあったのである。それがサラリーマンになってみてわかったのは、「こき使われるも使われないのも働き方次第」ということであった。

 サラリーマンは確かに会社という指示命令系統の中の一員であり、指示された事はやらないといけない。しかし、それもやり方次第である。指示された事が、まず会社という組織の中でどんな意味があるのか、その目的を達するためにはそれが最善の方法なのか、最善でないとしたら最善な方法は何か、どうやったらできるのか、そんなことを考えて「こうしたらどうか?」という提案はできるだろう。いわゆる「考えて仕事する」という事である。

 もちろん、その結果提案を否定され、「言われた通りにやれ」と叱られるかもしれない。しかし、その時は指示された通りにやればいいだけ。更に言えば、どうしてそういう指示を出すのか考えてみればベストである。もしかしたら上司にしかわからない事情があるかもしれないし、単にめんどくさいだけかもしれない。そうして考える癖をつけておけば、常に自分の意見を持てるようになる。意見を持てばそれをどんどん表明することによって周囲の反応がわかり、意見が磨かれる。すなわち考える力が磨かれるのである。

 それは、後に自分が昇格した時に効果が現れる。何も考えずに上司の覚えめでたいだけで昇格した者は、今度部下から問われた時にボロが出る。考えていないから説明できないし、勢い「言われた通りにやれ」と言ってごまかすことになる。ルーティーンの業務指示ならこなせるが、イレギュラーになれば途端に困ってしまう。部下から問われてもすぐに適切な指示が出せない。係長なら課長にお伺いを立てて判断してもらうようになる。部下からすれば、「頼りない係長」ということになる。

 それは課長になっても部長になっても同じこと。難しい問題に接すると、どうしたらよいかわからない。部下から指示を求められてもすぐに答えられない。そういう上司を何人も見てきたが、それもみな考えずに仕事をしてきたツケが回ってきたものと言える。部下も結局、そういう頼りなさがわかるので、係長を飛び越えて課長に、課長を飛び越えて部長に指示を(あからさまにならぬように)求めるようになる。こうなると、上司も形無しである。

 そうならないためにはどうしたらよいのか。それはひたすら「考える力」を養うしかない。常にアンテナを張り、自分の意見を持つようにする。会議では必ず発言をする。自分の仕事の意味を考え、それが最善の方法なのかどうかを考える。自分には関係のないことであっても、我が事として、自分だったらどうするかを考える。それを繰り返せば、「お前はどう思う?」と意見を求められるようになるかもしれない。 

 週末に参加しているシニアラグビーでは、キャプテンがいて練習メニューはみな考えてくれる。私はただ行ってみんなと一緒に指示された練習メニューをこなすだけである。これはかなり楽である。何も考えなくていいし、「言われたことをやる」心地よさは快適である。だが、キャプテンとなれば、チームには何が必要で、強化する部分はどこで、そのためにはどんな練習をするのか考えないといけない。それはしんどいことであるが、その代わりチームについては一番理解していることになる。

 仕事でも同様、「言われたことだけやる」のは楽でいい。責任もない(正確に言えば責任回避ができる。なぜなら「自分は言われたことをやっただけ」だから)。しかしその結果、上の者からは指示待ち族というレッテルを貼られ、部下からは「頼りない上司」と思われる。それこそが、高校生の頃なりたくないと思っていたサラリーマンの姿に他ならないと思う。今あの頃の自分に会ったのであれば、サラリーマンのイメージを変えてあげられるだろう。

 これからもそんなことを意識していきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 大分断 教育がもたらす新たな階級化社会(「世界の知性」シリーズ) (PHP新書) - エマニュエル・トッド, 大野 舞 犯人のいない殺人の夜 新装版 (光文社文庫 ひ 6-15) - 東野圭吾




2020年12月3日木曜日

やるなら全力で

 以前、会社である賃貸不動産の管理をしていた。昔からのよしみで無料で管理していたのであるが、ある時大家さんから厄介な要求が来た。手間がかかる上に、リクエストが厳しかったのである。その時、担当者がポツリと「タダでやってやってんのに文句言われたくないよなぁ」と漏らした。偽らざる本音だと思う。その時、私は「ならタダでやるのはやめましょう」と提案した。きちんとお金をもらってしっかりやるか、それともタダでやれと言うならここらで終わりにするかである。

 結局、大家さんとお話をしたところ、お金は払うと言うことで落ち着いた。それを機に、他にもタダで引き受けていたものを一斉に有料に切り替え、お金は払いたくないと言われたものは管理を打ち切った。それはそれで相手の選択であり、やむを得ないところである。それまでやっていたものを「お金をくれないならやめる」と言うのも世知辛い気もするが、それがいつの間にか「やってやっている」と言う感覚になってしまっていたのも事実。いい機会だったと思う。

 私の考え方として、基本的に「やるなら責任を持ってやる」という主義である。それが有料か無料かは問わない。「有料ならしっかりやる」、「無料なら適当に(あるいは程々に)やる」というのは性に合わない。「やるならしっかりやる」、「中途半端にやるくらいならやらない」と言い換えられるかもしれない。会社にもそのスタンスを求めたもので、「しっかりやる」か「やらない」かを明確にしたのである。お金は1つの判断基準でしかない。

 実際、有料にはしたものの、その金額は割安である。金額の多寡はあまり関係ない。「有料でやる」と決めた以上、たとえ1,000円であろうときちんとやるべきであり、サービスを安売りしたくないと考えるなら、きちんと金額を決めるべきである。そして決めた以上(その金額が不本意だとしても)、100%のサービスを提供すべきである。また、無料であっても、やるなら有料の時と同様に100%のサービスを提供すべきである。例えば、ボランティアなどがこれに当たる。

 私もラグビー部のOB会の幹事をボランティアで引き受けているが、これは「やる」と決めたことだから無償でもきちんとやっている。タダだからいい加減でいいやなどとは思わない。やる以上は自分に出来るベストを尽くすのが当然だと思っている。そもそもそういうボランティアの仕事を頼む方も、「あいつだったらきちんとやってくれるだろう」という期待があるわけで、そういう期待を持ってもらえたのはありがたいこと。ならばその期待にも答えないといけない。それがボランティアの動機だろうか。

