2022年6月9日木曜日

論語雑感 雍也第六(その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「質勝文則野、文勝質則史。文質彬彬、然後君子。」

【読み下し】

いはく、あやまさらばすなはいやし、あやまさらばすなはまばゆし。文質あやみ彬彬ともによかりて、しかのち君子もののふたらん。

【訳】

先師がいわれた。

「質がよくても文がなければ一個の野人に過ぎないし、文は十分でも、質がわるければ、気のきいた事務家以上にはなれない。文と質とがしっかり一つの人格の中に溶けあった人を君子というのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 ここでは「質」と「文」という二つが対比されている。「質」とは「気質」のようなものかもしれない。そして「文」とは「学」とか「教養」のようなものだろうか。なんとなくであるが、イメージされるのは映画『そして父になる』で描かれていた2人の父親である。福山雅治が演じるのは、建設会社に勤務するエリートサラリーマン。一方、リリー・フランキーが演じるのは、街の電気屋さんの経営者。大企業に勤めるエリートサラリーマンは、多分いい大学を出ている雰囲気であり、一方は経営者と言えど、三流大学出でやむなく親の家業を継いだという雰囲気で、好対照である。

 

 そんな2人の父親が、赤ちゃんの取り違えという事件で接点を持つ。エリートサラリーマンの父親は、仕事中心の生活で、子供とも必要以上に関わらない。奥さんも旦那さんに黙って従うタイプ、というよりやむなく従っている。一方の電気屋の親父は、家族を優先し、子供ともよく遊び、一緒に風呂にも入る。学があるのはエリートサラリーマンの方で、立ち居振る舞いも落ち着いている。一方の親父はどことなくガサツである。孔子の言う「野し」だろう。しかし、家族に対する愛情は圧倒的で、情の深さも感じる。

 

 これは映画の中の特別な世界の作り話というより、世間に溢れている典型的な二つのタイプのように思う。初めから「文」と「質」が共に身についている人ももちろんいると思うが、映画のようにどちらかに偏っているというケースも多いだろう。学はあるけれども冷たいタイプ、そして学はなくガサツなところがあるが、情に厚いタイプ。私も前職では不動産会社であったため、建設業の職人さんとの付き合いが多かった。職人さんと言えば、みなガサツ系である。私は「文」系だから、どうも苦手であったが、映画を観ていてどこか共通するものを感じたものである。

 

 ガサツ系=質()系という訳では必ずしもないだろうが、このタイプが「文」を身につけて君子になれるかと言うと、かなり難しい。だが、映画のように「文」系が質を身につけて君子になるのは、映画で描かれている如く可能である。世の中には自分オンリーで他人のことを慮らない「文」系の人間は多い。従業員の首を簡単に切り、雇用責任などどこ吹く風という顔をする経営者もいる。エリートサラリーマンとなると、何処か他人に冷たい人間というイメージが普通に当てはまったりする。孔子の指摘は現代でも当てはまる。

 

 映画では、子供の取り違えという事件を通じ、初めはガサツな電気屋の親父を何処か見下していたエリートサラリーマンが、その親父と子供から何かを学び、本当の父親になっていくという物語。ちょっと心に深く染み入る映画である。「文」のあるエリートだから外見上は立派なのだが、何処か冷たい。それが息子に対する本当の愛情に気付いて「質」を得ていく。「文」と「質」が共に身についた最後の「父親」の姿こそ、孔子の言う君子なのだと思わざるを得ない。エリートサラリーマンこそ、君子になれる可能性が高いはずである。


 世の中、他人のことなど気にせず好きに生きようと思えば簡単にできる。しかし、人に恨まれて生きるより良く思われて生きる方がはるかに心地良い。人生も還暦が近くなってくると、そんな風に思う。それも人それぞれで、いい年をしてまだ「自分ファースト」ならぬ「自分オンリー」思考から抜けられぬ人もいるが、それもまた哀れとしか思えない。これから残りの人生、心穏やかに生きていくために、そんな君子の姿を目指したいと思うのである・・・


Renee OlmstedによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 



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