2022年6月30日木曜日

夏の日雑感2022

  週末はシニアラグビーの試合があった。6月だし、雨だと嫌だなと思っていたが、土曜日から梅雨はどこへやらの真夏の暑さ。そして試合当日も快晴。こうなると、この時期暑さが敵に回る。雨の中の試合も嫌だが、高温下の試合も50も後半の肉体にはキツい。それでも20分ハーフの試合を前後半とこなして気持ちの良い汗を描く事ができた。7月に入れば梅雨が復活するのかと思っていたら、なんと梅雨が明けてしまった。例年にない夏の到来に驚きばかりである。

 訃報が届いたのは、翌日の月曜日。なんと一緒に試合をしていたチームメイトが、試合後の帰宅途中に倒れて亡くなったとのこと。ついさっきまで一緒に試合をしていて、「上手くなった」と褒めてくれたばかり。しかも年齢は私と同じである。先月は高校時代の友人が亡くなり、今度はチームメイト。YouTubeにアップされた試合の動画では、彼は溌剌とプレーをしている。そしてそこには私もいる。しかし、彼はもうこの世にはいない。試合で楕円球を追う彼は、まさかそれが人生最後の日、最後の数時間だったとは夢にも思っていなかっただろう。

 そういう自分も、死は他人事である。自分が死ぬという想像はできない。それにはなんの根拠も保証もない。今自分が死んだらどうなるだろうと考えると、家族の混乱は想像できる。それを考えると、事前にいろいろと準備しておく必要があると感じる。生命保険の証券はわかりやすいところに置いておく必要があるし、預金などの金融資産もわかるようにしておかないといけない。住宅ローンは生命保険付きなのでチャラになるが、手続きはわかるだろうか。葬式は家族葬で構わないが、友人には連絡してほしい。ならば連絡先もわかるようにしておかないといけない。

 

 貸したお金はいいが、預かっているお金は返さないといけないからまずい。管理のためとは言え、自分名義の口座に入っているから家族にはわからない。そのあたりは紙に書いて保険証券などと一緒にしておく必要があるだろう。仕事では迷惑をかけてしまうが、これはどうしようもない。まぁ、しばらくは混乱するだろうが、会社が傾くほどではないから「みなさん、ごめんなさい」というところだろう。親より先に行くのは何より親不孝な気がするので、できるなら順番を守りたいところである。

 

 先日読んだショーペンハウアーの『孤独と人生』の中で、人は満足していることより不満な事が気になるものだという事が書いてあった。全身健康であっても、靴の中に小石が入っていたりすると、たちまち不快=不幸を感じると。ちょっとした痛みの方が気になって仕方がなくなるというのはその通り。人はむしろ不幸を回避することを心がけるべきだという指摘はもっともである。ハワイに行きたいがなかなか行けないと嘆くのではなく、今日も無事1日を終えられたことを素直に感謝すべきなのだろう。


 この時期、日中外出すると猛烈な日差しで汗が噴き出てくる。エアコンをつけっぱなしにすれば電気代が気になるし、夜はエアコンをつけて寝ると体調を崩す事が多い私は窓を開けて寝るが、夜はやはり寝苦しい。それでも寒さに震える冬にあっては、真夏の太陽が懐かしかったりするので、今がその時だと思えば少しは気分も晴れる。暑いのも生きているから。「貴方が虚しく過ごした今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」とは韓国の小説『カシコギ』の言葉。今日、自分がいつものように終えようとしているこの1日は、生涯を終えた友が生きられなかった1日なのである。


 そう考えれば、暑さもまた愛おしい気持ちになる。先週末の試合では、タックルでまた首を痛めてしまった。なんでいい年してラグビーなんてまだやるのか。最近、自分でもそう思わなくもない。ただ、やめたら後悔する気がする。人間は年齢と共に少しずつ手にしたものを失っていく。視力は既に老眼の世界だし、髪も筋肉も記憶力ももう昔のようにはならない。いずれできなくなるとしても、その日までは楽しみたい。1本でも多くの映画を観て、1冊でも多くの本を読みたい。


 今日は見事な夕焼けであったから、明日もまた暑いのだろう。だが、それもまた生きている証。仕事では問題が山積しているが、仕事があるから悩めるのも確か。幸い、仕事ぶりは評価してもらえていて、小さい会社ながら役員になることになったし、問題もまた楽しからずやである。週末は、両親を連れて温泉である。少しは喜んでもらいたいと毎年連れて行っているが、それも後どのくらいできるかと思うと、「今のうちに」と思う。この頃は、誰かに喜んでもらえると、それだけで気分がいいと感じる。


 死を意識しつつ、死に備えつつ、それでいて怯えることなく日々を楽しむ。これから残り時間がどれほどあるかわからないが、自分が意識しているのは90歳。その日まではまだ30年以上あるわけだし、日々をそうして楽しみながら過ごしていきたいと思う。そう考えると、明日が猛暑であったとしても、待ち遠しいように思う。明日目が覚めたら、感謝と共に1日を始めたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 



2022年6月27日月曜日

質疑応答が自問自答に変わる

 いつもお世話になっている母校の社会人向け勉強会で、某著名人の方の講演会に参加してきた。上場企業の創業他とても真似できないような実績を残していらっしゃる方で、この機会に質問しようとしていたことがあった。しかし、他の人が以外にも質問の手を挙げていて、なんとなく機会を伺いながら自分なりに考えていたら、いつの間にか答えに達してしまっていた。それでも自分の答えと比較するためにも質問すればよかったのだが、控えめな性格が災いしてとうとう聞かずじまいだった。そんな自分に呆れながら、せっかくなのでその考えをあらためてまとめてみることにした。