 仕事は給料をもらうのでなおさらしっかりやらないといけない。常に「給料以上の仕事をする」というのが自分の考えである。「安い給料だからやってられない」という考えは自分の中にはない(ように意識している)。もちろん、給料が高くなれば高くなるほど期待値も高まるわけで、それ相応の仕事もしないといけないのは当然である。だから今の社内では、周りの人の仕事ぶりには少しばかり不満はあるものの、「給料が違うのだから仕方がない」と思うようにしている。

 思えばそんなふうに考えられるようになったのも、社会人になって随分と経験を積んできたからと言える。大学を卒業して銀行に入った頃の私はとてもそんな考え方はできなかった。当時、配属された支店によって「当たり外れ」があり、私は「外れ」であった。5月は研修期間中で定時に帰れるはずが、私の配属された支店はそんな配慮などまるでおかまいなしで、サービス残業をして寮に帰ると、他の支店の定時に終わった同期が一杯引っ掛けて帰ってきたところというのが常で、その不公平に随分と文句をこぼしたものである。

 今、あの頃の自分に戻ったらどうするだろう。仕事などまだろくにないから暇ではあるが、いろいろと周りの人の仕事ぶりを研究して覚えられるものはないかと鵜の目鷹の目になるだろう。サービス残業などと否定的に考えず、すべて自分の実力強化の為と割り切って積極的に吸収するに違いない。研修期間中にも関わらず、定時を過ぎて残っていても何も言わないどころか当然だと思っていてくれる環境はありがたかったのかもしれない。そう思うと、考え方ひとつで随分と違うものだと思う。

 幸いなことに今はそんな風に考えられる。「やるなら全力で」。それでこの先もやっていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 大分断 教育がもたらす新たな階級化社会(「世界の知性」シリーズ) (PHP新書) - エマニュエル・トッド, 大野 舞 美しき鐘の声 平家物語1 ~諸行無常の響きあり (意訳で楽しむ古典シリーズ) - 木村 耕一, 黒澤 葵




2020年11月29日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その9)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】
宰予晝寝。子曰。朽木不可雕也。糞土之牆。不可杇也。於予與何誅。子曰。始吾於人也。聽其言而信其行。今吾於人也。聽其言而觀其行。於予與改是。
【読み下し】
こういていわく、なんじかいいずれかまされる。こたえていわく、なんえてかいのぞまん。かいいちいてもっじゅうる。いちいてもっるのみ。いわく、かざるなり。われなんじかざるなり。
【訳】
宰予が昼寝をしていた。すると先師がいわれた。
「くさった木には彫刻はできない。ぼろ土の塀はうわ塗りをしてもだめだ。おまえのようななまけ者を責めても仕方がない」
それから、しばらくしてまたいわれた。
「これまで私は、誰でもめいめい口でいうとおりのことを実行しているものだとばかり信じてきたのだ。しかしこれからは、もうそうは信じていられない。いうことと行なうこととが一致しているかどうか、それをはっきりつきとめないと、安心ができなくなってきた。おまえのような人間もいるのだから」

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 なんとなく論語に書かれていることはいい事ばかりのような気がしていたが、ここではどうにもダメな男が出てきて、さすがの孔子も匙を投げているように思える。ダメな人間は本当にどこまで行ってもダメだとさすがの孔子も認めているというのは、なんとなく孔子も普通の人だという人間味を感じさせてくれる。孔子でさえそう思うのであるから、私のような凡人であればなおさら、であろう。

 日頃、人と接していて、「ダメな人だ」と思うことはしばしばある。ただ、「ダメ」と言っても種類があって、仕事や勉強やスポーツのような「何かができない」ということと、「人間としてダメ」ということである。孔子がここで語っているのは後者の例であるが、私の場合、前者のタイプと接することが多い。映画や小説では前者の場合が多いが、幸いなことに私の身の回りには前者のタイプがいない。もっとも、そういうタイプとはたとえ接点があってもすぐ距離を置くからそうなるとも言える。

 後者のタイプからは逃げられない。職場の同僚だったり取引先だったり、いろいろである。この場合、人間性は別であり、仕事以外ではいい人なんだろうなと思わされることが多い。いくら性格が良くても仕事ができるとは言えないからである。性格は良くても、何事につけ指示されることに慣れてしまっていて、「自分の意見を言ってくれ」と問うても、あるいは「考えてやってくれ」と言っても思うようにはできなかったりする。

 よく「指示待ち族」と言われるサラリーマンがいるが、それは今の学校教育の結果だと主張する人がいる。実際、指示されればきちんと仕事はするが、指示されなければ自分から積極的にやろうとはしないスタンスは、学校で真面目にやるタイプ(先生には逆らわないタイプ)の姿勢そのものと言えなくもない。私などは、ついついプラスαを求めてしまうから、指示されたことをやって、できましたと報告して終わりということで満足したくはない。

 これはスポーツでも同じで、全体練習が終わったらそれで終わりというタイプと似ている。私などは、ラグビーでも学生時代から練習前に部室に行って1人ベンチプレスをあげたり、終わった後にパスやキックの練習をしたりとプラスαをやっていた。自分のテリトリー以外でも意見を言ったり、自分の仕事でなくても、自分の方がうまくできそうだと判断したら「やりましょうか?」と代わりにやったりしてきた。だから今は「指示する立場」に変わっている。

 だが、やっぱり同じようにできない人はいるものである。そもそも指示されないことをやるという発想がない人もいる。それに指示された通りにやる発想しかない人もいる。その仕事の目的はなんなのか、そのやり方はどうしてなのか、他にもっといいやり方はないのか、そうした観点から仕事を工夫できたら違う世界が開けると思うが、そうできない人もいる。それを無能というつもりはないが、発想の練習が足りないとは言える。

