2011年12月31日土曜日

大みそか雑感

慌ただしい年末。
今週は町内会の夜回りがあった。
今年は当番で町内会の活動に参加しているが、その一環だ。
柏木持って、「火の用心!」と言いながら30分ほど近所を回る。
火事が大きな脅威であった江戸の時代ならともかく、この現代で今さらこんな事して何になるという気がする。たぶん、何にもならない。ただ、ご近所の人たちとの親睦という意味では、かなり意味のある事だと思う。
そういう意義を感じて、積極的に参加。
 
大みそかは例年通り、最後の大掃除。
我が家は分割して大掃除を行っている。
今月4回目の今日は玄関周りと洗車だ。
今年から高圧洗浄機を導入。
これがなかなかの優れモノ。
例年はデッキブラシでゴシゴシやっていたのだが、今年はこのマシンでラクラク。
次々と汚れが落ちていく様は爽快であった。

妻の話によれば、ご近所はみんな昨日一昨日で大掃除を済ませたらしい。
おそらく28日が仕事納めでお休みだったのだろう。
30日まで仕事の我が身からすれば、仕方ない。
それでも何軒かのお父さんは外へ出て最後の掃除に精を出していた。

プラプラとスーパーへ行けば、けっこうな人出。
たまには日本酒でもと思って買いに行ったのだが、棚はガラガラ。
けっこうみんな今日はお酒という気分なのだろうか。
やっぱりそこは日本人なのかもしれない。

昼に年越しそばを食べ、夕食はすき焼きというのが大みそかの我が家のメニュー。
BGMは紅白歌合戦だ。大阪の妻の実家から美味しい肉を送ってもらい、それをみんなで食べる。
今年は震災や母の入院などいろいろあったが、こうしていつものように締めくくる事が出来た事に感謝しないといけない。

Facebookで長年連絡の途絶えていた人と繋がったのも大きな収穫だった。
いい年だったと思いたい。
そして来年は、少しでいいから今年よりもいい年にしたいと思うのである・・・


2011年12月27日火曜日

クリスマスに悩む

25日の朝、世間と同様我が家の子供たちもサンタさんからのプレゼントを受け取った。
長男は、ここのところウルトラマンシリーズにハマっていると言う事もあって、「変身セット」をもらった。長女はWiiのソフトである「リズム天国」。さすがに長男のような幼さはない。

起きて真っ先にツリーに駆け寄り、プレゼントを確認する長男はわかりやすくていい。
一方の長女はというと、昔から喜びを表に現さない。
布団の中から薄目を開けてプレゼントを確認するとまた寝てしまうというのが、例年のパターン。今年も弟からプレゼントが届いていると聞くと、まだ途中だった夢の方が大事とばかりに布団をかぶってしまった。面白いものだと思うが、それはまあいい。

一つ気になるのは、「まだサンタを信じている」というところだ。
年長さんの長男は良いのだが、5年生の長女はどうなのだと思う。
娘の同級生の母親に聞くと、信じているという子でも「信じていないとプレゼントをもらえないから」信じていると言うらしいし、私の職場の同僚家のように中学・高校の子供が「暗黙の了解で」信じているようなケースもあるが、それに対して我が娘の場合は、「本気で」信じているのである。

2年前に「サンタさんてほんとにいるの?」と聞かれたが、どうも その時の説明がまだ有効らしい。可愛いものだと思えばいいのかもしれないが、もうそろそろいかがなものかと心配になってくる。人はたいがい何かを信じている場合、それに反する話を聞いた時には考え方を改めるか、拒絶するかだ。

「そう言われてみれば変だな」と思えば、考えを改める方にいくだろう。
「そんな事ない」と自分の考えに固執するのは、考える事を拒絶しているのか、論理的・合理的に考えられないかだ。5年生くらいになったら、そろそろ「そう言えば変だ」と思うだけの思考回路が出来あがってもいい頃だと思うのだ。夢を持つのも大切だが、現実に気がつく事も大切だ。

自分はどうだっただろうと思い出そうとしたが、思い出せない。
たぶん学校で友達に言われたのだと思うが、あまり覚えていない。
何度ももらった記憶がないところをみると、たぶん比較的早い段階でわかったのだと思う。
娘ももういい加減と思うが、かと言って純粋に信じている娘を傍らに呼んで、「実はな」とやるのもいかがなものかと言う気がする。悩ましいところだ。

いつまでも信じる純粋性も素敵だが、世の中はそればかりでは渡っていけない。
おれおれ詐欺の被害が今だに続いているのも、言ってみれば純粋性の一種と言えなくもないが、相手の話を聞いて冷静に判断できるところも大切だ。
いまだパパとお風呂に入るのにも抵抗のかけらさえ見せない我が娘。
幼いと言えば幼いのだが、この頃少し胸も膨らんできたし、こちらの方がいつまで一緒に入ってもいいのだろうかと戸惑う有り様。

ある日突然娘に「もうパパとお風呂に入らない」と言われてショックを受ける、という父親の図式が待てど暮らせど訪れる気配がない。まあ健康で元気が一番だと思っているから、そんな事は気にするほどでもないのだが、ふと考えてしまうクリスマスなのであった・・・


【本日の読書】
心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣 - 長谷部誠  赤い指 (講談社文庫) - 東野 圭吾



     


     

2011年12月22日木曜日

何でだろう・・・

最近回りで夫婦仲が悪いという話を頻繁に耳にする。
同僚にも「家庭内別居状態」と自嘲気味に語る人もいるし、口を開けば女房の悪口という人もいる。男ばかりでなく、友人たちとご飯を食べに行ったら、旦那の悪口大会だったと語ってくれた女性もいる。冗談半分、テレ隠しなどというレベルではなく、みんなマジなのだという。そう語ってくれた独身の彼女は目を白黒させていた。

なんでなんだろうか。
現代社会はほとんどが恋愛結婚なハズで、みんな愛し合って結婚したはずだ。
それが10年、20年と経つと相手が疎ましくなるのだろうか。
一時期「円熟離婚」だとか「定年離婚」だとか言われたが、つい先日も取引先の方の両親(もういい年なのである)が離婚騒動だと聞いたところだ。

そういう我が家も例外ではない。
近年妻が私に対して、めっきり冷たくなっている。
最初は子育ての疲れかとか思ってはみたものの、もう子育てで疲れるというほど子供も小さくない。いかに鈍感な私でも、妻が私に対してかなりの不満・ストレスを抱いているのがわかって来た。

そういう気持ちが言葉の端々に出る。
モノには言い方というものがあり、同じ言うにしても言い方一つで感謝もされれば、憎悪を抱かせる事も可能だ。どうしてそんなモノの言い方をするのだ、と私もついつい腹を立ててしまう。それがまた妻の怒りにも繋がるので、怒りの連鎖と応酬はどこかで止めなければとめどなく続く。それゆえ、大概私が黙って怒りの連鎖を呑み込んで断ち切る事になる。

思えば結婚当初は、互いに相手に対して何かをしてあげようとして、それを自分の喜びとしていたような気がする。それがいつしかやってもらうのが当然となり、次第にやらない事が不満へと繋がるようになる。「仕方ないわねぇ」と笑って許していたものが、「いい加減にしてよ」となってくる。
たぶん、私の気がつかないところで、そんな変化が起こっているのだろう。

そんな関係は子供たちにも微妙に伝わる。
娘なんかは、「パパはママの事好きみたいだけど、ママはねぇ・・・」などと平気で言う。
たぶんこのまま症状が進むと、「家庭内別居」中の同僚のようになる気がする。

今年の年初に一つの目標を立てた。
「妻に対しては決して腹を立てない」と。
あと少しで目標達成というところだったが、先日とうとう喧嘩してしまった。
理由は妻の「モノの言い方」だ。

そのあと冷静になって反省し、和解の申し出と話し合いを希望したが、あっさり却下されてしまった。以来、表面上は一見穏やかな生活が続いているが、妻の内面は知る由もない。
夫婦も元はと言えば他人だし、考え方も違うし、妻ばかりが悪いわけではない。
ただ、自分の悪いところがわからないだけに厄介だ。

腹を割った話し合いも拒絶されてしまうと、どうしようもない。
難しいなぁとつくづく思う。

最近仕事ではあまりプレッシャーを感じなくなってきた。
その分、家庭内にきたと言えなくもない。
人にはいろいろな試練が訪れる。
私の場合は、これがその一つだ。

まあ修業だと思って、前向きに関係改善に努めたいと思うのである・・・


【本日の読書】


「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? - 安西洋之, 中林鉄太郎 白銀ジャック (実業之日本社文庫) - 東野 圭吾











2011年12月18日日曜日

長女の誕生日2011

12月は長女の誕生月。
毎年誕生日に一番近い日曜日に誕生日会をやっている。
今年はそれが今日であった。

ケーキを食べ、プレゼントをあげ、夕食は長女が好きなものをリクエストというのが例年のパターン。今年は去年に続いて「焼肉」であった。長女は曽祖母から伝わる食いしん坊の女系の血筋で、物心ついた頃からずっと食べる事に対する関心は強い。

さてその焼肉であるが、去年に続いて行ったのは西武池袋線富士見台にある「牛蔵」。
美味しい肉がリーズナブルに食べられるという事で、知る人ぞ知る店である。
土日は当日昼に行って予約しないと入れない。
12時の受け付け開始にあわせて10時半に行くと、すでに30人くらい待っている。
去年より激しい。

焼肉屋はどこにでもある。
「美味しい」と形容詞をつけると、数は減るがそれでもたくさんある。
そこにさらに「安くて」とつけると、我が家の界隈ではここぐらいで、その結果の大人気なのである。これだけのにぎわいだからたぶん儲かっているのだろうし、なぜ他所ができないのか、ここだけがどうしてこういう経営戦略が取れるのか、とっても興味深い。