 質問したかったのは、新しいことをやろうといろいろと会社で提案するのだが、必ずといって良いくらい抵抗に遭う。抵抗は良いと思う。それもその人の意見であり、自分と違うからといって否定的に考えるべきものでもない。真摯に受け止め、それをどうクリアするか考えれば良いだけである。そういう抵抗をどう考えるかを聞いてみたいと思ったのである。

最近、抵抗を受けたのは以下の二つ。
1. 業績連動性の福利厚生の導入
2. 技術を評価する新たな制度(公的資格、社内資格の創設)の導入

  いずれも若手を中心に人事面談を実施し、会社への帰属意識が希薄下する懸念、業績への無関心、給与への不満等を解消するため、そして会社の生命線である技術力の向上を図る必要性を感じてのものである。なんの問題もないように思うが、それでも反対論は出る。いわく、「利用できない者がいる」「仕事そっちのけで資格取得を目指す者がいる(いた)」。いずれもごく少数の例であり、個人的には反対意見として不十分だとは思うが、ご本人は大真面目であるから無視するわけにもいかない。

 そもそもであるが、反対される所以は一つには個人の価値観の違いがあると思う。考え方の問題もあるし、立ち位置の問題もある。まずはなぜ反対するのかを考える必要がある。1の場合は、人事面談を実施する中で、私が抱いた危機感を共有できていないということがある。それに一社員が業績に関心がなかったとしても仕方がない(会社の業績なんか知る必要もない)と考えているのかもしれない。福利厚生費としての支出に対する懸念かもしれない。一つの解決策としてまずそこの意識合わせが必要だということは言えるだろう。

 2の場合、そもそも仕事に資格はあまり役に立たないという意識はある。それは私も思い至るものがある。私の持っている「宅建」も「マンション管理士」も実務上の役に立つものだとは言い難いものがある。しかし、実際に経歴書には各人のスキルが掲載されるわけで、それが受注に至ることは現実である。ならば国家資格などではなく、そういう実際のスキルを評価する仕組みに変えるのも良いかもしれない。仕事そっちのけという問題については、資格は評価し、仕事は評価減とすればいいだけだろう。

 これ以外にも、船に喩えるなら社長は船長であり、操舵室にいるものである。取締役ももちろん操舵室にいて、船が進むべき進路を決める役割がある。しかし、事業部長を兼務していたりすると、しばし取締役としてよりも事業部長として発言したりすることがある。操舵室ではなく機関室で意見を言うのと同じで、「見ている景色」が違うから意見が合わないのも当然である。船が進むべき進路とスピードを指示する船長に対し、機関室の負担が大変だと返答するようなものである。もちろん船長はそれも考慮するべきであるが、同じ景色を見ていたら、それでも機関室の問題はなんとかしようと考える方向に行くかもしれない。

 議論は一度で結論に至る必要は必ずしもない。まずはお互いの考え方のすり合わせから始めるのも良いかもしれない。反対意見は飛行機の向かい風にしばしたとえられる。向かい風がなければ飛行機は飛び立てない。そう考えて反対論にいちいちストレスを感じていても仕方がない。冷静に反対論の内容を分析して対応策を考えていくしかないだろう。新入社員からスタートして、取締役になったのはサラリーマンとしては成功だが、事業部長の延長の意識しかないところはある。「取締役とは」という教育訓練を受けていないという原因もあるかもしれないし、それであればまずそこから始めるべきだと思う。

 かくしてみんなの質疑応答を聞いているうちに、自分自身も結論に達してしまった。こういう思考訓練も良いかもしれない。こういう事は、実はよくある。講演会などで最後に質疑応答コーナーがよくあるが、質問を考えているうちに自分自身でそれに対する解答も考えてしまい、いざ質問しようとするとわざわざ人に聞きたいとは思わなくなってしまうのである。それでも質問すれば自分とは違う回答が得られて、そこからまた新たな気づきを得られるかもしれないので、聞くのは悪くないと思う。引っ込み思案な性格も時にはなんとかしないといけないかもしれない。

 いずれにしても、一度くらいで諦める気は毛頭ない。次の機会にまた対案を練って再提案をしようと思う。見事通れば拍手喝采。そんなことを考えると、会社に行くのがまた楽しくなるなと思うのである・・・



【本日の読書】

 



2022年6月23日木曜日

論語雑感 雍也第六(その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子曰、「人之生也直、罔之生也幸而免。」
【読み下し】
子(し)曰(いは)く、人(ひと)之(の)生(い)くる也(や)𥄂(なほ)かれ。生(い)くるを亡(くら)める也(や)、幸(いましめ)られ而(て)免(まぬか)るるのみ。
【訳】
先師がいわれた。「人間というものは、本来、正直に生れついたものだ。それを無視して生きていられるのは、決して天理にかなっていることではない。偶然に天罰を免れているに過ぎないのだ。」

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 人間は本来正直に生まれついているというのは、その通りだと思う。純粋無垢に生まれ、嘘をつくことを知らず、嘘をつかれるということも知らない。よって子供は人を疑うということを知らない。サンタクロースがいるってことも信じて疑わない。それから成長するに従って、世の中に蠢く悪意を知り、疑うということを知るようになる。しかし、それも年老いていけば元に戻り、やがて疑うことを忘れ、素直にオレオレ詐欺に騙されるようになる。人間の本性は善だと思うところである。

 

