2017年5月31日水曜日

いなげやの店舗戦略

我が家の近所にあるスーパー「いなげや」が、このたび改装オープンした。この店舗は、我が家がこの地に引っ越してきて以来20年、ご近所スーパーとして重宝している店舗である。この店が毎日営業していることに慣れてしまっていることは、わずかな間の改装期間の休業に不便を感じてつくづくと実感させられたものである。

そんな我が家御用達のいなげやが改装オープンしたのであるが、これがどうもあまり評判がよろしくない。家に帰ると、妻がさっそく新装開店初日の様子を報告してきた。どうやらご近所の奥様方と散々批評会をやったらしく、その興奮冷めやらぬといった感じであった。はたしてその評判はというと、残念ながらいいものではなかった。
「いなげやさん、何考えているのかしら?」と妻は不満タラタラである

妻を含め、ご近所の奥様方の評価は厳しいものであった。それというのも、改装内容が従来中心だった生鮮食品を減らし、コスメ系を増やしたものであったからである。特に致命的なのは、「魚がない」ということらしい。実際、店舗の中心にはコスメ系商品が燦然と配置されており、ここに力を入れているというのが素人目にもわかる。どうやら、グループ会社のウェルパークとの共同開発であるらしい。決算報告でも「実験店」として取り上げられているくらいだから、いなげやとしても力が入っているのだろう。

しかしながら、ご近所の奥様たちの批判は手厳しい。曰く、
1.      コスメ系はすぐ近所にドラッグ店(一本堂)があり、駅前にはマツキヨもあるため重複感がある(なくても困らない)
2.      いなげやを主に利用するのは、駅から遠いエリアの人。重いものを持つのが嫌な人が、駅前のライフで買わずにここで買って帰るのだが、生鮮食品が少なくなるとライフで済まさざるを得なくなる
言うもので、なるほど主婦の意見はさすがに日々の買い物をベースにしているだけにリアリティがあると感心する。

今やあちこちに乱立しているドラッグ店を見ていると、やっぱりそれだけ儲かっているのだと思う。わざわざコストをかけて改装するくらいだから、儲かるという目論見があっての事なのだろう。ご近所の主婦の意見がどうあれ、減らした魚よりも新設したコスメ品で利益が増えたならその戦略は正解なわけである。傍でとやかく言う筋合いのものではない。

それにいなげやは東証一部上場企業。今回の改装にあたっては、当然ながら市場調査を尽くしているだろう。近隣の競合スーパー、ドラッグ店の立地・品揃え、地域の住民構成や消費動線など十分に調査・研究しての判断だろう。これまで魚を買いに来ていたお客さんがよそへ行くことも当然想定しているはずだし、それによって下がる売り上げをコスメ系でカバーしておつりがくるとの判断でやっているわけである。勝算は当然あるのだろう。

妻の不満は、不満に留まらず不安にまで及ぶ。「コスメ品が思ったより売れず、業績が悪化してその結果撤退となったら困る」というものである。何せ我が家からは徒歩12分のスーパーである。立地的便利さは他と比較にならない。そうなったら、ご近所の人たちもみなショックを受けるであろう。お使いに行かさせることが多い私にとっても、まんざら他人事ではない。

さて、果たして結果はどうなるのであろうか。大企業の決断が吉と出るのか、ご近所の主婦の「皮膚感覚」が正しいのか。大いに興味を持ちつつ、当面は複雑な気持ちで見守ることにしたいと思うのである・・・

新装なった店内




【本日の読書】
 
    

2017年5月28日日曜日

王女と兵士の寓話(もしも自分だったら)

昔、ある王様がパーティーを開き、国中の美しい女性が集まった。
護衛の兵士が王女の通るのを見て、あまりの美しさに恋に落ちた。
だが王女と兵士では身分が違いすぎる。
でもある日、ついに兵士は王女に話しかけた。
王女なしでは生きていけないと言い、王女は兵士の深い思いに驚いてこう言った。
100日間の間、昼も夜も私のバルコニーの下で待っていてくれたらあなたのものになります」と。
兵士はバルコニーの下に飛んでいった。
2日、10日、20日がたった。
毎晩王女は窓から見たが兵士は動かない。
雨の日も風の日も、雪が降っても、鳥が糞をしても蜂が刺しても兵士は動かなかった。
90日が過ぎた頃には、兵士は干からびて真っ白になっていた。
眼からは涙が滴り落ちた。涙を押さえる力もなかった。
眠る気力すらなかった。王女はずっと見守っていた。
99日目の夜、兵士は立ちあがった。
椅子を持って去ってしまった・・・       映画『ニュー・シネマ・パラダイス』
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 先日のこと、知人との酒の席で突然質問された。
「あなただったら、北朝鮮をどうしますか?」。
酔いもあってか大して考えるでもなく、私は答えた。
「私が金正恩だったらですね・・・」
すると、私に質問をした相手は驚いていた。どうやらその方は、「日本の立場として北朝鮮に対してどうするべきか?」を議論したかったようなのである。なのに私が「金正恩だったら・・・」と予想外の答えを返したので意外だったらしい。