並んで約2時間後に予約を終える。
早く行ったつもりだったが、希望の時間からは外れて夜の8時台の時間になってしまった。
明日も小学校と幼稚園がある子供にはちと辛い。

その足で池袋に向かい、予約していた誕生日のケーキを受け取る。
「ボン+ボンヌアニバーサリー」というところ。
月に1度はこの池袋西武の地下で、会社帰りにスイーツをお土産に買って帰るのだが、ちょっとここは見落としていた。「今年は見てくれ重視」という妻の発案だ。

実家の母親を招いてお誕生日会。
今年一年実家との関係改善を模索し続けて来たが、まだまだうまくいっていない。
両親の思いと妻の思い。
双方それぞれの考え方は理解できるのだが、なかなかうまく橋渡しができない。
双方に欠けているのは「寛容」。
積み上げては崩れるの繰り返し。
気分はすっかりシーシュポスである。

そんな事を露知らぬ長女。
双方の祖父母、叔母、そして我々親からプレゼントをもらいご満悦。
クリスマスもあって、この時期プレゼントが積み上がる。
1年中で一番幸せな月だと思う。

長女が生まれて11年。
長女の誕生日は我々夫婦が親になった記念日でもある。
あの頃と比べると、妻とのコミュニケーションも薄れてきている。
まあそれは追々解消していくとして、これからも子供たちは日々成長していく。
一緒にお風呂に入れるのも、あとどのくらいだろう。

これから大人になっていき、いずれは親元を離れていくのだろうが、大人になって過去を振り返った時に、そこに家族との楽しい思い出がたくさんあれば何よりだ。誕生日のようなイベントは尚更だし、今日という一日がその1ページとなればと思う。年に一度の誕生日。
楽しい一日を過ごしてもらいたいと思うのである・・・


【本日の読書】

真相 (双葉文庫) - 横山秀夫





2011年12月14日水曜日

フェイスブック

フェイス・ブックを本格的に使い始めたのは、映画「ソーシャル・ネットワーク」を観てからである。それまでは「ただでさえ少ない時間をつぶされたくない」と、ミクシィなどには敢えて手を出さずにいたのであるが、やっぱり映画を観てしまうと興味が先に立つ。

やり始めてみると、意外な発見が結構ある。開くとニュースフィールドに友だちが何をしているかが出てくる。今までなら友だちといっても、いくら親しくても毎日彼が何をしているかなど知りようもない。しかし、フェイスブックでは、少なくとも投稿された行動だけは何をしていたかわかる。なんとなく「ご無沙汰感」が薄れるというものだ。

本名で登録するという部分に最初は抵抗があったが、慣れてみるとどうという事はない。それに10年以上も会っていなかった人から友だちリクエストが来た時には、驚くとともに嬉しく思った。たぶんフェイスブックがなければ、ほとんど連絡など取れずに終わっていた可能性もあったりしたからなおさらである。

久しぶりに消息を知って、基本データを見て、実は転職していたりという事を知ったり、いつのまにか結婚していたりとか、最近の趣味・趣向なんかを窺い知る事ができるのも大きなメリットだ。いつのまにか随分おっさんになっていたりする人もいて、微笑ましく思ったりもする。会ってはいなくとも、その存在を身近に感じられるところがいい。

コメントを入れたりすると簡単なやり取りもできたりするし、ただでさえ縁遠くなりがちな友人たちと繋がりを持てるのはありがたい。今年の漢字には「絆」が選ばれたようだが、まさにフェイスブックこそそれに相応しい感じがする。

懐かしい友人の「友達」を見ると100人を越えていたりする人もいる。たぶん積極的に集めたのだろうが、私の場合はまだそこまで積極的になっていない。リクエストが来た相手か、たまたま見つけた知人が中心だ。まあしゃかりきになって集めても、もともと友達の少ない私としては100人も集まらないと思うし(ただの友達ならまだしも、「フェイスブックに登録している」となるとまず無理だろう)、今のところは自然増に任せるつもりである。

「フェイス」ブックというくらいだから、顔写真が不可欠だと思うのだが、さて登録しようとして一つの事実に気がついた。登録できるような写真がないのだ(単独の写真という意味でだ)。デジカメの画像を見ていくと、必ず家族と一緒だ。よく考えてみれば当然なのだが、なんだかちょっと寂しい気もする。

しかし、誰かが名前で探り当てて来たとしても、顔写真があった方がいいだろうから、何かアップしておこうと思っている。気のせいか、たまに知り合いを検索してみても、私の同期世代は登録者が少ない。登録さえしていれば、今はまったくどこで何をしているかわからない人を探し出せる可能性があるわけだから、ちょっと残念に思う。

そう言えば高校の同期会をやる時に、昔のクラスメートの何人かは消息不明で探せなかった。
もしも登録さえしていれば、彼らを探し出せるわけである(さっそくやってみようか)。そう考えてみればこの「つながり」は凄い。

私の子供たちがもう少し大きくなったら、友達はみんな登録ユーザーという事になっているかもしれない。そうすると、一生涯で知り合う人すべてとずっと繋がっていけるわけで、そんな事を想像してみると、その未来もまた凄い。

いよいよ年賀状のシーズン。これも伝統的な「つながり」であるが、年に一度というのが玉に瑕。毎年ご無沙汰をお詫びしている人も多いが、フェイスブックでは常時情報を届けられるというメリットがある。自然増もいいけれど、伝統的手法に代わる手段として、いずれは活用できるかもしれない。いろいろな可能性もあるし、当面はせっせとアクセスしてみようと思っているのである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫




2011年12月8日木曜日

夢から醒めた夢

学芸会で「夢から醒めた夢」の演劇をやった長女と、その晩お風呂で話をした。
その中で、ストーリーそのものについて感想を聞いた。
ストーリー自体はとても面白かったと言う。
だからやっていても楽しかったのだと。

ストーリーは実は赤川次郎の原作らしい。
小学生の女の子ピコが、ある時幽霊の女の子マコと出会う。
交通事故で突然死んでしまったマコは、嘆き悲しむ母親にきちんとお別れを言いたいと言い、一日だけピコと代わってくれと頼む。快く応じたピコは、霊界空港で一日を過ごす事になる。

その空港は、白いパスポートを持った人(天国=光の国へ行く人)と黒いパスポートを持った人(地獄へ行く人)が集まって来ている。ピコの話を聞き、「マコが戻って来なかったらどうするのだ」とみんな心配する。いろいろやり取りがあり、最後は子供に戻るなとすがりつく母親と、約束は守らないとと思いつつ迷うマコと、それを見守るピコの場面となる。
(劇団四季バーションはちょっとウルっとする場面である)

最後の場面について、長女に尋ねてみた。
「お前がピコだったらマコと代わってあげる?」
長女の答えは「代わってあげる」だった。
「でも、戻ってこなかったら、お前は元に戻れなくなってパパやママに会えなくなるんだよ」と意地悪く問う。

続けて、「もしもマコだったら、約束通り戻る?」と聞く。
「戻る」と答える長女。
「でもそうしたらもうパパやママに会えなくなるんだよ」とまた聞く。
長女は答えを探しあぐね、黙ってしまった。
ちょっと意地悪く聞き過ぎてしまった。

だが私だったらどうするか、と逆に考えてみても答えは難しい。
ピコの立場だったとしたら、初対面やあまり親しくない人であれば断るだろう。
仕事柄か、リスクについては真っ先に考える。
この場合は相手が戻って来なくて、自分が元の世界に戻れなくなるリスクだ。
そのリスクと天秤にかけたら、ほとんど比較にならない。
ピコのように初対面のマコに譲るなんて、大人過ぎてしまう私には不可能な決断だ。

問題は親しい友人に頼まれた時だろう。お金だったら簡単だ。
貸して忘れられる相手に、返してもらわなくても困らない限度で貸して、あとは忘れれば良い。だが、生死がかかるとそういうわけにはいかない。
養うべき家族がいる身とすれば尚更である。

さらには、もしも相手が戻って来なかったとしても、その気持ちは痛いほどわかるし、それゆえに裏切られても相手を恨めない。自分が逆の立場だったら、ひょっとしたら相手を裏切るかもしれない。だからこそ、おいそれとは代われないのだ。

長女もそろそろいろいろな事がわかるようになってきている。
世の中には、学校の勉強のように、答えがすぐわからない問題もある。
誰かが正解を知っているとは限らない問題もある。
そういう問題は、自分自身で納得のいく答えを出すしかのである。
そんな問題に、少しずつ出会っていくのもいいかもしれない。

ストーリーでは、最後にマコが約束通り戻って来て、無事白いパスポートを手にして光の国へと旅立って行く。友情と友達を信じる事の大切さとを描いてハッピーエンドである。
今はまだ「最後はハッピーエンド」で良いだろう。
いずれ出会う答えのない問題に、逃げずに立ち向かえるように、少しずつ慣らしていってあげられたらと、親としては思うのである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫






2011年12月5日月曜日

学芸会

世界中に定められた どんな記念日なんかより
 あなたが生きている今日は どんなに素晴らしいだろう
  世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより
   あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう
TRAIN-TRAIN (THE BLUE HEARTS)

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土日は二日間とも娘の学校の学芸会であった。
3年ごとのサイクルで、音楽会・展覧会・学芸会と繰り返されている。
今年はその学芸会の年であった。
娘たち5年生の出しモノは「夢から醒めた夢」。
以前劇団四季のミュージカルを観た事があるが、どんな「小学生バージョン」になるのか楽しみにしていた。