 しかし、正直に生き続けるというのも実に難しい。『正直不動産』という漫画では(今はドラマもやっているようである)、口八丁の不動産業界で好成績を収めるやり手の主人公が、祟りによって嘘がつけなくなるという物語である。この漫画が面白いのは、主人公が嘘がつけなくなって成績を落とすどころか、逆に正直に語ってお客様に感謝されて成績が上がっていくというストーリーである。嘘をつきまくって利益を上げ、成果主義でたくさんのお金を手にするサラリーマンを描いても受けないように思う。それは我々の心の中にある正直さが、主人公のそれと共感するからに他ならないからだと思う。

 

 人は自分と他人とを比較したら、究極的には自分の方が大事である。だから他人のことより自分のことを優先したいと誰でも思う。「正直に生きる」と言えば聞こえはいいが、実社会ではなかなかそうはいかない。そこにあるのは「本音と建前」の世界である。私が銀行に入った時、すでにそこは「滅私奉公」の世界。「仕事」が何より優先。仕事が終われば上司と飲みに行く。土日であっても支店の行事に優先的に参加する。1年目は何時まで働いても時間外などつけられない。「おかしいじゃないか」と思うことばかりの世界であった。

 

 しかし、当時すでに反逆的精神に溢れていた私は、本音で「正直に」生きた。上司の誘いは断って飲みに行かず、土日の行事への参加は拒否。会社の運動会(3年ほどでバブル崩壊の不況の煽りで廃止になった)にはついに参加せず。その結果、「あいつは生意気だ」と不評を買ったのは言うまでもない。同じ支店の諸先輩には嫌われていたと思う。さすがにそうした態度による軋轢に耐えられず、嘘をつくことにした。「その日は友人の結婚式がありまして・・・」。そうすると角が立たない。実社会では正直に生きない方がうまく行くという事を私は学んだのである。

 

 今もたとえば役員会ではかなり意見が対立する。何かといえば反対する役員の姿勢には腹が立つ。いつまでも事業部長=従業員の感覚で考えており、会社の「経営者としての取締役」の役割を理解していない。しかし、そんな腹の中を「正直に」言えば当然反発を受けるだろう。なので、本音はグッと心に秘め、「なるほど、その指摘はもっともですね。でもこういう考え方はどうでしょうか」などと穏やかに話す。それでもなかなか賛意は得られないが、会議後に普通に相談を受けたりするので、関係は悪化していない。

 

 やたらと本音を正直に語って人と対立するよりも、自分の気持ちを抑え、相手のことを考慮しながら正直な気持ちを隠して接すれば穏やかな人間関係が保てる。私が社会人生活の中で傷つきながら身につけた処世術である。「正直」というのをどう定義するかにもよるが、それが他人と相対立するものである場合、当然それを全面に出すのは良くない。自分の利益と相手の利益が対立すれば、正直に言って当然自分の利益を優先させたい。しかし、相手の利益をあえて優先させることで相手が喜んでくれるなら自分も気持ちいい。それを「利益」と考えるのであれば、相手の利益を優先させることも「自分の利益」と定義することができる。そう考えれば、自分の利益を「正直」に優先させたとも言える。

 

 正直に生きることはいいことだと思うし、それを否定するつもりはない。しかし、今の自分は特に自分に対して正直には生きてはいない。自分のことより家族を優先させるのなんてしょっちゅうだし、自分のやりたいことを堪えて週末には実家に顔を出している。仕事ではかなりやりたいようにやれるようになってきているが、それでも「本音」を隠して穏便に物事を進めている。人には気持ちよくやってもらった方が何事もうまく行く。今日も自分の正直な気持ちを抑えて1日を穏やかに過ごした。それでいいと思うが、孔子の言いたかったことと合致しているのかはわからない。

 

 正直に生きるとはどういうことなのか、よくよく考えてみると難しい。あれこれ考えることなく、自分の思った事を言い、思った通りに行動し、嫌なことは何一つやりたくない。それが正直な気持ちである。仕事では楽をしたい。面倒なことは引き受けたくない。責任も取りたくない。ただ、そういう正直な気持ちに蓋をして、面倒を引き受け、丁寧に相手を説得し、頭から否定したいところをグッと堪え、責任を一身に引き受ける。そんな働き方をしていると、なぜか周りの信頼を集め、頼られる。それがまた心地良いからそんな働き方に拍車をかける。


 正直に生きるとはどういうことなのか。今の自分は正直に生きているのだろうか。一晩考えたくらいでは、答えを得られそうもないと思うのである・・・



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【本日の読書】

 



2022年6月19日日曜日

面談

 会社で現在、人事面談を進めている。私は総務部所属であるが、小さな会社の総務部は経理部兼人事部兼用である。人数も少ないため、主な仕事は「経理部」としての機能。人事部的な機能は給与計算だったり、雇用関係の事務的なものが中心。それで問題なく回っているのであるが、せっかく私も入社したので、これまで手薄だった人事部の機能を拡充することにしたという次第である。

 

 始めてみればいろいろな社員がいる。若手には、今どんな仕事をしているのか、困っていることはないか、いい会社であるためにはどんな事が必要か、などと聞いている。最初の質問の答えで、だいたいその社員の能力がうっすらと見える。レンガ積みの職人の話ではないが、自分のやっている仕事の説明で、まさに「レンガを積んでいる」のか「大聖堂を建設している」のかが見事にわかってしまう。もちろん、「大聖堂を建設している」人は優秀であるなと感じさせられる。

 

 優秀だなと思える社員とは会話も弾む。笑顔で答えてくれるし、話していても楽しくなる。将来会社の中心で活躍してくれるのだろうと思える。それに対し、質問にたいする答えは最小限で、表情が固く、「壁」を感じさせる社員はどうも会話が弾まない。返ってくる答えも明らかに毎日「レンガを積んでいる」と感じさせられるもの。在宅勤務の社員だと、会社への帰属意識が薄れるという問題がある。簡単に転職できる世の中だし、離職防止も意識しないといけない。「レンガを積んでいる」社員だからいらないというわけにもいかない。そこは意識を高めていく必要性を感じている。

