【原文】
子曰、後生可畏。焉知來者之不如今也。四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已。
【読み下し】
子曰く、後生畏る可し。焉くんぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞ゆること無くんば、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。
【訳】
先師がいわれた。「後輩をばかにしてはならない。彼等の将来がわれわれの現在に及ばないと誰がいい得よう。だが、四十歳にも五十歳にもなって注目をひくに足りないようでは、おそるるに足りない」
************************************************************************************
学生の頃は、まだ長幼の序というものが色濃くあったが、社会人になってからはそれはほとんど消滅している。それはもしかしたら私の中だけのことかもしれない。スポーツの世界では、それよりも早く経験している。それは大学時代のラグビー部での話。もう最初から宣言されたが、練習中は先輩も後輩もなく、名前はすべて呼び捨て。試合中に「◯◯さん」などと言っている暇はないという合理的な考え。当然レギュラーも実力主機である。後輩にレギュラーポジションを取られたくなかったら、とにかく人一倍努力するしかない。
社会人になってもスポーツの世界は進んでいて、キャプテンも若手の中から選ばれていた。練習も試合もキャプテンが中心となる。「後輩に従う」ということも自然に受け入れていた。そういう「免疫」があったためか仕事でも長幼の序は気にならなかった。逆に仕事でものを言うのは「立場(職責)」だろう。年齢を重ねると「年上の部下」というのも避けては通れない。そういう年上の部下に対して、立場上指示をすることはあってもそこには当然礼儀というものはあり、私自身で言えば呼び捨てにしたことはなく、言葉遣いにおいても相手を尊重している。
それは別にきれい事を言っているわけではない。人にはそれぞれ自分よりも優っている部分があるという当たり前のことを理解しているからであり、ささやかな優位性(会社内の地位)だけを持ってして上から目線にはなりにくいというものがある。私の場合、ラグビーには優位性があってもサッカーにはない。人はみな同じ経験を積み重ねるものではない。自分にはない知識、経験値を持つ者を年下だからという理由でバカにするのは誠におかしなことである。
今、会社では私には年上の部下がいる。残念ながら指示待ち族の典型で、とてもビジネスマンとして有能だとは言い難い。しかし、その人は指示すればきちんと仕事をしてくれる。特に助成金申請のような書類ばかりが多いお役所仕事においては丁寧にきっちりやってくれる。その一点を持ってして私はその方を重宝しており、定年年齢を過ぎてもお願いして同じ給料でアルバイトとして勤めてもらっている。いなくなると困る存在であり、そういう意味で、私はその方をバカにする事なく、ただ職務上で指示命令の立場にあるだけと考えて尊重している。
孔子はさらに後輩でも40〜50代になっても注目を引くような存在でなければ恐るるに足りないと言っている。別に恐るるつもりはないが、先の方などはいなければ困るのは私であり、尊重している。私の地位を脅かすという点では恐るるに足りないが、ただ「辞める」という一言には恐れるのに十分な理由があり、恐るるに足りないことはない。それは先輩後輩などの年齢によるものではなく、あらゆる人に当てはまると思う。自分が万能でない以上、取るに足りない人に頼ることもあり得るわけであり、そういう事も念頭に置いておかないといざという時に助けてもらえないかもしれない。
どんな人にもその人ならではの知識と経験とがあり、そして自分は万能ではないという事実がある。そこから導き出される結論としては、どんな人でも尊重すべしという事であろう。とは言え、我が社にはもはや老害と化している方がいて、批評家としてはなるほど参考にはなるが、実害を被ると心中穏やかではいられないのも事実。あいだみつおではないが、私もにんげんだもの。どうしても感情的に穏やかでいられない時もある。それはともかく、「将来自分に影響があるから」とかないからとかではなく、先輩だろうが後輩だろうがバカにしてはならないのは当然である。孔子の考え方とはちょっと異なる。
老害は困ったものであるが、なるべく関わりあわないようにして、他人を尊重する態度は崩さずに人とは付き合っていきたいと思うのである・・・
![]() |
| vined mindによるPixabayからの画像 |
【今週の読書】


0 件のコメント:
コメントを投稿