学芸会と言うと、ついつい我が身の事を思い出す。
確か小学校3年の時だったと思うが、「僕はラッパ手」という戦争中の子供たち物語の劇で、そこでどういう経緯だったか忘れてしまったが、なんと私は主役を演じたのである。
今の自分からは想像もつかないが、その頃はまだそんな事をやれていたのだ。
頭も戦時中の物語らしく坊主頭にしての熱演であった。

当時も土日二日間の「興業」であったが、土曜日は生徒向け、日曜日は父兄向けであり、私はその土曜チームであった。何となく日曜チームが「格上」という雰囲気があった。
(娘たちの場合は両日とも生徒と父兄が観に来るから関係ないようだった)
言ってみれば土曜チームは二軍で、一軍の同じ役の友人Tにはなんとなく引け目を感じたものである(その後Tとは中学・高校と一緒に進み、最後は同じクラスであったし、結婚式にも呼ばれた仲である)。

捲土重来とばかりに、6年の学芸会で主役に立候補した。
しかしながら、オーディションであえなく落選。
私の声が(体育館では)通らないと言うのが理由だった。
自分の事は自分ではわからぬもの。
その時、自分の向き不向きというものの一つがわかり、私の将来から「俳優」という選択肢が消えたのである。

娘の役は途中で登場するデビルの一人であり、名前もないいわゆる「チョイ役」。
セリフも出番も少々であった。まあ私の娘だから、その点は仕方ない。
何でも本人は主役からはじまって、片っ端から立候補したらしいが、残念ながら落ち続けたらしい。そんな話を聞いていたせいもあり、朝はしっかりと励まして送り出した。

本番ではビデオ片手に観劇。
娘はしっかり声を出していた。
感心した事は、自分のセリフがない時でも、舞台の端でストーリーに合わせてしっかり演技していた事だ。うなずいたり、手を叩いたり、何事か仲間と話したり・・・
当然と言えば当然であるが、自分にスポットライトが当たっていないところでもきちんと演技していた事は、あとでお風呂で褒めておいた。

自分自身を振り返ってみても、常にスポットライトが当たっているという人生ではない。
むしろ当たっていない事の方が、大人になってからは当たり前だ。
それでもきちんとやる事はやらないといけないし、社会の中での自分の役割というものはスポットライト如何に関わらず、きっちり果たさないといけない。
娘がそんな端役の意義を理解できたとしたならば、それはそれで良かったのかもしれない。

まあこれで娘の将来から「女優」という選択肢はなくなったかもしれないが、それがどうだと言うのだ。最後の学芸会となったわけであるが、しっかりと娘の演技も観たし、ビデオにも納めたしで、満足して帰ってきた次第である・・・

【本日の読書】
錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫





2011年12月2日金曜日

A day in the life

  たったひとりしかない自分を
   たった一度しかない一生を
    ほんとうに生かさなかったら
     人間生まれてきたかいがないじゃないか 
                    山本有三著「路傍の石」より
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 いつの間にか月別カレンダーも最後になった。
朝いつものように駅に向かう途中、そろそろコートが必要だなと感じる。
週末にはクローゼットの奥から引っ張り出さないといけない。

 行きの通勤電車の中では、今『錯覚の科学』と言う本を読んでいる。
人間の注意力や記憶の限界による様々な錯覚を取り上げている本であるが、これがなかなか面白い。あっという間に東京駅についてしまうが、そのまま乗り過ごして続きを読みたい気分である。

 師走と言っても、今の職場はそんなに忙しくない。ありがたい事に仕事はかなりコントロールできるので、うまく繁閑を分散できるのだ。今日はある中小企業の社長と面談。商売も厳しく、財務内容もよくないのであるが、年齢も60を越えてそろそろ後継者の事を考え始めている。いろいろと相談に乗ったのであるが、今までは考えもしなかった事を考えるようになったと言う。

 考えてみれば、自分も今は家族の生活に責任が持てている。自分が働けなくなった時の事など、あてにはならぬとは言え、何となく年金をもらってなんて考えているが、中小企業の社長ともなると代わりに経営を任せないといけないわけで、不安も大きいのだろう。最近そういう相談を受ける機会が多くなっているが、私自身も年齢を経て相手も話しやすくなっているのかもしれないと感じる。

 コントロール可能とは言え、定時に帰れるほど暇ではないのが実情。それでもうまく日々の仕事の中に面白味を見いだせているから、格別の不満はない。
(まあ細かい些細なモノはやっぱり人間だから感じざるを得ないが・・・)
かつては猛烈なストレスを抱えていた時もあったが、今は比較的職場の人間関係に恵まれているところも大きいだろう。ありがたい事だ。

 今のストレスと言えばむしろ自分の時間がとり難い点だろう。やりたい事はいろいろとあるが、それをやる時間が十分ではない。楽しくない事はやめたりして、いわゆる断捨離を心掛けているが、それも十分とは言えない。自分でやりたい事をやる時間をどう捻出していくか、が今のテーマだ。

 帰りの電車の中では、『フェイスブック 若き天才の野望』を読んでいる。こちらは、映画「ソーシャル・ネットワーク」を観て興味を持ったのだが、映画では描き切れなかった部分が細かく描かれており、より一層面白く感じる。もうちょっと読みたいと思ったところで駅に着いてしまう。ドアtoドアで約1時間の通勤時間は苦にならないが、もうちょっと読みたいという気持ちが、強いて言えばストレスなのかもしれない。

 帰宅すると子供たちは寝るところ。二言三言、今日の様子を聞く。平日は一人の夕食も仕方ないところだ。食後のコーヒーを楽しむ至福の一時。週末の深夜には、溜めこんだ映画を観るという楽しみもある。今夜は何を観ようか・・・

 明日は子供の学芸会に年末の買い出しのドライバー。12月の週末は大掃除や買い出しなどの「公用」ですでに予定は一杯。されど細かい予定はまだ知らされていない。「マネージャー」に聞いてみないとわからない。自分のスケジュールを「マネージャー」が決めるという部分では、タレント気分を味わえると自嘲している。

 まぁまだ2011年も一ヶ月も残っているし、日々楽しみを見出して今年を締めくくりたいものである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江   フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫







2011年11月29日火曜日

週末のバスタイム

週末のお風呂は子供たちと一緒に入る事にしている。
それは子供たちが生まれた時からの習慣だ。
初めのうちは「子供をお風呂に入れる」という仕事だったが、子供たちも大きくなって「入れる」必要もなくなってからは、文字通り「一緒に入る」ようになっている。
昼間も家にいる時は、子供たちと一緒に過ごすのであるが、お風呂という閉ざされた空間で一時を過ごす事にはまた別の意味があると思う。

小学校5年の長女はいまだに一緒に入ってくれる。
それが良いのか悪いのかは別として、一緒に湯船に浸かっている一時はお話をするいい機会だ。テレビを観ながらとか、歩きながらとか、何かをしながら話をするのではなく、狭い湯船の中で顔を突き合わせて話をするのは、伝わり方が違う気がする。

どんな話をするかと言っても、大概は他愛ない話だ。
宇宙はどこまで広いのだろうかとか、地球の歴史はどれだけ古いのだろうかといったスケールの大きな話や、おじいちゃんおばあちゃんの子供時代はどんなだったかとか、逆にお前たちの孫たちの時代はどんなだろうなどといった話だったりもするし、単純なクイズの時もある。

それに加えて、時折意識的に自分の考えなども話している。長女にはとにかく人に対して優しくあってほしいと考えている。例えば、人はその内面が表情に表れるものだと日頃思っているが、いくら顔かたちがきれいでも、意地悪な性格はそのまま表情に表れるものだ。そんな「冷たい美人」よりも、穏やかさが表情に表れる女性になってほしいと思うから、常日頃から心の中でもいつも優しくないといけないと、そんな考えを話したりしているのである。

難しいのは、小学校5年の長女と年長さんの長男とでは同じ話ができない事だ。
長女にはあまり子供だと意識せずに話をしているが、長男はまだまだ子供向けの話でないといけない。最近は初歩の算数のクイズを長男に出し、彼が一生懸命指を折って悪戦苦闘している間に、長女と話をするというテクニックを駆使したりしている。風呂場には世界地図と日本地図が張ってあるので、それを小道具として利用したりもして工夫している。

長女には、好きな男の子の話を聞いた事もあった。
長女も最近の子らしく、好きな男の子に自分からコクったりしているらしい。
女の子なら、自分からコクらずに相手からコクらせるように仕向けるのだと、その方法を伝授した事もあった。「効果があるのか」と聞かれれば、「理論的には大丈夫」といったところだろう。

「どうしてパパはそんなに詳しいのか」と聞かれ、「いろいろ経験したからさ」と答えたが、心に何針も縫った跡がある経験が今になって生きていると言える。それが果たして実践で効果があるかどうかはわからないが、もしも効果があれば親としては嬉しい限りだ。スティーブ・ジョブズも言っているが、役に立たないと思えた経験が、後になって生きて繋がるという事もあるという例になるだろう。

子供に伝えたい事はいろいろある。
勉強もしてほしいが、勉強しろと言うのではなく、勉強する楽しさを教えたいと思う。
本を読む習慣は身に付きつつあるのは、嬉しい事だ。
今は「ハリー・ポッター」シリーズに夢中だが、それでいいと思う。
もう少ししたら、映画の感想なども話し合えるかもしれない。

この先もずっと続けていきたいと思うのだが、いつまでもそういうわけにはいかないだろう。
特に長女と一緒にお風呂に入ってお話をする時間は、もうそんなに長くはないだろう。
やがて長男と二人っきりになるのだろうが、その時はボーイズトークで男同士の話をする事にしよう。いつか一緒に入る事もなくなるのだろうが、その日がくるまでは週末のバスタイムは大事に楽しみたいと思うのである・・・


【本日の読書】

40代を後悔しない50のリスト 1万人の失敗談からわかった人生の法則 - 大塚 寿  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫





                             