 取引先には、どうにも致命傷的な担当者もいて、言われてやるならまだいい方で、言ってもやってくれないレベルになるとどうしようもない。よその会社の人であるから叱るわけにもいかない。相手の会社の上司を巻き込んでなんとかしてもらうようにしているが、なんでそんなにダメなのか、個人的にはとても興味がある。ただ、ではダメ人間かと言うとそんなことはないと思う。プライベートではいい人かもしれない。

 学校でも勉強もスポーツもよくできる生徒がいる一方、どちらもダメな生徒もいる。その差はなんなのかと問われればよくわからない。人間の能力は基本的に皆ほとんど差はないと思うが、結果として大きな差がつく理由には興味がある。幸い、「朽木は雕るべからず」と言うほどの人にはあまりお目にかかれていない。仕事においてはうまくリードしてあげればいいだけの話。きちんと指示をしてあげればいいだけの話であり、孔子のようにバッサリ切って捨てるほどではない。

 孔子の言うことは大げさ過ぎると思うが、そう思えるほどダメ人間に接していないとも言える。何はともあれ、それはそれでありがたいと思うようにしたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 日本の国難 2020年からの賃金・雇用・企業 (講談社現代新書) - 中原 圭介 逆説の日本史25 明治風雲編 日英同盟と黄禍論の謎 (小学館文庫) - 井沢元彦




2020年11月26日木曜日

プラチナチケットをもらったら

 先日読んだ本(『キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語』)の中で、恩師である塾の先生が著者の弟にしてくれた質問として次のものが紹介されていた。

「あなたの前に、今、神様が現れたとします。そして、光る銀色のプラチナチケットをくれました。そこにあなたがしたいことを書けば、実力や環境、そして希望の結果をもたらしてくれる。そんなすごいチケットをもらったあなたは、そこに何と書きますか?」

 前後の文脈とは別にして、ふと、自分だったら何と書くだろうかと考えた。先っぽが三角の尻尾をはやした悪魔が突然現れて3つ願い事をかなえてやると言ったり、いろいろなことを妄想するのが好きなタチなのである。これはドラえもんのポケットに頼る系ではないので、現実的にできることが前提になっていると思う。ちなみに出題された弟は「何もない」と言って泣いてしまったそうである。

 それはそれとして、自分だったら何を書くだろうか。考え始めてしばしフリーズしてしまった。仕事は6年前に銀行を辞めて今の中小企業に転職してきた。それ以降は、会社を動かす仕事を任せてもらえているので、やり甲斐も感じているし、満足している。ただ、いかんせん中小企業であり、しかも厳しい状況にあり、1年は何とかなるがその先となると心許ない。この先、本当に大丈夫だろうかと不安に襲われることしばしばである。

 不安に襲われる最大の理由は、まだ下の子供が中学3年ということだ。高校・大学と普通のルートを辿るとしたらあと7年は収入を維持しなければならない。住宅ローンも半分以上返済したとは言え、まだあと14年残っている。自分一人ならカップラーメン啜ってもやっていけるが、家族を養うということを考えるとそこそこの収入は維持し続けたい。そんなことを考えると、逃げ出したくなるような不安に襲われるのである。

 しかし、だからと言ってもっと安定した大手企業に転職したいとは思わない。それは今の会社のメンバーと悪戦苦闘したいと思うからである。仮に最終的にダメになったとしても、最後までやり尽くしたというレベルには達したいと思う。左団扇の安定した会社だったらどんなに良かっただろうと思うが、自分の巡り会わせとして今の会社に辿り着いたし、自分の選択なのであるから、そこはプラチナチケットに頼らず最後まで背筋を伸ばしていたいと思う。

 週末にはシニアラグビーに参加し、楽しく練習している。ずっと慣れ親しんだフォワードから、いつかはやってみたかったバックスにポジションチェンジし、試行錯誤を重ねながら練習している。思うように動けなかったりダメだしされると凹むし、うまい選手と比較すると気後れするが、だからと言ってプラチナチケットに頼って上手くなりたいとは思わない。楽して上手くなるより、自分で創意工夫し努力してうまくなりたいと思う。その過程もまた楽しいと思うからである。

 資格はもう取ってしまったが、マンション管理士の資格は試験が無茶苦茶で、受かる気がしなかった。大して意味がある資格でもなく、名刺の肩書にしかならない(それでも名刺の肩書が欲しくて取ったのであるが・・・)のに、難しすぎるのである。根を上げたくなったが、それでも実力で取った方が気分がいいし、「意味がない資格」だと言い放てるのも実力で受かったからこそである(受かると逆に意味のない難しさも意味があるように思えてくるのであるが・・・)。

 そう考えると、チケットをもらっても何に使うとなってしまう。望む結果は手に入れたいが、それはプラチナチケットによって叶えてもらうのではなく、自分の力で叶えたいと思うからである。結果はほしいが、プロセスを踏んで手に入れたいというところだろうか。それでもそんな風に考えられるのは、まだ余裕があるからだろう。本当に会社が立ち行かなくなって収入を失ったら、そんなことは言っていられないだろうと思う。

 今の職を失ったら、果たして収入は確保できるだろうか。アルバイトぐらいは何とかなっても、掛け持ちしたところで家族を支えるのは無理だろう。そうなると、「神様、仏様」となるかもしれない。それは考えるだけでも恐ろしい未来である。その時そのタイミングでチケットが手に入ったら、また違う答えになると思う。結局、チケットの話は、今自分に何ができるか、自由にやるとしたら何をやるかという問い掛けに他ならない。そういう意味では、現状は「やれている」と言えるかもしれない。あとは結果がついてくるかどうかである。

 それでももしも本当にそんなプラチナチケットが手に入ったらどうするだろうか。その時はたぶん、それを欲する人に高く売って一儲けしたいと不純にも思うのである・・・



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【本日の読書】
 百戦錬磨 :セルリアンブルーのプロ経営者 - ハロルド・ジョージ・メイ 逆説の日本史25 明治風雲編 日英同盟と黄禍論の謎 (小学館文庫) - 井沢元彦




2020年11月23日月曜日

言葉の力

初めに言葉があった
言葉は神と共にあった
言葉は神であった

(ヨハネによる福音書)

