論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】************************************************************************************
なんとなく論語に書かれていることはいい事ばかりのような気がしていたが、ここではどうにもダメな男が出てきて、さすがの孔子も匙を投げているように思える。ダメな人間は本当にどこまで行ってもダメだとさすがの孔子も認めているというのは、なんとなく孔子も普通の人だという人間味を感じさせてくれる。孔子でさえそう思うのであるから、私のような凡人であればなおさら、であろう。
日頃、人と接していて、「ダメな人だ」と思うことはしばしばある。ただ、「ダメ」と言っても種類があって、仕事や勉強やスポーツのような「何かができない」ということと、「人間としてダメ」ということである。孔子がここで語っているのは後者の例であるが、私の場合、前者のタイプと接することが多い。映画や小説では前者の場合が多いが、幸いなことに私の身の回りには前者のタイプがいない。もっとも、そういうタイプとはたとえ接点があってもすぐ距離を置くからそうなるとも言える。
後者のタイプからは逃げられない。職場の同僚だったり取引先だったり、いろいろである。この場合、人間性は別であり、仕事以外ではいい人なんだろうなと思わされることが多い。いくら性格が良くても仕事ができるとは言えないからである。性格は良くても、何事につけ指示されることに慣れてしまっていて、「自分の意見を言ってくれ」と問うても、あるいは「考えてやってくれ」と言っても思うようにはできなかったりする。
よく「指示待ち族」と言われるサラリーマンがいるが、それは今の学校教育の結果だと主張する人がいる。実際、指示されればきちんと仕事はするが、指示されなければ自分から積極的にやろうとはしないスタンスは、学校で真面目にやるタイプ(先生には逆らわないタイプ)の姿勢そのものと言えなくもない。私などは、ついついプラスαを求めてしまうから、指示されたことをやって、できましたと報告して終わりということで満足したくはない。
これはスポーツでも同じで、全体練習が終わったらそれで終わりというタイプと似ている。私などは、ラグビーでも学生時代から練習前に部室に行って1人ベンチプレスをあげたり、終わった後にパスやキックの練習をしたりとプラスαをやっていた。自分のテリトリー以外でも意見を言ったり、自分の仕事でなくても、自分の方がうまくできそうだと判断したら「やりましょうか?」と代わりにやったりしてきた。だから今は「指示する立場」に変わっている。
だが、やっぱり同じようにできない人はいるものである。そもそも指示されないことをやるという発想がない人もいる。それに指示された通りにやる発想しかない人もいる。その仕事の目的はなんなのか、そのやり方はどうしてなのか、他にもっといいやり方はないのか、そうした観点から仕事を工夫できたら違う世界が開けると思うが、そうできない人もいる。それを無能というつもりはないが、発想の練習が足りないとは言える。
取引先には、どうにも致命傷的な担当者もいて、言われてやるならまだいい方で、言ってもやってくれないレベルになるとどうしようもない。よその会社の人であるから叱るわけにもいかない。相手の会社の上司を巻き込んでなんとかしてもらうようにしているが、なんでそんなにダメなのか、個人的にはとても興味がある。ただ、ではダメ人間かと言うとそんなことはないと思う。プライベートではいい人かもしれない。
学校でも勉強もスポーツもよくできる生徒がいる一方、どちらもダメな生徒もいる。その差はなんなのかと問われればよくわからない。人間の能力は基本的に皆ほとんど差はないと思うが、結果として大きな差がつく理由には興味がある。幸い、「朽木は雕るべからず」と言うほどの人にはあまりお目にかかれていない。仕事においてはうまくリードしてあげればいいだけの話。きちんと指示をしてあげればいいだけの話であり、孔子のようにバッサリ切って捨てるほどではない。
孔子の言うことは大げさ過ぎると思うが、そう思えるほどダメ人間に接していないとも言える。何はともあれ、それはそれでありがたいと思うようにしたいと思うのである・・・
MrdidgによるPixabayからの画像 |
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