2011年11月25日金曜日

円高について

ここのところ円ドル相場は1ドル77円くらいで推移している。
随分と円高になったものである。一時はマスコミも政府に対し、円高無策と随分批判していたが、高止まりが続く今ではもうそんな声も聞こえてこない。円高が悪者扱いされていたが、果たして円高は日本にとって良いのか悪いのか、と考えてみた。

先日、メーカー勤務の人がとにかく円高対策が必要だと語っていた。
もちろん、彼にとっては会社の業績=自分の給与となるわけで、そうした立場から円高悪者論に与する気持ちはよくわかる。マミコミは大企業から広告料をもらっているから、大企業寄り(つまり円高悪者論)となるのは当然の事。そんなマスコミの言動を無批判に受け入れてはいけない。しっかりと考えてみないといけないところだ。

そもそも円高とは、日本の円が他国の通貨に対して強くなる(=価値が高くなる)事だ。
それがどうして悪いのかというと、輸出した時に円の手取りが減ってしまうからだ。
今まで1ドルで売って100円手に入れていたのが、76円に下がってしまうわけだから、輸出企業はたまったものではない。

しかし逆に見ると、1ドルのものを輸入して(買って)いた人は、100円ではなく76円で良くなるわけだから、お得なわけである。海外旅行も然り。
昨年我が家はグアムに行ったが、その時使ったドルを合計して、5年前に行った時の相場に換算してみたところ、トータルで2万円安かった事がわかった。
家族でちょっと豪華な夕食が食べられる。
何もせずに2万円も違うのはけっこう大きい。

2年前に原油価格が高騰し、1バーレル100ドルを越えて大騒ぎになった事があった。
我が家もガソリンを入れに行って、いつも1回あたり5~6,000円だったも
のが、8,000円近くなって驚いたものだ。実は今また原油が1バーレル100ドル前後になっているが、大騒ぎにならないのは円高だからである。当たり前だが、円高にはメリットとデメリットがあり、冷静に比較してみないとどちらが良いのかはわからない。

もちろん、立場によっても異なるだろう。
輸出メーカーに勤めている人からすれば、円高はとんでもないことであるし、私のような消費者からすると、むしろメリットの方が大きい。
メリットを受ける人とデメリットを受ける人はどっちが多いのか、という問題になると、日本のGDPに占める輸出の割合は、実は2割に満たないらしい。
そうすると、自ずから答えは見えてくるような気がする。

要は立場によって違うのだから、自分の立場から発言すれば良いのではないかと思う。
輸出企業に勤めているわけでもない内需系の飲食店経営者が、「円高に対する政府の無策はけしからん」などと新聞の受け売りを声高に発言しているのを聞くと、「ホントにわかって言ってるのだろうか」と思ってしまう。
あなたが売っているイタリアワインは、円高で安く仕入れられるんですよと問いたくなるのである。いや、ひょっとしたらわかっていて、なおかつ言っているのかもしれないが・・・

そんな声に後押しされてか、政府も思い出したようにドル買い円売り介入するが、この介入が一時の効果しかない。
買ったドルはみんな米国国債に化けて含み損が積み上がっていく。
みんな税金なのに・・・

「みんなの意見とは不平不満を抱えているやつの意見だ。満足している人は意見を言わない」とは、いつも私がチェックしているブログに載っていた言葉だ。円高にも大いに当てはまる気がする。幸いこのブログは自分の自由な意見を書き込めるわけだし、個人的な立場からいくと、円高けっこうではないかと思う。また風向きが変われば、意見も変わるかもしれない。

だが当分の間は、円が強いと言う事を素直に歓迎したいと思うのである・・・


【本日の読書】

40代を後悔しない50のリスト 1万人の失敗談からわかった人生の法則 - 大塚 寿  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫




2011年11月21日月曜日

塾に行かせる事にした

小学生も高学年になった頃、母親に「塾に行きなさい」と何度か言われた。
「中学になったら行く」と言ってごまかし、いざ中学になっても「来年から」とかその都度何だかんだと言い逃れ、結局行かなかった。塾にまで行って勉強などしたくはなかったのだ。それでも決して勉強嫌いというわけではなく、都度都度それなりにしていたし、大学受験で失敗して宅浪していた時はそれこそ死ぬほど勉強した。ただ塾というスタイルに抵抗感を覚えていたのだ。結果的にはそれで問題なかったし、それで良かったと思っている。

さて、問題は我が子だ。
そういう自分の考えがあるから、子供を塾に通わせようという気など毛頭なかった。
お受験など論外で、幼稚園も小学校も中学校も歩いて通える公立で十分だと考えていた。
私も大学まで国公立一筋だったから、小学生から塾通いなどさせてまでして、私立などに積極的に行かせようとは思わなかったのだ。

それは今でも変わらぬ考えなのであるが、そんな思惑が大きく狂ってきた。
その理由は、「中高一貫教育」というやつだ。子供を通わせたいと考えていた近所の都立高校が、なんとその中高一貫教育になってしまったのだ。受験は中学から。そしてそれが約10倍近い競争率なのである。
当然入試(適性検査と言うのだ)もかなり難しい。私も問題を見たが、とても学校でやっている勉強だけでできるものではない。高校生くらいになれば、自分で傾向と対策を立てられるかもしれないが、小学生では無理だし、親ができるものでもない。そうすると必然的に「塾へ行く」という結論に至らざるを得ない。

しかし問題は娘がどう考えるか、だ。
「塾へ行け」と言うのは簡単だし、「行かせる」事も簡単だ。
だが、「行って勉強するか」は別問題だ。こればっかりは本人次第だ。
「水際に連れて行っても水を飲ませる事はできない」のだ。
多くの親たちが子供を塾に通わせて安心している。
しかしながら実際には、塾へ行っていても勉強しているかどうかはわからない。

私も過去に、塾や予備校に行っていても、真剣に勉強していない先輩や友人の姿を見ていたからよけいにそう思う。大学受験に失敗して浪人していてさえも、勉強していない人はしていなかった。要は本人のやる気が大事なのだ。

そんな懸念があって、娘と話をした。
そうしたら、意外な事に本人は塾へ行きたいと言う。
週3回、5時から7時半という時間も説明したが、いいと言う。
そうして近所の都立に行きたいと言う。
まあそこまで言うのなら、と6年生から行かせる事にした。

学校の方も、本当は小学校の勉強の延長的な問題を出題してもらいたいところだ。
いろいろと考え方はあるのだろうが、塾に行かないとわからないような問題を都立が出すというのはいかがなものかと思う。国公立の学校が、小学生から受験を強いるというのも、(強制ではないにしろ)どうかと思う。まあ親としても行かせて終わりではなく、娘が頑張って塾に通う1年間は、しっかりと感心を持って接したいと思うのである・・・



【本日の読書】

モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか - ダニエル・ピンク, 大前 研一     勝海舟と福沢諭吉: 維新を生きた二人の幕臣 - 安藤 優一郎







2011年11月17日木曜日

親父のパソコン

先週末、親父と共にヨドバシカメラに行った。
親父がパソコンを買い替えると言う事で、付き添いで行ったのである。
親父もパソコンを始めてもうかれこれ10年近くなる。
最初の頃は、「パソコンを買っても何をするんだ」と言っていたものであるが、仕事の請求書を作ったり、当時決算申告を代行していた私に資料を送付したり、と無理にいろいろとやらせたものである。

そのうち、趣味の写真がデジタル化。
写真愛好家のクラブに入り、仲間とメールのやり取りをし、写真の修正加工をしたりなどと範囲が広がり、今では写真の分野では私も太刀打ちできないくらいになっている。
そんな親父の愛用のVAIOもそろそろ7年選手。
仲間達からも古いと言われ、多少の使い勝手の悪さも出て来た事から、買い換える決意を固めたのである。

一人で偵察に行って、店員さんにあれこれと聞いたらしいのだが、どうも不安と言う事で、私が付き添う事になったというわけである。
3月にパソコンを買いに行ったが、あの時はノートパソコンだったので、デスクトップは見ていない。 改めてデスクトップパソコンのコーナーをうろうろするのは、久しぶりかもしれない。そんな我々の目に飛び込んで来たのは、いわゆる「一体型」というタイプ。
つまり、ディスプレイと本体が一体になっているものである。

私が4年前にパソコンを買い換えた時は、本体のみを購入し、ディスプレイやマウス、キーボードなどはそれまで使っていたものをそのまま使用した。
おかげで10万円程度で買えたのである。
親父にもそう勧めるつもりだったのだが、「タワー型」とでもいうのか、そのタイプはほとんど陳列されていない。店員さんに話を聞いてみると、これが最近の傾向らしい。
まあ「一体型」でも良いかとなって、物色を始める。

ハードディスクの容量は「1TB」の表示が目立つ。
TB=テラバイトであるが、いつのまにやらギガの時代も終わりらしい。
私が初めて買ったデスクトップは、確か512メガバイトだったような記憶があるが、隔世の感がある。今のパソコンだって250ギガあるが、まだまだ半分も使っていない。
どこまで巨大化するのだろう。

聞いてみるとカスタマイズもしてくれるとの事。
テレビなんていらないし、マイクロソフト・オフィスも別にソフトがあるからいらないし、と選んでいったら、最終的に価格は10万円だと言う。
7年前にVAIOを25万円くらいで買った親父も驚いていた。
インターネットも合わせて契約すると、さらに3万円引くと言われたが、これはやめておいた。

カスタマイズもあって、お届けは10日ほどかかると言われたが、本人も来るのが楽しみのようである。そして、親父のVAIOをもらい受けようとしている弟も楽しみにしているようである。届いたらセットアップに行く事にしている。