 

 一方、中堅クラスになると、さすがに説明もきちんとしてくる。話す内容も自分のことだけに留まらず、会社に対する問題意識なんかも伝えてくるようになる。それなりに会社に対する提案も出てくる。「将来どんな仕事をしたいか」という質問にもそれなりの答えをしてくる。こちらも大いに参考にさせてもらうことになる。役職者にはこちらも質問を変えていく。そういう人たちには、主として「提案」を求めていく。会社に対する要望、改善点等を含めたものである。

 

 意識しているのは、要望や提案などがあった場合、必ずすぐ検討して現時点での答えを返すこと。いいなと思った提案はいくつか実施している。そうすることで、「言っても無駄」という意識をなくす事が狙いである。「困っている」と聞いたこともすぐ検討して対応する。中にはどうすることもできないものもあるが、それについては理由とともに今後のフォローを約束する。自分の意見を聞いてもらえたという感触は、誰でも心地よいものだと思う。それは自分自身の体験談でもある。

 

 若手は仕事よりも私生活に関心が高いようである。我が身を振り返ってみてもそれはそうかもしれないと思う。仕事に関する関心と言うなら、残業が少なかったり給料がもっと多かったりという関心が主で、将来どんな風になっていたいとか、今後こうしていきたいとかはあまり考えていない。自分もそうだったから人のことは言えない。身の回りの人を見て、自分もそんな風になるのかなと思う程度のものだろう。自分だったら、もう少し自分の技術を高めることに関心を持つとか、本を読んだりするだろうとか思うも、それは「今の自分」だからだろう。

 

 管理職の中には、早くも自分はしよう来役員になると公言する者もいる。我が社は同族企業ではないのでそれは可能である。現に今の社長も創業家の出身ではない。そういう管理職がいるのは企業としては大事なことだと思う。実に頼もしいし、たぶん「次の次」の社長候補の筆頭だろう。私の場合は、大きな銀行組織の中だったから、ここまで大きな野望は持っていなかったし、あまり評価してもらえなかったのは、若い頃の躓きが原因だったのだろうと思う。もう少し、将来を視野に入れた上で仕事をしていたら良かったと思う。

 

 そう思うのも、自分がさまざまな経験を経てきたからだと言える。今の自分もいきなり今の自分になったわけではなく、理不尽な思いをしながら、人とぶつかりながら、今の自分に辿り着いている。若手の人を見て「物足りない」と感じたとしてもそれは仕方がない。逆にそうした価値観から若手に対して「もっとしっかりしろ!」などと言っても通じないだろうと思う。そこはどうしたらきちんと伝わるのか。まだ若い価値観にどうしたら響くのか。それは自分で考えないといけないだろうと思う。


 なかなか大変だけれど得るものは大きい。自ら創り出した仕事であり、余計なことなどしなければその分楽ができると思うが、そんな事をしているから、今度役員にしてもらえることになったとも言える。そう言えば、銀行員時代、人事部の面談を受けながら自分も面談する方をいつかやってみたいと思ったものである。夢が叶ったと言うと大袈裟であるが、自らの力で実現させたという思いはある。まだまだ全社員の半分しか終わっていない。残り半分、自ら始めたことであるし今後も継続的に続けていくようにしたいと思うのである・・・

Robert HundleyによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 


2022年6月15日水曜日

正義と正義

  世の中には「正義」が溢れている。ウクライナに侵攻したロシアを西側諸国は一斉に非難し、経済制裁を実施し、ウクライナには経済的、軍事的支援を行っている。それを我が国の世論は概ね当然と考える。しかしながら、ロシアの立場からするとまったく違うわけで、ただでさえアメリカとNATOからの脅威を感じているところに、ウクライナにまでNATOの基地ができたら堪らないわけで、だから軍事侵攻という非常手段に打って出たのであろう。もちろん、それは非難されるべき行為であるが、NATOだって仲裁に入ってウクライナのNATO加盟を認めないと宣言し、ロシアの脅威を排除してやればことは解決するのである。

 しかし、ウクライナに兵器を支援という名目で提供するアメリカやNATO各国にとってみれば、「ロシアの弱体化」は大いに歓迎化すべきことで、兵器を輸出するアメリカの軍需産業も大いに潤っている。アメリカにしてみれば、「自国の兵士が死なず」、「自国の軍需産業が潤い」、「ロシアが弱体化」するウクライナの紛争は、収めるどころか長期化大歓迎だろう。単に感情論だけでウクライナ支援などという声は到底上げられない。ウクライナも平和を望む以上にロシアを嫌っているということだろうからである。

 人には誰でも正義がある。私も今、元勤務先の社長と法廷バトルを展開中であるが、たった一度滞納しただけで、翌月末には払うと告げていたにも関わらず、内容証明郵便による督促等通常の手続きを取らずに、しかも返済を求めるのではなく、いきなり債権者破産の申し立てをしてきた。常識で考えれば異常な闇金まがいの乱暴な取り立て行為である。しかしながら、相手には相手の正義があって、それは到底こちらは認めないし、世間もおかしいとしか思わないだろうが、それでも自分の正義があるはずである。