しかし、私にとっては、「もしも自分だったら」と考えるのは普通の思考パターンであったのである。映画や小説を観たり読んだりしてもニュースを見ていたりしても、ついつい「自分が(そこで取り上げられている)人物であったら〜」と考えてしまうのである。だから先の質問についても自然とそう考えてしまっていたのである。もっとも、「日本として」と質問されていたら、当然質問の趣旨に沿った答えをしていたと思うから、相手の質問の仕方にも問題があったかもしれない。

それはそうと、先日久しぶりに観た映画『ニュー・シネマ・パラダイス』でもそうであった。冒頭の寓話をアルフレードがトトに語る。それをききながら、やっぱり「私がこの兵士だったら〜」と考えていたのである。苦い思い出とともに。
もしも自分が兵士だったらどうしていただろうか?
そうしていつのまにか、自分だったら100日間立ち通した後、王女に約束の履行を迫ることなく立ち去るだろうと結論づけていた。

冷静に考えれば、王女と兵士とでは身分が違い過ぎる。おとぎ話ならともかく、現実問題としてこの身分差を超えるのは難しい。比較的身分差が解消されている現代においてさえも、例えば眞子様のお相手が学習院時代の同級生ではなく、シングルマザーの母子家庭に育った高卒の飲食店アルバイトだったら、果たして今と同じように祝福されるだろうかと考えてみると、昔の時代の王女と兵士では、童話の世界以外では不可能な組み合わせでしかない

それに王女が課題を課した真意もわからない。諦めさせる手段だったのか、気まぐれなのか、それとも本当に兵士を受け入れるつもりで相手の本気度を確かめたかったのか。そうした中で、惚れてしまった相手の心を得るためのそれが唯一の手段である以上、兵士としてはやるしかない。自分が兵士だったら、意地と根性と執念と情熱とありったけのものを投入して立ち続けるだろう(まぁ、本来の任務は大丈夫なのかというツッコミは、なしにしておこう)

考えてみれば、「100日」という「目標設定」は実にありがたい。期限も相手の真意もわからぬまま女性へのアタックを続けるというのは難しいものがある。実は私も過去にそれで諦めてしまい、しかも後日「もう一押し」だったことが判明し、人生最大の後悔をしたことがある(それ以上のものは今だないし、多分この先もないだろう)。自分の気持ちだけだったら無期限でも頑張れるが、相手のこと(迷惑なんじゃないかとか)を考え始めると、疑念は恐ろしい力を得るのである。期限はその疑念を封じてくれる。

100日間立ち通すのは、自分という人間を示すことでもある。障害があるのならまず自分から乗り越えてみせる。まず自分が相手の出した課題に答えるのが第一である。そしてその後立ち去るのは、そこからは相手が自分で結論を出さないといけない部分だからである。強制されるものではない。確かに約束ではあるが、だからと言って相手に履行を強いることはできない。愛とは見返りを求めるものではないから、自分が相手の出した課題をクリアーしたからと言って、得意満面に王女に約束の履行を求めるのは違うだろう。

王女には王女が越えなければならない課題がある。越えるにしても辛い試練がある。国王夫妻である両親との対立。もしかしたら国の安全保障のために、大国の王子と政略結婚の予定があるかもしれない。ディズニー映画とは違って、「愛こそすべて」で解決するものではない。自分が課題をクリアーしたことは、王女がその試練に向かう条件を整えたに過ぎず、相互履行を強制させるものではないと考えるのである。

自ら安定した王族の地位を捨て、(おそらく)両親の期待を裏切って兵士の元に行くのは100日の課題以上の困難がある。王女がそれをクリアーできるかどうかわからないし、相手のことを考えるのであれば、クリアーできなくても非難するべきものではない。困難な試練に向き合った時、人はしばしば疑念にかられる。「このまま続けていって大丈夫だろうか」と。その時、自分が出した課題をクリアーした相手なら信頼できると思ってもらえるかもしれない。そしてそれがあれば、試練を乗り越えられるかもしれない。人はそこに確かな手応えがあれば、頑張れると思うのである。

映画『ニュー・シネマ・パラダイス』では、主人公のトトはエレナの部屋の窓の下に毎晩佇むことを宣言して実行する。そしてトトは来る日も来る日も開けられることのない窓を眺めて過ごす。そうしてトトは、とうとうエレナのハートを射止める。映画だからと言ってしまえばそれまでであるが、もしも自分があの諦めた時にこの映画を観ていたら、ひょっとして人生最大の後悔は違うものになっていたかもしれないと思わされるシーンである。

この寓話については、ググるといろいろな「解釈」が目に飛び込んでくる。しかし、私はやっぱり「解釈」ではなくて、「もしも自分が兵士だったら」と考える方を自然と選んでしまう。人の行動の真意をあれこれと想像するより、その方がずっと楽しい。

「もしも100日の課題をクリアーして立ち去ったら、果たして王女は国王を説得し、周囲の猛反対を押し切って一兵士の愛に応えてくれただろうか」

「もしも」の空想は、そこまでにとどめておきたいと思うのである・・・