ウキウキしている様子を見ていたら、私もパソコンを買い換えたくなってしまった。
買っちゃおうかな、マック・・・

【本日の読書】
モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか - ダニエル・ピンク, 大前 研一  勝海舟と福沢諭吉: 維新を生きた二人の幕臣 - 安藤 優一郎






2011年11月13日日曜日

保険

私の勤務先には、お取引先でもある大手生命保険会社の取引先担当者(職域担当者)が、営業に来ている。社員食堂の出口に立っては、目ぼしい人に声をかけている。
そしてその後は、あちこちのフロアーで「商談」をしている姿をしばしば目にする。

先日の事、その職域担当者に声を掛けられた。まだ20代の女性である。その昔、銀行に入ってすぐの頃の事、やはりいわゆる生保レディーの猛烈営業を受け、そこの保険に加入した事があった。当時たぶん30前後だと思われたが、若くて美形の生保レディーで、何度か提案を受け、最後は二人で飲みに行って契約した。

当時はまだ保険も横並びの時代。どこであろうと内容は大した違いはない。どうせどこか入らないととは思っていたし、まあ多少のスケベ心も働いて契約したわけである。相手もわざわざ飲みに誘ったり、帰り道には腕を組んできたり(残念ながらそこから先の発展はなかった)と、今思えば大変だったのではないかと思う。

その後、結婚を機に保険の見直しを行い、それまでの保険は一掃しソニー生命に加入して今に至っている。内容はもう見直す余地はない。なので職域担当の20代女性営業に声を掛けられたところでこちらに用はない。その旨をやんわり伝えたが、相手はひるむことなく名刺を差し出してきて、一緒にエレベーターホールまでついて来た。その熱心さと、一応お取引先だから無碍にはできないしと、やむなく日を改めて話を聞く事にした。

昔だったらいざ知らず、今は若い女性というだけで鼻の下を伸ばす事もないのだが、よく見ると美形だ。職域という事で、若い者でも安心して行かせられるという会社の考えかもしれないし、ひょっとしたら、若い女性を送りこんで鼻の下を伸ばさせて契約を取ろうという魂胆なのだろうか、などと思いながら話を聞く。少し小首を傾げて、髪を耳のところにかきあげたりする仕草は、意識してのものだろうかなどと観察する。「その手には乗らないよ」と思いながら・・・

家族構成を聞かれたが、性別と年齢だけ答える。それ以外の情報の開示はやんわりとお断り。
そんなにほいほい聞き出せるほど甘くはないよ、と思いながら・・・
加入している保険の種類と金額とは教えてあげる。ソニー生命の担当者は友達なんだと語り、だから切り替えは難しいよと暗示する。

「月々の保険料は○万円くらいですね、そうするとあんまり余裕はないですね」と担当者。
「ほぉ」と感心する。最低限の情報だったのに毎月の保険料を当ててくるとはやるねぇと思う一方、まあそのくらいは当然かもしれないとガードは下げない。

一通りの質問のあと、「奥様の保険がないですね」とにっこりと満面の笑みを浮かべて担当者がいう。とっておきの営業スマイルかどうかはわからないが、良いところをついてきた。
実は妻が長年かけていた保険が満期になり、医療保険か何か考えようと相談し、ライフネット生命保険などチェックしていたのだ。敢えて黙っていたのだが、よく気がついたと感心。

「年金型ですとまだ所得控除も使えますし、是非提案させて下さい」と言ってきた。こちらも気がつかなかった視点だった。どうやら1回限りのつもりだったが、もう1回会う事になりそうだ。まあ決して笑顔に屈したわけではないから、良いだろう。この機会にせっかくだから妻の保険の提案も受けてみたいと思う。さて、どんな提案になるのか。

笑顔ではなく内容を、楽しみにして待ちたいと思うのである・・・


【作日の読書】
悪の教典(下) (文春文庫) - 貴志 祐介
悪の教典(下) (文春文庫) - 貴志 祐介

2011年11月9日水曜日

日本の農業

前回TPPについて考えたが、そうすると当然ながら農業からの反対論に出会う事になる。
日本の農家が大打撃を受けるというものだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。
日本は世界第5位の農業大国であるというし、もともと農耕民族としての長い歴史もあるし、技術力も高いというのに、なぜなのだろうと疑問に思う。
何せマスコミは信用ならないから、迂闊に信じてはいけない。

そこで宮城県で農業を営む先輩Hに質問をしてみた。
先輩曰く、原発事故前はTPPに反対だったが、今は良いのではないかと思っているという。
その理由はと言えば、どうやら農協の存在のようである。
例えば放射能検査について、先輩Hは徹底的に測って安全性をアピールすべきだという意見なのだそうだが、農協は「測る事自体が不安を生み、風評被害を生む」という考え方だと言う。
そして、オイシックスが徹底した検査で売上を伸ばしているというニュースと比較して、そのあり方を嘆いている。どうも都会の消費者との感覚にだいぶズレがあるようだ。

農業にも常々矛盾を感じている。
食料自給率が低いと言って煽っておきながら、一方で休耕地を増やしているし、それに対しては手当も支給している。
法人の参入は認められていない。
農家の保護と言われても、ピンとこない。
もっと違う方法があるような気がしてならない。

例えば、農業にも法人の参入が認められれば、会社から給料をもらって農業をする事ができるようになる人がでてくる。そうすれば、天候に左右される不安定な「職場」に、若者たちも参入しやすくなる。わざわざ都会に出ていかなくても、企業に就職して地元の田畑に「配属」してもらう事ができるようになる。本社で研究開発したものを、各地の田畑という「工場」で効率的に生産すれば、日本の農業技術力は高いというし、安くて安全なおいしい農作物がスーパーに並ぶ事になるだろう。

年老いた農家は、田畑を企業に貸せば地代で老後を過ごせる。
休耕地なんて必要ないし、手当も廃止できる。
子供たちも地元で「就職」できるし、過疎という事も防げる。
素人考えでもなんとなくいけそうな気がする。
TPPによって、外国産の安いだけの農作物が入ってきたところで怖くはないだろう。
困るのは、それまですべてを牛耳ってきた農協ぐらいだ。

そう考えると、何で農協がTPPを始めとして農業改革に徹底して反対し、農家のためと称して農家を手当て漬けにして洗脳しているのかが見えてくる。農協の立場に立てば、当然の動きだと思う。
理屈は理屈として、現実的には農協はとにかくお金を持っているし、政治家だって何人も抱えているし、そう簡単には理屈通りにはいかないのだろう。
東北の1農家である先輩Hの意見を聞いたら、日頃の疑問がすっきりとした。
現場の人たちも、いろいろな思いがあるのだ。

本来マスコミには日本の抱えるそんな問題点を指摘し、解決策を提案するような役割を期待したいところだが、権力にはペンで立ち向かっても、金持ちの鞄はしっかり持つところがあるから難しいのだろう。自分の事は誰でも大事だし、世の中金を持っている者はやっぱり強いし、理屈通り理想通りというわけには、なかなかいかないのだろうなと思うのである・・・


【本日の読書】
『スティーブ・ジョブズ 驚異のイノベーション―人生・仕事・世界を変える7つの法則』カーマイン・ガロ
『悪の教典 下』貴志祐介

              

2011年11月6日日曜日

TPP

最近TPPに関する議論が新聞などのメディアを賑わしている。
非常に興味深いのであるが、ニュースを見ても「誰が賛成で反対が誰で」というようなモノばかりである気がする。まあ概ねメディアはTPP推進賛成といったところなのだろう。

だが、そもそもTPPに参加する事が、我が国にとって良い事なのか悪い事なのか、その判断をさせてあげようという考えはメディアには無い気がする。
一体、どちらを選ぶべきなのか、私にはいまだにわからない。

なんとなく、参加した方が国民生活にとっては良さそうな気がする。
だがアメリカが熱心に参加を促してくるというところが曲者だ。
アメリカは親しげな顔をして近寄ってきても、平気な顔でデメリットを押し付けてくる国だ。
アメリカ人は信用しても、アメリカ政府は信用すべきではない。
裏には瀕死の自国経済の尻拭いを「金を持った愚かな」ヤツにさせようという魂胆があるかもしれない。

一方農業関係者が反対する理由はわかりやすい。
自分達が楽して得ている権益を失いたくないからだ。
その他にも医療業界に混乱を招く、海外から一般労働者が流入する、食料安全基準が緩和されて食料の安全性が脅かされる、日本郵政への庇護が撤廃させられて外資に買収される、公共事業への外資参入によって地方の建設業者が倒産する、などという反対理由もあるようだ。
どうやらTPPの影響はかなり広そうである。

賛成論は概ね貿易推進派のようであるが、我が国が貿易立国である事を考えると一見正しそうである。しかし、例えば自動車について言うと、日本からアメリカに輸出する場合は、2.5%の関税をかけられているが、アメリカからの輸入車に対して日本の関税は0である。
実は偉そうに自由貿易を標榜するアメリカだが、こと自動車に関しては日本の方が公平なのだ。

TPPによって公平になる、と言いたいところだが、2.5%の関税ってそんなに影響力があるだろうか。現代自動車と競争して負けるような税率ではないと思う。むしろ為替レートの方が深刻だろう。2.5%の税率など、5円くらい円安になれば雲散霧消してしまう。

反対論はどうも自分達の権益を守ろうとしているものばかりのようだ。
「こうなるから大変だ」と言って、「だから反対」というものだ。
だが、本来は「だからどうすべきか」と考えるべきではないかと思う。
準備期間が必要なら、それは当然考慮されるべきだろうが、頑なに扉を閉ざす理由にはならない気がする。

賛成論はとにかく押し切ろうとしている感じがする。
アメリカに圧力をかけられているのかもしれないが、それが国益になるのかどうかが重要だ。
アメリカのではなく、日本の国益だ。
輸出が倍増すると言うが、そんなに甘くはないと思う。
さらに10円、20円と円高になっても、そう主張できるのだろうか。