 かつての日本も世界恐慌下、困窮する国内事情を大陸進出で覆そうとして大陸に進出して行った。ロシアの南下にまったく対抗できない朝鮮を併合したのも「国を守るため」。たとえそれが世界的に認められなくても、日本には日本の正義があったわけである。そういう正義と正義がぶつかり合った場合、勝った方が「真の正義」になる。「勝てば官軍」なのである。元社長とは殴り合いの喧嘩をすれば1分で決着はつくが、我が国の中では裁判所で公正に争うという方法があり、常識ある社会人であればこの方法で白黒つけるしかない。

 戦争で負け日本は、すべての責任を負わされた。日本にだって正義はあったのであるが、「負ければ賊軍」。賊軍の正義は、所詮、正義とは認められない。ロシアとウクライナがどうなるかはわからないが、何よりも正しいのは即時停戦である。そのためには軍事支援ではなく、本気の仲裁こそが必要だろうと思うが、そうならないのは各国に自分の思惑=正義があるからに他ならない。自分自身、安易にロシアを非難し、ウクライナを支援する声に無邪気に同調する気にはなれないのはそのためである。

 我が社でも役員間で意見の相違・対立がある。みんな自分の正義があるのである。幸い、私は双方と良好な関係にあり、双方から話を聞けている。本来は、「会社にとって何が良いか」という共通善に向かって意思統一していくべきであるが、そうはならない。我こそが正義と思っているから、なかなか相手を認めるということにはならない。双方に話を聞けば、なるほどおっしゃる通りという意見があるのである。

 そういう私が、双方と良好な関係にあるのは、根本的に「相手の正義」を認めるところからスタートしているからだと自負している。それでいて、その正義をどう自分の正義と調和させるか、させられるかと考えて話をしている。それは若手社員に対しても、である。そういう心境に至ったのも、過去の苦い経験の蓄積に他ならない。私も自分の正義を信じるがあまり、しばしば相手の正義を「誤ったもの」と断じて対応してきたことが多々ある。もちろん、その結果、「なぜこの正しい考え方が理解できない」という自分勝手な怒りに辿り着いてしまったのである。

 相手の正義を尊重することで、互いに良好な関係になれるし、意見の相違もやがては解消できるような気がする。少なくとも、「何が会社にとっていいのか」という根本原理さえ維持していれば、同じ方向を向けるように思う。そういう考えで、明日もまた頑張ろうと思う。ただし、「降りかかる火の粉は払え火事の空」、法廷バトルに発展してしまった元社長との争いには決着をつけなければならない。そこは「平和的な喧嘩」に勝利の勝鬨を挙げたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

  



2022年6月13日月曜日

法廷バトル

 何事も考えてやるということは重要である。ただ闇雲にやればいいというものではない。我々の資本主義の世界は、考える者のところにお金が集まってくると思う。それはお金を生み出す方法然りであるが、それ以外でも、であるとこの頃つくづく思う。元勤務先の社長との法廷バトルではつくづくそんな思いにさせられる。先方は金に余せて弁護士を立てて訴えてきているが、こちらは「法律相談」で弁護士にアドバイスをもらいつつ、基本的には独力で対応している。「考えれば」高いお金を払わなくても済むのである。

 

 弁護士も得手不得手がある。医者だって免許は一緒でも外科や内科などと専門に分かれている。弁護士だってそうだろう。こちらがラッキーだったのは、どうやら相手の弁護士が債権回収の経験があまりないのだろうというところ。訴訟は基本的にかつての勤務先とそのグループ会社間でのもの。私がかつて新規事業を展開するために設立するよう提案した会社を、首を宣告されたのを機にそのまま元社員4名と共に独立させたものである。その会社は、元の勤務先に借入金があったが、滞納した瞬間に(正確には3週間後に)訴えられたのである。

 

 滞納した理由もカード不良のために振込ができなかったというもので、次の月末には払うと告げていたのであるが、面白くなかったのであろう、弁護士を立てて取り立てに来たのである。まるで闇金まがいの取り立て行為である。しかし、普通であれば、まずは預金の仮差押がセオリーであるが、相手の弁護士は債権者破産を申し立ててきたのである。いきなり仮差押をされていたら預金を押さえられてしまってアウトだったが、そうしなかったのは明らかに手落ちである。私も銀行員時代に債権回収を手掛けていたが、こんなお粗末なやり方はしたことがない。どうやら運はこちらにあると感じる。

 

 裁判所から「審尋期日呼出状」なる仰々しい物が届いてさすがに焦ったが、冷静に「考え」、要は「破産状態にない」ということを裁判所に疎明するだけでいいのだと要点を理解した。一応、弁護士をしている後輩に1時間10,000円の費用で弁護士相談に乗ってもらい、準備をした。ネットで検索して「答弁書」を見よう見真似で書き上げ、当日持参。裁判官も弁護士もつけずに1人できた私に、相手の弁護士の発する法律用語を「わかりますか」と優しく翻訳してくれる。同席していた書記官も後でこっそりアドバイスをしてくれた。味方はしてくれないが、知らないことによる不利益がないようにしてくれたのである。

 

 訴えた元勤務先の社長は、自分では基本的に考えない人であった。すべて任せて丸投げというタイプ。弁護士に対してもすべてお任せなのだろうと推察される。私であれば、まず弁護士には経験を問うところから始める。債権回収の経験はどのくらいあって、今回はどういう方法をとるのか。専門家だからと言ってそのあたりは怯まない。どういう方法を取り、それはどのくらいの効果があって、どういう風になると失敗するのか、そのあたりをじっくり聞くだろう。弁護士はあくまで「代理人」である。一応、「先生」とは呼ぶが、「代理人」は「代理人」である。主は自分である。

 

