現在会社で訴訟を抱えている。とある上場企業とある取り決めをし、契約書とともに覚書を結んだのであるが、その履行を巡っての争いである。我々は万が一の場合に備えての要望を出し、それを相手が認めて覚書という形で結んだのである。そもそも相手には我々の経営権を欲しているところがあり、それを警戒して覚書を結んだという経緯がある。それは普通では飲まないような条件だったのであるが、相手が最終的に折れる形で条件を飲んできたのである。そして事態は良からぬ方向へと進み、いよいよ覚書で定めた条件を履行してもらおうとなった段階で相手がソッポを向いたのである。
我々としては、きちんと互いに合意した以上、履行を求めているのであるが、それは相手にとっては不利な条件であり、ここにきて約束を反故にしようというのだろう。そこで我々としては法による正義を求めて訴訟を起こすことになった。話の筋からして当然我々の主張が通るだろうと考えていた。自分たちに都合が悪い条件だというのはわかっていて、それでも我々に取引を求めてきたのである。万が一の場合についても承諾した上で、覚書という形できちんと書類にも残していた。何も問題はないと訴訟に臨んだのである。
ところが、訴訟が進むにつれ、雲行きが怪しくなる。弁護士からはあらかじめ和解という形での決着も視野に入れてくれと言われていた。こういう民事裁判の場合、弁護士はあまり判決文を書きたがらないらしい。詳しい事情はよくわからない。和解となれば双方の同意であり、裁判所の役割もその仲介となる。裁判所の判断は入らないことになり、いろいろな面倒から逃れられるのだろう。我々としても「多少の」譲歩は仕方がないと考えていた。そこは何が何でも100%の勝ちにこだわるつもりもない。
しかし、和解にしたところで裁判官が途中での心象というものを示してくる。このまま行くとどちらの判断を下すのかというところである。それが何と我々の主張に否定的であるというものであった。何でも相手は本契約と覚書の細かい条項をついて、グレー部分を主張してきているとのこと、そして裁判所も覚書の条項の表現を相手方の主張通りに捉えているということである。グレー部分とは、明確にどちらというものではなく、取りようによってはそう取れるというものである。
話の筋か言葉の解釈か。我々としては話の筋だろうと思うのだが、法的には言葉の解釈を優先するという。その考え方はわからなくもない。しかし、裁判員制度が導入されたのは、裁判官の判断だけではなく、市民の常識や感覚を反映させようという意図だったと思うが、まさにその市民の感覚と大きくズレているのを感じる。裁判官の判断と弁護士による解釈。弁護士は我々の味方であるはずなのに、裁判官の意見を翻訳して我々に伝えてくれているはずが、いつの間にか「どちらの味方なんだ」という気がしてくる。
今回の争いはどういう経緯で起こったのか、覚書を結んだ前後のやり取りやその後の争いに至る経緯。それを勘案すれば、我々の方が正しいというのは市民感覚としてわかるはず。それを法的な契約書や覚書の文言にこだわってその解釈だけで判断しようとすれば(そこに一定の理屈は当然成り立つ)、何が正義なのかという気がしてくる。法的に正しければ、人としての道理は成り立たなくてもいいのだろうかと思わざるを得ない。
法律は万能ではない。それでも一定のルールを決めてその範囲内で争いを解決しようとする。双方には双方の正義がある。昨日とある懇親会で「正義の反対は?」と、とある方に尋ねられた。答えは「もう一方の正義」であった。なるほどと納得した。双方に正義があり、それぞれが法律に基づいてどちらの正義に軍配が上がるかを求める。その時に法に基づき判断されることになるが、一方で「事実」が蔑ろにされてはならないと思う。法律は完璧ではない。そこを補うのが、市民感覚ではないかと思う。
裁判官の解釈に従うならば、一体覚書に定めたことが成就するケースとはどんなケースなのかと疑問に思う。弁護士がそこを追及しているが、裁判所はそれに対して答えてくれない。おそらく答えられないか、あり得ない架空のケースになるしかない。そこにも矛盾が生じる。法と市民感覚と事実。それをうまく裁くのがいい裁判官のように思う。今回は覚書の内容に(グレーの解釈を生む余地である)不備があったのも事実。そこを事実の経緯でもっと補ってほしいと思う。そういうところが法律の限界であり、それが私が大学4年の時、法曹の道へ進むのをやめさせた理由である。
その判断は正しかったと今も残念ながら思うのである・・・

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