2025年3月16日日曜日

中学の同窓会

 中学校の同級生から同窓会をやるという連絡が届いた。前回はコロナ禍前の2017年だからおよそ8年ぶりということになろうか。前回、勇気を振り絞って行き、それなりに思い出のある面々と再会して楽しいひと時を過ごした。中には前回来ていなかったメンバーもいて、卒業以来、45年ぶりの再会という者もいた。名前を聞いても思い出せない者もいて、とうとう最後まで思い出せず、申し訳なく思った。それにしても年月は人の外見を見事に変える。指名手配写真などは月日が経てば間違いなく本人とわからなくなるだろうと思う。

 中学の時は、いわゆるツッパリグループがいて、変に絡まれないかと目を伏せてなるべく関わり合いにならないようにと過ごしていた。今回、同窓会でもできれば会いたくないし、たぶんみんなに嫌われていたから来ないだろうと半ば安心していた。ところが、来たのである。初めはそれとわからず、普通に「誰だろう」と思って話をしていたが、なんと会いたくない筆頭メンバーだったので驚いてしまった。内心の動揺を隠しつつ、表面上は穏やかに話していたが、外見からして羽振り良さそうで、聞けば会社経営者ということであった。

 意外な気もしたが、よくよく聞けば高校にもきちんと行き、頭は悪くなかったようで、社会に出てから真面目に頑張ったのであろう。中学時代は確かに喧嘩番長的なところがあったが、道を間違えずに成長したということなのだろう。一方で、その取り巻きだった者は、高校も定時制に行き、まともに卒業せず消息不明。まともな道には進まなかったらしいという話も聞いた。同じように悪い仲間にいても、まともに社会に出る者と道を外れてしまう者との差は、やはり考え方、意識の違いだろう。その会社経営者は私もよく知る同級生の女性と結婚したと聞いて2度驚いた。

 小学校から好きだった女性とは今回も再会できて感慨ひとしおであった。孫も5人いて、それなりに幸せそうであった。小中学校でかわいかった子は、大人になっても美人になるのだろう。当然と言えば当然。そうでなかった子も大人になればそれなりに綺麗になるものだとは思うが、還暦を迎えても見惚れてしまうのはやはり元がいいという事に尽きるだろう。聞けば私がまだ学生の頃に早々に結婚したと言う。交わる事のなかった互いの人生が何となく恨めしい気もする。

 訃報も一件あった。前回も来ていた者だった。同じように生きてきて、途中でそれが終わってしまう。本人もそういう未来は予想もしていなかっただろう。人の寿命はそれぞれだから不思議ではないが、その運命の違いに何とも言えないものがある。本人もたぶん8年後の同窓会に自分が参加できないとその時は想像もしていなかっただろう。考えてみれば、そういう自分も未来は永遠に続くわけではないが、いつになるかわからないが、次にやる時も出席したいし、親よりは長生きしたいと思うだけである。

 今は便利な時代。好きだった子とは2人で記念の2ショットを撮らせてもらい、LINEを交換し、LINEグループにも招待してもらった。次回があればまた誘ってもらえるだろう。それにしても話しかけられ、親しげにあれこれと思い出話をしてくれた友人がいたが、名前を聞いても最後まで思い出せなかった者がいた。名前を聞くとだいたい昔の記憶が蘇ってきたのだが、その者だけはどうしても思い出せなかった。帰ってきて卒業アルバムを引っ張り出して探してみたら、何とクラスメイトだった。昔の顔を見たら何となく思い出したが、考えてみればそれほど仲良くしていたわけではないから無理もない。

 中学時代に仲が良かった者とはさすがに話が弾んだ。卒業後の人生はそれぞれ。毎日のように遊んでいたのに、卒業してプッツリと関係が途切れてしまったのも寂しい気がする。もっとも高校に行って新しい友人ができ、ラグビーも始めてそれなりに充実した日々だったから無理もない。共学だったからそこにはまた魅力的な女の子もいたし、初めて彼女ができたのも高校に入ってからだった。ツッパリグループもいなかったし、楽しい毎日だったからそれはそれで良かったと思う。

 それにしても時を経てこうして昔の同級生に会うというのもいいものだと思う。仲の良かったメンバーとはまた別に飲みに行こうと約束をして別れた。自分の過ごした時間を共有した仲間だし、また会いたいと思う。会いたくなかったツッパリグループの一部のメンバーとも握手して別れた。自分の歴史の一部でもあるし、これからも大事にしたい繋がりだと思うのである・・・

congerdesignによるPixabayからの画像

【今週の読書】
頭のいい人だけが解ける論理的思考問題 - 野村 裕之 世界は経営でできている (講談社現代新書) - 岩尾俊兵 〈他者〉からはじまる社会哲学 - 中山元





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