マスコミはもっと国民の関心を煽るべきだろう。
みんな他人事だと思っているから、ロクに説明もしないで推し進めようとする政府に無関心でいる。だから政治家も「国民にはパンだけ与えておけばよい」と思ってしまうのだろう。
太った豚にされぬよう、こういう問題にも関心を持ち続けていたいと思うのである・・・


    
    

2011年11月2日水曜日

何が情けないって

先日の事だ。
いつものように仕事から帰ってくると、珍しく娘が部屋に入って来た。
多くを語らず黙ってノートを差し出す。
それは家庭と先生との間でやり取りされる連絡帳。
中を見ると先生からのメッセージが・・・

「今日ある男の子がお母さんに付き添われてきました。学校へ行きたくないという事だったのですが、理由を聞くと○○(娘)ちゃんともう一人の女の子に、「○○」と言われ傷ついたという事でした。~~ご家庭でもよく指導して下さい。」
ありゃりゃと、娘の顔を見ると下を向いてしょげている。

事情を聞くと、多くは語らないものの、そんな大事とは思わず面白半分だったようである。
娘の性格からして意外な気もしたが、どうやらもう一人の子に便乗した形らしい。
娘には相手の気持ちになって考える事の大事さを語って聞かせ、明日学校で謝るとともに、手紙も書きなさいと言ったところ「もう書いた」との返事。

まあそれはそれで良しとして添削だけした。
悪気はなくとも相手は深刻に受け止める事もある。
言われた言葉の重みは、言われた者にしかわからない。

実は私にも同じような経験がある。
小学校4年の時に、前の席に座っていた女の子にチョッカイを出して、出し過ぎて翌朝その子のお母さんから電話がかかって来てしまったのだ。
母に怒られたが、それよりなによりバツの悪さの方が強かった。
ちなみに2年後、その子に告白して見事ふられた。
中学に進んだあと、3年間同じクラスという憂き目にもあった。
今あの子はどうしているのだろう・・・

娘に対してはそんな事もあって、叱りはしなかった。
十分身に沁みているだろう事は、自分の経験と様子とでわかったからだ。
ただ一応、観たいと言っていた映画禁止の罰は与えた。
それ以上は咎めないつもりだ。

それはそれなのであるが、どうも後味がしっくりこない。
そもそもであるが(子供には絶対に言えない事であるが)、「女の子にからかわれた」と言って「学校に行きたくない」とほざく男というのは一体どういう事だ、という思いがある。
よそ様の息子だから大きな声では言えないが、我が息子がそんな事を言ったらケリ飛ばしてやるだろう。まさか女の子をひっぱたいて来いとは言えないが、まあ悪口を言い返して泣かせて来いくらいは言うだろう。いくら小学生とは言え、今から情けなくて先が思いやられる。

最近は女の子の勢いを感じる事が多い。
お手伝いしている教育財団の留学生面接でも、合格者の上位は女の子ばかりだし、今や女高男低の感はあちこちで強い。しかし、だからと言ってこれは話が違う。もっとしっかりしないと、日本男児は本当にどうなってしまうのだろうと心配になる。せめて我が息子だけは、しっかり教育しようと心に誓ったのは言うまでもないのである・・・



【本日の読書】
スティーブ・ジョブズ 驚異のイノベーション - カーマイン・ガロ, 外村 仁 解説, 井口 耕二  悪の教典(上) (文春文庫) - 貴志 祐介














2011年10月30日日曜日

これもボランティア

昨日は私がお手伝いさせていただいている教育財団の、社会人向け講座の開催日であった。
もうかれこれ参加して6年目となる。母校である高校をバックボーンとした教育財団であるが、ひょんなことから声をかけられて参加する事になったのである。
この他に高校の卒業生全体の同窓会にも幹事という形で参加している。

どちらも声をかけられてお手伝いさせていただいているうちに、“仕事振り”が評価されたのか、いつのまにか中心部に近い立場になっている。何にせよそうして評価していただき、任せていただけるのはありがたい事だと考えているので、できる限りの事はしている、という感じである。

始めてみると、こうした活動というのは、自分の“居場所”を一つ作る事になるのだと思える。仕事と家庭とに続く“居場所”である。
仕事と家庭だけではなく、それ以外の場所があるというのは心地良いものである。
だから今のところは義務感などではなく、楽しみながらやっている。

居場所を作ると、それなりに大変でもある。
事実、仕事を早く切り上げて会合に参加したり、家に帰ってからメールでのやり取りがあったり、時には仕事の合間を縫ってランチミーティングに行ったりと、なかなか手間と時間とを取られるのである。そうした手間と時間はかなり大変であるが、今のところそれでも得るものの方が大きいから続けているとも言える。

こうした活動をいつまで続けるかと問われれば、それはわからない。
必要とされなくなったり、楽しく続ける事ができなくなるまで、という事は言えるだろう。
内心煙たがられながら残るのも嫌だし、楽しくなくなってストレスだけ抱えてやるべきものでもない。そういう状況になったら、もともと地位には執着しない性格なのでさっさとやめるだろう。迷惑はかけたくないので引き継ぎだけはきちんとするだろうが、その決断と実行は早いと思う。

やめたら居場所を失う事になるが、それならそれでまた作ればいい。
今でも大学のラグビー部のシニアチームの活動には魅力を感じているし、地元の消防団などの地域活動にも興味はある。参加したいという気持ちはあるのだが、あまり手を広げると“家族”という居場所がなくなってしまうので、手を出していない。
うまくバランスを取りながらやっていかないといけないところである。

好きな読書は、読みたい本を常に積み上げている。
映画も録画したものを積み上げている。
そうして「まだまだこんなにある」という感覚が好きな性分であるらしい。
3の活動場所も、「まだまだやりたい事がこんなにある」と積み上げているのが良いのかもしれない。

いずれにせよ、まだまだ当分は続ける事になるだろう。
やる以上はなるべく貢献したいと思うし、楽して手を抜くのも嫌だし、楽しみながら一所懸命やっていくつもりだ。それ以外については、子供が大きくなって“家族”という居場所で必要とされる割合が減ったら、という事になりそうである・・・
 

【本日の読書】
     

2011年10月27日木曜日

押すべきか押さざるべきか

先日、キャメロン・ディアス主演の「運命のボタン」という映画を観た。
ある日突然、家の前に置かれた箱。
翌日訊ねてきたなぞの男が語るには、箱の中の装置のボタンを押せば、どこかで知らない誰かが死ぬが、その代わり無税の現金100万ドルをあげようというもの。
キャメロン奥様は夫とどうするか相談する・・・
さて、こういう時、自分ならどうするだろうといつも考える。

知らない誰かという事だから、家族でも親兄弟でも友人知人でもない。
だったら・・・と考えるか。
映画の時代設定は1976年だから、まだ1ドル300円くらいの時代。
100万ドルといっても今やだいぶ輝きを薄めたが、まだまだ夢のような大金の時代だ。
さて、どうする。

私だったら、迷わず「押さない」を選択する。
別にどこの誰かは知らなくとも人命を尊重して、というわけではない。
100万ドルを手にしてもそのあとどうなるかわからない。
不透明な「相手の土俵」で踊らされたくないからだ。

考えてみても、100万ドルを手にしたあと、その男がその装置を持ってどこか他の知らない誰かのところへ行って、同じ提案をしたらどうなる。
今度は死ぬのは自分の番かもしれない。
「どうせ知らない他人なら死んでも構わないと思ったヤツだから」と遠慮なくターゲットにされてはかなわない。

それにもしかしたら、「ドッキリカメラ」かなんかで、「この人はお金のために知らない人の命を犠牲にしました」と日本中に晒されるかもしれない。
「相手の土俵で勝負する」怖さはこういうところにある。
ある日突然、尻尾を生やした悪魔が目の前に表れて、「お前の望みを何でも3つ叶えてやろう」と言われても、「じゃあ何にしよう」とは絶対に考えない。
望みを叶えてもらったあとに、どんな「仕打ち」が待っているかわかったものではない。

「おいしい話には絶対裏がある」と信じてやまない私としては、素直においしい話に飛びつく事はない。もしも仮にそれが本当に美味しい話だったら、バカみたいに損をする事になるが、仕方ないだろう。チャンスを逃した悔しさと、わかっていてバカをみた悔しさとどちらを選ぶかの話だ。

映画はそんな私の考えた通りに展開する。
「ほらみろ」と一人つぶやく私。
映画に出てくる家族は3家族がボタンを押してしまう。
それもいずれも押したのは奥様だ。
なんとなく頷けるじゃないか。

我が家も自分は押さないが、奥様が押す心配は大いにある。
目の前では押さなくとも、影で押してしまうかもしれない。
果たして押さないように説得できるだろうか?