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 今さら言葉の持つ力を力説するつもりはないのだが、やはり言葉は偉大だと思う。人類がなぜ他の動物たちとは異なって文明を築き上げることができたのかと言えば、それはやはり言葉があったからだろう。人間と生物の1番の大きな違いは、「言葉を持っているかいないか」の差だと思う。言葉と、そしてそれを表す文字こそが人類最大の発明なのではないかと思えてならない。

 生物の中にはある種の言葉を持つものもいるという。ミツバチはダンスで蜜のありかを伝えるというし、イルカの超音波なども「情報を伝える」という意味では言葉と言えるかもしれない。その他にも匂いや音などを利用した情報伝達手段を持っている生物は数多くいるのだろう。ただ、それらと人類の言葉との大きな違いは、「時間を超えられない」ことだろう。人間の言葉は1年後も100年後も1000年の時間さえ超えて伝えることができる。

 ミツバチのダンスもイルカの超音波も、およそ人間以外の生物の「言葉」はその時限りのものである。それに対して、人間の言葉は時間を超えられる。保存ができるというのが最大の特徴だろう。だから今でも1000年前に書かれた『源氏物語』を読むことができるし、鎌倉時代に成立したと言われる『平家物語』を読むこともできる。それどころかディケンズやトルストイなど時間どころか距離も超えて見も知らぬ人の文章を読むことができる。これはすごいことだと思う。

 他人のものもそうだが、自分の言葉も残すことができる。だから日記を読めば10年前の今日何をしていたのかもわかるし、どんなことを考えていたのかもこのブログを読み返せばわかる。このブログを始めたのは、2008年の11月22日であり、ちょうど12年前ということになる。このブログを始めた理由は、まさに自分の考えていることを残そうと思ったことである。だからPVもほとんど意識していない。自分の書いた文章であるのに、時が経てばどこかの人が書いたもののような感じがして不思議である。

 日記の場合、読み返せば「あの時こんなことをしていたのか」という記憶が呼び起こされたりする。まるっきり記憶からなくなってしまっているのもあれば、読むことによって思い出すことがある。忘れてしまったものならともかく、覚えているのに思い出さないでいるのは何かもったいない気がする。時には覚えていたはずなのに違って記憶していたりすることもある。人間の記憶は結構いい加減なものであるが、言葉がそれを正してくれる。

 毎週末にシニアラグビーの練習に行っているが、集合時間や場所も事前に連絡を取り合える。様々な意思の疎通ができるから、仕事も趣味も買い物もスムーズな日常生活が送れる。海外旅行をした時に、言葉が通じないと買い物ひとつするのにも苦労することを考えれば、それもよく実感できる(まぁ身振り手振りでもなんとかなったりするけど・・・)。コロナ対策も全国レベルで同じように行動できるのも言葉があるからである。しかしながら、そんなに便利な言葉があるのに誤解を招くのも面白いことである。

 私の嫌いな言葉に「以心伝心」がある。「言わなくてもわかる」というものであるが、昔から私はこれが大の苦手。「言われないとわからない」というのは今でも変わらない。人が心の中で考えていることなど、他人にわかるわけもない。もちろん、「以心伝心」もまったくないわけではなく、親しい間柄でお互いをよく理解していれば十分ありうるであろう。事前のコミュニケーションができている場合に初めて成り立つことであり、基本はあくまでも「不伝心」である。

 言葉を持って説明してもうまく伝わらない、曲解されるなんてこともよくある話。20年以上夫婦をやっていてもそうなのであるから、もう普通の人間同士であれば正しく伝わらなくても不思議ではない。考え方が違うのは仕方ないとしても、せめてこちらの真意が正しく伝わっては欲しいと思う。人間は言葉を生み出し、それを利用して知識を蓄え、それを伝えて蓄積し、他の生物には見られない自然の摂理に反したとも言える発展をした。言葉はその原動力であるが、それはまだ完全なものではない。

 昔、好きだった漫画に『超人ロック』というのがあった。未来の世界で活躍する超能力者の話である。もちろん、テレパシーもできる。心に思うだけで相手に考えが伝われば、いらぬ誤解も受けずに済むかもしれない。言葉はそんな空想の産物に比べると随分不自由である。想いを伝えるなら、精一杯言葉を尽くさないといけない。聞くにしても同じである。不完全だからこそ、努力を要するのだろう。キャッチボールの基本は相手の胸めがけて投げ、相手のボールは両手でしっかりと取ること。ボールであろうと言葉であろうと、キャッチボールの基本は同じだと思う。

 言葉の語呂合わせで、「いい夫婦の日」に始めたブログ。夫婦の先は長くないと思うが、言葉のキャッチボールだけは基本通りにやっていきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 百戦錬磨 :セルリアンブルーのプロ経営者 - ハロルド・ジョージ・メイ ベルリンは晴れているか (ちくま文庫) - 深緑野分





2020年11月18日水曜日

いつまでアイドル?

 ジャニーズの嵐が活動休止するそうである。私は嵐のファンでも何でもなく、そう聞いても「ふ~ん」と思うだけである。ニュースが目に止まったのは、娘がその昔ファンであり(今は関ジャニである)、現在活動しているアイドルグループで私が唯一メンバーの顔と名前を知っているグループでもあるということがある。そんなわけで、なんとなく親近感を抱いているとも言える。

 華やかな人気アイドルグループと言っても、よくよく聞けばメンバーはみんな30代後半のいい大人である。もうアイドルでもないだろうという感じがする。同じ人気グループでもサザンオールスターズなんかはもう還暦なのに活動しているので、アーティスト活動自体は違和感がないとしても、年齢的には若い女性に「キャーキャー」言われるアイドルという存在ではないだろう。今後、嵐の各メンバーがソロ活動に入るのかどうかは知らないが、一旦「アイドル」に区切りをつけるという意味ではいいのではないかと思う。