 元社長は、目の前に出されたものを見て判断する思考方法。しかし、それでは思考範囲が限られてしまう。私はこうした目の前に出された物だけで考えるのを「井の中の蛙思考」、あるいは「条件反射思考」と名付けている。だが、物事を深く考えるにはこれではいけない。「それ以外に何かないのか」と考える。あるいは、「今がいいのか、後の方がいいのか」と考える。前者はいわゆる水平思考というやつだと思うし、後者は時間軸思考だ。人間誰しもたくさん知識があるわけではない。それでいてしっかり考えるためには、「それ以外に何かないのか」と問いを立て、人に聞き、自分で調べて可能な限り広い範囲で考えるしかない。

 

 回転寿司にたとえれば、目の前に回ってきた中トロにすぐに手を出すのではなく、「これは握りたてか、そうでないなら個別にオーダーして握りたてを食べようか」と判断する(水平思考)。あるいは、中トロよりもその日のオススメの方がいいものがあるかもしれない。また、先に寒ブリやサーモンを食べてある程度食べてからにしよう(時間軸思考)かと考えるようなものである。もちろん、「チャンスの女神は前髪しかない」と言われるから、考える間に飛びつくのも大事だと思うが、それはケースバイケースで判断するつもりである。

 

 裁判所は公平である。孤軍奮闘の私に裁判官が同情したわけではないと思うが、こちらの主張が受け入れられ、まずは破産認定は回避した。元社長が弁護士費用にいくらかけたのかはわからないが、たぶん100万円くらいはかかっているだろう。それに対し、こちらは法律相談を2回、合計2時間で22,000円。ホームページを見ると1時間あたり15,000円となっているから、「先輩価格」なのだと思う。「先輩の役に立てるだけで嬉しい」と言ってくれて、こちらも「費用は払う」と言っているが、いまだに請求書が送られてくる気配はない。


 元社長は諦めきれずに次の「貸金返還請求訴訟」を提起してきた。これから法廷バトル第二幕。引き続き、弁護士は立てずに孤軍奮闘予定である。こういう経験も得難いものだと思う。あれこれと考えるのは楽しいことであるし、怒りという負のパワーに駆られてダークサイドに落ちないようにしたいと思う。金はないけど「考える」という武器はある。この武器をフル活用して法廷バトルを楽しみたいと思うのである・・・

Kai ReschkeによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

  




2022年6月9日木曜日

論語雑感 雍也第六(その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「質勝文則野、文勝質則史。文質彬彬、然後君子。」

【読み下し】

いはく、あやまさらばすなはいやし、あやまさらばすなはまばゆし。文質あやみ彬彬ともによかりて、しかのち君子もののふたらん。

【訳】

先師がいわれた。

「質がよくても文がなければ一個の野人に過ぎないし、文は十分でも、質がわるければ、気のきいた事務家以上にはなれない。文と質とがしっかり一つの人格の中に溶けあった人を君子というのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 ここでは「質」と「文」という二つが対比されている。「質」とは「気質」のようなものかもしれない。そして「文」とは「学」とか「教養」のようなものだろうか。なんとなくであるが、イメージされるのは映画『そして父になる』で描かれていた2人の父親である。福山雅治が演じるのは、建設会社に勤務するエリートサラリーマン。一方、リリー・フランキーが演じるのは、街の電気屋さんの経営者。大企業に勤めるエリートサラリーマンは、多分いい大学を出ている雰囲気であり、一方は経営者と言えど、三流大学出でやむなく親の家業を継いだという雰囲気で、好対照である。

 

 そんな2人の父親が、赤ちゃんの取り違えという事件で接点を持つ。エリートサラリーマンの父親は、仕事中心の生活で、子供とも必要以上に関わらない。奥さんも旦那さんに黙って従うタイプ、というよりやむなく従っている。一方の電気屋の親父は、家族を優先し、子供ともよく遊び、一緒に風呂にも入る。学があるのはエリートサラリーマンの方で、立ち居振る舞いも落ち着いている。一方の親父はどことなくガサツである。孔子の言う「野し」だろう。しかし、家族に対する愛情は圧倒的で、情の深さも感じる。

 

 これは映画の中の特別な世界の作り話というより、世間に溢れている典型的な二つのタイプのように思う。初めから「文」と「質」が共に身についている人ももちろんいると思うが、映画のようにどちらかに偏っているというケースも多いだろう。学はあるけれども冷たいタイプ、そして学はなくガサツなところがあるが、情に厚いタイプ。私も前職では不動産会社であったため、建設業の職人さんとの付き合いが多かった。職人さんと言えば、みなガサツ系である。私は「文」系だから、どうも苦手であったが、映画を観ていてどこか共通するものを感じたものである。

 

 ガサツ系=質()系という訳では必ずしもないだろうが、このタイプが「文」を身につけて君子になれるかと言うと、かなり難しい。だが、映画のように「文」系が質を身につけて君子になるのは、映画で描かれている如く可能である。世の中には自分オンリーで他人のことを慮らない「文」系の人間は多い。従業員の首を簡単に切り、雇用責任などどこ吹く風という顔をする経営者もいる。エリートサラリーマンとなると、何処か他人に冷たい人間というイメージが普通に当てはまったりする。孔子の指摘は現代でも当てはまる。

 

 映画では、子供の取り違えという事件を通じ、初めはガサツな電気屋の親父を何処か見下していたエリートサラリーマンが、その親父と子供から何かを学び、本当の父親になっていくという物語。ちょっと心に深く染み入る映画である。「文」のあるエリートだから外見上は立派なのだが、何処か冷たい。それが息子に対する本当の愛情に気付いて「質」を得ていく。「文」と「質」が共に身についた最後の「父親」の姿こそ、孔子の言う君子なのだと思わざるを得ない。エリートサラリーマンこそ、君子になれる可能性が高いはずである。