誘惑を振り切るよりも、そっちの方が難しいに違いないと真剣に思うのである・・・

【本日の読書】
                    
 

2011年10月25日火曜日

我が家のテレビ事情

我が家では、食事の時間はテレビを消す事にしている。
子供が生まれた時にそう決めて、これまで実践してきている。
生まれた時からそうしているせいか、子供たちも食事時にテレビを消すのは当然と思っていて、文句を言った事はない。食事の時は、家族4人が最も接近して過ごす一時ゆえ、これはこれでずっと我が家のルールにしたいと思っている。

ところが、最近ちょっと例外が出てきた。
いつの頃からか、日曜日の夜7時からやっている「シルシルミシルさんデー」を見るようになったのである。この番組は、食品メーカーなどの工場を取材し、日常目にする商品の製造工程を紹介したりしてくれる番組である。

何せ「生きる事は食べる事だ」と信じて疑わない妻とその血を色濃く引く娘がいる我が家だ。
食べ物に関する興味は普通のレベルではない。
製造工程を見て何が面白いという気もするのだが、面白いらしい。
「今日だけ特別」と見始めたのだが、やがて私も長男も引き込まれた。
考えてみれば、これも社会勉強。
まあそう考えて、日曜日は特別にルール緩和日となった。

ところが、このところそれが土曜日にも波及してきた。
なんとフジテレビで、「潜入リアルスコープ」という番組をやっているのを見始めたのだ。
こちらも「大人の社会科見学」をコンセプトにしているらしく、やっぱり同じような事をやっている。ちなみに先週末は、前者が明治のお菓子工場、後者がセブンイレブンのおでん工場だった。

同じような番組を敢えてやる、という事は、両方とも視聴率が良いのであろう。
最近は工場見学も大人気だと言うし、そういうバックボーンがあるのだろう。
子供たちと番組を見ながらあれこれと話をするのも、良い事かなと考えている。
時々、箸が止まっていたりするから、注意しないといけないが、まあ良しとしている。

しかし、それにしても同じような内容はいかがなものかという気も一方ではする。
「リアルスコープ」の方は完全な後追いであり、真似っこだ。
学ぶことは真似る事と言うが、それにしてもプロとしての誇りはないのだろうかという気がする。社内でも大勢の人が企画段階から関与するだろう。
「二番煎じは恥だ」という人はいなかったのだろうかと思う。

関係者が目の前にいたら、そう言ってやりたいと思う。
しかし、「そんなこと言ったって見る人がいるんだから」と言われればその通り。
二日続けて同じような番組を喜んで見ている我が家としては、返す言葉がない。
まあ社会科の勉強だと考えて、当分週末の夕食時はテレビを許容しようと思う一家の主なのである・・・
 

【本日の読書】

2011年10月23日日曜日

息子と・・・

【スポーツ和名一覧】
闘球(ラグビー)/蹴球(サッカー)/鎧球(アメリカンフットボール)/杖球(ホッケー)/門球(ゲートボール)/避球(ドッジボール)/庭球(テニス)/籠球(バスケットボール)/羽球(バドミントン)/排球(バレーボール)

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久しぶりに何の予定もない一日。
本来であれば、今週移動教室に出掛ける娘のために必要な買い物をする予定であったのだが、昨日ですべて終わってしまったのだ。
一応今日は予備日としていたのだが、その必要はなかったというわけである。
みんな昼近くまでゴロゴロしていた。

ブランチのあと、天気も良いしで長男を外へ連れ出す。
ともすると家の中でウルトラマンと怪獣たちとで一日遊んでしまう。
まあそれもイマジネーションが豊かになっていいと思うのだが、天気の良い日は外に出たって罰は当たらない。

長女はママと服選び。
2日目に着る服をどれにしようかと、ああでもない、こうでもないとやっている。
どれだって大して変わらないと思うのだが、どうやら娘にとっては大問題らしい。
そんなわけで長男と二人、秋の日差しの中へ飛び出していく。

長男のリクエストはサイクリング。
という事で、気の向くままのサイクリングに出掛ける。
長男の乗っている自転車は、お姉ちゃんのお下がりの赤い自転車。
来年小学校に入学したら、スポーツタイプの20インチの自転車を買う事になっているが、それまでは今ので我慢である。

思えば補助輪をつけた頃は、こちらは歩いて伴走していた。
補助輪を外す特訓をしたのもこの自転車。
初めはよろよろしていたし、ブレーキは何度教えても“足ブレーキ”だったが、この頃はママチャリに乗る私にもしっかりついて来られるようになった。

近所の川沿いに走る。
その川には鯉もいるし、鴨もいる。
今日は川のほとりで、源流祭りというイベントもやっていた。
我が街界隈には東京都下ながらまだ畑も多いから、そんな畑を眺めながら自動車の少ない道を行く。畑には野菜の他にも、ブルーベリーやいちごのビニールハウスだってあるのだ。
東京23区にしてこの環境は、なかなかのお気に入りである。

ちょっと遠出して、大きな公園に辿りつく。
ここでおもむろにキャッチボール。
まだ軟式のボールは早いから、ビニールのボールだ。
初めは取れそうな球をそっとトスするのが大変だったが、この頃はようやくキャッチボールらしくなってきた。しっかりとしたボールを投げてくるし、普通にオーバースローで投げた球を両手でキャッチできるようになってきた。

もう少ししたら、野球好きの義弟の薦めるミズノのグローブでも買ってやろうかとも思う。
しかし、考えてみると軟式のボールではキャッチボールをやれる場所があまりない。
家の前ではうっかりご近所の家の壁にでもぶつけたらと考えてしまうし、公園では禁止の看板がやたらに目立つ。世の中の親子はどうしているのだろう。
道を“踏み外して”サッカーなどに行かないように、しっかりとコントロールしていくためにも、これは大きな問題だ。

時計を眺めながら、束の間のサイクリングを切り上げる。
5時からはワールドカップの決勝戦だ。
息子も「黒いチーム(オールブラックス)が強そうだね、応援しようかな」と独り言。
わかっているじゃないか、と感心する。

夕食時、8年後に娘が18になったら、妻は女二人で韓国ツアーに行こうと娘に語る。
なんだそんなもの。
お金をもらったって行きたくないこちらとしては、「じゃあ男チームはワールドカップを観に行こう!」と提案した。単純に喜ぶ長男。
だが、その8年後のワールドカップは日本だって知るのはもう少し先だろう。
別に子供を騙すわけではない。

まあその時は、ジャパンチームももう少し低いタックルをして、せめて2勝くらいはできるようになってもらいたいものである。さて、その時はどんな14歳の男になっているのだろう・・・
慌てずゆっくり成長してもらいたいものである・・・
  

【本日の読書】


2011年10月20日木曜日

松屋にて

我が家では、週末のランチはファーストフードで外食というパターンが多い。
先週末もそんな流れで外出したが、途中で妻が「今日は牛丼が食べたい」と言い出した。
子供たちも大賛成。今時の若い女性は、一人で吉野家で牛丼を食べているのも珍しくないが、今時でない妻からすると、今だ「一人では入りにくい場所」という事らしい。

吉野家・松屋・すきやの御三家から、車で行きやすく次の買い物場所にも近いという事で松屋に行くことにした。子供たちは牛丼。妻は何やらいろいろ入った牛丼。私はキャンペーン商品の「うまトマハンバーグ」とやらにした。トータル金額の安さに、妻はまず感動。私のが一番高くて490円だった。

さて和気あいあいと食べ進み、そろそろサイドディッシュのサラダが終わろうとする頃、私は自分のサラダの中に何やら妙なものが入っているのに気がついた。最初は蟻かなと思ったが、良く見ると触角の他に立派な羽がある。どうやら蜂らしいと気がついた。栄養満点の蜂入りサラダ、というわけではなく、立派な異物混入だ。それにしてもどうやって入ったのだろう。

さてどうすると思ったが、ここは飲食店だし、一応事実は伝えなくばなるまい。
店員さんを呼び止めて、蜂入りサラダを見せた。
「すみません」と蚊の鳴くような声でその店員さんは返事すると、「すぐ替えます」とサラダを持って行こうとした。若い女性の店員さんだったが、ひょっとしたらアルバイトかもしれない。

大しておいしいサラダでもないし、もう残り少ないし、今からまた一皿食べる気にもならないので、交換の申し出は辞退した。さて、子供たちも食べ終わり、そろそろ帰ろうかなという時になっても、何の音沙汰もない。別に蜂が入っていたからと言って、鬼の首取ったように文句を言うつもりもないし、たかだか490円を返せと言うつもりもない。ただ礼儀として、店長あたりから「申し訳ございません」の一言くらいあってもしかるべきだろうと思っていた。

ところが、どうやらそんな気配もなく、それどころか席を立って出口に向かっても何の変化もない。厨房を見ると若い男女が合計4人働いていたが、昼時の忙しさにみんな我々には無関心。
「まあ所詮、ワンコインだしな」と納得して外に出た。文句を言えば表面上は謝るだろうが、それでどうなるというものでもないし、嫌な気分が増幅されて、下手したら一日後を引く。5,000円ならそうはいかないが、500円なら「その程度」と思った方が気が楽だ。

24時間営業のようだから、店長だって常にいるとは限らないし、ひょっとしたらみんなアルバイトかもしれない。注文に応じて決められた作業をして、ペットに餌を与えるが如く客の前に注文の品を置く。ただそれだけなのだ。ワンコインのファーストフードで、愛情あるサービスなど期待はしないが、みんな「ただの作業」をしているだけなのだと思う。下手したら飼い主が可愛がっているペットに餌をやる方が、愛情をこめて皿をだすかもしれないと思う。

最近は家計も厳しく、世の中はいかに安くを競っている。
牛丼の安売り合戦はその一例だ(ただいくら安くても松屋の牛丼は食べたいと思わないが・・・)。
コストカットは人件費にも及び、アルバイトが多いのだろう。
社員教育だって、しっかりやるはずもないからああいう対応になるのだろう。

たぶん、あの女性も心の中では「まずい」と思ったとは思う。
そういうケースでは「まずきちんとお詫びする、そしてすぐ店長に報告する、店長はただちにお詫びに行く」というルールが出来あがっていれば、たぶん躊躇せずにそうした事だろう。
そうでなかったという事は、そういうシステムが出来ていなかったという事だ。
あの店員さんはどうしたらいいかわからず、結果として頬っかむりしたのだと思う。
店員の責任というより、組織の欠点だ。

まあこの先松屋に行かなくても困らないから、行く事もないだろう。
子供たちも気味悪がっていたから、二度と行きたいとは言い出さないだろう。
ホームページを見ると綺麗に飾ってはいるが、実態は商品価格程度の企業だと言える。
「今度はすきやに行こう」と妻が言う。
まあいろいろと比べてみるのもいいのかもしれないし、松屋に行くのはこれで人生最後ということで、納得したのである・・・
    