 それはそれとして、リーダーの大野智が週刊文春で女性とのラブラブ写真を掲載されていたようである。もう別にいい大人なんだからどうということもないが、やはり芸能人の恋愛はニュースネタとしては美味しいのかもしれない。それに関して、ジャニーズでは恋愛禁止という不文律があるとネットニュースで知った。まぁ、女性アイドルグループでもそういうルールはあるようだし、なんとなく理解できるが、それをいつまで適用するのかは興味深い。

 アイドルが恋愛禁止なのは、ファンに夢を売るからだろう。大好きなアイドルが彼氏彼女ができたとなれば、ファンはがっかりするかもしれない。しかしながら、それもある程度の年齢までであろう。アイドルだって人間だし、人を好きになるのは自然な事。ある程度の期間限定ならともかく、ずっとはあり得ないだろう。まぁ、ずっと恋愛に縁のない人も一般にはいるだろうが、アイドルとなればモテないということはないので、それはあり得ない。それを禁止するのは、大げさに言えば人権侵害である。

 私もその昔はキャンディーズが好きだったが、アイドルに憧れたのはその時だけ。以降は卒業したし、それ以降好きなタレントが結婚してもどうとも思わなかった。自分が結婚できるわけではないからである。だから竹内結子が結婚して(離婚して再婚して)も、北川景子が結婚しても満島ひかりが結婚しても、引退さえしなければ気にもならなかった。ファンも一定の年齢になればそんなものではないかと思ってみたりする。ちなみに我が娘は、中村倫也が結婚したら、「ショックは受けるけどファンは辞めない」と言っている。そんなものだろう。

 しかし、文春がわざわざ得意気に掲載するということは、それがニュースになるということだからだろう。それは恋愛禁止のジャニーズにあって禁を破ったからなのか、それともアイドルの恋愛そのものが世間の耳目を集める話題だからなのかはわからない。それはともかく、わざわざ文春に掲載されると何か後ろめたいことのようなイメージがする。何となくそれは気の毒に思える。大野智もアイドルだから若く見えるが実年齢は39歳だというから、もう恋愛の1つや2つや3つは当たり前だろう。「放っておけばいいのに」と思わざるを得ない。

 もちろん、それが不倫だとか、お遊びだとかになれば面白半分に暴き立てるのもゴシップ紙の大事な役割だろう。そうでない真面目なものなら、気がつかない振りをする「大人の対応」をしたいものだと思う。それにいつまでもアイドル扱いするのではなく、大人のタレント扱いにすればいいのではないかとも思う。彼氏彼女ができてもオープンにすれば週刊誌ごときに追いかけ回されることもないし、不自然な「神聖化」よりもはるかにいい気がする。若いファンの獲得は同年齢の新しいアイドルに任せて、ファンの年齢とともに成長するようにすればいいように思う。

 若い頃は、恋愛自体に憧れもあり、それをアイドルを対象にして疑似恋愛をするという意味合いがあるのだと思う。その意味ではアイドルに付き合っている人がいてはいけないし、ましてや結婚などダメであろう。それは疑似恋愛をしていたファンを「失恋」させることになるからである。しかしながらファンも成長するし、自分自身も実際の恋愛をするだろう。そうなればアイドル相手の疑似恋愛も卒業すると思う。ファンもそうである以上、アイドルも疑似恋愛の対象から卒業してしかるべきである。

 大野智が一般女性と幸せそうなショットに収まっているのは、ファンでなくても見ていて微笑ましいものである。週刊文春がこれを採り上げた真意はわからないが、おじさんとしては微笑ましく好感を持って眺めた次第である。活動停止の理由はよくわからないが、こういう人として自然な幸せを堪能していけるのであれば、それもいいのではないかと思う。もしも偶然レストランで2人で食事しているところに隣り合ったとしても、気がつかないフリぐらいはしたいと思う。

 ジャニーズ事務所もアイドル戦略をそろそろ見直した方がいいのではないかと、素人的には思うのである・・・


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【本日の読書】
 キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語 - 小林さやか 悩みどころと逃げどころ(小学館新書) - ちきりん, 梅原大吾




2020年11月15日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その8)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子謂子貢曰。女與回也孰愈。對曰。賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。子曰。弗如也。吾與女弗如也。
【読み下し】
子(し)、子(し)貢(こう)に謂(い)いて曰(いわ)く、女(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰(いわ)く、賜(し)や、何(なん)ぞ敢(あ)えて回(かい)を望(のぞ)まん。回(かい)や一(いつ)を聞(き)いて以(もっ)て十(じゅう)を知(し)る。賜(し)や一(いつ)を聞(き)いて以(もっ)て二(に)を知(し)るのみ。子(し)曰(いわ)く、如(し)かざるなり。吾(われ)と女(なんじ)と如(し)かざるなり。
【訳】
先師が子貢にいわれた。 「おまえと回とは、どちらがすぐれていると思うかね」 子貢がこたえていった。 「私ごときが、回と肩をならべるなど、思いも及ばないことです。回は一をきいて十を知ることができますが、私は一をきいてやっと二を知るにすぎません」 すると先師はいわれた。 「実際、回には及ばないね。それはおまえのいうとおりだ。おまえのその正直な答はいい」 
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銀行員時代のこと、ちょうど最初の昇格が目の前にあったときのことである。同じ支店に同期がいて、次の昇格のタイミングでどちらかが昇格できるはずであった(あるいはどちらもできないか)。2人ともということはなく、かと言って私も同期を蹴落とすようなつもりはなく、ただ自分のなすべきことだけをきちんとやろうという心境で日々を過ごしていた。そんな私のスタンスが、当時の支店長には物足りないと思われていたのかもしれない。

 半年に一度の面談で、私は支店長から質問された。「お前は同期のSと比べてどちらが優れていると思うか」と。私は同期のSの方が業績には貢献していると思うと答えた。当時、Sは営業で支店の業績推進に邁進していた。私は融資担当で、役割からいえばオフェンスよりディフェンスと言えた。単純に比べることはできない。「業績」という点では確かにSの貢献の方が大きかったかもしれない。だが、融資に関しては、審査を通したりする面で私もそれなりに貢献していたと心の中では自負していた。しかし、先に昇格したのはSの方だった。

