父は今年で88歳になった。今のところ特に大きな病気を抱えているわけではないが、やはり年齢によるものなのか、認知的なところで衰えが目立つようになってきた。伝えた事も一晩寝れば忘れてしまうという事は日常である。この冬、家の中でも寒いからと言ってダウンを着ているのを見かねてユニクロのフリースをプレゼントした。温かいしちょうどいいと言ってさっそく着ていたが、翌週行くとまたダウンを着ている。フリースは気に入らないのかと聞くと、その存在を忘れていた。
昨年は何度も財布をなくした。最初の時は銀行のキャッシュカードやクレジットカード、運転免許証が入っていたので大騒ぎ。キャッシュカードとクレジットカードは喪失再発行手続きを取り、免許証は諦める事にした。翌週、実家に行き、確認すると再発行されたクレジットカードは届いていたが、同じカードが2枚ある。運転免許証もある。よくよく聞いてみると実はなくしていなかったのである。
その後、また財布をなくしたと言うが、今度は知らん顔をしていた。なくした免許証はどうすればいいかと何度も聞かれ、キャッシュカードも止めたと言う。それがまた次に行くと、「キャッシュカードが使えない」と言う。銀行に停止連絡をしたのを忘れていたらしい。もちろん、なくしたはずの財布も手元にあった。私も幾度か付き添って銀行に手続きに行ったが(その前にも使わなくなった口座の解約手続きがあったのである)、とうとう窓口の担当者に私の顔を覚えられてしまった。
そんな騒ぎもあり、運転免許証は返納することにした。付き添って近所の警察署に行く。手続きは簡単で、運転経歴証明書が必要なら写真と手数料を持って行けば良い。父もそれを申し込んだ。警察署の担当者は「長い間ご苦労様でした」とねぎらいの言葉をかけてくれた。一律、こういう対応なのか、この担当者が個人的にそうなのかはわからないが、ちょっといい気持になれる対応である。父が運転免許を取得したのは私が生まれる前だから60年以上前という事になる。当時の教習車は(国産車がなかったのか)左ハンドルだったらしい。
当時、父はたまたま失業中だったという。印刷工として腕一本であちこち渡り歩いており、「何もしないなら運転免許でも取れば」という母の声に背中を押されて取りに行ったそうである。のどかな時代で、教習所で何時間か運転したところ、「あなたはうまいからもう受けに行ったら」という教官の言葉を受け、試験場に行って試験を受けたそうである。今なら教習所も商売だからきっちり30時間以上乗って実技免除資格を取らせるだろう。そんなわけで直接試験場に行った父は、実技も一発合格で晴れて免許を手にしたそうである。
父は腕のいい印刷工で、どこへ行っても重宝されたらしいが、勤め人だったら自家用車は買えただろうかと思う。幸い、自営業として商売をはじめ、腕がいいからいいお得意さんもでき、おかけで我が家に自家用車がやってきた。それまで車に乗ると言えば親戚の伯父の車に乗せてもらうのが関の山で、我が家に自家用車があるというのは、なんだかものすごく贅沢になった気がしたのを何となく覚えている。父はスカイラインを何回か乗り替え、最後はハリアーと長く日産車を愛用していた。
70歳で商売を終了し、工場をたたんだ。年金生活に入り、そろそろ運転はやめるべきだと家族は進言したが、運転をやめようとはしなかった。ちょっと心配していたが、最後のハリアーを手放す後押しをしたのは、都内の高い駐車場代だった。さすがに年金生活では無理だと諦めたのである。それでも免許だけは手放さず、5年ごとに更新を続けた。まだ乗る機会はあると思っていたようである。それがとうとう、「もう乗る事はない」と自ら言って、免許更新のタイミングでの返納となったのである。
自家用車がきたからといって家族で頻繁にドライブに行ったという記憶はない。私も高校ぐらいから家族と行動をともにしなくなったのでよけいである。私が免許を取ると、父の愛車も私が頻繁に借り出すようになった。父はよく愛車の手入れをしていて、いつもぴかぴかだったが、新米ドライバーの私がちょこちょこ傷つけてしまった。父が怒ることはなかったが、今にして思えば申し訳なかったように思う。最後は故郷へ母を乗せて行くくらいが唯一の遠出だっただろうか。
警察署へ向かう道すがら、「免許証は提出したら返ってこないのだろうか」とぽつりと父が呟く。運転はしないが、免許証は記念に取っておきたいらしい。「穴をあけて返してくれるんじゃない」と私は答えたが、やはり未練は残るのだろうかと思ってみたりした。免許証は簡単な記念のカードケースに入れて返してくれた。もう父が運転する車に乗る事はないんだなと改めて思う。父の運転する車に最後に乗ったのはいつだっただろうか。愛車の廃車を決めた時、最後に父とドライブでもすれば良かったなと改めて残念に思うのである・・・
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PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像 |


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