【本日の読書】
 

2011年10月15日土曜日

明学戦

大学のラグビー部からメールで明日は明学戦だと連絡が来た。
明学(明治学院大学)と聞いて、現役時代のあの試合が脳裏を過った。
試合が終わって泣いたのは、生涯3度だけ。
高校時代の最後の試合と、大学3年の時の2試合だ。
そのうちの最後の1つが明学戦だった。

明治、早稲田、慶応ら歴史のある伝統校で構成している対抗戦グループ。
それまで準加盟扱いだった我々の大学が、明学・武蔵とともに対抗戦グループに正式加盟したのは1985年のことだ。1986年、3年になった私は晴れてレギュラーの座を手に入れて、公式戦に臨んだ。早稲田と試合をしたのもこの年だ。

明学は有望な高校生を集め始めたという情報が伝わってきていた。
我々は国立大学ゆえにそんな真似はできない。
“普通レベル”の経験者と初心者を鍛え上げるしかない状況。
肩を並べていた相手が、急速に強くなっていくのをただ眺めているしかない。

そんな中で迎えた最終戦。相手は明学。126日のその日は快晴。
苦戦続きであったが、対抗戦加盟2年目で3勝目を目指してのキックオフ。
細かい事は忘れてしまったが、戦況はほぼ互角。DAVIDの活躍もあって、前半1トライを取り、後半1トライを追加。8-0(当時は1トライ=4点だった)でリードしたまま、後半残り20分を迎えた。

ここから明学の怒涛の反撃が始る。
防戦一方となった我々はゴール前に釘付けにされる。
スクラムは押され、相手は次々にゴールに雪崩れ込もうとする。
相手のバックスに綺麗にボールが渡り、フルバックが勢いよく突進してくる。
何も考えず、必死にタックルで倒した。
試合後そのタックルについて、「監督が絶賛していたぞ」とベンチにいたチームメイトが教えてくれた。

何度ももうダメだと思ったし、「1トライぐらいなら取られても仕方がない」と脳裏を過った。早くノーサイドの笛を吹いてくれと、プレーが途切れるたびにレフリーを見た。
20分間、ほとんどゴール前で防戦し、そしてついにレフリーがノーサイドの笛を吹いた。
ベンチでは大歓声が上がり、ようやく相手の猛攻から解放されたと思った瞬間、目の前が滲んで見えなくなった。

後年、70周年の記念誌が作られた時、当時のキャプテンがこの試合を指し、「あの時のみんなの涙が忘れられない」と書いていた。
その時はわからなかったが、どうやらみんな目を赤くしていたらしい。
あんなに熱く熱中していたのも学生時代ならではなのだろう。

翌年、夏合宿で明学と練習試合をした。
相手のメンバー表を見たら、4年生はキャプテン一人で残りは12年だけだった。
有望高校からのスカウトの結果だ。
その年の秋の公式戦では、残念ながら勝てずに終わった。

今年も明学は対抗戦Bグループで12を争う勢い。
我が母校の不利は否めない。
だが、やっぱり後輩たちには頑張ってほしいと思う。
勝っても負けても、思い出に残るような熱い試合をしてほしいと我が身を振り返りながら思うのである・・・
            


2011年10月14日金曜日

この頃思う事

常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである
アルベルト・アインシュタイン
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朝の通勤電車。
池袋から乗る丸ノ内線は始発だから、みんな並んで座ろうとする。
前の人たちはいいが、後ろの方の人たちは残りの席をめがけて殺到する。
その姿は浅ましく、そんな真似をするくらいなら立った方がマシだから、いつも立っている。

こんな人間にはなりたくないなと思うような例は街でよく見かける。
どうしても好きになれない人間はいるし、軽蔑したくなるような人間もいる。
どうしてそんな立ち居振る舞いをするのか、理解に苦しむ事も多いが、考えてみればその人にとってみればそれが普通の事。その人にとってみれば、それが当然の考え方なわけだし、もしかしたら私の事を軽蔑すべき人間と思っているかもしれない。

価値観は人それぞれだとよく思う。
私は親に幾度となく、「常識がない」と言われてきた。
ただ、私にはそんなつもりは毛頭ない。
いつも言い争うと、言い負かすのは私の方だ。
なぜ言い負かせる事ができるかというと、私の言い分の方が「筋が通っている」からだと思うし、常識外れはどっちだという思いもある。

しかしながらどっちもどっちなのだろう。
アインシュタインの言葉は実に的を射ていると思う。
みんな自分こそが正しいのだ。
そしてその「正しい目を通して」世界を見ているのだ。

外出する時に、一生懸命姿見を見てチェックしている人は、自分の基準に照らして、人からおかしく見えないかをチェックしている。
私は姿見こそチェックしないが、これでいいやと選んだ服装で外出しようとすると、「その恰好は一人で出掛ける時にして」と妻に冷たく言われる時がある。
その原因は大概わからないが、従っておく方が無難だという事だけはわかる。

しかし、行動についてはそれを映す鏡はない。
だからみんな自分の行動がどう世間に映っているかわからない。
内側から見る自分は常に正しい。
しかし、外側から同じように見えているかは難しい。
そこに大きなギャップがある。

野村監督は、「評価は人が下したものこそ正しい」と本に書いている。
自分の偏見というフィルターを通していない、外側から見た自分の姿だからなのだろう。
褒められれば嬉しいし、批判されれば腹も立つ。
悲しいかな、自分もそんな典型的な人間だ。

いつも外側から見える自分の姿を意識していたいと思うが、心の中の思いにかき消される事しばしば。言うは易しなのだ。
口は一つだが耳は二つ。
親に対する反論もだが、「2つ聞いて1つ話す」のがちょうどいいそうだ。

そんな事をあらためて意識したいと、この頃思うのである・・・


【本日の読書】


2011年10月12日水曜日

ラグビーはタックルだ

タックルはラグビーの象徴的なプレーだ。豪快に決まれば観ている方もやっている方も気持ちが良い(やられた方はたまらない)。しかし、ラグビーをやっていれば、誰でもがタックルがうまくなるかというと、実はそうでもない。苦手としている人もかなりいると思う。

 

大概の者は、ボールを持って突進していくプレーは好むが、タックルには初めは抵抗感を持つもの。何せボールを持って勢いよく突っ込んでくる敵に、飛び込んでいくのだから躊躇もしようというもの。特に「守り=受身」と感じてしまうと、よけいである。かく言う私も高校時代はタックルが好きではなく、自分は「アタック型」の人間だと自分に言い聞かせていたものである。

 

それでも大学へ進むと、ポジション争いも激しくなり、そんな事を言っていられなくなった。

必然的にタックルの練習にも身が入り、いつのまにか抵抗感はなくなった。むしろタックルが好きになり、トライを取るよりもタックルで相手を倒す方に生きがいを感じるようになって今に至る。

 

しかし、特に体の大きなプレーヤーはこの過程を経ないままの者も多い。

体の小さな者は低いタックルをしないと大きな者を倒せない。

しかし逆は真ならず、体が大きければ捕まえるだけでも相手を倒せる。

身をかがめるのも大変だし、勢い腰の高い「抱きつくスタイルのタックル」になりやすい。

これは体が自分と同等か、あるいは自分よりも小さい相手にしか通用しないが、日本人同士だと体の大きい者はこれでやっていけてしまう。

 

ワールドカップでJapanの試合を観ていて、タックルが悪いなと感じていた。

タックル好きゆえにそういうところに目が行くのかもしれない。

しかし、何せJapanの選手は国内一流のプレーヤー。

私のような二流レベルが批判するのは、おこがましいというもの。

きっとグラウンドで実際にプレーしてみないとわからないものがあるのだろうと思っていた。

 

しかし先週末のウェールズvsアイルランド戦を観ていて、その考えは間違いだと気がついた。

予選でランキング3位の南アフリカに敗れたウェールズと2位のオーストラリアに勝ったアイルランドの準々決勝。アイルランドが勝つかと思っていたが、ウェールズの大きな選手が低いタックルでアイルランドの選手に襲いかかる。激しいプレーの連続で、アイルランドの攻撃を阻む。タックル好きの私が、画面に釘付けになってしまった。

 

結果はウェールズの勝利。

あの低くて激しいタックルが勝利を呼び込んだと言える。

それに比べるとJapanのタックルは情けない。

一流チームの大男があれだけ低いタックルをしているのに、格下のJapanがあのタックルでは勝てない。

 

思うに彼らは国内では一流で、低いタックルなどしなくともみんな格下だし通用してしまうのだ。アタックは一流だから、そこばかりが強調される。必死になって低いタックルをしなくても、「国内やせいぜいアジアでは」十分に通じる。かたやウェールズは国内で激しい競争があり、代表になってもアイルランド・イングランド・スコットランド・フランス・イタリアとの6カ国対抗戦で揉まれている。大男だって必死の低いタックルを必然的に繰り返すようになる。その差が出たのだと思う。

 

ワールドカップだって、国内の片隅で行われている草ラグビーだって、ラグビーはラグビーだ。低く激しいタックルはどんな試合だって大きな武器だ。「ボールを持っている選手」を「持っていない選手」が攻撃する方法がタックルだ。それが出来ないチームは格下相手でないと勝てない。Japanがワールドカップで勝てない理由がそこにあると思う。ウェールズのようなタックルをしていたら、少なくとも最終戦のカナダ戦は勝っていたはずだ。

 

あんなタックルではワールドカップでは勝てない。

Japanと言って威張るのなら、一流らしい低くて激しいタックルの見本を見せてもらいたいものだと思うのである・・・