 もう20年以上前のことだし、別に今更恨み言を言うつもりはない。ただ、人にはそれぞれの持ち味があると思う。その時、営業に関しては確かにSの方が私よりも優れていたと思う。同じ土俵で勝負していたら負けていたかもしれない。しかし、融資という土俵で勝負していたら、たぶん私の方が優れた結果を残していたと思う。お互いに性格も違うし、得手不得手がある。それはエースピッチャーと4番打者のどちらが優れているかを比べるようなものだろうと思う。どちらもなくてはならないし、高校野球ならともかく、普通エースピッチャーで4番打者を兼ねられるものはほとんどいない(世界でも大谷翔平くらいだ)。

 人間の能力なんてそんなに大差はないが、範囲を狭めれば差が出てくる。走るという分野に限れば、早く走れる者とそうでない者にははっきりと差が出る。しかし、「短距離走者と長距離走者のどちらが優れているか」と問われれば答えに窮する。それは土俵が違うから比べようがないのである。勉強が得意な者とスポーツの得意な者とどちらが優れているかも同じである。いろいろな人間を集めて、それぞれ得意分野で活躍させるのが会社のいいところで、優れた営業マンだけを集めても問題のない会社が作れるとは限らない。

 当然、と言えば当然である。会社で言えば適材適所。落語で言えば十人十色。文系人間がいて理系人間がいる。一律に1つの基準で測ろうとすればどうしても測りきれないことが出てくる。4番打者がピッチャーができないからとダメ出しされたら、せっかくの打撃の才能が活かせないことになる。その場合、監督がその才能を見極めて、適切なポジショニングをしなければチームは選手の才能を活かせず、したがって勝てもしないだろう。当たり前と言えば当たり前であるが、世の中は必ずしもそうではない。

 当時、支店長の推薦枠は各支店で1名だった。したがって、私とSが同時昇格することはまずなかった。そもそもそれも理不尽だと思う。例えば私よりもSよりも劣る人間でも、違う支店であれば昇格できることになるからである。現に私もあの時同じ支店にSがいなければ昇格できていた可能性は非常に高い。実力+運が必要といううことなのだろう。今の自分であれば、日常どう振る舞えばよかったのかはなんとなくわかるので、Sではなく自分が昇格できた可能性はあると思うが、残念ながら当時の私にはそこまでの能力はなかった。

 そんなことを経験すると、ある人物の一面だけを見てその人を判断するのはいけないということはわかる。もちろん、スポーツのポジション争いとか、仕事でもある分野とか、限られた範囲内での優劣はあるだろうし、そういう評価の違いも必要だろう。だが、そこで劣っていたとしても、それはその人のごく一部の面ということになる。すべての面において劣っているというわけではないのだが、得てして人は「一を知って十決めつける」的なところがある。

 しかし、当然ながら人はどこに才能が眠っているかはわからない。あるスポーツではパッとしなかったものの、別のスポーツで開眼することはあるし、転職して成功する人もいる。「見返す」ことができるわけであり、だから1つの「低い評価」を気にすることもないわけである。子貢は回よりも一を聞いて二しかわからないという点で回よりも劣っていたが、しかし正直さという点で師の評価を得られたわけである。己のことであれば卑屈になることはないし、他人のことであれば他のいい面を探す必要があるだろう。

 そんなことを考えていくと、ある面に置ける得手不得手に惑わされることなく、自分においても他人においても、その持っているいい面を見られる人間でありたいと思うのである・・・



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【本日の読書】
 キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語 - 小林さやか ベルリンは晴れているか (ちくま文庫) - 深緑野分



2020年11月11日水曜日

創意工夫が大事だ

 仕事ができるとはどういうことかについてはいろいろあると思うが、できる人には何が必要かということについては持論がある。それは「考え方」「情熱」「創意工夫」である。仕事に対する「考え方」はあらゆるものの基本であるし、壁に行き当たった時に突破していく気持ちを奮い立たせるのは何よりも「情熱」だし、ただ闇雲に猪突猛進するのではなく、「どうしたらできるのだろうか」という「創意工夫」がなくてもダメだろう。それが仕事における三種の神器だと思っている。

 その中の「創意工夫」については、できない人が意外にも多いのだとこの頃感じさせる。その昔、初めて部下を持った時は、とにかく「どうしたらできるか考えなさい」といつも言っていた。すぐに「無理です」というのが得意な部下だったということもあるが、「なぜできないのか」、「どうしたらできるのか」、それを考えればすべてできるとは言わないが、かなりできるのではないか。そんな風に思えて、なんども指導したのである(ダメだったけど・・・)。

 たとえばここ何年も宅建の試験を受け続けている人がいる。私は2年目で合格したが、1年目に不合格となった時、なぜ合格できなかったのか、合格するまでにはあと何点取ればいいのか、何を間違えたのか、次はどんな勉強をすればいいのか、そうしたことを諸々考え、2年目は1年目の足りなかった部分を補って受験した。当然、1年目よりパワーアップしているわけで、2年目では合格した。同様にもうちょっと難しいマンション管理士は3年目で合格した。

 それは試験だけではなく、スポーツなどでも同じである。負けたのならそれはなぜ負けたのか。何が足りなくて、それはどう補えばいいのか、そのためには何を鍛えればいいのか。そうして2回目に戦う時は、1回目よりもパワーアップしているはずで、したがって勝てる可能性は高くなる(ただし、相手も努力しているから結果はわからない)。そういう「創意工夫」は、仕事では当たり前だと思ってきたし、自分でもあれこれいろいろと考えている。

 しかしながら、何年も宅建を受け続けている知人は、そうした創意工夫の形跡が見られない。同じようなことを同じように繰り返しているのだろうと思うが、したがって同じ結果にしかならない。何年も受け続ける根性は大したものだと思うが、何の創意工夫もなくただ受け続けて落ち続けているのは、まったく脳がないとしか言いようがない。仕事でも日常のルーティンを淡々とこなし続けているだけで、何の工夫も変化もないというのはこの手のタイプであるように思う。