 世の中、他人のことなど気にせず好きに生きようと思えば簡単にできる。しかし、人に恨まれて生きるより良く思われて生きる方がはるかに心地良い。人生も還暦が近くなってくると、そんな風に思う。それも人それぞれで、いい年をしてまだ「自分ファースト」ならぬ「自分オンリー」思考から抜けられぬ人もいるが、それもまた哀れとしか思えない。これから残りの人生、心穏やかに生きていくために、そんな君子の姿を目指したいと思うのである・・・


Renee OlmstedによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 



2022年6月6日月曜日

言葉による理解

 先日、来春の採用活動のため鹿児島に出張に行った。私も日本各地はいろいろと行ったが、鹿児島は初めて。仕事とは言え、初めての土地に行くというのは、心躍る経験である。その鹿児島で、取引先との話題に「方言」が上がった。鹿児島弁は、県外の人が聞いたらかなりわからないそうである。しかし、私が接触した人は、訛りはあるものの、「わからない」というレベルではない。聞けば若い人は皆そうであり、お年寄りになるとはっきりと違いがわかるそうである。

 

 なぜなのかと言えば、それはやはりテレビをはじめとしたメディアの影響だろう。テレビで流れるのは標準語が中心。必然的に標準語化された人たちの言葉は、「わかりやすい鹿児島弁」になるのだろうと思う。その昔は、県外から来たらたちまち言葉でよそ者と知れたそうである。江戸の世では幕府から間者が来てもわかってしまったそうである。言葉が防護壁になっていたのであろう。それがテレビの普及で日本全国に標準語が行き渡り、独自の方言が標準語化しているのかもしれない。

 

 一説によると(『昨日までの世界』ジャレド・ダイアモンド 読書日記№377) 、世界にはおよそ7,000の言語があると言う。なぜかくもたくさんの言語が生じたのか。ラテン語が英語やフランス語などのヨーロッパの言語の母語なのはよく知られている。もともとはひとつの言葉だったのが、人類の拡大発展に伴い、最初は方言のように少しずつ異なり、やがて別の言語と化していったのだろうと想像される。昔は今ほど移動が容易ではない。ゆえに一定の範囲内で言語が方言化し、時代とともに別の言語になっていったのであろう。

 

 それが、現代ではテレビやラジオの発達によって世界が急速に縮小。標準語が地方にも行き渡るようになり、方言も標準語に近づくようになっているのだと思う。方言がわからないという話はよく聞くが、「標準語がわからない」とはあまり聞かない。日本語に限って言えば、日本が狭くなる中で、標準語による言葉の接近が行われているのであろう。人と人の理解はコミュニケーションを通してなされる。そういう意味では、お互い方言がきつくてわかりにくいというよりも遥かにいいだろう。

 

 時間が余ったので市内観光のバスに乗った。市内各所を巡って巡回するのであるが、巡回する名所というのはどうしても明治維新にまつわる史跡がほとんど。かつての薩摩藩が明治維新の中心となったことを考えると当然とも言える。しかし、中には「西郷さんが最後の5日間を過ごした洞窟」なんていうのもあり、明治政府と衝突した西南戦争の歴史も思い起こされる。せっかく共に新政府を立ち上げたのに意見の衝突から武力衝突に至る。互いに意思を通そうと譲らなければ武力で、というのは現代でもウクライナの例が示している通りである。

 

 戦争は、そういう意見の対立を解消する解決手段として使われる。話し合いで埒があかないとなると、対立したまま平行線を辿るか、力づくで意見を通すかとなる。結局、「勝てば官軍」であり、勝った方が正しかったということになる。西南戦争は、明治政府が勝利する。政府に逆らって反乱を起こした西郷隆盛は本来悪人であるはずなのに、のちに名誉が回復されて今は上野公園の銅像にまでなっている。意見は衝突したものの、西郷さんの人としてのあり方を認める人が多かったのであろう。

 

 意見の相違は致し方ないこと。しかし、共通の目的のために譲り合うことができるか否かが大事なところ。我が社でも今、役員間で意見の対立が起きていて、解決の糸口は見えていない。人はどうしても自分の意見の方が正しいと思いがち。そういう私も、会社全体のことを考えれば自分の意見の方が正しいと考えている。しかし、相手がそう考えないのであれば仕方がない。それを前提として「どうするか」を考えないといけない。会社だから、武力で解決するというわけにはいかない。

 

 相手の意見を認めて、一旦はそれでやってみて、うまくいかなければその時こそこちらの意見を通させてもらうというプロセスが必要なのかもしれない。まどろっこしいが、意見の対立は、いずれどこかでどちらか一方が諦めるしかない。戦争で負ければ黙って従うしかないし、実際にやってみてうまくいかなければ自分の意見を引っ込めるしかない。議論だけで同意に至るのが望ましいが、互いに譲れないから衝突になる。武力に至らなくても裁判ということになる。

 

 裁判も紛争解決手段としては武力にはるかに勝る解決手段である。感情的な対立は必ずしも解決されないが、少なくともどちらか一方に軍配は上がるし、裁判の中で和解という方法もある。争いがないことが一番であるが、人間がそれぞれ感情を持つ以上、それはあり得ない。共通の価値観を持つということが一番ではあるが、そう簡単にはいかない。子供の幸せを願うのは親としては当然。でもそのために母親は学力が必要と考え、早くから塾に行かせようとする。それよりも大事なものがあると反対する高学歴の父親。我が家もそんな対立があったが、結局力関係で母親の意見が通る。結果がわかるのはずっと先だが、その時にやっぱり自分の意見が正しかったと言っても後の祭りである。


 標準語化が進み、意思疎通が容易くなったとしても、それで対立がなくなるということはない。むしろ味わいのある相手の訛りを重んじる気持ちがあれば、意見の衝突も回避できるかもしれない。我が社の役員間の意見対立はなかなか解消が難しい。私としては、緩衝材としてその中に入り、うまくやっていけるようにしたいと思う。会社はみんなの幸せを積んだ船である。操舵室で争っていては氷山を回避できない。互いに十分通じる言葉があるのだから、根気強く自分の考えを伝えていきたいと思う。武力に限らず、衝突は周りを幸せにしない。そういう思いで行動していきたいと思うのである・・・



 【本日の読書】

  




2022年6月1日水曜日

誕生日に思う(2022)

 58回目の誕生日を迎えた。今さらであるが、早いものである。数えで言えば59歳。ラグビーの世界では、数えで60歳になると赤パンツになる。つまりあと1年で赤パンツとなるのである。なぜ「数え」なのかはよくわからない。一刻も早くと考えた先人たちの思いなのかもしれない。それになぜ「数え」というものがあるのだろうと思う。数えとは、生まれた時を1歳とする考え方。昔は数えで考えるのが当たり前だったそうだが、いつから今の数え方になったのか、考えてみると興味深い。

 

 しかし、よくよく考えると、「数え」の方が多かったりする。学校は入った年が1年生。「入学して3ヶ月です」とは言わない。会社も然り。「新入社員です」とは言うが、「3ヶ月です」とは言わない。新人あるいは1年目、1年生と言ったところが一般的である。「いくつですか」と聞かれて「3ヶ月です」と答えるのは、人間(あるいは動物も)の年齢ぐらいかもしれない。一説によると、胎内にいる時から数え始めるので、生まれた時が1歳だとするのである。「人間1年生」と考えれば、それもスッキリくる。

 

 そうしていつの間にか58回目、生まれた時を入れると59回目の誕生日を迎えたが、例によって特別の感情はない。いつもの時間に起き、いつものように髭を剃り、朝食はいつもの通りヨーグルトのみ。いつもの時間に家を出て仕事に向かう。そういう「いつもの」ルーティンを心地よく思う。違うのは仕事の中身。これは日々異なり、だからこそ面白かったりする。仕事では問題山積。問題があるからこそ仕事なのかもしれないし、それをこなすからこそ自分の存在意義を示せるのかもしれない。そう考えると、問題も歓迎すべきものである。

 

 先日、高校時代の同級生が亡くなった。それなりに親しい仲だっただけに少なからずショックを受けた。同じ年に生まれ、縁あって同じ高校に通い、同窓会ではともに幹事を務めた。互いにブログにリンクを張り合っており、自然と更新するたびにチェックしていた。ある時、ずいぶん長く更新されないので、メールを出したところ、病気で入院したり大変だとの返事が返ってきた。今は医療も進んでおり、大して心配していなかったが、突然の訃報で驚いた。死ぬということが実感としてはわからないが、友人が生きられなかった今日を生きているということは、やっぱり11日をしっかり生きようという気にさせられる。

 

 幸い、両親はまだ健在。母親はそろそろ認知症が危なくなってきている。すでに料理はおぼつかなくなり、それなのに冷蔵庫には食材が溢れ、次々と賞味期限を迎えている。最近は、毎週末に実家を訪ね、スマホアプリ片手に料理しているが、冷蔵庫の中の食材の賞味期限を見ながらレシピを探し、これならできそうというものを作っている。なかなか大変であるが、「孝行したいときに親はなし」とならないように、今は苦痛に思わずやっている。今日はその母親からメールをもらった。息子の歳を忘れたと嘆くが、誕生日を覚えているだけいいと思う。

 

 前勤務先の元社長とは現在法廷闘争中である。その強欲さにはほとほと呆れるが、裁判はなかなか面白い。先方は金に困らぬ身ゆえ弁護士を立てて契約書の穴をついて訴えてきている。資金力に劣るこちらは後輩の弁護士に割引価格でアドバイスを受けつつ、独力で対抗している。あれこれ悩みながら答弁書を書き、自ら裁判所に赴き、裁判官の前で自らの考えを主張し、先日はまず1勝を挙げた。一時期ハラハラしたが、これもなかなかいい経験である。形勢は有利。「実質的」には勝てる見込みであり、のちの武勇伝の一つにしようと考えている。

 

 人と争うというのもあまり気分の良いものではない。できれば穏やかに、みんなと良好な関係を築いて過ごしていきたい。しかし、「降りかかる火の粉は払え火事の空」とも言う。基本的に「目には目を」が信条であり、売られた喧嘩は正面から買うしかない。人間的に元社長は軽蔑すべきところであるが、よくよく考えてみれば狭い範囲内でしか物事を考えられないという哀れな部分もある。我が身を守るのは当然であるが、終わればスッキリ忘れてしまおうと考えている。「水に流す」のが日本人であり、ラグビーの「ノーサイド」の精神である。

 これからまた1年。今までは当たり前のように59回目(生まれた時を入れれば60回目)の誕生日を迎えられるものと信じていたが、友人の例はそれが定かではないことを教えてくれる。友人が迎えられなかった58回目の誕生日を迎えられた幸せを噛み締めたい。そして身の回りの人に少しでも「いて良かった」と思われるように振る舞いたい。良き息子、良き父親、良き友人、良き夫、良き同僚であり続けられるようにしたいと改めて思うのである・・・


Jan SteinerによるPixabayからの画像

【本日の読書】