 これが「手抜き」なら、話は別で、「どうやったら楽できるか」という工夫は割とするのかもしれない。個人的にはそれも創意工夫であり、悪いことではないとむしろ肯定的に思う。手抜きを責めるよりも創意工夫を褒める気持ちの方が強いのは、それが応用できればそれに越したことはないと思うからである。ただ、やはり何らかの目標があって、それを突破するような創意工夫が望ましいことは言うまでもない。目標でなくても困難な壁でもいいと思う。

 個人的にはそれは特段難しいことではなく、当たり前の思考パターンだと思う。したがって、「できない」と言って終わってしまう人のことはよく理解できない。前述の部下も「もう無理です」と言うだけで、それ以上の努力をしようとはしなかった。代わりにやってみせても、私だからできるのであって自分には無理という考え方であった(ここでも「考え方」が重要な所以である)。

 「できない」と思えばできないし、「できるのではないか」と「考え」ればできるかもしれない。こうやったらどうだろうかとか、あるいは誰かに知恵を借りに行くのでも良いかもしれない。とにかく、「どうしたらできるだろうか」と考え続ければ道は開ける可能性がある。年齢的に覚えられなくなってきているならどうやったら覚えられるかを工夫すればいい。1時間かかるならかければいいし、1時間でダメだったら2時間かけてみてもいい。そういう工夫はいくらでも出てくると思う。

 そういう工夫をせずに、「ダメでした」、「できません」、「仕方ないです」と悪びれるでもなく、また同じことを繰り返すのは、私的には信じ難い愚行である。同業者でも10年近く宅建の試験を受けているのに受からないという人の話はよく聞く。そういう人の仕事ぶりは、見なくても想像できてしまう。人は人でそれぞれの考え方があって、仕事よりも大事なものがあって、仕事は片手間でそんなことまでやっていられないという「考え方」なのかもしれない。それを否定するつもりはないが、自分としてはただ冷ややかに見るだけである。

 人の事はともかく、自分としては、仕事であれシニアのラグビーであれ、自分で熱意をもってやることに関しては、きちんとやりたい。お金をもらうならそれなりに責任を果たしたい。「できない奴」とは言われたくない。そのためにも、これからも創意工夫し続ける人間でありたいと思うのである・・・



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【本日の読書】
 Think right 誤った先入観を捨て、よりよい選択をするための思考法 - ロルフ・ドベリ, 中村 智子 ベルリンは晴れているか (ちくま文庫) - 深緑野分



2020年11月8日日曜日

LGBTに思う

 今、『Auオードリー・タン-天才IT相7つの顔-』という本を読んでいる。オードリー・タンは、2016年に35歳で台湾のIT大臣となった人物で、今回のコロナ禍において、台湾はいち早く封じ込めに成功したが、その一部陣頭指揮を取ったことでも注目を浴びた人物である。その人となり、および青少年時代の天才振り(IQは180だそうである)は、確かにただ者ではない。しかしながら、個人的に興味深かったのは、「トランスジェンダーである」というところである。

 オードリー・タンは、生まれた時は男であったそうであるが、今現在は女性として公式に活動しているとのこと。昨今、LGBTという言葉が市民権を得ており、すっかり違和感はなくなっている。体は男だが心は女。体は女だが心は男。そんなことを言われても、ピンと来ない。また、男なのに男が好き、女なのに女が好きというのも同様(と言っても「女が好き」という部分は理解できる)。最近は、LGBTだけではなく、もっと細かく分類できるようであるが、もう訳がわからない。

 私が若い頃、まだLGBTが市民権を得ていない頃は、「男は男らしく、女は女らしく」というのがもっと当たり前で、ナヨナヨしている男などは一段下に見られる傾向があった。「女の腐ったような奴」というのは、男に対する侮蔑言葉であったし、大人しくて声の小さい男子は、「シャキッとせんか!」と体育の先生に喝を入れられるイメージであった。もちろん、「体は男だが心は女で恋愛対象は男」というトランスジェンダーは「気持ち悪い」というのが当たり前の時代であった。

 かつてアル・パチーノ主演の映画『クルージング』というのがあって、この映画はゲイがテーマになっていた。ゲイとは「心も体も男だが恋愛対象も男」というタイプで、自らの体を鍛えた黒革レザーのマッチョの男たちが力強い口づけを交わすというイメージがある。映画『クルージング』では、ニューヨークのゲイ・エリアが背景に描かれていて、男ばかりのバーの中に黒いタンクトップ姿の主人公が入って行くのだが、店内の雰囲気が実にショッキングだったのを覚えている。

 その後、エイズが蔓延し、しかも同性愛の人たちが多く罹患したことから、一種の天罰的な風潮が流れた。ソドムとゴモラではないが、道徳に反することをやっているからそうなるのだと。今から思えばそれもエイズに対する理解不足があったからであるが、少なくとも社会の同性愛に対する批判的な雰囲気が後押ししたのは間違いがない。今、仮に同性愛者間で何らかの疫病が流行ったとしても、もっと冷静に受け止められるだろうという気がする。

 自分は極めてノーマルで、「男は男らしく、女は女らしく」という考え方を持っているが、その「男らしく」というのも考えようによっては怪しいものである。例えば我々のイメージする「男らしく」と、アフリカのどこかの種族のそれとは必ずしも一致していない。その種族は戦いの前に顔にペイントするかもしれないし、アメリカのインディアンも顔にペイントする。それは女性の化粧と目的こそ違えど変わらないだろう。つまり「らしく」というのは、文化的社会的に決まってくるもので、人間が生まれながらに備えたものではない。

 昨今は、男も毛深いのが嫌われるからと言って「お手入れ」する男も多いようだが、これとて私の感覚からいけば蹴りを入れたい部類である。松本零士の漫画『キャプテン・ハーロック』には、長い間の平和ボケで、戦うことを忘れ、化粧をしハイヒールを履く男たちを嘆くシーンがある。それもSFの世界というより現実味を帯びてきているが、それに違和感を抱くことが、もう違和感を持たれる対象になっていくのかもしれない。男女がデートで化粧品屋に寄ってお揃いのファウンデーションを選ぶのもおかしくない時代になっていくのかもしれない。

 そうなると、「男は男らしく」などと主張していると、頭の古いジジイといつか言われてしまうのかもしれない。今の流れからいけば、個人の価値観は変化していくものであり、男だから女だからという感覚は捨てなければならなくなるのかもしれない。体は男だが心は女という人が、体は女だが心は男という人と結婚して、しかし生殖機能は変えずに子供をもうけたら、「男が子供を産む」ことも現実となる。

 あるいはノーマルな男が好きになった女が、実はトランスジェンダーのゲイで、たまたまお互いの趣向が一致して同性婚で結婚して子供を産んでも同じである。生まれた子供からすれば、「僕のお母さんは(法律上は)男」となるわけである。そんな組み合わせを考えていったら暇なんかいくらあっても足りない気がする。なんだかややこしい世の中になっていくのだろうか。

 LGBTの人たちが差別されずに堂々と生きていけるような社会を作ることは大事なことだろう。私もノーマルを捨てる気はまったくないが、少なくともLGBTの人たちを認めることには抵抗はない。とは言え、自分としては自分の思う「男らしさ」をいつまでも追求し、女性の胸とお尻に魅力を感じる心をいつまでも持ち続けたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 ハーバードの心理学講義 - ブライアン・R・リトル, 児島修 コピーライターじゃなくても知っておきたい 心をつかむ超言葉術 - 阿部 広太郎 Au オードリー・タン 天才IT相7つの顔 (文春文庫) - アイリス・チュウ, 鄭 仲嵐





2020年11月4日水曜日

大阪都構想雑感

 先日、大阪で「大阪都構想」を巡る住民投票があり、僅差で反対派が勝利した。都民としては、よその家の出来事であり、どうこうということはない。嬉しくもないし残念でもない。大阪府民のみなさんの判断なのでどうこう言うつもりもない。ただ、新聞ではメリットばかりが報じられていたので、なんで反対なのかがよくわからない。僅差ということは、一長一短だったのだろうと思うが、マスコミにはもう少し反対の声の内容を伝えてほしかったとだけは思うところである。

 報道によれば、都構想を行う目的は2つあり、1つは大阪府・市の二重行政を解消して大阪が成長する土台をつくること、もう1つは行政を細分化することで、きめ細かな住民サービスを拡充することだという。それだけ聞けばメリットの方が大きそうで、なんで反対の人がいるのかよくわからない。投票に行くのは高齢者が多いだろうが、高齢者は得てしてよくわからないものに対しては否定的に反応する傾向があるから、もしかしたらそういう理由なのかもしれない。

 また、総論賛成各論反対的なところもあるもしれない。つまり、大阪全体としてはいいが、自分には不利益があるから反対ということである。そこで思い出すのが、私が銀行員時代のこと。時間外勤務の削減ということがずっと言われていた。銀行全体としては、時間外勤務は人件費となり経費である。より多くの収益を上げるためには経費の削減が必要であり、したがって時間外勤務を抑制し経費を抑えようという目論見である。だが、ずっと言われていたということは、掛け声に関わらずうまくいっていなかったのだろうと思う。それは当然かもしれない。

 そもそも、銀行全体としては「費用」であっても、従業員個々人にとっては給与であり「収益」である。当然、「より多く」という考えが働く。「より少なく」と考える「費用」とは違う。なんで努力して減らそうとする者がいるだろうか。もちろん、私もそう考える1人であった。そもそも銀行員は多忙であり、仕事はいくらでもある。1時間の仕事を2時間かけてやる公務員のような真似はしなかったが、かと言って30分でやろうとも思わなかった。

 もちろん、銀行全体の収益力が向上すれば、それは巡り巡って従業員への還元、つまり基本給のアップという形で1人1人に給与収入の増加をもたらしたのかもしれない。しかし、それは約束されない希望(理論)でしかない。目の前の確実な残業手当にはかなわないのである。かくして上(経営)で笛吹けど、下(現場)では踊らないという事態が発生する。いくら「収益力が向上すれば給料が上がりますよ」と言っても個々の心には響かない。傍から見れば、時間外の削減は「早く帰れるというメリットもあるのになぜ反対する(実行しない)のだろうか」となるわけである。

 また、自分の経験からいくと、「思ったように考えは伝わらない」ということもある。我が社でも「これはいい」と思ったアイディアが通らないことはよくある。「こんなに説明してもまだわからないのか」とか、「何でそんな風にひねくれた解釈をするのか」ということは日常茶飯事である。そこには「伝え方」の問題と「理解力」の問題とがあるが、こればかりはいかんともしがたい。特に「伝え方」は何とかなったとしても「理解力」だけはどうにもならない。大阪でもそういうことがあったかもしれない。

 まぁ、都民の立場から詳しくわからないことをあれこれ論じるつもりはないし、きちんとした分析は専門家がきっといくらでもしっかりやってくれるのだろう(新聞には乗らないけど)。そんなことに立ち入るつもりはないし、わかった風なことを言うつもりもない。ただ何となく身の回りの事象に当てはめて考えてみると、そんなことを感じたりするのである。

 それにしても、私はと言えば、今は中小企業と言えども役員待遇なので時間外手当はない。したがって自由に働けているという感覚である。昔は、時間外手当と言っても青天井ではなく、「年間上限360時間」という法律の縛りがあったから大変であった。何とか超えないように四苦八苦し、年間の時間外労働時間が「359時間50分」という時もあった。ただでさえ忙しいのに、そんなところにも気を回さないといけなくて、それが労働者保護になっているのかどうか疑問に思ったものである。

 最期はわき道にそれてしまったが、大阪府民の今回の決定が良かったのか悪かったのかはわからないが、つらつらとそんなことを思い出しながら考えてみたのである・・・




【本日の読書】
 コピーライターじゃなくても知っておきたい 心をつかむ超言葉術 - 阿部 広太郎 ハーバードの心理学講義 - ブライアン・R・リトル, 児島修